Yesterday and Tomorrow それでいいと思う。
宇宙にいっても、君を想うなんて、素敵じゃないか。
***
突然持ってきたそれを見て、私が呆然としていると、明神さんは後頭部をマンガのように掻いて、パンパンと軽く叩いて見せた。
「もらった」
「誰に!?」
「…陽魂…から、お餞別にって……」
いつもの深夜パトロールの最中に意気投合したヤのつく職業の陽魂が、最後のお礼にとかつての自分の家に残された自転車を託されたらしい。
実際に受け取る根性もすごいが、実物を見たら家は見事な廃屋で自転車も錆びて動かすたびにギイギイと音が響く有様。それでも「お礼」をもらえたことが嬉しいのか、たまに見かける実年齢よりも幼いウキウキとした顔で明神さんは誇らしげにその自転車を私に見せてくれた。
とりあえず乗ろうにもタイヤは当然パンクして、サドルは破けスポンジが固くなっている。全体的に錆びつきが目立ち、おまけにハンドルも曲がっていた。普通の運動神経ではとても乗れるような代物ではない。拾ってくる感性がやっぱりわからない。でも、それがとても彼らしいともいえるのだけど。
なんていえばいいのかがわからなかったので、生返事で「そうですか」と返したものの(明神さんはその返事を全く聞いていなかった)、私は私で用事があるので放っておいて夕方図書館から帰ってくると、一日かけてアズミちゃんにまとわりつかれ、エージくんにつつかれながらそれなりに修繕を試みていたようで自転車の錆はそれほど目立たなくなっていた。小さな二人が自転車の周りを追いかけっこして遊んでいたのだ。
横でその様子を満足げに見ながらおそらく麦茶を飲んでいた明神さんが私に「おかえり」といい、私は「ただいま」と当たり前のように返事を返す。彼は私を待っていたらしく先ほどのように誇らしげな目線を自転車に投げかけた。
「結局パンクしてるし、ゴムは劣化してるからタイヤフル交換してサドルも上がらないし破けてるから交換したよ」
「それって買ったほうが安いんじゃないの?」
「店主が面白がってサービスしてくれた。カゴくれたし」
「ちょっと、待って。ここら辺で自転車屋なんてなかったですよね? 一体、どこまで行ってきたの?」
今、明らかに明神さんの視線が泳いだ。
「えーと、まあ、駅5つ先くらいかな」
「はあ?」
「15キロも離れてないよ、多分」
「まさか、これを持って?」
「そりゃそうだよ。これの修理なんだから」
言ってから「あ」みたいな口をする。
「……行きは押していったさ。さすがに乗れないし」
ため息が出る。いくら身体が頑丈とはいえ、こんな暑い中をわざわざ歩かなくても……というこちらの思いが伝わるはずがない。
「じゃあ、今日はもう疲れたでしょう? お夕飯作ります」
「ねえ、なにか買い物ないの? 俺、行くよ」
「自転車乗りたいだけじゃないの?」
そして少年のように笑って「うん」と白髪の男は言った。
こちらはメニューを考えているのに、なんか用事ないの? と後ろでうるさいものだから裏手の通りに売っている豆腐を頼む。
豆腐を買うなら、と思うとついでに生姜も買って、そういえば万能ネギのストックも無いし、と次々と買い物が出てきて、結局全部買いに行ってもらうことにした。
私が立ちながらメモを書いている間、明神さんは白い髪を夕日に映えさせてオレンジ色に染めながら手で瞳に直視する光を遮ってどうしてそういう時にサングラスをしないのだろうとぼんやり思った。
髪と同じように瞳の組織も薄いのか、光が苦手なようで、いつも愛用しているのに。
「夏っぽいよなぁ」
今はもう夏休み。
なんだか今更なことを言うものだからおかしくなって、呆れたような声で言い返してしまう。
「夏ですってば」
それを聞いた明神さんは、困ったように、笑った。
***
「夏っぽいよなあ」
