先人の先を行く その日も僕の機嫌は悪かった。しかし、外面を取り繕うのは変わらず、僕は笑顔を浮かべ続ける。理由はわかっているつもりだ。彼がいるから、なんとなく落ち着かない。
一乗寺賢。
だが、いまはもう、仲間として少しずつ、僕らの輪に、加わっている。それが悪いことではないとはわかっているし、彼のために大切で必要なことで、彼に仲間が必要だということもわかっている。かつての僕らのように。
でも、やっぱり、僕は、彼を、簡単には、受け入れられない。
「ひゃー! 今日も一日、頑張ったー!」
「みなさん、お疲れさまです。毎日頑張っていますね」
「「「光子郎さん!!」」」
「泉先輩!」
まるで昔のミミさんのように京さんは光子郎さんに懐いている。僕らはそれをみて笑って、光子郎さんがデータを自分のパソコンに落としシャットアウトするのを眺めていた。
「復旧作業は順調ですか?」
「ええ。おかげさまで」
「でも、今日なんて大輔ったら遊んでるんですよ? 参っちゃいますよね~」
「だ~か~ら~! アレは遊んでるわけじゃねーんだってば!!」
クスクスとみんなが笑いあう中、僕は夕暮れが眼に入ってまた彼のことを思い出す。光子郎さんの支度が整って、みんなでパソコン室を出たとき、声をかけられた。
「タケルくん、ちょっと、時間はありますか?」
黒い目は、僕の目線をはずさせなかった。
「疲れているみたいですね。大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ。大体、僕やヒカリちゃんには前の冒険のときの記憶もあるし、まだまだこんなもんじゃなかったでしょう?」
「そうですね。夕飯を食べるためにデジタルワールドから帰ってくるなんて、考えもしなかったことです」
今日はデジモンたちも向こうの世界に残っていて、子どもたちは手ぶらで帰った。光子郎はタケルを呼び止め、校門のところで別れ自分の家のほうへとタケルを連れて行く。珍しい組み合わせの後姿を残りの子どもたちは選ばれなかったことをちょっと淋しく思って“あの人たち、一体どういう会話するんだろ”なんて想像されていた。
「あの、光子郎さん」
「なんですか、タケルくん」
なんですかもなにも、アナタが僕を誘ったんじゃあないんですか、と言いたかったが、光子郎が言おうとしていることもタケルはやっぱりわかっている気がしている。ただ、考えたくないことなのだけど。
「あの、なんのお話しですか」
「いえ、タケルくんがなにか話したそうだと思って」
「そうですか」
「そうとしか見えませんね」
「はあ」
「案外、君とヤマトさんは似ているようで違っていていいですね。太一さんとヒカリさんは似すぎていますけど」
あの兄妹と一緒にされては困ると直感的にむっとして、タケルは兄とは離れて暮らしているのが実情なのだと腹の中で返答した。違っているのは当然じゃないですか、といったら、誰だって違ってますよ、とサラリと返されてなんの話をしていたのか忘れてしまった。
「あ、なにがいいですか。うちは基本ウーロン茶が常備なんですけど。コーヒーでも紅茶でも、牛乳でもいいですよ」
「あ、すみません。じゃあ、コーヒーで」
「わ。タケルくん大人ですね」
「ミルクを三分の二入れてください」
とっておきのネタを披露すると予想どうり光子郎はニヤリとした笑みを浮かべて(この顔は先代のリーダーと一緒にいるときに参謀である光子郎がよくする表情である)、似合わないランドセルをぶら下げて立ち尽くしているタケルを置いてけぼりにしてキッチンに行った。どうやら母親と話しているのがわかる。何度も来ているけれどじろじろみるのも失礼かと思ってドアを凝視してたら、するりと部屋の主が戻ってきた。
「お待たせしました」
お盆には、二つのマグカップに、白っぽい苦い香りの液体が部屋を包もうとした。
