あの時救われなかった子ども「はい、うたかた荘です。え、くのう、ですか……?」
うたかた荘にある固定電話を、電球を替えていて手が離せなかったから雪乃に頼んだのが間違いだったのだろう。
久方ぶりに聞くその名前を聞いて、飛ぶように受話器を取った。
「はい、久能です」
即座に奪われた受話器の衝撃に、一瞬虚を突かれたような顔をした雪乃に目配せで「気にしないでくれ」という意図を送ったつもりだったが、少し傷ついたような表情を返されて困惑したのは明神冬悟のほうだった。
*
普段は屋号である「明神」を名乗っているが、当然のことながら日本に居住しているため「戸籍氏名」というものが存在している。
郵便物は個別の郵便受けがあるし、普段ここに来る連中はほとんどが屋号で呼んでくるから雪乃が「久能」という自分のいわゆる「本名」を知らなかったことはなんにもおかしくなどない。
遠い親族からの連絡だったが、結局はなんとはなしに遠まわしに断りを入れてしまった。
別に今更誰になにを恐れることもなく、この身体のことを、能力を卑下することもなく人前に立てるだけの自信はあると思うのだが。
色々な家庭を回って、どこに行っても言うことを信じてもらえなくて、生きてる人間も死んでる者も怖くて仕方なかったあの頃のことを思い出すのは、楽しいことではない。それなら、やはり、近寄らないでいようと思ってしまっただけだ。
もういい歳だとも思うのだが、幼いころに「怖い」「嫌だ」と思ったことには、当たり前のように臆病なままだというのを、さすがにいい加減学習して、ちゃんと退けられるだけの分別が付いているだけよかったとすら思っている。
しかし、一方で、この目の前の人妻はあれからどことなく表情が固い。電球を替えて、ついでに電気の笠の埃を取って軽い掃除を一緒にした。電話がかかってくる前の続きをただ当たり前のように続けて、時折ちょうどいいタイミングで雪乃が「お茶にしましょうか」という、お茶の時間。
ソファの上では、ガクに寄りかかってツキタケが眠っているので、ガクも大人しい。
エージとアズミは姫乃を迎えに学校まで出かけていった。
パラノイドの連中はどこにいるのかわからないが、最近はちょいちょい他の案内屋の仕事先にも顔を出しているらしい。
いやに静かな昼下がりに、本日のパトロールはどこに行こうかとぼんやりといくつかあるルートを思い浮かべていた。会話がなくても気まずくならないのは、二人で過ごす時間がもうそれなりに経つことの現れのようで少し気恥ずかしくもあるが、誇らしいことだと明神も知っていた。
「冬悟さんって」
「はい」
ふいに雪乃がようやく開いた口から自分の名を呼んだ。
この名で呼ぶのは普段は雪乃だけだ。案内屋の仲間たちと同じく、雪乃にとっても「明神」は先代のことを指す。いつか、その呼び名も入れ替わってほしいと実はひっそりと思っていた。
「くのうさんって言うのね。どういう漢字を書くの?」
「は、え、ええと、久能山って、知ってますか? あの、静岡にある、東照宮の……」
「ああ、国宝のところよね」
「へ? そうなんですか?」
普通に知らなかった。
語感だけだと苦しい悩みのほうが思い浮かぶことが多いためか、あまり音の響きも好きではない。そもそもあまり自分の名に思い入れがないからこそ、ほとんどの日常生活をこうして屋号で無理くりに押し通してるところもある身としては、どのように触れられるのが悪いのか、どんな風に扱ってほしいのかもわかっていない。十味は当然本名を知っているが、彼は意図的に屋号で呼んでくれているから余計である。
「素敵な、お名前ね」
言われた意味がわからなくて、目を見開いた。
雪乃は先ほどのような困惑した顔ではない。時折、姫乃に向ける慈愛のこもった穏やかな表情だ。
