1. 寄せる波④
【R15】
※15歳以上のみ閲覧可。
大丈夫な方のみ次のページへどうぞ。
*
そうやって、私は何とかヒッチのお供を一週間勤め上げた。ここ最近は顔が強張ることも減ったと思う……それでも、やはり上手く笑えるようになったわけでもないが。
とうとう私が独り立ちする日がやってきたのだ。
私のデビュープロモーション開始から三日めで、一人めの指名予約が入ったらしかった。それから日ごとに私に関心を抱いてくれる人は増えていったようで、幸いなことに今では数名の予約があるらしいと聞いた。
初めてホールに出る前のような緊張感を思い出す。どきどき、と胸の鼓動が強く打ち付ける。
一体どんなゲストが私を待っているのだろう。……しっかりと有意義な時間にして、また次の指名に繋げられるような時間にしなければならない。
この日になるまでに、私はヒッチが教えてくれたヘアメイクを完全に自分でできるようになっていた。キャバクラ流儀の少し濃いめのメイクもそうだ。支配人が発注してくれた私サイズのドレスや靴だってしっかり揃っている。――大丈夫、問題はないはずだ。私は今日から、一人のキャストとしてしっかり売上をもぎ取らなくてはならない。
店が開店する少し前、支配人が私の部屋へやってきた。その手には携帯電話が握られており、今日から一人前になるから私専用のそれが支給されるとのことで、その携帯電話を手渡される。そういえばヒッチも店の前後で携帯電話をいじり、その日来てくれたゲストに感謝の旨を伝えているのだと言っていた。……そういう意味でも、この仕事に携帯電話は不可欠なのだろう。
一応の注意事項として、通話やメッセージの記録が支配人に閲覧できるような設定になっているので、店の営業以外には使うなということを告げられた。発着信も支配人が認証して登録された番号にしかできないようにしているので、登録したいゲストの情報を申請書に記して提出しなければならないという説明も受ける。……おそらくここで働く女たちの性質上、通報や逃亡のリスクを減らすためなのだろう。
そうしてついに夕方の五時を回り、店が開店する時間を迎える。私の最初の指名は七時半ごろに入っていると聞いていたので、バックヤードで今日のホールの様子を見ていた。どんな客なのだろう。ヒッチの隣で経験したゲストは概ね皆明るく、そして気さくな人たちだった。……そういう人なら、何とか対応もできるだろう。大丈夫だ、落ち着け。
緊張に身体が強張っている自分を宥めて、静かにそのときを待つ。刻一刻とときは過ぎていき、ついに二コマ目の時間が終わりを告げた。次がいよいよ三コマ目、私の初めての指名客との時間だ。
そわそわとした心持ちを何とか抑えようと、私はホールへ続く入り口の横で準備を進めていく煌びやかな空間を覗き込んでいた。一人、また一人とゲストたちがそれぞれの席に案内され始めている。
「……スカイ、いよいよだね」
背後から声がして、私はびく、と肩を跳ねさせてしまった。だがその声ですぐに誰かはわかったので、忙しなく身体を向けた。
「支配人」
「今からの予約の方は、一番に予約を入れてくれた人らしい。きっと君に会うのを楽しみにしていた人だよ」
おそらく私の背中を押そうと駆けつけてくれたのだ。支配人はいつものように優しくその瞳を細めて、私を安心させるように見ていた。その眼差しは自然と私の心の中も穏やかにしてくれる。
「……はい」
「大丈夫、君ならできる」
「はい」
肩を叩かれて、喝を入れられる。よし、と私の中に勇気と力が湧いてくる。大丈夫だ、大丈夫。相手も人間で、周りにも万が一のときのためにボーイも待機している。大丈夫だ。
ジジ、といつものように支配人が装着しているインカムから機械音が漏れた。また胸元のマイクを握り、支配人が「了解」とその通信に応答する。それから手を放しながら私の視線をしっかりと捉え、
「――スカイ、十二番テーブル。シャロス様」
「……はい」
「がんばってね!」
まるで心から応援してくれているのを見せるように、両手の拳を作って固く結ぶような仕草をした。
私は深く頷いてその激励に応え、深呼吸をしてからホールに足を進めた。……この入り口を一人で潜るのは初めてだ。こんなにも心もとなく、緊張に満ち溢れいてるのだなと心臓が騒ぐ。
