新しい希望 その日は油断していた。テストもあと一日で終わるし、天気はいいし、なんとなく調子も良いし、デジモンたちの悪い騒ぎもない。
だからついお互い口が軽くなったのかもしれない。
「お前、知ってるか? あいつらの、理想の話」
「理想?」
ヤマトの家で勉強していた太一は、珍しく途中で話しかけてきたライバルにキョトンとする。
「パタモンが教えてくれたんだ。最後の戦いの時にさ、タケルがどんな夢を見ていたか。お前、ヒカリちゃんから何か聞いたか?」
「ああ、それか。やっぱりテイルモンが教えてくれた。デジモンたちと人間が、仲良く共存してる未来だって。あいつらしいよ」
「そっか」
「で、タケルのはなんだったんだよ」
話しながらも動いていた手は止まり、ヤマトが太一を見ていることに気付く。
「タケル、引っ越してきてから、明るくなったよな。色々あったけど」
「ん、うん。まあ、元からお前より取っつきやすいだろ」
「うるさい。最近、四人で食事をすることもあるんだ。昔みたいに」
「良かったじゃねえか」
「ああ」
「ヤマト?」
伏せた表情はわからない。
「パタモンがさ、タケルは、また四人で一緒に、元どおりに暮らしたいって」
「そっか」
「でも、無理なんだよな」
そして、ヤマトは笑った。あの冒険の時には見せたことのない、少し成長した顔で。
「本当に一緒に暮らしてた時と、全然違う。そりゃ、俺たち兄弟が大きくなったってのもあるだろうけど、昔と、違うんだ。うまく言えないけど、なんとなく」
「そうかぁ……」
家族仲良く暮らしている自覚がある太一には、ヤマトの言葉はわからなかった。
しかし、ヤマトがそういうのなら、そうなんだろうと、受け止めることは出来る。話を聞くことくらいしか出来ないけれど、ここに丈や空がいたら、ヤマトはそっちに話をしたかもしれない、なんて皮肉なことを思うけど、今ヤマトは太一に話してくれた。それは喜ぶべきことだった。
「だから、タケルの夢は、絶対に、叶えてやれないんだよなぁ」
ドサッ
なにか、ビニールに入ったものが落ちた音がして、二人は不審に思って音の方を見た。
「タケル……」
玄関に散らばったヤマトと太一の靴の上に落ちたビニールからは牛乳が見えた。ランドセルを背負ったまま、タケルの顔面が蒼白になっていく。薄暗い玄関でも、ハッキリとわかるくらいに。
「タケル……お前、いつから」
「タケリュ……」
「そんなこと、思ってたんだ」
「タケル」
「お兄ちゃんも! パタモンも! 大っ嫌い!」
ランドセルを足元に、パタモンをヤマトの顔面に投げつけ、そう大声で叫んで二人を動けなくしてタケルは玄関を飛び出した。太一はパタモンを抱きしめて弟の名前を呆然と呼んでいる兄に怒鳴りつける。
「バカ! こういう時に真っ先に追いかけるのが兄貴ってもんだろうが!!」
そういいながら太一はスニーカーを履く。扉に手をかけながら「パタモンと頭冷やしてから来いよ!」と叫んで、太一も飛び出した。
サッカー部エースが、小学生に遅れを取るわけにはいかない。
***
何も考えずにトボトボと街中を歩く。ショックすぎて何も考えずに飛び出してきてしまった。しかもあんな捨て台詞を吐いて。
河原に来ると、大輔と賢がサッカーをしているのが見えた。おおい、と声をかける。
「お! タケルじゃねえか!」