なんてことはないのだと思う。
自分は結構誰とでもうまくやれているし、大輔くんのようにつっかかってくるのも意見の食い違いとかっていうよりも彼の場合は特に思い違い思い込み勘違いで、誰とでもうまくやれる代わりに、僕は内側に誰も引き入れることをしてこなかった。
しかし、この一連のデジタルワールドでの出来事によって、僕自身がひどく驚いた。あんなに感情に振り回されるのは、一体いつ以来だろう。ひどいと、あの三年前の別れ以来かもしれない。
闇の力が憎い。
それを利用しようとする奴らが憎い。
自分のうちにあるこの黒い闇を持っていることが憎い。
自分自身が憎いのだ。
僕がひどく嫌っている「闇」を僕自身が抱えている。僕が笑えば家族が笑ってくれていたから、僕は一人でも笑うことが出来たのに、家族はやっぱりバラバラで、それでも僕の笑顔はもうデフォルトのために元のなんでもない顔が思い出せない。僕はずっと甘えたで、結局誰にも近づけなくて、甘えたいけれどうわべだけの甘さを見せて本当に甘えることはなく、その闇を増大させていくというスパイラルを形成して矛盾した歳月を過ごしてきたのかもしれない。
それが非常にあっけなく、脆い。三年ぶりにあったというのに昔の仲間は鋭い。特にリーダーの参謀を務めたブレーンともなれば、僕の動揺など、丸見えだったのかしら。
それとも、すでに彼らはそんな矛盾は、三年前にしっかりと洗礼を受けていたのかもしれない。兄のように。だから簡単に見抜くことができたのかもしれない。
「一乗寺くん、気になりますか」
さすがに直接的だ。彼らしいと納得してしまう。
「はい。目に障ります」
この言い方に光子郎は苦笑をもらした。猫舌なのか、まったくカップの中身には手を出さずに、両手で支えている。タケルは少し味見をして、蜂蜜が入っているのを確認してため息が出る。変なところで凝り性なのは、やはり親子なんだろう。
「よく、似ていますよ」
「なにがですか」
「タケルくんと、一乗寺くんが」
わーお。
「勘弁してくださいよ、光子郎さん」
「いいじゃないですか。そうやってグルグル考えて堂々巡りなのは、一緒ですよ。ヤマトさんと」
兄の名を出されるとタケルは、弱い。反射的に言い返す。
「似ていますよ。そりゃ。彼と僕は」
彼とは、もちろんあの元天才少年のほうである。
幼さゆえに間違い、間違いを犯し、そして取り返しのつかない命を失わせてしまう。
思い出すたびにぞっとする。震えがくる。僕はあのとき、なにもしなかった。ただ、パタモンに、先の世界に行かないでほしかった。一番小さな僕の、一番小さなデジモン。大切な、パタモン。ねえ、忘れないんだ僕は。あのとき、どれほど悔しかったか。あのとき、どれほど悲しかったか。
後悔は、今でも終わらない。タケルが望んだから、パタモンは進化しなかった。したときには遅かった。つらいことでも、やらなくてはならないことがあること。悲しくても、乗り越えていかなくてはならないことがあること。
それは、兄と別れたときに、気づいてもよかったのに、やはり僕は幼かったのだ。小さかったのだ。でも、それは言い訳にもならないと、今だってタケルは思っている。
「正直ね、ワームモンが、また一乗寺くんといられて、よかったなあとは思ってるんです。だって、僕だって、パタモンが戻ってきてくれて、どれほど嬉しかったかしれないんですよ」
「ええ。わかっています」
「僕、彼を殴ってしまった。僕、それでもやはり許せなかったんです。闇の力を利用しようとする彼が。どうしても。でも、それは、僕の内側の問題だと思って、そんな行動、やっぱり僕の自己満でしかないってわかってるんだけど」
「タケルくんには、特にツライことでしたから」
