匂ひ放つまで永いはるを吾等は待つてゐた「…どうして、わたしをまもってくれるんですか…?」
ようやく口にした自分の言葉が、耳朶からすべりこんで、すぐに後悔した。だってこの人には、たぶん私の言いたいことなんか分からない…きっと永遠につたわらないのだ、と、おもう。私にとってこの問いが、どんな意味をもつか、なんて。
そっと様子をうかがうと、やっぱり笑ってるのが目に入った―――このあと、この人はきっと困ったような顔をして私にさとすんだろう。目に浮かぶようで、のどのおくがぎゅっと苦しくなった。
一度口から出た言葉を取り消せるはずもなくて、いたたまれなくて、そよは顔をそむけた。言わなきゃよかった―――こんな、ものほしげな響きになるなら、言わなかったのに。あぁやっぱり、わがままなんだろうか、姫として、ではなく、わたしを、見てほしいだなんて。
伝わらない、この、言葉の距離がつらい…。私には、絶対にうめられない、届かないから。
何かあったのですか、と穏やかに問いただす声に、そよは答えられなかった。
顔をそむけたまま、そよはまっすぐ前を見つめていた。どうしたらいいの、か、分からない…。土方さんがじっとわたしの横顔に視線をそそいでいた。その視線が、しずかで感情をにじませないだけ、私はどんどんひとりになって、どんどんさびしくなる。
ほのあかるい障子の向こうの庭には、たぶん雪がふりつづけているんだろう。しんしんと、無音の世界が広がっているんだろう。凍みるような身を切るような、あの静けさが空をおおって、したたって、やがては雪になって地上をうめつくしているんだろう。
土方さんはずっと黙りこくったままで、部屋には火鉢の赤く色づいた炭がはじける音だけがやけにきわだって聞こえた。
ああ、泣きそう…。伝わらない、ことが―――受け入れてもらえないことが、どうしてこんなにも悲しい?
伝わらないことなんか、たくさんある―――わかってる、理解してるのに、どうしてそれが今こんなにもいたいの…?
すべてを言葉にすることができても、このいたみは消えないのかもしれない。すべてを言葉にするなんてできるわけがないのも分かってるのに、そんなことを思って、また胸をおしつぶされたみたいに悲しくなる。ねえ、土方さん、知ってますか?――分かってもらえなくて悲しいのは、あなただからなんだと。
のどのおくからせりあがって、こころをあふれだそうとする、この思いの正体は―――。
言葉にならず声もなく悲鳴も発しないまま、ほんのひと時だけ風に身をふるわせて、うすらいで、消えてしまえたらいい。障子の向こうの淡い雪みたいに、そんなふうにこの思いを失ってしまえたらいい…、すきになればなるほど、寂しくなるばっかりの思いなら。
そうでなければ、すべてぶちまけてしまえたらいい。耳元で、あなたがすきだと大声でわめきちらせたらいいのに。
その二つしか選択肢がおもいうかばなくて、そうしてそのどちらも取ることができない私は、ただ口をひきむすんで、奥歯をかみしめているしかない。
どうしようも、ない…。
はじめから、完全に他人を理解できるはずなんかない。ましてや、この人と私とでは見てきたものが、違いすぎて。平行線、みたい。
正面のぼんやりとした明かりを透かした障子を見つめる私の視線と、私の横顔を見つめる土方さんの視線とは、決して交わらない。このうすい光のなかでは、土方さんの強すぎる目を逃れることもすこしは楽、なんだとおもう。
それでも、じっと私を見る視線がいたくでどうしようもなくて、私はくちびるをかんで、炭のぱちん、とはじけた音を聞いた。
土方はそよを見つめ、音に出さないようにため息をついた。決してこちらを向かない、彼女の横顔をただ見つめていた。
さっきの彼女の問いにどうやらまずい反応をしてしまったらしい。それから一言も発しなければ、一度もこちらを向こうともしない。うすら明るい障子の向こうを見てばかりいる。天岩戸だな、まるで。
すいません、と謝ってしまえば簡単なんだろうか――いや、違うだろう。それでもきっと、この人は満足しない。
しろい光にてらされた、彼女の横顔。
こういう、瞬間も、きれいだと思う―――あーあ、いかれてるな、自分。
雪の降り積もる音は静かで、こんな日は城全体もうんともすんともいわねえ、人がどこにもいないみたいだ。ただでさえ広いばっかりの彼女の座敷にぽつんと座った姫さんの向こう、白い梅の掛け軸と香合の飾られた床の間が見えた。この場所はいつだって香を欠かしたことがない―――あまりに違う、おれが育った環境とも、普段息をしている世界とも。今さらだが、思う。
同じなのにな、たぶん、抱えてる不安とか、思いとかは。だけどその原因はきっと同じでも、種類や内容は全然違う。だから決して共有できない。おれと彼女はこうまで遠くて、お互いに歩み寄ることなんかできやしない――気休めを口にすることは容易だが、そうする気もまた、ない。
「…そよ様」
幾度目かの名前を呼んだ。かすかに肩が動いた気がしたが、返事はやはり、ない。
彼女には彼女の思いがあり、苦悩がある。その、原因はきっと、おれと同じ感情なのだろうと思うのは、うぬぼれなんだろうか。
おれはずっと、こちらを向かない彼女の横顔を見つめていた。彼女の視線は、決しておれのほうを見ない。おれの視線とかちあわない。
こんなにも言葉が無為になる瞬間を、ほかに知らない。
こうやって思考する、その行為そのものが、彼女に入れあげてる証拠のようで苦笑せざるをえなかった。
どうにかしなきゃな、と何をどうするのが正しいのかも分からないまま、そんなことを思った。
いい加減、どうにかしなきゃな。
視界のはしで、暖をとるための炭が音を立てて弾けて、ぱっと赤い火の粉が散ったような気がした。
おれたちはまだお互いの不安の前にたちすくんで、なにかがどうしようもなく動きだしてとめどなくなるその時を、ただ待っていた。