当たり前のことをさも珍しいことのようにつぶやいたものだから、ついきつく言い返した。
「夏だっつーの」
海辺の出店に現れた霊を見送って、夕食は焼きそばで済ませ(そして本日の見返りである)、ぶらぶらとうたかた荘へと帰ってきた。
依頼をしてきた海の家のおやじは日に焼けた典型的なサーファー風情で、背中に大きく「海の漢」とかかれたTシャツを着ていた。
オレはあんなの着れないし、着る気もないが、明神はやけに気に入ったらしく、焼きそば以外の報酬として同じ柄の入ったTシャツをもらってきた。よく見ると色がピンクっぽいのだが、オレの目の前で着ようものならすぐさま梵してやろうとずっと思っていた。外に行こうものならもう家に入れてやるものか。
「男は背中を見せていかなくっちゃな」
そういってオレの前を歩いていた明神は後ろのオレをみた。
きっとさっきまで話していたあのTシャツのことをやはり思っていたらしい。同じことを考えていたのが少し恥ずかしくなる。言っている意味はわかるが、気恥ずかしさと、日本語の読めない外国人向けのような文字Tシャツを着こなす明神を思い浮かべて自覚出来るくらい苦い顔になる。
だが、明神は自分の背中を親指で示しながらニヤニヤしている。
真夏だというのに、この男の格好は出会った頃から変わらず、中に着ているシャツが半袖だったり、タンクトップになるだけで、サングラスとコートは年中無休のようだった。
「たとえば、今の俺の背中のように!」
「前向いて歩けよ」
「師匠が人生を語っている時に水を差すもんじゃないぞ」
だが、オレが言ったのはそういう意味ではなかった。明神も直後に知ることになった。
ゴン、と電柱にぶつかってうずくまるのを上から見下ろす。それでもコイツはオレの腰くらいまである。ちゃんとした睡眠も食事も取れるようになったのは最近のことだから小柄なオレはそのことにも少しイラついた。
「だから言ったろ」
「だったらぶつかるってちゃんと言ってくれ」
サングラス越しに薄く見える半目で睨まれて、オレは肩をすくめた。
オレの肌は海辺の日差しにきつく当てられ未だに火照っていて、焼けない肌は少し赤く熱を持っていた。最近夜寝る時にはヒリヒリとした痛みが地味につらい。黒くならないからか、腫れているように感じる。日焼けが痛いと保護者面した明神に訴えると、次の日、おそらく初めて買ったと思われる新品の日焼け止めを渡された。塗ると余計に染み込んで痛かったけど、オレは塗るのを止めなかった。
真っ黒に身を染めている明神と対照的に、色白なオレは、それを隠したくてまた白いものに包まれる。日焼け止めの白い液体はオレの肌色になじんですぐに溶ける。においを嗅げば臭いし、変な色もつく気がした。でも、黒いものを着れば着るほど、白さは目立つのだった。
オレには、まだ明神のコートと背中は遠かった。
収まったのだろう痛みのあるところをさすりながら立ち上がった明神が、またオレに背を向けてあと少しのうたかた荘まで歩き始めた。オレはいつものように斜め後ろを歩きながら、男の背中を見ている。
「男は背中で語らねえとな」
そんな明神は、真正面で向き合ったときには、素直に言葉を吐いて、死んでしまったのだが。
アイツがいなくなった後のオレの毎日はガラリと変わった。
日常という言葉は毎日のために存在しているのに、オレの毎日は「日常」に置き換えられない感覚が離れなくなった。アイツがいない毎日が日常的とは思えなかった。
確かにルーチンワークは存在していて、日常の中に発生するイレギュラーを「道を外れている」と表現するのはわかる。この「外れる」というのはいつものルーチンがあるからそういう考えになるのであって、結局は毎日の生活が同じであることを意識している。
