嵐の前
行ってきますといってらっしゃいのキスをしたと聞かされた日から三日が経った頃。
「海の少佐殿はおでかけのようで」
「よくお分かりで」
部下繋がりで情報持ってんの、とちろりと視線が飛んでくるので、とんでもない、とまぶたを下げて眉を上げた。我が優秀な副官殿はあんだけ公私で交流会してるのに連絡先ひとつも知らないの、とは言いがかりだ。向こうの副官とは頻繁に連絡を交わしていますよ。もちろん、プライベートの詳細な報告の義務はないから申し上げませんけれどね。
「じゃあなんで知ってんだよ」
唇を尖らせて、また、大きな目がきろりと動く。その視線も三日前に比べるとやや強さに欠ける。気づくのは自分くらいでしょう。海の少佐殿を除けば、の話です。
空の英雄、神の目を持つ男と、本人が歓迎しない二つ名を持つ我が上官は、ごく控えめに言ってもデスクワークが好きではなかった。ため込んで、自分に催促されまくって、本当に期限ギリギリに竜巻のように目を通し決断し決裁してゆく。もうやだ飛びたいと嘆くくらいならなぜもっと早くから処理しないのか、理解できない。
が、今回は違った。
言われずとも席につき、ぺらりぺらりと紙をめくっている。速度は竜巻時よりずっとゆるやかだが、期限もまだ先のものばかりだ。
ぺらり。かりかり、ことん。
ぺらり。かりかり、ことん。
このご時世になっても紙の回覧、インクのサインは変わらない。
めくり、書き、置く。
自分にとって夢のような光景が自発的に行われていることに、感動を抑えられない。なんてことだ。ありがたすぎる。
先ほどの答えははぐらかしたが、分かっていますよ。あなたは恋人の不在の気を紛らわせるために書類を片付けることを選んだんだ。
飛びたいと駄々をこねられることもないままこんな日が五日も続けば、大体のデスクワークは片付いてしまう。さすが我が優秀な上官殿だ。普段からこれの五分の一でいいから進めて欲しい。
「そろそろ、飛びますか?」
「ん? なんか命令来てた?」
「…熱でもあるんですか」
いつもなら三時間に一度は飛びたい飛ばせて飛ばなきゃ死んじゃうとごねるのに、この五日間、一度もそれがない。さすがに心配になりもする。
「海のトラブルの情報は入っていません」
「うん」
茶化されないことで背筋が伸びた。このひとがこの状態なのは何かを感じている時だ。余計な勘ぐりだが、これは彼の恋人である海の少佐殿こと、アルジュン・ヴァルマ海軍少佐の不在に塞ぎ込んでいるからでは、決して、ない。