バーカウンターの笑顔/嘘つきの教室 ――浅霧、夜の店でバイトしてるんだってよ――
口さがない級友の、聞こえよがしな声が鼓膜を刺した。
――え、それ校則的にアリなん? 退学じゃんフツウ
――つーかアイツ、ガッコ辞めんだろ?
――うわ中卒? ウケる
――顔だけで食ってくつもりじゃね?
――ゆうほど顔よくねえじゃん
甲高い無責任な笑い声が脳を殴り、腹の底からふつふつと沸く怒りを必死に抑え込む。何も知らないくせに、ゲンがどんなに努力しているか、見たこともないくせに。
ゲンが学校に来なくなって、二ヶ月ほど経つだろうか。高校に入学してすぐに芸能活動が本格化し、特に二年生になってからは休みがちになった。たまに登校する日には校門前にファンが集まるようになり、それが承認欲求に飢えた同年代の鼻についたらしい。何か揉めることがあってそれ以降は登校しても図書室で過ごすことが増え、今はほとんど来ていない。私は昔なじみの縁から、先生とゲンの間を取り持つようなこともしていた。
「***ちゃんがいてくれて助かったよ~、俺このままじゃダブリ確定してたもの~~」
なんて人懐っこく言われて悪い気はしなかったが、私なんかが手伝わなくてもゲンはすごい努力家で、進級なんて心配するような人ではないこともわかっていた。
私とゲンが出会ったのは、子役専門の芸能事務所だ。おむつのCMの赤ちゃんモデルとかでは共演もしていたらしい。そこは子供の才能を開花させるために親が札束で殴り合うような場所で、私はお稽古がイヤでよく泣いては叱られていた。一方ゲンはそこにいるだけで周囲が明るくなるような華のある子で、何よりも大人が喜ぶ仕草をよく分かっていた。ゲンのお母さんはいつもキレイで儚げで、私はお稽古が嫌な日やバレエの進級テストに落ちて叱られそうな日には、よくゲンのお母さんのところに逃げていた。
私が芸能活動を辞めたのは、八歳のときだ。子供向け番組のオーディションに落ちたのがきっかけだったらしい。親が私の才能の無さに気付いたのか、家のお財布が底をついたのかは分からない。それから私は、かつての「大人が喜ぶ子供の笑顔」を捨てて生きている。
華やかな世界に憧れる人の気持ちは分かる。私だって、ゲンを含む同じ事務所だった子たちがテレビで活躍しているのを見ると、少なからず思うところはある。でも、あの時はイヤでイヤでしかたなかったのだ。怖いことも気持ち悪いこともあって、それを乗り越えないとあの場所にいられないのだとしたら、私はもうあそこには立てなくていい。
ゲンは、私よりは大人たちに守られていたと思う。それは多分、本人の才能や周囲の理解や、あとコネやお金の力が違っていたからだ。あそこはきっと、そうやって選ばれた人だけが輝ける場所なのだ。
そんなゲンのバイト先は、繁華街のバーだった。先生に出す申請書を運んだことがあったから、私だけは店名も場所も知っていた。同級生たちの言う「夜の店」は、もっと卑猥で下世話なニュアンスを含んでいたけれど、かといって訂正するほどの気力はない。「お、さすがですね元業界人」なんて言われるのが関の山だし、校門前に集まる入り待ちのファンから逃げ出したゲンに浴びせられた、教室の冷たい目が怖かった。あんな目に晒されるのは、私だって嫌だ。
でもさ、ゲン、ほんとに良いの? あんなふうに言われてさ。とも思う。ゲンの頑張りが、バイト先程度でバカにされるんだったら、バイト先くらい変えちゃってもいいじゃない。それがゲンのためになるんじゃないの。
ねえ、こんなのやめなよ、と言いたくて、初めて「バー」というものに行くことにした。未成年だからって何? ゲンもそうじゃん。
◇◇◇◇
バイト終わりの夜八時、普段なら通り過ぎるだけの駅で降りると、子供の事に親に連れられて来た繁華街だった。お酒の力で気が大きくなった男の人や、何かを手に入れようとして誰かが喜ぶ笑顔を浮かべる女の人がいっぱい。大人に囲まれて一生懸命ニコニコしていたときの気持ちが蘇って、いやな気持ちになる。私はそういうのは捨てたんだ、と自分に言い聞かせながら、ゲンの働くバーに向かった。
