#1.全力少年 これはサラリーマン教師の仕事だからな、悪いけど付き合ってくれよと言えば、目の前の少年はどっかりと椅子に腰掛けたまま「へーへー」と生返事をした。
変声期を終えたばかり、成長期の真っ最中。ついでに思春期も拗らせる時期の生意気盛りの中学生の中でもこの少年が際立って目立つのは、何も独特な風貌のせいだけではない。級友に囲まれて楽しそうに笑い、幼馴染の早弁をからかい、科学部の部員たちから「部長」と慕われる歳相応の性質と、非凡を突き抜けた頭脳を合わせ持つ少年ーー石神千空は、年長者への遠慮も教職員への敬意もまるで気にしない様子で進路面談に応じていた。
「ぶっちゃけお前はバックレると思ってたぞ、先生は」
「わざわざバックれる合理的な理由もねえ。センセーが言いたい事ァ分かってるよ」
悪びれもせずにニヤリ。大人の本音を笑いとばすのも、子猫が爪を研ぐような戯れに近くて、つまりはとても可愛らしい。つくづく人に愛される子供、それが石神だった。
「……で、だ。進路。広末高校一択なんだな」
「あ゛ぁ。他は考えてねえ」
「一応聞くぞ、何でだ」
「近いから」
「言うと思ったよ! ったく、名門私立も企業高校もこぞってお前のこと欲しがってるのは知ってるよな?」
「いや興味ねーし関係ねーしなあ」
「授業料免除やら給付型奨学金やら、言い値で出すから受験してくれだとよ、まるでヘッドハントだ。全部蹴る気なのか?」
「全部蹴ってんのにメールやら電話やら待ち伏せやらで誘われて迷惑してんだ、なんとかしてくれよセンセー」
「目立ちたくないなら夏休みの宿題でフィールドワークの研究論文なんか書いてくんなよ!」
「あ゛? センセーあれ読んだのか?」
「そりゃ一応な!? 何だよラッサ熱の現地調査って、あぶねーだろググッてビビったんだからな!」
「秋休みにはエボラの調査行くけどな~」
「勘弁してくれよホントお前さあ……」
「へーへー、百夜にも言われたわ」
でぇん、と生意気そうにそっくり返っていても、反抗期特有の怒りを持て余すような気配はない。不遜な態度も甘えから出るもので、例えば目の前の大人が本気で怒っても自分なら最終的には許されると思っている……そういう、底抜けの甘え上手はこの少年の強みでもある。
「……じゃあ本当に、広末以外は考えてないんだな」
「あ゛ー、他は考えてねえ」
「……分かった。じゃあ、進路相談はここまでだ。こっからはオッサンの独り言と思って聞き流してくれ」
「ん? おう。」
「石神、お前の美点は底抜けの人の良さだ。自分じゃそう思ってないだろうけどな。世界が広がって、大人と絡む機会が増えれば、どうしても嫌なモンを見る機会は増えると思う。……ただ、お前を祝福する人間が、いつもお前の周りに集まるはずだ。そういうものを、大切にしてくれ」
「……100億パーセント意味不明だな、まさにオッサンの説教だ」
「ああ、それでいいよ」
「部室行ってくるわ」
「おう、手続きは終わらせとく」
頑張れよ、俺が言うまでもないけどな。
そう声をかけると、去りかけの薄い背中がピクリと止まった。
ゆっくり振り返った赤い瞳が夕日を反射して輝き、少しだけ照れるように伏せられたあと、
「……おう」
とだけ言い、天才少年は今度こそ白衣を翻して去った。
◇◇◇◇
「分かってるんだ! それができれば悩まん!」
小川杠が進路相談を終えて手芸部室に戻る途中、廊下をびりびりと震わすような大声が聞こえた。