そういう光子郎はやっとコーヒー(タケルのよりもよっぽど色が濃い)を飲んだ。それは、少しかすれた声を隠すためだったように見えた。
「ねえ、光子郎さん。僕は、きっとあのときみんながいなかったら、一乗寺くんのようになっていたかもしれない。だから彼を見てしまう。
僕は、わからないんです。
彼を殴ったのは、やっぱり今でもよかったと思ってる。だって許せなかったから。暴力が正しいとは思わないけど、それでも譲れなかった。存在してはいけないものだって、存在しているんだ!」
熱く一人、べらべらとしゃべって、そしてはき捨てるように、最後の言葉を腹の底から追い出した。
光子郎は、ベッドの脇に座っているタケルの頭を勉強机とセットの椅子から腕を伸ばして、ポンポンと、昔のように撫でた。
「でも、今は、殴ったことが、許せないんでしょう?」
一乗寺は、僕を見ると気まずそうにする。そりゃそうだ。僕だって、気まずい。
でも、大輔くんは一乗寺くんに話しかけたがるし、僕にだって相変わらず絡んでくる。今は、彼が実質リーダーになってきていて、彼なしの冒険はいろんな意味でやっぱり厳しい。
でも、彼は僕が一乗寺くんを殴ったことを知らない。それを知ったら、大輔くんは、どういう反応をするんだろうか。
軽蔑するか。呆れるか。笑うか。それとも、殴るかな。
僕は、一乗寺くんを殴ったあとに、彼が再びワームモンと一緒に現れてから考えた。
結局、僕だって、彼だって、互いの正義の元に動いているに過ぎない。命のやりとりとは、そういうところで行われているじゃないか。そうだったじゃないか。
僕は、殴ってしまって、いや殴られもしたんだけど、だからおあいことかなんとかって話じゃなくて、僕の正義を押し付けていることに気がついて、それは助長すれは彼のカイザー思想につながっていくんじゃないかと思ってゾッとした。
だから、きっと、近親憎悪って、やつなんだと思う。僕が一乗寺を苦手とするのは、そこが原因の一旦なんだって。
「タケルくん。多分ね、一乗寺くんは、わかっているんですよ」
「なにをですか」
「タケルくんの怒りも、後悔も」
光子郎の黒い目はタケルを正確に捉える。昔のままの、小さいタケルに諭すようにいつもの淡々とした口調で話すのだ。
「同じでしょう。彼も居づらい。彼も後悔している。君はそんな彼を見てなにを見ているのか。
君自身でしょう。違いますか」
「……ちがいません」
タケルは不承不承、という感じに、しかし観念したようにうなずいた。光子郎は満足そうに微笑んでタケルのカップを持つ。光子郎が言いたかったことは言い終わったようだった。
「それじゃあ、これから、どうすればいいのか、わかりますね」
「はい」
「うん」
「僕は、一乗寺と、向かい合わなければいけない。というか、正直にいえば、ほかのみんなとも。大輔くん、とも」
「そう」
「彼が間違えば、正さなければいけないし、僕が間違えば、正してもらえる関係を築かなければいけない、ということですよね」
「まあ、いいんじゃないですか? 難しいでしょうけど」
「身も蓋もないこといわないでよ。でも、こうして、一人で、グズグズしてるな、って言いたかったんですよね?光子郎さんは」
そこで、光子郎は不意を撃たれたような顔をして、タケルは大笑いしてしまう。この人の不意の顔は、幼くて、あのころのままのようで、いたたまれなかったけれど、今こうして大声で笑っている自分も昔のままの気がしてタケルはちょっとした浮遊感を味わっていた。
「本当は、こうして僕が君のことを気にかけていてはいけないんだろうなあと思うんですけどね」
突然始まった光子郎の告白に、さすがに動揺する。
「なんでですか? いなくなっちゃったら困りますよ、僕たち」
「だって、前回の冒険のときに僕らは部外者の力を借りましたか?僕らは大人の手を借りましたか?違うでしょう?