華やかな通りに混じる雑居ビルのエレベータを降り、店名を間違えないように慎重に確認してからドアを開けると、むわっとした空気に包まれた。ガヤガヤ、と表現するには抑えめで、ひっそり、と表現するには浮き立つような雰囲気に気圧され、立ちすくんでしまう。
カウンターにはゲンがいた。ゲンは、お酒の瓶がキャンドルの灯りを反射してキラキラ輝く中で、テレビで見るようなバーテンダーの服を着て立っていた。アシンメトリーな髪は一房を残して後ろに流し、すっきりした横顔と首のラインが、白いシャツの襟元に吸い込まれている。すごく、かっこいい。
ゲンは二人並んだ男女のお客さんの前に立って、カードをさばいているところだった。女性の手にカードの束を握らせ、なにやら話している。女の人がそっと手を開いてカードをめくり、「えーっ!」という声を出した、場がどっと華やぐ。
「いらっしゃい、うん?」
少し年かさのおじさん(きっとマスターなんだろう)が私に目を留め、怪訝な顔をする。一瞬目を泳がせ、「おい、ゲン」と声を掛けた。ゲンはおじさんの視線を追って私を見つけ、一瞬目を丸くした後……ぱあっと人懐っこそうに笑った。
「あら、***ちゃん!」
私から見れば、すっごくかっこいい、でもきっと大人から見れば、あどけなくて可愛い笑顔。私はこの笑顔を知っている。テレビで見たことのある、大勢の人が喜んでくれる表情ってやつだ。
「おいおいゲン~~、こんないかがわしい店にカノジョ呼ぶなよお」多分酔っ払っているおじさんが女の人の手をゲンから取り上げて、握りながら言った。
「いや~さっせん! 恥っず! わー***ちゃん来てくれたの? こっち座って~!」
促されるまま、カウンターの端っこに座る。おじさんと、お姉さんの隣だ。高い椅子には背もたれがなく、すごく落ち着かない。
ええと、こういうお店って、たしか椅子に座っただけでお金とられるんだよね。いくらなんだろう。あと何を頼めば良いの? 料金もメニューもわからない。
キョロキョロしていると、マスターがトンと目の前にグラスをおいた。シュワシュワと泡立つ濃い琥珀色の液体。……コーラだ。
「あ、あの」まだ私、何も頼んでません。
そう言いたくて顔を上げると、マスターはもう別のお客さんと話している。え、これ、飲んでいいの。いくらなの。お財布いま一万円は入ってたっけ。でもこれで足りるの。足りなかったらどうしよう。思い切り動揺していると、私の前にゲンがスッと立った。
「***ちゃん、それ俺のおごりね」
ばちぃん、と音が出そうなウィンク。こんな陽気に振る舞っているところ、見たことない。これが仕事用のゲンだ。
「やだあ、ゲンちゃんのカノジョ?」
「かわいーじゃん」
さっきゲンがマジックを見せていたお姉さんとおじさんがからかってくる。そんなんじゃないです、ただの同級生です、って言いそうになる前にゲンが話を引き取った。
「いっぱいいるカノジョのヒトリ♪ 俺んだから手は出さないでくださ~~い」
きゃあ、と場が盛り上がる。どういう意味なんだろう、私みたいなのが前にも来たってこと? と一瞬胸が痛んでカウンターに目をやると、マスターが私を見た。口元は笑ってるのに目は笑ってなくて「黙ってろ」って伝えた。それでゲンが、私のことを守ってくれたって分かった。
ゲンはとても楽しそうに、「彼女がお店に遊びに来たから浮かれてる男の子」そのものの振る舞いではしゃいでいた。
「マスター、俺もコーラ飲みたくなっちゃった~」
「酒入れんなよ?」
「入れないよ~キレイな身体でいたいし」
「ならタバコと女遊びやめろよな」
「あっスキャンダルやめて? 今そういうのジーマーで危ないんだから!」
