占星術師は恋を知らない/錬金術師は恋を知る 占星術師は恋を知らない 心は片眼鏡で見るものだ。
人の心はとても強いから、両目で見ているといつか飲み込まれてしまう。他人の心の中というのは、本来は決して踏み込めない別の世界だ。そこに踏み込む時は命綱として、必ず片方の眼は逃しておかなくちゃならない。分かったね、幻。と。
師匠には、そう教えられた。
両眼鏡を買えない苦し紛れだったのだと思う。
俺の師匠は貧乏だった。
占星術師としての腕は飛び抜けて良かったのだけれど、どうにも職務に対して誠実すぎた。
「占星術師の仕事は"星の巡りを読む"ことで、それ以上でもそれ以下でもない。読んだ結果の解釈は、各人の心に任せなくちゃならない。私たちは、神託者ではないのだからね」
それはたしかに正論だったが、一方で世間は神託者を求めてもいた。需要があれば供給も湧いて出るもので、世間ではいかにも魔法使いや神の如く振る舞って星の巡りすらコントロールできるかのように騙り、それらしいご神託で未来を言い当てたり依頼人を謀ったりする自称占星術師が幅を利かせている。中には術師の資格すら持たないモグリもいるけれど、そういう中にも売れっ子って奴はいる。なぜなら「頼れそうだから」。
まあ気持ちはわかる。人は堕落を正当化させるためには、うさんくさい話にだって飛びつくものだ。
師匠はそうした「頼りがいのありそうな」同業者にずいぶんと商売負けをしており、おかげで俺の学習環境はすこぶる貧相だった。修学の証たる星座版も添えられたレンズも中古品で、モノは良いけどデザインは十年前の時点で既に古臭かった。
ガウンだけがピカピカと真新しくてそれは嬉しかったけれど、通した袖の感触があまりにも滑らかで気色悪くて、肌が少しだけ泡立ったのを覚えている。
師匠の言葉は貧しさの苦し紛れのようにも聞こえたけれど、「お前はとくに心が見えすぎるきらいがあるからね」と微笑まれると悪い気もせず、結局俺はこの時代遅れなデザインの片眼鏡を愛用し続けている。
ありがたいことに時代遅れも個性になるもので、こいつは今やまあまあ俺のアイコン的ツールだったりする。とはいえ個性を演出するにも金がいるものだ。師匠には悪いが俺は金のために、割としょうもない仕事も引き受けている。王宮の占星術府に擦り寄るよりは汚くもないけれど、そういう連中からは思いっきり馬鹿にされる下賤の術式。まともな勉強をしてきた術師はまず受けない……つまり、まともに勉強もしていないモグリの野良術師しかいない仕事。
生まれた日から今までの星の巡りを読み解いて、特定の誰かと命運を近づけるよう導いてあげる……ようは、恋占いってやつだ。
「……新しい春の衣を今夜の満月の光にあてて、月の女神の祝福をいただいて。その後しばらくすると、強い風が吹く日が来るから、嵐が晴れたらその衣を着て彼に会ってごらん。月の女神のご加護がきっと、君の恋を助けてくれるよ♪」
東に白い星が出れば、太陽と月が十回巡る前に嵐が来て、それが過ぎれば春になる。風が雲を吹き飛ばした心地よい春の始まりの日に、新しい春衣を着てデートしなよっていう、もうそれだけのこと。長かった冬の後には恋の季節が来る、その機を逃すなよ、なんて、ある種の浮かれた思い付きをステキなおまじないとして伝えてあげれば、目の前の女の子は頬を赤らめてきゃあきゃあとはしゃいだ。可愛いもんだな、と思う。
俺も男だから分かるけど、女の子が身軽で淡い色の新しい衣なんかを着始めるのは、見ていて楽しいものだ。しかも、どうやら自分に想いを寄せているっぽい子が、自分のために頑張ってお洒落をしてきてくれる。当たり前に嬉しいだろう。そんな相手が特別な存在に見えてしまってもおかしくない。恋ってのは、そうやって始まる幸せな勘違いだ。
恋占いはさして難しくない。大抵の答えは彼女たちの中にもうあるからだ。俺はそれを引き出すのが仕事で、大切なのは安心感。警戒心を与えずに女の子たちの望みを言葉にしてあげることが重要なので、だいたいの場合は占星術すら使わない。これは、無資格の野良術師がはびこる原因でもあるのだけれど。
だいたい、世界を星の巡りだけで捉えようとする方に無理があるんだと思う。人の心や行動は、星の巡りなんかじゃ決められないのだ。俺たちには星の動きを変えられないのと同じように。
星は万人の上で等しく回るけれど、恋は違う。恋に恵まれた人とそうでない人がいて、恋に焦がれる人と必要としない人がいる。大きな星の巡りの中でも俺たちの財産には偏りが出るように、俺の師匠が金に興味を持たなかったのと同様に。
俺は、自分の恋には興味がない。
金がなくても仕事の話はできるのと同じで、恋を知らなくても心の話はできる。そういう距離感がちょうど良くて、俺は恋占いの仕事を割と気に入っている。人畜無害な振る舞いは得意で、おかげさまで評判も上々だ。
知人には「趣味が悪ィな」なんて言われたこともあるが心外である。俺の用意した安全地帯で何にも縛られずに恋心を語る女の子たちの姿ってのは、なかなか良いものじゃないか。
まいどあり、また来てねぇ? とにっこり手を振って上客の女の子を見送り、そのまま看板を下ろして「準備中♪ また後で来てね♡」の札を掛けた。気まぐれに店じまいできるのも、この商売の良いところだ。
そのまま部屋に戻り、俺はつとめて笑顔を保ったまま、部屋の奥に声をかける。
「……ちょっと趣味、悪くない? のぞき見とかさあ」
一瞬狼狽したような気配のあと、かしゃん、と硬い音が聞こえる。
ほどなくして、道具なのか装飾なのかも分からないものをがちゃがちゃ言わせながら、重っ苦しいガウンを引きずって、気まずさと開き直りの間といった風情で、くだんの知人が出てきた。華やかな目鼻立ちを持つ若き天才錬金術師だ。男は燃えるような緋色の瞳をそらしたまま、どこか拗ねたように、ぶっきらぼうに言った。
「のぞき見の趣味はねえよ」
髪も瞳もここいらでは見ない色だが、移民でもないらしい。隆々と天に向かう髪の一部を可愛らしく編み込んだ、ひときわ目立つ風貌を、俺同様の時代遅れな衣装に包んでいる。
「結構聞いてたじゃん、俺が気付いてないとでも思ったの?」
男はもう一度むうっと口をとがらせてこちらを睨み、言葉に出さずに「うるせえ」と拗ねた。歳は少ししか違わないはずなのだけれど、こういう時は妙に幼く見える。甘え上手なんだろう。
のぞくつもりで聞き耳を立てていたわけではないってことくらいは分かる。訪ねて来たらたまたま相談が佳境で、声をかけそびれてしまったんだろう。とかくタイミングが悪いのだ、この男は。
「俺が行ったのに」また借りたい本もあったし。と言外に含めば、
「いや、いい」俺も見たいものがあった。と、これまた言外の返答。
こういう、最低限の言葉で考えが通じるのが心地よくて、なんとなくつるむことが多い。千空、という涼やかな名前も気に入っている。互いに友人と呼び合うほど仲良しでもないが、顔見知りよりは親しいだろう。そんな仲の"知人の男"だ。
そのまま男は言葉少なに、俺の仕事道具をいじくりまわし始めた。占星術師のタネも仕掛けもある道具類を回したりひっくり返したりしながら「ほーん」だとか「あー、なるほど」だとかブツブツ言っている。以前「錬金術師にはプロの仕事の裏を暴く悪趣味な奴しかいないのか」と聞いて、手も止めずに「知らねえよ」と言われてから諦めている。
こういうとき、この男はさっきみたいなお嬢さんたちと同じ目をしているのだ。すなわち熱烈なる興味と好奇心。目の前のあらゆるモノゴトの仕組みを知りたいと思う、世界の秘密への、飽くなき探究心だ。
「君のそれは、恋と呼んで良いモノだと思うんだけどね」
世界の秘密をあまねく解き明かしたい想いを、この子は「唆る」と表現する。それは恋と同種のものだと思うのだけれど。
「あ゛? 何でだよ。科学オタク捕まえて恋だぁ?」
片眉を跳ね上げるだけで、怪訝そのものの声を返す少年には通じない。
俺は人に恋する気持ちもよく分からないが、世界のことわりに恋する気持ちはそれ以上に分からない。この男は恋愛ごとに興味のない朴念仁を自認しているけれど、幼馴染の恋模様をずいぶんと尊いまなざしで見ていたりもする。
「いやあ、千空ちゃんが仕事に唆ってる姿と、恋愛相談しにくる女の子の姿って、割と近いと思うよお?」
と揶揄うと、男はようやくこちらに顔を向け、「テメーは違うのかよ、占星術師」と、少しだけ戸惑ったように返した。
「俺が好きなのは仕事が運ぶお金のほうだからねえ」
それ以上でも以下でもないわ、ジーマーで。だって仕事だし。
そう言うと、世界のことわりに恋する男の、理知的な瞳が不可解そうに曇った。
プロのプロたるゆえんは一定のパフォーマンスを保ち続けることにあり、そのためには確かに仕事が嫌いじゃお話にならない。とはいえ千空ちゃんのように、恋い焦がれるほど好きである必要も、別にない。
仕事に恋する君の気持ちは分かんないなあ正直。
たとえば君が、仕事ではなく特定の誰かに恋をしたら、その瞳はどんなふうに輝くのだろうか。
俺は右目のレンズ越しに男の瞳を、左目の裸眼で自分の心を見た。赤く輝く柘榴石の双眸が、まっすぐに誰かを射抜くさまを想像する。
……うん。それはきっと、美しい光景だろう。
両方の目で人を見てはいけない。強いこころを、見過ぎてはいけない。
片眼鏡のチェーンを耳にかける。
カチリ、と、命綱を張るような、硬質な音がした。
おてんば娘の恋の相談
「恋の相談なのだ」
どっかりと座って腕を組んだ女の子。その堂々たる宣言に「いや、ウソでしょ」と言うのをギリ耐えた。あっぶね。
美少女、と言っていいだろう。金髪碧眼の、気の強そうな女の子だ。ダンサーみたいにピンと伸びた背からは体幹の強さが、くるくるとよく動く大きな眼からは意志の強さがよく分かる。ネコ化の大型動物が人間の女の子になったらこんな感じだろう。
よく手入れすれば陽光の下で黄金のように輝くはずの豊かな髪がぐいっと雑にまとめられて、麦の束みたいだ。化粧もしていないきめ細やかな白い肌は、かすかに泥と埃で汚れている。お嬢さんたちが競い合うように自分を飾るこの街で、スッピンそのまま素材の味だけさらす様は違和を超えてすがすがしくもある。そんな子の切り出す恋の相談には、「どーん」みたいな効果音が似合っていた。なかなかにイケメンの風格もあり、よう分からんけど任しとけ、みたいな気持ちになってくる。
片思いの成就や両片思いのブレイクスルー、おつきあい中の相手とのマンネリ打破から別れたい時のお助けまで。老若男女すべての人のあらゆる恋のステップに寄り添うのがあさぎりゲンの恋占いだ。何でも聞いてございましょう。いや絶対恋じゃないと思うけど。
「オッケ~。まず料金体系を説明するね~。初回一刻無料、二刻目からはこの砂時計カウントの従量課金制。星読み以外の占いはオプション制で二回目降はディスカウントあり、紹介者割引とリピーター割引はこっちの表に従うんで後で見といてね♪」
「構わん、金なら持ってきた」
「バイヤーかっこいい。まあお初のお客さまは基本的に一刻無料の範囲内で見るから安心してね、明朗会計とROI最重視がモットーです♪ ……さて本題、キミは何に悩んでるのかな?」
軽薄に切り出して話しやすくしよう、と思ったもくろみは、女の子の激烈に重いつぶやきではかなく消える。
「……大切な人がいるのだ」
ああ、マジな相談みたいだ。
そう思って軽く姿勢を正し、対応モードを切り替えた。
「大切な人」
「ああ。大切な人を助けたいのだ」
「助けたい。ってことは、その人は助けが必要な状況なんだね?」
「そうなのだ。ただ、それを相談できる先がない。それでここに来た」
「相談先として、ここに来た。それは大切な人に恋しているから?」
「いや。恋をしているのは私ではなく、その人だ。……無自覚だが」
「無自覚の恋かあ~。それって、キミにとって苦しいこと?」
「いいや。そのこと自体は全く。ただ、最近とみにその人の体が悪くて、それが心配で……。すまない。ここが最適な相談場所だとは思っていない。ただ、その……」
うーん、と首をひねる女の子に合わせて、俺も考えるそぶりをした。相手のテンポに同調して鏡のように動き、直前の言葉を復唱しながら会話を進めることで、より情報を引き出しやすくなる。会話の基礎技術だ。女の子は少し迷ったあとがっくりと肩を落とし、申し訳なさそうな様子で続けた。
「……すまない。恋の相談ではないのだ。君は異国の出だろう? 何か、この国にはない薬なんかを持っているのではないかと思ったものだから……」
「それが、本題なのね。大切な人の身体が心配で、俺が何か、珍しい薬草とかを持ってたら良いなって思った、と」
「ああ、そうだ」
「そういうものも無くはないけど、何で俺なの? お抱えの御殿医だっているでしょう?」
「あいつらは信用できない! 私の話を鼻で笑ってはぐらかすのだ。確かに私は頭が良い方ではない。しかし彼らが本当のことばかり言っていると思うほどのお人よしでも……――ッ!?」
女の子は言葉を切り上げ、血相を変える。
次の瞬間には顎の下に、ひたりと冷たい金属の感触が当たっていた。
どこに仕込んでいたのかも分からない短刀の切っ先が、俺の喉紙一重の位置にある。
女の子はそこそこ広い占い台に片足をかけ、半身を乗り上げて腕を目いっぱい伸ばしている。
あと指一本が動けば、頸の血管から鮮血が吹き出すだろう。
ものすごく速い。一連の動きが、全然見えなかった。
本気の冷や汗がばしゃばしゃと出る。屈してたまるかと、俺は軽薄な男らしい悲鳴を上げた。
「やあ怖い! タンマタンマ」
「貴様、何を知っている! 返答次第ではその喉掻っ切るぞ!」
「知らない、ジーマーで何にも知らないって!! 何にもわかんないからキミの話しぶりでカマかけてみただけ! キミが誰かも知んないけど、その感じならどうせ、俺の背後にだ~れもいないのも調査済みなんでしょお!?」
「む……た、たしかに」
「お願いだから刃物しまって!? 俺、兵役免除者よ!? フツーに弱者なの忘れないでえ!?」
ぴえんぴえんと訴えると、女の子はようやく、しぶしぶといった様子で短刀を下げ、脚のホルスターに収納した。実は占い台越しに迫られたときにおっぱいの谷間とふとももを堪能できたのはちょっとだけラッキーだったのだけれど、そんなん言ってもう一度威嚇されるのは嫌なので言わずにおく。
この子が何者なのか分からないのは本当だし、立場を隠したくて言葉を選んでいたのも分かる。でも、その「言葉を選ぶ」って行為や身ぶり、身につけているモノなんかからある程度推測はできてしまうものだ。
多分、この子は宮殿の関係者だ。少し大仰な話し方も、座った時の姿勢の良さも、市井の町娘が持っているものじゃない。ドレス着て舞踏会なんかに出席しても十分に見栄えのするご令嬢だろう。着ている服こそ素朴だけれど、髪を雑に結い上げているスカーフだとか、耳飾りの留め具だとかが控えめながらピカピカと高そうなこと。
遠方の領主か中央の貴族か、王政府かも分からないけど、その近しく親しい「大切な人」っていうのは、その人の不調や死が、誰かにとって得になってしまうような立場にいるんだろう。
そういう、政争の火種になるような人を、この子は「助けたい」と思って、独断で動いているらしい。おそらくまっすぐな真心からくるものだ。……なんつーか、危なっかしいなあ。
「いや、ジーマーで俺、キミのこと心配……この程度のカマかけに乗っちゃいけない立場なんじゃないの? いや、知らんけど……」
「……すまない。いつも叱られる。その、ここまで言っておいて何だが、私の身元は明かせないのだ。それだけは飲んでもらえるか」
「いいよお、占星術師は秘密保持の義務を負うから、どのみち誰にも何も言えないし……それもコミでここに来てくれたんでしょ? 有資格者でこんな野良っぽい仕事してる奴、あんまりいないもんね」
占星術師の資格は、取得にも維持にもそこそこのお金と苦労を要する。それと引き換えの特権もあるが厳しい義務も課される。その中でも秘密保持の義務は、常識以前の大前提だ。
だからこそ術師は群れて、非公式な”うわさ話”を共有する。いやなもんだけど、それが独占事業者の政治ってやつだ。俺だってまっさら無関係ではいられない。
それだけに、術師への相談はリスクを伴う。間違っても自分の相談から「やんごとなき立場の誰かさんが死にそうになってるらしい」なんてうわさが流れないようにしなきゃいけない。それらのパワーバランスを知って、鑑みた上で異国のルーツを持つ俺にコンタクトを取ってきたのは、なかなかの慧眼だろう。
……この子、直情的だけど良い勘してる。
「キミの言う通り、私の……大切な人は、自由に医師を選べない。表向きは恵まれた環境にいるが、鳥籠の中に閉じ込められているようなものだ」
「なるほどねえ、で、その鳥籠の中でされてる治療を疑うなら、国外の珍しい薬草なんかにも興味向いちゃうよね。今はどんな治療してんの?」
「湯治と、煎じ薬だ。おそらく、キミの生まれた国の文化に近いもののはずだ。ただ、少し前から効果がはかばかしくない。これなのだが……」
そう言って彼女が出してきた小さな包みの中には、本当にごく普通の、どこででも手に入るような薬草が入っていた。
「フツー、だねえ」
「フツーなのか」
「うん、フツー。可も不可もなく……つまり、ゴイッスーにまっとうな、当たり前の処方だと思う」
言いながら、引っ掛かりを覚える。
当たり前の……どこでも手に入るような……?
