それは昔からの約束事 エンゲキに連れられ、月の世界から戻って来た。
懐かしい町、懐かしい人々。
俺が守った世界の一つ。
「読み手」の世界。
手を引くエンゲキの手の平の暖かさが、これを現実だと告げていた。
いまだに現実味を帯びていない。足下がふわふわする。息をしている肺がこの地球の空気を初めて吸っているように新鮮に感じる。
暗い夜道が、子どもの頃は怖かった。
でも、あのとき言った言葉は嘘ではない。
二人で歩く今、怖くない。
だが、俺の足取りは遅い。
自分の家に帰るというのに、あまりにも重たい。
嘘だ。俺は正直怖い。
もう跨ぐなと言われた敷居を、どうすれば越えることが出来るのか。
俺にはわからない。
下を見ながらノロノロと歩く俺の手を引くエンゲキブは、対照的に跳ねるような足取りだ。
「ほら、ゲッちゃん! もう着くよ!」
「わーってるよ!」
懐かしい我が家。
もう暖簾は仕舞われているが、中からは明かりが漏れている。
この時間は明日の仕込みをしているはずだ。月の客との戦いがくるまでは俺が手伝っていたそれを、今はエンゲキブがやっているという。
だが、今日はそのエンゲキブもここにいる。
中には、じいちゃん一人のはずだ。
調子外れの演歌が聞こえて、耳慣れたそれに、なにも見て聞いていないのに、のどの奥がグッと鳴った。
「ほら、行っておいで」
そういって、背中をポンと押されて、店の入り口に立った。
引き戸に伸ばす腕が震えていた。
「月光」
もう一度、エンゲキの声が聞こえた。
そうだ、俺は、その声を背に、ずっと戦ってきたんだ。
もう一度、立ち向かわなくてはならない。
過去の自分が犯した過ちに、立ち向かわなくては。
*
扉が開いた。
エンゲキが帰ってきたのかと思って、そちらを向く。
かつてはバカ息子の幼なじみだった少女だが、今は自分の家の大事な娘になった。
本当は、そういう形でなくて、別な親子の形になりたかったけれど、もしもあのバカが帰ってきたときに、二人揃っていたほうが、きっとアイツも楽だろうと思った。
あの娘にもいろいろあったようだが、まだ若い娘だ。
大事な用があるとか珍しく真剣な顔して言っていたから送り出したが、帰りが遅い。こっちだってもうジジイだ。義理とはいえ、一人娘が心配でならない。
「遅いんじゃあ、ねえのかい!?」
思わず出た言葉が尖っていたようで、相手は息子じゃねえんだ、と慌てて思い直す。
「ああ」
だが、聞こえた声は、ずっとずっと低いものだった。
それは、ずっとずっと、高い声から低くなるまで、長い間聞き続けた、聞き間違えることなんて、絶対にない声だ。
「……げ、月光……?」
慌ててカウンターを回り込み、引き戸の前に駆け寄る。
見慣れた頭。
もうとっくに越されれた身長のせいで、こいつのつむじなんて見るのはどれほど遠い記憶になっていたことだろう。そうだ、こいつのつむじはこんな形をしていたんだ、なあ、ばあさん。そう、台風みたいなつむじがおかしいねって、三人で笑いあっていたそんな昔があったんだ。
もう二度と、出会えることがないと思った、月光が、店の前で、地べたに額を押しつけて、座っていた。
「じいちゃん」
聞いたこともないような、消え入りそうな声だ。
「お前、まさか、本当に、月光か……?」
「ああ」
月光は顔をあげない。
「面ぁ見せろや、月光! おい!」
その肩を掴むが、その頭はずっと地面に押しつけられたままだ。
「じいちゃん、ごめん」
あの時と、同じ言葉が耳にこだまする。
「もう、泣いても敷居をまたがせねえって、言ってた。
俺、もう二度と帰ってこれるなんて、思ってなかったんだ。
でも、どうしても、どうしても、俺には、まだ、やらなくちゃならねえことがあるんだ……!」
「なんだ、なにを……」
「一生、あんたが死ぬまで、一緒に、この店をやりたい」
ようやく、月光の肩が震えているのに気付いた。
「今更ノコノコ帰ってきて、なにを、今更って、バカだって、わかってっけど、それでも、どうしても、この店に、もう一度俺は入りたい。
ここで、俺も、じいちゃんと一緒に、生きたい……」
地面が濡れていた。
春の生ぬるい、けれど、肌をなめるように涼しい風が、俺とバカ息子の間を通っていく。
ガクリとついた膝に、月光が肩をビクリと揺らした。
「お前の、名前は、お前は、本当に、『岩崎月光』か……?」
「うん」
未だにあげない頭を掴んで、やせ細ったじじいの身体で抱きしめた。
あんなに、小さかった、うまく言葉が紡げなくて嫌われたのではないかと涙を流していた子どもが、こんなに大きくなっていた。
どうして、ここまで育ててやって、こいつは、いまだに、自分の居場所を、わかってくれねえんだろうか。
「月光」
「うん」
「もう」
「うん」
「もう、どこにも、行かねえか?」
どこかから突然やってきた子どもだったから、いつかどこかに帰ってしまうんじゃないか。
そんな不安は、俺にもあった。
ばあさんが死んで、二人きりになって、ああ、俺の生き甲斐のこの子がどこかに行ってしまったら、俺はどうなってしまうんだろうかと、思わなくもなかった。
ただ、この店を続けている限り、こいつが帰ってくる場所を用意してやれる。
それだけの気持ちで。
「もう、どこにも行かねえ!」
顔をあげた月光の顔が涙でぐしゃぐしゃで、抱きしめていたはずが、いつの間にか俺のほうが、抱きしめられていた。
「ここは、お前の居場所なんだぜ。
いつだって、帰ってきてよかったんだ、月光。
お前は、バカだから、そんなことに気付くのに、こんなに時間がかかっちまったんかよ」
「うん」
「はは、お前は、本当に、俺にそっくりだなあ」
「ちげえよ、俺、バカだから」
「おう。知ってるわ」
「全部、誰もかんも、なんもかも、幸せになってくんなきゃ、イヤだったんだよ……。誰にも、不幸な目になんて、遭ってほしくなかったんだ……」
「ああ、知ってるよ、お前はバカだが、性根はまっすぐに育ったんだ。育てたのは俺だからな」
「なのに、俺、なんもわかってなかった」
あれから、一年が経っていた。
育ち盛りの青年となった息子の表情は、精悍で、たくましくて、そう、こんな男になればいい、と思ったそのままの姿で、胸がいっぱいになった。
「なにが、わかってなかったんだ、月光」
「俺がいなくなって、悲しむ誰かが、いることが。
ごめん、じいちゃん」
ふふ、と思わず笑みがこぼれた。
ああ、本当に、こいつはバカだなあ。
「ああ、お前は本当にバカだ。なんにもわかっちゃいやしねえ」
「うん」
「こういう時、なんて言えばいいのか、まだわかんねえのか、月光」
そして、後ろから遠慮がちに、エンゲキが現れた。
「そうだろう、エンゲキちゃん」
「そう、そうだよ、月光」
キョトンとした月光の顔をみたのは久しぶりだと思った。
「何度も教えただろ」
「月光、おかえり」
嗚咽をあげて、月光が地面に伏せた。
その背を撫でてやると、くぐもった声が、小さく、本当に小さく聞こえた。
「ただいま」
それが、聞ければ、もう死んでもいい。