どくたーしゃーくをさがしてその日、退勤後に所用で普段はあまり足を踏み入れない臨床試験棟に立ち寄った菅波は、ここを通るのが帰りの近道だと第二入院棟を歩いていた。第二入院棟には3階に中庭のように屋上庭園が設けられており、建物はぐるりを取り囲んでいる。建物の中を通るより中庭を突っ切るのが早い、と足を踏み入れると、ふと中庭の人影に目が留まった。
パジャマ姿の5歳ぐらいの男児である。小児科のリストバンドを着けており、第二入院棟4階の小児科病棟の子とおぼしい。まだ陽が陰る頃合いではないが、他に付き添いの成人がいないのが気になる。院内ではあるが…と周囲を見渡して誰もいないことを確認すると、菅波はそっと子供に近づく。近づいて、子供が抱っこしているぬいぐるみがシロワニであることに気が付く。
「こんにちは」
見下ろすように話しかけてはいけない、と長躯をかがめて声をかける。このあたりは、地域の診療所で経験を積み、年も重ねて子供の対応も身に着けたところである。菅波が首から下げている職員証に目をとめた子供は、小さな声で「こんにちは」と挨拶を返す。挨拶が返ってきたので、子供の前にしゃがみ込んで、子供が抱っこしているぬいぐるみを指さす。
「それ、シロワニのぬいるぐみですか?」
サメやサカナといった大雑把な名前ではなく聞かれ、子供の表情が明るくなって頷く。
「そう、シロワニのサーメくん」
「素敵な名前だね」
「うん、ワニってね、むかしのサメのよびかただから、シロワニなんだけどサメだよって、分かるなまえにしたの」
「いい考えです」
菅波がふむふむと頷いてみせ、それに子供が嬉しそうに笑う。
「よかったら、サーメくん見せてもらってもいいですか?とてもよくできてる」
こくりと頷いてシロワニのぬいぐるみを差し出すので、丁寧な手つきでそれを受け取り、菅波はさりげなく子供の隣に座った。実際、そのシロワニのぬいぐるみは特徴をよくとらえている。前後左右から軽く検分して、鼻先を軽く撫でて、ありがとうと礼を言ってぬいぐるみを返す。
「シロワニ以外のサメも好きなんですか?」
菅波がゆったり質問をすると、子供がうなずく。
「サメとね、あとね、こだいせいぶつ!ダンクルオステウスとか、メガロドン!」
「いいですね。ダンクルオステウスはデボン紀かな?メガロドンは中新世ぐらいですね」
「そう!メガロドンはねぇ、いっちばん大きいむかしのサメなんだよ!」
「どれぐらい?」
「15メートル!」
「大きいねぇ」
「ダンクルオステウスはねぇ、それよりちょっと小さくて9メートルぐらい」
「それでもとっても大きいねぇ」
「ねぇ!」
しばし子供の話につきあいつつ、「今日はここでなにしてるんです?」と別の質問を放り込むと、会話の流れでスムーズに返事が返ってくる。
「あのね、どくたーしゃーくをさがしてたの」
「どくたーしゃーく?」
「いろんなサメをあやつれるんだって!それでね、びょうきもなおせるの!サメは強いから」
「そっか。一人で探してたんですか?病院の人やお家の人には伝えてますか?」
そこで、初めて子供の話が途切れた。下をむいて、ぬいぐるみをぎゅっとしている。
「内緒で来たの?」
「どくたーしゃーくさがしてきます、っておてがみはかいといたの」
「そっか。でも、もう晩ご飯の時間だし、そろそろ戻んなきゃいけないかな?」
「うーん。そうなんだけど、まださがしてないとこがある…」
「どこですか?」
「このうえ!」
と子供が指さすのは、今いる3階の中庭からさらに上に伸びる建物の屋上7階のようだ。
子供が探しているという『どくたーしゃーく』なるものは、患児を何かしら励ますにあたっての話だろうと深堀はせず、菅波はしばし思考を巡らせる。探していないという場所がすぐそこであればつきあってから病棟に誘ってもと思ったが、さすがに入院理由も分からない患児を屋上まで連れまわすことはできない。ひとまず帰る方向で話をするか、と改めて子供に向き合う。
「どくたーしゃーくはサメを操るお医者さんなんですよね?」
「うん!」
「ということは、空よりは海に近い地面の方にいるんじゃないでしょうか」
「そう思って、いっかいのお店とかはみにいった…」
「けどいなかったんだ」
「うん」
「じゃあ、なにかお仕事に呼ばれてたんですかねぇ」
「なのかなぁ」
うーん、と子供がシロワニのぬいぐるみを抱っこして首をかしげるのを、菅波が笑って見守る。子供は、しばらく考えて、菅波のその考えに納得したようで、「またこんどだね!」とシロワニのサーメくんに話かけた。
「今度は、病院の人やお家の人と一緒に探しましょうね。約束してくれる?」
「わかった。おじさん、ダンクルオステウスしってるなかまだったから、やくそくする!」
「ありがとう」
子供が笑って右手の小指を出してくるので、菅波はそのちいさな指切りげんまんに応える。
「じゃあ、おじさんとお部屋戻ろうか」
と菅波が立ちあがり、つられて立ち上がった子供と少し屈んで手を繋いだところで、2名のナースが中庭に駆け込んできた。
「あぁ!ハルトくん、いました!3階の中庭です!」
一人が院内用スマホでどこかに連絡を入れており、もう一人が子供に駆け寄って、菅波から子供を奪い返すように両手をとって、全身に問題がないかチェックしている。連絡を終えたナースが菅波に詰め寄る。
