似合わない香り「ねえ明神さん、私あなたのことが好きですよ」
自分でも予想していなかった言葉が口から出てきたことに驚いたが、言われた明神はもっとひどい顔をしている。口元にだらしなくくわえたタバコが落ちそうになって、火元に気づき小さく「あち」なんて声が遠く聞こえる。二人はすぐ目の前にいるのに声が遠かった。
「だから、長生きするためにも、タバコなんてやめてください。
大体安いものじゃないんだし。ただでさえ、長生き出来そうもない危ない仕事してるんだから」
そういって立ち上がると、明神の視線が自分の足を見ていた。膝丈よりも上のスカートを履くと最近はよく注意してくるようになった。そこに他意はないとわかっているものの、ついつい「明神さんには関係ないでしょ」なんて言い返してしまう。そうすると明神の顔が少しだけ、本当にわかりにくく醜く歪むのを見るのが好きだった。
今、同じように相手に向かってその言動に口を挟んでいる。
そんなこといえるような関係でないというのに。
なにか言いたげな明神が、なにも言わずに「うん」と言ってタバコの火を消したのを見て、ヒメノは管理人室を出ていった。
*
25をすぎてから新しいことを始めてみるのも悪くない。
そう思って、特に深い意味はなかったけれど、本当にたまたま飲み屋で気になっていたことを正宗に言った。
「ねえ、一本吸ってみていい?」
「やめときなよ。頭だけじゃなくて身体の中身まで悪くするよ?」
「おい、喧嘩売ってんのかプラチナ」
「新しいのはダメだ。これにしろ」
そういって正宗が今吸っていたのをそのままよこしてくれる。恐る恐るそれを手にとって口元に持って行く。
「なんか、そういうの似合わないね、冬悟くん」
「最初から深く吸い込むなよ」
「ッゲッホゲホ!」
「バカ。ハナから肺に入れられねえよ。練習しろ」
「なにこれ、練習して吸うものなの?」
「最初からは難しいよね」
「プラチナも吸ってたのか?」
「昔ね」
ふうん、といってタバコを返す。口の中が今までにない感覚だった。少し痺れているような。
「これ、やるよ」
「え、これ開いてないじゃん」
「コンビニで買ったらいつもと違うやつだった。うっかりそのままにしてたやつ」
「正宗くん、こっちにしなよ。いつまでも重いの吸って。やめろとは言わないからせめて軽いやつにして」
「お前は俺の彼女か」
「じゃあ、頂くよ」
特に、他意はなかったのだが。
『あなたのことが、好きですよ』
それとタバコがどう繋がるのだろう。
確かに健康には良くないが。
それでもつい勢いで火を消してしまった。タバコを吸ってまだ一ヶ月も経っていない。一箱分も吸っていない。それでも少しのどに響く香りは悪くないと思い始めていた矢先だった。
そういえば、彼女はいつも飲み屋から帰ると「くさい」と言って顔をしかめる。そして勝手に人の服にファブリーズをかける。今日はどこに行ったの?何杯飲んだ?あやしいお店じゃないでしょうね?ほら、もう服脱いでよ明日洗濯するから。
ねえ、明神さん。
タバコ、吸ってるの?
*
「うああああああああ!」
ヒメノは物理的に、そのままの意味で頭を抱え自室の真ん中でうずくまっていた。
「いや、お前、なんで、そんな…」
「だって!急にタバコなんて吸い始めるから!!」
ヒメノを見下ろすようにすぐ横に立っているエージが、ヒメノの目の前にストンと腰をおろす。その呆れたような声はもう何年も変わらない。少年の声なのに、自分のほうが年上なのに、彼はいつも人生の先輩としてヒメノの話を聞いてくれるのだ。
「たまたま正宗からもらったって聞いてるぜ?どうせ明神のことだ。なんにも考えてないだろ」
「だから、それが良くないって言ってるの!ただでさえ睡眠時間は不規則、怪我も多くて、好き嫌いもある偏食のくせに、タバコなんか吸って、ますます不健康まっしぐらじゃない!」
「お前、時々ひどいこと言うよな」
「事実を述べているのです」
エージの横にヒメノも体育座りをして再び大きなため息をついた。
「どうしよう、エージくん。やっぱり意味わかるよね、さすがに『好き』なんて言われたら明神さんだって、意味わかるよね」
「これでわからなかったら、お前あきらめたほうが人生楽しいと思うぞ」
「うるさい」
そして立てた膝に顔を埋めた。隣で今度はエージが大きくため息をついた。
「言っちまったもんは仕方ねーだろ。逆に堂々としてろよ。そのほうがお前らしいし」
「無理よ!いくらなんでも!」
「大体アイツのことだ。朝になったらすっかり忘れてるんじゃないのか?」
「それはそれで困る!」
「お前も充分わがままだな!」
そうして話していた間に、人の気配が近づいていたことに二人とも気づいていなかった。ふいにドンドンと強く扉が叩かれてヒメノとエージは全く同じ仕草で肩をビクリと震わせた。
「うわっ!」
「おい、エージ。もう10時半を越えてる。いつまでも若い女の子の部屋に入り浸ってるんじゃない!」
「なんだ、お説教か?」
少しだけ、瞳が見えるくらいの隙間が開いた。
「ひめのん」
「は、はい!?」
少しだけ視線が逸らされて、またヒメノを見つめた。
「タバコ、やめるから」
「え?」
「だから、嫌いにならないでくれる?」
それだけ言うと、もう一度静かに扉は閉じられた。
エージとヒメノが顔を見合わせる。ヒメノは本当にぽかんと口を開けて、アズミが驚いた時みたいとエージは思った。
「おら、だからお前はとっとと出ろ!」
再びガチャリと音がして今度は大きく開かれた扉からにゅっと長い腕が伸びてエージの首元を掴んで、すごい早さで閉じられた。
よく見なくても、明神の顔が赤くて、それだけで、さっきの動揺が収まりつつある。あんな顔を、見せてくれるなんて。
だから、嫌いになりようなんて、ないのだけど。