星まで届け
きっかけは些細なことだ。大体は日常の一角で、生死を彷徨うドラマティックなことなどなかなか起こらない。だから、これも、そんな些細な始まり。
あ、と思った次の瞬間、ざらりともばしゃりともつかぬ音で細かいパーツが床に散っていた。アルミ製のそれは磁石でまとめて集めることもできず、ソーンは迫り上がった自身への憤懣を口から吐き出す。
「もー!」
最近言葉遣いがやや子供っぽくなって来ている自覚はある。その理由の主が声を聞きつけて姿を現す。
ぺたりとラグの上で座り込み面倒くさそうにパーツを拾う姿で状況を把握したのか、近づいてくる。
「あらー。派手にやったな」
声は名前のように笑っていて、以前居候させていた男のように文句を言う訳でもなく、ソーンをおとしめることもせず、ただ機嫌良くそれを拾う手伝いをしてくれる。分厚い手のひらに見合う太い指が器用、とも言い切れないがちまちまと拾い集める様はなんとも言えぬおかしみとかわいさがあると、自身も一つずつ拾いながら観察する。
元々の骨格、体質、鍛錬を厭わぬ勤勉さ、そういったものが上手く組み合わされてスマイリーと言う男の立派な体格は創り上げられた。片膝をつき、リラックスした体勢で身を屈めているだけなのに、なんらかの彫刻のような精悍さだ。
ソーンは更に観察する。
床面に向けられた顔。間近にあるのに自分を見ない顔はめったに見られない。
いつも見上げているまつ毛は今は頬に影を落とすところまで見てとれる。思ってたより長いな、と新たな発見に気分がよくなる。
高めの頬骨から顎へまっすぐに続く輪郭を縁取るひげは、髪と同じくやや巻き毛のくせでふわふわとしている。
ひげに縁取られた唇は肉厚で、薄い唇にコンプレックスを持っているソーンには羨ましくさえ映る。思わず漏れる羨望のため息。
「ソーン、どうかしたか」
ため息を不調の表れと案じたスマイリーが視線だけ上げて問う。きれいな、明るい青。
「動くな」
ふざけてる時はいくつも余計なひと言を言えるのに。真剣な時ほど簡潔で無駄がなくて、情緒がない言い方しかできないのを、素直で分かりやすくていいと言ってくれた。だからこれも、気を悪くしないはず。
鼻先が触れそうな距離で見つめても怒らない。眉毛が上がって戻る、それだけで伝わる許しに似た何か。
吸い込まれるように、ソーンは口づけた。
「…怒らねえの?」
突き飛ばしたり、気持ち悪いって怒鳴ったりは?
そもそも顔が近づいたとこで分かるだろ?
なんで拒まなかった?
やめろよ、って言ってよかったんだぜ?
どうして何にも言わない?
言う気もないくらい呆れた?
俺を見限った?
「待て、待ってくれ、早い」
口付けを受け入れたスマイリーが慌てたようにソーンを制する。
お前頭いいから、思考と言葉が早くて追いつけない、俺はまだ、……まだ、その、と言い淀む。
続く言葉が拒絶、否定、嫌悪と想定してソーンは身構える。
「お前からのキスが嬉しくて、それだけで頭がいっぱいだってのに」
「……へ?」
我ながら間の抜けた声が出たとソーンは思う。
今こいつなんて言った?
目の前で、はにかんで、頭をかいて、なんて言った?
「スマイリーあの、」
「嬉しくて、舞い上がってんだけど、俺の勘違い?」
「いやそのえっと」
大きい手で小さい顔を覆って、その隙間から揺れる青を覗かせて、耳まで赤くして。
「勘違いじゃ、ない、……よ?」
語尾が震えそうだった。
だって俺はお前のこと好きだし。きっとそんなに?って驚かれるほど早くからお前が好きでいた。でも言えないと思っていた。決めつけた訳じゃないけどお前はきっと女の方がいいだろ、それが大多数じゃん、と言い聞かせていた。
なのに。
「俺から、していい?」
ノーは、言わせてもらえなかった。言うつもりもなかったけれど。
ここはソーンの部屋で。
床にはまだパーツが散っていて。
傾いた日が部屋の中を淡い黄色に染めて。
すきだよ、と繰り返される。
おれも、と応え続ける。
どちらが、何度言ったのか。
何度交わしたのか、数える必要はなくて。
ちゅ、と鳴らして唇が離れるまで、どれくらい経ったのか。
「あーっと、今日は、ここまで! な!」
急に明るく声を張ったのはスマイリーの方だった。
「拾っちまおう、でないと危な、……」
「あとで、いいよ」
「ダメだろ早く拾……っああもう!」
俯いて、スマイリーの指先を掴んで、動かないソーンを空いている方の腕でかき抱く。
だいじにしたい、と歯の間から押し出すような言葉は自らに言い聞かせているようでもあった。
「まじめ」
まるきり拗ねた子供のような声が出た。
「おうよ」
ぎゅうと抱きしめられて顔が見えないが、同じような感情を乗せた声に、互いの欲が削がれるのが分かる。
「開き直りかよ」
「譲らないからな!」
「頑固!」
ほとんど笑いに溶けたじゃれ合いに化ける。それさえ心地よく感じて、またキスをした。ん、と応えてくれる高い体温に安堵する。これ以外ないと思う。
「すき」
「俺も」
きっとこれから、何回も、何十回も、もっともっと繰り返すだろう。そのたびに喜びと幸せを感じるだろう。
願わくば、その時間ができるだけ長くありますように。
祈りはきっと、星に、いいや、何より互いに届くのだ。