石神村の憑き物落とし 私たちは、私たち自身の集まりを「ムラ」と呼んでいる。村とは、石像ではないひとびとのあつまりのことだ。
私たちが集まるのは、生きるためだ。たとえば、冬備えのときに弱いものを地に帰すことや身重で弱いおんなの胎を水に帰すことを提案するものがいるが、そういったことを言うものは軽蔑される。なるべく多くが生き残ることで、私たちの村は強くなると百物語で教えられているためだ。
百物語は創始者様の言葉を一語一句違わず伝えるもので、私たちは百物語から生き方の全てを知る。
百物語によれば、私たちにはさだめがあり、生まれたときに何かしらの力を与えられている。生まれ持った力で、村のみんなが生き延びるのを手伝うことを「シゴト」と呼ぶ。
仕事にはいくつかの種類がある。全ての仕事が必要であるが、残念ながら序列は存在する。より尊い仕事とそうではない仕事があり、ときにそれは命の選定にも関与する。
最も尊い仕事を担っているのは巫女様だ。百物語を一語一句違わず伝え、私たちにそれを語り聞かせるミチビキの仕事。創始者様の遺志を継くもので、百物語がなければ私たちは野山のけものと同じになってしまう。だからミチビキは、絶対に途絶えさせてはいけない。
次に尊ばれるのが、力の強いものが担うタタカイの仕事だ。タタカイの仕事についた者は、村の外で狩りをしたり、獣たちから村を護ったりする。ミチビキの仕事を護り、百物語を守るため……そして、次代の巫女様がより強くなれるように、村長はタタカイの仕事をする者たちから選ばれる。それが御前試合だ。
次からは、少し序列が曖昧になる。家を建てたり船を作ったりすることを得意とする者が担うタクミの仕事や、服を作ったり料理を作ったりするツクロイの仕事、村で生まれた者や死んだ者を数えて村長にお伝えするサグリの仕事、子を育て慣れた女が担うコモリの仕事などだ。より優れた仕事ができる者が尊ばれるが、仕事そのものを守ることは重要ではない。また、ある代にそれらの仕事を担える者が必ずしも生きているとも限らない。だから私たちは自分にできることを仕事として選び、それに打ち込むことで村のなるべく多くが生き残れるようにする。一見弱い、何の役にも立たないものがあるとき新しい仕事を見つけて、また村を強くするかもしれないからだ。
……ただし、全く何の役にも立たない者もいる。巫女様の系譜に生まれず、力もなく、タクミやツクロイに秀でた腕も持たず、村の情報を正確に数えて覚えて伝えられるほど賢くもない。そういった者はオトシの仕事を担うことになる。
オトシの仕事とは、具体的に言えば清掃だ。ゴミ捨て場や汚所に悪いものが溜まらないようにしたり、死んだ者を葬ったりする。時々この村には血を吐く病が流行るが、そういうときはオトシの者が忙しくなる。巫女様が血を吐いた時はオトシの者がかなりのお世話をしてきたらしい。ただしオトシが血を吐いても他の仕事の者は助けてくれない。絶対に必要だが、尊ばれない。そういう仕事だ。
私が担ってきたのもオトシの仕事のひとつにあたる。ただ私が得意だという理由だけで存在してきたもので、特に次代に継ぐべきと考えてはいない。私が死ねば途絶えるものだ。それでいいと思っている。
私がオトシてきた悪いものは、目に見える汚れではなかった。
たとえば汚所の汚れは、水で流して枯れ草の束で擦れば落ちる。それで悪臭が抜ければ仕事は完了、病も流行りにくくなる……はずなのだけれど、どういうわけかいつの間にか、悪いものがこびりついていることに気付いたのだ。……私の、心に。
たとえばタタカイの仕事の者が華々しく狩りの成果を誇り、女たちが彼を讃える。その彼の身辺を清潔にして、傷口から悪いものが入らないようにしているのは我々オトシの者だ。タタカイの者たちのような賞賛が欲しいわけではないが、オトシがいないかのような振る舞いが心にこびりつく。そういったものをどう扱えば良いのか分からなくなって、巫女様に相談したところ、困ったような顔で、それは「ケガレ」というものだと教えられた。名前が付くと安心するもので、私はオトシの仕事と同じ要領で、心のケガレを洗い流す術を得ることができた。
ただ、よく見ていると、私以外にも心にケガレがこびりついている者がいることに気付いた。それらを放っておくと、きっと良くないことが起きる。
