逆巻きの道を進もうと
冬の生まれだというと、大概納得される。
とても寒くて真っ白で。
花は静かで、空気が刺すような。
年が明けたときの厳粛な雰囲気から脱して、ゴールデンウィークの後のような少しけだるい空気。
すぐに、飛ぶ様に消えていく月、そして季節。
暖かな季節の前の、うららかな春になるための布石としての、冬。
人々から、「春になったね」「あたたかくなったね」といわれるために、春の素晴らしさや嬉しさを倍化させるための当て馬みたいな、師走の忙しさを忘れられずにずっと春まで忙しい季節が、俺の生まれたころ。
そして、こんなとりとめのないことを考える季節でもある。
思えば、俺の初めての多くはこの男だ。
初めて俺を見て驚かなかったこと。
初めて俺に普通に話しかけたこと。
初めて俺に触れようとしたこと。
なにより、俺と同じように「みえる」こと。
俺の、初めての「友達」のような、尊敬に値する「師匠」のような、生き方のそして人生のモデルロールとしての「大人」。そんなアイツ。
人は、自分と全く同じでは畏怖するくせに、同じところがなかなか見つからなかったり、違うところが目立ったりすると途端に排除しようとする。
世界の外に追いやるような視線に俺は勝てなかった。
ずっと負け続け、ロストし続ける日々。世界は失われるためにある。持っているものや、自分を毎日少しずつ切り捨てていく。そうして無くなっていくのを待っている。
それが俺だった。
俺の生まれは忘れやすい年明けの冬。
いつか忘れられていく俺の季節にふさわしい、俺の生まれた日。
だから、誰も覚えていないし、俺だって忘れるほかになかった。
それは、世界から、忘れられるべきものなのだ。
なのに、やっぱりそれを覆したのも、あの男だった。
***
寒い冬空の下、みぞれに近い雨が降っていて、ぽつぽつ、というよりはぼつぼつ当たる雨はやっぱりすこし重たい気がした。雨や雪が降ればコートの裾が下がるように重たい。傘とは反対の手に似合わない明るいピンクのリボンの付いた雨避けのビニール袋に覆われたケーキの袋の中身が動いていないかが心配だ。
いつだって俺のすこし後ろを歩く冬悟は、やっぱり今日もすこし後ろを歩いている。傘を差しながら、器用に両手でまだ暖かいだろうケンタッキーのパックを抱えながら。
「よかったな、限定の黒胡椒まだ残ってて」
「うん」
か細い声が、霧雨で遮られて絶対に届くはずのない胡椒のにおいと一緒に聞こえてくる。
「飯炊いてる間に冷めちまうから、先にチキン食おうな」
「うん」
「ケーキん時には紅茶にしよう。まだパック残ってたよな?」
「……戸棚の右奥」
「そうか、そうか」
「なあ」
「ああ?」
「なんで今日ケンタッキーとケーキなんだ?」
大げさに俺は膝からコケた振りをしてみせる。斜めになった傘からは想像より多くボタボタっと水滴がコートに沁みこんだ。
鈍い鈍いと思っていたが、いまだにコイツは鈍いようだ。いいやいっそ愚鈍と呼ぼう。仰々しく後ろを振り返り、低い声で名前を呼んだ。
「冬悟くん」
「な、なんだよ」
一瞬怒られたようなギクリとした表情が子どもっぽくなる。
「今日は、とても、いい日なんだぜ?」
「天気わりーし、さみーし、最悪じゃねーか。オマケに今日こなした仕事ったら金になんねえ大安ばっかだ」
「大安をブチブチ言うなって。それが本当の仕事なんだからな、金の話は後だ。
っていうか、お前本当に気付いてないの?
俺がずっとカレンダーに花丸つけてあげてたのに? 今日までずっとバッテンつけて数えてたのに? え、ほんとに?」
「な、なんだよ? なんなんだよ!?」
わからないのがよっぽど悔しいらしいが、わからないほうが異常じゃねえか、という雰囲気を出すとやっぱり少しシュンとしている。
俺の表情一つで、変わる冬悟の表情。俺の対応一つでコイツの表情は簡単に変えることが出来る。俺が取る行動一つでこいつの人生が変わる。俺の言葉の一つ一つに傷ついて癒されていく、なんて柔な子ども。
その柔軟な魂にもう一度刻み付けてもう忘れられないように、絶対に簡単には通り過ぎられないような日にしなくてはならない。
傷を受けすぎて研磨され丸に整えられなんの起伏もなくなってしまったようなその精神に深く深く、俺という傷と思い出をつけてやる。人生デコボコしてるほうが多少は面白いんだ。
なあ、冬悟。
今日は、本当にステキな日なんだ。
だってな、
「今日は、誕生日だろ? お前の。
お前が、生きてることをお祝いするんだ」
「あ」という言葉を言おうとした形で冬悟の唇が止まってしまう。雨の降る薄暗い冬の道の真ん中で少年と黒サングラスの男が立ち尽くしている様はなんと滑稽なことか!