「珍しいお名前だけど、お父様かお母さまが静岡の方なのかしら?」
「さあ……。俺は、正直、ほんとに、なにも……」
「そう。いつか、知ることが出来るといいわね」
「そう、ですか」
にこりと微笑むだけで、雪乃は答えなかった。
*
「知らなくていいよ、そんなこと」
そういうと、真っ黒いなりをした男は立派な太い眉を少し下げた。
「そういうもんじゃねえよ。名前はルーツっていうんだ。いつか、お前にも必要になる」
「ふん。どうだかな」
自分には必要ない。そう、心から思っていた。
「だって、本当にアンタの跡を継いだらその名前を名乗っていいんだろ? 『明神』ってかっこいいじゃん」
「へえ、かっこいいなんて思ってたのか? そりゃ初耳だな」
「……う、うるせーな!」
ニヤニヤとした顔を隠さない明神に冬悟は無駄とわかっていながらパンチを喰らわす。当然のように当たってもなんとも思っていない態度が憎たらしい。その上、上機嫌な笑い声まで上げている始末。
「ま、今のままじゃ、この名は与えてやれねえなあ。免許皆伝まで頑張ってくれよ」
「けっ、今に見てろよ。アンタなんて、すぐに追い抜いてやるからな!」
「そういう時だけは、元気いっぱいなんだよな~。もう少し頭を使えと言ってるんだ、バカもん」
「仕方ねーだろ! 身体が先に動いちまうんだから!」
「そういうところが脳筋だっつーの!」
グリグリとつむじを押さえつけられて「やめろ!」と騒ぎ立てる。
二人で借りぐらしをしているアパートまではあと十分もない。帰ったら、湯を沸かして今持ってるスーパーの特売になっていた弁当を食ってカラスの行水みたいな風呂に入って気が付いたら眠っていて、また知らないうちに明日が来るはずだ。最近は夜遅くまで仕事があるから起床が朝のゴミ回収までに間に合わないから、明日こそは生ゴミを出したい。そんなことを考えながらあと五分もない道のりの薄暗い街灯の下で、明神がポツリと言った。
「『明神』になっても、お前は、お前のままだよ」
「は」
「久能、冬悟。いい名前じゃないか。品があって。綺麗な組み合わせだ」
「なに言って」
「名前を変えるのは、簡単だけど、本当に変わるわけじゃないからな。
そのことだけは、忘れるな」
そのあとの記憶はほとんどなくて、普段散々された説教の中でこの言葉はなぜだかしっかり覚えていて、次の日案の定寝過ごしてゴミを出し損ねたこともなぜかセットで覚えていた。
*
「明神さん」
「ん?」
膝でいつの間にか、アズミが寝ている。自分もうっかりうたた寝をしていたらしい。
あれから雪乃と別れて夕方からパトロールに出掛けて、なんとなしに身が入らなくて、夕飯前には帰ってきてしまった。
ガヤガヤとした中で夕飯を取って、姫乃と子どもたちが観るテレビを見るともなしに見ていたら、寝ていたらしい。
姫乃に肩口を控えめ叩かれて起こされて、それでも少し頭はスッキリとしたようだった。胸の奥というか、腹の底のあたりの重たさは、ふいに思い出した師の言葉でずんぐりと石でも入っているようだったが。
アズミをソファにおろして、大きく伸びをすると、姫乃が少し不思議なものを見るようにこちらを見ている。
「なに?」
「今日、どうかした?」
「……どうもしないよ」
口ごもったのを悟られないように、意図的に明るい声音を出したが、それが余計に「何か」あったのだと表明してしまった。
「そういうところ、エージくんより隠し事下手ですよね、明神さん」
「うるさいな」
「お、明神起きたのか? アズミめっちゃ寝てんじゃん。あーあ、じゃあ、俺も今日はここで寝ようかな」
「そうしてくれ」
やはり見目が幼いからか、アズミを一人っきりにすることに若干抵抗があるのは、古い付き合いの明神とエージの共通認識で、明神の部屋で一緒に寝てくれればいいが、それ以外の部屋の場合は、エージが意識的に寄り添ってくれる。そういうところが確かに年長者のようでもあるし、お兄ちゃん気質の現れなのだろう。
