(番外編)俺が口説いた一人目の娘 ゲンには「近付いてほしくない時」がある。マジックの仕込みの時だったり、深刻になりそうな諍いが表面化する前に仲裁する前後であったり、この厳しい石世界に取り残されそうな誰かをケアしている最中だったり。……あと、ゲン自身がちょっと疲れてしまった時だったり。そんな時にゲンはふっと見えなくなって、いつの間にか戻っている。
そういう事に真っ先に気付くのは大抵羽京さんで、さりげなく私にゲンのケアを進言してくれる。
「ゲンが、寂しそうにしてたよ」
ゲンは、いつでも機嫌良く笑っているのが仕事、みたいなひとだ。きっと芸能界っていうのは、すごく厳しいところだったんだろう。そんな世界で生きて、勝ち上がっていた人が、誰かが見ている場所で寂しそうになんて、するはずがない。
私の訝しむ目に羽京さんは苦笑いして帽子で顔を隠す。このひと案外下世話っていうか、こういうことに首を突っ込みたがるよね。科学学校の初恋泥棒の、ちょっと中年じみた世話焼き気質を知っている人は、そう多くない。
「じゃあ、私が寂しそうにしてたって伝えてください」
ふん、っとちょっと雑にお願いをする。前みたいに慌てて駆けつけて、カレシの浮気未遂に居合わせかけるような真似はしませんからね、と言外に伝えたら、羽京さんは嬉しそうに笑って踵を返した。五知将の一人をメッセンジャーみたいに遣うのは自分でもどうかと思うのだけど、羽京さんはこういう雑な依頼を案外喜んでいるフシがある。と、思う。千空や瀧水くんの無茶に巻き込まれる時なんか、本当に楽しそうだ。同じ公務員でも、陽くんとはずいぶん違う。
……仕事が終わったら、ゲンのところに行こう。そう思うと気恥ずかしいことに顔が火照ってきた。私は千空みたいに感情を後回しにはできないし、クロムみたいに大切な人のことを忘れるほど科学技術に没頭もできない。非合理的な恋愛脳って言ったっけ。知らないわよ、そんなもん。
好きな人に会いに行くための力を舐めないでほしい。目の前のタスクなんてさっさと終わらせちゃおう、と、仕事に熱が入った。
雲もなく、地平線すれすれまで届く星と、半分に割れたお皿みたいな月が夜道を照らしてくれた。ゲンのねぐらは、居住区の外れにある。私の作業場は居住区ど真ん中なのでだいぶ離れているが、ゲンはそこが気に入ってるらしい。きっと一人の時くらい、誰にも囲まれずに過ごしたいんだと思う。
「ゲン、入ってもいいかな」
粗末な戸を叩くと「オッケ~」という間延びした声が聞こえる。そっと戸を開けると、ゲンは仕込みでずっしりとした羽織を壁に掛けているところだった。室内は松脂のランプでうすぼんやりと照らされており、華奢な長身の影がちらちらと壁に揺れていた。
「アカリちゃん、おっつ~」
振り返る顔が、少し赤い。私も大概似たようなものだろう。
「電気、点けないの?」と聞くと
「いやぁ~実はね、電球逝っちゃったみたいで一昨日から点かないのよ~」と、へらっ、と返された。
ええ、言ってよ。直すのに。と言い掛けて、止める。電球の交換くらいならゲンが試していないはずもなく、それでダメだったってことだ。それならクロムかカセキおじいちゃん、私か……あるいは千空を呼べばいいのだけれど、しなかった。ゲンは、こういう小さな不便を何も言わずに引き受けていることが多い。この人は、そういうひとだ。
「……明日、直そ。道具持ってくるから」
「りょ、ありがと」
少し気まずそうに片腕をひょいっと上げて後頭部を掻くゲンに、男のひとの腕だ、と思う。細いけれど、腕も手のひらも筋張っている。普段から人を警戒させない優しげな動作を心がけているのは分かるけれど、モコモコに仕込まれた羽織がダメ押しのように威圧感を隠しているのだな、とあらためて思った。
ぼうっと見とれていると、小首をかしげて「ん~?」と笑われた。粗末な敷物に座ったゲンが、左手で隣をポンポンと叩く。座ると、あぐらをかいた膝に少しだけ触れた。
「忙しいとこ、ありがとね。お話したいな~って俺も思ってたんだけど」
「私こそ、急にごめんね」
「スマホがあればLINEできるんだけどねえ~」
「不便になったよねえ」
「まあほら、そこは五知将に依頼ってことで……OK羽京ちゃん、カノジョ呼んで~って……んっふ……」
「そんな……スマート羽京さん……ふふっ……」
「OK、アクションヲ実行シマス」
「ちょっ、機能連携やめて……声、似すぎ……ふっ……」
お腹を抱えて笑う。才能の無駄遣いだ。ゲンと羽京さんは、どこか才能の無駄遣いを楽しんでいるところがある。だからゲンは、羽京さんによく懐いてるんだと思う。
