飯焼き芋吾輩は猫である。名前はまだない。
どこで生まれたかとんと見当がつかぬ……いや、嘘だ。生まれたてホヤホヤの赤ん坊だった頃の記憶があるのだ。
だがしかし! その事実を告げるわけにはいかない。何故なら私は生後三ヶ月にして、すでに自我を確立していたから。……え?
「それって普通じゃね?」だって?……まあそうとも言うな。
ともかく、私が前世らしきものを思い出したのは三歳の時だ。
私の家は農家であり、父は畑仕事のために朝早くから夜遅くまで家を空けていた。母はそんな父に代わって家事をこなしながら私を育ててくれた。……のだが、私はどうにも母が苦手であった。というのも、彼女はとても優しい人だったのだが、怒ると鬼のように恐ろしかったからだ。
だからいつも母の顔色を伺いながら暮らしていた。少しでも気に障ることをすれば容赦なく拳骨を食らったし、いい子にしていれば頭を撫でてくれる。そういう人なのだ。
ちなみに、この世界では女の方が強いらしい。
さて、そんなある日のことである。私は自分の部屋のベッドの上で目を覚ました。……おかしい。いつもなら隣にあるはずの母の温もりがない。代わりにあるのは嗅ぎ慣れた家の匂いだけ。
不思議に思いつつも体を起こすと、窓の外を見て驚いた。空が赤い。夕焼けではなく血のような赤さだ。しかも地面の方からは悲鳴や叫び声のようなものが聞こえるではないか。
一体何事かと思ったその時、突然部屋の中に黒い影が現れた。驚いて尻餅をつく私を見下ろしているのは、大きな角を持つ一匹の獣人であった。
『ようやく目覚めたか』
彼はそう言うなりニヤリと笑みを浮かべる。まるでこちらの反応を楽しむような表情だ。
『我が名はベルゼブブ。お前の魂を呼び出した者よ』……うん。全く意味がわからん。
混乱する頭を押さえていると、ベルゼブブと名乗る男は言葉を続けた。
『単刀直入に言おう。お前の母親は死んだぞ。今頃奴らはお前を探し回っているだろう』…………はい? 一瞬何を言われたのか理解できなかった。いやいやいや待ってくれ。確かに私はあの人が怖いと思っていたけど、別に死んで欲しいとか思ったことはないぞ!?︎……っていうか、そもそもなんでそんなことをあんたが知ってんだ!!︎ 思わず叫ぶと、目の前の悪魔(?)は鼻を鳴らして答えた。
『我は魔王サタン様に仕える大公爵の一人、ベルゼブブである。その程度のことくらいお見通しだ』……はい。全然わかりませんでした。
とにかく、母が死んだということはわかった。そしてこれから私はこの悪魔の言いつけに従って生きなければならないことも。
正直言って気が進まないが、逆らうわけにはいかない。仕方なく従うことにした。すると悪魔は満足げに笑い、それからこう言った。
『よし、では早速だがお前の力を見せてもらおう。外に出るがいい』……こうして私は生まれて初めて家から出たのだった。
***
結論を言うと、私はそれなりに強かった。
というのも、生まれつき魔力が強かったらしく、魔法を使う才能があったようだ。特に風属性の魔法が得意だったので、よく空を飛んで遊んでいた。
ただ残念なことに、その力のせいで近所に住んでいたいじめっ子に目をつけられてしまった。彼らは私が気に入らなかったようで、毎日のように嫌がらせをしてきたのだ。……まあでも、これに関しては自業自得だと思うことにしよう。
やがて五歳になったある日のこと。私はまた近所の男の子達に追いかけられていた。
『待ちやがれクソガキ!』
『生意気なんだよ! 俺達に逆らうんじゃねえ!』……本当にしつこい連中だ。私は内心ため息をつくと、足を止めて振り返った。
『何だよ。まだ何か用?』
そう尋ねると、彼等は顔を真っ赤にして叫んだ。
『てめぇ! 今まで散々無視しやがって! 調子に乗ってんじゃねぇぞ!』
『そうだ! 今日という日は許さねぇ! 覚悟しろよ!』
そうして私達は殴り合いを始めた。最初は一方的だったが、次第に形勢が逆転していく。そして最終的に勝ったのは私だった。……といっても、喧嘩が強いだけで勉強はできない方なので、テストでは常に赤点ギリギリだ。だけど、少なくとも体力だけは自信がある。
その後私はいじめっ子達の親に連れられて、彼らに謝罪することになった。
『うちの子が大変申し訳ございません』
そう謝る彼らの目は怯えきっていた。そりゃそうだ。自分よりも遥かに小さな子供に負けたんだからな。
そんな様子を冷めた目で見つめながら、私は口を開いた。
『もう二度と関わらないでください』
それが私の望みであり、最大の譲歩でもあった。しかし、相手はそれを受け入れられなかったらしい。
『ふざけんな! 誰がてめえなんかと関わるもんか!』
そう吐き捨てると、私を置いてどこかへ行ってしまった。……ああ、やっぱりこういうことになるのか……。私は深くため息をついた後、再び家へと戻ったのだった。
***
「…………」
夢を見ながら過去の出来事を思い出していた私は、ゆっくりと目を開けた。すると、そこには心配そうな顔でこちらを見下ろす悪魔の姿があった。『大丈夫か?』
そう尋ねてくる彼に、私は苦笑しながら答えた。
『うん。ちょっと昔のこと思い出しただけ』……そう。あれから十五年経った今でも、私は相変わらず虐められ続けている。
『そうか。……それはそうと、そろそろ時間だ。準備をするがいい』
『……うん』
小さく返事をした直後、視界が暗転する。それと同時に意識が遠くなっていった。……目が覚めると、そこは真っ白な空間だった。
『やあ、おはよう』
聞き覚えのある声に振り向くと、そこにいたのはあの男――サタンだった。
『どうだい? 気分は』
『最悪』
『ふむ……それはすまないね。ところで、君の魔力はどの程度まで回復したかな? 少し見せてくれるかい?……ああ、もちろん君の力で構わないよ』
そう言うなり、彼は手を差し出してくる。
その手に自分の手を添えると、私は体内に眠っている膨大な魔力を解放した。すると次の瞬間、部屋中に突風が巻き起こり、サタンの髪が激しく揺れた。
『これは……凄いな』
しばらく黙って風の音を聞いていると、彼が感嘆の声を上げた。『素晴らしい。やはり君はあの女の遺伝子を受け継いでいるだけのことはある』
その言葉に思わず眉根を寄せていると、サタンは微笑みながら言った。
『まあ、そう怒らないでくれ。褒めてるんだから』
『別に怒ってないし』
『ふっ、そうか。だが、これで確信できた。この力があれば、魔王様の復活も近いだろう』……またそれか。
『そういえば、魔王の封印を解く方法は見つかったの?』
『いや、まだ見つかっていない。だが、おそらくあと一年以内には見つかるはずだ』
『そう。……じゃあ、それまでには死んでるかもしれないわね』