声の主――大木大樹は、普段なら柔道部の道場にいるはずだ。でも、ここから声が聞こえるということは、きっとこの先の科学部室だろう。ちょうど借り物を返す用事もあったし、どれどれ? と覗き込むと案の定、科学部のひょろひょろした白衣姿に混ざる巨体が、ひょろひょろ白衣の中でも一際細長く、後ろから見るとネギそのものの男子に泣き付いていた。うーん、いつ見ても遠近感がバグりますな。
「やあ、大樹くん千空くん、進路のお悩みかね?」
ひょいと口を挟めば、大樹どころか部室の科学部員まで肩をビクンと跳ね上げて爆速で振り返った。どういうことだろう、さっきまでの騒がしさが嘘のように部室中が静まり返っていて、どうやらその中心にいるのは……自分、らしい。
「……わお」
ここまで注目を浴びることは想定していなかったから、さすがに少し怯む。
「ゆ、杠ー! 今の話、き、聞いて」
静寂を破ったのは、やっぱり大樹の大音声だった。薄い氷を踏み抜くようにわずかな緊迫感が霧散する。大樹のこういう、空気を全く読まないところを杠は割と……割と、好ましく思っている。
「ん? 成績の悩みか青春の悩みかい? 私も聞いてあげようか?」
「あ、あ……」
盛大に口籠もる大樹と、あわあわと浮き足立つ科学部員が面白い。何だろうなと思っていたら、幼馴染のもうひとり、ネギ頭の千空が、ゆっくり振り返りながら笑った。
「あ゛ーあ゛ー、大当たりだ杠、コイツ合格判定Dで超絶ヤベェんだとよ」
「そ、そうなのだ! ありがとう千空!」
「ッ馬ァ鹿かテメー! ここでありがとうはねえだろ!」
どこかほっとした様子の大樹に、今度は千空が焦ったように返す。
「補習なら私も付き合うよ。千空くんの解説面白いし」
「う、うむ……だがこれ以上、千空にもおじさんたちに迷惑かけるわけにもいかん。高校進学を諦めて働く進路も考えたのだが……」
「だぁからソレはダメだつってんだろ雑頭! テメーは広末に入ンだよ! 成績の事ァ俺に任せとけ!」
「す、すまん千空、本当に恩に着るぞー!」
大樹がまた大声をあげながら千空に抱きつき、避け損なった千空がヘッドロックの体制になって「身長差考えろ! 殺す気か!」と叫んだ。どちらも血縁のない養育者の元、少なからず複雑な環境で生活している。そんな中でまっすぐに育つ正反対の2人がいつも仲良くしていることを、杠はとても眩しく思っている。
「男の子のこういうところ、本当にいいですなあ」
と感じたままに言うと、なぜか部室全体にほっとした空気が流れた。
「あ゛ー、で、だ、杠。俺からイッコ詫びがある」
ヘッドロックから抜け出した千空が、小指を耳につっこんでニヤリと笑った。
「ん、何だい、珍しいね?」
「明後日、大樹の試合あったろ、知ってっか?」
「いやあ? 試合が近いのは知ってたけど、いつかは知らなかったなあ」
「んだよ雑頭テメー日時も言ってなかったのか。あ゛ー、でな、俺が関係者チケットで応援に行く約束してたんだが、超~絶! 重要な研究のミーティングが入っちまってな。行けそうにねえんだ。杠テメー代わってくんねえか?」
「ん、いいけど、なんで私? っていうか大樹くんも珍しいね、千空くんに応援を頼むなんて」
「あ、あ、その……」
大きな体躯をしおしおと縮める大樹に、杠は微笑ましいようなもどかしいような気がしてくる。大樹はいつもこの真っ直ぐな性根で、杠の頑固な一面を朗らかに受け入れてくれるのだ。だから、そんなに自信なさげにしないでほしい。だって、そこが、大樹くんのーー
「コイツの超絶カッコイイ所、見てやりやがれっつってんだよ」
もったいねえだろ?