ねえマスターこのイケメン腹立つんだけど。ナカムラさんが顔で勝てるわけないでしょ。でも俺にはお金の力があるし? ねえアイちゃんぶっちゃけ俺どうよ? やだあ私好みだから一緒にいるんですよお。
おじさんと、マスターと、お姉さんがなんだか盛り上がっている。羽のように軽薄な言葉で、何がそんなに楽しいのか全然分からない。そんなやりとりを横目で聞きながら、私はコーラをちびちびと飲んだ。ゲンは私のほうをちらちらと気にかけながらグラスを洗っている。
「じゃあカノジョにカッコイイところ見せてあげなよ、ゲンちゃんあたしグラスホッパー」
アイちゃんって呼ばれたお姉さんが少し酔った目で私を見ながら、声だけをゲンにかけた。ゲンは「もう~」なんて言いながら、小さな銀のカップでお酒を量り、氷と一緒に銀色の容器に入れて蓋をした。
ゲンの両手の細長い指が銀の容器を包み、顔の横で振る。容器の中で氷が踊る硬質な音がして、銀色が薄暗い照明にキラキラと輝いた。
ゲンはさっきまでの軽薄な笑顔を消し、少し目を伏せて集中している。よく見たらゲンの爪はきれいに整って磨かれていて、銀の容器と一緒にお店の照明を反射して輝いていた。ゲンは耳と指から容器の中身を読み取ろうとしているみたいだ。伏せた目元に落ちたまつげの影も、先だけが少し上を向いた鼻筋も、女の子みたいな細い首がワイシャツの襟に吸い込まれる前にぼこっと隆起している喉仏も、軽く引き締められた口元も、すごくかっこよくて、きれいな横顔に胸がぎゅうっと痛くなった。おじさんが「イケメ~ン」と嫌味っぽく呟く。
そうしたら真剣な顔はすぐ解けて、ゲンはおじさんに向かってウィンクする。ばちぃん。そうしながら、ドラマでしか見たことのない小さなグラスに、ふわふわのグリーンスムージーみたいなお酒を満たした。
「はい、どうぞ」
右手の人差し指と中指でグラスの下を押さえて、ほんの一センチくらいずらす。ゲンが視線を手元からお姉さんにゆっくり上げるとお姉さんが艶っぽく笑って、二人の視線が絡んだ。すごく恥ずかしいものを見せられている気持ちになる。なにこれ。ゲン、この人と何かあったの。
ドキドキしていると、ナカムラさんって呼ばれたおじさんが「マスターこいつどうにかしてよ! やってらんねえよ!」と怒った。ゲンは「もうしょうがないな~ナカムラさんもコーラ飲みます? キューバリバーでいい?」と笑う。
おじさんの返事を待たずに、ゲンは大きなグラスに氷を入れて、銀のマドラーでくるくる回した。小さなカップでお酒を入れて、輪切りのライムを入れて、コーラを入れて。それをまたマドラーでくるっと回すとおじさんの目の前にドンと置く。
「はいお待ち」
「なんだよそれラーメンかよ! 俺にもさっきの色気をよこせ!」
「あれは女のコ専用なんですう~~」
メンゴ! とゲンが唇に指をつけて、ちゅっと音を立てながらおじさんにキスを投げた。おじさんは「すっげームカつくな! 許す」なんて笑いながらグラスを受け取った。
おじさんとの会話も、お姉さんとの視線のやりとりも、全部私と無関係なところで進み、唖然としているうちに私のグラスは空っぽになってしまう。ズズ、という間抜けな音を立てた私に、ゲンがすぐ気付いた。
「あっもう少し飲む?」
コーラなんか、そんなに飲みたいわけがない。さすがに私にも分かる。これってつまり、
「ううん、もう大丈夫。ありがとう」……帰れってこと、だよね。
椅子からモタモタ降りようとしていると、マスターが「送ってってやれ、可哀想だろ」って言ってくれた。
えーっ帰っちゃうのお。メンゴ、今日は早上がりなんですよお。送り狼すんなよイケメン。どっちも実家ですう! ……そんな軽口を続けながら、ゲンはドアを開けて私をエスコートしてくれた。
「***ちゃん、五分待っててね」
ドアを開けて私を送り出しながら、ゲンは甘ったるい声で囁いてくれた。