「……おかしいね、俺が『どこででも手に入るフツーの処方』って思うようなものしかないの?」
「キミにはすまないが、私もそう思う。その人は、あの、とても大切に……私以外の者にも、尊ばれるような人で。その、失礼ながら……」
「庶民に処方する薬よりもイイものが出るはず、だよね?」
「すまないが、そう思う」
もちろん医療は万人に平等で、処方は共通の水準に沿って実施される。この葉は確か、滋養や呼吸器に効くもの。すごく見覚えがある。見覚えがありすぎる。この硬そうな葉ぶり、表面の棘もキツそうで、さぞや苦味も強いだろう。
薬草は自然物だ。一定以上の効用を持つものが「有効な薬」とされるが、実態として品質には個体差がある。俺たちが普段与えられるのは「一定以上の品質のもの」でしかない。高貴な身分の人に対しては、きっと「より飲みやすい」だとか「より少量でも効果が得られる」だとかのオプションが付くはず。この葉は、高山に自生する低木の新芽が上物とされる。たしか最上級品は雪解けの直後、太陽が木を照らす直前に生えた新芽のてっぺんだけを摘んだもので、同じ大きさの銀くらいの価格で取引されるとまで言われる。目の前のコレは……絶対違うよな。
つまり。
「……どこかで、品質が落とされてる」
「私は、それを疑っている」
「で、品質が落とされるくらいだから、この薬に何かヤバイものが……その人の体調を悪化させるようなものが加えられていても、おかしくない」
「……そうだ」
女の子は、ギリ、と音がしそうなほど強く口の端を噛んだ。悔しいだろう。高貴な身分の人の身体はチーム体制で看護されているはずだ。その体制をすり抜けてこんなおかしなものがその人の元に届いているってことは、体制、あるいはその背後にある組織そのものが根腐れを起こしている可能性がある。
「そっかあ、怖かったねえ。俺んとこに相談しにきてくれて、ありがとねえ」
なるべく怖がらせないように言うと、女の子の顔が急に幼い感じになった。ああ、気を張っていたんだなと思って、少し胸が痛む。下心ある男なら「よしよし」とか言って、頭なんかなでてあげたりするところかもしんないね。
「そう、だな。怖かった。このまま、あの人が弱っていくのを見るのも、それを打破するための行動で、さらに状況を悪くするのも。……怖かった」
「とりま安心してくれていーよ。状況が改善する……かは分かんないけど、まあ悪化させることは無いでしょ。薬草の中身は調べとくから、また明日の同じ時間に来てくれる? 調査依頼は外注になるから実費もらうけどそれ以外は基本料金内で収めっから」
「ああ、助かる……恩に着るよ」
「こちらこそ♪」
女の子は、これまた心配になるくらいあからさまに、安堵の表情を見せた。
恩に着るとかジーマー要らないんだけどな。仕事なんだから。
◇◇◇◇
「は〜い千空ちゃ〜ん、この薬草調べて〜♡」
千空ちゃんの研究所の奥にある、本が壁そのものみたいになってる資料庫の入口から声をかけると、中央柱にからみつくらせん階段から身を乗り出した人影が「あ゛?」と応じた。これは「やぶから棒に何だよ」を意味する「あ゛?」である。
「ぶっちゃけ毒殺用になってるか知りたいの♪」
「あ゛!?」
端的に目的を説明すれば、「どういうことだテメー、何があった」という意味の「あ゛!?」が返ってきた。
待ってろ。今行く。
そんな声が少し低く聞こえ、おそらく彼の思考を整理するために要する時間を経てから、らせん階段を踏み締める足音が響いた。分厚い本を一冊だけ持って、千空ちゃんが降りてくる。
いやあ、似合うなあ、と思った。
知識そのものを封じ込めるような部屋が、この男によく似合う。在るべきものが在るべき場所に在る、そういうタイプの美しさだ。あるいは、千空ちゃんの脳の一部が漏れ出したものを本に閉じ込め、壁沿いに積み上げたのかもしれない。
つくづく、知識が似合う男だ。
「この部屋はいいねえ」
「あ゛ぁ、人類の研鑽の歴史。知識と経験を積み重ねた部屋だ」
俺のぼんやりとした褒め言葉に、千空ちゃんは得意げ、とも少し違う、尊ぶような声色で応えた。この子は、人の歴史そのものを、全て美しいものと捉えている。俺は正直そうも思わないのだけれど、これは多分育ちの違いだろう。千空ちゃんは育ちが良いのだ、俺と違って。
「……で、何だって毒の調査だよ」
「うん、細かい事情は言えないんだけどね。これ、正規ルートを通ってるはずなのに相場より質が低いのよ。悪意があるなら毒もあるかもしんなくて」
色んなとこをすっ飛ばして知りたい事だけ伝えると、千空ちゃんは俺の手から薬草を奪った。一片を指ですり潰してためらいなく舌に乗せる。しばらく「べー」の顔で舌への刺激を確認した後、口の中でもぐもぐと噛み回し、水を含んでベッと吐き出した。
「ただの薬草じゃねえのか?」
「ご、ゴイスー豪胆ね? ジーマーで毒あったらどうするつもりだったのよ」
「一応飲んではいねえし、最悪ゲロ吐くか下痢すっか程度かなと思っただけだ。これっぽっちで死ぬような猛毒なら、テメーわざわざ俺に依頼しねーだろ?」
「いやまあね、水に溶いたのと煮出したのを銀食器に入れるくらいはしたけどね!?」
「まーヒ素はまず疑うよな。あと可能性が高そうなのはテトロドトキシンかアコニチン系アルカロイドかリコリンか……」
「いや成分名言われても分かんないから……」
「ま、とにかく即死させるような量でもないだろって思っただけだ。ちーと待て、ちゃんと調べる」
千空ちゃんは研究室に戻ってテキパキと、試験管やら小さい箱やらを引き出していく。そのまま薬草をすりつぶしたものを溶剤に溶かしたりそれに顆粒状のなにかを混ぜたり、それを熱したり、それで出てきた結晶を高そうな顕微鏡で観察したりしていった。手際が良く、眺めているだけでもなかなか楽しい。ただし、何をしているのかは全然分からない。
とはいえ男の作業姿なんか延々見てるもんでもない。有り体に言えば飽きてくる。千空ちゃんが調査に没頭しきってしまえば、俺にできることは無い。いつもはそのへんの本でも拝借して読んでるか、勝手に定位置にしているウィンドウベンチでゴロゴロ休んでるかだ。
さて今日はどうしようかと部屋を見回すと、ウィンドウベンチに恋愛小説が転がっていた。珍しいモン読んでんな、これでも読みながら、待たせてもらおう。
……
千空ちゃんが「うん、」と一区切り、納得したように唸ったのは、ここに来た時に傾きかけていた陽がすっかり沈んで宵の明星が東の空に輝き始める頃になってからだった。恋愛小説はまあまあの佳境に入っていたけれど、ここからカレシのほうがなんやかんや活躍してカノジョが惚れ直す展開なのは分かりきっていたのでどうでも良い。現実に戻ることにして本を閉じる。
「何か、分かった?」
「あ゛ー、ただの薬草だな、ごくごくフツーの、どこででも手に入るやつだ」
「うーん、やっぱそうかあ」
「にしても質が悪いな、こんなもん毒殺に使うか? カセキの店どころか露店で買えるモンよりしょぼいぞ?」
「え、そんなに?」
「あ゛ー。葉が硬ぇし古ィ。ガキに飲ませたら一発で薬嫌いになる級だ。多分、そこいらの親でも避けるぜ」
「マジか。そんなにか」
「あ゛ー、ジーマーだ」
笑顔が、少しだけ柔らかい。苦い薬を頑張って飲んだ、幼い頃の記憶でも呼び起こしているんだろう。
この男は時々、こういう細かいところで愛されてきた子供のしぐさを見せてくるのだ。これだから育ちの良い奴は、みたいな気持ちになりかけるのを、慌てて打ち消す。今日は建設的な話をしにきたんだってば。
「これねえ、ぶっちゃけ御用薬なのよ、やんごとなき御人用の。それもド正規ルートの流通品。本来なら最上グレードのはずのもの」
「まあ、テメーが毒殺を疑うくらいだから、そういうモンだろうなとは思っちゃいたが」
「しかもこれ、多分クロムちゃんの採集品だよね?」
「……そうなんだよ。アイツがそんなしょぼい騙り、するはずがねぇ」
核心に迫ってきたなと思う。千空ちゃんもピリピリとした空気をまとい始めた。
薬剤の包みは、卸や商店によって少しずつ違う。この包みは間違いなく、クロムちゃんの上客にあたる卸のものだ。御典医にまで処方してることは知らなかったけれど、クロムちゃんのことだ、実績で信頼を勝ち取っていったんだろう。
実際のグレードよりわずかに質の良いものを混ぜてしまうような子が、こんなつまんない中抜きで小銭を稼ぐわけがない。……卸か医師か煎じ役、どこかで誰かがすり替えているんだろう。
「毒殺が目的でもないすり替えかあ。いろいろ可能性はあるけど……」まだ、何も断定できないなあ。
こりゃ、調べた結果と仕入れのルートを見直した方がよさげよってことを伝えてクローズになるかなあ、と。仕事としての落とし所を考えていると、千空ちゃんがふっと顔を上げた。
「つーかゲン、テメー、誰に託されたんだよこんなもん」
「女の子だよ、素性は知らない。御用品のすり替えを危惧して単独行動取るくらいだからまあまあの身分の子じゃないかとは思うけど、確証はない」
ほぼ確信はしてるんだけど、と思いながら予防線は残す。そんな俺の曖昧な説明に、千空ちゃんは目を見張った。
「もしかして……」
「何、なんかキナ臭いうわさでもあんの?」
「いーや、心当たりがあっただけだ」
ニヤリ。片口を上げて不敵に笑う。
千空ちゃんは何かを突き止めた様子で、
「よーし、カセキんとこ行くぞー。クロムが巻き込まれかけてんなら話が速ェ」
意気揚々そのものの様子で外に飛び出していった。
◇◇◇◇
「よーう、コハク」
「千空! なぜ君がここに!?」
「えっ、ちょ、待って、知り合いだったの!?」
女の子は、約束の時間きっかりに俺の仕事場に現れた。千空ちゃんも依頼人への説明に付き合ってくれるっていうから、珍しいなと思いながら同席してもらったら、これだ。
なんだよ知り合いかよ、なら変に隠す必要もなかったじゃん!
「お知り合いってほどお知り合ってもいねえよ、顔と名前が一致するって程度だ」
「そうだな、よくて顔見知り程度か。千空は目立つからな」
「目立ちっぷりで言えばテメーも相当だろうが」
まあ二人とも目立つよねえ。俺も大概だけど。
「メンゴ〜俺だけ置いてかれてるけど、お忍びのお嬢さんと異端の錬金術師ってどういう接点なの?」
二人がどれくらい親しいかで、俺がどこまで関わるかも変わる。状況次第では俺は手を引いて、千空ちゃんの仕事ってことにしたほうがクリアになるかもしんないし。……と思ったのだけれど。
「ああ、千空は私の命の恩人なのだ」
うわあ思ってたより重かった。
「コイツ大木の下敷きになってたんだよ」
「ああ、それを千空が救ってくれた」
うわあ情報量が多い。なのに何にも分かんない。
「先月、円形闘技場で暴動があったろ?」
「あったね〜、試合の盛り上がりで観衆がヒートアップしちゃったんだっけ。最終的に治安維持隊も出ることになったやつ、羽京ちゃんがゲンナリしてたっけね」
「コハクはあの時の暴動の、鎮圧隊長だよ」
「ジーマーで!?」
「いや、その、正式な隊長ではなく、つい身体が動いてしまったのだ。結果的に鎮圧を指揮することになって……そこで大暴れしてしまい、今は父上から半分勘当されている」
女の子……コハクちゃんは、新しい髪型を褒められたお嬢さんみたいな笑顔ではにかんだ。そこ照れるとこなんだ。
円形闘技場は、平たく言えば衝動を持て余した蛮族のガス抜き場だ。鍛え上げられた奴隷拳闘士が闘う様子を鑑賞する娯楽は確かにスカッとするもので、貴族も好んで観ている。中にはパトロンが着いて、そこいらの市民なんかよりよっぽど豊かに暮らしてる拳闘士もいる……ってもその場合、奴隷って立場からは抜けられなくなるんだけど。彼らのキャリアパスもいろいろだ。
その中でも先月の試合は、人気拳闘士の獅子王司ちゃんが解放権を得られるかどうかっていうなかなかにアツい回で、入れ上げてる奴も多かった。試合に熱狂した一部の観客が乱闘を始め、騒ぎが大きくなるにつれて中央への不満だとかも盛り上がって、ちょっとまずいくらいの暴動になってしまったらしい。
確か表向きには、その司ちゃんが暴動を止めたことになっている。その功績を認められて名誉市民権に王手をかけたはずだ。
「私は狼藉を働こうとする一部の暴徒を止めただけだ。最終的に場を収めたのは、確かに司だ」
「乱闘の流れで司とタイマン張ったコイツが大木の下敷きになってな。助けるのに滑車と梃子使って、司にも手伝わせた。……んでコイツは親父から大目玉だ」
「うーん、聞いてるだけで殺伐〜」
暴動の噂は、ちょいちょい聞いてはいた。どうしても脳筋の武勇伝が多いからそれほど興味なかったんだけれど、あのイキった連中を指揮したり鎮圧したりしてたのがこのお姫様だったってことか。面白いことを知っちゃったなあ。
「ただ、その時は互いに名乗った程度だったからな。改めて礼を言うよ、千空。本当に助かった、ありがとう」
「ククク問題ねえよ」
しゃんと背を伸ばし、真っすぐ千空ちゃんに向き合って感謝の言葉を語るコハクちゃんは王子様さながらのイケメンぶりよ。一方の千空ちゃんは小指を耳に突っ込んだまま、喉の奥で笑うようにしてコハクちゃんの言葉を聞き流した。お行儀悪すぎないか?
「ってことは、これは偶然の再会ってことね。オッケー話が早いや。結果だけ言うね」
昨日預かった薬草を見せて、毒は無かったこと、ただただ質が悪いこと、でも大本の仕入れ先は俺らもよく知る信頼できる採集家で、すなわち流通工程のどこかで商品のすり替えと金銭の中抜きが起きていると思われることを説明した。コハクちゃんは安堵半分、懸念半分といった様子で聞いている。
「……ってわけで、結論としては仕入れルート見直した方が良いと思う。オススメは信用できる採集家からの直接購入かな。よかったら紹介するよ」
「ああ、助かる。中抜きポイントの心当たりも無くもないが……それは内部監査に任せるさ。私は姉者を救えればそれでいい」
「お姉さんだったのね」「言っちまって良いのか?」
びっくりして声がそろってしまう。コハクちゃんは「ああ、君らにはもう隠さなくてもいいだろう」と、あっさりと微笑んだ。ジーマーでかっこいいな、このお姫さん。
「採集家の名前を教えてくれないか?」
「クロムちゃんって子よ、あちこち飛び回ってるけどコンタクト取りたいなら……」
と、カセキちゃんの店を教えようとすると、コハクちゃんはこともなげに「ああ、クロムか」と言った。
「え、知ってんの?」「なんでテメーが?」
また同時に声が出る。コハクちゃんは、これまたこともなげに言った。
「私の姉が好いている当人だよ」
「 「何で!?」 」
カセキちゃんの店で調達した上物の薬草を渡すとコハクちゃんはどっさりと重い皮袋を放り投げるようによこし、バザールのテントを飛び越えるようなスピードで去って行った。
「アイツ、まっすぐ宮殿に行くな……」
「撒くとかごまかすとか一切考えてないね、ジーマーで」
つーかあの方向、王政府じゃなくて……
「巫女の宮殿……だねえ……」
「……マジか……」
巫女の宮殿は、国家運営の実務を回す王政府からは切り離されている。この国の根幹をなす学問と宗教である百物語を語り継ぐのが使命で、それを口伝で担うのが、唯一無二の存在である巫女だ。俺たちは百物語を、書物や講談で知る。でも、真実のかたちとして、口伝の百物語に直接触れることはない。口伝の、オリジナルの百物語は厳格に秘匿されている。
つまり、その、コハクちゃんは。そして、お姉さんっていうのは。
「……考えないでおこうか、今んとこ」
「……あ゛ー、面倒ごとは御免だ」
俺らの仕事はこれでおしまいってことにする。この、ずっしりと重い皮袋の中身……おそらく、拝みたくなるような額の金貨……の遣い方でも考えよう。
「そうだ千空ちゃん、こないだ星座版の読み方知りたいって言ってたじゃん? 俺、いい場所見つけたんだよね〜」
「おっ、唆るじゃねえか、聞かせろ占星術師!」
二十五時、星降る場所で
「……恋とはどんなものかしら、なんて」
紫煙の香りが夕闇に溶けるのと同時に、占星術師の独特な節回しがうそぶいた。
「ンだ、それは」
絶えず回転を続ける星を見失いたくなくて、手元の星座盤から目を離さずに聞くと、からからと機嫌良さそうな声が頭上から降ってくる。
「知らない? 大人気の喜劇よ?」
「興味あると思うか? 俺が」
「思わなーい。あれでしょ、『もっと唆るもんがあんだよ』的な」
嫌になるくらいそっくりな声て、これまた嫌になるくらい俺が言いそうなコト言いやがる。
「……テメー」
抗議はしたいが、手元から目を離せない。愉快そうな笑い声は、それを見越したものだ。つくづく腹立たしいなコイツ。
「ほらほら、もうすく蝕だ」
言われるまま見ていると、ほどなく三枚の円盤の、一際大きな輝きが中心点から一直線に並んだ。回転を止めて、それぞれの円盤の縁に書かれた数字を年明け以降の日数で重み付けして補正を掛ける。それで次の蝕が分かる。
「……つまり二十六日後」
「当たり〜……いや、使いこなし速ぁ……」
感嘆の声に揶揄の色はない。実際、手放しの賛辞ではあるのだろう。
占星術師が見つけた「いい場所」ってのは、道楽が過ぎて身を持ち崩した成金が国に召し上げられた土地の端っこにあった。趣味の良い庭園の奥、趣味の悪ィ隠れ道の先に、青銅の敷石のおかげで雑草に埋もれることもなく、何かの間違いのようにぽつんと佇むガゼボ。人気もなく街の灯りも届かず、確かに天体観測には最適な場所だ。
確かに国有地だから侵入は禁じられていないが、わざわざ来たがる奴もいねえだろ。何だってこんな場所見つけたんだよと問えば、占星術師は「男たるもの、人目につかない逢引の場所は複数確保しておくものよ」と得意げに言った。
オンナ連れ込む場所でご講義かよと思わなくもなかったが、教えていただけるものを断るいわれもない。それで、方位を合わせて星座盤を回し、錬金術アプローチで立てた仮説の検証をしていた。この計算が合うなら、錬金術で言う流体の位置予測の精度を上げられる……と思ったんだがな。
「蝕は七十六日、夜明け星の天頂到達は八日ズレてた。月と輪の星の大接近も全然違う」
全然、合ってねえ。ズレ方の法則性もねえ。星座盤の予測結果にも多少のマージンはあるが、その範囲もおおむね予想可能で、しかもそれが「だいたい当たる」。だから仮説の確認に使わせてもらった。なかなか堪える結果になっちまったが。
こういうもんはトライアンドエラーだ。仮説なんざ何度でも作りなおしゃいい。そんなことは百も承知だが、それでも悔しいもんは悔しい。そんな俺のかすかな不満もお見通しの占星術師は、からかうように細い煙管からふーっと煙を吹きかけてくる。余裕ぶった振る舞いが、また神経を逆なでした。
「何なんだよテメー」
「何ってナニよ、知りたがりの錬金術師さんにわざわざ企業秘密教えてあげてるお兄さんに言うことじゃなくなーい?」
軽い口調ながらド正論だ。ぐうの音も出ねえ。
「あ゛ぁ、全くだな。デキの悪い生徒にもお優しいもんだな」
「いやめっちゃデキ良いけどな」
かすかな八つ当たりをピシャリといさめられた。……口調が雑になるのは、少しいら立ってるときだ。つるみ始めてそこそこの月日がたっているが、コイツの怒りポイントはいまだによく分からない。
そんな俺の戸惑いを察知したのか、頭上の声が柔らかくなった。
「……空を平らにした円盤ぐるぐる回すのもいいけどさ、煮詰まってんなら人気のオペラくらい行ってみたら?」
「あ゛?何でだよ」
「ラブコメ喜劇は九割の与太と一割の真実でできてる。真理ってのは星座盤も数式も使わずに見る世にこそあるのかもしれない」
「何だそれ評論か、誰の?」
「俺〜」
「そーかよ」
星座盤の持ち主が言うことか?
「つーかテメー、そういうモンも観んだな」
「まあまあ面白かったよお、前に占った子がカップルで来てたりもして微笑ましかった」
「テメー……逢引中に他のつがいの女見てんのか……」
「いや何でそうなんの!? 俺は一人だけど!?」
「ああいうのはカップルか、女が一人で行くもんじゃねえのか」
つい先週、どっからどう見ても想いあってるくせに全く進展する様子のない幼馴染が二人で観に行っていたはずだ。そう思って言うと、占星術師はゲンナリした声を出した。
「なんか価値観古いな……まあホラ俺は恋の伝道師だし? はやりの恋物語には触れておかないとね」
「仕事熱心なこった」
「まぁーね、こう見えてプライド高いほうなんで」
冗談めかして言ってるが、本音なのは分かる。いつもふざけた振る舞いをしているが、コイツは自分の腕を見くびられると恐ろしいほどの戦闘態勢に入る……一見、そう見えないが。
「恋の伝道師が本業かよ、占星術はどーした」
「どんな技術も単体じゃすぐ陳腐化しちゃうワケ。大切なのは手札の数よ。複数の特技を組み合わせるのが、変化の激しい時代にもおぜぜを稼ぐコツってやーつ♪」
揶揄うつもりで言ったのに、けらけらと笑いながらまっとうな答えを返される。確かにそうなのだ。俺が今、その恋の伝道師たる占星術師サマ(何だそりゃあ)に星読みのご講義を賜っているのもその一貫だ。
「それは分かるな。錬金術師が占星術を忌避するのも、ナンセンスだと思うぜ」
多分この二つの学問は、近しいところにある。
錬金術師は世界の絶対的な理に近づき、いつか自分の手で世界を創り出したいと思っている。一方で占星術師は星の巡りから世界の流れを読み取りたいと思っている。
互いが互いを取り込もうとする動きも局地的にはあるが、それが「薬剤の精製に使う水は春の朝露に限る」とか「硫黄の採集は牡牛の尾の星が空にあるうちに」みたいな与太話なもんだから、事実上破綻している。そんな動きが悪手になって、錬金術師と占星術師の仲は実際のところ悪い。俺たちのように仲は……まあ、そんなに良くはねえが。気軽に訪ね合うような関係は、あまり作りたがらない。互いに「学びの純度が下がる」と考えているようだ。
……だが多分、違う。まだ糸口は見つけられていないが、俺が世界の秘密を知るためには、きっと……きっと、コイツの知識と技術が必要だ。
錬金術は、子供の遣いみてーな概念から始まる。一個のリンゴが入ったカゴにもう一個入れればリンゴは二個になる。それが錬金術の大原則、再現性だ。
ただ、どうもソレだけじゃ説明できないことが増えている。リンゴの材料とベリーの材料に差はあんのか? 二個のリンゴを絞れば二倍の果汁が得られる。じゃあ絞る前の二個のリンゴを材料レベルまでバラバラにして混ぜ合わせて、まとめて一個のリンゴにできないのは何でだ。フラスコの中に精を溜めても人間が作れないのは何でだ。女の胎ン中では何が起きてるんだ。
錬金術は新興の学問だ。一方で天の巡りを受け入れる占星術の考え方は錬金術よりはるかに歴史が深く、巫女の百物語とも関連して広く受け入れられ、この国の権威と信仰の対象になっている。歴史には理由があるはずだ。そんで、錬金術も新しい歴史を作れるはずだ。忌避し合うのは理にかなわない。
コイツら占星術師は……いや、コイツは。
コイツは星を数えない。星を増やそうとしない。星を動かさない。それでも、この三枚の円盤を回して見つけた法則を数字にして計算する。そして、その結果は「だいたい当たる」。
「だいたい当たる」なんてのは、錬金術の世界じゃ三流だ。必ず当たって初めて価値がある。だから「だいたい」は無視される。
……でも実際に、二十六日後には蝕があるのだ、きっと。占星術師は……コイツは、コイツにしか見えない流れの上で、船を操っている。
その謎を解きたい、と思う。動きと、状態と、位置。それらを同時に知ることができれば、きっと未来も見通せる。占星術師の扱うものから、別の世界が見えるのかもしれない。
俺たちが「世界の仕組み」と「モノの一番小さな単位」を求めてはつかめずにいるのは、きっと数え方が違うからだ。占星術師の扱うものは、きっとそれを解く鍵になる。
すこぶる非合理的だが、俺の勘てやつがそう言っている。
「……錬金術に、恋は必要なのか」
「ふぁっ?」
俺の中では一貫した疑問だったものだが、コイツには突飛に聞こえたらしい。お気に入りの煙管を落としかけてあわあわと取り直すと、いつもヘラヘラと斜に構えている顔がぽかんとこっちを直視した。モノクル越しの目が丸くて、少しだけざまあみろという気持ちがよぎる。
「おそらく……これは仮説だがな。観測対象は、観測という行為そのものに影響される。だから“誰にも観測されていない状況”の観測はできねえ」
「えっなになにわかんない、何で急に哲学ニートくんみたいなことゆってんの、場所のせい?」
確かに、このガゼボには前の持ち主の哲学コンプレックスみたいなもんの名残がある。成り上がった金持ちはなぜか必ず哲学に傾倒するもんで、錬金術師にとっては貴重なパトロンだったりもする。だから、はたから見りゃ錬金術も哲学も同じ穴のムジナだ。
「ちゃかすな、もうちょっとは建設的だわ。恋もそういうもんじゃねえのか?」
「えっ? あ……あー。なるほど?」
ゲンが言葉を咀嚼するようにうんうん唸っている間に、星座盤の読み取りに戻る。風がゆらす草の音に重なるハイトーンが、耳に心地良いと思った。
「……あー。あのコ、君のこと好きらしーよって言っちゃえば、そりゃあ気持ちも変わるかな。……いやまあ、雑にくくるとそうだけど……錬金術師が言って良いことなのそれ?」
「クククどうだろうなあ、まあこれは職務外の与太話だ、大目に見やがれ」
そういえば、幼馴染が置いていった恋愛小説にもそんな事が書いてあった。妙なところでシンクロするもんだと思ったのだ。実地経験がなきゃいけないとは思わないが、分からないものは解らない。……はやりの喜劇で分かることもあるのかもしれない。行ってみるべきだろうか。
「ん〜まあ、そうねえ。観測対象ってのが何なのかは知らないけどさあ。人が何もかもとの無関係を貫くってのは少なくともリームーよね。……たとえばさ」
コトン、と目の前、集中していた星座版の上に煙管が置かれて、竜の尾の星を見失った。邪魔すんな、と言いたくなって視線を上げる。
思いのほか近くに、男の顔があった。
「?」
「千空ちゃん」
近い。何だこれは。
いつもは意識的に弓なりに微笑んでいる、切れ長の細い目が正面からこっちを見ていた。流れるような鼻梁に沿って色の無い方の髪が真っすぐ下がっている。コイツ実は目つき悪いんだよな。無表情だと怒ってるようにすら見える。
そんな顔のまま、男は手をゆっくり延べた。印象よりもでかい手が、視界の半分を遮る。刻みタバコの臭いが、鼻腔をくすぐった。コハクからもらった礼で質の良い葉が買えたと喜んでいたやつだ。風がやんだのか、急に周囲が静かになる。甘苦い煙の香りが染み付いたグローブが俺の前髪をかき分けて、
ぴん、と額をはじいた。
「ッてぇな!?」
薄い氷が割れるように、静寂が消える。一瞬でも空気に飲まれかけたのが嘘のようだ。
「ははっ、メンゴ〜♪」
ゲンも、いつもの人を食った笑顔に戻っている。何だ、今のは。
「占星術師テメー何しやがった……」
「催眠術とかじゃないから安心しなって♪ 千空ちゃんにはそんな不誠実する気なーいよ」
俺じゃなきゃするのかよ。不誠実ってなんだよ。
ケラケラ笑いながら、男は身を離した。気持ち悪ィな、何だってんだ。
「……とまあ、俺が君に恋を教えることはできるわけだけれども」
「あ゛? 何でそうなる??」
「肝心の俺が恋を知らない狩人なので、悲恋は不可避になっちゃうわーけ」
「????」
いや、だから、何でそうなる。
「いつかつながるんでしょうよ、錬金術も、占星術も、恋も。多分だけどさ、人が引き合うちからと星の巡りは相性が良いんだよ。錬金術にも似た側面があるんじゃないの?」
またここに来なよ、次は星が降る日に。
と付け足して占星術師はからっと笑った。
星に訊ねる
「おっつ〜♪ 暇してる〜?」
「俺は暇じゃねえ」
朝からまあまあ怪しい天候ではあった。無水エタノールと樟脳、微量の硝酸カリウムと塩化アンモニウムで作った水溶液がガラスの中で白い結晶を析出させており、数時間後には崩れるだろうなと思っていたところで案の定、昼前からぽつぽつと降り出した。午後に入ってから雨は勢いを増し、「こりゃ今夜は無理だな」と夕方以降のタスクを組み直している最中に、まさに今夜の約束をしていた男がスルリと現れたのだった。
男は……ゲンは、俺の持っていたストームグラスを一瞥して「おお、ジーマーで結晶化してる、なんか達成感あんねえ」と軽い調子で言う。なかなか実際の天候とマッチせず、そこそこ苦労して作ったものだ。試作にはコイツも巻き込んでいる。達成感は、たしかにある。
「あ゛ー、暇じゃねえから天候に合わせてタスク組み替えてたんだよ。この調子だと夜通し降るな」
「俺は暇になっちゃったのよ」
「資格更新の論文はどうした」
「俺はとっても優秀なので、もう査読に出しました!」
「恋の伝道師の仕事は」
「俺の可愛いお客さんたちがこんな悪天候の中に来るわけないじゃん!」
「じゃあテメーはなんでこんな悪天候の中ここに来てんだよ!」
「仕事帰りだよ〜。こんな降ると思ってなくてさあ。まあ帰れるっちゃ帰れるけど、帰ってもそんなにやる事ないから千空ちゃんに遊んでもらおうかなとか思って」
「テメーも家事くらいあんだろ」
「めんどい。やりたくない」
「何なんだテメー」
「暇な友人で〜っす♪」
ああ言えばこう言う。帰れんなら帰れと追い返すつもりがポンポンと言葉を返されて不覚にもちーっと楽しんでしまった。思わず少し笑ってしまい、しまったと思った時にはもう、勝手に上がり込んで当たり前のようにウィンドウベンチに座っている。クソ、またやられた。コイツは言葉の魔術師だ。いつもこうやって、隙間を縫うように懐に入ってきやがる。ヘビかよ。
「俺はいつテメーとお友達になったよ」
「俺の定義では顔と名前覚えりゃ友人だよ」
「ンだそれ、ガバガバすぎんだろ」
「いいじゃないの〜♪若者には貴重なモラトリアムを楽しむ権利があるんだから?」
にっこり。ただでさえ薄い目を糸のように細めた笑顔は、それはそれは胡散臭く見えた。舌先が二つに割れてても驚かねえな、と思う。
ただ、この享楽主義者が貴重な自由時間を味わい尽くしたいと考えているのは、まあまあ分からなくもない。
俺はあと一回、コイツはあと二回の更新が済んだら、次からは術師資格の更新条件に「弟子の教育」が加わる。そうしたら、好奇心の赴くままに研究や交流をする時間は相当に削られるだろう。弟子の教育義務を課される前の有資格者はモラトリアム期にあたる。若手の特権てやつだ。
「……好きにしろよ」
「やったあ」
こないだの続き、気になってたんだよねえ、なんて言いながら、ゲンはベンチの傍らに放り出したままの恋愛小説を開いた。大樹が置いて行ったものだ。
もとは、杠がガラの悪い連中に絡まれたところをやたら強い女が助けてくれて、礼として乱闘中にほつれた服を繕ってやったら、礼の礼だとか言って、持っていた恋愛小説を譲られたものらしい。
杠が大樹に譲り、大樹が「感動的だからぜひ読んでくれ」と俺に押し付けてきた。あまり食指が動かずほとんど読んでいないが、コイツにあらすじ聞いて読んだことにしちまってもいいか。
「ソレおもしれーのか?」
「いや別に。割とフツー」
「フツーかよ」
「うん。ただカレシが媒介して第六次元との交信ができるようになったカノジョが世界とカレシのどっちを選ぶか的なところで止まってたから地味に気になっちゃって」
「なんだそりゃあ」
「ね〜気になるでしょ〜?」
そういう話だったのか、と一瞬戸惑い、いやコイツどうでもいい嘘つくしな、と思い直して聞き流すことにした。
それより俺は論文だ。ストームグラスの予測が正しければ、この雨はしばらく続く。気圧も低く、あまり頭が冴える状況でもない。こういう日は文章のアウトプットにちょうどいいのだ。
思考に潜り、出てきた言葉を指先からアウトプットしていった。どんどん強くなる雨風の音が思考を包んで、外界の余計なものから俺を遮断する。
少し遠く、定位置にすっかりなじんだ様子の占星術師がページをめくっている。ぺらり、ぱらり、という乾いた音が、思考の海に潜るときのハーネスのように、時々耳を刺していた。
……
……気付くと、夜になっていた。俺は椅子の背もたれに背を預けたまま寝てしまっていたらしい。いつの間に?
