1.寄せる波①
――日常とはこんなにも簡単に崩れ去るものなのだろうか。
それはある日のこと。まだまったくまとまっていない卒論の要旨に毎日毎日翻弄されながら、私は生活をしていた。研究室の先生は緩くあまり招集されないため、これから引きこもるための買い物を済ませ、スーパーからアパートに戻る。アパートの階段を上り、私の部屋がある階の廊下に入る。
私の儚い日常は、ここまでだった。
廊下に入るや否や、私は私の部屋の玄関の前にいる三人の男に気がついた。三人ともが黒のスーツを身にまとって、一人は私の玄関にもたれかかって煙草を吸っていた。
さらさらと太陽が照り返す鮮やかな金髪の男は、その横顔をとても精悍に見せた。
私は立ち止まることも忘れて歩みを進めていき、一人の男が私に気づく。
「――支配人、」
その男が呼んだのは、玄関にもたれかかっている金髪の男だった。その顔がふらりとこちらへ向く。瞳の深い海のような輝きは、どうしてだろう、私のことを一気に釘づけにした。
男は私を見て、驚いたように目を見開き、それからスーツの内ポケットから携帯用灰皿を取り出すと、そこに吸っていた煙草を押し込む。そしてまたそれを内ポケットに戻す。
それからスーツを整えながら私のほうへ歩み寄り、
「初めまして、アニ・レオンハートさん。僕はこういう者です」
さっと、慣れた手つきと人のいい笑顔で私に一枚の名刺を差し出した。
なんなのだ、と首を傾げながらそれを受け取り、はた、と見下ろす。その名刺に書かれていた文字列を目で追った。
『キャバクラ〝パラダイスハート〟支配人 アルミン・アルレルト』
――キャバクラの支配人が、私にいったい何の用だ。
改めて首を傾げてしまった。先ほど私の名前を呼んでいたので、人違いではないのだろう。疑問のままに私は顔を上げて、改めて私にこの名刺を渡してきた、アルレルトという人物を見やった。
「君に大事な話があるんだ。よかったら家に入れてくれないかな」
「……え、」
「大丈夫。君が取り乱さない限りは、こちらも手荒なことはしないと誓うよ。できるだけ穏便にことを進めたいからね」
その口ぶりからよからぬ気配を察知する。……私が冷静でいれば手荒なことはしない、ということは私が動揺するような話をするということだろうか。
「君の個人的なことを話すつもりなんだ、ご近所さんに聞かれたくないでしょう?」
「……わかりました」
ひとまずことを荒立てないほうがよさそうだと思った私は、内心で少し焦ってはいたものの、平静を保ったまま自ら玄関を開錠した。持っていたスーパーの袋ががさがさと耳障りな音を立てる。
玄関の扉を開けたあと、一度三人の男たちのほうへふり返って目配せをした。今さら気づいたが、アルレルトという男の後ろに控えていた男たちは、あからさまに人相の悪い大柄な男たちだった。一人は顔に大きな傷跡がついている。
「……はい」
私はついてくるように促し、自分が一番に玄関に上がった。出かけたときのまま、散らかっている部屋は少し恥ずかしくもあったが、きっと今はそれどころではないのだろう。男たちが靴を脱いで上がっている間に、買ってきたものを冷蔵庫の中に突っ込んだ。
「お邪魔しまーす」
軽快な声色で奥へ進んでいくのはアルレルトという男。従えている男たちの分まで愛想を奪っているような、可愛らしい笑みを未だに浮かべていた。
とりあえず私の狭いワンルームの部屋に入り、私はベッドの上に座った。男たちはそこに立ったまま、私が落ち着くのを待っていた。
私が座るようにと仕草で促してみても、同じようにアルレルトという男から仕草でそれは必要ないと返ってくる。
「……さて、これから話すことはとても大事なことだから、冷静に聞いてほしい」
そうやってすべての非日常の話が始まりを告げる。
「……そうだね、まずは、君のお父さんが借金をしてるのは知ってるかな」
唐突に出てきた情報に意表を突かれて、思わず「父さんが?」と何も考えずに零してしまった。
「……し、知らない……そ、そもそも、もう何年も会ってない」
そう、大学に進学すると同時に家を出た私は、それ以降父とはほとんど交流がなかったのだ。ただ、何の連絡もないからそれなりに生きてはいるのだろうとなんとなく見当をつけていたにすぎない。
アルレルトという男は私の答えを聞くなり、はあ、と浅くため息を零した。