片口だけ吊り上げる独特の笑いに合わせてついでのように付け足された言葉は、なんだかとても粋に響いた。
「うん、そうだね、じゃあ超絶カッコイイ大樹くんの応援は引き受けようかね!」
「ゆ、杠! 千空ー! すまん、恩に着るぞー!」
両手を合わせて拝む仕草にさえ「バチィン」とか「ゴン」なんて音が出る。この騒々しい少年の勢いに押されて、杠は忘れかけていた借り物を思い出した。
「ああそうだ、副部長くんに借りてた本、返しに来たんだよ。サンキューね、面白かった!」
杠が鞄からゴソゴソと取り出した本に千空が視線を向けて「んだ、ソレ?」と怪訝な声を出した。怪訝な声にもなるだろう。安っぽいペーパーバックの、毒々しい色合いの表紙。中央では目つきの悪い男が得意げに片手をかざして笑っている。書名は「マジック心理学」……マジックなのか心理学なのかもはっきりしない。
「えーと、なんやかんや事故で、自分が友達か恋人のうち1人しか助けられないとして……」
著者は、アメリカ帰りの若手マジシャン。ますます胡散臭え、と背を向けて実験を再開する千空と、かぶりつきで心理テストを聞きたがる大樹の対比も面白いものだなあ、と。
杠は、この愛おしい時間が、なるべく長く続くことを祈った。
◇◇◇◇
花田仁姫は、取材が嫌いだ。高校空手のエース、性別を間違えて生まれてきた女子高生、アニキ。……別に、好きに呼べばいいさと思うけれど、褒め言葉にはいつも嘲笑うような気配があって、ちっとも嬉しくなかった。
ちょっと可愛い服なんかを着る機会もあったけれど、辞退した。レスリングの女性選手がファッション誌に載ったときのコメントを思い出したからだ。「ウケる」「誰得」「勃たねえ」……そんな嘲笑を浴びせられた彼女は堂々とした態度で一つ一つのコメントを笑い飛ばし、ニッキーは彼女の振る舞いを見ながら「こうすればいいんだ」と学んだ。少しだけ、悲しかった。
望まれるように振る舞っていたら、いつの間にかこんなにゴツいところにいた。それはそれで、良い。人が自分に望む役割っていうのが、つまりは社会から用意された居場所なんだから。これがアタシの才能で、そこがアタシの居場所なんだから、と。納得はしている。……ただ、少しだけ、疲れる。
試合とインタビューが終わったから、帰り支度をした。今日の取材は、割と丁寧に接してくれる女性記者さんでほっとした。カリカリしたキャリアウーマンって感じでもヘナヘナした守られ待ちの女って感じでもない、ニッキーの言葉に寄り添ってくれる記者さんで、こちらの言葉を変な装飾なしに記事にしてくれるから、すごく安心できる。ただ、変な誇張をしないぶん記事がそんなに派手にならないらしくて、だから記事を書く人としての評判はそんなに良くないらしい。
……取材を受ける側としては、キャラを勝手に作り上げられるほうが迷惑なんだけど。
それでも記者っていうのは、基本的には読み手が喜ぶストーリーを作るのが仕事なんだろう。北東西さんはきっと、それに抗っている。自分とは全然違う女性的なひとは基本的に苦手だけれど、北東西さんのことは、少しだけ好きだ。
……それから、とっても好きなひとがいる。疲れたときも、悲しいときも、このひとの歌声を聴けば頑張れる、そういうひとだ。イヤフォンを着けて再生操作をすると、いつでも変わらない歌声が耳から流れ込んで脳内に満ちた。
柔らかくって力強い、そして美しいひと。南部の訛りを「品がない」なんて言う奴もいるけれど、そこが良いんじゃないか。イヤミったらしいイギリス英語のほうがいけ好かないよ。
