アルディラ アルディラは、床に力なく座り込んだまま、頬をつたう涙をとめることができないでいた。その部屋は眩しすぎた。
「はじめまして」
衣擦れの音とともに、声が近づいてきた。魔方陣を踏むつま先がうつむいた視界に入り、アルディラの濡れた瞳は揺れた。
「気分はどうかな。突然のことで驚いたと思うけど……」
静かな声は、自分を怯えさせないようにという気遣いに満ちていた。アルディラはその声を聞きながら、ふたたび熱い涙を地面に落とした。
その声の言うとおり、すべては突然のことだった。
数分前。アルディラは体の上で指を組み合わせて横たわり、閉じていく天井を眺めていた。
ロレイラルの巨大地下シェルターの片隅、虫の卵のように並べられたカプセルのうちのひとつに、アルディラの体はあった。他の仲間たちとともに、これより長き冷凍睡眠につくところだったのだ。
密封されたカプセルに冷気が入りこむ音を聞きながら、意識はゆっくりと体から離れて落ちていった。深く深く。暗い海に、静かに沈んでいくイメージ。
ようやく意識が闇の底に辿りつき、ゆっくり回転していた思考も今まさに停止するかというその瞬間、かっとまぶたをこじあける強い衝撃がはしった。
カプセルが悲鳴をあげて震えだす。
(事故だ)
揺さぶられ、視界を白く焼かれながらアルディラは咄嗟に思った。
助けてという声は言葉にならず、喉から振り絞った絶叫も辺りに響く金属音にかきけされた。
次に気がついたとき、カプセルは消え、アルディラは見覚えのない部屋に座っていた。呼吸の自覚。生きている。
めいっぱい見ひらき、涙をとめどなく流す目は、またたきもせずに辺りの情景を映しだす。自分を中心に床に描かれた魔方陣。部屋の隅にたかれた篝火。そしてローブをまとった知らない顔がひとつ。
水鏡に映したように歪んだこれらの情報を、麻痺した脳は処理することができなかった。
「こ、こは」
だした声は醜く軋んでいる。
「リィンバウムだよ」
すぐ前に人が屈む気配を感じた。目をあげると、そこには首をわずかにかしげた色白の顔が微笑んでいた。男の顔だった。
「リィン……バウ、ム」
「そう」
男はうなずくと、一言一言噛んで含めるように、語りかけてきた。
「僕が貴女をこの世界に招いたんだ。知っているだろうか、リィンバウムの召喚術……うん、召喚術」
震える肩に、ふわりと布をかけられた。今まで彼がまとっていた肩掛けだろう。前をかきあわせると、人肌のぬくもりと仄かな香りに包まれた。
「ロレイラルの技術をもつ貴女の力を借りたくて、この世界に召喚させてもらったんだ」
―――召喚された? ロレイラルから、リィンバウムへ?
あの地獄から、自分は救い出されたというのか。
「気分を害したならすまない。もし貴女が帰りたいというなら、すぐに送還を」
「やめて」
はじめてだした強い声に、男は目を見ひらいた。
「あそこには戻さないで。ここに置いてください。お願い……」
アルディラは背を丸めて、ふたたび声をださずに泣きだした。
アルディラにとって、ずっと待ち望んでいた救済だった。
滅びたロレイラルの大地の下、数少ない同胞とともに、ただ命をつなぐためだけに睡眠をつづける日々。いったいどこに生きる意味があるのか、とうに見失っていた。
(もしここから救われるのなら何でもする)
アルディラは誓っていた。
―――次に目が覚めたらすべてがよくなっているかもしれない。そんな仄かな希望を握りしめて冷たい眠りにつき、そして目を覚ますたび灰色の天井がカプセル越しに広がっているのを見て打ちのめされる。
こんな苦しみと嘆きのループを終わらせてくれる誰かがもし現れたなら、自分はその人のために、何だってしよう。
「お願いです……何でもしますから。技術でも武器でも、貴方が望むもの何でもさしあげます……だから」
男は戸惑いがちに伸ばした手をアルディラの肩に置いたが、すぐに離れた。
彼は泣き続けるアルディラを前にして途方に暮れていたが、やがて、
「僕の名はハイネル。ハイネル・コープス。貴女の名前を、聞かせてもらえるだろうか」
と言った。
アルディラは顔を上げ、じっと男を見つめたのち、その問いに答えた。