「そうか。じゃあそこから話すね」
先ほどまでの笑顔はいつ間にか消えていた。
「君のお父さんは始めは銀行や消費者金融からお金を借りていたみたいなんだ。けどその内借金の金額は膨れ上がって、返せなくなったようで。……そこで、僕の上司がやってる、まあ、いわゆる闇金融に駆け込んだという経緯があるんだ」
私がしばらく会わない間にそんなことになっていたは、と純粋に驚いてしまった。……いや、元々素行のいい父ではなかったし、だからこそ大学進学と同時に見限ったのだが、一人になってもそれは変わらなかったということだ。
ふと気づくと、アルレルトという男は私の様子を窺うように顔を覗き込んでいた。その視線が意味するところを察せられなかった私は、それをただ見返す。
「……えーっと、察しがいい人はこの説明だけでだいたい理解してもらえるんだけど」
そう言われて、ここまでの情報で〝このキャバクラの支配人が私に会いにくる理由〟が頭の中を駆け巡った。――つまり、父親本人で完結できなくなってしまったということか。それとも私に父に借金を返すように促せということか。はたまた、父の居場所を聞くためにきたのかもしれない。
どうにもこうにもその答えを絞り切れなかった私は、先ほどの嫌な予感を再び感じながら男に聞き返した。
「いや、その、それと私に何の関係が……?」
男は一瞬だけ、少し申し訳なさそうな顔を作ったように思った。けれどたったの一瞬だ、口を開くころには諦めたように小さく笑っていた。
「まあ、端的に言うと、君のお父さんは君を担保に僕の上司からお金を借りたんだ」
「わ、私を、担保に……!?」
ぐらぐらと視界が揺れた、『私を担保に』という言葉を理解するため、脳みそが高速回転をする。……つまり、貴重品を質屋に入れて金に換金するように、私の父親は私を担保に金を借りたというのだ。目の前が真っ白になる。
「そう。しかもそのあとトンズラだ。初めから返す気はなかったようなんだ。まったくひどい話だよね」
世間話でもするように軽い調子で言う男に対しても、私は言葉を失っていた。
「僕らもまだ君のお父さんの捜索を続けてはいるんだけど、いかんせん返済日が過ぎてしまっているからね」
淡々と話は続けられていく。――つまり、返済日を過ぎて返済されないお金の代わりに、〝私〟が彼らの所有財産になってしまったと。……そのために、この男は私のところへ来たのだと……ようやく理解した。
「まあ、というわけで、担保として監視下にあった君は、晴れて僕の上司のモノとなったわけだ」
状況の説明は続けられるが、もうもはやちゃんと耳には入っていない。
「ただ、ただの闇金屋のボスが女の子を所有してもお金にはならない。そこで、君の身元は僕のお店で預かることになったんだ。……君が自由になるためには、君に課せられた金額を返済していくしかない。全額返済が叶えば、もちろん君は自由の身だ」
――そうか、だから〝キャバクラ〟なのだ。私が自分でお金を稼いでその金を返すため、この男が支配人をしている店に連れて行かれるということだ。……つまり、私の日常はここで終わりということなのだろう。この部屋も通っている大学も、バイトも、研究室も……すべてが、もうここで終わりなのだ。
だが、この男の店で無事に全額返せば、また元の生活に戻れると男は言う。……つまり、まだ、完全に人生を奪われたわけではない……?
「実は僕たちとしては君を解体して売り捌いたほうがてっとり早いんだ。だけど、そんなの君がいやでしょう。だから、僕のところで働いて、君のお父さんの借金した分を返済してくれたらいい」
男はそこで一呼吸を置いた。とりあえず言いたいことはすべて言ってしまったようだ。黙り込んでしまった私の反応を待っているようだった。
……父の借りた金を返し切れば、私は自由の身になれるという、その言葉に縋って私はこの事態を飲み込もうとした。つまり、大丈夫、これは一時的なものに過ぎない。金額によっては、大学も辞めずに済むかもしれない。
私は思い切って顔を上げた。
「……い、いくらなの。私の父の借金」
「九千万、だね」
まるで準備していたような端的さで男は教えた。
「きゅう……、」
――九千万。九千万……それは、つまり、いくらだ? また頭の中が混乱に陥る。いや、これは……ほぼ、一億という……金額ではないのか……?