着いたケガレは、オトさなければならない。村の皆が……なるべく多くが生き延びるために。
だから私は、ケガレを落とすことを自らの仕事と定めた。
最も危険で早めに対処すべきなのは、巫女様に関わるケガレだった。
賢く美しい巫女様に魅入られ、タタカイの仕事の者を憎んだり、本来の仕事が疎かになったりする者がいる。特に怖いのは、魅入られた者が巫女様を損なうことだった。ミチビキの仕事の断絶は、私たちの村の終焉を意味する。だから巫女様を守るために村を追放される者もいた。
ただし、その者がすぐれた仕事の腕を持っていたら、村の力が削がれる。それでは百物語の教えに背いてしまう。心のケガレを落とせば、ケガレた者もまた仕事に戻れるようにしてやれるはずだ。そう思ってサグリの者から危うい者がいないかを教えてもらい、巫女様のお側から離すように仕向けた。
大抵の者は、そのような心持ちを良からぬモノと感じて懊悩していた。だから、お前のそれは目に見えない汚れのようなものだ、オトシが流せばきれいになる、と説いて話を聞いてやっていれば、徐々にすっきりとしていった。もとより巫女様を慕う者なのだ。ケガレが落ちれば村を支える頼れる仲間になった。
最も多いのは、百物語に魅入られる者だ。巫女様の語る百物語は尊く愛おしく、私たちを支えてくれるものだ。そんな百物語を愛しすぎて、仕事が手につかなくなったり、いつまでも子供のように遊んで暮らしてしまう者がいる。あまり害はないが、いつまでも夢想にふけっていては仕事が進まない。
とても多いので、程度が軽い場合はそのままにしておく。ただ、百物語を愛するがあまりに百物語の教えを捻じ曲げて受け取るようなことを始めたものには気をつけなければいけない。過去には我こそが真の巫女なり、真の百物語を知る者なりなどと言い出し、村を追放された哀れな狂人も出たらしい。そういった兆候の出始めた者には、彼彼女の信じる百物語を好きなだけ語らせた。百物語は省略したり要約したりすると意味が変わってしまうものがある。いくつかの物語は隠されており、巫女様しか知らない。それらを何度も何度も語らせるうちに話に齟齬が出て、本人の目が醒めていった。人と語らうのが好きな者が多かったので、大抵はサグリの仕事やツクロイの仕事に就いた。
ときたま、石像の人に魅入られる者も出た。土に岩場に海の中、石像の人はどこにでもいた。中には美しいもの、愛くるしいものもあり、狩りや採集に出たまま戻らなくなったり、危険な場所の石像を救い出そうとして戻れなくなる者もいたため、単独で狩りや採集に行くことは原則的に「望ましくないもの」とされていた。ただ、石像に魅入られるのはタクミの仕事に就く者が多かったため、御前試合……ひいては村の将来にはそれほど障らない。だから、それ以外のケガレよりはかなり寛容に扱われた。
仕事を放棄して石像に会いに行くようなことを繰り返し、想いのあまり娶ろうとする者が出たことがあった。巫女様はじめ村の皆が驚きと哀れみと、少しの侮蔑を持ってその者の訴えを聞いた。巫女様は代替わりをされたばかりでお若く、このような者と相対する方法をご存知なかったので、まずいことを申される前に私がオトシとして話を預かった。結局その者は、村の外れに居を構え、そこに石像を置いて”2人”で暮らした。人間の妻を娶ることはなかったが、腕のいいタクミとして長く村を支えてくれた。
石を娶ったタクミの者のように、ミチビキやタタカイ以外の仕事に就いた者には長生きが多かった。巫女様は百物語を全て覚え、語り継ぐうちに早くに命の灯火を細らせてしまったし、タタカイの者は村の外での狩りや探索、御前試合などで死ぬこともあったためだ。オトシの仕事は血を吐く病が流行るとあっという間に死んでいったが、私はたまたま生き延びた。身体のヨゴレを落とす者は大勢おり、心のケガレを落とせる者は私しかいなかったためだろう。ようは重宝されたのだ。
私は、かなり長く生きたほうだと思う。人の話を聞くだけの仕事なので、ミチビキやタタカイの者よりも身体の負担が小さかったためだろう。私が生きる間に巫女様は3回、村長は4回の代替わりがあった。御前試合で優勝した者が村長となったが子を成す前に死んだため、次代の巫女様の護衛をすることになっていた準優勝者が次の村長になっている。