室内を見回すと、いつの間にか掛けられていた仮眠用のブランケットがずるりと落ちた。ゲンはいない。何度か、室内を立ち歩いたり茶を入れたりしているのを視界の端で捉えた記憶はある。
そうだ。茶だ。論文は佳境を超えて、もう少し詰めれば終わりが見えてきそうなところに来ていた。俺がふうっと一息ついたのを見計らったみてーにあいつが茶を持ってきて……いや、前から置いてあったな。ほとんど冷めてたし。
おありがてえといただいて小便も済ませて、そこからの記憶が危うい。多分、もう一度論文に向き合おうとしてるな。寝る前には棚に片付けていたランプがデスクに置かれて弱く灯っている。ゲンが置いたんだろう。
正確には分からないが、良い子はそろそろ寝る時間ってとこだろうか。気付けば雨もやんでいて、風の音しかしない。もう少し降り続けると思ってたが。まあ、ストームグラスの精度なんてこんなもんだ。
もぬけの殻のウィンドウベンチには、揃いのブランケットが雑に丸められていた。帰る時は畳んでくから、どっかに行ってんのか。……屋上だろうか。占星術師は星に惹かれる。特にあいつは、嵐が雲を飛ばした後の星空を好んでいたはずだ。
それで、ゆっくり屋上に上がるとたしかに人の気配があった。俺が入って良い場所だろうかと一瞬ためらい、イヤ俺の家だろとすぐに打ち消す。なんか調子狂うな。
それでも妙にこわごわと気配の方へ行くと、ゲンが見たこともない星座盤を操作しているのが見えた。
……なんだ、あれ。占星術師が好んで使う、三枚の円盤をずらして回転させるものと全く違う。
まず、テーブルに置いて使う板状のもののような質量が全く感じられない。白い光の円盤が中空に浮いている。画家の描きかけの絵からイーゼルだけ消したら、あのくらいの位置に絵が浮かぶだろうか。
白い光の円盤は、全体が回転しているようだった。ただし回転軸は複数あって、三枚の円盤を重ねたものよりもずっと多い。小さく回る星の集団が複数あり、それらが別の点を中心としてもっと大きく回っている。その中集団を抱くように、円盤全体が大きく回転している。ゲンが星空を見上げたまま両腕を回すと、ギアが噛み合うように星たちが踊っていった。真剣な横顔が、冴え冴えと星空に映えている。
テメー、何だソレ。
そう声をかけようとした刹那、占星術師がこっちに気付いた。
「……あ、メンゴ、起こしちゃった?」
平素と違う、どこか穏やかな笑みと共に、踊るような動きで手を下ろす。中空の星座盤が、薄い紙を畳むように消えた。
「何だ、今のは」
「んふふ、こればっかりはジーマーで企業秘密。まだ完成してないから同業者にも内緒。いやあ見られちった」
「にしちゃ軽い調子じゃねえか。錬金術師の探究心ナメてんのか?」
俺が「教えろ」つっても断るのか、テメーが?
と言外に聞くと、占星術師は誇るように、いつもの笑みを浮かべた。
「教えてもいーけど。教えたくらいじゃ真似できないし」
にいっと笑う。楽しそうだな、テメー。
「……高度に発達した科学は、魔法と区別がつかない」
「そう。そして、高度に練られた技術は魔法に等しい」
「つまり、テメーにしかできねえ技術か」
「そういうこと〜♪ 知りたければ教えるけど?」
「いーや、そこまで下世話じゃねえよ」
テメーの矜持に踏み込むつもりはねえよ。
そう伝えたつもりだったが、ゲンの気まぐれのほうに障ったらしい。占星術師がもう一度中空に腕を踊らせると、音もなく光の円盤が拡がった。コイツのツボは本当に謎だ。
ゲンは光の円盤を俺には分からない技術で回しながら話し始めた。
「……星座盤ってもともと、俺らのいる位置を中心として回ってる、っていう前提に基づいて作られ始めたんだよね」
それは知っている。だから最初期の星座盤は円盤が一枚しかなく、たくさんの天体が無視されていた。
「無理があるよな、明らかに」
「だよねえ、俺もそう思う。太陽と月は天体ではない、っていう説まであったってよ、バイヤー」
北の天頂星を中心に、傾いたフタみたいにドーム状の天蓋が回っている。天蓋の軸が傾いたのは、つがいだった太陽と月が仲たがいしたときの爆発のせい。蝕はかつて睦まじかった二者が互いを想い、憎み合うせいと考えられていた。
「だが、昔はそれを否定する論拠が無かった」
「そ。だから、それで良かった。輪の星や朝焼けの星は、天蓋からこぼれ落ちた狂い星。占星術師を惑わす悪魔の星。……あんなに美しいのにねえ」
「昔は美しいってことすら分かんなかったんだ。仕方ねえよ」
レンズを二枚重ねただけで、月のニキビや狂い星の輪が見えた。大きな袋の中の空気を温めたら、空を飛べた。空を飛んだら、朝が近くなった。海を渡ると、高い山は山頂から姿を現した。望遠鏡で遠く遠くを見ると、大地の両端が歪んで見えた。
「そうやって俺たちは、自分たちが球体に張り付くようにして生きていることに気付いた」
「つーか、観測結果から受け入れざるを得なくなったんだな。球体としてのこの国を見た人間は、まだ存在しねえ」
この国が本当はどんなかたちをしているのかを知るものはいない。鳥よりも高く飛ぶ技術が必要になるのかもしれない。
俺は、いつかこの国のかたちを天高くから見てやりたいと思っている。そしてコイツは、俺がそう思っていることを知っている。いつだったか「それって錬金術の範疇に収まるの?」と聞いてきたこともあった。……俺も同感だ。錬金術が占星術では解けない問題を解き始めたのと同様に、錬金術にも解けない問題を解く方法は他にもある。……育ての親は、それを科学と呼んでいた。
ただ、科学は錬金術以上に新興の、異端の学問だ。錬金術師が正式な国家資格として認められたのだって最近で、政治に熱心な錬金術師には「今はこの学問を国に広く知らしめる時期だ」なんて張り切っているのもいる。いま「錬金術にも限界がある」なんて言っても、敵しかできないだろう。
占星術だって、天体の回転を星座版に落とし込めるようになるまで散々ないさかいを経ている。異端審問にかけられて非業の死を遂げた者は五人や十人じゃない。俺だって百年前なら焼かれてたかもしれねえ。そういう血の道の先に一応の完成を見ている占星術だが、これでも永遠普遍の絶対法則ではなかった。
占星術の限界を錬金術が超える、とまで言う者もいるが、それは傲慢が過ぎると思う。錬金術の限界を占星術が満たしているのも確かなのだ。
「受け入れざるを得ない。そういうことっていっぱいあっかんねえ」
ゲンは星座盤の中で強く輝く小さな星を指した。
「たとえばこれは恋の星。東に白く輝けば、恋の季節がやってくる」
「春が来る前に登るヤツだろが」
「正〜解。んであれは川を渡る舟。恋人星の仲人」
「目立つもんなあアイツ。なんか夏に祭るけどフツーに一年中見えるんだが」
「そして狂いの兄弟星。輪を持つ兄と赤い弟」
「術師を惑わす星だ。クソほど目立つのに初期の星座盤では気持ちよく無視された」
「軌道を追えないからねえ」
ケラケラと笑う男が、今度は俺を指さす。
「……で、君が欲しいものは、多分この円盤からも取りこぼされてるよ」
「……多分な」
ここにあるのは見えてるものだけだ。見えてるものから分かる法則には、もっと違う表現が必要になる。
これを表す方法も何かあるはずだ。占星術と錬金術はそう遠くないはずなんだ。
「おいで。教えてあげる。大サービスだ」
俺と別のアプローチで、おそらく俺より一歩だけ先を行く男が余裕の笑みで誘ってきた。
多分これが、研究室にこもると、政治や商売で「仕事」として技術を使う男の差なのだと思う。
術師たちのティータイム
長雨の季節が開ければ、一気に夏が来る。カラッと晴れたのを心地よく感じるのは正直なところ今だけで、遠からず埃っぽさや熱気や、井戸の水位なんかにピリピリするようになるんだろう。とはいえ今年は本当に雨が多かったから、水の蓄えは十分にある。それに、王政府の正式発表でも「今年の渇きは深刻にはならない」と予想されている。……ってことは、健康な青年様が一人生き抜くくらいなら、なんとかなんだろ。
俺たち市民は王政府の発表した渇きの予想に基づいて産業や商業の計画を立てる。占星術府が膨大な過去の情報を分析して今年の状況と照らし合わせ、推測しているものだ。百発百中にはならないが、そう派手に外すこともない。ひどく外れ続けると国民の生活や貴族の財産、そして何より占星術府と王政府の権威づけに大いに障るからだ。
大きな戦争は俺が生まれる前に終わっているが、国境周辺の小競り合いは散発的に起きている。そういう中で、国の権威を揺らがせるわけにはいかねえんだろう。
だからこの国の中央は、星読みや季節の見通しにクソほどピリピリしている。政治ってのは、そういうもんらしい。そして俺らは、その見通しをひとまず信じて生活の計画を立てる。
そういうわけで今年の夏は、飢えや渇きにそれほど悩まされることはなさそうだった。ただ、それはそれとして身も蓋も無え生活タスクもある。俺は、長雨の最中についつい生活のメンテをサボっちまっていたツケを払う必要があることに……つまりは汚れた衣類の山に、心からウンザリしていた。そこに占星術師が「一緒にお洗濯しよーよ」とまた無遠慮に上がり込んできたところだ。
「ヒトんちで自分のパンツを洗いたがる男の感覚はまるで分からねえな」
「俺だって不本意だけどジーマーで心折れそうなのよ、面倒臭くってさあ」
「だからって持ってきたのかよテメー」
「いやあ、千空ちゃんちのお庭、日当たりいいんだもん。俺んちと違って」
ニコニコと笑う占星術師がかついだデカい布袋には、つまり俺同様のたまりにたまった汚れ物があるらしい。コイツは複数の仕事場とねぐらを持っていつもフラフラしており、イマイチどこにいるのか分からない。それぞれの居場所はとても小さいから、まあ確かにたまった洗濯物を片付けるのは面倒だろう。が。
「テメー頼み事は素直に言えよ」
「漂白剤と脱臭剤使わして~~~!」
あっさりと白状してわざとらしい泣き顔で訴えてきた。
まあ気持ちは分かる。大いに分かる。
「あ゛ーー、キッチィよなー、成人男性の体臭なー」
「そうなの! 蒸した季節の皮脂の匂い、自分のモンだろうとジーマーでリームー! コレ落とすには千空ちゃんお手製品が一番良いのよ~!」
この時期に錬金術師が地味に儲かるのは、この衛生用品の売り上げがあるからだ。女の月のものや出産に伴う需要は一年中あるが、それらは不衛生が死につながる仕事なので、そこそこ気を使う。それに比べると美容品てのは少し気楽なもんだ。香水や石鹸、洗剤なんかは付加価値も高く、なかなか良い収入になる。
「金は払えよ」
「わぁかってるよ〜! 値切る気もないって!」
「恋の伝道師様がこんな素っ気ねえ洗剤でいいのかよ」
「それがいーのよ、まずはしっかり落とすとこからだもん。香り付けはその後にすっから♪」
衛生用品全般は、もともと俺が自分用に作ってるモンだ。材料費は少々かさむが、肉体労働者用の皮膚が溶けそうなほどの強力な石鹸よりは肌への刺激が弱く、歳の近いヒョロガリ男どもにはなかなか評判が良い。コイツの使っている香は少し異国情緒を感じさせる珍しいもので、微かな香りを立たせるのに脱臭はしておきたいだろう。
まあいい、どのみちカセキの店に卸す分を分けたら少し多めに余ったものだ。黙々と洗うよりはやかましい占星術師さんの声でもBGMにしてた方がまだ気が紛れんだろ。
「まーいいぜ、俺もため込んでたんだ。一気に済ませんぞ」
「ッシャ! やろやろ!ぜってー千空ちゃんもサボってると思ってたんだよね〜♪」
お見通しかよ、クッソ。
◇◇◇◇
錬金術では、よく清潔な水が大量に必要になる。そのため大抵の錬金術師は、自宅に井戸を持っている。公共の井戸から拝借するには量が多すぎるし井戸までの距離が惜しいからだ。
贅沢な環境ではある。こうして多少ため込んだ洗濯物を、自分のペースで一気に洗うこともできるしな。
「千空ちゃんのガウンどんどんズタボロになってくねえ」
「薬品も扱うからな、しゃーねえだろ。おいそれと買い替えられるモンでもねえし」
「その質のモノはたしかにそうだろうねえ!? 上モノだって知ってんならもうちょい大切に使えって」
「上モノだろうがツールはツールだろうが。使い倒してナンボだろ」
「っか〜……実家の太い子はこれだから」
「何が言いたいんだよテメー」
「別にぃ? ただの雑談よジーマーで」
井戸を挟んでこちらとあちら。汲み水を桶にためて洗剤と脱臭剤を混ぜた水溶液を作り、一気に洗っていった。かまどで沸かした湯を混ぜ入れるとどんどんヤベェ色の汚れが浮いてきて、成人男性の皮脂のキモさに絶句する。足で踏んだり手で揉んだりを何度か繰り返すうちに汚れ浮きが弱くなるから、そうしたら多めのぬるま湯ですすいでいく。
この一連のルーチンはいずれ科学の力で自動化したいと思っている。が、大量の水をしっかり閉じ込めて服ごとぶん回すうまい機構が思いついておらず、どうしたもんかと思っているところだ。
見ればゲンの手付きは俺よりは少し丁寧だ。衣類によっては踏みもせず、柔らかく畳んで石鹸水に沈めて丁寧に押し洗っている。にしちゃ洗濯のペースが雑な俺と大して変わらないな、と思ったら、下着類は手桶に汲んだ水に漂白剤をブチ混んで放置していた。なるほど人の目に見えない部分は気にしねえのか。なかなか合理的だ。
それなりの重労働になるのは分かっていたので俺もゲンも着ていたものは脱いで肌着一枚でいる。一人ならパンイチだろうがフルチンだろうがにもならないしさっきまで着てたモンも一緒に洗ってサッパリしたいとこだが、そうしたら乾きが間に合わなくなる。今日は買い出しにも納品にも行かなきゃなんねえ。パンイチでバザールに行く勇気はねえし占星術師をパンイチで追い出すわけにもいかねえから、着てたモンは風通しに吊るすだけだ。コイツにも最初に「泊めねえからな」と釘は刺してある。
そろそろ濯ぎが終わるかというところで、目の前をふわふわと不自然に泡が飛んできた。泡沫の飛沫でもない、意識的に作られたシャボン玉を手で振り払って正面を見ると、占星術師が指で輪を作ってニコニコしている。指の輪には虹色の石鹸膜が張ってあり、ふっと息を吐くと石鹸膜の中央が盛り上がって分離した。コインくらいの大きさのシャボン玉が連続で生まれてこっちに向かってくる。
「なんだよ暇か?」
「いや、飽きてきてさ」
「飽きるのは勝手だがよ」
「はぁ〜。千空ちゃんもうすぐ弟子選びじゃん? 俺はもうちょい先だけど。お弟子さんに洗濯とか丸投げできんのかなあ〜」
「すんなよ馬鹿、何のための弟子だ」
「も〜アタマ硬いなあ」
「つーかゲンテメー、口より手ェ動かせよ……」
「はぁ〜い……はーめんど……」
ブツブツ言いながら手をひらひら振って石鹸を飛ばす。そういやコイツの素手って珍しいな。
使用人を弟子って扱いにする術師は、確かにいる。もとが戦災孤児の救済策だったため、使用人を雇うよりも税制的にかなり優遇されるからだ。制度の悪用としては割とスタンダードだが、まあ望ましいものでもねえ。
「まーアレよね、千空ちゃんはあのコ弟子にすんでしょ? 女の子にパンツ洗わせるわけにもいかないもんねえ」
「あ゛? 俺は決めてねえよ、スイカはスイカで生き方決める権利があんだ」
「そうなの? じゃあクロムちゃん?」
「あ゛ー、アイツも弟子にしろ教えろってうるせえが……探索屋のが向いてんじゃねえのか?」
ちーと手助けしたことがあって、それ以来しつこく錬金術を教えろ教えろと言ってくる二人だ。どっちも賢いし錬金術の素養もあると思う。好きにすりゃいい……が、錬金術の研究には率直に言ってカネがかかる。最後に決めるのは俺だが、アイツらにとってそれがベストかは正直なところ分からない。
「そういうテメーはどうなんだよ」
「そうねえ〜……俺は可愛い女の子がいいなあ♪」
ヘラヘラ笑ってみせるが、本心じゃねえんだろうなってことくらいは分かる。それで、ほのかな疑念がまた脳裏をよぎる。……コイツ、弟子取りのタイミングで更新やめて術師資格返上する気じゃねえだろうな?