だが、今の俺からすれば、いまは舞台でのクライマックスほどの盛り上がりなのだ。恋愛物なら、ちょうど今は主人公がヒロインに己の胸のうちを抑えきれずに伝えたあたりだろう!!
案の定、冬悟は二の句が継げずに、赤くなり始めた顔を気にした。俺はそれを見ると嬉しくてたまらなくなる。礼を言うことにまで頭の回らないこの子どもが唯一現す感情表現の一種を垣間見るだけで俺はたまらなく幸せになるのだ。
生きていて、よかっただろう?
生きるって、こういうことの積み重ねなんだぜ?
それをお前が感じてくれているのか、俺には正直わからない。
それをお前が言葉にしない限り、俺には伝わらないんだ。人間って難儀だとそういうとき俺は思う。言葉をほとんど持たないお前に、どれほど言葉を教えようとしても、その魂はすり抜けてしまう。
たまには、俺の言葉がグサリと刃物のように刺さればいいのに、とすら思う。
痛みとして、他人の言葉が残るのではなくて、幸せがお前の中に根を張る日を待っているんだ。
俺としては、続きはまたアパートに入って飯を食いながら、今年の抱負でもあらためて語らせようと思い(大体外は寒いんだ)、また後ろを向いて「帰るぞ」と声をかけたところで、冬悟の声が被った。
「もう」
振り向き様だったため、うまく聞き取れなかった続きを聞こうと再度振り返ると、棒立ちの姿勢で俺を見ながら、寒さで赤くなった耳が白い髪から少しだけはみ出している。
いいや、きっとその赤みは、寒さのせいだけじゃないだろう? お前の目は泳いでいて、口がパクパクしていて、まるで魚みたいだ。
なにかを懸命に言おうと言葉を捜すお前の姿だけで、正直俺は満足だった。
次にお前がなにを言っても、大丈夫なんだって、思ってるくらいには。
「もう、生まれてこなければよかったなんて、いわねえよ」
手に持っていたケーキの袋を水溜りに落とした。バシャンと小さな水しぶきを浴びたソレに冬悟の意識は持っていかれたようだが、俺はただ、その小さな姿が生きていることを認めたことに、俺が泣きそうになっていた。
生きてること。
お前が生きているだけで、それだけで。
強くなくたって、怯えていたって、今までどんな過去でも、見た目がどうでも。
ただ、お前が生きていて、生きていることを、認めたこと。
それだけで、本当に、生きていて、よかった。
ケーキを拾い上げた冬悟を無理やりに抱きしめようとすれば大いに嫌がられ、その様子にまた満足した。少し淋しいので、頭を無理やりに撫でてやる。
「ケーキ落とすなよ、バカ」
「周りのビニールだろ? 問題ねえよ」
「やだよ、水浸しに落ちたのなんて」
「じゃあ、俺が二個とも食ってやる」
「……俺の誕生日なのに?」
そういって、俺の顔を下から覗き込んでくる白髪に、雨なのにまぶしさを感じる。
生まれたことを後悔していることは、知っていた。
後悔は、きっとすべてはなくならない。
それでも、もう、口にしないとこの子が言った。
いつか、そう、いつか。
お前が、生まれたことを「しあわせ」だと思えればいい。
そのときには、俺もそばにいると、もっといい。
俺の壮大な人間一人を変える計画は、そこがきっと最終地点の気がしている。
アパートについて、壊れかけて開けるのにコツのいる鍵を冬悟が四苦八苦しているのを見ている間、俺は今日ずっと言おうと思っていた言葉をかけた。
「誕生日、おめでとさん」
その手を止めて、少しためらったあとで、冬悟ははにかみながら「ありがとう」と本当に小さく言った。