僕のベルクフリート 空を見上げていた。
ひどくにごった泥水のような色をしている。時間もわからないくらいに日が差し込まず、世界の状況を如実に表しているようだ。
「まさか、な」
最悪の状況を常に想定しているようにしているが、それでもすこし笑ってしまった。
自分は泣くような人間ではない。
泣いてはいけない。
泣く必要はない。
代わりのように、上から水が降ってきた。
***
追っ手を撒いて、路地へともぐりこむ。
相手を撒こうと路地へ路地へと入り込むことに慣れ、すっかり街の地図が頭に入っている脳みそは今、急激なPSYの使用で軽くうずいている。
俺もヤキが回ったもんだと自らの不手際を悔やんだ。久しぶりに街に戻ってくるのにレプリカの情報を更新してこなかったのが今回の手落ち。一人で動くのが久しぶりで、一人だからこそなんとかなると踏んでいたが、むしろ逆だったようだ。連れが一緒にいたときには油断なんて一度もしたことがないと断言できる。
次から次へと不祥事を起こしてくれる相棒を持つとどんなにこっちが尻拭いしたって拭ききれない。かといって放ってくわけにもいかずこんなとこまで来てしまった。
本日何度目かというのもわからないほどにため息と自虐の言葉を吐いた。
俺もとんだ大バカ者だ。
ピ、という作動音が聞こえて、慌ててライズを発動させ上空へと高く飛ぶ。ビルの屋上から発砲されると、さすがに受け止めきれないので、急いでセンスからストレングスへと変更。喰らったものははじき返してやる。
と、調子が上がってきたところで、脳に声が響いた。
『大きな白看板の地下だ』
ミッション成功。
簡易なバーストで足場を崩してやると、警備隊は一斉にチリジリになったようだった。
「悪いな。助けてもらっちって」
「この街で暴れられても困る。どうして帰ってきたんだ」
「で、ほかのヤツらは?」
「人の話は相変わらず聞かないな。
ヴァンは奥で寝ている。フレデリカとマリーは買い物だ」
「カイルは?」
「治療中」
「またか」
「アンタが言うか?」
シャオはそういうと俺よりすこし高い背で昔と変わらない目線で見上げるように俺を見た。小さい頃から知ってるこいつらはいつも俺を見上げるように見てくる。シャオとカイルは、もう俺より大きいのに。
「またケンカでもしたのかよ、アゲハ!」
病み上がりだというのにカイルはすごい勢いでしゃべくりまくり、俺と逢えて嬉しいと体中で表現している。振り回す腕が心配だ。コイツの、ではなく、俺のが。
「落ち着けカイル。ていうか、なんだよ、また、ってオイ、失礼だな」
「また、だろう。これで何度目だ。アンタが帰ってくるたびにこの街の警備は厳しくなる」
「え、そうなの!?」
「ウソだよ」
あっけらかんとしたヴァンの言葉にバターンとテーブルに突っ伏した。やってらんね。
「で、どうしたんだ。探し物ならやらないこともない」
「お前の相場、高いんだよ」
「アゲハの依頼内容には相当分を要求していると思うが」
「俺が手伝ってやろうか?」
「遠慮するよ」
ポスンとモサモサした髪に手を乗せると、いまだに子どもみたいな髪質で手のひらだけ昔にすっ飛んだようだった。するとそれまで大人しく紅茶を飲んでいたヴァンがポツリとトドメをさした。
「早く、逢いに行けばいいのに」
それに、シャオとカイルは声に出して笑ったが、俺だけは笑えなかった。
一体どんな面していけばいいってんだ。ついでに、こいつらは今回の俺の目的を勘違いしているということに気が付いた。
***
「タツオ。一度、休憩にしよう」
「はい」
そう切り出すと素直に返事が来る。というか、反発されたことは今のところ一度もないが。タツオが俺の仕事を手伝うようになってからすでに半年。事務仕事の合間に簡単な個人別案件は任せられるほどにはなっていた。
俺は冗談のように山とつまれている書類の隙間から縮めていた身体を出した。
「やってられん。こんなもの」
「でも、この中にいるわけですよね? 例の吸血鬼が」
「それは俗称だ」
そしてタツオが入れてくれたコーヒーを口に含んだ。ついに念願の大型のコーヒーサーバーを仕入れることが出来たのだが、こういうときに飲むと本当に入れてよかったと感じる。だが、今は味わっている暇も余裕もなかった。事態は刻々と悪化しているといっていい。大体が、無理のある仕事だった。無理難題押し付けやがって。
いまや街中を騒がしている吸血鬼のことだ。
狙うのは、老若男女。手当たり次第。時間も適当ならば、犯行現場もどこでも。
薄暗い路地。大きな通りの隅。橋の下に橋の上。ビルヂングの中に、前衛芸術家のアトリエから、TV局のトイレ。
能力者としてもおかしい。
必要なエネルギーなら限られてくるはずだし、なにより人間の生血を吸収するなんて話、少なくとも俺は聞いたことがない。そんなトランスも知らない。
