先輩後輩 カタカタとキーボードを叩く音が静かな部屋に響いている。ほかに聞こえる音は機械の起動音ぐらいだ。たまに「カラン」という氷の動く音がした。
「泉先輩」
京が小さく呼ぶと、光子郎はすぐに彼女のほうに目を向けた。賢は一人でぶつぶつと光子郎の用意したメモ用紙と真剣ににらめっこをして自分の作業の段取りを考えているようだ。三人がデジタルワールドの管理のために集まるという話を聞いて、なんとなく太一はヒカリを誘って来てしまったものの特にすることもなく、隣にいるヒカリの“困った”というサインの目を無視して光子郎のベッドに寝っ転がっていた。
「どうしました? 京くん。この部分になにか不具合でも?」
「いえ、たいしたことじゃないんですけどー、この範囲のマークは取っ払っちゃっていいってことなんですよね?」
「ええ。構いません。ああ、そうですね、ちょっとわかりにくかったかな。すみません、京くんの好きにしていいですよ。僕と一乗寺くんにわかる範囲で」
「はーい」
そして京と賢は同時に動き始めた。
ヒカリはあきらめて太一と一緒にサッカー雑誌を横になって眺め始めた。
「ねえ、泉先輩」
「はい、なんですか?」
「なんで私だけ『くん』付けなんです?」
「はい?」
呼ばれてもないのに賢が顔を上げるのは珍しく、そして光子郎が中途半端な顔で切り返しに困っているのも珍しい。京だけはパチパチとキーを打つ。キリがいいところだったのか、大きく指を弾ませてパチン! と鳴らした後、今度は光子郎の顔を見た。
「ねえ、先輩。なんで?」
「なんでって、そんな、別に。京くんは、京くんでしょう?」
「でも、私のことは昔から『ヒカリさん』でしたね」
ついヒカリが口を挟むと、やはり放って置かれっぱなしで暇をもてあましている太一も反応する。
「空やミミちゃんなら年上とか、同い年とかでわかるけど、確かにヒカリは二つも下だろ? 京ちゃんだけか。『くん』付けって。はは、丈みたいだよな」
「最初から、そうだったんですか?」
今ではすっかり大人しい賢は自分のパソコンをひとまずスタンバイにしてから会話に参加した。この話が長引きそうなことを悟ったらしい。そもそも京の作業のサポートをしているため、京の作業が止まってしまったので賢の仕事は流れてこないからだ。
「ええ、多分そうですけど。僕、覚えてませんよ」
「私覚えてますよ。だってそんな風に呼ばれることなんてなかなかないじゃないですか」
「まあねえ」
残りの三人はふうん、という風に応えるしかない。
「私だって、『さん』付けで先輩に呼ばれてみたい」
「でも」
光子郎が、なんとなく、困った顔で、とりあえず「でも」と言ってみたらしい。
「でも、京くんだって僕のことずっと『泉先輩』じゃないですか」
「だって、先輩は先輩でしょう?」
「だって、ほかの皆は『光子郎さん』ですよ」
それを聞いて太一は「ああ」と思う。確かに。同時に思い浮かべたのは、妹の同級生の少年だった。
「だって、いまさら、名前でっていうのも、なんだか」
「それと同じことですよ。呼び方なんかに構っている必要もないでしょう」
光子郎のほうはすでに話を打ち切るつもりらしい。京は慌てて新しい仲間の顔を見て反撃を試みた。
「でも! 賢くん! 賢くんだって、大輔に『一乗寺』って呼ばれてた頃よりも今みたいに『賢』って呼ばれるほうが、いいわよね!?」
「ええっ!! ぼ、僕!? え、う、うん!」
反射的に応えて賢はうっかり、という顔をしたのをヒカリは見逃さなかった。あのままいけばまた京は作業に戻っただろうに。
「はあ。そういうものですかね」
「そういうものなんです!!」
「でもね、京くん」
「はい、なんですか泉先輩」
そして今までほとんど京の顔を見ていなかった光子郎はしっかりと黒目がちの目を後輩にと向けた。
「僕が『くん』付けで呼ぶのは、君だけですから」
ほぼ、全員がため息のような、ほー、という声を漏らした。
「わ、私だって、泉先輩って! 仲間内で呼ぶのは、私だけですから!!」
「はい。ほら、早く終わらせましょう。太一さんたちが暇してるじゃないですか。またお母さんがおやつを用意してくれているので、それまでにはひと段落つけますよ」
「はい!!」
京がすごい笑顔で再び作業を開始した。
これ以上の親密さを求めるわけではないけれど、現在のところの最大限の賛辞を受けたと思い京のやる気はアップ。自分も、彼も、きっと想う人は違うし、そういう関係には絶対ならないだろう。しかし、京にとって光子郎は常に一番の理想であって、些細なところも気にかけてしまう。
だが、特別を許されたのだったら、話は別だ。もう、気にすることは何もない。京の機嫌は上上だ。
光子郎は京の作業がハイペースで進んでいくのを見て健気に思う。
自分の言葉によって人が動くことを最近はとても強く感じているせいもあって、それは丁度今呆れた顔で自分を見ている自分の慕うリーダーの言葉に影響を受けるのと似ているのだろう、と思っているが、事実は実はどうでもいい。
確かに、彼女は可愛い後輩なのだ。
自分の持っている知識のすべてを譲ってもよかった。譲りたいくらいである。そのためのスムースな関係を築くために、光子郎は労力を惜しみたくなかった。こんな会話だけでこの子を動かすことが出来るのなら、光子郎は満足していた。
残りの三人は今の会話を聞いてなんだかバカバカしさを感じていた。
だって、彼らはそれでも結局なんにも変化もなく画面を見ているだけなのだから。
ヒカリは光子郎が、京の口からは出てくることのないだろうその想いに気づかないことにやきもきしたし、アレだけで満足してしまう京にも腑に落ちないものを思ったが、兄が呆れた顔から時間をかけて笑い顔に変えて数テンポ遅れて笑い出したので、うやむやなまま一緒に笑ってしまったのだった。
最後には、一人納得出来ないで小難しい顔をした賢だけが残された。