『カノジョ』の誕生日にて「あー、やっと帰れる!」
伸びをしながら医局の部屋に戻ってきた1年後輩の同僚医師の三木に、部屋で気になる患者の症例と論文を対照していた菅波は顔をあげて「おつかれさま」とねぎらいの言葉をかけた。
「おつかれさまっす。菅波先生ももう非番じゃないんですか」
「これだけ終わらせて帰ろうかと」
「まだ忙しいですけど、とはいえなんすから、帰れるときは帰ってくださいよ、マジで」
「そうする」
同僚は自分のロッカーを開けながら、鼻歌ぎみである。
「今日、カノジョの誕生日なんすよ」
「三木先生、彼女いるんですね」
菅波が相槌を打つと、部屋の反対側の端でカップラーメンをすすっていた先輩医師の川野が違う、ちがうと顔の前で手を振った。
「三木先生のカノジョはあれだよ、恋愛ゲームの」
「リンコちゃんですが、何か?」
「いや、別に構わないよ?ただ、菅波先生に正しい情報を伝えてるだけ」
三木と川野のやり取りに、菅波の頭上にはクエスチョンマークが浮かぶ。
「ゲームの登場人物が彼女…だという、こと?」
「彼女になって交際する、そういうゲームがあるんだよ。あれだろ、結構昔からあるんだろ」
「僕が高校生の時からですね。ずっとリンコちゃんにはつらい勉強も研修医時代も支えてもらったんすよ。リンコちゃんはずっと高校一年生のままっすけど、それがいいんです」
しみじみとした表情の三木に、まぁ本人がそれでいいなら…と菅波はあいまいに頷いてみせる。と、三木が菅波に向けて話題をつづけた。
「てか、逆に俺は菅波先生に婚約者がいたことも知らなかったんすけど」
「菅波先生、おおっぴらには全然言ってなかったもんなぁ。こないだ休暇とる順番の話でも、どんどん人に譲っちゃって最後の方になってて」
「いや、あれ、言っといてほしかったっすよ。そんな婚約者さんを遠距離でずーっと待たしてたとか、知ってたら、もっと前にとってもらってたのに」
「でもデレた顔でちょいちょい彼女に電話してるのは、数年前から目撃はされてたよ」
「え、知らなかったの俺だけすか」
「ではないと思うけど」
急に自分に話が巻き込まれて、菅波は恥ずかしそうに下を向き、手は首元をさまよってせわしない。
「休暇ではちゃんと婚約者に会ってきたんでしょ、2年半待ってくれた最愛の人が」
「まじすか、2年半」
「しかも9コ下の」
「前世でどんな徳積んだんすか」
「まぁ、その出会いで使い果たした感はあるけどな」
同僚二人の言いたい放題に、菅波はうるさいなぁ、と笑ってみせる。
「ちゃんと会ってきましたし、改めて結婚の話もしてきましたよ。今月、むこうが東京にきて、それで婚姻届けも出す予定です」
「え!そうなんすか!式とかは?」
「そのあたりは未定ですが、彼女の意思を最大限尊重できればと。お互い仕事も忙しいですし」
と言ったところで、菅波が、「あ!」と何かに気づき、先輩の川野が「どうした?」と聞く。
「来月の今日、ちょうど誕生日だ」
「彼女さんの?てか、今月入籍するんだったら、来月の時点で奥さんじゃないすか」
「入籍じゃなくて婚姻届けの提出。家のヨメになるんじゃないんだし。でも、確かにそうか、結婚して最初の誕生日だ」
「え、菅波先生、そこノープランだったの?」
川野のツッコミに、菅波が首をふる。
「いや、考えてはいましたけど、届の提出との前後関係が頭から抜けてました」
「なんか、考えた方がいいっすね」
三木がしみじみと頷き、川野も同調する。
「まぁ、あと一か月あるし、がんばれ。てか、その日に会えるの?まだしばらく別居でしょ?」
「うーん、三連休だけど、僕も仕事で、向こうも台風シーズンで身動きとりづらい時期だから、その日に会うのはそもそも難しいって話はしてますね」
「ほんっと仕事に理解のある方だよね、菅波先生の婚約者さんは。ありすぎるレベルじゃない?」
「お互い、そこは大切にしているので」
「さらーっとすごいノロけるんすね、菅波先生」
「三木先生、油断してると砂吐くぐらい惚気てくるから気を付けた方がいいよ」
「気を付けまっす」
雑談しながら帰る支度を整えた後輩医師の三木は、それじゃあ、カノジョの誕生日祝いに帰りまーす、お疲れさんでしたー!と朗らかに去っていく。
「なんか、若いねぇ」と川野が笑いながら、食べ終わったカップラーメンの容器を片付けに立ち上がる。
「菅波先生の結婚祝いは、また改めてさせてもらいます。僕の時も祝ってもらいましたし」
「ありがとうございます。とはいえほんとに届をまず出すだけなので、必要最低限の人にお知らせするだけにしようかと」
「いやいや、もう、菅波先生は既婚者です、って分かりやすくしてくれたほうが、俺らも気が楽なんで、おおっぴらぐらいおおぴらに言ってくれた方がいいですよ」
「なんですか、それ」
「『菅波先生にお付き合いしてる方いらっしゃるんですか窓口業務』をここ数年こなしてきた実感です」
「はぁ…」
ま、とにかく、ひとまずおめでとうさん、と、座ったままの菅波の肩をぽんとたたいて、川野も部屋を出ていく。同僚との会話でおもわぬ課題に気づいた菅波は、おもむろにスマホを取り出し、百音に電話を掛ける。
「あ、もしもし?」
と呼びかける普段より柔らかな声音をドア越しに聞いた先輩医師は、いや、その行動力はいいんだけど、ほんとこの数年、医局の部屋で恋人に電話するのに慣れすぎじゃない?と苦笑しつつ、給湯室にむかうのだった。