バーストにしても、アゲハの吸収型とも違う。直に噛み付くなんて野蛮な方法はいくらやることが破格なアイツでも断るところだろう。
そしてもう一点。その事件現場には本来残されるべきPSYの残像が全く見られないのだ。かすかに残るPSY残量はすべて噛みつかれた被害者のもの。噛み付いた加害者のエネルギーと思わしきものは欠片も残っていない。
そんなことは、ありえない。
事件現場へ赴き、そこに残されたPSY残像を記憶し犯人の手がかりとして献上する。それが俺に今課せられた仕事である。場合によっては、かつてのように物理特化のバーストを使う機会もある。その悪目立ちするそれのおかげでついたあだ名は「テイル・ハンター」。“ドラゴン”の名称がない以上不本意といわざるを得ないが、尻尾しか使用しないため、そりゃそういう結果になるだろう、というもの。
見る人間によって、その見えるものも違う。
全体が見えている人間なんて、ほとんどいないものだ。
それは、ホロから逃げたアイツと、ホロに残った俺の違いであり、PSY使用者の希少な現在の街を表すことに繋がる。
システムに組み込まれる者、システムを飲み込む者。
この吸血鬼は、なにを吸い込もうというのだろう。
この街が今ざわめきたち、ますます閉塞された空間へと誘われているのと、どう繋がるのだろうか。
まだわからないことだらけだ。
そして、俺はいつの間にか、昨日カブトから聞いた「逃亡者」の情報と、騒ぎ出した警備隊の臨時出動と吸血鬼の時期出現ポイントをつなげようとしていた。
***
アイツが帰ってきているだって!?
なんてことだ! やばすぎる! アイツとアイツをあわせちゃいけない!! これは困った!! なんてテンパっていたところに、チャイムの音。なにごとですか、俺は忙しいんだけども、なんて一応は鏡で身だしなみを確認して(一体いつどんな美女が尋ねてくるかしれないからな)、チェーンをかけたドア越しに相手を見ると、目線が、下に下がった。
「アゲハからの伝言よ! この失礼なチェーンをどけなさいどけないと焼くわよ」
「ちょ、ちょ、ちょっとフーちゃんてばああ」
見たことのある少女たちはなにに怖じけることもなく、平然とそう俺に向かっていったのだった。
「まったく、お使いに出すのがこんなガキんちょ共かよ、たまにはこうもっとボンッキュボーンなお姉さまとかよー」
「あら、失礼ね。それならすぐにでもなってあげたっていいのよ、イカれてもいいんなら」
「俺にトランスは効かねーかんな。で、伝言って? なんで本人が来ないんだよ、珍しいな」
「アゲハさんは今なにか探しものをしているみたいです。シャオと引きこもってすでに3日、出てきていません」
「アイツはいいけど、シャオは大丈夫かよ。アゲハの体力は尋常じゃないぞ」
「大丈夫よ。シャオだって普通の男の子よりもよっぽど強靭だもの、ねえ、マリー」
「うん。でも、さすがに心配だけど、一体なにを探しているのかしら?」
「やめとけ。アイツの考えてることなんて大体ろくでもないんだ。
それより、こっちに回ってきた依頼は一体なんなんだ?
アイツは一応上口だから出来る限りは応えてやりたいが、お前たちも知ってるとおりここ最近の街の動向は異常だ。俺みたいな情報特化タイプにはやりにくいったらありゃしない。ホロからも狙われるし、参ったよ」
「そういうならホロに入ればいいのよ。適当に撒けるでしょうに」
言われた直後にカブトは微笑みながら右手を軽くゆする。するとその頭上に図式が立体化したものが薄く見えた。
マリーは瞬時にカブトが一瞬出したそのプログラムを読み込んだ。
「カブトさん。それは……」
「え?」
フレデリカの腕を取り、下がろうとしたところで、カブトは構築中のプログラムを分解する。全てが一瞬に行われていたところで、フレデリカの視界には入っていない。
さっきのプログラムを一瞬で見抜くとはさすがだな、と思ったのを声には出さないが、鼻で笑ったのを見てマリーはようやく腰を下ろした。
「それが、前回のアゲハさんの依頼ですか?」
「未遂だよ。それが成功していたならアイツは今ここにはいない。つまりはアイツは捕獲に失敗したんだ。相手も相手なら、アイツもアイツだ。やることなすこと滅茶苦茶なヤツラが組んでるんだ。俺らみたいなペーペーの出る枠じゃない」
「ちょ、なんなのよー、なに、なに、なんなのー」
バタバタするフレデリカの頭に手を乗せて、カブトはアゲハの伝言を読み取る。
朧の次期出現ポイントを捻出しろ。
長いため息をカブトとマリーは同時についた。
「それが出来れば……」
「こうも苦労はしてませんよ……」