「そんな驚く金額でもないさ。僕の知る限りでは六億の借金の肩代わりとして売られた子どもがいたのを知ってる。それに比べたらかわいいものだよ」
はは、と軽く笑い飛ばされるものの、そんなの笑えるわけがない。……すべて返し切れば自由の身という話だが、その金額が身に覚えのない九千万というのは……私が自由の身になれるのは……どれくらい先だ?
あー、だめだ、頭が回らない。私は考えることを放棄してしまった。
「……ああ、」
男が思い出したように声を上げる。
「もちろん僕たちの目を盗んで逃げることはできるかもしれない。けどそのときはどうなるか、先に伝えておくね」
そうして男はスーツの内ポケットに自身の手を入れ、手帳を取り出した。そしてそれまでのような軽い口調のまま続ける。
「もし君が逃走した場合、君の学校の誰か……まあ、そうだね、そんな回りくどい言い方もよくないか」
徐にその手帳から一枚の写真を取り出したようだった。そしてその写真をこちらに向ける。
「……ミーナ・カロライナ。彼女を攫って君の代わりをやってもらうよ」
写真に写っているのは、私の大学の友人のミーナ本人だった。ぞわ、と背筋に寒気が走る。
「ミーナ!? なん、で、それを」
「大事なお金の担保だよ? それくらい調べるさ。ちなみにミーナと二人で姿を消そうとしても、その次の代役を見つけるまでだ。学校の生徒みんなで逃げることなんかできないでしょう」
諭すような声使いで男は私の意志を折ろうとする。元々逃走なんて頭にはなかったけれど、それを植え付けられた側からへし折られる経験をする。――私がこの男たちに抵抗したら、ミーナが危ない。
「……まあ、君がそのほか大勢にこの運命をなすりつけて逃げたところで、君のお父さんのことを思えば納得はできるけど。それだけ君のお父さんはクズだったわけだから」
持っていた写真をまた手帳に挟み直し、アルレルトという男はその手帳をスーツの内ポケットに戻した。
「まあ、君が決めればいい。僕はこれから十分だけ外で煙草を吸ってくる。その間に逃げるなら逃げるんだね。その先で君が逃げるチャンスはもうないと思ってくれていい」
アルレルトという男は後ろに待機していた男たちに、仕草で指示を出した。男たちが踵を返し玄関に向かい始めると、男は「よく考えるんだ」と、その言葉だけを残して玄関から出て行った。……おそらく、玄関の外で煙草を吸うのだろう。
私はその場で崩れ落ちたような感覚になった。実際はベッドの上に座ったままだが、身体から力が抜け落ちて顔すら上げていられなくなった。……途方に暮れるとはこのことだろう。
私はこの十分後、彼らに連れられて非日常へとさらわれてしまうのだ。
この部屋も、大学も……友人も、今の生活、卒論、バイト……すべてをここへ残していく。
逃げたければ逃げればいいと男は言ったが、私が逃げればほかの誰かが身代わりにされると言われてしまえば、もうどうすることもできない。……私はせめて〝解体〟されないことに感謝して、大人しく金を返していくしかないのだろう。
とにかくこの身体に渦巻く諦念は凄まじいものだった。
しばらくぼうっとこれまでの人生を振り返った。これまでなあなあで生きてきたことが災いしたのだろうか。よく考えれば、手放して悔やむような人生でも人間でもなかったなとおかしくなった。これまでも流されて生きてきた……なら、流されることに恐れることは今さらではないか。
ガチャ、と玄関の金属が擦れ合う音が鳴る。そのまま男たちの足音が迫ってきて、先ほど立っていたところにまた、アルレルトという男を筆頭に男たちが並んだ。
脱力したまま顔を上げない私を、少しの間見ているようだった。微かにアルレルトという男の呼吸する音が聞こえる。
「……うん。賢い選択だと思う」
私が顔を上げると、何とも言えない顔をしていたのだ、アルレルトという男は。それは申し訳なさか、それは哀れみか、同情か、辛いことを思い出していたような顔をしたのだ。
驚きのあまり、私はたちまちその男のその顔が脳裏に焼きついた。