五分も待っただろうか。おそらくかなり急いで、ゲンは来てくれた。カジュアルなパーカーを着て、キャップで髪を隠している。香水だろうか、爽やかな香りが鼻をくすぐった。
「おつ~」
にっこり。笑いはするけれど、どこか目は冷たい。
来た時と同じ入口から地下鉄に乗ると、週末の車内はそこそこに混んでいた。お酒と、汗と、仕事に疲れたおじさんの体臭みたいなものが混じる中で、ゲンの香水だけが心地よく香ってくる。疲れや情けなさや、こんな時間にゲンと二人で電車に乗っているという甘酸っぱい痛みを抱えながら、ちらっと隣を伺うと、温度のない横顔が電車の窓を見つめていた。……多分、怒ってる。
「あの、ごめん、勝手なことして」
たまらず謝る。ゲンはこちらを見もしないで
「もう来ちゃだめだよ」
とだけ言った。
そこで電車が最寄り駅に着いて、ゲンと一緒に降りる。ゲンの最寄り駅本当はあと1駅先のはずだけれど、マスターの「送っていけ」という言いつけを真面目に守ってくれているらしい。
繁華な街から数駅離れ、その駅から数分も歩けば物音も少ない住宅街だ。駅の近くに新しくできた大きなマンション群を抜ければ、ちょっと古いアパートとか一戸建てばかり。私が育ったのはその中にある本当にフツウの、ごくごく平凡な一般家庭で、ゲンに見せるには恥ずかしいくらいつまらない家だった。非凡な幼馴染に自分の平凡なルーツを見られるのが嫌になって、家の前までは来てほしくないと思う。
「ゲン、ここまでで良いよ」
「送るよ、マスターに言われたし」
どこか意固地な様子で返され、無言の帰路を歩いた。あんなにペラペラと喋っていたゲンも無言で、どんどん手持ち無沙汰になってくる。何か、何か話さなきゃ。
「ゲン」
「何」
「あの、今日は、ごめん」
「うん、もう来ちゃだめだよ」
「あのね、今日来た理由なんだけどね」
「何?」
「その、ああいうバイトはさ」
「うん、良くないと思う?」
「……」
「時給良いんだよ、マスターも優しい。あと常連さんが俺目当てで来てくれればインセンティブもある」
早口で淡々と、すごくやる気の無い声で言われて居心地が悪くなる。声の温度が、低い。さっきまでの陽気な振る舞いが嘘みたいだ。おそるおそる隣を窺うとゲンは目を細め、観察するような顔で私を見ていた。
「***ちゃんさ、バイトの時給いくら?」
「え? あ、あの……1100円だけど……」
声は怖いけれど、ゲンから話を振ってくれたことに、少しだけほっとする。私のバイトはチェーンのファミレスで、時給はごく平均的だと思う。ああいうお店よりは安いはずだ。それを聞いたゲンは声を出さずに口元だけで「へっ」と笑って、
「そう。あそこ2600円なの。今日は六時間の予定だったけど二時間であがっちゃったから、10400円損した」
と言った。
「そんな……ご、ごめん」
そんなに!? と、なんでそんなに? と。どっちも言えず、私は謝るしかない。何よりゲンがお金を「損した」って話をするなんて思っていなくて、そっちの驚きのほうが大きい。
「***ちゃん、将来のさ、自分の仕事ってどういうふうに決めるものだと思ってる?」
「え、そりゃあ、夢とか、自分に向いてるとか、大学で選ぶとか……そういうものじゃないの?」
何でそんな話しをするんだろう、と思いながら正直に答える。まだ、よくわかんないけど……とごにょごにょ言うと、ゲンは笑った。
「そうだろうね。でも俺さ、いますぐにお金が必要なの。ウチ生活楽じゃないし、もうすぐ渡米するし」
「うそ」思わずつぶやくと、
「ん? どっちが?」意地悪そうに顔を覗き込まれた。目を合わせられずに俯いてしまう。
ゲンがアメリカに行くことも知らなかったけれど、ゲンの家の生活が楽じゃないっていうのはもっと分からなかった。だって子役芸能界って親が札束で殴り合う場所だよ? そんな場所で輝くゲンが、お金の心配なんかしてるっていうの?
