波の、下にも。 「あまり覗き込むなよ羽京、吸い込まれるぞ」
甲板に出て夜の潮風を浴びていたら、バシィン、という鋭いスナップ音が鼓膜を打った。振り返ると手提げランプを持った龍水が立っており、見回りに見つかったことを悟る。
灯台も他船も無いこのストーンワールドではマスト灯さえ不要なので、宴のない夜のペルセウス号は、基本的には闇に包まれている。今日は月明かりで足元くらいは見えるが、新月ともなれば鼻先も見えない暗黒と壮絶なまでに美しい星に惑わされて、遠近感覚を失う。瀧水の言う「吸い込まれる」という比喩はそう間違いじゃない。
それに、見回り用の心許ない手提げランプでは、なにかの間違いで漆黒の海に放り出された仲間がいたとしても発見は不可能だろう。龍水は船長だ。役割としても性格的にも、船員の欠遺リスクは犯せない。……それにしても、だ。
「大丈夫だよ、僕を誰だと思ってるのさ」
海の底で生きてきた職業人である僕を、歳下の道楽息子が一人前に心配してくるのはちゃんちゃら可笑しくもある。非礼にあたるのは承知の上で少し笑ってしまい、龍水の整った顔が曇った。
「……気を害したならすまん。貴様を侮る意図はなかった」
「いいや、今のは僕が失礼だった。ごめん、ありがとう」
龍水の、こういう素直に謝れるところを凄いと思う。場の空気を作る力というのだろうか。龍水は、千空ともゲンとも違うカリスマ性を持っている。この寄る辺ない船旅の中で、いわゆる育ちの良さから来る彼の気品は、船員の心の拠り所となっていた。
並んで船首に立つ。それだけで不思議と安心感がある。頭一つ高い背を見上げると、水平線ぎりぎりまで輝く星が龍水を囲んでいた。吸い込まれるぞ、と警告した自分自身が魅入られたように海面を眺めていて、少し心配になる。
それこそ吸い込まれてしまうんじゃないかってハラハラしていると、ぽつりと龍水が呟いた。
「……羽京、海中にはセイレーンはいないのか」
「生憎ね。女の歌声を聴いて気が触れたソナーマンの伝承でも読んだのかい?」
「じゃあ、海に沈んだ者の怨嗟の声も聞こえないのか」
「ないよ、完全な無音だ。波の下に都はないし人魚もいない」
「……フゥン、残念だ」
つまらなそうに鼻を鳴らす。歌声で船乗りを惑わす妖魔が本当にいたとしたら、龍水は海中の棲家すら「欲しい」と言い出したかもしれない。
「龍水は会ったことあるの? セイレーンに」
「ないな、だから知りたかった」
「じゃあ、もし僕が『歌声を聞いたことがある、セイレーンはいる』って言ったらどうだっていうのさ?」
「決まっている。欲しい!」
「はは、龍水は惑わされやすそうだね」
「都は無くても美しいものはあっただろう?」
「うーん、そうだね、……ああ、クジラの歌は美しかったな。ギリギリ聴こえるかどうかの低い音で、でも間違いなく異質な音で、良かったよ。僕は聴けずじまいだったけれど、『52ヘルツのクジラ』の歌を聴いた先輩はいた」
「世界一孤独なクジラか! はっはー! そうだ、そういう話を聞かせろ」
「一番覚えてるのが、艦が水圧で軋む音だよ。あれは怖いんだ。ずっと慣れなかった」
「熟練の潜水士こそ怖がりだ、違うか?」
「違わない、当たりだ」
ふん、と得意げに鼻を鳴らす龍水がふと彼方に目を凝らし、すぐにつまらなそうに身を起こした。
「飽きた、寝るぞ。貴様もだ。いつまでも海の音ばかり聴くな」
「うっ、わ!?」
欄干からむりやり引き剥がされ、耳をふさがれる。そのまま、なかば引きずられるように船室に連れて行かれた。
「……いったいなあ、何も無理やりしなくても」
「羽京、俺はさっき、セイレーンを見たことがないと言っていただろう」
「ん? うん、それが何か?」
「あれは嘘だ」
……へ?
真意を問う前に、船室の戸が閉じた。戸が閉まる前に「寝ろ」と端的な船長指示が飛んだ。僕は服従の本能に従って、眠ることにする。指示に従うのは、好きなのだ。
粗末な寝床に潜り込むと目を閉じた。波のゆりかごにゆられるうちに、たゆたう意識の奥底で、とてもとても美しい歌声を聴いたような気がした。