「高石くん」
「精が出るね」
二人に駆け寄る。他のメンバーはいないようだった。少し離れたところに、チビモンとワームモンが居ただけで。
「どうしたんだ? 今日はヤマトさん家にいくって言って先帰っただろ?」
先ほど学校で別れた時のことを思い出して大輔が問う。それはそうだ。自分がそう言ったのだから。
「うん、ちょっとね」
「珍しいね、ケンカ?」
「タケル!」
ぜえぜえと息を切らした太一が遠くから声を上げた。
「あ! 太一さーん!」
「バッカ! 大輔くん呼ばないでよ!」
「はあ? だって太一さんだぞ?」
そしてタケルは大輔と賢の後ろに隠れて二人を前に押し出す。太一は息を整えながら近寄ってきた。
「タケルを渡してもらおうか……」
ジリジリとにじり寄ってくる太一に賢が僕は一体どうすれば? と混乱している中、大輔がタケルの腕を取って「はい」と太一に渡した。
「ぎゃー! 大輔くんの裏切り者!」
「さすが大輔……」
「え? なにか悪かった?」
そんな子どもたちの様子を見て太一が笑った。逃げないようにタケルの手首を握りしめながら。
そして、大人のような声音で話しかけた。落ち着かせるための、優しい声で。
「タケル」
「イヤです。帰りません、大体お兄ちゃんが迎えに来なきゃいくら太一さんでもイヤだ」
「わかってるよ。あいつにも来るように言ってあるから」
「パタモンだって、勝手に、あんなことお兄ちゃんに話して」
「でも、それをわかってくれるのはヤマトだけだろう」
「でも!」
「タケル」
太一は、身長が随分伸びたタケルの前に、三年前のようにしゃがんで俯いた顔を覗き込んだ。
タケルとしては、大輔や賢がいる前で、こんな家庭の事情の話をされたくなかった。いくら太一でも。
でも、太一が言ったのは予想とは違った。
「タケル、それ、本人に言ってやらなきゃ、伝わらないぞ」
「え?」
思いっきり瞑っていた目を開けると、自分の影がかかった太一が困ったように笑っていた。
「詳しいことは、俺は知らない。
お前もヤマトも話してくれないし、そんなこと知らなくても、俺はお前たちと一緒に居たいからさ」
大輔と賢が、自分たちのパートナーを抱えてきた。会話が聞こえるか、聞こえないか、という距離だった。その配慮が、ありがたかった。
太一はタケルの両手を握り、タケルの顔を見ながら話してくれる。そして子どものタケルの意見を聞いてくれる。タケルを一人前のように扱ってくれる。出会った頃からずっとだ。だから、タケルは太一が好きだった。実の兄とは違う、本当にもう一人の兄のように慕ってきた。理解者といってもいいくらいに。だから、太一の言葉が、先ほど反発していた防衛本能で頑なに閉じた心が、ちゃんと染み渡っていく。
「俺には言わなくっていいから。でも、だからこそ、お前たち兄弟には、仲良くいてほしいよ」
「太一さん」
「俺は、お前たちの、リーダーだからな」
「な、タケル」
そして、太一が立ち上がった瞬間、タケルを支えてきたものが崩れた。
ずっと、ずっと、本当は誰かに、お兄ちゃんに、聞いて欲しかった言葉たち。
知ってほしかった想い。理解してほしかった願い。
一瞬で、消えてしまった、自分の、全て。
「うわあああああああん!」