十二番テーブル、十二番テーブル。
まだ距離があるときから該当のテーブルへ視線は釘づけで、そこに座っている中年の男性を捉えた。少し小太りの男性だ。おそらく四十代くらいなのだろう、その毛量はお世辞にもふさふさとは言い難い程度しか残っていない。典型的な中年男性。スーツはくたびれ切ったグレーのもので、長年使い古してきたのがよくわかる。……この人が、私の初めての指名客となる、シャロスという男だ。
かつかつ、とヒールを鳴らしながら近づく私に、そわそわと辺りを見回していたシャロスという男が気がついた。とても嬉しそうな表情でその場で立ち上がり、私がテーブルの横に着くころには私を歓迎するように手を伸ばしていた。
「ス、スカイちゃん、初めまして……僕フシン・シャロスって言うよ」
その手を握り返して握手をする。手汗が滲んだ手のひらの感触に気を取られそうになり、なんとか自分を保った。
「シャ、シャロスさん初めまして……ご指名ありがとうございます」
「そりゃもう、そうだよお」
いつもの自分を意識して、低めのトーンで男に返した。男もにやにやと口角を持ち上げて笑っている。挨拶を交わしながら、私がソファに座るような仕草をして見せると、男もその場でまた腰を下ろし直した。
むわ、と男のほうから濃い臭いがした。……これは……体臭か……? 顰めたい表情を意図して固める。今、顔を歪ませてはだめだ。
「ここへは初めてですか?」
私はなんとか話を繋げようとこの男に投げかけた。
手ではテーブルの真ん中に置いてある酒のボトルとグラスを引き寄せて、酒を振る舞う準備をする。
男はぐい、とソファを揺らして、私との距離を詰めるように寄ってきて、
「昔来たことがあったんだけどねえ」
少し粘っこい独特の喋り方で答えた。
「そのときは好みの子がいなくてねえ。でも今回君の写真を店頭で見つけてさあ。居ても立っても居られなくて。会えて嬉しいよお、スカイ」
力に任せて肩を抱かれる。ぐらぐらと身体を揺らされ、さらに体臭と思われる臭いに不快感を刺激された。
「あ、ありがとうございます」
顔が近い近い近い。なるべく自然に見えるように自分の顔を反対に傾け、肩に回された手をするりと避けた。
「僕のことはフシンって呼んでよ」
「は、はい……フシン、さん……」
「ぐへへ、スカイ!」
「……はは……」
男はこれでもかと言うほど嬉しそうにニヤついた。その話し方と相違ない粘っこい笑い方に、内心で警戒心が力いっぱいに警報を鳴らしていた。
私をなんとかこの場で正気を保たせていたものは、これが私の指名客だという責任感だ。こんな男でも売上に貢献してくれる大事なゲストであり、私は邪険に扱うことを許されていない。それを何度も念じて自分に言い聞かせる。
「で、スカイは男の人のどの部位が好きなの?」
「? 部位?」
唐突にわけのわからない質問が飛んできて、私はその詳細を求めた。男の人を〝部位〟ごとに見たことはないので、その問いの意図するところがわからない。
しかし男は私に身体を寄せて、
「そうだよ。男の人のどこに痺れる~みたいなのお。ほら、あるでしょお? 男の人のここを見たらドキドキしちゃう〜とかあ」
そしてげへへ、と下品な笑みをこぼされる。『男の人のここを見たらドキドキするとか』――そう言われて何故か脳裏に支配人の姿が浮かんだ。意味がわからず慌ててかき消して、目の前の男に意識を向けた。
そんな部位で考えたことなんてないので、私は素直に「え、いや……特に……」と返したのだ。
そうしたら今度はこの男、さらに顔を寄せて、私の顔を覗き込むように笑った。
「うへへ、やっぱり大きなおちんちんが好きなのかな? はひっ」
――『おちん』……!?!?
「……は?」
あまりにも突然のことで、私は愛想も配慮もなくそう溢してしまった。
えと、何か言われたとき、ヒッチは笑い飛ばしていたが、これは……これは、ちょっと上手く笑い飛ばせない。いや、笑い飛ばせればどんなに楽だったか。
いやしかしなんなんだこの男は。いきなりこんな下品な――!
「僕、それなりに大きいよお」
「は、はあ……」
男の粘ついた話し方で、また興味のかけらもないことを続けられる。どう対応していいのかまったくわからない。……ど、どうすればいいんだ? こんな下品なことを言われたとき、どう対応すればいい?
