#1 最短なら、六分だ。 クルマのハンドルを握ると、なめし革の感触が柔らかく指先を押し返した。「動きゃいいんだよ」と言わんばかりの、どことなく旧共産圏の雰囲気すらある機能最優先の質実剛健なる車体、そのごつい樹脂製のハンドルにささやかなワガママを通して、丁寧に鞣した皮革を張ってもらったものだ。
文明復興に尽力し、世界の国境線がひかれ直しつつある中で外交官として働き倒している身へのねぎらいと思えば、ささやか極まりないご褒美だろう。親指と人差し指ですりすりとなぜてみれば、人差し指はなめらかな革の、親指は革の編み紐と太めに入れた蝋引き糸のステッチが作る凹凸を捉えた。
スターターを蹴飛ばす。バズン、バズン、とあまり品のない音を何度か立てた後、石化前にアメリカで見たでかい農耕機のような唸り声とともにエンジンがかかった。石化前に乗っていたコンパクトカーと比べるとすこぶる貧相で「これでも最新機なんだよねえ」と苦笑してしまう。数年前に南米でやった命がけの鬼ごっこの時と、原理的には何も変わっていない。
半導体さえ手に入れば一気に小型軽量化が進むデジタル機器と違って、クルマやらフネやらのでかい乗り物は材料の管理レベルを上げないといけないため量産が難しいのだという。シリコンを手に入れた千空とSAIが「ムーアの法則のやり直しだな」と笑っていたからそのナントカ法則で俺のクルマがもうちょっとイケてる感じになんのと聞いたら、そういうものでもないらしい。オーケーグーグルは速攻復活したっていうのに交通はすこぶる不便だ。たとえば新幹線が通るのなんて、何十年後になるか分からない。
つまり、この世界はまだまだ不便で、世界が本当の意味で石化前のような活気と享楽性を取り戻すのは、もう少し先になりそうだ。
あさぎりゲンは、そう思っている。
ペルセウス港から旧司帝国、つまり現タイムマシンラボまでの道のりは、他の道よりは舗装されているものの音も振動もなかなか強く、乗り心地は決して良くない。恋人を迎える馬車としてふさわしいかは審議が入るところだ。それでも徒歩や自転車よりはさすがに楽だし、なにせ久々の逢瀬である。とびきりの笑顔で許してもらおう、と、アラサーとしてはみっともない開き直りに入ることにした。
ラボの遠景が見えてきたところで意識的に深呼吸をする。がっつくガキのような姿を見せるのはさすがに恥ずかしい。
ラボが近付くと、宝塚の大階段のようなやたら派手な入り口の下に、数ヶ月ぶりに対面する愛しい恋人が立っていた。小高い場所特有の風にふかれて、ふわふわに逆立った髪がなびいている。
ばすん、とクルマを横付けした。
「おひさ、千空ちゃん」
「……おう」
言葉だけはぶっきらぼうな石神千空。あさぎりゲンの恋人だ。
十二時過ぎの魔法が解けて、科学者から一人の男に戻った愛しい男。ただし王子は馬車の御者のほう。数分前に考えていた「とびきりの笑顔」は自覚できるほどに崩れてやに下がってしまい、そんなゲンの顔と心を正確に読み取ったに違いない千空の顔も、少し戸惑いながら確かに甘くほどけている。
千空の表情が少しだけ戸惑っているのは、少なからず人の目があるからだ。世界にとって千空は間違いなく救世の英雄である。特に、このタイムマシンラボに勤める科学者達にとっては仲間であると同時にカリスマでもある。世界中の目が、千空を見ている。基本的にいつでも格好をつけていたい男だから、浮ついた面を見せるのに少しばかりの抵抗はあるのだろう。……だから。
だから、ドアを開けて助手席に乗り込んできた千空の腕を、ゲンはぐいっと強く引いた。座りかけの不安定な姿勢で引かれた身体はたやすく重心を傾け、千空の上半身がぐらりと揺れる。
そのまま片腕で頭を引き寄せ、唇を重ねた。
「ッん!」
