兎と…
※ステップアップパシャのネタバレを含むのでご注意ください
「まったく、君はさ……」
不意に聞こえてきた声に、沙弥は足を止めた。
それは聞き慣れた声で、たまに自分に向けられる言葉と似ていたから、まさかやらかしたアレとかソレがバレたか?などと思いながらキョロキョロと辺りを見回すけれど声の主は見当たらない。
「こうやって黙っててくれれば、毎日平和なんだけどな」
声は、近くのドアの向こうからしていた。
使用中の札がかけられたその部屋は、いくつかある作業用の書庫のひとつだ。
時々、静かな場所で読書がしたいとか、一人で作業がしたいなどと言って文豪や研究員が使用することもある。
そういえば、今日は使用者のリストに名前が書かれていたっけ。でも、いったい誰と話をしているんだろう?
不思議に思いながら、沙弥はドアをノックしようとした。
「まあ、でも……静かだと君じゃないよね」
ふふっと柔らかな笑い声を含んで発せられた言葉にドキリとする。
なんなのだ、その声は。
まるで恋人にでも話しかけているかのような優しい声は、何だというのだ。
ノックしようとした手を降ろし、気配を殺してドアノブを掴む。そうして、音がしないようにドアを少しだけ開いた。
最初に見えたのは見慣れた背中だった。司書室で、いつも助手として近くにいる秋声の背中だ。
そして室内の作業用の机に広がるのは裁縫道具。
なんだ。静かな場所で一人で裁縫するためにここを使っていたのか。と、声をかけようと口を開きかけ……
「と……」
「僕は平和な日常を過ごしたいだけだったのに……」
慌てて口を閉じた。
秋声は手元にある何かに話しかけているようで、沙弥はそれを確かめようと背伸びした。
「君がいるなら非日常も悪くないかなと思い始めてるよ………沙弥」
ガタン!
いきなり出てきた自分の名前に、沙弥は背伸びの体勢を崩してドアに激突した。
音に気づいた秋声が振り返る。
そして、固まってしまった。
沙弥はドアにしがみつくような格好で、秋声は振り返りかけた姿勢で………………固まった。
「司書、さん!?」
そこでやっと沙弥は秋声が話しかけていた相手を目視したのだった。
耳の長い――可愛らしい兎のぬいぐるみ。
それが、秋声の両手に大切そうに抱えられていた。
「えっと、徳田さん、何……してたんです?」
「何って………………」
泳いだ視線が手元のぬいぐるみに落ちる。
「その兎……徳田さんが?」
「っ、そうだけど」
気まずそうに答える秋声の耳が赤い。
もしかして……と沙弥は気付いた。聞こえていた声は、もしかして彼がこのぬいぐるみに話しかけていたのでは?ということに。
「……司書さん、もしかして聞いてた?」
困ったように下がった眉尻と戸惑うような視線を向けられて問われれば、頷くことしかできない。
そんな沙弥を見て秋声は目を泳がせた。
「忘れて」
「え?でも、さっき、名前……」
「忘れて!」
強く言われてしまえば、「ハイ」と答えるしかない。そして、有無を言わせぬ声音で一人にしてくれと言われれば大人しく退室するしかなかった。
パタンとドアが閉まる。
沙弥を部屋から追い出して、秋声は大きな溜め息を吐いた。
「なんなんだよ、もう……」
全部聞かれたのかもしれない。
沙弥には素直に伝えられない言葉を、作った兎のぬいぐるみに向かって伝えていたことを。
「あぁ、でも……」
ぬいぐるみの頭をそっと撫でる。
「さすがに気付いたかな」
聞いていたかと問うた時の戸惑うような表情と淡く色付いた頬を思い出して、クスリと笑った。
「次は、ちゃんと君に伝えないとね」