すごく苦労をした人が、それを感じさせない華やかさで舞台に立っていて、たくさんのライトを浴びて、10万人の観客が彼女をじっと見ていた。神々しいまでに輝いた姿をニッキーはいつでも思い出す。遠く遠く、豆粒みたいにしか見えなかったけれど、それでも彼女と同じ空間を共有できた感動は、ニッキーの心を支えていた。リリアンの苦労に比べたら、アタシのゴツい生活くらいなんてことないさ。
……そう思って軽く目を閉じ、歌声の世界に没入しようとした意識を、イヤフォンの外から挿し込まれたかすかな悲鳴が引き戻した。
「ッきゃあ!」
か細い声。強いものに守られていないと生きていけない、弱い女の子の声だ。
「へぇ? 俺が悪いっての??」
「そんなこと言ってないです! 結果は結果でしょ!」
試合会場の裏、車両搬入口への近道になっている狭い路地を覗き込むと、駐車場の近くで女の子が1人と男が2人、なにか揉めているようだった。
男のほうは見たことある。男子柔道の選手だ。確か今回は準優勝だったはず。女の子のほうは見覚えがない。応援に来ていた子だろうか。あんなに小柄で細身の女の子に、大柄な柔道男子が絡んでいるのは穏やかじゃない。
「俺、女と子供には手ェ上げない主義なんだ、け、ど、な!!」
だ、け、ど、な、で一文字ずつボリュームを上げる。最後のほうはほとんど恫喝だ。女の子は気丈に振る舞っているけれど、顔は青ざめている。もうひとりの男が「おいおい、やめろよ~」なんて野次を飛ばしているのも、チームワークとして完璧。人の脅し方を知っている奴らのやり口だ。……許せないね、こういうのは。
「君が大樹くんに負けたのは君のほうが弱かったからでしょ!」
「……へぇー! カァノジョはさすが、健気だね! うっらやましいなー! でも俺、大木のせいでケガしちゃったんだよね、健気な彼女が付き合ってくれんなら、大木のこと訴えなくてやってもい、い、け、ど!」
「そんなんじゃないです! 離して!」
女の子の細い手首を柔道家のごつごつの手が掴むと、縫い留められるように動かなくなった。ぐっと拳に力が入ると、女の子の顔が本能的な恐怖に染まった。
「……あ? よく見たらかわいーじゃん。ふーん、……ねえ君さ、俺と……ッテェ!!!」
振り上げられていたほうの腕を掴んで、ねじりあげた。
「……そこまでだよ、みっともないマネはやめな」
隣でちゃちゃを入れていた男が小さく「花田だ、ヤベェ」とつぶやくのが聞こえる。
「……ンの、クソゴリラ女ァ!」
頭の悪い罵倒にだって、少しは傷付く。でも称賛を装って投げつけられる嘲笑よりはマシだ。ニッキーは心に蓋をして、女の子に掴みかかっていた男に大外刈りをかけた。頭に血が昇っていた男は、簡単に体勢を崩して地面とキスした。
「動くと、折れるよ」
ニッキーがねじりあげた手首にぐっと力を込める。男が悲鳴ともうめきともつかない声をあげた。
……と、背後で「バシャッ」と軽薄な音がした。女の子が顔色を変えて「写真!」と叫ぶ。スマホカメラの音だ。まずい、連れの男に撮られた。
「……あーっ! 暴力事件撮っちゃったあー! コレ、ネットに上げたらどうなるかなあ? 花田って確か全国大会に行くんだっけ? こんなのバズったら無理じゃないかなあ~!?」
連れの男の、ニヤニヤした声が聞こえる。
「……おーおー、アニッキーくん、離してくんないかなあ? じゃないと俺、大木とアニッキーに揃って病院送りにされた奴になっちゃうなあ~!」
組み伏せられたままの男は、劣勢のくせに言い募ってきた。それでニッキーの中で、何かがぶつりと弾けた。
全国大会なんてどうでもいい。
ただ、それでコイツらが溜飲を下げるのは腹立たしい。
……それなら。
「……あ~、そうかいそうかい。困ったねえ。アタシだけが損するんじゃワリに合わないね。せめて腕の一本くらいは持っていかな、い、と、ね、え!」
「んっな!? ……い゛い゛い゛い゛い゛い゛……!!」