千空の腕が、形ばかりの抵抗をする。多少強張った身体、でも手のひらはしっかりとゲンの服を握っていた。千空の感情は、手に出る。出会った時からずっと変わらない癖だ。
ああ、千空ちゃんだ。俺の千空ちゃん。
愛おしくて、もっと深く口付けたくなる。顔の角度を変えたところで、さすがにちょっと本気の抵抗を受けた。ついでに「ン゛ー!」なんて可愛らしいお怒りの声が漏れ、いじめたい気持ちを「さすがにメンゴ」の気持ちが上回った。
腕の力を抜くと、ぷあっという小さな息の音と共に唇が離れた。離れる瞬間の千空の瞳はたしかに甘く揺れていて、ゲンは「えっろ」と言いかけたのをギリ堪える。こらえきれず漏れていたかもしれない。
「……えへ、メンゴ~、行こっかあ」
「クソ、テメ……」
にいっと笑い、千空の緋色の瞳が鈍い怒りに染まるのを味わったあとに、ラボに手を振った。どうせ窓あたりから誰か見てんだろ。
バスンバスン、と品のないエンジン音とともに、ゲンと千空を乗せたクルマは灰被りのお城を後にした。
「……ふざけんなよ、テメェ……」
「いやぁ~メンゴメンゴ、ついね~。千空ちゃんのお顔見たら、我慢できなくなっちゃって♪」
「メンタリストがキャラブレすんじゃねえよ、クソッ」
「演出よ演出、千空ちゃんだって満更でもないでっしょ~?」
ねえ? と覗き込んで見たら、千空はむうっと口をとがらせて黙ってみせた。そのまま始まった無言の時間が、嬉しい。
きれいに舗装された道はそう多くない。文明復興の立役者たるドクターストーンの自宅までの道すらガタガタの未舗装路だ。舌をかんではいけないから無言になるのも当然ではある。けれどもゲンはそれ以上に、久しぶりに対面する恋人と無言で過ごす時間の贅沢さを噛み締めたいと思った。そして、千空もそう思っているに違いなかった。
外交や政治の話がどうしてもタイムマシン研究と直結する現在、ゲンと千空は専用の通信回線を持っている。ほぼホットライン化しており、この通信インフラが脆弱な世界においては特権級の待遇だ。
それを使って仕事の通話も、仕事以外の会話もそこそこ頻繁にしていた。ダラダラ話しながらなだれ込むようにテレフォンセックスに至ることも、全く珍しくない。だから互いの状況はよく分かっていた。……そろそろ溜まってんだろ、なんてこともだ。
千空が、恋人同士が離れていても、連絡が途絶えがちでも本当に気にしないタイプの男であることは、付き合い始めてすぐに分かった。愛すること、愛されることにためらいも恐怖もなく、愛情に対する自信が揺らがない。たくさんの愛情に囲まれて育ってきた子なのだと感じてそれは嬉しかったし、ゲンも自分の愛情を疑うようなヤワなメンタルは持っていない。
だからこそゲンは「できるだけマメに話そうよ」と提案したのだった。
当初、千空はゲンの提案にかなり懐疑的になっていた。いわく、「いや、そんな別に拘ることなくねえか?」というわけだ。ある意味仕方ない、モデルケースが3700年の祈りを繋いだ百夜さんなのだから。
千空のそういう底抜けの無防備さを本当に愛おしく思っている。とはいえゲンにもエゴはある。それで「やっぱりな」と思いながら「それは百夜パパがゴイスー努力して千空ちゃんとの関係を続けてただけだから。千空ちゃんはそれに甘えてただけでしょ。もうイイ大人なんだから、千空ちゃんも関係を続ける努力をしなさいよ、ジーマーで」と返し、珍しく正面から正論をぶつけられた千空が、しぶしぶ承諾した。
それで意識して連絡を取るようにして以降、千空も納得したらしい。「なるほどこういうことか」みたいなことをぽろっと言って、それからは事あるごとに連絡を寄越してくる。そして、久々に会えた今、言葉のいらない距離を楽しんでいる。
ゲンはやに下がった笑顔の奥で、ぐらぐらとした想いが煮えるのを感じていた。これは、いい感じに俺色になったって言ってイイよな?