思わず助けを求めてしまって、私はホールの中を見回した。壁際にボーイが注意深く周囲を警戒して並んでいる。……だが、ボーイを呼ぶほどのことなのかはわからない。どう対応するのが正解なのか。
頭の中でぐるぐるしていたが、男は構わずその下品な言葉を続けていく。
「へへ、じゃあ、どんなプレイが好き? やっぱり君はさ、上に乗るほうが好きなのかなあ」
「う、上?」
プレイだの上だの、具体的な意味はわからないが、とても卑猥な言葉をかけられているのは肌の感覚でわかる。ぞわぞわと鳥肌が立ち、寒気が背筋を凍らせる。
「僕は最近はねえ、ろうそくの良さに気づいてしまってさあ。あのじわりと熱が広がる感じ、たまんないんだよねえ、はぁっ」
「そ、そうですか……」
話しながら鼻息が荒くなっていくこの男。文末には何を考えているのか熱い吐息まで漏らして、私はどう対応すべきなのかと必死に考えた。
「ねえ、僕さあ、小さいけど会社の社長なんだ。資産はそれなりに持ってるよお」
「は、はあ……」
今度は何を言い出すのかと思えば金持ち自慢か。だが、これまでの下品な言動に比べればかなりましなので、私はここで褒めちぎればこのままことが進むのかと考えた。
だがその考えは甘かった。男は先ほどのように私に顔を寄せて、荒い鼻息のままぼそぼそと呟いた。
「ねえ、それでさ、君と寝るにはいくら出せばいいのかなあ? はぁ、はぁ」
さわり、と違和感が膝に乗って視線を落とせば、私の膝の上に男の手のひらが乗っている。そこを摩るようにさわさわと動いて、私のスカートの丈で遊んでいるようにも見えた。
――わ、わ、気持ち悪い!
耳元で聞こえる荒い息と、密着させられている身体、嫌らしく撫でられる脚……すべてが気持ち悪くて、そして怖くて、私はすっかり気が動転してしまった。こういうときはどうすればいいのか。ヒッチのゲストにこんな人はいなかった。ヒッチのゲストはこんなのではなかったのだ。先ほどとは比べ物にならないほどの悪寒が身体を駆け巡る。
それでも私は必死にこの男が気を悪くしないよう、その手を両手で握って膝から退けさせた。
「え、えっと……そういうお話はしないので……」
そして意図的に少し横にずれて二人の間に隙間を作る。もう一度酒に手を伸ばして、作業してますよアピールを試みた。
だがそんなことはやはりお構いなしだ。男は私が隙間を空けた分だけまた身体を寄せて、私が何としてでも合わせないようにしていた視線も気にすることなく、横顔をまじまじと覗き込んでくる。
「そうなんだあ? はあ、君のその冷たい目で見下されたら気持ちいいだろうなあ……はぁ、はぁ」
その恍惚に浸るような声だけで怖くて、男の顔なんて見られるわけがない。
「もうゾクゾクしてきちゃったよ、はは」
今度は男の湿った手のひらが背中をさわさわと撫でまわしてくる。
――逃げたい。……逃げたい。こんな、こんなゲストなんて聞いてない。
グラスに氷を移していく手が微かに震えてしまう。
プライベートゾーンに触ってきたらボーイ呼んでいいと言っていたが、こういうセクハラ発言の場合はどうなのだ。こういうゲストは皆、我慢して許容しているのか。わからない、どうしていいかわからない。
「ねえ、ちょっと手を見せてよお」
「――手?」
氷をグラスに入れるために握っていたトングを強引に手放させ、男は私の手のひらを握った。一体何をされるのかと不安でいっぱいだった私の手を本人の目の前まで持って行き、両手でふにふにと感触を確かめるように触っている。
「わあ、ちっちゃくてかわいい手だねえ」
またしてもこの男の真意がわからない。何故唐突に手なんか気にするのか。
「ほかの子がつけてる派手な付け爪はつけてないんだねえ。あれ、行為中にすぐ剥がれそうで邪魔だよねえ」
そこまで言うと、今度は徐に私の手のひらをその顔の前まで持って行き、すう、と息を吸い込んだ。
「あ~いい匂い……」
「ひっ」
それからも、すうはあすうはあ、と私の手のひらの匂いを嗅ぐような動作を続けるので、私は抑えられずに声を出してしまった。手を引いてしまいかけたが、男が思いのほかしっかり握っていたので、解放されることはなかった。
しかもその男、今度は私のことをちらりと盗み見ると、またにやりと笑んで私の手を下ろしたのだ。まだ男の手に握られたまま、私の手は男の腹の前辺りに持っていかれる。
「この手かあ……この手はさあ――、」
私の指先に触れるものだから、その様子を窺っていると、男は私の手のひらを包み込んで筒状のものを握らせるような形にした。
「どうやって〝握る〟のかなあ……はぁっはぁっ」
ゾクゥ、と今日一番の悪寒が背筋を走った。