なのに、アイツがいなくなる前と「同じ」ものを見ているとは思えなくて、それは逆に毎日は新鮮な響きを与えている。新鮮というと響きが良すぎるが、ようするに毎日慣れない。
アイツのいない、毎日に。
夏になると強制的に空へと上がる花火を見ては、一瞬で散るから綺麗なんだと、命と重ねて思ったことがある。
目に見えているのは少しの時間しかなくて、咲くのは一瞬。残りは全部残像で、自分の考えた花火の様子を目の膜が見ているだけ。
そんなのはよくあることで「こうだ!」と思ったことが大体は本物と違っている。というか、最初からそうだった、といってしまえばそれまでだけど、それならオレが思い描いていた間のそれは結局妄想だったのかといえばそうかもしれないが、少なくともオレの脳味噌の中には存在していて、それは「あった」と断言していい。
もうほとんどの明神との会話のやりとりや思い出はそんなオレの記憶なのか、妄想なのかわからない範疇にまで来てしまったようだった。
『なんていうか、そういう理屈じゃねえんだ、霊っていうのは。
人の死を、概念で捉えるな。
一人の死を、一人として考えるな』
さっぱりアイツの演説はわからなかった。
『お前に近い人間が死んだら、もしかしてわかるかもな。
理屈の上での死に対して、普通は理解が出来ない。
普通の人間は死を理解出来ないからだ。経験したことがないから、普通はわかるわけがない。出来るのは、理解しようとする努力だけだ。
わかるか?』
やっぱりよくわからない。
『俺らは素質があって、死の世界を視たことでその力を得た。んなもん、3D映像と一緒だよ。一度コツを掴めば見れるようになるだろう?自転車とかみたいに乗り方は忘れない。身体が覚える記憶だからな。
もしくは引っかけのイラストみたいにさ。
2つ以上の見方を出来るか、出来ないか。
見えないものは、理解を出来ない。
それが死イコール無の、思想だ』
『だけど、そうではないことを、俺たちは知っている。
俺たちが世界で一番そういう思想とは遠いところにいるってことだ。本当は誰もがその世界に触れることが出来るけど、俺たちが一番近い。
そうだろう? 冬悟』
だけど、オレにはわからなかったんだ。
そうだ。わからなかった。
明神が死んだとき、オレには結局、死は無としてしか捉えることが出来なかった。
アイツの背中がないと、オレは道が見えなかったくらいに。
思えばアイツの演説は長かった。話すの、好きだったもんな、と思いながら一緒にお互いぶっつり座ってしゃべらない日だって少なくなかった。
そういう日の夕食時は、明神はいつも神妙にオレに説教を垂れたものだ。
死は、終わりではない、と、口酸っぱく。
それは、いつか、自分がいなくなることを踏まえての話だったのかもしれない、と、アイツが死んだ今こそ、そう思うようになった。
*
いつもは霊がうるさいこのアパートにも、ごくたまに静寂が訪れる。
気持ち悪いくらいにオレの気持ちとシンクロしていて、オレが落ち込めば落ち込むほど、この家には悪い空気しか入らない。何代目だか知らない『明神』となった今でも、先代をふと思い出す時には、なぜか大概誰もいない。
当然のことながら弱っているのを見られたくないオレには都合のいい話だが、喧噪にまぎれてそれをごまかすことも出来ず、手持ち無沙汰になるのかいつものことだった。
雑草が生え渡っている庭に(することがないので)水を撒いていると、透ける白のスモッグ(と呼んだら女子高生に怒られた)の下にボーダーのタンクトップの肩紐が細い奴(と言っても怒られた。服の名前なんて何度聞いてもすぐに忘れる)を着たヒメノが声をかけてきた。
見たことがない格好だったので、そっちに気を取られる。
「薄着は冷えるよ」
「かわいいでしょ。昨日買ったの」
「新しい服は先に水を通したほうがいい」
「昨日の夜、ちゃんとやってます。もう乾いたの!」