詳しいルーツは聞いていないが、コイツは異国の生まれだろう。わざとらしいくらい胡散臭い言葉選びは、イントネーションをごまかすためのものだ。これだけの腕を持ちながら占星術府に所属していないのは、コイツ自身にその気が無いことに加えて、現実として存在するガラスの天井のせいでもあるはずだ。……こういうのは錬金術の範疇外だな。嫌なもんだが。
そんな俺の葛藤だっておそらくお見通しの占星術師は、小さく笑って、
「ンな寂しそうな顔するもんじゃないよ」
と言った。
◇◇◇◇
一通りの洗い物を干し終えて、ついでに汗も流してさっぱりしたところで休憩に入る。日が落ちるにはまだ早く、からっとした風も心地よい。俺が持ち出した金属の箱に、ゲンが目を丸くした。
合成金属を板に延べて片手鍋を置けるようにしたものだ。下に石鹸と蒸留酒を混ぜたモンを仕込んで火種を放り込むと、青い炎が勢いよく吹き出した。まだ配分の調整は必要そうだが、カップ一杯ぶんの湯を沸かす程度なら事足りるだろう。
「何これゴイッスー!」
「固形燃料を使ったポータブル湯沸かし器だ。まだ試作段階だがな」
「こけい……? ロウソクより火ィ強いね、しかも煤とか出ないの? バイヤー」
「液体燃料を固化して扱いやすくしたもんだ。作り方は企業秘密な……って言いてえとこだが、何も難しいこたねえ。アルコールに脂肪酸ナトリウム混ぜてゲル化させたもんで」
「いい、いい、分かんないからいい」
「つまりは酒と石鹸の混合物だ」
「オッケー分かったありがとう」
「まあ勢いよく燃えるモンの有害性を低減して、火持ちもよくしたんだよ。茶ぁ飲む分くらいはこれで沸かせる。いずれ煮炊きにもできるようになんだろ」
「もう十分に良いと思うけど……お庭でティータイムなんて貴族の道楽じゃ~ん」
「お貴族様ほど優雅にゃいかねーよ、ホストの手間は要るかんな」
実際のところ、たかだか湯沸かしのために人をコキ使う必要なんざねえ。かまどで薪燃やすのを再現しようとするから骨が折れるんだ。強く燃える小さいものがあれば良くて、しっかり蒸留した酒はよく燃える……なら、その火力を安全に持ち歩けるようにすればいい。単純な話だ。
小さな手鍋に入れた汲み水は、あっという間に沸き始めた。茶葉とスパイスをいくつか入れたものを煮出してちょうどいいところでミルクを入れる。固形燃料の弱まった火がミルクを沸騰寸前まで温め、ジャストタイミングで燃え尽きた。いい感じだ。
茶こしを通してカップに入れる。とろっとした液体から、甘く鼻を刺す香りが立ち、ゲンが嬉しそうに鼻を鳴らした。
「いーい香り~♪ ニッキの樹皮と丁子……こっちではシナモンとクローブだっけ? あとは、カルダモンね」
やっぱり東方の呼び方になるんだなと思う。
「チャイだ。知ってんだろ」
「知ってる知ってる、ジーマーで香り立ち良いね~! これカセキちゃんの店のやつ?」
「あ゛ー。コレ飲んだら納品と買い出しだ。テメーも行くか?」
何の気なしに言うと、ゲンの顔がぱっと輝いた。
「行く行く! 特に用とかないけど!」
テメーも用事でもあるなら、と続けるつもりでいたのが、花でも開くみてーな笑顔で返されて、言葉に詰まってしまった。……ま、いいだろ。
温かい茶は旨いが、汗ばんだ体にチャイミルクティーはやや重い。次に飲むのは冷たい茶だな。氷室の氷でもいいが、今年は科学の氷も作ってみたいと思っている。
密封した小型の氷室を作り、回転機構を使って空気を抜く。極限まで空気を抜かれた「後」に何が残っているのかはまだ解明されておらず、「何もないという状態を示す何かがある」という仮説のもと「エーテル」っつう概念が使われる。
エーテルが存在するのかしないのか、するとしたらどんな性質のものなのか。全く分からないが、少なくとも空気は、詰め込めば詰め込むほど熱くなる。つまり、空気を抜けば温度は下がるはずだ。その仕組みを利用すれば、氷が作れるはずなんだよな。
今年の夏は作ってみるか。そんで……コイツに味見させてみるか。
そよそよと吹く風が熱気をはらみ始めている。乾いた夏が目前に迫っていた。
七グラムで変わる世界
カセキの店はバザールの中ほどにある。これでもかと軒を張り出させたテントの傘にほとんど隠れた分岐路があって、狭い路地に入れば、ごちゃっとしながらも妙に楽しそうな入り口がすぐ見える。最初に探すのは骨が折れるがあるのを知れば迷わない、そんな店だ。
「よーう、納品だぜー」
「お久〜カセキちゃん♪」
「オホー千空にゲン! 久しぶりじゃない? 待ってたんよ、在庫が心もとなくなっててのー!」
粗末な戸を開けると、道具やら素材やら、あとは誰が買うのかも分かんねえ調度品やらをごちゃごちゃと積み上げたカウンターの奥で、ほとんど商品に埋もれるように座るジジイが笑った。
「心配すんな、ちゃんと前年の数字から予測して納品ペース決めてるわ」
「千空の見積もりは信頼しとるがのー。売れるモノは多めに置いときたいじゃない?」
「在庫抱えすぎはワリー癖だな、ちゃんと手元に現金残しとけよ」
「ゆうての、こんだけ売れ残りがたまってるとねー」
「まあぶっちゃけ誤差よね、ジーマーで」
苦笑いと共にゲンが店内を見回す。仕入れたモンやカセキが自分で作ったモンで壁際はぎちぎちで、数ヶ月前に納品と注文に邪魔したときと変わらない。つまり、何一つ売れてないってわけだ。
カウンターの奥にある頑丈な棚の中だけはよく回転していて、俺の商品もその中に含まれる。
「欠品は出てねえだろ、追加納品これで足りるか?」
「オホー! ええのう、ちょーどええわい。主の予測精度ってば、相変わらず高いの〜!」
ばさりと荷物を広げて衛生用品やら美容品やらを見せると、カセキはそれぞれを節くれだった手に取りながら、満足気に笑った。一見するとただの小柄な爺さんだが、その実まあまあ頑固な職人だ。首は太くて手は厚く、指の節も強い。ただの店番だとなめてかかると、そこそこに怖い思いができる。
「納品分は以上な。頼んでたモンで相殺できるか?」
「大丈夫じゃろ、千空印の美容品は利率いいしね〜。ほれ」
そう言って、カセキがカウンターにどっかりと麻袋を置いた。中には親指の先くらいの木の実がぎっしりと詰まっている。肩越しにのぞき込んだゲンが独特の臭いに顔をひそめた。
「何これ、食べるもの? あんま美味しそうな匂いでもないけど」
「トウゴマだ。ククク食うなよ、二〜三粒で死ねるぜ」
「まぁーた物騒な……毒殺用?」
「ちげーよ、採油用だ。砕いて油を絞り出す。歩留まりはクソほど悪いが、とにかく質がいいからな。山ほど搾れば何とかなんだろ」
「は〜ん、力仕事専門、大樹ちゃんの出番ね」
「クククそういうこった。司にも手伝わせる」
手数は多ければ多いほどいいし、今回は工程ごとに手伝いの人間は変えたい。誰にも言うつもりはないが、ご禁制に絡む実験だからな。……コイツにも仔細は伝えないつもりだ。
「つーわけで、大樹んとこまでコレを運ぶ。手伝え」
「えっ俺そういう要員だったの!?」
ドイヒーバイヤーゴイスー重ーい! と、およそ自国語の人間でも使わない頓狂な悲鳴を上げて麻袋を持ち上げようとする。コイツ何だかんだ働くよなあ、と思ったところで、
ふ、と、ゲンの顔が固まった。
「……あ゛? 何……」
俺が違和感に気付くのと、ドアを蹴る音が店に響いたのは、ほぼ同時だったと思う。
◇◇◇◇
「視察だ」
店に入ってきた男たちはことさら無遠慮に、高圧的な声を出した。足元ぎりぎりまで引きずるガウンの裾と大きな袖口、肩から掛けたストラに、ぎらぎらと輝く刺繍がある。金糸の刺繍は王政府の証。北の空を中心とする星の配置を戯画的に表現したモチーフ……占星術府の連中だ。
クソ、よりによって今。
なるべく奴らの目に触れないよう、トウゴマの袋の前に立った。こいつらが見て分かるモンだとは思わないが、勘ぐられたら面倒くさい。ゲンも何かを察して持ち上げかけていた袋を背に隠し、手を袖にしまって表情を消した。
ゲンが振りまくヘラヘラした雰囲気が消えると、店内の空気がピリっと張り詰めた。
「こんなうらぶれた店に王政府の視察とはのー。何の用?」
カウンターから出てきたカセキが俺たちを背にした位置に立ち、飄々と、でも重心の低い声でうそぶく。視察団の先頭にいた一人が忌々しげに眉をひそめた。自分たちの所属の権威が通じないことを敏感に感じ取ったらしい。
「この店の商流に関する通報があった。ここで何をしている」
すごむような声で男が言う。……バレたか? 木の実の仕入れだけで何かが分かるとは思えないが……
「商売、じゃがの?」
「その商売がキナ臭いという話だ。流通ルートの記録を見せろ」
「流通はワシら商売人の生命線での。言いがかりで企業秘密は見せられんよ?」
カセキの声が、徐々に重くなっている。視察の連中も一筋縄じゃいかない様子に威圧感を発し始めた。カセキが後ろ手で、俺に合図を出した。指が素早く動く……『そのまま下がって、裏口から逃げろ』。
そのまま、ゲンにも目配せをする。目配せを読み取ったゲンが、小さく笑った。
「……へええ〜〜! 商流が変わって、中抜きで美味し~思いをできなくなった誰かでもいるのかねえ~!」
店内に、ハイトーンが響いた。聞き慣れた、でも普段とは全く違う、棘のある声色にぎょっとして見返すと、ゲンが頬をつり上げて笑っていた。
「ゲン、おぬし」
カセキも目を剥いている。そりゃそうだ、ゲンはカセキの『逃げろ』の合図を読み違える男じゃない。カセキは、俺たちがいてはしづらい交渉……っつーか、取引か? をして、店を守って、俺らへの火の粉を防ぐベターな方法を選んだはずだ。なのに、どうして。
「いやぁ~? 団体さんでの視察って言うから、カセキちゃんが禁制品でも扱ってんのかなってビビっちゃったけど。流通ルートってことは、ぶっちゃけ俺らを通せ、ってコトっしょ~?」
「何の話をしている」
「さあね~~俺にはわっっっかんないな~? 中央の皆さんのお仕事って大変そうだしい〜?」
ペラペラ、ひらひら。手を広げて軽い調子で紡ぐ言葉に棘がある。唖然としてるのは視察の連中だけじゃない。カセキも、俺もだ。コイツ何をするつもりだ?
コイツの動き次第で次の一手が変わる、どんな風にでも動けるようにと身構えていると、ゲンはぐっとあごを引いて、嘲るように笑った。
「……御用品の薬草に、不備でもあったかな?」
直後に、がん、という鈍い音が響いた。次いで、がらごろと雑な音を立てて、大量のトウゴマが転がった。 ゲンが、足元に置いた麻袋を蹴り破いたらしい。それで袋から転がり出たトウゴマがあっという間に床を埋め、店内いっぱいに油のニオイが広がった。
「ッ! なんだこのニオイは!」
視察の連中が眉を潜める。この油は、本来は戸の蝶番や時計に差して動きをスムーズにするありふれたモンだ。珍しいものでもないが、さすがにこう量があると、なかなかの悪臭になる。ゲンがこっちを見てニヤリとした。「千空ちゃん、あーそぼ」の顔だ。ほーん、唆るじゃねえか。
「あ゛ーあ゛ーあ゛ー、占星術師テメー! もったいねえことすんじゃねえよ!」
「メンゴ~俺、足癖悪くってさ~! うわあバイヤー油臭いね!」
「そーだなあ、視察団のみなさんにこんなニオイが着いちまうのはヤベーんじゃねえのか~?」
どうせ令状なしの非正規視察だ、言いがかりに近い。せいぜいおキレイな制服にくっせえ油のニオイつけて帰りやがれの気持ちで言い放つと、ゲンはさらに嬉しそうに口角をつり上げた。
「あ~それはバイヤー! 俺、香水持ってっから吹いてあげるよ! コレコレ、最近花街のお嬢さんたちに人気なんだよねえ、人気すぎてイッパツ遊んだのが即バレするくらいの良い香り~~♪」
それはそれは愉快そうに、袖から(コイツ何でも袖から出すんだよな)香水瓶を出す。瓶についたバルーンを押すと、店内に甘ったるい花の香りが漂った。
「おいおい~視察団のミナサンがお仲間から売春宿で遊んできたって勘違いされちゃうじゃねえか~?」
「あっちゃ~~~それもバイヤーだよねえ~! いやあメンゴメンゴ、とりま店からは出といたほうがいいんじゃない? オニーサンた・ち♪」
なよなよしい声がマジで商売女みてえで「コイツどんだけ声真似うめえんだ」と驚く。視察の連中は「クソ」とか「クズ術師が」とか悪態をつきながら、店から出ていった。
◇◇◇◇
「……メンゴ。みっともないとこ見せちった」
カセキの店からの帰り道。普段よりも少し浮かれたように振る舞う歩幅に合わせて歩いていると、ゲンがふと表情を消して、言った。
「何の話だよ」
テメーの機転で追い返せた。カセキも言いがかりに付き合って不本意な取引をする羽目にならずに済んで、喜んでいたはずだ。
「いや、未熟すぎたわ。ジーマーでメンゴ」
苦く笑いながら袖で覆った口元が、小さく「恥っず」と動くのが見えた。こいつは怒るとこうなるのか。
「……良いんじゃねえのか、カセキも助かったみてーだし」
助かったどころか、商売女向けの化粧品も売ろうかとか言い始めていた。それならもっとオキレイな店にしなきゃならねえだろうが、と笑って帰路に着いたが、本心は重い。
「少なくとも、しばらく行けないね~。俺もともと占星術府にツラ割れてたし、俺の出入りが迷惑につながるのは避けたいよ。こんなの買っただけじゃ、詫びにもなんないなあ〜」
つる草の拵えの入った小ぶりのランプを手に、ゲンは「あーあ」と空を仰ぐ。
「煙草の葉くらいなら使いっ走りしてやるよ」
「嬉しーんだ。お礼とお詫び兼ねて、ちょっと寄らない? 面白い茶があんの」
「おう、いいぜ」
こいつの拠点の一つにティーサロンがあるらしいってことは知っていた。自分から場所を明かすってんなら、教えてもらおうじゃねえか。
「……モノが、少ねえな」
「あのねえ、俺は千空ちゃんみたいに何でもかんでも手元に集めたがる人間じゃないのよ?」
俺の率直な感想に、調子を取り戻したらしいゲンがあきれて見せた。
ティーサロン、ではあるのだろう。だが質素だ。器と茶葉と少しの装飾品。家具は簡素な椅子とテーブルの他には、引き手が多めのコモードと……草編みのでかい箱が一つ。そんだけだ。
「なあ、このでかい箱、何だ?」
「行李。便利よ、がさっと何でも入れて運べんの」
「コウリ」
「東国のモンだからね、千空ちゃんには珍しいでしょ」
にこにことテーブルに来たゲンは、硝子の茶器を持っていた。透明な薄張りの中には、色鮮やかな青い花が二つ入っている。
「見たことねえな。ハーブティーか?」
「半分正解♪ これはチョウマメって花でね、こっちでは……バタフライピーだったかな?」
そう言いながら注いだ湯は、すぐに青色に染まった。少し待ってカップに移す。日の出前の、深い藍に似た色が器に満ちた。
「染色は珍しくもねえが……いい色だな。これ飲めるのか?」
「失礼だねえ。この流れで毒は盛らないってフツー」
「テメーのフツーは信じねえよ」
「ふふっ、そうね。俺の仕事は現実と非現実の、橋渡し」
「?」
「よっく見てな、滅多にやんないから♪」
嬉しそうな笑い声に、機嫌でも直ったかと視線を上げる。すると、占星術師がてのひらをこちらに向けていた。グローブは脱いでいる。でかい手のひら、長い指が軽く開いた間から、弓なりに細めた目が見えた。
指が翻り、手のひらが踊った。手が、ずっと昔に絵物語で見た白い龍のように舞って、一瞬だけ目で追いきれなくなる。
次に視覚の焦点が合った瞬間、ゲンの手は黄色の果実を握っていた。柑橘類特有の、爽やかな香りが鼻を刺す。どっから現れた、この……
「……レモン」
「正解♪」
手は、そのままレモンを垂直に投げ上げた。鮮やかなイエローに視線が吸い寄せられる。頂点で一瞬だけ静止した果実が自由落下を始めた直後に、追いかけてきた右手が横っ飛びにつかむ。また手のひらが目の前で広げられると、果実は薄い輪切りになっていた。
「……うお」
何をした。どうやった。そう聞こうとする俺を、ゲンは目だけで制し、さっきまで丸のままだった……さらにその数瞬前には存在すらしていなかった輪切りのレモンを、親指で弾く。レモンは中空でくるくると回り、ゲンが左手に持っていたティーカップに、しずく一つ立たせずに滑り込んだ。
青い茶が満ちていたティーカップに、みるみる朝焼けの色が広がる。果汁との反応だ。
パチン、と鋭いフィンガースナップが聴覚を叩いた。……ショータイムは終了したらしい。
染色と変色の反応自体は珍しくない。植物の汁には特有の性質があり、ブッ叩いたり混ぜたり燃やしたりすりゃ色や状態が変わる。この茶もその一種で間違いないが、珍しかったのはコイツの手技のほうで。
「テメーのそれ……東洋の奇術か?」
「おっ博識、正解〜♪ さすがねえ」
「ガキの頃にキャラバンが来て、親と見に行ったことがある」
「うわゴイスー、チケット大変だったでしょ、このへんで買うと高かったんじゃない?」
「あ゛ー、確かに満員御礼だったな! うさんくせーナリだったがところどころ技術が卓越してて唆ったぜ。ありゃまつろわぬ国の旅する連中だろう? ジジババからガキまで、いた、が……」
……あ。
記憶をたどりながら帰結した考えに、口が止まった。こいつ。
「……ん、察し、いいね」
「テメー、」……いたのか、そこに。
占星術師が華奢なカップを置くと、硝子の擦り合う硬質な音がする。きぃ、と高い音が少し耳に障った。
わざとだ、と分かったが、もう場の空気は目の前の男が握っている。
伏せ気味にした目は、悲しんでいるようにも懐かしんでいるようにも見えた。
「……奇術も体術も、全て技能よ。努力の賜物。ただ、錬金術や占星術よりも……まあ、いやなものは、多かったかな。みんな余裕なかったし」
両方を見てきた男の言葉だ、と思った。東洋のキャラバンはファミリーを名乗るが血縁を意味するものではないことは一目瞭然で、俺の知る家族の絆とは違うもので結ばれている。きっとコイツもその中にいた。そして……そこを抜けたのか。
「なんで抜けた」
「キャラバンから気まぐれに買われて、気まぐれに捨てられた俺を、占星術の師匠が拾った」
「この国でか? 人身売買は」
「法で禁じられてるねえ。この国では」
「……」
法律は、国民を守るためにあるものだ。まつろわぬ国の旅する民を守るためのものでは、ない。
「ほら、ヤだねえその目。だから言いたくないんだよ」
手袋を外したままの手を出して口元にあてて、男はきいっと片口で笑った。嫌悪の表情だ。コイツこんな顔もすんのか。
「……テメーの生まれは東国だな」
「そ。この国とは緊張状態にあるけど、ギリ経済活動が続いてるおかげで、俺みたいのがフラフラできてる」
ってことはコイツ、国境付近の小競り合いで焼け出されたクチか。
術師の徒弟制度はもともと、戦災孤児の救済策だった。術師は戦災孤児を弟子にすると、税制上かなり優遇される。だから、節税目的で使用人を弟子扱いにするヘボ術師がいる。それで、ヘボ術師が資格喪失したか何かで使用人を抱えるメリットがなくなって……捨てられた。
「テメーを拾った師匠ってのは、この国の占星術師か」
「いんや。師匠の国はもうない。俺の生国とこの国の緩衝国家だったんだけど……二十年前だったかの戦争で、すり潰されて消えちゃった。政権のタイミングが悪かったっぽい」
正直なところ、タイミングなんかで国が滅ぶものなのかと思ってもいる。ただこれは、たまたま強国で生まれたから実感せずに済んでいるだけのことだ。目の前のコイツはじめ、故郷の脆さを身に染みて知っている人間は、珍しくもないのだろう。
俺は、歴史にはさして興味がない。占星術と違って錬金術はこの国の根幹に関わっていないため、歴史や政治の汚い部分から逃れられている側面はある。それによる不遇もあるが、俺にとってはおありがてえことでもある。
「ってわけで、中央にはまあまあ思うところあってさ。カセキちゃんの店の件はムカついちゃったんだよね。いやメンゴ、良くなかったわ。卓上奇術と黒歴史のカムアウトで詫びにさせてくんない?」
「……ふん、知らねーよ。テメーは元奇術師で、占星術師で恋の伝道師。そーゆーことにしといてやるよ」
「うん、そーゆーことにしといて。そんで、冷める前に飲みなって」
ケッ、と吐き捨ててやると、ゲンも吐き捨てるように返してきた。口調こそ粗いがどこか嬉しそうで、でも表情には少なからず倦むような影もある。テメーのそういう目もヤだよ、俺も散々向けられてきた目だ、「これだから育ちの良い奴は」だろ。ガキぃナメんな。
謝んねーぞ、を視線に込めてにらみ付ける。ゲンも謝んじゃねえぞの目でにらみ返してきた。
唆る変色作用を見せた茶は、口に含むと何の香りもなかった。味もただ湯にレモンを溶かしただけの酸っぱいモノで、眉根が寄る。
「オイ砂糖あるか。お子さまは甘ったりい飲みモンをご所望だぜ」
錬金術師の恋の相談
「……じゃあ、僕からの聞き取りはここまでにしておくけれど。当面は、おとなしくしてるのを勧めるよ」
「えへへ~。メンゴメンゴ♪」
「ゲン、あのね、本当に君が監視対象に入ったら、僕では守りきれないからね。そういう立場なのをくれぐれも、」
「分かってるって~~羽京ちゃんの立場も分かってるつもり。気をつけるよ」
「はあ。……じゃあ、行くから」
童顔に苦労性をにじませた治安維持隊のお兄さんによる、ほぼほぼ善意の取り調べを終える。わざわざ占い小屋まで来てくれるあたり、ジーマーでご厚意だ。街の治安維持には俺みたいなうさんくさい辻占の「うわさ話」が必要なこともあるから結構持ちつ持たれつだったりもする。とはいえ、カセキちゃんの店での一件はちょっと危うかった。占星術府によく思われていない立場でやりすぎたな、と一応の反省はしている。
悪いけどうまいこと調整しといてね、の思いで見送ると、ほぼ入れ替わりで当日の共犯者が顔を出した。
「いるか? 占星術師」
「いるよ~♪ どしたの、恋の相談~?」
「ま、そんなとこだ」
男はずけずけと上がり込んで、眼の前の椅子にどっかりと座った。前にコハクちゃんが来たときもこんな感じだったなあと遠く思い、でもコハクちゃんほどの迫力はないなと思い直す。要するに、偉そうにしているが明らかにヒョロくて弱い。
「オッケ~♪ じゃあまず料金体系を説明するね。初回一刻無料、二刻目からはこの砂時計カウントの従量課金制。星読み以外の占いはオプション制で二回目以降はディスカウントあり、紹介者割引とリピーター割引は」
「そういうの一ミリもいらねえ」
「いいの~こういうのはルーチンだから! 俺の店は明朗会計とお客さまROI最重視がモットーです! ……はい、では本題。お兄さんの恋のお悩みってのは?」