「……じゃあこのカバンに持って行きたいものを詰めて」
アルレルトという男の後ろに待機していた、顔に傷があるほうの男がさほど大きくもないボストンバッグを部屋の真ん中に置いた。
「このカバンに入らなかったものはこちらで処分させてもらうよ」
私は部屋の中を見回す。……持って行きたいほど思い入れのあるものは、あまりないような気がした。
「これから君はパラダイスハートの女子寮で生活してもらう。衣食住はこちらで保障するけど、その代わりに君の月の手取りは二万だ。残りはすべて借金の返済に充てさせてもらう」
「……そう」
私はその男たちが見守る中、渡されたボストンバッグの側に腰を下ろして、その口を開いた。さて、何から詰め込もうかとさらに途方に暮れる。
「――君が落ち着いた人で助かったよ」
アルレルトという男が私と同じように身を屈めて言った。……どうやら荷物を詰めるのを手伝ってくれるらしい。
私は男の言った言葉を思い返して、まだこれからのことを上手く実感できていないだけのような気がした。動揺はしているが、それにも勝る諦念が、ここでずっと私を支配していた。
アルレルトという男と一緒に車に乗せられて、二時間くらいは走っただろうか。車中で会話などあるわけもなかったが、男は煙草を吸いながら何度か忙しなく電話をしていた。……車の窓にはカーテンが引かれており、外の景色は見えない。私はこの先、自分に待ち受けている未来を想像することしかできなかった。
携帯電話の類は抜かりなく没収された。また新しくお店用の携帯電話を用意するから少し待っていてくれと付け加えられて。
とにかく、二時間ほど走った車は入ったことのない繁華街のような込み入った街の中で停まった。男の指示で車から降ろされて目の前の建物を見上げると、華々しいネオンが『パラダイスハート』と象っている大きな建物だった。今は昼間なのでネオンは輝いてはいないが、夜には眩しく光るのだろう。
こっちだよ、と声をかけられ我に戻る。アルレルトという男がこの店のわき道を示しながら私を呼んだ。言われるがままについて行くと、店の裏手側に三階建てほどの建物があった。店とは渡り廊下で繋がっているようだ。その建物の入り口に案内され、靴箱が並ぶ玄関で靴を脱ぐ。「君の靴箱はここね」と一番手前の一番下のボックスを示された。
私がアルレルトという男に続いて歩き、その後ろから私のボストンバッグを持った男が続く。もう一人の男は車を駐車しにでも行ったのだろう。
決して新しくはない建物だが、そう汚くもなかった。ちゃんと手入れが行き届いているのがわかる。
二階へ案内され、さらにその一番奥の部屋の前まで進んだ。その部屋の前で男が一つ鍵を取り出し開錠する。……ここの個室にはちゃんと鍵がついているらしい。
「――ここが君の部屋だ」
扉を開け放ち、私のために身体を避けた。その仕草に促され、私はこれから自分に与えられる部屋に恐る恐る踏み込む。
……三畳くらいの狭い部屋ではあったものの、ベッドど机とクローゼットが備えてある、割とちゃんとした部屋だった。私の横から男がボストンバッグを部屋の中に置く。アルレルトという男に一言二言残して、その男はどこかへ行ってしまった。
そこで、コンコンコン、と部屋の扉をノックするような音が聞こえた。なんだ、と振り返ると、私の部屋の扉は開けっ放しでそこにはまだアルレルトという男が立っている。……だが、男を見ると、そのノック音がどこから来たのかすぐにわかった。
「はいはーい」
隣の部屋の扉がノックされた音だった。
ガタ、と音を立てて隣の部屋の扉が開いたようだ。
「あら、支配人。どうしたの?」
そこから顔を出した女の横顔が見える。栗色のカールした髪の毛に、垂れ目がちな目尻は妙に色っぽいなと思った。
「ヒッチ。今日から入る新人のアニだ。彼女が慣れるまで君に世話役を頼みたい」
男につられて、ヒッチと呼ばれた女が私のほうへ目を向けた。あからさまに、げ、という顔つきになり、
「えー。わたしー? めんどうなんだけどー」
ぶうたれた口元で抗議していた。