ギリギリと、掴んだ腕をねじり上げる。関節がミシミシ音を立てるのが聞こえる気がした。思考が暗い泥のような害意に覆われる。……腱板断裂くらいなら、試合の中でも起きる事故だ。それで選手生命を断たれることだって、珍しくない。もう少し、内側に力を入れれば、そのまま腱が……
「っドーン! はい、そっこまで! あとはおまわりさんのお仕事だぜ~!」
心を覆いかけていたドロドロしたものが、いやに明るい声に吹き飛ばされた。ニッキーははっと我を取り戻し、男の腕から手を離す。男はひぃひぃと泣き声をあげて、ニッキーから遠ざかった。
「はいはーい! 細かいことは……署で聞くぜ?」
しょできくぜえ、がいやに得意げで、何だろうと思う。振り返ると、警察にしてはなんだかチャラチャラした男が警棒を振り回して呵呵と笑っていた。連れの男が助けを得たような声で「あっ! ヨークンじゃないすか!」と叫んだ。
「地元の治安を守るのが俺の仕事だろ? さあお嬢さん、大丈夫だったかな?」
お嬢さん、と呼ばれた女の子はさっと周囲を見回し「そのスマホなんですけど!」と連れの男が持っていた端末を指差した。それで、ヨークンと呼ばれた警官が「あ? テメエそれよこせよ」と男にすごみ、男は無抵抗で警官に端末を手渡す。
……と、すごい速さで女の子が警官の手からスマホを奪い取り、何やら指先で手早く操作して、すぐに警官の手に戻した。
「はい!オッケーです!」
「え? 何が?」
「あッ! データ全部消えっ……!」
女の子のピースサインと警官の不思議そうな声、連れの男の悲鳴が同時に響く。
ニッキーが唖然としている間に、どうやら選手生命は守られたらしい。
「……あー、何だ、よくわかんねえけど、おめーらこんな女の子に手ェ出すような奴らじゃなかっただろ、どうしたんだ?」
「あ、あの、ヨークン、俺ら……俺ら……」
男たちが警官にすがりつく。警官は少し戸惑いながら、話を聞く体勢に入った。
「俺ら、センセイんとこの世話んなってて、そのセンセイが腕っぷし強いのがいるっていうから、どうしても優勝しなきゃいけなかったんすけど……」
「センセイ? 誰だあそりゃ?」
「た、竹村センセイです、こ、国民改革党の……」
「……ほーん? 陰謀臭えな~? 詳しく聞こうじゃないのお?」
男の訴えに、警官が何か乗り気になった気配が分かる。蚊帳の外に置かれた気がしないでもないが、おそらく自分も事情聴取を受けることにはなるだろう。そう思って腕を組んで待っていると、女の子がおずおずと声を掛けてきた。
「あ、あの……」
「……いーよ、お礼なんて。こういうのは、アタシみたいな腕力ある奴の役目だろ」
線も細ければ声も細くて高い。それに可愛らしい。さっき言っていた「大木」って優勝者の彼女なんだろう。屈強な男に守られる、か弱い女子。絵に描いたような理想のカップルだろう。……アタシには一生、縁のないものだ。
「いえ、違うの! そうじゃなくて、これ……」
女の子が、意外なくらいにキリっとした声を出したから、びっくりする。女の子の指は、ニッキーが鞄に着けていたマスコット人形を指していた。
ライブで買った、リリアンをモチーフにしたうさぎのマスコットだった。このゴタゴタで傷付いたらしい。腹が裂けて、少しだけ綿が出ている。悲しいけれど……こんな可愛いものを、こんなゴツい自分が大切に持ち歩いているということを、他ならぬ可愛らしい女の子に指摘されて、なんだかとても恥ずかしくなる。
「あぁ、いいよこんなもん。どうせボロボロだったんだし、捨て……」
捨てちまうよ、と、言おうとして、言えなかった。
だってこれは、リリアンの。
「違うよ、大切なものだったんでしょう?」
芯の強い声に、ニッキーはなぜか怯む。こんな、見るからに弱々しい、守られるためにいる愛玩動物のような女の子に、アタシが怯むだって?