それで話をうながすと、千空ちゃんはどかっと座ったまま逡巡している。おや本当に恋の相談だったか、と少し面食らう。お赤飯とか炊きたい気持ちになってきてる俺の前で千空ちゃんは視線を中空にさまよわせた後、少し迷いながら話しだした。
「クロムの話だ」
「えっ、千空ちゃんってクロムちゃんのこと好きだったの」
「そういうことじゃねえ!」
驚きを素で伝えてしまい、千空ちゃんが焦ったように返す。しくったかな、ちゃかす意図はなかったんだけど。恋の相談ってのはセンシティブで、怖いものだ。
「あ~。当たり前だけど念のため言っとくと、ここでの話は絶対に外に漏れないかんね。占星術師は守秘義務を負う。だから、どういうタイプの悩みでもオッケーよ?」
「だーから違ェよ、殺すぞ! クロムが俺に相談してきたって話だ!!」
「……あ~~」
そういうことか。お兄さんちょっとガッカリしちゃうな。
「あからさまにガッカリするんじゃねえよテメー」
「メンゴ顔に出てた。つーか、なんでクロムちゃんが千空ちゃんに恋の相談すんの? で、それを千空ちゃんが俺に?」
「あ゛ー無自覚だ無自覚。錬金術教えろって話かと思ったら、だいぶ違っててな」
千空ちゃんの様子が、少しだけ変わる。素早く周囲を見回して耳を澄まし、人がいないことを確かめた。
声を出さずに「大丈夫よ」と伝えると、軽くうなずく。
まあまあマークされてはいるだろうけれど、名誉市民は犯罪が確定しないかぎり思想と行動の自由が保障されている。監視は治安維持隊の仕事だ。逆説的になるが、羽京ちゃんが釘を刺しに来ている間は俺の行動は監視されていない。だからまだ、大丈夫。今のところはね。
クロムちゃんが、千空ちゃんに弟子入りしたがっているのは知っている。錬金術を教えろとしつこいらしい。クロムちゃんは素材探索のプロフェッショナルで、医家や職人、錬金術師にも広く信頼されている。クロムちゃんの集める素材は、本当に質がいいのだ。特に、薬草に関する目利きが飛び抜けて鋭い。クロムちゃんしか知らない、単身でなければ行けないような採集場所も多いらしい。唯一無二の採集家と言っても、決して過言じゃない。
だから、クロムちゃんが錬金術師になりたがっている理由が、実はちょっと分からなかった。自分の足で行って自分の目で世界を見たいと思うことと、数式やフラスコ内の現象を通して世界を知りたいと思うことには少しズレがあると思っていたからだ。
でも、薬草に詳しいことと、クロムちゃんが錬金術を知りたがっていること、そしてクロムちゃんの恋に関する話ということであれば、点と点がつながり、線になる。先日のコハクちゃんの話を加味すれば、線は広がって一枚の絵になる。
「……もしかして、クロムちゃんの恋って、巫女様に関係する?」
「あ゛ぁ。この国の根幹に関わる話だ。他にも何人か巻き込みたい」
なるほど、それなら……
「オッケー、俺の範疇だね。内緒話だ」
「あ゛ぁ、六刻後に集合ってことになってる。西の隠れ家だ」
「相変わらず手回しいーんだから。じゃ、俺らも行こうか」
根城を出るときは、正面口から堂々と。フランソワちゃんのバーで一通り騒いで日が暮れるのを待ち、夕刻の人波に合わせて移動する。バザールの人混みに紛れれば、東国の隠密にだって俺らは見つけられない。
ここはそれくらい人が多く、多様で、自由で、豊かで、傲慢な国だ。
◇◇◇◇
「大集合だね、ジーマーで」
「口が堅くて信用できるのだけだ……が、隠れ家に呼んでいい人数ではねえな」
龍水ちゃんが所有するいくつかのセーフハウスの一つ。その裏口に、半地下の隠れ家への入り口がある。業者の通用門も兼ねるので人の出入りに不自然はないが、口が堅いのを集めた結果、七海に出入りする業者には到底見えない者が集まってしまった。
「あはは、そう思って、大樹くんにはお留守番してもらったから……」
「あ゛ー、慧眼だ。アイツは嘘はつけねえ」
杠ちゃんの苦笑いに、千空ちゃんが嬉しそうに返す。大樹ちゃんと杠ちゃんは、俺が恋の伝道師としてしゃしゃりでる機会が全くないほど完成したカップルだ。千空ちゃんはこの二人の恋路をこれ以上ないほど推している。クロムちゃんの恋の話にも妙にアンテナが鋭かったあたり、人の恋愛ごとには首を突っ込みたいタイプなのだと思う。
「スイカはね、秘密はちゃんと守るんだよ」
「分かってるよ、信用してる♪」
ふん! と元気を見せてくれるのは、千空ちゃんに弟子入りを志願している小柄な少女だ。視線を合わせて微笑むと嬉しそうに笑顔を返してくれる。ゴイスー可愛い。人を助けたい気持ちでいっぱいの、本当に献身的な少女なのだけれど、それだけにこの子を危険な目にだけは遭わせられないな、と思う。
「おう、何でこんなことになってんだ?」
「千空ちゃんがね、クロムちゃんの話は錬金術の範疇外かもしれないって♪ 俺もよく分かってないから、悪いけど一通り話、聞かしてもらえる?」
「それは良いけどよ」
ジーマーで「何が起きたんだ」って顔をしてるクロムちゃん。この青年探索家がどうして国の権威たる巫女様に想われてるのかが、サッパリ分かんない。
「……でー、今回のスペシャルゲスト様たちだ。巻き込まねえで済む方法も考えたが、ハブるとマンパワーが足りねえから呼んだ。……来てんだろ? 司ァ」
千空ちゃんが促すと、大柄の、とんでもない美丈夫が戸をくぐって現れた。落ち着いた、控えめな雰囲気を身に纏ってはいるが、牙を剥けば目の前の獲物を完膚なきまでに叩き潰す闘争心を見せることは、この場にいる誰もが知っている。クロムちゃんがぽそりと言った。
「ヤベー、本物の獅子王司だ……」
司ちゃんは、黙礼すると部屋の隅に移動して気配を消した。解放権を得て名誉市民になってはいるはずだけれど、まだ動きの基本が拳闘奴隷のそれだなと思う。少し胸が痛い。
「あともう一人呼んでるんだが……」
「いるぞ、さっきから」
千空ちゃんが室内を見回すと同時に、部屋の別の隅から声がした。火のないマントルピースにもたれるようにして、金髪碧眼のお嬢さんが立っている。
「バイヤー! いっつの間に」
「さっきからいる、と言ってるだろう」
全然気付かなかった。
化粧っ気も華美な装飾も無く、ごく自然体に見えるけれど、全身から品の良さが立ち上っている。司ちゃんとタイプの違う猫科の動物って感じだ。クロムちゃんが屈託なく話しかけた。
「なんだ、コハクも呼ばれてたのかよ」
「何だとは何だ、君こそ姉者の件で私を呼ばないとは何事か」
「だってオメー、暴走するじゃねえかよ……」
この国のお姫様に、ここまでズケズケと言うクロムちゃんって一体何者なんだろうか。他の子たちはコハクちゃんの素性を知らないようで、クロムちゃんの態度に違和感を見せない。
「龍水ちゃんは?」
「捕まらなかった。どっかの洋上にでもいるんだろ」
千空ちゃん、コハクちゃん、クロムちゃん、スイカちゃん、杠ちゃん、司ちゃん、そして俺。これで全員らしい。普段は多くて三人程度しか入らない部屋だから、椅子も足りないしなんだか狭苦しい。全員思い思いの位置に着いた。中心の千空ちゃんに視線が集まり、一瞬だけ、静かになった。
……急に、「何だか良いな」と思った。
各人が、収まるべきところに収まっている安心感というんだろうか。俺を含めた濃いメンツが千空ちゃんを囲んで、千空ちゃんの判断に絶対の信頼を置き、千空ちゃんの指示を待っている。そういう光景を、とても「良いな」と思う。なんだろうね、妙な既視感すらある。この子には、王の器があるんだろう。
「あ゛ー、じゃあ、始めんぞ。めんどくせえから俺からは一ミリも説明してねえ。クロム、今朝の話もっかいしろ」
「人使い荒ェんだよなあクッソ。いいけどよ、今度こそ教えろよな」
ただし、為政者の絶対条件は情報の占有だ。占星術師も錬金術師も、巫女の百物語だって、根幹は秘匿するっていうのに……この子は独占を嫌う。つまり王になる気はないらしい。もったいない気もするけど。
「俺が千空に聞きたかったのは、薬のことだよ。薬は飲みすぎると毒になる。それは分かるんだが……薄めた毒が薬になるってのはマジなのか? それは錬金術的にはどうなんだ?」
うわあ、のっけからキナ臭い。クロムちゃんも「これを言っていいのか」みたいな雰囲気で話しだしたものだから、さっそくコハクちゃんが身構えた。
「はいコハクちゃん抑えて。殺気抑えて。怖いから」
「ククク、どんな薬も毒になるってのはマジだ。ただし逆はケースバイだな」
「じゃあ、正しい場合もあるのか?」
「あ゛あ。例えば、ダチュラっつう花から抽出したアルカロイド系の神経毒なんかは、少量なら痛み止めや酔い止めになる。この前渡しただろ?」
「あー、あれか。あれ効くんだよなー。じゃあよ、温泉地の赤い石あんだろ。あれは?」
「……辰砂だな。火を吹く山の近くで採れるやつだろ。別名賢者の石。錬金術師御用達の素材で、熱すると水銀が取れる……アウトだな、完全なるアウトだ」
「……アウトなのか」
「顔料や薬の精製に使うこともあるが……そいつら、画家でも錬金術師でもねえんだろ? 単体で欲しがるやつは百億パーセントアウトだ。このへんは、占星術師のほうが詳しいんじゃねえのか?」
「……そうだねえ、東国じゃ昔の皇帝が不老不死の薬だって信じて、水銀飲んでよく死んでたはずよ。すっごいお腹下すから、身体から悪いものを出すって考えられてたみたい。でも今は薬効なんかないって知られてる。だから、毒殺用途でほぼ確」
不老不死の狐に呪われた地には温泉が湧く。その呪いから生まれた赤い石には妖力が宿っており、薬にすれば長寿を得られる。なんとも幼稚なおとぎ話だと思うのだけれど、それを信じた短命の皇帝は多い。俺の生国では昔語りのお話の中で受け継がれた、常識に近い知識だ。
「っていうかクロムちゃん、よく違和感に気付いたね、ジーマーで」
「おー。タイミングっつーかな。薬草の件があったろ? 薬草の流通ルート変えてから、買い付けの連中が『別の治療法がある』って言ってきたもんだからよー。さすがにおかしいと思ってな」
「クククやるじゃねえか。テメー、人ひとり助けてんぞ、多分な。……念のため聞いとくぜ。治療の対象は?」
「おう、ルリだ。百物語の巫女のな! アイツ肺病になって長ェんだよ」
スパっと心地よいほどの宣言に、室内が盛大に殺気立った。
「く、クロム、今なんて言ったんだよ!?」
「み、巫女様? え、じゃあコハクちゃんが言ってたお姉さんって、っていうかコハクちゃんって……ワォ……」
「王政府の……うん、陰謀ってことかな」
「ハ! やはり狙いは姉者か! そうと分かれば話は速」
「はやくなーい! コハクちゃんッステイステイッ!!」
絶句するスイカちゃん、同室のお姫様の素性に気付いた杠ちゃん、戦うべき相手を定めた司ちゃん、速攻でケンカ売りに行きそうなコハクちゃんと個性豊かなリアクションがそろった。ちょっと面白い。いや面白がってる場合じゃないんだけども。
「あ゛ーあ゛ー落ち着けテメーら。話整理すんぞー」
クロムちゃんが巫女様のために採集してきた薬草が、一部の卸で粗悪品にすり替えられていることが分かった。
クロムちゃんは、肺病に効く薬草をあちこちで採集している。特に巫女様の病状が悪化してからは、特級の上等品を探しては納品していたが、それが巫女様にきちんと届いていない可能性がある。それで、コハクちゃんに直接渡すように流通ルートを変えたところ、従来の買い付けの連中が「どういうつもりだ」と乗り込んできたらしい。
クロムちゃんがすり替えの話を(正直に)話したら引き下がったが、その後になって「われわれも知らなかった、迷惑をかけた」と詫びを入れてきた。そのときに「別の治療策」として、温泉地で採れる赤い石を欲しいと言ってきた。
クロムちゃんは経験的に、温泉地の悪臭には毒性があることを知っていた。天気の良い日に悪臭が強くなって、温泉地の山肌にトンビなんかが落っこちてるのを見ていたからだ。だから、温泉地の採集物が肺病に効くっていう話があまり納得できなかった。それで千空ちゃんに「毒ってのは、薄めれば薬になるものなのか」と、錬金術としての相談をしてきたらしい。
そこに、俺らがカセキちゃんの店で見たものを合わせれば、「薬草のすり替えには占星術府が関わっていた」ことと、「巫女様の暗殺を狙う動きがある」ことが推測できる。……最悪の想定をすれば、占星術府が巫女様の暗殺を企てている可能性も、ある。
「……ってことだな、クロム」
さすがに場がピリピリする中で、千空ちゃんが念を押す。クロムちゃんはふん、と腕を組んで「ああ、そういうことだ」と唸り、全員を見回して堂々と頭を下げた。
「おう、俺はルリが治れば何でもいーんだけどよ。あいつ、立場上利用されやすいだろ? ヤベーことに巻き込まれるのは許せねーんだ。悪ィけど、助けてくれ。……頼む」
頭を上げたクロムちゃんの目の奥が、甘やかに揺れる。ああ、恋する瞳だ。しかもコレ、本人気付いてないじゃん。
いやあ、いいなあと思っていると、コハクちゃんがそっと耳打ちしてきた。
「君、そういう目はやめろ。クロムは無自覚なのだ」
「メンゴ、つい尊くて」
「まあ、それは分かるがな」
「つーーーーわけでだ。クロム先生が惚れた女のピンチに動こうってワケだ。なんと偶~然、この国の根幹に関わる事件でもある。全員巻き込まれるしかね~なあ」
千空ちゃんが露悪的に笑いながら、まあまあ最悪な宣言をする。ジーマーで発言についてはどうかと思うんだけど、実際にコレ聞いちゃったら諦めるしかないよね。正直者の大樹ちゃんや苦労人の羽京ちゃんを呼ばなかっただけ、まだマシでもあるだろう。
「まあ千空ちゃんの発言は後で審議にかけるとしてだ。もう乗りかかった船になるし。こっからはどうするかを決めよっかあ♪」
とはいえ、採れる選択肢は少ない。ていうかこれもうメンツ的に、作戦決めてるでしょ? と思って千空ちゃんを見ると、「あとの仕切りはテメーに任せる」の目でコッチを見ていた。ったく!
「はい~~、じゃあまずは杠ちゃんコハクちゃんは別室にカモン。司ちゃんとスイカちゃんは宮殿付近のルートの共有しといて。コハクちゃんの準備が整ったらすり合わせて侵入ルート決めっから。で、クロムちゃんは千空ちゃんと組んで陽動。陽動作戦はどうせ千空ちゃんが目星着けてるんでしょ、そっちは話合わせといてよね!」
「ククク仕切りが早くて助かるぜ、さすが恋の伝道師だな」
「ジーマーで恋の伝道師関係ないかんな!?」
……
半刻ほどの後、身支度を終えて別室からの階段をしずしずと下りてきたコハクちゃんに、その場の全員が息を呑んだ。
「バイヤー……」
「きれいなんだよ……」
杠ちゃんお手製の巫女の衣装を纏い、髪を下ろしてふんわりとお化粧をしたコハクちゃんは、お姫様そのものだった。なるほどこれが生ける国の宝、権威の象徴ってやつか。立ってるだけでも美しいし、身のこなしからは気品に加えて鍛えられた体幹の強さも見える。着飾った自分をじろじろ見られることにも慣れきった様子でいるのも、かなり、良い。
そんなコハクちゃんを一瞥した(一瞥で終わらせやがった)千空ちゃんが、実に無感動な様子でいるクロムちゃんに話を振った。
「クロム、テメーしかジャッジできねえから教えろ。このコハクは巫女に似てるか?」
「顔だけはなー。でもコハクはゴリラだろ? 全然違うな」
「あ゛ー、んじゃ問題ねえな」
「なんだそれ? どういう意味だよ」
千空ちゃんがこういう時に、大樹ちゃんと杠ちゃんを長年見守ってきたキャリアを感じさせるのを少し面白いなと思う。男子の鈍さに対するスルースキルがいやに高いんだよな。この子の恋愛観が彼ら二人を源泉としているのは大丈夫かなあと思ったりもするのだけれど。
その杠ちゃんが、クロムちゃんの発言で自信なさげにしてしまった。
「絵姿の巫女様とか、コハクちゃんの話から作った服だけど……変かなあ?」
「いいや完璧だよ、クロムの女子への解像度が絶望的に低いだけだ」
にっこり。お姫様然としたお召し物のまま、イケメンの笑顔を杠ちゃんに向けるコハクちゃんがバイヤーかっこいい。これは罪作りだなと思ってスイカちゃんを見ると、もう完全に見惚れていた。いやあ、分かる。これは見惚れる。たとえば男装の麗人として舞台に上がったりなんかしたら、どんだけの女の子がコハクちゃんにガチ恋しちゃうだろう。
ついでに言えば、目にも留まらぬ速さでどつき倒されたクロムちゃんが足元で伸びているのも良いエッセンスである。噛み砕いて言えば、かなり楽しい。
千空ちゃんが一歩前に出る。全員の視線を集めてニヤリと笑い、話し始めた。
「さて、偶然にもここには今回の作戦に必要なそれぞれの特技を持ったメンツがそろっているわけだ。全員だいたい察しはついてると思うが、念のため占星術師のあさぎり先生から作戦の全容を説明すんぞ」
「ン俺!?」
さらなる雑なぶん投げにこのガキ、と言いたくなってギリでこらえた。そういうことなら俺のやりたいようにやったろうじゃないの?
「オ……ッケー♪ 全体像はここで共有すんね、みんなの能力や知識に依存するとこは適宜共有よろ。
……まず作戦の目的は『巫女様の誘拐』ね。はいコハクちゃんステイッ。立ち回り次第で英雄になるか犯罪者になるか変わるとこだから、ジーマーで速攻は謹んで。最終目標は人命救助だけど、救う対象が巫女様……ルリちゃんつったっけ? だから、本作戦ではひとまず誘拐の成功をゴールに置くよ。
俺らは大きく二手に分かれる。千空ちゃんクロムちゃん司ちゃんの陽動チーム、コハクちゃんスイカちゃんの侵入チームね。この陰謀には高確率で占星術府が関わっているから、まず千空ちゃんが陽動で占星術府や治安維持隊を引き付ける必要がある。罪にならない程度、罪に問われるとしても、千空ちゃんの仕業だってバレない程度の騒ぎを起こしてちょうだい。こういうのは大衆人気のある子がやっちゃうとジーマーで暴動になりかねないから、前面に出るのは千空ちゃんクロムちゃんの変わり者枠だけね。はい黙って意義は認めません君たちは変わり者です。
司ちゃんは前半は陽動チーム、後半は侵入チームに属してもらう。階級をまたぐ人気があるから、どこにいても怪しまれないし目立つでしょ。陽動が始まったら、暴動にならないようにその場にいる人たちを落ち着かせて、ついでにそれとなくみんなの注意を巫女の宮殿からそらしてほしい。騒ぎを抑えながら千空ちゃんが関わっていた痕跡なんかを消しといてくれると嬉しいけど、名誉市民なりたてで危ない動きは控えたいところだろうから、ジーマーで無理はしないで。
で、本丸。巫女の宮殿には侵入チームが入る。陽動の騒ぎにまぎれて、ひと目につかないように宮殿に潜入、ルリちゃんとコハクちゃんを入れ替える。コハクちゃんはそのままルリちゃんに成りすましてて。スイカちゃんはルリちゃんを連れて宮殿の外、司ちゃんのところまで送り届けて。司ちゃんはルリちゃんを安全にここまで運ぶ。ここは、スイカちゃんの探偵さんとしての能力をゴイスーアテにしてるから、シクヨロ。
陽動作戦の内容とか侵入ルート、合流地点なんかはチーム内ですり合わせしといて。杠ちゃんはこれ以上ここにいない方がいいから、俺が送ってくよ。……こんなとこかな?」
一気に説明を済ませる。全員が自分のすべきことを理解した顔でうなずいてくれた。
で、これでいいんだろ? と千空ちゃんの方を見と、まあまあ不満そうな顔をしている。
「占星術師、テメー……」
「ん? 何? なんかまずかった? 作戦変える?」
にっこり笑顔を返すと、小さく舌打ちした後に苦笑いする。俺が杠ちゃんを送るって名目で戦線を離脱してんのが気に入らないんだろう。
「いーや、何でもねえ。占星術師さんが絶妙に楽なとこ持っていきやがったのがちーと気になるだけだ。……スイカは司との合流後、司は巫女をここに案内した後は、速やかに帰れ。犯罪の片棒担いだことは一切口外すんなよ」
「任せといてなんだよ!」
「ああ、国の宝だ。……うん。傷ひとつつけずに送り届けるよ」
「コハク、テメーは大人しくしてろよ」
「千空? 君は私を何だと思っているんだ?」
「ゴリ……いや良い。で、クロム。さっきも言ったが俺らは空から行く。禁制品にビミョーにひっかかる実験も兼ねるぞ。ギリ犯罪にはならない程度でやるから我慢しろ」
「おう! 地獄まで付き合うぜ!」
「だから地獄には行かねえようにするつってんだろうが……杠は何か罪に問われそうになったら、全部占星術師のせいにしろ。脅されたとか適当こいときゃコイツがうまく片付けるだろ」
「ワオ、分かったよ」
千空ちゃんのドイヒー丸投げに、杠ちゃんは実に嬉しそうな、会心の笑顔を返した。マジか。
「はい、じゃあ作戦決行はいつ? 千空ちゃんの陽動開始に合わせるから、そのバイヤー実験のタイミングだけ教えて」
と聞くと、千空ちゃんはクロムちゃんと顔を見合わせて、新しいいたずらを思いついた少年みたいに笑った。
「あ゛ー、今この瞬間だ!」
「決まってんだろうが、速攻だぜ!」
そのまま飛び出して行く。
「え、ちょ、速!」
「展開の速さが売りなもんでな、文字通りの電光石火だ!」
「えっ、メンゴ何の話!?」
慌てて追いかけると、龍水ちゃんの邸宅の中庭に出た。なんつーか、デカい。もう中庭だけで、俺んちより広い。
で、その中庭のど真ん中に、何やら奇妙な金属の塊がある。クルマに似ているが下部に車輪がない。車輪のようなものは四つ、地面じゃなくて空に向かって付いている。ひどく窮屈そうな二つの椅子が縦に並んで入っている。ひっくり返って天に四肢を伸ばしたワニのようにも、地に伏した鳥のようにも見える。胴体には「SENKUU」という書き文字と、千空ちゃんの自画像らしき可愛らしい絵が刻まれていた。
「え、何これ?」
「ククク龍水様のスポンサードでカセキに特注してた飛行機だ。このへんじゃ星空を乱すつって都市部の飛行は禁止されてるしこのタイプの機構はほぼ初だからな! 見た奴らの度肝ォ抜けるぜ」
「ヒコーキ? 飛空艇のこと?」
「飛空艇は気球の進化版だがコイツは違う。飛空艇に不可欠なバルーンがねえだろ? バルーンで飛ぶと高度に限界があるからな。燃料のエネルギーで直接プロペラ回して揚力を得る!」
「分かんない分かんない。どういうこと?」
「ククク見てろ、こうだよ!」
千空ちゃんとクロムちゃんがヒコーキに飛び乗る。そのまま千空ちゃんが足元を何やらガコンと蹴飛ばすと、空に向かっていた車輪が急に回転を始めた。すごい音と風圧に、全員が身構える。ガウンの裾が勢いよくはためいて、奇術の仕込みがこぼれそうになった。
ゆっくりと、鉄の鳥が浮かび上がり始める。うそだろ?
