百音さん、サメを量産する「先生の今年のお誕生日プレゼント、何がいいでしょうか」
「うーん。今、これが欲しい、というのは…。あ。あの『お祝いごはん』が一緒に食べれたらうれしい」
「それは大前提として」
「ナルホド…。考えておきます」
そんな会話を交わした数日後、百音がベンチソファで本を読んでいると、その傍らの床に菅波がつと座って百音を見上げた。それに気づいた百音が本を脇に置いて「せんせ?」と声をかけると、菅波は緊張した声色で「ももねさん」と名前を呼ぶ。その声色に百音も少し姿勢を正して「なんでしょう」とこたえると、あの…としばし手をこめかみや首筋に漂わせて、そのあと意を決したように百音の顔を見上げる。
「百音さんの手を煩わせることなのだけど…」
「はい」
「あの、そこまでの時間がとれないとかだったら全然断ってくれてよくて」
「はぁ」
「ひとまず言ってみてるだけのことだと聞き流してくれてよくて」
「せんせ?」
「はい」
「まずは教えてください」
もだもだと何かを言い出しかねている菅波に、百音がぽんと背中を後押しする。その潔さに、菅波が口許を緩め、改めて口を開く。
「誕生日プレゼント何がいいか、って聞いてくれたでしょ」
その言葉に百音がこくり、と頷く。
「それで…」
と菅波が差し出したのは、畳まれた白衣とスクラブ。菅波の仕事着である。
白衣もスクラブも普通に普段買うものなのに?と百音が小首をかしげていると、「ここに…」と小さな声で菅波が続ける。
「サメの刺繍をしてほしいなぁ、って」
「えっ?」
全く想定していなかったお願いに、百音が思わず問い返すと、あぁ、やっぱり手間をかけさせすぎるので…と菅波が手をひっこめようとする。反射的に百音がその手に自分の手を重ねて止めた。
「お願いしてくれてうれしいです。刺します、刺繍」
百音がにこりと言うと、菅波はほっとした表情で嬉しそうに頷く。
百音が菅波の手を取ってソファベンチに誘い、白衣とスクラブを手にしたままの菅波が隣に座る。
「でも、刺繍でいいんですか?お誕生日プレゼントが」
百音が菅波の顔を覗き込むと、菅波は鼻先をこすりながら、刺繍がいいんです、と頷く。
「同僚がスクラブにネコの刺繍が入っているものを着ていて、まぁ、そんなのもあるのか、と思っていたのだけど。それで、この間新しく届いたカタログを見ていたら、そういったワンポイント刺繍デザイン一覧があってね。そしたら、イルカもシャチもクジラもあるのに、なぜかサメがないんですよ。サメがあればなぁ、と思ったところで、あなたが刺繍してくれたハンカチが目について。忙しいあなたにお願いするのも気が引けると思ったんだけど、誕生日プレゼントがわりに、ってお願いできないかな、って」
ワンポイント刺繍デザイン一覧を見たときにサメがないことに落胆した菅波の顔を想像して、百音がくすくすと笑う。
「そうやってお願いしてもらえるのうれしいです。うまくできるか分からないけど」
「ハンカチの刺繍、とても素敵だし、あのサメと一緒に仕事できたらうれしいなと思って」
「ずっと使ってくれてますもんね、あのハンカチ」
「宝物です」
生真面目に言う菅波に、百音がほほ笑む。
じゃあ!と立ち上がった百音が本棚からサメの図鑑を取り出し、またソファベンチに座って菅波のひざ元に広げた。
「どのサメがいいですか?」
「選んでいいんですか?」
「どこまで表現できるか分からないけど、せっかくだから。なんかよく分からないサメっぽいもの、だと先生いやでしょ?」
「それは、そうですね」
「うーん、選んでいいと言われると悩みますね…」
ハンカチに刺してくれたヨシキリザメとレモンザメは言うまでもなくだし…でもシルエットが特徴的なほうが刺しやすいですよね、だとしたらシュモクザメ?サメ次朗のドチザメも捨てがたいよね…。
あれか、これか、と楽しそうに悩む菅波をみて、百音も楽しそうである。
ジンベイザメは?模様も特徴的だし、と水を向ければ、あぁ、ジンベイもいいですねぇ、一つに絞れないなぁと菅波が笑う。一つに絞らなくても、別々の刺しますよ?との百音の言葉に、ぱっと菅波の表情が明るくなる。他愛のないやり取りをしながら、サメの図鑑を二人でのぞきこむ時間が、先生から私へのプレゼントみたい、とその嬉しそうな顔を見て百音は思うのだった。
その後、百音はメッセージアプリで菜津と写真を多く交わしてデザインを相談しながら、仕事の合間あいまに刺繍を特訓し、準備が整ったところで、せっせと白衣とスクラブへの刺繍に取り掛かった。誕生日プレゼントながらも、普段使う仕事着への刺繍ゆえに、出来上がったはしから、菅波の手に渡って行く。
ヨシキリザメ、レモンザメ、ドチザメ、ネコザメ、シュモクザメ、ホホジロザメ、ジンベエザメ、シロワニ、ラブカ、オナガザメ…。
白衣は胸に、スクラブは左袖にワンポイントで入った刺繍の新作を見るたびに、菅波の顔がほころぶのを見て、百音もうれしい気持ちになる。手持ちの白衣とスクラブにすべてサメの刺繍が入り、気づけばすべて違う種類のサメになっている。ある日、すーちゃんと電話をした百音が、サメの刺繍を頼まれたんだけど、全部違うサメにできたんだ、と嬉しそうに言い、それを頼む先生も先生だけど、それで全部違うサメにしちゃうモネもモネだよね、と笑ってあきれられたのもむべなるかなである。
同じころ、勤務先で「菅波先生のスクラブはいつもサメですねぇ」と言われた同僚に、「昨日のはイタチザメで今日のはノコギリザメなので、全然違うサメです」と聞いてもいないサメ情報を口走った菅波は、一緒にいた看護師に「いや、どっちもサメに変わりありません」とツッコミをいれられていたのだった。