「あの。……ど、どっちも」自分がものすごく未熟なことを言っているのは分かるけれど、ゲンに嘘はつけないと思った。ゲンは、
「そうだろうね、君は大人に守られて大きくなったんだろうからね」
と笑った。
すごく、すごく悪意のある言い方に、信じられないような気持ちになる。それと同時に、ゲンが私の思っている以上に怒っていることも分かった。私は、身勝手にゲンの職場に乗り込んで、大人のひとたちに気を使わせて、しかもゲンがお金を稼ぐ時間を奪ったんだ。私のせいで、時給と値段も分からないコーラ分を損した。それをゲンは、本当に怒っている。
それでも、自分が大人に守られているなんて思えない。ゲンのほうがよっぽど。
「そんな、守られてなんか。ゲンのほうこそ……」すがるように言いかけてゲンと目が合い、身が竦む。細められた瞳の奥には、蔑むような冷たい光があった。
「安っぽい正義感で大人の仕事の邪魔すんなよ。分かってんだろ***ちゃん。場違いだったって気がついてんだろ」
ゲンの顔が歪んだ。テレビでも見たことのない表情で、笑ってるんだって気付くまでに一呼吸必要だった。ゲンってこんな顔するの、人ってこんなふうにも笑えるの。
「アンタ自分がフツウのつまんない一般家庭で育ったと思ってるだろ。フツウを選んだんだよ、アンタの母さんは。そんなふうにぬくぬく守られてれば、ハシゴはずされて稼ぎ頭にされる身のことなんか考えつかないよな。子供でいられなくなった子供のことも、大人がフツウを守るのにどんだけの思いしてるかなんてことも、思いつきもしないんだろ」
ものすごく低い声で、早口で言われて足がすくむ。……怖い。
「大人は子供のことなんか、簡単に、めちゃくちゃに傷付けられるんだよ、いま俺が***ちゃんのこと襲って傷付けて、一生モンのトラウマ植え付けることもできるよ。それやんないのは俺の優しさ。店で君が恥かかないように守ってあげたのも、いま10400円損しても見送ってやってんのも、さっき俺から話題振ってあげたのもそう。ここまで言ってもまだ困ってれば誰かが助けてくれるって思ってんだろアンタ、今この瞬間もさ」
立ち止まった私の正面に立って、ゲンはなお言葉を浴びせる。決して声を荒らげないのに、ものすごく怒っていて、しかも楽しそうだ。どうしたらいいか分からない。私の目からは、勝手にぼろぼろと涙が溢れて止まらなくなった。
それを見ながら、ゲンは片頬だけをきぃっと高く吊り上げて笑った。
「こんな程度の言葉で、傷付きましたって顔してんじゃねえよ」
最後の一言は、吐き捨てるようだった。
そのままゲンは去っていった。
◇◇◇◇
数日後、ゲンは急に学校に来るようになった。それからすぐ、2ヶ月後にはアメリカにマジック武者修行へ出ること、日本での芸能活動を1年間休むことも公表された。
――すげーな、アメリカだってよ
――浅霧一人で行くんだってさ
――アメリカで一人暮らしとか、かっけえなー
――俺も一人暮らししてえ~ 親うぜー
口さがない同級生の噂は雰囲気の手のひらを180度変え、羨望と憧れに満ちた。私は何も言えず、へらへらと笑顔を振りまくゲンに近付くこともできずにいた。
ゲンが学校を去る日には、クラスを上げた送別会があった。朝早く登校した美術部の子が教壇を安っぽく飾り付け、黒板にはステージの緞帳を模したカーテン模様と、でかでかと「おめでとう」とか「いってらっしゃい」とかの飾り文字を描いていた。教室に入ったゲンは「わあ~! なにこれ、ジーマーで?」と目を丸くして驚いていた。
下世話な噂で笑っていた男子が「がんばれよ!」と肩をたたき、冷めた目でファンを見ていた女子が涙を流しながら花束を渡す。先生まで湿った声で「浅霧、お前、すごいなあ」とか言っていた。
ゲンは、ちょっと涙腺がゆるんだような笑顔で皆の暑苦しい想いを受け止めていた。どれもこれも、皆が期待する「同級生あさぎりゲンの反応」そのものだ。私はあの日、ゲンが見せた片頬だけの笑いが忘れられなくて、ゲンの笑顔がいつ変貌するかと思うと、怖くて何も言えなかった。