「何コレ!? 何コレバイヤー!」
「ヤベー! マジで浮いてやがる!」
「錬金術って、空まで飛べちゃうんだよ!」
「あれ、この臭い、大樹くんが……」
「……うん、あの木の実の臭いだね」
「大正解だ杠アンド司ァ! テメーらにクソほど絞らせたトウゴマの油が燃料だ!」
「見事なものだな、錬金術というのは!」
千空ちゃんを除く、全員が目を丸くしている、その中で、千空ちゃんの全力のドヤ顔が輝いていた。逆立つ髪が、デーハーな三つ編みが、強風にあおられてバタバタと踊り狂っている。なんだこれ、なんだこの感じ。……いいじゃん! ゴイッスー楽しいじゃん!?
「おおおおおい千空! かかかかか風ヤベーぞ!」
「おおうクロムいいいい今ははははしゃべんなよ舌かむぞおお前ゴーグル使え目ぇ守れれれれ」
「おおおおおうきもちわりいいいなこれれれれ」
「てててテメーゲゲゲゲロ吐くなよおおおお」
「わわわわかってるけどよおおおオイとととところでコレなんつー錬金術だだだだ」
気球もなく空を翔ぼうとするのを見守る者が興奮する一方で、今まさに空に向かう当事者二人はガクガクと揺れる機体の中でグダグダの会話をしている。
四つのプロペラで垂直に上がった後は、プロペラの角度を変えて前後左右に動かすようだ。機体はしばらくフラフラと中空を飛びながら、徐々に姿勢を取り直していく。龍水ちゃんの屋敷の屋根を少し越えたあたりで、ピタリと静止した。操縦のコツをつかんだらしい。
操縦席から千空ちゃんが地上を見下ろす。ゴーグルを着けているから目元は見えないが、気持ち良く笑う口元で、すこぶる上機嫌なのが分かる。
千空ちゃんが、それはそれは気持ちよさそうに怒鳴った。
「錬金術じゃねえ! 科学の力で空を飛ぶ鷹……オスプリーだ! 唆るぜ、これはァ!」
空中で静止して魚を探し、獲物を見付けたら水中に向かって垂直降下する猛禽類の名だ。千空ちゃんの高らかな宣言と共に、飛行機は宮殿に向かってまっすぐに進み始めた。
「ハ! 作戦開始というわけだな!」
コハクちゃんとスイカちゃんが庭を飛び出す。司ちゃんはもういない。いつの間に出発してた!?
残された俺と杠ちゃんで顔を見合わせて笑う。
「いつも通りの即断即決ですなあ……」
「ねえ~……コレ、俺が戦線に出てもできたことって、実際な~んにもなかったよねえ?」
楽な仕事を選んだとはいえ、この小柄な女の子の護衛だって俺には荷が重いんだからねえ。
「じゃ、帰ろっか。大樹ちゃんとこに送るよ。お疲れ様、ジーマーで」
見下ろす目線になるのがいやだったので、少し背を屈めて目礼する。杠ちゃんはぱあっと花みたいに笑って、「ゲンくんのキザな振る舞いも、なかなかイケてますぞ」と褒めてくれた。
◇◇◇◇
「ゲン、待ってた」
「うっわあ!?」
杠ちゃんを、大樹ちゃんの元にまで無事に送り届けた。この二人が並んだときの尊さってのはまた格別で、それを眺める千空ちゃんを含めた三人の関係性が、俺は大好きだったりする。今回は千空ちゃんがお空を飛んでいるので、陽光のような二人の笑顔をもろに浴びることになり、恋の伝道師の存在意義に思いを馳せながら帰路についた……いや、あんな完璧なカップルなんてそうそう居ないんだけどもさ。
そんで、夕暮れ深くなる中でようやく占い小屋に着き、険しい顔の羽京ちゃんに出迎えられたところだ。
「う、羽京ちゃん、熱烈なお出迎えありがと……」
「大事な話があるんだ、ゲン」
「なになに、恋の相談?」
「違う。真面目に聞いて」
一瞬だけでもちゃかしてみたかったけれど、どうやらそういうものでもないらしい。何だ? 俺のマークが強化されるとかそういう話か? もしかして、ついに監視対象に入っちゃう?
名誉市民権というものは、得るのはまあまあ大変なくせに脆い。犯罪が確定すれば速攻で召し上げられるものだから、司ちゃんには表立って動いてほしくなかったのだ。それは俺も同様で、羽京ちゃんは本当にまごころから俺をかばい、俺のちゃらんぽらんな動きに釘を刺しに来てくれていた。
さすがに庇いきれなくなったのかな、悪いことをしたなと思ったのだけれど。
羽京ちゃんのお知らせはもっとまずいものだった。
「千空に出頭指示が出てる」
「え!? なんで!?」
「治安維持法違反の疑いだ。自由出頭と任意聴取ってことになってるけど、実質強制だよ。もう研究所にも手が回ってる。千空はどこにいる?」
「今は別行動とってる……え、なんでそんな急なの!? 警告なかったじゃない!」
羽京ちゃんが俺にしてきたような口頭での警告が何度か。その後書面での通達。それでも行動を改めない者くらいにしか、出頭指示なんて出ないはずだ。千空ちゃんの周辺で、そんな動きがあった気配はない。
「僕も妙だと思ってる、急すぎだ。……中央が絡んでるのかもしれない。君、何か心当たりない?」
心当たりは、ある。めっちゃある。けど。正確には。
「千空ちゃん自身が、これから心当たりを作りにでかけてるとこ……」
「まずいよ、もう出頭指示は出てるんだ。この時点で監視対象になってる。ちょっとでもまずいことしたら」
「し、してる……いま、鉄の鳥で空飛んでる……。もうすぐ、占星術府あたりで騒ぎが起きるはず……」
と、言ったところで、大きな爆発音が聞こえた。
ぱーん。どーん。どーん。
重火器の音のようにも聞こえる。何かと思って目をやると、占星術府の方向、巫女の宮殿の反対側のあたりで、空に大輪の花が咲いていた。白、黄色、青緑、オレンジ。とりどりの色を持つ光の花が、夜空に浮かんでは消え、咲いては燃え尽きている。
「……花火」
打ち上げ花火だ。星空を乱すから、占星術府から事前に許可を得る必要がある。まずい。
「ッあ゛ぁ!」
だん、と羽京ちゃんが地を踏んだ。「アウトだ! これから千空は拘束対象になる!」
ああ。どうしてこう、あの子はこうまでタイミングが悪いんだ!
どうすればいい。千空ちゃんは何も知らない。市民として保障されている自由行動の範囲内、あるいはちょっとの取り調べで済むと考えているはずだ。でも、監視対象にある中でこんなことをしたら、最悪術師資格の剥奪だってされ得る。まずい。まずい。まずい。
「お、俺、千空ちゃん止めてくる」
「もう遅いよ! どうするつもり!?」
「中央に巫女様暗殺の動きがあんの! 千空ちゃんはそれを知って止めに行ってる! 出頭指示は中央の対抗策だ!」
「えっ、巫女、暗殺、え、ええええ!?」
「ありがとう羽京ちゃん、ここまで分かれば動きようもあるわ。ジーマーでありがと。行くわ。……俺なら、大丈夫だから」
そのまま飛び出し、占星術府のほうに向かった。
息が苦しい。こんな全力で走ったのなんて、何年ぶりだろう。俺、いつも余裕を忘れないキャラだったはずなんだけどな。おっかしいな。
走りながら、遠い記憶が胸を去来するのを感じていた。いつか、こんなふうに、走ったことがある気がする。何かから逃げるためじゃなくて、誰かを助けるために。誰かの力になるために。そう、今の俺がしているように、いつかの俺も全力で。でも、道なんか、もっと悪かった気もするけど。
……なんだろうな、イマイチ思い出せねえや。まあいいよ、今はとにかく。
宮殿の、高い壁が見える。どう侵入しようか考えながら走っていると、司ちゃんがちょうど、占星術府から巫女の宮殿に向かっているのが見えた。俺は千空ちゃんと違って運が良いらしい。
「司ちゃん!」
「ゲン!? 一体……」
「メンゴそん中入る! 手、貸して!」
スピードをゆるめずに叫ぶと、司ちゃんはすぐに察して壁に背をつけ、ぐっと腰を落として低い位置に両手を組んだ。話が速くて助かっちゃうね、ジーマーで!
飛びつくように迫って眼前で跳躍し、司ちゃんの両手に足を乗せる。
俺の重心が移動するタイミングに合わせて、司ちゃんが落としていた腰を上げる。背筋と肩の筋肉が順に唸り、最後は全身で伸び上がるようにして、俺の体を放り投げた。
ぐうん、と体が飛翔する。
「バーーーイヤーーーー!」
視界が急激に上昇して、壁を超える。明かりの灯った占星術府の、伏魔殿みたいな全景が見えた。壁の向こうは芝生の中庭だ。見回りもいない。よおし俺ってばジーマーでラッキー!
「……ふんっ!」
最頂点で貧相なバネを目一杯使って身をひねり、姿勢を整え、両膝を深く曲げて着地した。だん、という音とともに少しバランスが崩れ、上半身が倒れる。両腕も使って、どうにか衝撃を逃がす。額から、弾けるようにぼたぼたと、大粒の汗が落ちるのが見えた。
「……ふーっ! ふーーーっ……!」
心臓が暴れ回っている。落ち着かなきゃいけない。ゆっくりと息を吐く。吸う。吐いて、吸う。脈を、整えろ。思考を、取り戻せ。
「ゲン、大丈夫かい?」
「あっ、りが、と、……だ、だいじょ、っぶ」
「あまり大丈夫には聞こえないよ」
司ちゃんの声に応えて、思っていた以上に自分が興奮していたことを自覚する。マジだ。息なんかとぎれとぎれじゃん。
「うん。そ、そーね。そうみたい……っふーーー…。今度こそ、大丈夫……ありがと、ジーマーで」
「うん。よかった。気をつけて。……千空たちを、頼むよ」
「うん……オッケー♪」
そのまま、司ちゃんの気配が遠ざかる。ふうっと一息ついて、だいぶ思考がクリアになっているのを感じた。……周囲を見回すと、さっきよりも視界が広くなっている。
千空ちゃんとクロムちゃんが乗っていた鉄の鳥が、視界の端にひっかかった。近づいて見てみると、機体に損傷はなく、周囲に血痕なんかもない。多少傾いてはいるが無事に着陸したらしい。
ただ、周辺に真新しい足跡が複数ある。千空ちゃんお気に入りの、鉄板が入ったごつい革ブーツだけじゃない。もっと洗練されたもの……占星術府の支給品のものもある。連行は、されているらしい。
連行されてるってことは……千空ちゃんとクロムちゃんは、無事だ。ここまでは。
高い壁に囲まれた占星術府は、王宮務めの占星術師たちの宿舎も兼ねる。そのため外からの侵入には厳しいが、一度入ってしまえば動き回るのは易かった。
占星術府の中に警察機構は無いから、いるとすれば会議室か晩餐室だろう。会議室は利用の記録が残る。不正をするなら晩餐室、しかも占星術師の最高位である星導師長が使う、最奥の応接室のはずだ。
はやる気持ちを抑えて、ふかふかの絨毯が敷かれた宮殿を歩く。中に入ったのは資格取得と更新のときの数回だけだけれど、この国の占星術師が好んで使う星図を模したレイアウトなのは分かっていたから、迷う懸念はなかった。目指すは北の天頂星だろう。星を読んで民衆を導く導師長の立場を、旅人を導く北の星になぞらえているに違いない。
だから応接室は、天頂星の手前にある、親子星のあたりにあるはずだ。
……あった。
天頂星の位置の少し手前に、不自然に重い扉が設けられている。
星図に従うなら、星の通り道として開放されているべき場所だ。天頂星の権威は利用するくせに、空の巡りには敬意を払わないのか。星道よりも、自分達の密談を優先しているんだろう……品がないね。俺、こういうの嫌いだな。
腹の底に、ぶくりと湧いた不快感を押し込めながらゆっくりと扉を開ける。見慣れた友人たちの姿があった。
軽食の乗ったテーブルの端、大仰なソファの傍らに、千空ちゃんが……倒れている。
クロムちゃんが千空ちゃんの頭を持ち上げて横を向かせている。気道を確保しているみたいだ。クロムちゃんは扉が開くのを恐怖の目で捉え、俺の姿を認めて泣きそうな顔になった。
「ゲン!」
「千空、ちゃん」
「……ゲ、ん?」
なんだ、何だこの光景は。旅人を導く天頂星の直近で、千空ちゃんが。
怒りで頭がくらくらするのを必死で抑えながら、二人に駆け寄った。……だめだ。落ち着け。見境ない怒りは、思考を鈍らせる。
「クロムちゃん、何があったの」
「着陸してすぐに捕まって、ここに連れてこられた。軽食の準備がしてあった。歓待だつって。千空が食ったのが半刻前くらいだ。だんだん様子がおかしくなった」
「なんでクロムちゃんは無事なの?」
「分かんねえ。俺も少しは食ったんだけどな。千空の呂律が怪しくなってからヤベーと思って、連中が部屋出てくまでは、俺も倒れたフリしてた」
「連中ってのは?」
「なんか金ピカの服着た占星術師たちだ。奥に行った」
星導師長とその取り巻きの星導師だろう。くそ。どういうつもりだ、と歯噛みしていると、千空ちゃんが薄く目を開けた。
「……テトろドトキしン、だ」
「千空!」「千空ちゃん!」
「くく、意識は、はっきり、してん、ぞ」
ぽそり、ぽそりと言葉をもらす。話しづらそうだ。舌が回っていない。
「末端の、痺れ、頭痛、皮膚感覚の麻痺……おそらく、フグ毒、だ。ククク、俺に、拘束令が、出てたらしいな。市民権のないクーデター犯が死んだとこで、誰も怪しま、ね……動き、の、早いこった」
「千空、何でか知らねーが俺は無事だ。何をすればいい」
「クろム、テメーに渡しタ、酔い止め、あん、だろ」
「おう、あんぜ。あれだろ、ダチュラのなんとかロイド」
「あるだけ、飲まセ、ろ」
「分かった」
「待って待ってさっきジーマーの毒って」
「あ゛ー、バリバリの毒だ。アルカろイど……テトロドときシン、と、相殺しあ、う……ちぃト乱暴だが、解毒できっかも、しんねえ。クク、俺の体力がもてば、だが、な……っ、ん」
「飲めたか? あと何すればいい」
「水、飲まえろ。俺あ、動けなく、なう。呼吸に専、念すっ、から、流シ、込。小便漏らすまデ、飲ませろ。ぜんぶ、洗いナが、す」
千空ちゃんはそのまま、目を閉じ、ぐったりと体の力を抜いた。ヒュウヒュウと浅く、辛うじて息をしている。
ちょっと無理だな、と思いながら、立ち上がった。
「……あーあ」
「? ゲン?」
クロムちゃん、メンゴ。俺ちょっと、我慢の限界っぽい。
「……俺、あんま怒んないんだけどな」
チッ、と鋭い舌打ちが聞こえて、それが自分のものだって気付くのに少し時間がかかった。革グローブを歯で噛んで脱ぎ捨てる。
「クロムちゃん。千空ちゃんは任すね。俺行くわ」
「……おう」
「ど、ひた、クろ、む」
千空ちゃんが目を閉じたまま言い、クロムちゃんが耳に口を寄せて答えた。
「ゲンがキレてる。奥に行くらしい」
ふふ、と息が漏れる。多分、笑おうとしてるんだろう。クロムちゃんが「しゃべんな」と言いながら、布の端に湿らせた水を飲ませた。
きっと千空ちゃんは大丈夫。クロムちゃんがついていれば。
俺は、俺のやるべきことをしよう。
「っは、じゃ、つえー、な……マジであいつ、の、怒りポイント、わかんねー、は、は……」
奥に向かう背後で、息も絶え絶えな千空ちゃんの無声音が聞こえる。扉を蹴り開けると、天頂星の位置……星導師長の星読みの間に続く、短い廊下が見えた。
「え、お前マジで分かってねえの?」
クロムちゃんの声を背に、俺は重い扉を閉めた。
錬金術師は恋を知る
銅板ブッ叩いて伸ばして削って円盤にして、それを磁石で挟んで回転させると電気が生まれる。電気を塩水に通すと、ポコポコと泡が立ち始めた。今回欲しいのは、泡が多い方の電極から出る気体だ。電極の上部には水で満たしたガラス瓶が逆さに置いてあり、発生した気体が混ぜものナシで封入できる。まー微々たる量だが、ギアを組み合わせて回転数を上げたら、あとは別作業しながら足踏みのペダルでも踏んどきゃいい。
ペダルを組み込んだ簡易机で発電作業ついでに論文をまとめていると、クロムがひょっこりと顔を出した。
「おう千空、何してんだよ?」
「空気より軽い気体を集めて、ミニ気球を作る」
「これで何が分かるんだ?」
「最終目標はエーテルの発見だが、今回はどこまで上がるかの調査だな。目視には限界あるから、クソほど長え糸つないで飛ばしてみる。……まともに測定できるかは未知だが」
麻袋の中の空気を暖めると飛ぶのは、重量は変わらないまま体積が膨らむから……つまり、密度が疎になるからだ。ただし、気球では高度に限界がある。数千メートルから先に行けないのは、上空の空気と気球内で温めた空気の密度が釣り合ってしまうからだ。
つまり、空気は地上から離れるにつれて、どんどん減っているってわけだ。……じゃあ、減っていった先には何がある?