「だ、大丈夫だからさ、こんなの」
「こんなのじゃない、でしょ。動かないでね」
有無を言わせない剣幕で、女の子はポーチから可愛らしいケースを取り出した。中には針と糸と、小さな鋏なんかが入っていて、ああ、小さいくて可愛いな、手も小さくて柔らかそうですごく似合ってるな、なんて思っていたら、女の子が微笑んだ。
「はい、できたよ」
「え?……え!?」
思っているうちに、全てが終わっていたらしい。
マスコットの破れはなく、綿もきれいに収まっていて、縫い目もほとんど見えない。ついでにボタンの取れたところには、キラキラしたピンク色のスワロフスキーが輝いていた。
「嘘だろ……?」
「ふふふ、見直しましたかな?」
ニヤッと笑う女の子に、ニッキーは率直に「この子、何なんだ?」と戸惑う。
だって、これまで助けてきた女の子は、守られる者に相応しいか弱さでメソメソ泣くものだったのに。これじゃまるで対等で、なんだか眩しくて……
「私もカッコイイところ、見せちゃいました」
にやっと笑う姿が、なんだかとても粋に見えた。
「……あ、ああ……」
怯むニッキーに、チャラついた警官が近付く。男どもの話が終わったらしい。
「あーねー、街の平和を守るお巡りさんとして君らにも話を聞かなきゃならないんだけどね、俺ちょっと忙しくなりそうなんだよね。悪いけどここで解散にしてもイイ?」
「……なんだい? アタシは別にどっちでも構わないけど、こういう時は署で事情聴取するもんなんじゃないのかい?」
今日は、これまでの常識を越えるキャラに出くわす日なんだろうか。警官は面倒くさそうに、しかしどこか得意げに肩をすくめ、「あーねー」と言った。
「追い詰めるべき"巨悪"ってヤツが見えちゃった的なやーつー? さっきのお嬢ちゃんばりに、俺もかっこいーとこ見せなきゃならんワケよ〜」
フスー。と鼻から特大の息を吐く警官に、ニッキーは率直に「なんだコイツ」と思った。
「ま、そーいうことだからさ。コイツら許してやって。二度とジュードーやらせねえし女の子に八つ当たりもさせねー。……諸悪の根源の悪徳政治家やっつけてくるから、な」
多分、格好をつけているんだと思う。ドヤ顔してるし……何がそんなにカッコいい設定なのかは分からないけれど……
「つーわけだ。ユーキ、キョーイチロー、おめーらも謝れ。俺のシマで二度とつまんねえ騒ぎ起こすんじゃねーよ?」
警官の睨みに2人がびくりとして、おずおずと謝ってきた。どっちが半グレだか分かりゃしない。
「……いいさ、別に」
そのまま、警官は2人を連れて去っていった。
警官たちが去るのとほとんど入れ違いに、どこからか別の男の……もっと善性を感じる……声が聞こえてくる。
「……ーい! おーい、杠ー!」
女の子がはっとして声を返そうとする。ニッキーはとても気恥ずかしくなって、
「じゃあね、気をつけるんだよ!」
とだけ言って逃げるように去った。
そういえば名前も聞かなかったしお礼も言えなかったな、と気付いたのは、家に帰ってベッドに転がり、リリアンの歌を聴いている最中だった。
◇◇◇◇
「霊長類最強高校生ですよ、部長」
「あ゛? 何だその括り。人間サマは霊長類最弱だぞ」
「もーっ、分かってないなあ〜。その定義がゆらぐほど強いってやつですよ!」
