緑の丘にて 木漏れ日落ちる森の中。
山坂を登る木の根の階段に足をかけたまま、シャムロックは立ち止まった。
(静かだ…)
無音ではない。
風に揺られた葉のざわめきと、軽やかな鳥のさえずり、遠くで流れる川のせせらぎ…。そういった様々な自然の音が織り成す静寂だった。
シャムロックはその静けさを味わうように空気を吸い込むと、空を見上げた。
枝の隙間からのぞく高い水色の空を背景に、2羽の鳥がまっすぐに連れ立って飛んでいく。
「何だ、もうへばったのか? シャムロック」
ふいに、数歩前から快活な声が降りてきた。
戻した視線の先には、木の幹に手をかけてこちらを見下ろしている男の姿がある。
木の影のせいで顔の見えないその男に、シャムロックは笑って云った。
「まさか」
「だよなあ。これ位で参ってたら、騎士サマはやってられねえか」
はは、という笑い声と共に男はマントを翻し、再び坂を登っていく。
その背中をシャムロックは眩しげに見つめ、数歩の距離を保ったまま、後について歩き出した。
「ほーれ、着いたぜ!」
いくらか続いた急な坂を登り終え、少し遅れて声の主の隣についたシャムロックは、森の出口に突然ぽっかりと開けた視界に思わず言葉を失った。
緩やかな風が、立ち尽くすシャムロックの横をすり抜けていく。
「……絶景だろ?」
「はい……。凄く」
息を吸い込むように見回して、
「綺麗です」
男はその言葉に満足したようにニカッと笑うと、自分も景色に目を向けた。
――美しかった、本当に。
真っ青な空の下、広がる鮮やかな緑の大地。
それを横切るように蛇行して走る河は、空の色を溶かしながら果ては海へと続いている。水平線は遠く霞んでいるが、午後の陽光を受けて眩しい程に輝いているのが見て取れた。
所々に緑に空いている穴は人が住む町。小さいのも、大きいのもある。それらを、筆を滑らせたような緩やかな薄茶の曲線が結んでいた。
頬を撫でる優しい風を感じながら、シャムロックは地に居ては決して見ることができないパノラマに見入った。
「――こうやって、」
ふいに、隣に立っていた男が云った。
「…お前を色々引っ張り回したかったんだけどな。ずっと……」
風に紛らすようなその声に僅かな翳りを感じ取って、シャムロックは男の横顔を伺った。しかし、そこにあるのはいつもの飄々とした表情だけだった。
「あの、」
「あれがゼラムだろ、ハルシェ湖、あそこらがフロト湿原で――」
何かかけようと思った声は、男が指差しながら挙げてく地名に遮られた。
(まあ、いいか)
シャムロックは苦笑して、朗々と語る声に耳を傾ける。
「――あの村の名物団子はマジで上手い。あ、団子ってのはシルターンの菓子で…って知ってるか? 流石に。だがあそこのヤツはそんじょそこらの団子じゃねぇぞ。厳選されたアズキで作った甘すぎないアンコと、柔らかいもちもちした団子の食感が何とも言えねーのよ。まあ、とりあえず一回食っとけ」
「はい」
段々観光名所案内の様相を呈してきた説明に、シャムロックは笑って頷いた。
「でもって海沿いの緑がはげてる所がファナンだな。ファナンは……まあ今更説明することもねえか、結構連れてまわったものな。で、ファナンを出て更に西に行くと、」
(トライドラ)
「街道から外れた所に地図にも載ってない小さな村があってだな、そこの宿屋のねーちゃんがそりゃ………どうした、シャムロック?」
心配そうに顔を覗き込んでくる金色の瞳に、シャムロックはハッとしてかぶりを振った。
「いえ、――何でもありません」
「そうか? ……なら、いいがよ」
再び眼下の景色に向き直り説明を続けるその声は、先程よりも遠かった。
(――私は今、どんな表情をしていたのだろうか?)