同胞の命を食って永らえたような気もしている。重宝されたことは嬉しいと思うが、次代に継がせるような仕事ではない。そう長くない残りの命が消えたとしても、村には私のやり口を見ていた者も多い。きっと新しい掟や決め事ができて、新しい仕事を自らに定める者が出る。その者の仕事に、きっと私のこれまでの仕事も溶けていくのだろう。
ただ、少しはケガレが溜まりやすくなるかもしれない。それで一時的な不便は出るかもしれない。ああ、巫女様は大丈夫だろうか。まだお若く、先代の巫女様譲りで気のお強いお方だ。お気が強すぎて危ういところすらある。もっと成熟されるまで、陰日向にお手伝いできれば良かった。いや、いつまでも私が出張っていても仕方ないのだ。だからこうして、与えられた庵で自分の命の最後を待っているというのに。自分なき後の、村の行く末を心配しすぎるのは良くない。囚われてしまっては、ケガレになるのだ。私はオトシだ。憑いたものを落とすのが仕事だ。私が憑かれてしまっては……
「スピネル」
……ああ、そのお声は。めしいた目には見えませんが。この硬い手を取られる温かい御手は。
巫女様。なぜこのような外れの庵などに。
お帰りください。もうすぐ死ぬものにはよくないヨゴレが着きます。私は巫女様のケガレにはなりとうございません。
「スピネル、安心なさい。私は強い女です。そう在れるよう、あなたが守ってくれましたから」
巫女様、もったいないお言葉を。申し訳ありません。この身体はもう起き上がることも難しいのでございます。だから1人で、この庵で最期を迎えようと。……ああ、それとも、もしかして何かお困りごとですか。落とすべきケガレがまた出ましたか。それならば、私が出向きます。少し、少しだけ休んだら、すぐに。
「いいえ、いいえ、もう何もありませんよ。あなたの仕事はきれいさっぱり、村のケガレをオトシてくれました。私は、あなたのケガレが落ちるのを見送りに来たのです」
巫女様、それは、どういう。
「あなたは自分の仕事を卑しいものと考えていましたね。大勢が生き残るために必要な仕事、それをあなたは、この村で生きていくための仕事にしました。それは分かっていました。だから、皆に看取られることを嫌ってここに篭ったのでしょう。村の役に立たない自分は、村には不要だと。……そうではない、と伝えに来たのです」
畏れ多いことを。お若い巫女様にそのようなお気遣いをさせてしまうなど、私は従者失格でございます。良いのです。私はこれで良いのですよ。お優しいお言葉などもったいのうございます。
「そんなことを言わないでください。聞こえませんか? 皆あなたを心配しています。皆で見送りたいと言うのを押し留めて私が来たのですよ。でも……ああ、来てしまった。もう止められませんね。聞こえますね?」
そんな、そんな。……ああ、この声はまさか。ケイシヤ、おまえ声が明るくなったね。柘榴と仲直りできたのかい。ほたるもいるね、子どもの疳の虫が治ったのか。そうかそうか、これまでよく頑張ったね。あれは賢い子だから、大丈夫だからね。ジェイドは今日も元気だね。忘れてしまいなよシトリンのことなんか。悪い子じゃないけどお前とは相性が悪かったよ。
「分かりますね、スピネル。皆あなたを愛していますよ。あなたが優しいことを皆が知っています。皆の心を洗い流してくれていたあなたが、ひとりぼっちで逝くなんて耐えられないのですよ」
もったいのうございます、私など。私など。
……ああ、違いますね、今、あなたが私に憑いたものを落としてくださっているのだ。なんだ、憑き物落としはあなただったのですか。私の仕事など、あってもなくてもよかったのだ。にも関わらずお側に置いてくださった。私がお側に侍ることを、お許しくださっていた。
巫女様、シエル様。私は幸せでございました。とても身体が軽いです。
稀代の幸せ者でございます。この村に生まれて、巫女様にお仕えできて幸せでした。
百物語をお守りするお手伝いができたこと、とても幸いに思います。どうかこの先ずっと、数百年も数千年も、百物語が語り継がれますように。一足お先に逝って、お待ちしておりますので。
ああ、これ以上はろくでもないことを言ってしまいそうです。これでも不満や文句はあったのですよ。でも、もう良いです。
もう黙りますよ。余計なことは言いたくありませんから。ありがとうございます。愛しています。
ありがとうございます。愛しています。よ。