あなたにひつじを届ける夜菅波が登米に専従して半年以上が過ぎた。実際に会えるのは月1回あればいいほうという具合だが、その分、メッセージや電話の回数はぐんと増えた。百音の勤務時間の変則ぶりは相変わらずだが、菅波の勤務や生活が、大学病院勤務に比べればぐっと規則的になり、時間が見つけやすくなったということも大きい。
菅波が帰宅する頃合いが百音の就寝時間に近いことも多く、百音が寝る前に他愛もない会話をすることが二人にとっての楽しいひと時である。そんなある日。百音からかかってきた電話に出た菅波は、いつもと少し異なる気配を察知した。
「…酔ってますか?」
「酔ってませーん」
「酔っ払いがいうやつですね」
「えへへ。すーちゃんとちょこっと部屋飲みしたんです」
汐見湯に住む幼馴染の名前が出てほっとする。百音の適切な酒量も分かっている彼女と部屋飲みなら、本当に少しを楽しく飲んだのだろう、と安心できる。
「楽しそうな声が聞けてうれしいですよ」
「はーい。でも、やっぱり先生の声がききたいなぁ、って思って、電話しちゃいました」
「そうでしたか。もうそろそろ寝る時間かと」
「歯磨きもして、お布団も敷いちゃったので、だいじょぶです」
「そっか」
百音は上機嫌で明日美と話したことを報告し、菅波も楽しくそれを聞く。
ひとくさりしゃべった後、ふと百音の声のトーンが変わった。
「すーちゃんが」
「うん」
「モネもすっかり遠距離に慣れたね、って言うんです」
「うん」
「で、『うん』って返事したんですけど…。今話してて、やっぱりちがーう!って」
「違う?」
「だって今、会いたいですもん」
さらりとかわいいことを言う百音に、菅波はスマホを耳に当てて悶絶する。普段、あまり寂しいそぶりを見せず、寂しいのは自分だけかと思ってしまうが、ふとこういう時に爆弾を落とす百音の破壊力である。
「せんせ?」
「うん。僕も、会いたいですよ」
「よかった」
くすくすと笑う百音の声に菅波の口許も緩む。
「もー、今日は夜更かしして先生と電話します!寝なーい!!」
妙にテンションが上がった様子の百音の発言に、とはいえこれは酔っ払いだ、と菅波は鼻頭をかく。
「だめです。ちゃんと寝てください。仕事にも美容にもよくないですよ」
「えー!眠くないから、寝ない!先生の声聞いてたい!」
ほろ酔いで電話越しに甘えてくる百音はかわいいが、それでもそれを真に受けて夜更かしさせるわけにはいかない。少し考えて、ある提案をする。
「まだ電話は切らないから、電気は消して布団にはいって?」
「えー。んー、でも、電話切らないなら」
「切らないから」
カチカチと電灯の紐を引く音と、ごそごそという音が聞こえる。
「おふとんはいりましたー」
「はい。じゃあ、スピーカフォンにしてくれる?」
「えーっと、はい!しました」
「じゃあ、僕が羊を数えるので、百音さんは寝てください」
大真面目な菅波の言い方に、百音はとても楽しそうにくすくすと笑う。
その笑い声を聞きながら、菅波が羊を数え始める。
「ひつじがいっぴき。ひつじがにひき。ひつじがさんびき。ひつじがよんひき…」
「わー、ひつじ数えてるの初めて聞きました!」
百音の発言をあえてスルーして、菅波は羊を数え続ける。
「ひつじがじゅうごひき、ひつじがじゅうろっぴき、ひつじがじゅうななひき…」
折々に百音が言葉を挟むが、段々とその口数が減って、間隔もあいてくる。
「ひつじがふえてく…」
笑うようにつぶやいた声の後は、かすかに寝息が聞こえてくる。
その寝息を聞きつつ、しっかり寝入るまで、と菅波は羊を数え続けた。
「ひつじがきゅうじゅうはちひき、ひつじがきゅじゅうきゅうひき、ひつじがひゃっぴき」
キリのいいところまで来て数えるのを止める。
最初はすうすうと聞こえていた寝息も、さらに深まって聞こえないほどになっている。
「百音さん、おやすみなさい」
そっと言葉を添えて電話を切る。
『会いたい』とストレートに告げてきた百音に早く会いに行かないとな、とカレンダーを眺めながら。