ささやきの石 緑の旗があった。
その旗は無数にひらめき、幾重にも折り重なり、群れをなして風になびいている。
波うつ緑の群れの奥。旗たちがはためきながら隠す芯に、ひとり立つ、その男は騎士だった。
騎士は世界を愛していた。
心から愛していた。だから、その手で世界を守ろうと決めた。
腕に抱けるだけの命を、心を、大地を。
騎士はみんなの幸せを心から祈った。他に望むものはなかった。―――たったひとつをのぞいては。
だがそのたったひとつは、騎士にとってはあまりにも遠いものだった。
旗たちは太陽の光のもとで、森のように揺れている。
その森の中心で騎士は髪をなびかせながら、丘の下に広がるひとつの街へと視線を向けていた。
大きな城があった。
その城は、灰色の壁をどこまでも空に伸ばしてそびえている。
この壁の中には、おいそれと入ることは許されない。ここは、貴い人の住むところだった。
貴い人は、高い塔から世界を見守る。そのまなざしは見えない雨となってふりそそぐ。あるいは風、あるいは種となって。
みんな、そのことを知っていた。だから空を振りあおぎ、時に感謝し、時に訴えた。
貴い人のまなざし。それが空から降ってくることを誰もが知っていたけれど、かの人の瞳の色を知るものは、いなかった。
いま、この城を見上げるひとりの男がいた。
緑の旗の騎士だった。
森をはなれた騎士は、この街へと訪れ、城のすぐそばまで来ていたのだ。
本当にすぐそば。そびえる塔の真下だ。本当ならここまで近寄ることなど許されてはいない。そもそも、来ることは不可能である筈だった。―――普通に来ようとしたならば。
騎士が子供のころ、こっそりと教えてもらった抜け道を使ったのは、何となく、そう何となくだ。騎士にしては珍しい、そして彼がよく知る人物にとってはお得意の、気まぐれというやつだった。
小さな頃には一度も使うことはなかったメモの中身を思い出しながら、悪戯坊主でなければ考えつかない突飛な道順をたどる。全身に緑の葉っぱをつけながら這いつくばってすすんでいく。騎士が、自分は何をやっているのだろう、と後悔しはじめた頃に、この塔は現れた。最後の茂みを抜けた先に、唐突にそびえていたのだ。
騎士は肩の葉を払い落として、ふたたび塔を見上げた。
灰色のかべが、はるか上まで続いている。ところどころに施されている装飾らしきものは、ここからだと平べったくてよく分からない。高いところにある窓も、見ることなどできなかった。
かべを囲むのは青い空。ゆっくりと流れる白い雲。そんな変わらない風景の中、時折鳥が数羽、ちちち、と鳴いて横ぎっていく。
騎士は顔を空に向けたまま、しばしぼうっと突っ立っていたが、やがて、帰ろう、と思った。
思った途端、なんとも気恥ずかしくなった。
騎士は頭の後ろをかくと、かべに背を向けた。
そうして足を踏みだそうとしたそのとき、
「いてっ」
何かが落ちてきた。
頭に手をあてながら上を見る。そこにはさっきと同じ、灰色のかべと青い空だ。
騎士は顔をもどして、首をかしげた。ふたたび足を踏みだそうとする。
すると今度は、コーン、と足元で音がした。
石だ。壁のすぐ近くに敷かれた石床に、小石がぶつかったのだ。
騎士は石床に跳ね返って草むらに消えた石を探しだして、拾いあげた。それは何の変哲もない、白い石だった。
騎士は石を手にもったまま空を見あげて不思議そうにしていたが、ふいに何かに気づいたように、あ、と声をあげた。
手に石を握りしめながら、騎士は何かを叫ぼうとしてやめたり、あたりをうろうろと歩きはじめた。
そうしてしばし惑った騎士は、そのうち途方に暮れて立ち尽くし、そんな自分におかしくなったか、ひとつ笑ってその場に静かに腰を下ろした。
石が、コーン、と音をたてて落ちてくる。ひとつ、ふたつ、みっつ。
騎士は子供のように膝を抱えながら、何ともいえない、多分、幸せな表情でそれを眺めた。
それから騎士は、城の近くに寄るたびに、あの抜け道をとおって塔の真下に来るようになった。
そして膝をかかえて座りながら、コーン、コーン、と落ちてくる石を眺めるのだった。
ある日、いつものように塔の下で座っていた騎士は、落ちてくる石がいつもと違うことに気づいた。
石自体は同じ。変哲もない小さな白い石だ。
だけど、なんだかその石のたてる音がとても元気がないように思えるのだ。
ぽつ、ぽつ、と落ちてくる様が、何かを嘆いているようだ。
騎士はかなしくなった。
こんなにも遠い、それがかなしかった。
どうしたらいいだろう。何ができるだろう。
壁のしたから見あげるしかできない、この身で―――。
騎士は自分も肩を落として、石床に跳ね返っては草むらに落ちる白い石を見つめていたが、やがて立ちあがり、その石のひとつを拾った。
温めるようにぎゅっと握る。こぶしを祈るように額につけて、それから石に口づけた。
目を閉じる。
騎士は息を深く吸い、吐いた。そして目を開けると、
力いっぱい、空に投げた。
掲げられた騎士の手から勢いよく飛びだした石は、灰色の壁にぐんぐん吸いこまれていく。回転しながら、今にも触れそうなぐらいすれすれを滑る。
そうして壁伝いに走っていった石は高い窓に、届かず、少し下にぶつかって跳ね返り、落ちた。
騎士は、ああ、とため息をついた。
石は葉ずれの音をたてて茂みに墜落した後、静かになってしまった。
見あげた壁の平べったい窓も、しんとしたまま。石も落ちてこなくなった。
騎士はそのまま、壁を見上げつづけた。
白い雲が、塔の後ろに隠れていく。いくつかの風が、まつげと前髪を揺らして通り過ぎた。
騎士の頭が、ゆっくりとうつむいていく。
うつむいたまま、一歩、足の向きを変えて踏みだした。
そのとき。
コーン
落ちてきた。
それは音をたてて跳ね、騎士のつま先をこづいた。
弾かれたように空を見あげるとそこには、灰色の壁。しんとしている高い窓。
騎士はその窓を呆けたように眺めていたが、みるみるうちに満面に晴れやかな笑みを浮かべた。ひっくり返りそうなぐらい目いっぱい、空をふりあおぐ。
騎士は屈み、もうひとつ、石を拾いあげた。今度は笑顔のままでそれを握りしめ、投げた。
石は今度も窓の中には入らなかった。だが、かわりに石はまっすぐ窓を通りこしてなおも高く、空に飛んだ。
透明な風を切り、果てしなく昇っていく。小さくなる城、小さくなる森、小さくなる世界。
あらゆるものを越えて、青い空にとどいた小石にすべてを託し、騎士は語りかけた。
(なるべく、なるべく笑って、時々泣いてくださいね。
つらかったら温かい紅茶を飲んで、いつかの歌をくちずさんでみてください。
お酒は飲みすぎてはだめですよ。この頃は寒いから、足を冷やさないようにしてくださいね。
それと、あまり夜更かしはしないように……)
石はどこまでも、高くのぼっていく―――。
それからも、白い石は落ち続けた。雨の日も、風の日も。
落ちてくる小石のそばにはいつも、緑の茂みに隠されるように、膝をかかえたひとりの男の姿があった。
そうしていつしか石は降り積もり、小山になった。
緑の旗に黒い喪章がつけられたその日も、石は落ち続けたという。