春、来たりなばあぁ、到着したな、とカーテンを閉じた準備室の小窓越しに聞こえる歓声に、カルテ入力をしていた菅波の口許が緩んだ。今日は百音が登米に来る日だ。菅波の勤務時間が終わる前にくりこま高原に着けるということで、その日は登米夢想に立ち寄って菅波の仕事が終わるのを待つことになっていた。ここを離れて久しい百音が、相変わらず登米の人々に暖かく迎えられている様子が、カーテンと窓越しにでもふわりと伝わり、そのことに何か暖かいものを感じながら、まずはきちんと仕事を、と菅波は次の患者を診察室に招き入れた。
最後の患者を見送り、ひとまず当日中にやらねばならぬことを簡潔に済ませた菅波は、まず着替える間も惜しんで準備室から中庭に出た。はたして、百音は掃き出し窓が開け放たれた椎の実と中庭の間ぐらいの場所で、6~7名の子供と一緒に何やら遊んでいる様子だった。準備室から菅波が出てきたことに気づいた百音は、弾ける様な笑顔で駆け寄ってくる。人前なので抱き着いてはこないが、明らかにパーソナルスペースを割り込んだ距離まで近づいて、お疲れ様です、とニコニコと見上げられれば、どうしたって菅波の口許は緩みっぱなしである。
と、百音が手を菅波の髪に伸ばす。何を人前で大胆な、と菅波が少し体をひこうとして、頭にのせられた何かに気づく。それが何かを確かめる前に、百音がパッと後ろを振り返り、子供たちに声をかけた。
「おーい、鬼がでたぞー!」
「えっ?!」
頭に手をやると、何やら固い手ざわりの物が。少しずらして見上げれば、何やら赤いプラスチック作られたそれは、どうやら鬼の面で。と、状況を把握したかどうかというところで、百音と遊んでいた子供たちがわっと走り寄ってきて、手に持ったビニール袋から殻付きの落花生をつかみ取って、全力で菅波に投げつけてきた。
「おにはーそと!おにはーそと!」
「そとー!そとー!」
子供の力とはいえ、なかなか大ぶりの殻付き落花生を全力で投げつけられると、なかなかの攻撃力でそれが何人からも投げられてくるので、逃げる場所もなく、あ、いや、い、いてっ、と菅波はただひたすら殻付き落花生を投げつけられ続ける。気づけば、百音も一緒になって、殻付き落花生を投げてきているのだから、もうどうしたものか。豆を投げる百音さんも楽しそうでかわいい、いてっ、ちょ、まっ、と菅波が事態に対処しきれないまま、中庭の一画が殻付き落花生まみれになったところで、やっと鬼退治が終わった。
「わー、みんな、一杯投げたねぇ!じゃあ拾おっか!」
と百音が満足気に言うと、子供たちもはーい!と元気な返事で、自分の持っているビニール袋に殻付き落花生を拾っていく。またこれが投げつけられる無限ループじゃないだろうな、と思いながら立ち尽くした菅波が見ていると、あっという間に豆拾いも終わって、モネちゃんまたねー!と子供たちは走って去っていった。
呆然とそれを見送った菅波は、気を取り直して、頭にのせられたお面を両手で外して百音に渡す。あえて憮然とした顔をして見せると、お面を持った百音がそれで口許を隠しつつ、上目遣いで菅波を見た。
「おこっちゃいまし…た?」
「びっくりはしましたが…。まぁ、あなたも子供たちも楽しそうだったのでいいです」
菅波が言うと、百音がぺろっと舌をだしておどけてみせるので、菅波は苦笑しながらもその頭を撫でるより他ない。その足で二人で椎の実に向かえば、先生災難だっだなや!と常連客から声をかけられて、また苦笑いである。
その後、菅波の退勤支度に百音が付き合って準備室行く。菅波が白衣を脱ごうとして、ふとポケットの中身に気づく。取り出してみれば殻付きの落花生。百音がそれを受け取って、手の上で遊ばせるのを見ながら、菅波が荷物をまとめる。
「そういえば、それ、外で撒くから殻付き落花生だったんです?」
ふと出てきた菅波の問いに、百音が首をかしげる?
「え?普通に豆まきだからですよ」
「え?」
驚いて顔をあげる菅波に、百音はごく当たり前、という顔をしている。
「こっちじゃ豆まきは殻付き落花生ですよ。私が森林組合にいた頃も殻付き落花生で豆まきしてたけど…。あ、先生は全然参加してませんでしたもんね」
まぁ確かに、と思いながら、ふとした地域のカルチャーギャップに、まだまだ知らないことがあるものだ、と菅波は、ひとつ知識が増えました、と百音に笑うのだった。
菅波の家に着いて、いつものように椎の実でふんだんに持たされた総菜での夕食の後、百音がとりだしたデザートに、また菅波はチベスナ顔である。皿の上には、黒い生地で巻かれた細長いロールケーキが2本。いわゆる恵方巻スイーツというものである。
「買ってきました!恵方巻ロールケーキです!」
「いやもう、ほんと、なんでも恵方巻って言ってりゃいいってもんじゃないの極致ですね」
「いいじゃないですか、楽しいし」
もちろん、楽しそうな百音に逆らえる菅波ではなく、じゃあまぁ、いただきますか、と手を伸ばす。今年の恵方はこっちです!とスマホのコンパスで張り切って方角を調べて指さす百音に、ふと森林組合にいた頃に一緒に恵方巻をまるかぶりしたことを思い出す。あの頃はまさかこうなるとは、と思うのもいつものことだが、何もなかった頃からも一緒に年中行事を重ねていたのだ、ということが何だか面映ゆい。
二人してもくもくとロールケーキにかぶりつく。
今回は菅波もロールケーキを崩壊させることなく完食し、食べ終わったとたんに百音が笑う。
「先生、今回はきれいに食べれましたね!」
数年前のことを百音も覚えていたことがなんだかとてもうれしい、と百音の顔を見れば、口許にクリームが付いたままで。
「おかげさまで」
と言いながら手を伸ばして口許のクリームを拭ってやる。
そのクリームをぺろりと食べて見せると、さっきの勢いはどこへやらと、頬を染める百音に、菅波は越し方に思いを馳せるのだった。