聴きたかった声 もうずいぶんと肌寒くなってきた風に、横になびいた髪がさらにあおられる。隣の月光は無理をいって着せてきた無地の白シャツに黒の革ジャンという簡単な出で立ちだが、特に寒さは感じていないようだった。
「あんた、ほんとにちゃんと観てた?」
「おめー、バカにしてんなよ。観てたよ。寝てねーし」
「ふうん。すごいねぇ。映画の世界にも、興味出てきた?」
「そういうんじゃあ、ねえけどよ。
まあ、あいつらはあいつらで、そういう世界に住んでんだなって思っただけだ」
ふふふ、と思わず笑みがこぼれた。それに気付いた月光が苦そうな顔をしたけれど、笑いは止まらなかった。
***
天道がショボくれて店にやってきたのは、先週だった。
彼が持っていたのは涙に濡れた映画のペアチケットだ。先日公開されたばかりで、話題の作品で予約もなかなか取れないという。多少なりとも「演技」については自信のあるエンゲキにとって、映画はいい娯楽だったが、最近はラーメン屋の看板娘が忙しくすっかりご無沙汰だった。
「聞いてくれよエンゲキ〜」
「なぁに、また振られたの?」
無事に大学に入ったものの、女の子にはことごとく誘いを断られているという話は大学入学時からよく聞いていた。
彼が声をかける女の子が、最近は綺麗な黒髪の女性が多いことには、なにも言わなかったけれど。
今年の春に月から戻ってきた月光は大学デビューをした天道をおおいに笑って、また二人は顔を合わせる度に喧嘩をしていたが、天道が帰って店にエンゲキと二人になるといつもポツンと言うことは同じだった。
「アイツも、女を見る目がねえな。
あんなイイ男、おとぎ話の世界でもなかなか出てきやしねえのによ」
当然、それは、本人には聞かせたことなどないだろう。
どちらの本性も知っているエンゲキからすると、どっちもどっちだったけれど、面白いから放っておいている。
「で、なにそんなのもらってんだよ。日中にそんな時間あるわけねーだろ」
チケットを持ち、嬉嬉として月光を誘おうとしたエンゲキににべも無く言い放たれた言葉に一瞬すくむも、ここで退けば女が廃ると対抗した。
「次の休みの日まではやってるみたいだし、いいじゃん! デートっぽいこともしたことないんだし! 一緒に映画とかお出かけしようよ〜!」
「付き合ってもないのにか」
はあ!?
思わず出そうになった領巾を意志の力で抑えつけ、煮え返るような腸の中身を思う。
なによ! あたしはあんたを好きって言ったのに!!
一つ屋根の下で一緒に暮らす現在も以前のような幼なじみの関係からは脱しきれていない。
工藤さんや藤木さんと会うたびに進捗を聞かれるのだが、特に進展もしておらず、まさか月光本人もこうして女子会の話のタネにされているとは思っていないだろう。
もとより彼は照れ屋で、ひねくれ者で、純情なのだ。
それでも、あれほどの、彼の思いのこもった言葉を自分に投げかけてくれたはずなのに、この体たらくは一体なんということだろう。
一緒に死んでくれとまで言ったのは、一体、どこの誰だというのだろう。
「レイトにでも行きゃあいいんじゃねーのか?
それなら早仕舞いせんでも、二人揃って行けるだろ」
後始末は最近は月光に任せるようになった徳三が、客席で昨日の新聞を広げながら二人の話を聞くともなしに聞いていたのだろう。エンゲキにとって、コレ以上ない助け船だった。案の定慌て始めたのは月光だ。
「はあ? じいちゃんまで何言ってんだよ!」
「エンゲキちゃんが楽しみだっつーなら、行って来い月光。
男の甲斐性だぞ」
「はああ?」
「うわーい! じゃあ予約取っちゃうね!
ありがとう! お父さん!」
「おう! いいってことよ!」
「なっ、まっ、おい……」
置いてけぼりになったのは、月光のエンゲキに伸ばした右手一つだけだった。
***
早仕舞いはしないとは言ったが、実際には徳三に追い立てられるように20時には店を出て月光と二人で夜の街に繰り出した。
制服姿ではない二人は、誰に咎められることもなく映画館で最後の回に入り込み予約してあった席に二人で並んで座った。
「こんな時間にコーヒーなんて飲んで、眠れなくなるよ」
「子ども扱いすんな。飲まなきゃ寝ちまいそうなんだよ」
「それはあるかも」
一日中立ちっぱなしで、体力がある月光でも最近はエンゲキのおかげか客の入りも良く、店の切り盛りも結構な体力仕事であまりに忙しい日はぐったりしていることもある。
今日も日中は結構な混み具合だった。まかないラーメンは軽く食べているものの、映画館に必須と言わんばかりに有無をいわさずポップコーンとコーラを買っていたエンゲキと並んで迷わずコーヒーを買っていた月光は、そういいながらあくびをする。
「まあ、いいけどね」
普段は徳三と三人でいることがほとんどで、以前のように二人きりというこの時間がほしかったのだ。
そこに、二人の感情が噛み合わさっていなくとも。
映画は評判通り面白かった。
明るく、切なく、苦しく、そして最後はハッピーエンド。エンターテイメントのお手本のような、音楽も盛大で、場面によくあっていた。照明も、演技も、役者も、衣装も、よかった。
時折、月光が暗くて見えないのを良いことにエンゲキのコーラをこっそり飲んでいることに気を取られなければ。
そうやって、こちらに気があるような素振りをする月光が悪いのだ。
どうしてそうやって、こちらに気を持たせるようなことをするのだ。なにもわかってないくせに。いや、こちらの気持ちを知っているくせに。
この男は、いっつも、そうだ。
そんなことを考えていたら、映画は終わっていた。
隣の月光をこっそり観たら、真面目に観ていたらしく、少しだけ目尻を撫でていた。誰かに見せないときだけしている優しい顔が憎たらしかった。
***
エンゲキちゃんをしっかり守って帰ってこいよ!