大樹と杠が揃って科学部室に顔を出すと、科学部の副部長がきゃんきゃんと千空に言い募っていた。大樹も杠も、あの千空に「分かってない」と言える副部長のことをある意味すごいなと思っていたから、これは面白そうだと顔を見合わせ、そうっと部室に入る。
「つーかテメーもう心理学は飽きたのか? 何で今度は格闘技だよ。なんの繋がりも無え」
「繋がりのない話はダメなんですか!?」
「……まぁ、別にダメじゃねえな。一見無関係なことが繋がって新たな発見に結びつくことは珍しくない。セレンディピティってやつだ。青色LEDもそうやって作られた」
「そうそうそれ! でですね部長、関西でひそかに有名だったっていう霊長類最強高校生の経歴が謎でですね……」
「わーったからそっちの液体窒素持ってこい」
「はいはい分かりましたよ……それでね、僕が思うに関西の地下格闘シンジケートのですね……」
「しつけーなテメー! 今度は陰謀論かよ!」
「こっからがサビなんですって! 関西の有力者って言ったら、こないだ失脚した国民改革党の議員がいるじゃないすか、あのあたりの時期に、いやに強い格闘家が表舞台に出てきてるんですよ、きっと誰かが裏でですねえ……!」
「オッサンのたくらみになんて興味ねえよ気持ち悪ィな!」
「そんなあ……」
「ま~あ、たしかに、最近よく聞きますなあ、霊長類最強高校生」
さすがにそろそろ副部長が気の毒になってきた杠が、声をかける。
「んだ、来てたのかテメーら」
「ああ、だいぶ前からな」
ほーん、と声ばかり素っ気ない背中が少しだけ嬉しそうなのに気付いていないのは、たぶん千空本人だけだろう。
「確か、次のメンバトに出るんでしたな、霊長類最強」
「メンバトって、あのカード当てるやつかー!」
「そうなんですよ! 春の特番のやつ!」
杠と大樹の会話に、副部長がすごい勢いで食い込んでくる。それを横目にちらりと見て、千空は渋々といった様子で会話に加わってきた。
「で、副部長くん的に何が気になるポイントなんだい?」
「小川さんさすがですっ! あの局はもともと関西キー局出身のプロデューサーが多いんですよ、だからね地下格闘と裏で繋がっていれば八百長なんかも当然……」
「……あ゛ー、八百長は、あんだろうな、あの番組は」
千空の声に、副部長が色めきたって食いついた。
「ぶぶぶ部長! その、ココロは!?」
「いや、あのインチキマジシャン、心理戦の他に相手のカード知る術待ってんだろ。基本的に胡散臭えが、それにしてもごくまれに、リアクションが不自然になんだよ。あれ、外部の情報との整合性とってんだろうな。情報量は少なそうだが、何かシンプルな方法……たぶん、音が振動かで外部と交信してる。フツーに見てりゃ分かんだろ」
「いや、分からん」「分かりませんな」「分かりませんよフツーには」
同時のトリプル否定に科学部全体が苦笑いの空気になる。千空はどこ吹く風で言葉を続けた。
「……でもまあ、基本的には心理戦で勝ってるよな。クククあれは唆るぜ、心理本シリーズは一冊残らずゴミだったが、ワザは確かなんだろーよ」
千空の発言に、今度は部室の全員が手を止めた。
「あ゛? ンだよ」
「え、千空くん、あさゲ読むんだ……」
杠の、独り言のような呟きに、千空を除きその場にいる全員が、うんうんと頷く。付き合いの長い大樹ですらぽかんとしている。
「……あ゛?」
「ていうか、メンバトとか、見るんだね……」
ヒヨドリのどこか間抜けな声が響く。
秋休みまで、もう少しになっていた。