このガラス瓶にためた(この正体すら分からない)燃える気体は、とりあえず空気よりもかなり軽いことだけは分かっている。だから、こいつをためた風船が空気を温めて飛ぶよりも上空に行けば、「その先」が存在する可能性を示せる。
「……つっても、エーテルが本当にあるのかないのかも分からない。俺もどっちかってーと懐疑派だ。概念的すぎる」
それに、盛大にお空をブンブン飛び回ってから三週間ほどしか経っていない。この気体で作った風船をどういう状況で飛ばせばいいかも、まだ決めかねている。今の時点では、あまり派手な動きはしないほうがいいだろう。だっていうのに、クロムは目を輝かせた。
「へー、面白そうじゃねえか! 実験ンときは俺も呼べよな」
テメー、まがりなりにも共犯者じゃねえか。自分がどんだけ危ない橋渡ったと思ってやがる。何ならまだ危ない橋の上にいるんだぞ。テメーが匿ってる女が何者なのか忘れてるんじゃねえだろうな。コハクだっていつまでもつか分からない。
何なら今、俺が何でこんなに自由に動けているのかだって、実はいまいち分からねえんだ。俺の拘束令は大っぴらになる前に取り下げられたようだが、少なくとも監視は続いているんだろう。でなければ、羽京先生が「千空、いい加減にしなよ」なんてお説教しに来るはずだ。大枚ふんだくって俺の解毒治療を手伝った龍水先生が、サービスで根回しでもしてくださってるんだろうか。あれだけ巻き上げたんだから、そのくらいはやっておいてほしいもんだが。
……中央で何かが起きていることは間違いない。だが、情報が入ってこない。正直、じれってえところだ。
じれってえが、こういうときは、できることをやるだけだと思っている。で、クロムが今できること、すべきことってのは一つだ。
「あ゛ー、そんときは呼ぶ。だから今はとっとと嫁んとこ帰りやがれ。薬はそこの棚にあんぞ」
「おう、サンキュー」
俺の薬草なんかより全然効くんだな、すげえな科学の抗生物質ってのはよ。なんて言いながら、クロムはガラス瓶に入れた小分けの紙包みを回収している。からかうつもりで言った「嫁」に照れる様子もなく、こういうところは大樹とは違うな、と妙な方向で感心した。
「いくら効いたって作れなきゃ意味ねえだろ。俺の体がマトモに動けるようになるまで保たせたのはテメーの薬草だ」
「まあな、別に僻んでるわけじゃねーよ。中毒がどんだけヤベーかくらいは知ってるしな」
「あ゛ー。そうだったな」
コイツはもともと自身自分を実験体にして、あらゆる薬草を試していた。錬金術と出会って危険を回避するのがうまくはなったが、基本的な経験知はセルフ人体実験に基づいている。あの場にいたのがクロムだったのは、本当に心強かった。
「ちゃんと時間守って飲めよ、あと三日分で終いだ。身体が怠ィのも薬のせいだが菌ブチ殺すためには不可避だ。肺の症状が軽くなってても必ず飲みきれ。菌に耐性が着いたらいよいよ手に負えなくなるかんな」
「わーってるって、こまけーんだよなー科学」
そのまま出ていこうとしたクロムがふと立ち止まる。こっちを振り返って言った。
「なあ、ゲンからの連絡、まだこねーのか?」
「……あ゛ぁ」
できるだけ軽い調子で、流すように返したつもりだ。うまく言えているだろうか。
俺はあの日、占星術府の連中にテトロドトキシン……フグの毒を盛られて、中毒症状を起こした。クロムにほとんど症状がなかったのは、毒を摂った量が少なかったのに加えて、事前に酔い止めとして微量のアルカロイドを服用していたからだ。アルカロイド……ダチュラから抽出した酔い止めは、テトロドトキシンと相反する性質を持つ。原理的には一緒に飲めば毒性を打ち消し合うが、分量も不明だし俺の体力が保つかも未知だった。今こうして後遺症もなく研究室にこもっていられるのは、成人男性様たる俺自身の生命力が毒に打ち勝った証といえる。
毒にうなされている間のことは、あまり記憶にない。司が連れてきた巫女と一緒に、龍水が経営する豪華なプライベートクリニックに匿われていたらしい。コハクが巫女に成り代わって宮殿にこもっているため金の出どころがなく、意識混濁状態のまま、俺が二人分の入院費用を払うことになったという。意識を取り戻し、身体が動くようになったところで莫大な入院費用に度肝を抜かれ、治療の方針には事前に本人の同意を得ろってクレームつけてだいぶ値切った上で分割払いを認めさせて、早めに退院したのが二週間前だ。
その後、大急ぎで薬の精製に入った。入院を続けている巫女の状態が悪く、薬草での快癒には無理があると分かったからだ。急いで抗生物質を投与しないと間に合わなくなる。それに、入院が長引くと俺の財布が空になる。
それで抗生物質ができたのが十日前。投与を始めたらみるみる状況が改善した。それで、巫女が一時退院って形でクロムの家に匿われたのが、三日前。ギリで財布の底が抜けるのは免れた。
……その間、占星術師からの連絡はない。
アイツが連絡もなく、ふっとどこかに行くことなんて、珍しくもない。数ヶ月も姿を見ないなと思っていたら、数日ぶりみてーな顔で「おっつ~♪」なんて言いながら、見たこともない地方の食い物なんかを手土産に現れるもんだった。
最後に食った土産は、確か西国の菓子だった。砂と山に囲まれた中に広大な草原地帯があって、そこで馬を友とし持ち歩ける住居で旅をしながら生きる民族がいるっていう。そこで食われてる、不思議な茶と菓子を振る舞われた。
茶はやたら濃かった。正式には熱く焼いた砂に手鍋を埋めて煮出すもので、本来の味とは違ったらしい。菓子のほうは見た目こそ砂岩や石鹸に似た地味なもんだったが、口に入れるとエキゾチックな風味がふわりと広がって、菓子そのものは泡のように崩れて消えた。ねっとり甘いのに歯応えを感じないほどに柔らかく、後味も良くて、気がついたら二人で平らげてしまっていた。持ってきた占星術師が「バイヤー、こんっな美味しいなら買い占めてくりゃよかった」とか言って目を丸くしていたあたり、露店か何かで適当に調達した菓子だったんだろう。
その前は北国の缶詰だった。旅行者の朝食用に作られたもの、だったか? 蒸した穀物と肉を混ぜてペースト状にしたもので、率直な見た目の感想は「北国の連中は朝からコレ食ってんのか?」だった。で、肝心の味は、もう信じらんねえくらいクソマズかった。一口食べて衝撃を受け、とはいえ貰いモンを当人がいる場で吐き出すのはさすがに失礼だろうと必死で飲み込んだ眼の前で、持ってきた当人が「うがぁ!」って悲鳴と共に盛大に吹き出し、むせ込んだ上で「……メンゴ……」って言ってきたんだった。あとは海藻をトマトで煮たっていう缶詰も買ってきていたが、間違いなく不味いので開けてもいない。……あれ、まだどっかにあんな。コイツに押し付けるか。
そう思って視線を戻すと、クロムは何となく居心地悪そうにしている。早く帰りたいのが見え見えで、少し笑っちまった。
「何笑ってんだよ」
「なんでもねーよ、早く帰れよ」
家よりも野山で寝ることの方が多いような冒険家が、ひと月近くも街から離れていない。嫁呼ばわりもあながち大袈裟じゃねえんだろう。
「おう、サンキューな。……あ、そうだ。龍水が呼んでたぜ。隠れ家に来いって。入院費用の残額について話したいってよ」
「あ゛ぁ!?」
「伝えたかんなー」
そのまま研究室の戸が閉まる。お手製のサイクリングマシンをきこきこと漕ぎながら簡易な物書き台にペンを走らせる、間抜けな俺だけが残された。
◇◇◇◇
「……支払い期日はまだ先のはずだよなあ?」
貿易と資源流通を牛耳る七海の異端児、庶子ながら一族随一の商才を持つと言われる龍水が、貧しい貧しい錬金術師サンに向き合って余裕げに笑っている。俺にとっては大金だがコイツにとってははした金にあたる、そんな額の話をするために呼ばれたことにイマイチ納得ができず、事実関係の確認から入ることにした。
清潔で設備の整った場所で回復に専念できたのはおありがてえが、何せ凄まじい額を請求されている。言われるがままに支払えば普通に俺は食い詰める。
よってこの場は事実上、借金取りに泣き付いて支払いを待ってもらう場だ。
「そうだな、だがそれは衛生用品の納品を前倒す条件と引き換えだったはずだ。違うか?」
「……違わねえな。いま鋭意製作中だ」
「七海クリニックの一部で消耗品が不足している。底をつく前に補充したい」
「前倒しつっても納品日はベストエフォートで合意したじゃねえか。消費が速すぎるんじゃねえか?」
「そもそも大量に消費したのは貴様自身と貴様の連れてきた御仁だろうが。一日二日の前倒しで債務履行と見なすのはさすがの俺でも難しいぞ?」
「連れてきたのは俺じゃねえ!」
……とはいえ、他に行くアテが無かったのは厳然たる事実だ。どうにも分が悪く、苛立ちを持て余しているのが自分でも分かる。
龍水は「フゥン」と少し考えるようなそぶりをしたあと、定位置にしているソファに深く背を預けて、言った。
「これは、ビジネス抜きの友人としての意見だが……貴様、まだ休んでいたほうが良いんじゃないか?」
「っ、……」
バカにするな、と言いかけて、止める。龍水の声に、揶揄の色はない。
「支払いは待っても良い。利息は勉強してやる。貴様が倒れては元も子もない、それでは俺も困る」
「……ククク、そんなに悪そうに見えたかよ」
「そうだな、普段なら貴様は自分のコンディションが悪ければ、相棒なしで俺との交渉には来ないだろう。判断力も低下しているということだ。違うか?」
龍水が、部屋の隅にある小さなランプをちらりと見た。カセキの店で一悶着起きた後、占星術師が詫びがわりに買ったものだ。買ったはいいが持て余したらしく、いつの間にかこの部屋に置いてあった。
コイツとの交渉に一人で臨むなんて、思えば馬鹿なことをしている。こういう時はアイツを呼んで、定位置にしている場所……この、猫足の密談椅子の背面側に座らせとくもんだった。アイツは手遊びでカードなんか弄りながら俺と龍水の話に耳を立てて、このえげつない商売人の交渉術を盗んでいるようだった。それが牽制になるのか、占星術師がいる場では、尻の毛まで抜かれるような不平等条約を結ばされたことはない。
「……違わねえな」
両手を上げて降参のポーズを取る。お手上げだ。俺の苦笑に、龍水は少し眉を歪めた。
「貴様、俺が支払いの督促をしてくると思っていたな?」
「あ゛? 違うのかよ。さっきの条件の話は何だったんだよ」
「違うぜ。貴様が初手からピリピリしていたから事実関係の整理に付き合っただけだ。……内密の動きだが、貴様には王政府から謝礼が出るはずだ。それを待ってからの支払いでいい。今日はそれを言いに呼んだ」
「マジかよ、何でテメーがそんなこと知ってる」
「はっはー! 七海の情報網を甘く見るなよ! ついでに言うが、中央も一枚岩ではない。少なくとも貴様の身は王政府の巫女派から守られることになるはずだ」
あの徹底した秘密主義を貫く王政府内の動きまで分かるのかと、少しぞっとする。為政者の絶対条件は情報の占有だ。七海龍水は、商売の発展には平穏が不可欠だと考えている男として知られ、あらゆる国の情報、つまりは弱みを握って世界のパワーバランスを管理している。そいつが「俺は安全だ」と言うのだから、それは真実なのだろう。この国の本当の支配者は、王政府じゃないのかもしれない。
そして反面、「俺以外は違う」ということも意味する。あの日占星術府の中枢に消えた、ゲンは。
「……俺の身は、か」
俺の声が曇ったのに龍水が敏く気付き、ぽそりと言った。
「ゲンからの打診はまだか」
「俺んとこにはな。テメーは?」
「俺にもだ。実は足取りがつかめていない……が、こんなものが届いている」
「あ゛?」
ぽん、と龍水が投げてよこしたのは、見慣れない豪奢な封筒だった。
「フランソワが開けて、貴様宛てだろうと渡してきた。俺は中身は見ていない」
「蜜蝋の紋章は……王政府だなあ?」
「正確には、巫女の宮殿からの準公式書簡だな。木蓮のモチーフが入っている」
本当だ。盾と獅子と鉱石のメインモチーフの下部に小さな花の文様がある。なぜ俺宛てに、わざわざ龍水を経由して?
「心当たりはねえな」
「ここで開けるのか? 恋文だったらどうする」
「ならテメー宛てだろうが。俺に来るかよ」
ニヤニヤと笑う龍水を無視して封を開けると、一枚の紙切れが滑り出てきた。二人でのぞき込む。
「……チケット、だな」
「チケットだなあ、中央劇場の」
豪奢な封筒から落ちたのは、俗っぽいデザインの観劇チケットだった。はやりのラブコメ喜劇だ。確か大樹と杠、ゲンも行ったって言ってたやつ。
「指定席券、今夜の公演だ。席は……フゥン、上等じゃないか。ボックス席だぜ?」
マジだ。あの劇場は演目は俗っぽいが、席の格差は厳しい。窮屈な椅子並びの席と違い、ボックス席は上等のドレスをお召したお貴族サマ御用達のはずだ。要するにかなり高い。倹しく生きる市井の錬金術師には縁のない席だ。
「なら尚更俺宛てじゃねえだろ。テメー用じゃねえのか?」
龍水はチケットを拾い、ぴらぴらと振りながら、俺の素朴な疑問を鼻で笑い飛ばした。
「貴様、俺のフランソワの判断を疑うのか? ……あぁ、そういうことか。間違いない、貴様宛てだぜ」
ちらりと席番を見て、合点がいったように笑う。
「何でそうなるよ」
「よく見ろ、二階五番のボックス席だ。贈り主の心情くらい察してやれ」
「いっちミリも分からねえな」
「フゥン、無粋な男だ」
無粋には自信がある。この席が意味するところも送り主の心情にもまるで見当もつかないし興味もない。ただ、どうやら俺の身を守ってくださっているという、王政府の巫女派からの贈り物であれば、少なくとも固辞するのは悪手だろう。
行ってみるべきかと考えたこともあったしな。
「……言っとくが、お貴族様みてーなお召し物の手持ちはねえぞ」
錬金術師の衣装のまま、ガチャガチャと装飾具を引っ提げて行ってやろうか。ガキが駄々こねるみてーだなと思いながら言うと、龍水が呵々と笑った。
「そこは心配無用だ。そうだな、フランソワ?」
パチン、と指を鳴らす。いつの間にか、フランソワが見るからに上等そうな布を一式掲げ、背後に立っていた。
「杠様にお願いしました」
逃げ道ナシかよ。
「……上代の請求先は王政府だぞ」
◇◇◇◇
指定された時間、指定された劇場に行くと、ボックス席の客専用の入り口に通された。一般席の客とは通路もロビーも切り離されており、席につながる扉の前には専用のガードマンと個別の待合室まである。五番ボックス席の待合室には、既に先客がいた。
「何だ、テメーらも来てたのか、クロム。コハク……と、」
クロムは見るからに着なれない正装で、立ってるだけで精一杯な様子だ。コハクは着飾った町娘みてーな姿でソファに浅く座り、茶を飲んでいた。それからもう一人。コハクに対面して座る女がいる。
顔立ちや髪の色こそコハクに似ているが肌は青白く、線が細い。聞くまでもないが。
「……テメーが、国の宝か」
「ルリと申します」
女は楚々と笑う。そうか、これが、この国の。
女を値踏みする趣味はねえが、フツーの女だな、と思った。この国の根幹をなす百物語の語り部。王政府が貫く秘密主義の中心にいる、口伝の物語の守護者だ。国の土台は神話だ。俺を含むこの国の人間が共有する神話が、人のかたちを成したもの。
いろいろと聞きたいことはある。開演までの半刻ほどが、俺に許された時間ってことなんだろう。
「……なんだってクロム、テメーが国の巫女と懇意だったんだよ」
「おう、ガキの頃はよく遊んでたんだよ、病気になってからは宮殿からなかなか出られなくなったけどな。もともとコハク並のおてんばだったんだぜ」
「懐かしいですね。コハクと一緒に、ロープで宮殿の壁を登って抜け出そうとしている時に、すぐ外にクロムがいたんですよ」
「宮殿の周りには、このへんじゃちょっと珍しい野草なんかが残ってるかんな。そこにルリが落ちてきた。それが最初だ」
「そうそう、クロムごと野草の籠まで潰してしまって……お父様にもだいぶ叱られました」
巫女は目を細めながら、少しはにかんでいる。そこ照れるとこなのか。
巫女がそんなホイホイ下野して街を練り歩いていたっていうのは少なからず意外なものだった。百物語は一子相伝の口伝だ。巫女の身に何かあれば、断絶だってありうる。籠の鳥みてーに生かされているものだとばかり思っていた。
「まー俺も最初は驚いたけどよー。誰も巫女の姿なんか見たことねえだろ? バレねえんだよな、フツーに」
「ハ! クロム、千空が驚いているのはそっちじゃない。ルリ姉の身の安全のことだ。ルリ姉の身に何かあれば、百物語が断絶するのではないか。そう危惧しているのだよ」
「あ゛ぁ……そうだな。ガキの頃から聞かされてきたおとぎ話だ。その守り手が、あの宮殿のたっけえ壁から落っこちてくるのは、なかなか怖ェ話だな」
思うままを言うと、巫女は……ルリは、にっこりと笑って言った。
「百物語は、もう完璧な姿では残っていないのです。長い歴史の中で、いくつかの物語は欠落しています」
「……マジか」
俺たちが百物語として聞くことのあるお話は、たしかに巫女が守る物語の一部である。
古代の勇者の冒険譚、さまざまな鉱石や物質の名前、喋る墓石、毒のある生き物の物語。ガキがワクワクするようなおとぎ話もあれば、教訓や知識の伝承を目的としたものも、意味の分からない話もある。いくつかの物語は秘匿され、書物にも残されずに巫女が守っている。「そういうこと」にされている。
これらの話は、おそらく国の始祖が子孫に知識を語り継ぐために創作したものだ。国が大きくなり、事実上不要になっている話も、意味不明になっている話もある。墓石が蜂の力を借りて喋るって話なんかは死者の弔いの故事とされているが、蜂が何のたとえなのかは分かっていない。
……何のことか分からないのは、原型が失われたからだ。
いくつか欠落しているとはいえ、百物語はこの国を支える神話として十分有効に機能している。文書化して遺すプロジェクトも完結しており、巫女に万が一があっても文書から百物語を蘇らせることは可能なのだという。
ただし文書が国の権威そのものになると文書の奪い合いが政争のキモになるから、文書はあくまで複写の扱いだ。巫女が百物語の守護者という状況に違いはない、が……
「……つまり巫女は、替えの効くお飾りってワケか」
「君、千空ッ!」
「いいのですよコハク、その通りですし、そうあるべきなのですから」
きっとはるか昔、今よりもずっと人間が生きることが困難だった頃に、この物語を語り継ぐことで命をつないだ世代がいたのです。
そうして人の暮らしが発展していく中で、その役割を終えていったのでしょう。
秘匿された物語の中には、特別な名や物質に関するお話もありますが……きっと、その時点ではとても重要だったのです。でも、それが今の世代の足かせになるのであれば、それは秘匿されたまま失われても良いものだと考えています。
百物語は、巫女の解釈や伝え方で、いくらでも変わってしまう危ういモノでした。私はそれを占有できる立場にあります。
「……だから、巫女がこの国を象徴していることには変わりありません。その引き換えに、神話を操る権力も持っていたのですよ。今はそれを、少しずつ手放しているところです」
たおやかな笑顔のままで国を動かす力を語る様子に、ぞくぞくとしたものが背中を駆けた。フツーの女だ、と思ったのは勘違いだったらしい。
「おっかねえ女だな、巫女ってのは」
思わずクロムに言うと、クロムは心底から不思議そうに言った。
「そうかぁ? ゴリラのコハクのほうがよっぽどおっかなくねえか?」
「……懲りないな、君は」
せっかくの一張羅のままボコスカに締められたクロムを横目に、ルリは懐かしむような、慈しむような、不思議な視線をこちらに向けた。
「あなたの名は、石神千空というのですか?」
「あ゛ぁ、そうだ」
「千空。百物語は、始祖の優しさから生まれた物語です。わが子に絵本を読み聞かせるような祈りが込められています。……でも、個人の優しさや献身で救える数には限りがあります。あなたが私に処方してくれた薬は、科学でしょう? 科学は……積み重ねた知識は、個人では到底補えない数の人を救って、支えてくれる。これも優しさの形なのだと思います。とても大きくなったこの国に必要なのは、もう百物語そのものではないのかもしれません」
「……知らねえよ。百物語がつないだモンがあったから、科学も発展してんだろ。いらねえなんてことは、ねえんだろうよ」
われながら、ガラにも無いことを言っているなと思う。何だこれは、とくすぐったいような気持ちを持て余していると、ルリは嬉しそうに笑った。
「千空、あなたはとても優しい人なのですね。聞いていた通りです」
聞いていた、って……誰からだ?
そう聞き返す前に、開演のブザーが鳴った。
◇◇◇◇
ボックス席の椅子に腰をおろしたクロムが、小さく「うぉ」と声を上げた。龍水のセーフハウスにあるソファもかくやという大きさと深さで、すっぽりと収まると疲れた身体が宙に浮くような心地がする。公演中に寝ちまうかもしれねえな。
ルリとコハクは、慣れた様子で姿勢良く座っている。隣でくつろぐコハクを見て、なるほど髪の結い方が普段と違ったのは、椅子に頭を預けやすくするためだったのか、と納得する。これも占星術師の言っていた「行ってみないと分からないこと」の一つなんだろう。
演目のほうは、惚れた腫れたのドタバタ喜劇だった。主人公は恋人と結婚の準備を進めているが、女好きの上司が恋人に横恋慕している。それで上司が「部下の嫁を一晩好きにできる」っていう法律を作ろうとしていて、それを阻止するために、上司の嫁さんと結託し、女装した若い男を使って事態を引っかき回す、とかいう話のようだ。
筋だけ言うとクソほどくだらねえが、曲が良い。それと、事態を引っかき回す役目を担う、女装した若い男ってのがものすごく目立つ。背が高く、見栄えがする。歌も、ものすごくうまい。コハクが小声で「いま一番人気の、男装の麗人だよ」と教えてくれた。コハクごしにルリが舞台に見とれ、その先でクロムが盛大に船を漕いでいるのが見える。
一般席を見渡してみると、観客の七割程度が女だった。どいつもこいつも、男装した女の演じる女装した若い男(何だそりゃあ)に心を奪われている。あとはカップルのツレが多く、一人で来ている男はほとんど見当たらない。
……ほとんど、見当たらないが。
「コハク、気付いてるな」
そっと耳打ちをすると、コハクは軽く笑ってうなずいた。
「……君が気付くとは。相手も二流だな」
男一人で来ている客の中に、不審な奴がいる。ただでさえ少数派の男客が、演目の盛り上がりにほとんど無関心でいるのはさすがに不自然だ。見る限り、四人がこちらに注意を向けている。その中の一人に見覚えがあった。カセキの店に来た、視察団にいた顔だ。
「あれは護衛か、監視か?」
「護衛は待合にいるよ。そんな無粋なことはしない。監視だろうが……もしかしたら、何か難癖を付けられる可能性もあるな」
「王政府の巫女派と占星術府ってのは、ずいぶん仲がお悪いらしいな」
「察してくれると助かるよ。……ただ、大衆娯楽の場を乱すような真似はしないはずだ。円形闘技場の暴動以来、中央は民衆の怒りを恐れている」
「にしちゃあ、ずいぶんと刺々しいが?」
「そうだな、あまり組織的な感じはしない。私怨かもしれない」
もしか、たら、追っ、のは。私た、じゃ。な、……
コハクの声が、突然途切れ途切れになった。
コハクの声だけじゃない。舞台の歌声も、楽団の演奏音も急速に遠ざかっている。何だコレは。急襲か、薬物か。
こんな作用を及ぼす薬物は知らない。クロムはどうしている? と周囲を見回そうとして、何も見えないことに気付いた。
視覚と聴覚の消失。触覚を探ると、ソファに座っている感覚もない。上下も左右も分からず、闇の空に放り出されたようだ。
こんなことができるやつ、一人しかいない。
嗅覚を手繰り寄せると、知った香りがした。
少しだけ異国情緒を感じる、微かな香。
テメーか。いるのか。なあ。オイ。
「……ゲン、か?」
「正~~~~解♪ 百億満点~~~♪」
すぐ背後から、明瞭な声がした。
何も見えない。方向感覚もない。なぜか身体も動かせず、自分が立っているのか座っているのか、寝ているのかさえ分からない。ほとんど消失した身体感覚の中で、背中側に人の気配がある。耳が詰まりそうな無音の中で、占星術師の声だけがいやにはっきり聞こえた。
「……どーいう奇術だ、こりゃあ」
「俺のオリジナル♪ 具体的には企業秘密だけど」
背後の気配がくくっと笑う。ヒョロヒョロとした長身の背中が震えるのを知覚できた。
「テメー、そこに、居るのか」
と問うと、軽やかな声が「いるよお」と応える。
「ちょーっと暴れすぎちゃってね~。事態が落ち着くまで逃げ回ってるから、劇場で秘密の逢引でも洒落込もうかと思って招待したんだけど……なんかバレちゃってたみたいね」
「じゃあ、あの占星術府の連中が追ってんのは」
「そ、俺~♪」
キナ臭い話をしているが、声の調子がいつも通り軽くて、少しだけホッとする。
「ずいぶんと危ない橋渡ったみてーだな。何した、テメー」
「具体的には占星術府を潰しちってさ」
「まッ……じかよ」
「ジーマーなんだよねえ、これが」
硬い組織が内部で割れて、今は互いの尾っぽを飲み込み合ってるとこよ。トップと取り巻きが壊れたから、数年もたないでしょう。
組織として肥大化しすぎてたのよ。権威を高めるために、占星術に百物語を取り込んで王政府と台頭しようなんて動きも出てた。俺の師匠の国が滅ぼされた決め手も占星術府の内部政治だったんだけどさ。結果的に東国の戦火が広がったじゃない? そんで占星術府の立場が危うくなってた。で、焦ってつまんない中抜きで小銭かせごうとしたり、巫女様にまで手ェ出そうとしたりしてたみたい。遠からず瓦解してたよ。俺はその背をちょーっと突っついただけ。
でもさ~トップが壊れちゃったもんだから現場が大混乱! これまでの膿が吹き出したのまで俺のせいにされちゃって、もう私怨バイヤーよ。
占星術府はいずれ王政府に吸収されるんじゃないかな? そのタイミングでうまく立ち回れば、錬金術師の立場も上がるかもしんない。クロムちゃん弟子にしたげなよ。王宮術師と巫女様のカップル、いいじゃん。逆マイフェアレディだ。
宙に浮いたような状況の中で、占星術師の声に意識がつなぎ留められているような気さえする。ペラペラと軽やかに話す声に少し安心感を覚える。
「……ここは、劇場なのか」
「もちろん♪ ここは五番のボックス席、劇場に棲まう怪人(ファントム)専用シートよ」
「どうやって入った。部屋の前の護衛は」
「さぁ~~? いい夢でも見てんじゃない?」
「テメーはどうなる、いつ戻る」
「あはは、しばらくフラフラしてよっかな。もう占星術師の特権もなくなっちゃったし、やりたいこともあるし」
「やりたい、こと?」
「奇術と星空と恋心に国境はないのだよ、科学者クン♪」
もしさ、千空ちゃんがこの先、科学を続ける中でこの国が窮屈だって思ったら、外に出てみると良いよ。
この国では錬金術、東国では錬丹術。北にも、南にも似たものがあった。世界中の人間が、似たものを探してる。
千空ちゃんが一歩一歩、地道に解いてる問題も。いつか、つながると思うんだわ。
ああそうだ、北国の鉄の馬なんか、千空ちゃん好きかもしんないよ。沸かしたお湯で車輪が回る、馬のいらない馬車があってさあ。一度に二百人とか運べちゃうのよ。バイヤーでしょ。
「あ゛ー。そりゃあ、唆るな」
「でさあ、どんな国にも似た神話があったよ。千空ちゃんならきっと、その謎を解けるよ」
俺もそん時に備えてっからさ。
オイ。どこに行く気だ、テメー。
「じゃね~♪」
す、っと背中の気配が遠ざかる。
待て、という前に、
身体感覚が、一気に戻った。
「ッハ!」
心臓がバクバクとうるさい。全身にじっとりと汗をかいており、一気に戻った視覚と聴覚、触覚は、たしかに俺が劇場にいることを知らせた。
思わず立ち上がる。ゆったりしたソファの背後には、当然ながら誰もいない。隣のコハクが、不思議そうにこちらを見ていた。
「千空? どうかしたのか?」
「……いや。なんでも、ねえ」
コハク越し、ルリが目を見張っている。こちらを見て小さく頷いた。クロムは……完全に寝てるから、イマイチ分かんねえな。
それで一般席のほうを見ると、こちらを伺っていた不審な男たちが慌ただしく立ち上がり、出口に向かっているのが見えた。その中の一人が中央付近の席から通路に出ようとして他の客に迷惑がられている。壇上の役者やそれ以外の客の様子に、変化はない。
アイツはこの劇場の中から、狙った人間だけの知覚を奪って、幻覚を見せていたんだろうか。
……でも、確かめる術はなさそうだ。
舞台上では、主人公と恋人が歌っている。
健やかなるときも、病めるときも、決して離れず共に生きよう。
なるほどこれが恋する二人の最高潮というやつなのだろう。
離れずにいることが、誓いの全てなんだろうか。
そうかもしれねえが、それだけでもねえだろう。違うよな……なあ?