その関係性というのか、その二人のやり取りは私に違和感を覚えさせた。
「君なら僕も安心だよ。頼むよ」
「もう、仕方ないわね」
この寮に住んでいるということは、この店で働く女なのだろう。その女と絶対なのだろうと思っていた〝支配人〟が、友だちような口を利き合っているのだ。それが私が覚えた違和感の正体だ。
アルレルトという支配人が、私を手招きした。言われるがままに私は部屋の出口の近くまで歩みを進める。
「アニ、これはうちで人気キャストの一人の、ヒッチ」
「どうも~」
「……どうも」
「じゃあアニ、細かいことはこのヒッチに聞いてくれ。僕は書類の準備をしてくるよ」
そう言い残した支配人は、そのまませかせかとどこかへ行ってしまった。初めて会う、この派手で軽そうな女と私を残して。
私とヒッチはしばしの間見合ってしまった。お互いがどちらが先に口を開くかで探り合っていたような時間だ。気を利かせて先に口を開いたのはヒッチだ。
「……まあ、あんたも災難な一日だったんでしょうね」
訳知り顔でため息を吐くものだから、おそらくこの女も私と同じような経緯でここにいるのだろうと察しがついた。
「……ああ」
今日のことを思い出して、私もため息のような返事をしていた。あのスーパーを後にしたとき、まさかこんなことになるなんて夢にも思っていなかった。……まあ、思うわけもないのだけど。
「でも正直ラッキーだよ。あんたが売られたのがここで」
ヒッチが私のため息をかき消すように少し声色を変えて言った。
「ここはちゃんと私たちを人として扱ってくれるからさ」
私のことを一瞥する。
それからまた思い出したように息を吸って言葉を続けた。
「……ほかのキャバとかは寮はあっても大部屋に鮨詰め状態というのもよく聞くし、中絶直後も性病治療中も関係なく身体売らされるって話。それに比べてここは狭いけど一応ちゃんと個室だし、店のノルマさえ守れば身体を売ることを強要もしてこない。まあ、返済の効率を考えたら身体売る方が早いんだけどねえ」
何とも軽々しくそんなことを言うから、私はどんな顔をして返せばいいのかわからず黙り込んでしまった。そんな劣悪な環境の店がある中で、攫われたのがここでよかった、なんて、思える日がくるというのか。何かの悪い冗談だ。
何も言わない私を見かねてか、
「まあ、とりあえずトイレとお風呂は共用ね」
そう言ってから廊下に出るようにその所作で指示した。そのまま廊下を渡っていき、「二階のトイレはあそこ」と廊下の突き当りを指さした。それを満足に見届けないまま、階段を下りていく。そこからまた少し歩くと、どうやらそこが浴室のようだ。
「ここね。朝イチでここの掲示板に何時に入りたいか書いとくだけ。早い者勝ち」
その掲示板をゆっくり眺める暇もなく、またヒッチはすぐに歩き始めた。
隣の部屋の両開きの扉を大きく広げて、
「んで、こっちが衣装部屋。ホールに出るときに着る服を準備してくれてる。これも早い者勝ちね」
百着はあるであろう色とりどりのドレスがラックに収まっている様子を見せた。きらきらと派手なものばかりで、心なしか気持ちがげっそりしてしまう。
その扉を閉じると、またすぐに歩を進めた。次に見せられたのは、衣裳部屋の向かいにあった部屋だ。
「ここは談話室」
扉を開くとその部屋の中にはテーブルと椅子がいくつも並び、飲み物の自動販売機と、奥の壁には一面をびっしりと埋める本棚が置かれていた。
「パラダイスハートは入って半年は同伴かアフター以外での外出は禁止だから、ここで暇を潰すことになるよ。見ての通り、支配人の趣味でこの談話室にはこれだけの本や、映画、音楽が置かれてるから、基本的には自由に使ってオッケー」
これだけの本を〝趣味〟で集めるという支配人――私は彼を初めて見たときの、あの横顔を思い出していた。終始ずっと穏やかに話していたあの人は……そうか、本が好きなのかと心に留めた。
さて、次の部屋だ。次の部屋は衣裳部屋の隣にあったガラス張りの部屋だ。中を覗くと筋トレ器具や運動器具が並んでいる。
「ここが運動室で……ここが食堂」