「あなた、ここでこの子と何を?」
子供と手を繋ぐのに屈んだ時に邪魔で職員証を胸ポケットに入れていた菅波は、その剣幕にたじろいて両手をあげながらも、片手で胸ポケットからそれを取り出し、ナースに見せる。
「呼吸器外科の菅波です。退勤後に通りかかったところでリストバンドをつけた子が一人でいたので、話しかけて様子を見ていたところでした。ちょうど戻ろうと二人で話をしていたところで。でも、来てもらえてよかった」
職員証を見たナースが、ドクターでしたか、失礼しました、と頭を下げる。子供の状態を確認していたナースが、菅波の発言を聞いて顔をあげる。呼吸器外科の菅波先生?と聞かれるので、はい、と改めて答えれば、なにやら頷いていて、よく分からない。
立ち上がったナースと手を繋いだハルトくんが、菅波を見上げてくる。
「おじさんはもう行っちゃう?」
と聞いてくるので、菅波はナースと視線を交わし、子供のケアを一番に考えた意思疎通が一瞬で図られた。
菅波が「4階まで一緒に行っていいですか?」と腰をかがめて聞くと、うん!と嬉しそうな返事をする。
「じゃあ、一緒に行きます」と言うと、ハルトくんはシロワニの胸ビレを片方、菅波に差し出した。菅波がそっとその胸ビレを持つと、もう片方の胸ビレをハルトくんが持ち、二人がシロワニと手を繋いでいるようになる。ハルトくんが納得した顔になるので、全員で連れだって歩いてエレベータに乗り、4階の小児科入院フロアにたどり着いた。
ナースステーションの前で、ハルトくんを迎えに来た別のナースに引き渡して、バイバイ、と分かれたところで、同行のナースが改めて菅波に頭を下げた。
「付き添いいただいてありがとうございました」
「いえ、みなさんも彼の姿が見えなくて大変だったかと」
「こうしていなくなることが初めての子だったので。何か理由を言っていましたか?」
「なんでも、『どくたーしゃーく』なる存在を探しにいったというようなことを言っていましたが、絵本かアニメの登場人物でしょうか」
菅波がそう言ったところで、もう一人のナースが口を開く。
「あの…多分、それ、菅波先生のことです」
予想外の言葉に、菅波の口から「へ?」とドクターに似合わぬ声が漏れる。
「呼吸器外科のナースの荒木さんから、最近、菅波先生がスクラブや白衣にいろんなサメの刺繍が入ったのを着られるようになったと聞いて、サメが好きなハルトくんに『この病院にサメが好きなお医者さんもいるんだよ』って話をしたんです。そこから何か想像が膨らんだみたいで…。しばらく、ハルトくん、その話をしどおしでした」
「そ、そうでしたか…」
自分の着衣が思わぬところで波紋を広げていたことを初めて聞かされて、菅波も一言絞り出すのがやっとである。
「それはご迷惑をおかけしました」
「いえいえ、菅波先生のせいでは。あの、お忙しいとは存じますが、今度、よければサメのスクラブをハルトくんに見せてあげていただけないでしょうか。きっと、ものすごく喜びます」
ナースのためらいがちな依頼を菅波は快諾する。
「今週中には時間を作ります。来週はこちらの勤務ではないので。避けた方がよい時間はありますか?」
「小児科の検査類は15時までに終わるようになっているので、それ以降は基本的に病室かレクリエーション室にいますね」
「では、そのころに」
「お願いします」
…ということがあってね、とその晩、菅波は百音に電話で事の顛末を話すと、菅波が『どくたーしゃーく』と子供の中で大成長を遂げていたことに、百音は涙が出るほど笑った。私がせっせと刺繍したのが、こんなことになるなんて、すごいですねぇ、と涙をぬぐいながら言うのを、電話の向こう側の菅波も苦笑するしかない。
で、どのサメスクラブ着ていくんですか?と百音に聞かれ、やっぱりここはシロワニかなぁ、と菅波が言えば、シロワニにせざるを得ないですね、と百音も笑う。
「あ、コサメちゃん連れて行きます?」
「いいですねぇ。こっちにいたかな」
「会社に連絡入れときます。新品ひとつ渡してもらえるように。よければレクリエーション室に寄贈してください」
「ありがとう。しまった、百音さんからパペット扱い習っておくんだった」
「もうだいぶ前のことですから。先生のサメ愛があれば大丈夫ですよ」
「だといいけど」
「ふふっ。それにしても『どくたーしゃーく』ですか」
「もう、笑いすぎですよ」
「でも、ちょっと嬉しいでしょ」
「まあね」
翌日、コサメちゃんと傘イルカくんを連れてハルトくんのいるレクリエーション室を訪れた菅波は、「おじさんが『どくたーしゃーく』だったの?!」と熱烈な歓迎を受けた。ハルトくんが他のこどもたちにも『どくたーしゃーく』だよ!と興奮気味に紹介するので、なんだかすごい人なのだ、と良く分からないが憧憬のまなざしを受けた菅波はどうふるまってよいのか戸惑いに戸惑う。
その後しばらく、小児病棟では『どくたーしゃーく』という概念が人気を博し、一部の小児科医が自分の白衣やスクラブにもサメを導入したとかしないとか。そして、後日、菅波のシロワニスクラブのCarcharia taurusという学名の横にはカッコ書きで(sa-me kun)と個体名の刺繍がはいったという目撃者の証言がある。