両目からボロボロと涙を零し、右手は涙を拭い、左手は太一の制服のブレザーを掴んだ。太一も急なタケルの変化に一瞬驚いたものの、すぐにタケルに向かって手を伸ばした。今度は、いつも妹に昔してやったように、頭と背中を包むようにして抱きしめた。
大輔と賢はタケルの初めて見る姿に戸惑う。穏やかでいつも冷静で、負の表情をあまり出すことのないタケルが、小さい子どものように喚き声を上げながら泣いていた。
「おーおー、泣け泣け。どうせ兄ちゃんの前じゃ泣かないんだろ、お前」
「お兄ちゃんのバカあああ!」
「うんうん、あいつも素直じゃないからなー」
「パタモンもひどいぃ!」
「自分の知らないところで話されてたら、そりゃ悲しいよなー」
ポンポンと頭を撫でてくれる太一の手が大人みたいで、もうあの冒険の頃ではないのだとハッキリとタケルにはわかった。
そして、自分の考えていたことが、どんなに子どもじみていたのかを。
兄の考えが、どれほど正しかったのかを。
***
両親が別れて、なんで父と兄と別れて暮らさなくてはならないのか、タケルには理解出来なかった。時々、大好きな「お兄ちゃん」と会えるが、母に「さよならって言いなさい」と言われて「さよなら」と言うと、兄はいつも悲しそうな顔をした。その顔を自分の言葉が引き起こしているのだろうことは理解出来るが、なぜなのかわからなくて、タケルは不満だった。
マインドイリュージョンを受けて、家族四人の生活が当たり前なのだと思った。なんでパタモンが止めたのかもわからない。現実ではないことはわかった。
でも、家族なのだ。血が繋がっている。自分の両親と兄は彼らしかいない。お台場に越してきて、家も近くなって母の帰りが遅い時など兄の家でご飯を食べるのが当たり前になって、なんで一緒に住んでないんだろうと思った。
でも、兄は言っていた。
「昔とは違う」
そうだ。そうなんだろう。
でも、なんで、ねえ、なんでなのお兄ちゃん。
僕は、ずっと、そうなるって、信じていたのに。
「なんで、僕だけが、バカみたいだ……僕だけが、四人で暮らしたいって思ってた……でも誰も望んでないって、僕だけが、ずっとずっと、あの日からずっと、僕だけ……」
その事実がタケルを苦しめた。
両親も、兄も、求めていなかったことが辛かった。兄が言うのだから、きっとそうなんだろう。自分が知らない、覚えていない、両親の関係性の変化に、あの兄が気が付かないわけがない。
兄は、ずっと、知っていたのだ。
もう二度と、四人で暮らせる日が来ないことを。
「タケル」
「僕がずっと、大切にしてきた『希望』は、誰も、望んでなかったんだ……!」
そう、タケルが望んでいた『希望』は、元通りの生活でもあった。
***
ヤマトを見ていても思っていたことだったが、冒険を離れてみて、余計にタケルの我慢が身に染みた。身長は大きくなっても、二つの冒険を越えても、だからこそ、我慢してしまうタケルが悲しかった。
そして、すぐに飛び出せずに、どうすればいいかわからない、という顔をしてしまった親友にも。
「タケル。
お前はそう言うけどさ、でも、俺はお前が居なきゃ、今の、こんな風にはならなかったと思うよ」
「え?」
ズビズビと鼻をすするタケルの目元を拭ってやる。雫は次から次へと溢れ出てくる。この何年分も溜め込んだ分全てを溢しているみたいに。
「お前が居たから、また家族四人で、そうやって過ごせるようになったんだろ?
