水瓶の天使ジョン・スマイリーがその青年を見たのは、暮れかけの空に人が影のようになる時間だった。ダイナーのバイトは休みだったが、社員価格で食べられるので結局足を運ぶことになる。その、いわゆる職場の前で。
「あのー、俺にアイジョウをくれませんか?ちょっとでいいんだけど」
形のいい坊主頭は伸びればゴージャスなダークブロンドになるだろう。目だって透き通るように淡いグラスグリーン。顔立ちもかなり整ってる。
そんな青年が、ごろつきまがいの集まるこの柄のよろしくないダイナー前で、なんとも拙い客引きをしているのだ。
「愛だって?」
すぐに下品な笑いを浮かべた髭面どもが青年を取り囲むが、本人は怯む様子もなく、そう、アイジョウ、と素直に答えている。
ああ、これダメなやつだ。
ここいらで客を取るなら一帯を管理している奴の許可がいるし、許可があるなら大概の顔は見たことがある。どちらにも当てはまらない青年は、髭面どものいい餌だ。五体満足で夜明けを迎えられたらかなりの幸運、それとも悲運か。
「ボーヤ、幾らだ?」
「? オカネじゃなくてアイジョウだよ」
「はい、ガイズ。悪い、俺の連れなんだ。ちょっとその、治療でこっちに来てて」
笑顔で、敵意などないとアピールしながらジョンは声をかけた。面倒になるのは分かっていたが、放っておけるほど冷酷ではなかった。治療なんて言ってごめんな、勝手に誤解してくれると願って、ここを切り抜けたら謝る。
「んだよ、しっかり捕まえとけ」
「うん、ごめん、気をつけるよ、ありがと、さよなら」
「なに?アイジョウくれる?」
あんたも体でっかいからたくさんありそう!などと無邪気に喜ぶ青年は、どうにも浮世離れしていた。そう、そうだよとりあえずこっち来て、うん、そう俺んち。
とてとてとついてくる青年を離さぬように肩に腕を回してガードする。そうして、なんとか自分のねぐらに持ち帰っ…もとい、保護したジョンは、盛大にため息をついた。
「…強引に連れてきて悪かった。謝るよ」
「アイジョウくれるならいいよ」
手強い。
ふわふわと捉えどころのない話を根気よくつかまえて、解いて、撚り直すとこうだった。
青年は天使で、あまりにも心を理解しないので、大天使様に大甕を持たされて、それになみなみと人間の愛情を集めることができたら天界に帰してもらえるのだと。
「甕、は、持ってんのか?」
「うん」
「大きい?重くないか?」
「次元ずらしてあるから平気」
「…じゃあ、俺が、つまずいて割ったり倒したりしない?」
「だいじょぶ」
よかった、本当によかった。見えないけどあるものを割ってしまったら。いくらかは貯まっているだろうアイジョウなるものをこぼしてしまったらと、ジョンも真面目に気を揉んでいたのだ。
「なあ、キミ名前わー!脱ぐな!そうじゃない!」
「アイジョウってこうしてもらえるんだろ?」
知ってるんだぜ、これくらい!と得意げな顔をする。と、同時に「でもちょっと痛いよな。言うほど貯まらないし」などと顔を曇らせる。
とんでもない。
とんでもない。
彼はアイジョウを勘違いしている。
あまりにも、下卑な方向に!