そして、二人に気付かれないよう、安堵の呼吸を吐いた。
「明神」と呼ばれる、そのことが、これほどまでに自分に安らぎと喜びを与えてくれる。
二人にとって自分が「明神」である、ということ。それが、自分を常に奮い立たせてくれる要になっていること。
「久能冬悟」ではなく、「明神冬悟」であることが今の自分を形作っている。それは否定しようがないのだ。
*
「ねえ、これ見て」
雪乃が見せてきた古い写真を見てギョッとした。
「どうしたんですか! こんなもん!」
「こんなもんじゃないわよ、懐かしいでしょ?」
そこには「久能冬悟」と「明神勇一郎」が、今よりも少し綺麗なうたかた荘の看板の前に立っている写真だった。
「十味さんが見せてくれたのよ。久能くんの写真が観たいって言ったら、快く持ってきてくれたわ」
「はあ!? あっのジジイ……!」
「こら! ジジイなんて言わないの!」
恥ずかしくて直視できない。おそらく、うたかた荘を買った時に撮ったものを十味に報告した時の写真だろう。不貞腐れたような自分の表情が恥ずかしい。なんでもっと、ちゃんとした写真ではないのだろうか。
「今のあなたは、「明神冬悟」さんだけど、やっぱり明神さんが作ったようなものなのね」
「え、どういうことです?」
「そのまんまよ。お師匠さんと修行して、今のあなたがカタチ作られたのねって思って」
「まあ、そりゃあ、そうだとは、思いますけど……」
「でも、じゃあ、」
「久能、冬悟くんは、今はどこにいるの?」
まるで姫乃に向けるまなざしは、昨日と同じものだ。
昨日考えていたことを見透かされたようで、返答に詰まった。
雪乃の細い指先が、明神の心臓の辺りをトンと押した。
「よかったわ。まだいるみたいね。こんなところに」
「いるもなにも、本名はそれだし……」
「そうじゃなくて」
「子どものあなたは、まだ報われていないのね」
虚を突かれるとは、こういうことを言うのだろう。
「あなたは子どもだったのにね」
「俺は」
「子どものあなたは、『明神』になってしまったら、無理矢理に大人になるしかなかったのね」
「それは」
「子どもは守られないといけないわ。それが、誰だとしても。なにをしたとしても」
「でも、俺は」
「あなたのお師匠様は、ただ名前を継ぐのではなく、きっと、そのままのあなたで、いてほしかったんじゃないかしら」
「誰のものともわからない名前なんて、俺には意味がなかっただけです」
「今でも?」
「俺にはアイツから引き継いだこの名がある。それだけで、十分なんですよ」
「でも、絶とうと思えば、ああいう連絡を全て経つことは可能でしょう」
「……それは、そうですけど」
「いつか、わかるといいわね。そして、知ることが出来るといいわね、ご両親のお名前の由来も、昔のことも、あなたの、由来も」
「だって、そんな素敵なお名前を授けてくれたんだもの。
あなたは、生き残るべくして、生き残ったのよ」
確証などない。
それでも、この人の言葉は、人の親だからだろうか。いや、雪乃の持つ力のゆえか、その来歴から来る説得力たるや、師匠の比ですらなかった。
同時に、自分も、歳をとった。アイツに言われていた時に反発した心が、今は、すっかり、納得しているのだ。
生き残ってよかった、と。
それも、二度。
両親を失って、この名前に抵抗を持った。アイツを失って、無理矢理に違う名前を得て違う自分になった。
本当の自分を指し示す名が、いまだにわからない気持ちもある。
それでも、よかったのだと、かつての自分を赦された気がした。
「はい。いつか」
自分のかすれた返事に、ようやく、雪乃がスッキリしたという風に、娘とよく似たあどけない笑顔を浮かべた。