時が、止まったかに思えた。
自分の周りだけ風も凪いだ気がする。
無意識に頭に響いた、その名が止めたのだ。
口にする度に、いつも誇らしさで満たされる名であった。
我が愛すべき故郷。愛すべき主、愛すべき同胞、愛すべき民……。
しかし、それはもう過去のことになってしまった。今では、その名は禁忌であるかのように重い。
…重い筈だ。あの街は名以外の全てを、失ってしまったのだから。自分を残して――。
(やめよう)
シャムロックは、思考にかかりそうになる薄暗い靄を振り払った。きっと目の前のこの男は、自分の気を晴らす為にここに連れてきてくれたのだろう。彼の少し強引な優しさを無駄にしない為にも、忘れよう。今は。
「そうだ。おいシャムロック、飯にしようぜ!」
「は?」
唐突にかけられた底抜けに明るい声に、シャムロックは些か間の抜けた返事をかえした。
「飯。出かけにアメルに作ってもらったんだよ、弁当」
そう云って、リュックから取り出した大きな弁当箱をいそいそと並べ始める。
「……お昼ごはん、きっちり食べてきたじゃないですか」
シャムロックは広げられた料理の数々を眺めながら、呆れたように云った。どう見ても「3時のおやつ」程度の量ではない。……作る方も作る方である。
「堅いこと言いっこなしだぜ。ピクニックには弁当、が世間一般常識じゃねえか」
「……」
「世間」が聞いたら気を悪くしますよ。
とは言わず、シャムロックは水筒から注がれたお茶を無言で受け取った。この男に何を言っても敵う筈がないのだ。
(まあ、早すぎる夕飯だと思えば……)
目の前の男は、多分帰宅してからの夕飯もちゃんと平らげるのだろうが。
アンタは食いすぎ、と相棒に鉄拳をくらう彼の姿が目に浮かぶようで、シャムロックは気づかれぬようにふふ、と小さく笑った。
見事に芋だらけのその弁当をつつきながら、2人はよもやま話をして過ごした。
きっと後で思い返しても記憶に残ってないのだろう些細な話に笑い合いながら、時が過ぎていく。
気がつけば、食べる前は「こんなに入りませんよ」と言っていたシャムロックもきっかり料理の半分を胃袋に収め、最後に残った芋の天ぷらを丁重に辞退して、茶をすすっていた。
「ごちそうさまでした。おいしかったですね」
「ああ、ホント。毎度のことながらアメルには感謝だなー。…ちょっと炭水化物取り過ぎな気もするがな」
苦笑し合って、2人とも何となしに風景に目を向ける。
先程と変わらぬ、のどかな景色。
空には少しずつ赤色が広がりつつある。
緑に埋もれるように点々と散らばっている街では、そろそろかまどから煙が昇っているのだろうか。街角の子供たちも、今頃名残惜しげに家路についているかもしれない。
穏やかな夕暮れ。
人々は夜に備えて窓にカーテンを引くのだろう。
――その夜が明け、再びカーテンを開ける朝が来ることを疑いもせずに。
「これが…聖王国だな」
「ええ……」
私が、そして貴方が、守る筈だった国。
私は仕えるべき主を失い、貴方は玉座への道を捨てた。
この胸に光る、楯を象ったエンブレムも今となってはただの飾りだ。
(だが、それでも)
私は、自分のこの手が未だ騎士のものだと信じたい。
守護者たる地位を失っても、私は守る者であれるのだと。
この国を守るという心に秘めた誓いがある限り、この背は楯となるのだと。
それと同じように、貴方の眼差し。
頭上に王冠抱かずとも、深い慈しみと僅かな憂いを纏うその眼差しは王のそれだと言ったら、
――貴方は怒るだろうか。
「シャムロック」
陽に透けた瞳が向けられる。
夕日の光に照らされたそれは、猶も深い金色のままだ。
「はい」
「……勝とうな」
「………はい」
緑の丘の情景。
―――かくも大切で美しきものを、守るために。