庭のつっかけをはいて、オレのほうへと寄ってくる。オレの足下は適当になにも考えずに撒いていたから水だらけだ。
「どうせ暇なんでしょ?」
「いつも暇みたいに言わないでくれ。仕事は夜が中心なんだから。高校生こそ、学校なくて暇だろうに」
ついつい大人ぶって言い返す。彼女が勉強に友達つきあいに忙しいのを知っていたけど、その分この家にはいないから暇といえば暇だった。彼女がいないと、霊たちもどこかに行ってしまうことが多いのだから。
先日の自転車もあまりいい暇つぶしにならなかった。もう少し時間をかけて直せば良かった、と思うけど、あまりに夢中になってて一日で直してしまった。ビーサンで10キロ以上歩いたのは結構厳しくて自分のバカさ加減に呆れた。残ったのは徒労感だった。
そして日焼け。日焼け止めを塗っていても今でもヒリヒリしている。
そんなことを考えていたらヒメノがこちらを伺うようにほほえんだ。
「ちょっと遠くにでかけませんか?」
「デートのお誘いかい?」
からかうと、すでに太陽のせいでうっすらと赤かった顔が一層赤くなった気がしてなんだか気まずくなる。ガクが言うと本気の冗談なのに、オレが言っても寒いだけだ。
「別にいいよ。どうせ暇人だし。なにしに、どこ行くの?」
少し早口で返答すると、同じように気まずい雰囲気を変えようと元気いっぱいに「スイカ!」と言われる。
「スイカ?」
「今朝、隣のスーパーのチラシ入ってたでしょ? 今日は果実のセールなのよ。今年、スイカまだ食べてないじゃない。買いに行こうよ」
「わざわざ買いに行くほどのものかよぉ」
つまりは、荷物持ち、と。
「長い坂があるからイヤなんでしょ」
「最近、ひめのんはオレの考えを読むようになったね」
「そりゃあね」
プイっとそっぽを向いてしまった顔は、アズミが大きくなったような仕草で幼かったが、かわいくて、笑えてきた。
笑うと、やっぱりもっと頬をふくらませてしまった。
結局、直したての自転車が意外と活躍することになった。オレとしても、そのほうが嬉しいし。なんてったって、暇人の一日を潰しあげたのだから。
後ろに乗るところなんてないから座布団をくくりつけたら、ヒメノはとてもイヤそうな顔をした。かっこわるい、なんて渋るのでサドルに座らせようとしたらやはり激しく拒否される。
「なら文句は言わないの」
「は~い」
オレが乗ってから、後ろのタイヤが沈んだ感触があった。だが、同時に違和感がある。
「ひめのん?」
「なに? もう乗ったよ」
「手」
しっかりと足をつけて(サドルが全体的に低いのだ)、自転車が倒れないようにしてから、後ろへ両手を回してヒメノの手を探す。サドルの裏あたりを掴んでいた細い手首を自分の腰に回させる。もやっとした蒸し暑い空気の中、冷たい手に驚いたが、腰に回した手が予想を上回る動きをして二重に驚く。
「そんなとこ、掴みにくいだろ。危ないからしっかり掴まってて」
「く、くっついてるほうが暑いじゃないですか!」
「飛ばすぜ! しっかり掴まってろよ!」
「わっ!」
彼女の手をとるとき、きっとオレは弱っている。
人の体温に触れた途端に、血液が流れていることが肉体を活かしているというのを思い出して左の臓物を思うのだ。
オレの心臓がんばれ、と。
オレが突然ヒメノの手に触れると、ヒメノは面白いくらいに飛び上がったが、最近ではずいぶんと慣れてきたようだ。それでもいつも照れくさそうにする。
たまに彼女のほうがオレの手をとることがあるが、そのとき、オレは赤面をしない、と思う。びっくりはするが、人の身体には体温があるからだ。接触することによる照れなどというものと無縁になり、そうではなくて判断基準が「生」か「死」になっている。霊たちの手は、触れてももはや恐れることはない。
だけど。