送別会の最後にゲンがスピーチをした。「俺、こんなに皆に応援されちゃってジーマーで光栄」とか「アメリカ行っても絶対みんなのこと忘れない」とか言っている。
「最後に――」
と言って両手を広げると、教室中に白い花が散った。ゲンの得意のマジックだ。この花、なんだっけ、雑草に混じってるのを見たことがある。……そうだ、イヌホオズキだ。
「俺、皆のこと大好きだよ~~~!」
白い花びらの舞う中で、ゲンは気取ったお辞儀をして、女子を中心に歓声が上がった。
私は結局話もできずに、とぼとぼと家に帰った。母が「浅霧くん、アメリカ行きすごいねえ」とのんきに言うのですごくカチンと来たけれど、ここで幼稚な反抗をしたら余計に自分が惨めになりそうで。何も言わずに自室に籠もる。
どうしてイヌホオズキなんか散らしたんだろう、なんて思いながら着替えていたら、バッグからコロンと何かが転がり落ちた。小さなブーケ、紫色の可憐な花だ。……これ、なんだろう?母のところへ行って「これ、何の花か分かる?」と聞いたら
「ヒヤシンスでしょ?」と教えられた。
紫のヒヤシンス。絶対意味があるはずだと思って、花言葉を検索する。……「後悔」「悲しみ」「ごめんなさい」
最後まで気取ったことをするなあと思ってようやく寂しくなり、恐怖と違う涙を流せた。結局ゲンは、自分の背負っているものについては教えてくれなかった。私なんかに話しても何の力にもなれなかっただろうけれど。
◇◇◇◇
……ゲンはその後1年ちょっとアメリカに滞在し、日本に戻ってきたときにはすっかりショービジネスの世界の人になっていた。高校の同級生はもちろん、同じ事務所のよしみなんかでも近付けない、文字通りのスターだ。レギュラー番組まで持ち、霊長類最強の高校生なんかと共演している。
高校を卒業して、すぐに同窓会があった。もちろんゲンは来なかったが、同級生たちはゲンとかつて同じ学び舎にいたことを誇っている様子で、思い出話に花を咲かせていた。
でも、私だけは知っている。あの時ゲンはすごく怒っていたのだ。教室を嘘つきの花でいっぱいにしながら「みんなが大好き」「絶対忘れない」と堂々と言ったゲンはあの瞬間、自分が得られなかった幼稚な高校時代に、彼なりのお別れをしたのだと思う。私たちのことなんか、もう思い出すこともないはずだ。
ゲンの人気番組「メンバト!」には、今日もバーカウンターで見た笑顔が映る。人懐っこそうだったり、いたずらっぽかったり、悪そうだったり。特に人気なのは、挑戦者を追い詰めるときのサディスティックな笑顔だ。あのとき私に見せたのと同じ嗜虐性があって、でも、あの頃よりもずっと華やかになっていた。「アメリカ直輸入のドSスマイル」なんて呼ばれているらしい。
ネットで「あさぎりゲン」と検索すると、年齢がどうとか、彼女はいるのかとかいうタイトルの記事がヒットした。開いてみたら渡米の前と後の写真を並べて「こんなに可愛かったのに」とか書かれていた。あどけない子役からキレのある青年エンターテイナーへ。アメリカではこんな賞を獲ったそうですよ。彼女がいるかは明かされていませんが、19歳なのでいてもおかしくないですね、こんなにカッコよくなったし、アメリカでも人気だったようですから。そんなくだらない記事は「それでも今も可愛いですね! これからもあさぎりゲンくんを応援したいと思います♪」なんてフレーズで締められていて、読んだことを心底後悔した。
切れ長の目を引き立てるメイクが、ファッション誌で解説されているのも見た。心理学の本も出したらしい。まだドラマに出るとか歌うとかはしてないけど、時間の問題って気もする。
どんどん人気が上がっているのが分かる。ゲンはいったいいくつの顔を持っているのだろう。みんなの期待する「あさぎりゲン」を全部取り込むつもりなんだろうか。……ゲンの心からの笑顔って、どんななんだろう。
どんな大人になれば、ゲンの本当の笑顔を見られるのだろう。
まだ分からないまま、私はぬくぬくと守られた大学生を続けている。