会話の口火を切るのはいつでもゲンだから、千空はおとなしくゲンが話し始めるのを待っている。そういう据え膳だ。世界を切り開いたドクターストーンが、ただの同盟軍だった男に全てを預けて、会話の主導権を放棄している。二人きりのときにしか見せない姿だ。
少しだけ手が汗ばんでいる。ハンドルをなぜると、皮革の感触が少しだけ変わっていた。なめした表面のシボになった部分やステッチのムラなんかも指先が捉えており、触覚が敏感になっているのが分かった。革紐のの凹凸を指でたどる。無意味にハンドルをこする手が、ぴりぴりと視線を感知した。
ちらり、と気づかれないように左を見やると、千空の赤い瞳が、無言のままゲンの手を見ていた。吸い寄せられるように注ぐ視線の、意味するところは一つだ。
……欲情してんのか。
千空の身体を傷つけないよう、爪はきれいに整えてきた。それに気付かないはずもない千空が、熱を逃すような抑えめの息を吐くのが聴こえる。全身の血管が、ぶわりと拡がるような気がした。
千空が。この、世界を救った英雄が。
二人きりの車の中で、欲情している。
触れられるのを、抱かれるのを、待っている。
「千、空ちゃん」
思わず手を伸ばしかけて寸手で堪え、どうにか声を絞り出す。声は情けないくらい掠れていた。千空が、少しぎくりとしたようにこちらに顔を向けるのが分かった。
盛るんじゃねえよガキか。運転に集中しろ。
そのくらいの悪態は来るだろうなと身構えていたら、千空がぽつりと言った。
「……次の道、右だ」
ゲンの声と負けず劣らずの、掠れ具合で。
「えっ、何で? 千空ちゃんちは……」
「わーってるわ、別に引っ越してねえ。……こっからざっくり三十分、我が家様は真っ直ぐ行った道の先、そのまんまだよ」
「う、うん? じゃあ、何で? 俺、一秒でも早く」
「わーーーってるつってんだろ! がっつくなイイ歳こいて! だから次の交差点で右、そのまま山の方に向かって六分だ!」
「え……えぇ?」
どういう事だと思い、六分先なら目視もできるかと右手を見る。右前方の山沿いに、粗末なコテージが立ち並ぶ、キャンプ地のようなものが見えた。復興途中に急拵えした住宅群に少し似ており、軽く壁で囲まれているが居住区のような利便性は明らかに考慮されておらず、どちらかといえば一時的な隔離を目的とした佇まい。薄い黄色とピンク色の外壁は少し浮かれた様子で安っぽく装飾されており、享楽的な悦びを想起させて「こっちへおいで」と誘い込んでいた。
見覚えは、無いこともない。石化前は当たり前のように見かけていた施設だった。下積み時代、地方巡業してた頃はコイツが見えると「ああ、県境に来たな」なんて思っていたし、アメリカでは荒野のど真ん中に突然コイツが現れて、埃っぽい駐車場にはもうその中でヤりゃいいんじゃねえのと思うようなでかいキャンピングカーが停まってたりもした。
愛し合う二人が手っ取り早く、壁と屋根とお布団を借りられる分かりやすい施設。つまり。
「もしかして……モーテル!?」
うわあ懐かしい、と言いかけて堪える。余計な誤解をさせたくない。千空はそんなゲンをちらりと見やって、どこか拗ねたように早口で喋りだした。
「おありがてえことに日本はベビーブームでな。人間は増やしてえがあっちこっちでサカられちゃ教育にも衛生的にも悪ィ。だが、いつまでも非常時だ我慢しろっつーのも酷だろ。ってのは、龍水先生のお言葉だが。……つまりはゾーニングだ、ヤりたきゃヤれる場所で思う存分にヤりやがれってこった。性欲に罪は無え」
立板に水をそのままにペラペラと、目を逸らしたまま。
照れている。そして、待ちかねている。千空は「あと三十分我慢しろ」じゃなくて「最短なら六分」と言った。ゲンはそれに思い至ってずくずくと腹に熱が溜まった。あと三十分を我慢できないのは、千空ちゃんのほうじゃないか。なんでそんなに可愛いのか。
「……あぁ~~~もう!」
勢いよくハンドルを時計回りに切る。パワステもない原始的なクルマは、ゲンの踏むアクセルのスピードに合わせて、思っていたよりも機敏にカーブした。