電波を通じて、日本の教祖となった朧はその力を使いPSY使いの公式然とした場所においての地位を確立した。
我が前にひれ伏せよ、力あるものも無きものも、ともに生きる時代である、と。
神の手を持つ朧の微笑みに倒れる女性たち、愛する女たちの吹き返す息に涙を流す男性たち。朧のカリスマは本物だった。
だが、現在PSY使いたちはホロという枠の中で押し込められて生きている。一部の制御された能力者たちが日常生活を無事に送れているのは、そういう生活を強いられている能力者たちがいるからである。
一層確立された格差によって、朧は全ての象徴となった。
新たな差別の出現した中に現れた「神の権化」として。
***
今日も身体が重い。
フラフラになった体を引きずるようにして、ベッドへとたどり着いた。今日もうまく逃げ切った。そういう精神的な満足感はあるが、肉体は疲労の限界で、満足感など感じない。
もはや肉体が感じる欲望などとは無縁の身体である。
ポチリと記憶のボタンを押す。
浮かび上がる数々のビジョン。その中に多数出てくる少年は、鋭さを持った体で短い蒼髪をたなびかせ、黒い星を発射する。それが自分に向くことがないのが朧の不満である。
それを自分に向けてくれれば、彼と向かい合うことが出来たのに。
彼は今、この街にいる。
そうなるように仕向けたのだ。それまで本当に苦労をした。もう一度この舞台でなんとしても行う必要があった。彼がなんといおうと関係ない。やりたいのは自分なのだ。
自分はやらなければならない。自分の人生のために。
彼のためなど微塵もない。なにもかもは、己のため。
ああ、そんな究極のエゴイズムがもうすぐ発動できるのかと思うとゾクゾクする、と思うと身体が冷えたのか、ゾクリと震えた。
正確には彼に逢いたくて、身体が火照り、うずいている。あの身体を思えば、どれほどに熱くなれることだろう。
あの力さえあれば、きっとなんでも出来るのに。どうして、いつも傍にないのか。
この手はなんでも手に入れられると錯覚したように、今のこの思いも錯覚として笑ってしまえれば楽だと天井を見上げ思った。
そして、同時に手放さなければとも。
「やあ、朗報だよ」
「アンタからの電話なんてすでに不報よ」
電話の奥から聞こえてくる女の子の声はとても不機嫌だ。僕と話すときにはいつも不機嫌な気がする。だけど、すでに慣れているのでそんなの関係ない。
「アゲハがこの街にいるよ」
「らしいわね」
「なんだ、つまらない。知っていたの?」
「一週間くらい前にずいぶんあわただしくなったでしょ。
そのときに噂が立ったもの。最近は情報の流れもスムーズになってきたわ」
「君は不便だと感じないのかい?」
「ホロの生活自体は不便じゃないわ。それに、私は古代種だから」
古代種。
一度目覚めた能力が、一定期間を置いて再度眠りについてしまう特定の精神構造のことである。その多くはホロ生息者にいるとされているが、一定の共通項があるのではないか、というのが最近流行りの学問らしい。つまり、使えなくなってしまった能力者の力をまだ利用価値のあるものとみなしている人間が多い。
眠ったものは起こせばいい。利用できる可能性があるなら、利用するべきである、と。
結局持っていれば持っていたで不便で、持っていなくてもかつてのことを掘り起こされてきっとまた不便になる。雨宮の言葉はどんな現状にも結局慣れていかざるを得ない古代種なりの嫌味なんだろう。
雨宮は一切の能力を失い、かつての平穏を取り戻すように学生生活を普通になんのしがらみもなく送っている。
うらやましいものだ、と思うが、そうならなくて、本当によかったと常々感じる。
「身体が軽いもの。アンタも一度全部の能力を止めてみればわかるのに」
「遠慮しておくよ。
いつ使えなくなるかわからないんだ。稼げるうちにしっかり稼いでおかないとね」
「よく言うわね。で、アゲハのことと、私がどう関係あるのかしら?」
これまたゾクリとする殺気だった声。ああ、君自身についてはなにも思わないが、君のその声はいつ聞いても気持ちがいい。
「きっともうすぐアゲハが君のところにたどり着くと思うよ」
「なんでそうなるのよ。アイツはホロを蹴ったのよ。再入籍は大変なんだから」
「それでも、彼は君のところを目指すんだ」
ブツリと切った。
ああ、楽しみだ。たどり着けなければいいのに。
たどり着けないくらいに、なればいいのに。
それは全部、僕の願いなんだけど。
それでは、最後の仕上げをしなければ。そう思ってこの街の地図を見る。もうすぐ完成するソレを、彼に見せる日が楽しみだ。美しい僕のために、僕が作り出す美しいもの。その傍には君がいなくてはならない。
そして、そこで僕はやっと念願の君を手に入れるだろう。
「楽しみだなあ、アゲハくん」
彼の嫌そうな顔が、目に浮かぶ。