僕らは、僕らの力で、僕たち自身で考えて、僕らは自分勝手に、やってきたじゃないですか。
逆に捉えましょうか。僕らは、自分たちで全ての問題を発生させて、解決してきたじゃないですか」
「はい」
「特に、太一さんとヤマトさんの二人のように、ぶつかって、ぶつかって、衝突して、理解しあう、みたいな余裕は君たちにはないですよね。余裕、というか、別に僕らに余裕はなかったけれど、そうせざるを得ない状況だったというのは特殊です。でも、本当は、自分たちで、解決しなくてはならないし、自分とパートナーで、乗り越えていくべきものなんだと思うんですよ」
昔とあまりにも違う状況。帰る家があり、時間があり、いつだって逃げることの出来る。あの頃とは違う、と思うことで光子郎が今の自分たちを見ていることに少しタケルは引け目を感じる。ごめんなさい。だって、僕は今でもあの世界に呼ばれているから。
「だから、本当は、タケルくんは、自分で、ごねて、わがまま言って、パタモンと泣いて、大輔くんとマジの喧嘩をしてくればいいんです。
一乗寺くんと殴り合えばいいんです。互いのエゴを、ぶつけ合ってくれば、いいんですよ。
そこをこうして僕が先回りしてやっちゃうから、駄目なんですけどね」
「ううん。言われないと、僕、出来ません」
まっすぐ光子郎を見て、タケルは笑った。
「光子郎さん、ありがとう」
少し、大きくなった笑顔は、やっと年に似合った笑いを浮かべた。
「光子郎。ヤマトくんよ」
「あ、はい。今、行きます」
「はあ!? お兄ちゃん!?」
「ええ」
母親の呼び声に応えて光子郎は手に一枚のディスクとMDを持ってドアに手をかけた。
「今日ヤマトさんが僕に預けた音源を取りにくる予定だったんですよ。タケルくん呼ぶにはちょうどいいかと思って」
「いやいやいや、それはなんだか、今、一緒に出て行くって、不自然じゃないですか」
「いいじゃないですか。大体、タケルくんは遠慮しすぎなんです。君にはたくさんの“お兄さん”がいるんですからね?」
そしてニコリと笑う光子郎の指は4本立っている。
「まあ、実兄のこともあるし、僕らのヒーローもいることですから、順当にいって3番目の“兄”の座で満足しておきます」
それをきいて心から嬉しくなって、大声で「おにいちゃーん!」と叫びながら飛びついたらヤマトはタケルが急に現れたことに驚愕して、受け止めきれずに背中をドアにぶつけてガコン!! と大きな音を立てて肩甲骨をぶつけたようだった。それを見てさらに大きくなった弟は昔のままのように大声で笑い続ける。
「はい、ヤマトさん。これ、約束の」
「ああ、ありがとう光子郎。それよりも約束してない人物をどう説明してくれるんだ」
「お兄ちゃん、今日お父さんは?」
「遅いよ」
「おなかすいた」
「ちょっと黙っててタケル。好きなの作ってあげるから。おい、光子郎、笑うな。なんでタケルがお前んちにいるんだよ」
ほとんど母親のセリフをはく二枚目の青年に光子郎は笑いを堪えきれない。
「打ち合わせです。ね、タケルくん」
「ね、光子郎兄さん」
「おい、なんで俺以外のやつだと“兄さん”なんだよ」
変なところでこだわるヤマトを見てタケルはまた嬉しくなった。光子郎は改めて昔の“最も小さき子ども”をみる。今は彼の新しい“仲間”の中では一番大きいだろう。しかし、それでも。今の自分たちは、もっと前に行っているのだ。時間は動いてしまっているのだから。
「それじゃあ、タケルくん。いっぱい、ごねてきてください」
「はあ?」
「はい!がんばってみます!」
「はあ!?」
仏頂面を三割増したヤマトの腕を引っ張って、タケルは光子郎にウインクした。
「なあ、光子郎となんの話してたんだよ。兄ちゃんにはいえないことかよ」
「やめてよお兄ちゃん、そんな嫉妬深い一面空さんに見したらきっと呆れられるよ。僕以外の人にそんなこと言わないでよね」
「じゃあ、お前には言って良いんだな」
「屁理屈!!」
まだまだ大きいヤマトの影を見ながらタケルは前回の冒険の兄を思い出していた。
自分よりも大きかった兄。内側を知られることを恐れ、孤独に悩んでいた兄。ぶつかって、間違ったことをして、それでも帰ってきてくれた、兄。
尊敬するし、今でも一番頼りにしている。それじゃあ駄目なことくらい、もうわかっているけれど。
「僕にはー、お兄ちゃん以外にもー、太一さんも、光子郎さんも、丈さんも、みーんな、お兄ちゃんだよっていう話」
「はあ? おいおい、俺を太一と一緒にするのか。あのシスコンと」
「兄さん、まさか、それ、本気で言ってるの?」
「冗談だよ。人のこと言えないことは、もう知ってる」
そして、久しぶりに頭を撫でられた。
ああ、お兄ちゃんだ、とタケルは感じたとき、自分が越えるものは、彼らの先にあるんだ、と理解したのだった。