なあ、また昔と同じは無理だろうけど、でも、今、お前はもう、前みたいな寂しさはないだろ?」
「太一さん」
「だって、ヤマトも、そうなんだ」
バンドだ勉強だ、デジモンだ、と部活で忙しいヤマトと太一の予定は元々それほど噛み合っていなかったが、さらにそこにタケルが越してきてからは「タケル」も含まれた。
前よりも、忙しそうにしているヤマトを見るのは、太一は嬉しかった
「今日はタケルが来るから」
「明日は弟が来るから」
「週末は外食の予定があるんだ」
そんな言葉、去年までは、そんなに頻繁に聞かなかった。タケルを理由にして、再び家族が集まっている。部外者である太一にも伝わってくるくらいにも。
「昔とは、違うだろうけど、でも、今の家族の形じゃあ、お前は、ダメか?」
そうなんだろうか。
タケルは考えた。
一緒に暮らしたい。なんでうちにはお母さんしかいないんだろう。お父さんもお兄ちゃんもいるのに。大きくなってだんだんと理解したそれはタケルを抑圧した。
寂しいよ、お兄ちゃん。
パタモン。
一緒にいたいよ、君と。
でも、そうなんだ。
太一さんのいう通りだ。
今の生活に不満なんてなかった。
手が届かない太一さんと違って、大輔くんは側に来てくれる。一乗寺くんは、きっと自分と似ているものを抱えている。京さんの明るさに救われて、ヒカリちゃんと笑って、伊織くんに慕われて、自分の足で会いにいけるところに、かつての仲間たちがいる。
そして、また出会うことが出来た、デジモンたち。
僕の小さな、大切な、パートナー。
これのどこに、不満があるだろう。
僕の『希望』は、もう、すぐここにあったなんて。
でも、それを認めたら、もう昔の自分ではなくなってしまう気がして、さっきとは違う涙が一筋流れた。
ああ、これが、成長するってことなんだ。
大人になるって、近づいていくってことなんだ。
こんな苦しいことを積み重ねないといけないんだ。
一人じゃないとわかっていなければ、こんな苦しいことは、乗り越えられないや。
「ダメじゃ、ない」
そういうと、太一さんが、もう一度、ぎゅうっと、子どもにするみたいに、強く抱き締めてくれた。
***
「タケル!」
「タケリュ〜!」
自転車を死に物狂いで漕いできたヤマトと、前カゴに乗って半泣きのパタモンがやってきた。ガチャンと自転車を乗り捨てるようにして、大急ぎで半狂乱で駆けてくるヤマトは昔のままだ。見た目はずいぶん大人っぽくなったと弟ながらに感じることもあるが、こういう取り乱した様子は、かつてのままだということに安心した。
「タケル!」
「兄さん」
少し気まずそうに兄に近寄ったタケルは、先ほど太一にされたように、ぎゅうっと抱き締められた。それは抵抗する間も無く。
「ごめん」
真摯にそう告げられれば、さすがにこれ以上反発できない。結局タケルだって兄が、好きだから。
「ううん、ごめんなさい、僕のほうこそ」
「うわああああん! タケリュ! ごめんね! タケリュ〜!」
その反対側からタケルの頭にわんわん泣きながら飛びついているパタモンを、すぐに離されてしまった身体の全身を使って今度はタケルが抱きしめ返した。
「ごめんね、パタモン」
「おい太一! お前デジヴァイス置いていっただろ! おかげで全然見つからないし!」
「お兄ちゃんだろ、弟の行く先くらいすぐに分かれよ」
「うぐっ!」
「ほんとだよ、すぐに追いかけてきてくれないし」
「ううっ!」
言い返せないヤマトを見てうしし、と笑う。
大輔と賢は、ポカンとしていた。
今日は見てはいけないものを見ている気がする。
でも、二人は少しワクワクしていた。友達の、仲間の初めての姿が、嬉しかった。
いつかは、その先輩の位置は、自分たちで在りたいとは思ったけど。
「大輔、一乗寺! お前らも来いよ、ヤマトん家。ヤマトがなんか奢ってくれるから」
「はあ?」
「だって俺手ぶらだもん。どっかの誰かさんがポカンとしてるから」
「ほんと? 兄さん? 僕、お腹空いちゃった〜」
「パタモンも〜」
「マジすか? 俺も俺も! なっ、賢も行こうぜ!」
「うん、一乗寺くんも行こう!」
大輔とタケルに手を取られて、賢が引っ張られるようにして、階段を登って行く。ワームモンは満足そうに賢の頭上から笑った。
「太一」
「ん?」
「ありがとな」
「ま、後は兄弟でゆっくり話せよ」
「うん」
「お前もやれば出来るんじゃん」
「なにがだよ」
前方の子どもたちに「走るなよー」なんて声をかけながら、ヤマトは自転車の泥を落としながら起こす。
「なんでもねぇ」
少し、空には夕暮れが見え始めていた。