という声を背中に受けて店を出てきただけに、今夜の月光はとても紳士的だった。電車内では男が近寄ればその間に自然と入る。道路を歩けばいつのまにかエンゲキが歩道側にいる。映画が始まる前に買った徳三へのおみやげの芋ようかんはずっと彼の手がしっかりと握っていた。
もう、時刻はそろそろ次の日を刻もうとしていた。
思わず、陽気は全然違うものの彼がいなくなったかつての夜を思い出す。
「あの映画の世界も、あの時ゲッちゃんが守ったものなんだよね」
「ゲッちゃんって言うな」
そう言うのは忘れずに、しかし、以前のようにふてくされた口調ではなかった。
「俺じゃねえよ。おとぎ話のやつらが守ったんだろ」
そういう顔は、やはり、優しい顔をしていた。
二人で帰る道は、いつからあたたかく、明るくなったのだろうか。
「なあ」
「なあに」
一緒に死んでくれ、と言われてうなづいた自分。
もうすべてが済んでしまったかのように、なかったことのように、月光は昔のまま、少しだけ素直になったけれど、元通りだった。
それでよかった。
ただ、帰ってきてくれて、一緒に暮らしている今、この日常が愛おしくて、もう千年分の待たされた時間すべてが昇華されたように思った。
それなのに
月光の返事がなくて、ふとそちらを見上げた。
薄暗い公園を見つめた月光が「少し寄り道していこうぜ」と言った。
***
あの日はうだるような暑さだったけれど、今吐く息はもう白い。背中合わせにジャングルジムの上で、空を見上げる。
月の光が明るかった。
「おまえはもう忘れちまったかもしれねえケドよ、俺が昔言ったことを、一つ修正してーコトがあんだよ」
「え?」
ふざけていない、月光の顔が、少し蒼い光がかって見えた。
「俺と一緒に死んでくれっつったろ」
「うん」
「やり直させてくれ」
「え?」
待ってほしい。
それは、撤回しないでほしい。
そう思ったけれど、言葉が出てこなかった。
あんなにスラスラと演技が出来ていたのに、どうしてだろう、舌がまったく回らない。気持ちが追いつかない。
ずっとずっと考えていた一緒に「死にたい」という答え。
そのことを、ちゃんと月光が覚えていたということが嬉しい。
嬉しいけれど、わからない。
なにを言われてしまうのか。
また、自分の言ったことは、信じてもらえていないのか。
まだ、彼は自分よりも「先生」を優先させてしまうのか。
そうじゃない。
ゲッちゃん、違う。
あたしが好きなのは、ずっとずっと、あんたなの。
それを、撤回しないで。お願いだから。
「お前だけでも、生きてくれ」
「は?」
「もう、簡単には死なせてやれねえ。
俺がいなくても、生きててほしい。
そうしたら、お前の中で、ずっと俺は生きてる。
こうやって、何度だって、お前のところに戻ってくる。
そうしたら、お前が死ぬまで、ずっと一緒だ。
エンゲキ」
「ゲッちゃん」
「『うん』って言えよ。
言ってくれ」
「イヤだ」
あたしは、思い切り、泣きながら、笑っていた。
***
「あんたが言わないなら、あたしが言う。
一生一緒にいる」
岩崎月光は、本当のことを言わない。
そう、あたしはそれを知っている。
そうだ、これこそが、本当の月光だ。
そうだ。そうだった。
あたしの返事を聞いて、月光が笑った。
「お前は、本当に、賢い女だよ」
「あはは、あたしってば、ホントにバカだから」
こぼれる涙は月光から伸ばされた腕に頭ごと掴まれてどこかにいった。
この腕を伸ばされたのはいつ以来か。
この腕のあたたかさ、力強さ、ここに抱かれることをどれほど望んだことか。
人のぬくもりとは、これほど喜びにあふれたものだったのか。
それを教えてくれたのは、彼だけだ。
人の優しさ、切なさ、悲しさを教えてくれたのは先生だったけど、ずっとずっとそばにいてくれたのは、月光だった。
「あんたでも、物語に感化されるなんてこと、あるんだね」
「さてね、知らねーな」
あたしの泣き顔を見ないためか、月光の胸に強く押しつけられた。苦しいけれど、苦しくない。身体は、すごく熱くなってきたけれど。
映画は、最後、ヒロインと離ればなれになって終わる。
でも、エンドロール後、少しだけ垣間見える未来では、二人が再会していた。
まるで、私たちのように。
「知ってんだぞ、お前ら女子が集まってなにしゃべってんのかくらい」
「げっ!! なんでよ!!」
「俺にはすごい宝物があってな」
「きき耳ずきんなんてずるくない!?」
「聞きたくなくても教えてくるんだから仕方ねーだろ!」
その声から、月光がどんな顔をしているのか想像ついたけれど、顔を見ることは叶わなかった。