喜劇は、クライマックスを迎えようとしていた。
エバー・アフター
国境封鎖や指名手配がされている様子もなく、異国民にピリつく様子もない検問を淡々と抜け、俺は「東国出身の旅行者」として送り出された。
国境を超えてからしばらくは山道が続く。当面、追っ手は来ないだろう。
崩壊した組織は、それほど巧みな根回しはできない。沈みかける船からなるべくたくさんの財産を盗んで逃げ出そうと、誰もが足の引っ張り合いをしているはずだから。
でも、私怨ってのは公的な手続きをすっとばしてダイレクトに個人に届くものだ。だから、あんまりナメてもいられない。人の心は脆くて怖い。気をつけなきゃなあ、と思う。
持ち出せたのは、最低限の衣類と路銀の入った小さな手提げ鞄だけだった。あとは身につけられる奇術や占いの道具くらいで、他のものはほとんど置いてきてしまった。まあ、一人で食ってくくらいどうってことないだろう。身軽なもんだ。
さッて、どうしよっかねえ。とりあえず一服しようかな、なんて思って袖口を探っていると、背後からガラガラと馬車が迫る音がした。追い抜きざまに「あ、止めてください!」と若い女の子の声が聞こえて、馬車が急停止する。
「占い師さん!」
「ん? ……あら~~~!」
窓から女の子が顔を出す。数ヶ月前に占ってあげた子だ。春の衣を着て狙いの男の子とデートしてごらん、ってアドバイスして、あの時は頬なんか染めて可愛らしくはしゃいでたものだけど。
「お久~~~! しばらく来ないからうまく行ってんのかなって思ってたよ~~~♪」
そう言いながら、隣の男の子を見る。ちょっと小柄で、実直そうな青年だ。彼女と親しげに話す俺を、少しだけ警戒の目で見ている。あら~~愛されてんじゃん!
「はい! あの、あのあと、その、付き合えることになって……占い師さんのおかげです!」
「うわぁ、良かった~♪ いやあ~、俺は女の子が恋してる姿が大好きなだけだよ~ホントよかった~~♪ なになに、新婚旅行? お引っ越し?」
「そう、そうなんです! 彼、技師なんです。北国の技術がすごく発展してるっていうから。私も着いていくって決めて」
「え~~ゴイスー決心じゃん!」
キャッキャとはしゃぎあう俺たちに、カレシのほうが警戒心を解いていくのが分かった。
「お店、閉めちゃったんですか? お礼言いたかったのに、いつ行っても閉まってたから……」
「うん、俺、優秀すぎて君たちみたいな素敵なカップルがどんどん生まれるもんだから、恋占いの仕事がなくなっちゃってさ~」
「あはは、なにそれ!」
「いやいやジーマーよ、それが嬉しーんだし。幸せになってよね~!」
心からの本音だ。末永く幸せになってほしい。
軽く別れの挨拶を済ませると、馬車が再び走り出す。手を振ると、カレシのほうも軽く目礼をしてくれた。地に足のついた生活をする男の子と、そんな人に恋をして人生を変えていく女の子。なんて素敵なんだろう。恋ってのは、幸せな勘違いから始まるものだ。そうやって始めたものを、時間をかけて確かな形にしていく人たちは、すごい。
心がぽかぽかと温かい。いやあ、幸先いいね、ジーマーで!
再び踏み出した一歩は、さっきよりも軽い気がする。
天を仰ぐと雲が高い。地面に引かれた国境先を超えても、空は何にも変わっていなかった。
了
(Bonus Track)占星術師かく語りき
あさぎりゲンが蹴り開けた扉の先には、高いドーム型の天井を持つ豪勢な部屋があった。ドームには星空を模した装飾がある。頂点部のひときわ大きなマークが北の天頂星だ。占星術府のトップ、星導師長の椅子はその真下にあった。ゲンが目の前の老人をにらみ付けると、両脇に侍る女が「あら」と声を上げて、若い男を品定めする視線で頭のてっぺんから爪先までを舐めた。
星導師長は王政府から派遣される占星術府長直属の部下として、占星術府を仕切る官僚にあたる。王政府のような任期制ではないため在籍の年数は長くなりがちで、現在の星導師長は在任二十五年になる。
国境線で東国と大きな衝突が起きた際、星の巡りから王政府に神託を与えて勝利をもたらしたとして占星術府の内部政治を制し、星導師長に就任したのは若干三十八歳の時。その後は穏健派として経済活動の再開に取り組み、特に国家資格としての占星術師の地位向上と術師の増員、徒弟制度の推奨による戦災孤児の救済に尽力した。
「国を護るためとはいえ、人々を傷付けるために星を読んでしまった」と語り、生涯を通して戦禍の咎を負うと誓ったことから「贖罪の星導師長」とも呼ばれる。
不正の温床を大切に大切に培養していただけの人間が、贖罪だと。ツラの厚さに恐れ入る。
「アンタが、星導師長だな?」
ゲンが声を掛けると、取り巻きの占星術師たちがボスを守るようにゲンを囲んだ。星導師長は風貌こそ精悍な男としてのピークを過ぎているが長年組織のトップにいた者にふさわしい威厳を放っており、器の大きさを示すように、ゲンのぞんざいな物言いを聞き流した。
「……東国のテロリストか?」
「いいや、不正と陰謀に巻き込まれた友人を助けにきたヒーローだね。アンタの署名入りの術師免許も持ってるよ」
「この、無礼な……!」
取り巻きの一人が、ゲンを黙らせようと飛び掛かってきた。
ゲンが目も向けずに男に手のひらを突き出すとガウンの袖口から白い花弁が数枚舞い、男の眼がぐるんと上を向いた。男は「あ」とか「けェ」とか言いながら数歩後ずさり、ぶんぶんと手を振り回してふらふらとよろけ、足をもつれさせて仰向けに転んだ。転倒してもなお頭をあちこちに振りながら、絞められる鶏のような声を上げ続けている。
視線誘導と五感のコントロールだ。男はいま、主観的には虚空に放り出されている。何も見えず、何も聞こえず、上下左右も分からない暗闇の中で、恐怖に我を忘れているところだ。お前が大好きな空だよ、とゲンはうっそり笑う。磨き上げた技術で見せられる宇宙の幻覚は怖いだろう。お前には命綱はやらない。
「妖術……邪教の者か!」
「やはりテロリストだな!」
「神聖な天頂星の間でこれ以上は!」
他の取り巻きがうろたえている。自分の理解できないことは、全て「妖術」だとか「邪教」とかいう雑な認識の箱にぽいぽいと放り投げてきたのだ。そんで自分は、キレーな星空を偉そうに語るだけで人を見下し、他国を犯し、富を独占できるものだと思っている。それが占星術師だと思っている!
「邪教? テロ? 神聖な、天頂星ぃ?」
あはははは!
怒りのあまり笑い声が出た。
「救いがたいもんだねえ無知ってのは! 懇切丁寧に教えてやる気なんてないけどな!」
大きく右手を振り上げて、部屋全体を闇で包む。そこにいる全員の視覚と方向感覚を奪った。ゲンを取り囲んでいた中の一人が「ひ、ひぃ!」と叫んで腰を抜かすのが分かった。汚らしい音と共に異臭が漂った。誰かが吐くか、漏らすかしたらしい。
「な、なんだ、これは!」
取り巻きの中でも、年長にあたる男の声が聞こえた。正気を保っているものは他にもいるようで、互いの名を呼び合っている。ゲンは「へえ、」と声に出さずに感心した。意外に残ってんじゃん。あと何人かは狂うと思ってたけど。さすが、利権で結ばれた絆は強いものだ。
「あはははは! 気が変わった、俺は優しいから少しだけ教えてあげよう! これはお前らが空だと思っているものだ。お前たちが星だと思っているのは、はるか昔の光の残滓、存在しない幻だよ!」
「て、テロリストの子供だましに乗るな! 声の方向を見定めろ!」
なんと健気なことか。声の方向どころか自分が向いてる方角も分からないだろうに。
「あ〜その声、視察に来た男だね? 花街の香水はお気に召したあ~?」
「貴様やはり東国のスパイだったのか! クソ、国家術師の特権に乗じて……!」
「あーっははは! なに言ってんの? スパイはアンタじゃん!」
「な、んだと!?」
「くッだらない話! 中央の機密情報としょぼい中抜きで稼いだ小銭を手土産に、西国に逃げるつもりだっただろう? アンタ、巫女に手ェつけようとしてたのバレかけてたもんなあ!」
「な、んだと! 貴様、そんな、でっちあげを」
「ははははバカだね~ごまかせると思ってんの? そろそろ西国の貴族からの念書と、アンタが巫女に送った気ッ色悪~い書簡が妻子のもとに届いてるよ。複写は首都報道社にも届いてる。あの女記者が見逃すと思うなよ?」
「ち、違う、ちがうあれは、私は、ただ」
「知んないね、ジャッジすんのは俺じゃない!」
それだけ言って、ゲンは男の聴覚も奪った。何も聞こえないまま「違う、違う、あれは、巫女様だって」とか何とか、聞くに堪えない言い訳を繰り返す上司に、部下らしき連中が動揺している。
そうだよな、自分たちがまとめていい思いできると思ってたのが、実は上司だけトンズラしようとしてたんだからな。ああ、それとも、本気で占星術府を敬愛してたのかな?
……じゃあ、お兄さんがいいこと教えてあげよう。大サービスだ。
ゲンは、混乱する中の一人の知覚を解除した。開いた視覚に飛び込んできたのは、地獄のような火の海だ。灼熱の火の玉に、身体が飲まれようとしている。吸気とともに炎が肺を焼き、空を掻く手が端から消し炭になっていく。
「う、うわ、うああ!」
「これはお前らが太陽だと思っているものだ。水のもといから生まれた炎は何よりも熱いだろ? この世界で最初に生まれたエネルギーに飲まれて死ぬんだ、幸せなことだね」
次の一人は、狂い星の兄のもとに送り込む。強力な磁気嵐を生身に浴びた人間が実際にどうなるのかは分からない。極点の空には美しい光のカーテンがかかっているはずだけれど、目の前の嵐から逃れようと足元ばっかり見ている者は天の美には気付けない。占星術師が空を見ない、なんて愚かなことだろう。
「軌道を辿れないのは術師を惑わすためじゃない。この国の大地が世界の中心にないからだ。狂ってんのは星じゃなくてお前の目だ。この国では夜空の天蓋を操るのが占星術師の仕事だと思ってる愚か者がいるらしいね。操れると思ってんのか、この電磁波の嵐を?」
さらに一人。若いのに気骨のある奴がいる。そういえば、さっきから暑苦しく正義っぽいことを喚いていたな、と思い至り、聞いてやることにした。コイツ何言ってんだ?
「ここ、こ、こんなまやかしに、屈するもの、か。百物語と、占星術を、けけ汚すなど」
あー、なんだ。理想に燃えるお坊ちゃんか。そんな奴には事実だけで十分だ。
「お前の父親は地方領主だったな。いま民衆が父親の不正を知って暴動を起こしてるよ。知らないの? はぁん、まだ甘やかされてんの。もうお前には後ろ盾も帰る場所もないよ」
「デタラメを言うな! いや、たとえ真実だとしても、私はこの国の」
「あーそうだ、お前には想い人がいたなあ? 栗毛のかわいい娘。あれ、お前の中央入りのためにパパがお前のボスに献上してるよ。手紙が途切れたのはそのせいだ」
「や、や、やめ」
「やーめない。お前の周りは汚泥の池だよ、ただお前がなぁぁんにも知らされてなかっただけだ」
そのまま視覚を奪う。暗闇の中で愛する父と想い人の幻影にキスでもしてな。
もう一人、もう壊れかけてる奴がいる。さっきのボンボンの随伴者か何かか?
「お前、賢くないね? じゃあ教えても無駄だな。このまま潰れてな」
光すら逃げられない重力そのものの塊。その中心部にある特異点に向けて、蹴り落とした。
男は悲鳴も挙げずに中心部に吸い込まれていく。でも中心に近づくほど時間が遅くなるから、永遠に辿りつけずに落ち続ける。ゆっくりゆっくり落ちながら、身体が引き伸ばされていく苦痛と恐怖で知覚を満たしていくだろう。
「誰も味わったことがない、贅沢な経験をさせてあげよう」
……これで雑魚は一通り片付いただろうか。そう判断したゲンが腕を振ると、全ての虚像が消えた。
導師長の部屋には、人の形をしたものがあちこちに転がっている。宇宙の環境に認知を壊されたもの、木星の磁気嵐に脳の神経回路を焼き切られたもの、太陽内部の核融合に五感を溶かされたもの、ブラックホールの中心に向かって泳ぎ続けるもの。姿かたちこそ人間のままだけれど、ひとをひととして律していた理性の仕組みは、不可逆的に壊れている。
「……きったねーの」
やりすぎたかなあ、と少しだけ思い、まあいいや、と気を取り直す。初撃に全火力をぶち込むのは戦いのセオリーだ。
「……面白い妖術じゃないか。いや、奇術か? 東国の占星術師」
部下たちが壊れていくのを何もかも見ていた星導師長が、どこか賞賛するように声をかけた。
「二流を集めたつもりはなかったが……こうもあっけないとは」
「それ、褒めてんの?」
「ああ、そうだとも」
ゲンの苛つきすらいなすような余裕ぶった振る舞いが鼻についた。老人ってのは脳も心も老い衰えるもんなのか?
取り巻きを踏み越えて一歩踏み出す。両脇に侍っていた女たちも、いつの間にか逃げていたらしい。じゃあ遠慮いらないね、とゲンは拳を握り、広げた。指の関節がコキコキと鳴って、暴力の歓びを求めている。
「若いの、名は?」
「幻」
「ははは、良い名だな。ファントム、私と手を組むか? お前の持つその真理、全て焼き払ったつもりでいたものだ」
「そうだろうね。あの国を潰した時に、お前は人も書も焼いた」
「あの時は、そうするしかなかったのだ。だから私は贖罪を、と」
「黙れよ。知らないとは言わせない。どの国にも似た神話がある。それらをつなげればもっと早くに講話と発展が得られたはずだ。北国からの共同研究の誘いを断り続けているのはお前だろう? 美しい嘘をそれらしく飾っておけばカネになるものな。そのために滅ぼしたんだろう、占星術の起源を」
次は何を焼くつもりだ。錬金術か、科学か? もう遅い。
お前たちは大きな間違いを犯した。国を滅ぼしても、人を焼いても、知識は消えない。俺を殺しても人間は探究をやめない。人の歩みは止められない。馬車から帆船まで何年だ? 北の国では鉄の馬も走ってる。空を飛ぶことだけ禁じて何になる。人は遠からず、月に向けて旅立つよ。俺の知識はもう世界中に蒔いてある。宇宙が光より早く膨張するように、お前は世界から取り残されている。お前が隠した世界の真理も、いつか科学が解き明かす。
宇宙は普遍じゃない、変化を否定するお前たちに未来はない。今だけ豊かに過ごせればそれでいいと思っているだろう。なら俺がその今すら消してやるよ。
「ははは、そこまで知っていて、なお怒るか。青いの」
「黙れ」
眼前に見下ろす老人は、逃げるつもりもないらしい。ゲンはためらいなく、その顔を素手で掴んだ。
最初っから最後まで、これは私怨の攻撃だ。テロと言われれば確かにテロである。
「……大サービスだよ。お前には、宇宙の始まりを見せてやる」
全てが生まれる前、時間すら存在しなかった頃の姿だ。いつか終わるこの宇宙の、エネルギーの山を超えた先にある安寧。そのさらに先にある、大きさもないエントロピーの塊の中に連れて行ってやる。宇宙一個分の情報だ。収めきれるか、その脆弱な知能で?
直接、情報を送り込んだ。エネルギーのトンネルを抜けて真空が崩壊する。相転移と同時に空間が反転し、それと同時に、老人はひとのあり方を見失った。
◇◇◇◇
「……手が汚れた」
静かになった部屋で、ゲンはぽつりとつぶやいた。お前を守る盾にも武器にもなる、大切にしろと言われ、やすやすと奇術を見せないためにできるだけグローブを着用していた手だ。その手が、老人の鼻から漏れた黄色い体液に汚れている。不快だな、と懐紙でぬぐって投げ捨てた。
こんなもの、ただの奇術だ。師匠に叩き込まれた世界の真理。宇宙のはじまり。そういったものの一部。「そういうもの」として全てを飲み込み、法則として一応の理解はした上で、幻覚を見せて理解を補助するような……つまりはお勉強の教材としての映像技術を磨いた。視線誘導の奇術は、とても役に立った。
師匠の故郷、占星術の起源国が焼かれたとき、本も知識もそれを持つ人も焼かれた。戦火をからがら逃げ出した師匠も、最後までは逃げ切れなかった。だからこの知識の継承者はゲンだけだ。ただしゲンはそれらを確かめ、証明する技術は持たない。知っていることと分かることは違う。これは「ただ知っていること」、語り継がれた知識だ。
再現と反証を受け入れて証明できない知識に正当性はない。だからゲンは自分の知識を、現時点では全て「嘘」だと思うことにしている。
でも、千空は実験でそれらに近づいている 地道な一歩一歩で、確実に真理に迫っている。きっとゲンの知る真理を科学で証明し、その誤りも見つけ出すはずだ。それは、ゲンにはできないことだ。
だから今は行く先々で奇術として、こういう映像を少しずつ見せて回っている。ささやかな種まきが、いつか何かの糧になるかもしれないから。――いつか千空がこの国を出て科学の輪を広げるときに、協力者が現れるかもしれないから。
人を壊すために使っていいものじゃなかったけれど……まあ、俺のオリジナルだし。
百物語も、そうやって作られたものだったんじゃないかと思う。
……さて、これから俺はどうしよう。さっきのおっぱいのデカいオネーチャン達、南国の子っぽかったよなあ。じゃ、南国と仲の悪い北のほうにでも逃げようかな?
このへんだろうな、と北の星の回転軸のあたりを探ると、やっぱり部屋から脱出する抜け道があった。これ使わせてもらお。
あさぎりゲンは悠々と部屋を出る。
占星術府は、こうして崩壊した。
【参考文献】
Newton別冊 『無とは何か』 2020年1月17日
Newton 別冊 『時間とは何か』 2022年7月15日
小学館の図鑑NEO 『岩石・鉱物・化石』 2022年6月22日
新版イメージの博物誌 『錬金術 精神変容の秘術』 2013年5月17日
米原万里 『旅行者の朝食』 2012年9月20日
【奥付】
発行者:酔(@Sui_Asgn) / 限界集落(いろ様@iro_dcst合同サークル)
原案・表紙イラスト:いろ様(@iro_dcst)
表紙デザイン・ディレクション:三觜様(@kamado_de_gohan)
カバーグラフィック:するめ製作所様(@SURUMEworks)
鉱石名監修:ラテン語たん様(@Latina_tan)