さっきもヒメノの手が驚いたことに、一緒に驚いた。
それは、振り払われる可能性をすぐに思い起こす。
ヒメノの手は、血液の温度は低くても、反応は早くて、オレの手を払ったことはなかった。求めているわけではないけれど、オレは無自覚に触れているのだろう。生きている手に。
この子の手でなければ、触れられていることに、長いこと、耐えられない気がする。やっと積まれてきた、振り払われない、という信用のおかげで。
背中にヒメノの顔があたっているのがわかった。
心臓の近くに人がいることは、冷静に考えればすごいことだ。オレが生きているのを誰かが聞いている。オレの心臓は、無事に生きているか。
「汗くさいだろ。あんまり、くっつくなよ」
実際、心臓に触れられているようで、次第に落ち着かなくなってきた。人に触れるのは、いまだに慣れなくて、霊の感覚のほうが自分に近い。オレの心臓は、いつも動いている気がしない。
「自分がそうしろって言ったんじゃない! 手を回したらこうするしかないじゃないの!」
そしてさらにぎゅっと締められた。胸の間を流れる汗がじっとりと身体に触れた。
盆の、あまり車がない時期に、さらに普段から車が少ない道を選んで道路の真ん中を走った。彼女の手が、腹に当たっていて笑いながら坂を下る。
オレの背中にひっついているヒメノを振り返った。
振り返ったオレを見て、彼女は、大きく笑った。
ああ、オレは、この子に背中をいつも見せることができるようになったのか、と、ふいにストンと落ちるものがあった。
ずっと背中を見ていたのに、いつの間にかオレは誰かの前に立つ側になって、後ろを向くと、いつも守るべき仲間や霊たちが居て、そしてヒメノがいた。
オレのシャツを、コートを掴んでいる彼女を見るとき、オレは後ろを向く。
一度だけ、すがりつくようにこの子の背中をみたとき以来、オレはこの子の背中をみた記憶はない。見てはいけないと思ったから。
もう、この子にそんな背中をさせてはいけないと、オレのすべてをかけてもやらせてはいけないんだと思ったから。
オレの後ろに、誰かが、いる。
それだけで、オレは立っていこう、生きて、いこうと思えた。
そうして、ようやっと、今更のように、この子に触れることの意味に思い当たる。
ただ、オレは、この子を守ろうとして、手放したくないのだ。
きっと、アイツが、オレを守ろうとしたのと同じように。
当たり前のように過ごしていて、気がつかないことなんて山ほどあるけど、まさか、こんなことにも気がついていなかったなんて、ちょっと、今、自分でもびっくりした。
もうすぐ店につく。その前に、もう一度大きな坂がある。
「明神さん、どうかした?」
「どうもしないよ」
たとえば、いつか、この子がこの街を出ていったとしても、このうたかた荘の記憶が、きっとこの子のためになるといい。オレのように、ふとしたときに思い出して、そしてそれを誰かに向けてやってほしい。
そうすることでオレの中でアイツが生きているように、それは連綿とオレが生きていた証になって続いていく。彼女の中でオレが生きることは、その中にアイツの存在も内包している。オレとアイツが生き続ける。この子の小さな胸の中で、オレの心臓は本当に動き出す。
オレの物体である心臓の話じゃなくて、オレの見えない、死を越えた、有無を越えたところにある。オレという「魂」の存在が、誰かに繋がっていく。
死は、最後ではなくて、存在したことが、すでに有になる。
イコールは、確かに無ではないのだ。
そういう、ことだ。
「なんか、平和ですねえ。ちょっと前まで、バタバタしてたのにね」
「どんなことがあっても、どんな敵が来たって大丈夫さ」
横からちょっとヒメノが顔を出した。
「なんで?」
「オレが、君を守るから」
口に出して、今度こそ、胸の高鳴りを覚えた。