「でっかい方がいっぱい持ってそうだから、そういう人間に声かけた」
ああ、うん、そうかあ。ちょっとなあ、違うんだよ。
「違うの?!」
みるみる表情が陰る。
「愛ってのは、そんなにシンプルなものじゃないんだよ。すごくシンプルな時もあるけど」
「なにそれ、人間でも分かんないの?」
「これが正解ですってのは、みーんな違うんだ。傾向みたいなのはあるけど」
「でっかい方がたくさん持ってるってのは?」
「それは全然ダメ」
「えー…もうやだ帰りたいのに…」
泣きそうになる自称天使をなだめようと、どれくらい貯まってるのか聞いたが、まず甕は彼の背丈ほど、幅は俺と彼でようやく一周するほどの、かなりの大きさだった。
「アイジョウはどのくらい?」
「…ちょびっと」
ジョンに見えない甕を、背伸びして覗き込む肩が明らかに落ちた。
「あー、その、俺でよければ手伝うよ」
頼りない後ろ姿に心が揺れた。保護、父性、名前は分からないが、少なくとも肉欲ではなかった。
「ソーン、どした」
「すごい、こんなに貯まってる!」
「よかったなあ!帰れそうか?」
「んーさすがにまだそこまではない」
「よし、じゃあもうちょっとがんばろうな」
「うん!ありがとなスマイリー!」
水瓶の底が湿っている程度だった愛は、今や手を差し入れればすくえるほどにたたえられている。すごい、あとちょっとで満杯になる。そうしたら。
そうしたら。
天界に帰れる。
…スマイリーと離れて。
「……帰れるんだぞ、俺」
スマイリーがバイトに行っている間はおとなしく留守番することになっている。本を読んだり、番組を見たりして過ごしているが、最近は見えないと分かっていても、こっそりとそのかめの水を飲んでいた。せっかくスマイリーが貯めてくれたアイジョウをこぼしたり捨てたりするのはいやで、試しに庭にちょっとまいてみたらそこだけすごく育ったため、飲むのが一番バレない方法だった。
飲んでも、飲んでも、愛情は減らない。
ソーンのお腹がたぷたぷになることもない。
どこにいっちゃってるのかしら。
さあ、スマイリーが帰ってくる前に、もう少し飲んで減らしておかなくては、溢れてしまう。
溢れたら、スマイリーと離れなくてはならない。
そんなのはいやだった。
あの笑顔を向けられていたい。
ただいまのハグがずっと欲しい。
俺がハグをすると嬉しそうにするから、俺も嬉しくなって。
もっと、ずっと、スマイリーの愛情を浴びていたいと思う。
ああ
そうか
これが
このきもちが
あいなのだ
色んな形があって
正解なんてみんな違うんだとスマイリーが言ったことは
本当だったのだ
ざあ!と音がした。
ソーンにしか見えない水瓶から音を立てて水が溢れている。
「えっ、なに、やだ、出て行かないで、スマイリーがくれたの!俺にくれたの!持って行かないで!」
かみさま!!!
「ソーン?! どうした?!」
「スマ、リ、どうしよ、いっぱいになっちゃって、とまらない、こぼれてる どうしよ」
「帰れるよって合図じゃないのか?」
『それは少し違いますよ、人間、そしてソーン』
「大天使さま!」
「えっ、すごい俺にも見える…」
『お前は帰りたくなさのあまりかめの水をあんなに飲んで』
「えっ」
「だ、だって…」
『お前の体はすっかり人間の…そこの、ジョン・スマイリーの愛情で再構築されきってしまった』
「おれ、スマイリーになれたの?!」
『違いますよ、おばかさん』
「ばかじゃないもん」
いや、否定できないとこあるなあとスマイリーはこの超常の現象の中冷静に考えていた。
随分眩しくてきちんとした姿が見えない大天使様が、ソーンを迎えにきたと思ったらどうにも違うらしい。
スマイリーはすっかりソーンを気に入っていり、一人前の精神年齢に育てるのは自分の使命とまで考え始めていたので、ソーンがここで天界に戻ってしまうのは残念に感じられた。
それに、とスマイリーは続ける。
無邪気に駆け寄ってくる温かい体は、何ものにも代えがたい。
つまりは、愛していたのだ。
『と言うことで、ソーン、お前は人間として幸せに暮らしなさい』
「ちょっと待ってください、国籍とかパスポートとか人間はいろいろ必要なんですが!」
『そうでしたね。エイッ。さ、揃いました。これでソーン、お前は立派なアメリカ国民です。預金もたっぷりあります』
随分簡単にことが運んでしまった。神の奇跡、さすが奇跡。
そう言うわけで、元天使のソーンは、ジョン・スマイリーと末長く、幸せに暮らすことになったのでした。