ちょっと涙がにじむくらい笑ってしまい、ふと横をうかがうとゲンは笑顔のままでこちらを見ていた。頭ひとつぶん高い位置にある目がやんわりと細められている。スイカちゃんや村の子どもたちを見る目に近いけど、ちょっと違う。
もう少し、その。
「アカリちゃん、かーわい」いとおしい、をそのまま音にしたような甘ったるい声に。
「や」やめてよ、と言い掛けて止める。
「や?」
「……じゃ、ない」
「素直で、いー子」
上目遣いに覗き込む目が、伺いをたてるように揺れた。ゲンはある日を境に、無断で触れてこなくなった。だから返事の代わりに肩に頭を乗せる。ようやく肩に手が回った。ゲンの頬が頭に触れて、垂れた前髪が目の間に落ちる。白くて、きれいだ。
「つかまえた。俺が口説いた一人目の娘」
「なにそれ」
「いや俺売れっ子だったし、自分から口説く必要とかなかったし?」
「嘘だあ」
「うん、嘘~。……いー匂い。お風呂、入ったの?」
「……うん」
「俺も久しぶりにね~。汗臭くない?」
「うん、大丈夫だよ」
「良かった~。配給の石鹸、そろそろ切れる頃じゃない? 女子には多めに~って千空ちゃんに言ってるんだけど、行き届いてないよねえ」
「風邪の子が増えてるからね、そっち優先しないと」
「……ねえアカリちゃん、ちゃんと自分の配給分使ってる? 他の人に譲っちゃダメだよ? 公衆衛生を保つのが目的なんだからね」
「してないよ、だからドラゴの流通レートとは別の配給制にしてるんでしょ。そのくらい分かってる。……それに、ゲンが決めた配分でしょ」
それが全体最適の判断に基づいてるってことくらい、分かってる。
「あらあ、俺そんなに信頼されちゃってるの~」
「してるよ、ばか」
話しながら、肩に乗せられた左手の指先が私の毛先を遊ばせている。右手は私の目の前でくるくると回って、そのたびにどこからともなく小さな花が飛んだ。何がどうなっているのかさっぱり分からないけれど、ぽんぽんと舞う可憐な花びらは可愛らしい。
「どうなってるのよ、これ」とつい手を伸ばすと、ひらりと逃げて人差し指と中指が私の手のひらを挟んだ。挟む力が思いの外強くて、少し怯む。と、親指がくるっと回り込んで5本の指が小動物みたいに私の指の間を通り、甲を走って、気がついたら手のひらどうしが合わさりあっていた。
ゲンの手は、大きい。手のひらは厚くて、長い指はそれぞれが別の意思を持つ生き物みたいに縦横無尽に動く。トレーニングをしているゲンを見た銀狼が「うわっキモ!」なんてこぼしたこともあった。そんなゲンの指だけで、私の手の甲はすっぽり包まれている。ひたりと吸い付くような手のひらが、あったかい。
「君の手は、小さいねえ」
「ゲンの手が大きいんだよ」
「俺のはホラ、商売道具だし」
「それならもう少し手入れしなよ、あのハンドクリーム自分で使えばいいじゃない」
「いやぁ? やっぱりキレイの道具は女の子に使ってもらいたいし?」
「私は、いいよ。すぐ荒れちゃうし」
「こーんな小ーさい手から、いろんなものが生まれるんだもん。ジーマーでゴイスーだよねえ」
とんとん、と左手で後頭部を叩かれる。顔を上げると唇が重なった。そうっと触れるみたいなキスを何度かしているうちに、肩に乗せられた手にもつなぎあった手にも力が籠もってくる。私だっていい大人だし、身体に熱だって持っているわけで。こんな時間に恋人の家に行くことの意味を、誤魔化す気もないわけで。ぼうっとする頭が、本能的な感触を追い始めている。
舌が絡んで小さく息が漏れて、ゲンの白い前髪が頬に落ちて、くるんと重力のベクトルが変わる。
肩を抱かれたまま、背が床に着いていた。
「触ってもいい?」
「……うん」
こんな時にまできちんと合意の確認を取りに来るゲンのことを、本当に偉いなと思う。きっと私が拒めば、この人はちゃんと止める。それが分かってるから安心して一緒にいられる。
薄暗い部屋で開いた瞳孔が、ほのかな灯りを捉えて揺れている。ゲンが首元にぐいっと指を入れてインナーの紐を解くと、くつろがれた間から喉仏の隆起が覗いた。ああ、おとこのひとだ。くらくらしてきた。
「アカリちゃん、欲情してる。かわいい」
「……ゲンも」
「うん、俺もだ」
にっ、と笑う口元は千空と悪巧みしている時に少しだけ似ているのだけれど、目の輝きはマジックの道具たちを駆る時の集中している時に近い。そして絶対に他の人には見せない、捕食者の熱が私を包む。
目の前で、ゆっくり唇が動いた。
「つかまえた」
にぃっと口角を上げて、体重がかかる。
ああ、つかまった。