そうか、オレは初めて自分の力で恋いをしている。返事がなくて、不安になり、後ろをみようとした。背中に顔を押しつぶされている。
「ひめのん?」
腰に回された腕が、また締まった。今度は、さらにきつく。
この背中を見せる間は、オレは不死身でいなくてはいけない。
あの男のように、たとえそれが嘘だとしても。
オレにも出来る。
オレが望む限り、オレもアイツみたいになれるんだ、と知っているから。
君を守ってみせるから。
***
不意打ちのような言葉が聞こえて、思わず抱きついていた手を弱めて、そして明神さんの肩が笑いでふるえているのがわかった。
なのに、強く抱きつけば、明神さんの身体も緊張しているのがわかる。自分から抱きつかせたくせに、今頃身体が固くなっている。人に触れられるのが嫌いなくせに、自分から触れることが仕事なせいか、意外とボディタッチの垣根が低くて、なにかと触れあいがちな行動に移る。そんなとき、私はいつも緊張するのに、この人は緊張しないようで、それは年齢的なものなのか、霊と同じで慣れなのか、私に一方的に想いがあるからか。とにかく、ずるい。
なのに、こうして心臓の音が聞こえるくらいの近さになると、私のほうが落ち着いてきて、この人の心臓ごと鷲掴みにしているようだ。全部が私の思惑通りに。
逆に最初は余裕ぶっていた相手の身体の緊張は強くなって、後ろからちょっと見える耳が少し赤い。なにかもが、今更なのに。
私がどこかに行くことを前提に触れてくるこの人は私の生者としての温度を信じていない。
正直な話、私にとってこれは恋でなくても構わなかった。
私が今この人に打ち明けたとしても、きっとこの人には理解出来ないに決まっている。私の言う意味を正確に感じ取られたことなど今までなかった。互いに互いを想っていても、どこか私たちはすれ違っている。真っ当から向きが違った。
私は幼く、恋に夢を見て、この人は恋に気がついていない。いや、この人は、恋をしているのではない。
きっと、恋ではなくて、愛なのだ。
もっときっと単純で、複雑な、難しい、すべてを救える愛。
誰かが言ってた「恋は求め、愛は与える」。
与えてばかりで、受ける気のない男の人。どうして私の周りにはそんな人ばかりなのか。自分も幸せになれることを知らないような、本当に仕方のない人たちだ。
見返りを求めることをしないで、その身を捧げるように生きている。それが本望なのか、それとも贖罪をいまだに続けているのか、はたまた癖なのか。
たとえどんなに離れていても、私はこの人を想おう。それは距離によって消えていくものではない。
そんなもの飛び越えて、いつかこの人に届く宇宙の光のように、忘れた頃にこの人が私を思い出せばいい。
後ろを見てくるから、いつも「いるよ」と主張する。
私が笑えばこの人は嬉しそうにする。
振り向いたときには、この人が後ろを向くときには、私はいつも傍にいたい。
私は戦えないからこそ、ずっと後ろにいると、と微笑んでみせる。
だから背中を見せて、どこにでもいけばいい。
ならば私は、その愛を受け、この人に恋をしよう。
そうすることで、この人を守るのだ。
私がいることで、この人が強く生きていけるのなら、この人が自分の価値に気がつくまで。
私たちの想いは、きっと同じだけど、少しずつ違っていて、それで、良かった。わかりあえないままに、こうして、日々を過ごすことだけで、積み重ねていくものだけで、それだけで、充分だ。
だから、まだまだ続く長い坂道で、一緒に笑って上って落ちる。共有する想いを増やしていくことだけが、私たちの理解の方法だからだ。
私が抱き抱えた手のひらに、明神さんの体温のある手が重なって、初めて繋がった想いで下った。
「ねえ」
「はぁい?」
「今日はさ、カレーにしない?」
「夏っぽいですね」
「夏っぽいだろ?」