運動室の反対の扉を開くと、談話室よりも少しだけ広い部屋になっていた。談話室にあったテーブルは丸かったが、ここのテーブルは長方形だ。その奥に調理場のようなところが見えた。
もしかしてここでは自炊なのか、そう疑問に思ったと同時に、ヒッチがその答えを口にし始める。
「食事は朝九時、昼の十二時、そして夕方四時だよ。朝九時はパンとスープ、摂りたい人だけって感じで。十二時はもうね~ここで全部の栄養摂らせようとするから量が半端ないの。んで、四時は軽食。五時から店始まるからね~」
「ふうん……」
その口ぶりから、どうやら食事は準備してくれる人がいるようだ。……それと同時に、パラダイスハートという店の開店時間を初めて知る。
先ほどまでの調子ならここもすぐに出て次に行くだろうと思っていたのに、ヒッチはまだ何か言い足りないように食堂の中を眺めていた。それを見やって刹那、そのおしゃべりな口はすぐに開かれることになる。
「ちなみにここの調理番の子、ヒストリアって言うんだけど、その子も支配人が行き場を探してた家出少女を拾ってきたって話なんだよ。美人だから絶対ホールのほうがいいっつってんだけどさ、支配人が止めてるみたい。今は通信制の大学で栄養士の資格を取る勉強してるとかなんとか聞いたわ」
頼んでもいない解説をつらつらとヒッチは続けた。
「まったくさ、ほーんと支配人は人がよすぎるんだよね~」
呆れるような口調でそう零すヒッチを、私はまた何とも言えない気持ちで見ていた。思い出していたのは、やはりあの精悍な横顔だ。……話を聞いている限り、確かにここの女たちはひどい扱いを受けているわけではないのだとわかる。この口の軽そうな女でさえ、一言もあの〝人さらい〟のことを悪く言わないのだ。先ほど覚えた違和感がまたふつふつと蘇る。
とにかく、このよくしゃべる女はそのあとも私に懇切丁寧にいろんなことを教えた。渡り廊下を渡って店のほうまで行き、簡単に『ホール』に出たときの作法や、器具の名前などを教えてくれた。――『ホール』というのは接客する店内のことだ。いろんなことを言われたが、幸いなことに覚えることは得意なので、私は大真面目にその話を聞いた。
一通り私に伝えておきたいことを話し終えたらしいヒッチは、再び私たちの部屋がある寮の二階へ戻った。どうやら二階、三階が寝室になっているらしく、支配人の事務所は三階の一番奥だと教えられた。支配人自身もその事務所の奥に寝室があり、そこで寝泊まりしているらしいことも知らされる。
この案内の道中ですれ違った人はそう多くはなかったが、すれ違った人とは挨拶もできた。
「……ところであんた、どんだけ返さないといけないの?」
私の部屋に戻ったあと、ヒッチも私の部屋に押しかけてきて、そんなことを尋ねられた。
今朝聞かされたばかりの衝撃を思い出したながら、私は冷静さを保ったまま答える。
「……九千万らしい」
「わあ、久々に聴いた気がするわ。そんな金額」
口を押えてお上品に驚いて見せるヒッチに、私は「……そうなの?」と純粋な疑問を返していた。――支配人にも『六億で売られた子がいる』と言われていたし、そんなに珍しくもないのだと思っていた……が、あながちそうでもないらしい。
ヒッチは私の部屋の入り口で落ち着きなく立ったまま、腕を組んで話を続けた。
「一応店のノルマは月に百万なんだけど、返せるならどんどん上乗せで返したほうがいいよね。そうなってくると、やっぱり信頼できる客を見つけて外営業もすることね。『外営業』はまあ、客と寝るってこと」
――『客と寝るってこと』
そのあまりにも実感から遠い言葉に、また言葉を詰まらせてしまった。
実は私は生まれてこの方、誰かとそういうことをしたことがない。……だから、いきなり『客を取って寝ろ』なんて言われても、何をどうすればいいのかわからないし……そもそも、それはやはり、少しこわいと感じてしまう。
だって、見ず知らずの男に自分の裸をさらけ出して、身体をすべて明け渡して、好きでもないのに愛し合わなければならないのだろう。……そんなこと、できる気が毛頭ほどもないのだ。
私が動揺して黙ってしまったことにヒッチは気づいたらしい。
「……え? まさかとは思うけど、あんた処女じゃないよね?」
問われて思わず目を逸らしてしまった。二十二にもなって、一度も経験がないことを恥じる気持ちもあったのかもしれない。
しかしヒッチの反応は予想外のものだった。ぱあ、と瞳が輝きだしたかと思うと、その拳を握った。
「ええ!? うそまじで! やったんじゃん!」
当然私は何が『やった』なのかわからず、気が怯んでいた。
「それ支配人に伝えたほうがいいよ! 処女は高値がつくから、支配人が割のいい客を当ててくれる。普通に寝るだけじゃよくて数十万だけど、処女なら数百でも出すって変態はいるの! 絶対支配人に相談したほうがいい!」
あまりにも力説されるものだから、私は怯んだままにまた目を泳がせてしまった。
「……そ、そうなの……」
「当たり前だよ! 少しでも早く自由になりたいでしょ?」
「……まあ」
……とは言ったものの、若い男に『自分は処女です』と宣言するのもいかがなものかと戸惑ってしまった。こんな業界にいればそんな会話も普通なのかもしれないが、私にはまだそんな度胸はない。
「あー、いたいた。書類の準備ができたよ」
「あ、支配人!」
と、何ともタイミング悪く、私の部屋に噂をした支配人が入ってきた。私は驚いて顔を上げてしまった。しかもその間にもヒッチは支配人に身体を寄せ、
「ねえ、この子処女だって!」
そんなことを恥ずかしげもなく大きな声で宣言してくれたのだ。
ぼう、と私の頬は火を噴く勢いで蒸気した。……そんな、経験がないことをそんな明け透けに伝えることはないではないか。
ちらり、と支配人のほうを盗み見ると、珍しいものでも見ているかのような気の抜けた表情で私を見ていた。
「……へえ、そうなの?」
羞恥心でいっぱいいっぱいの私は、とうとう支配人にすら返事ができなかった。
「そう。じゃあ君がその気ならお客探しとくよ」
そして私のその態度からすべて察したらしい。ヒッチ同様に、支配人も何とも軽く話を進めた。
「とりあえず今はこっちの書類にサインして。源氏名も考えないとね」
私の部屋の中にある小さなデスクの側で腰を落として、支配人は何かの書類を差し出した。
「……サイン?」
「うん、ここ」
指を差された箇所は確かに空白になっていて、サインができるスペースがある。私はこの書類がそもそも何なのかと気になり、その上部へ目を移した。そこには『雇用契約書』と書かれていたが、
「まあ、内容読んでも変わらないよ。これは形式的なものなんだ。実際は裏社会のやり方でやってるから、こんな紙切れ、保険にすぎない」
そう言われてそもそも内容を読むのがばからしくなってしまった。どうせいいとも悪いとも言えない立場なのだから、と言われるがままにその書類にサインをした。
その間、支配人の視線を頬に受けているのが気配でわかり、何やらそれを意識してしまい、あえて見返せずにまたそこかしこに目を泳がせてしまう。
「君の源氏名は……、」
支配人が唐突にそれを切り出した。
「そうだね……。……スカイ、なんてどうかな」
「スカイ! かわいいじゃん!」
未だに入り口のほうで見守っていたヒッチが、また大きな声で賛同を聞かせた。
「目の色が空っぽいからさ」
そのヒッチの賛同に照れたのか、えへへ、と零しながら支配人はその由来を教えた。
唐突に『源氏名は』なんて言われても私には何もわからず、とりあえず黙ってその場を凌いでいると、支配人は書類を手に持ち立ち上がった。
「じゃ、それで決定ということで。君は客をとるときは『スカイ』だ。がんばろう」
そうして右手を差し出した。握手を求められているのだと理解した私は、咄嗟にその手を握り返す。にこりと湛えた笑顔が穏やかで、私は支配人の手をとても暖かく感じていた。……なんだろう、なんだか、気持ちが少しふわふわする。
「ちなみに私はマロンって名前でやってるよ〜」
支配人の後ろから顔を覗かせたヒッチが、楽しそうに付け加えた。
つづく