そう、これはおそらく〝そういうこと〟を妄想しているのだろう。私の手を使って。
私は今度こそ慌てて手のひらを引っ込めてしまい、
「あ、あの! お、お酒! 飲まないんですか!」
無理やりに話題を変えようとした。この男はおそらく私の反応も含めて楽しんでいるのだろう。こんな下劣な男と真面目に会話をしようとしてもおそらく無理だ。私はこの男にたらふく酒を振る舞って、しゃべることができなくなるくらい酔わせてやろうと思った。
ヒッチのゲストはこんなのではなかった。なら自分でどうにかしなければならない。正直泣きそうなくらい気持ちが悪いが、何とかこの時間を乗り切らねばらないのだ。
「ええ、いいよお。君のおっぱいが飲めるならほしいけど、そんなのメニューにないもんねえ、あはは」
ぞわぞわと悪寒が止まらない。この男、本当に最低だ。どうしてこう次から次へとこんな下品なことを思いつくのか、私には理解ができない。――いっそボーイを呼ぶか? どうすればいい!? この男相手に一時間はかなりきつい。
「ほら、料金にお酒代含まれてますから、の、飲みましょう!」
私は大慌てで男のグラスに酒を注いだ。それから無理やりそのグラスを押しつけて男に持たせる。確認なんてしていないがそんな余裕もなく、私の分のグラスにも酒を入れて、
「はい、かんぱーい!」
強引にグラスの端をぶつけてやった。私はそのままそのグラスを口に運んで、男の行動が見えないように努めた。
その隣で、ぐへへ、とまた下品な笑みが聞こえてくる。
「もう君はあ、照れ隠しかなあ? 君の瞳に乾杯、なんちゃってねえ」
ようやく男がグラスを呷った気配がする。私は私のグラスを置いて、男のグラスにさらに酒を追加する準備をした。
しかし男はグラスの酒を一口しか飲んでおらず、あまり追加できなかった。こんなのでは足りない、もっともっと、前後不覚になるほどに飲ませなければ。
私が心の底からどうすればこの男に酒を飲ませられるか考えていたというのに、この男ときたら、「ねえ、君彼氏いるのお?」とまたいきなり突拍子もないことを尋ねてくる。
「ねえ、彼氏いてもさあ、お金出したら寝てくれるよねえ? じゃないと、こんなところで働いてないよねえ?」
――ま、またこの話だ。
寝るとか寝ないとか、私にはそんなことできるのか、そもそもそれがわからないのだ。……確かにやったほうが効率よく金は返していけるのだろう。……だけど、まだ〝そういうこと〟に対しての心の準備が整っていない。次から次へと私を追い詰めるようにその話題を出されるのが恐ろしくて堪らない。
だから私はそれを誤魔化すように「え、いえ……」と曖昧に答えた。
男はテーブルの上にグラスを置き、私のほうへ身体の正面を向けた。しかも、その体勢から私の肩に手を置いて、
「なんならさ、僕が君のノルマ分出してあげるからさあ、彼氏と別れなよ。僕がいつも指名してあげるからあ。ね、いくら必要なのお?」
ぐい、と出会い頭にされたように、肩に腕を回されて引っ張られた。
動揺で忘れていたが、そういえばこの男の体臭がひどかったことを改めて知ってしまった。……しかもこんな気色の悪い男だと理解した今、その匂いは先ほどよりも強烈に感じてしまう。おえ、と胃が押し上がるほどの不快感が湧き上がった。……だめだ、吐き気がしてきた。
「いや、そういう感じじゃ……ないんで……」
私はまた男の腕を振りほどいて距離を作ろうとした。
「もう、つれないなあ……僕はこんなに興奮してるのにい」
男がぐふふ、と下品に笑って酒の入ったグラスに手を伸ばした。もうそのままそのグラスを握っておいてくれ、と心から願う。
頼む、とにかく早くこの時間よ終われ、と心底、それはもう深いところから願うしかなかった。
地獄のように感じた一時間がようやく終わりを告げ、あのド変態の男が退店したあと、私はバックヤードのトイレに駆け込んでいた。ひどい体臭と下品な物言い、執拗に触れた身体への不快感のせいで、すっかり気分はグロッキーになっており、あまつさえ込み上げる吐き気に抗えなかったからだ。
「お゛っおえ……っ」
嘔吐いてしまう身体を必死に落ち着けようと深呼吸を何度もする。これならいっそ吐いてしまったほうが楽かもしれないと思うほど、強烈な気持ちの悪さだ。
だが、嘔吐くばかりで実際に戻すことはなく、私は次の時間が始まることを懸念してトイレからふらふらと立ち去った。
「――大丈夫? 飲みすぎた?」
トイレから出ると、そこには心配そうにこちらを見ている支配人がいた。中から誰かが嘔吐いているのが聞こえて気になっていたのだろう。
私は気持ちが悪くて顔を上げていることすら困難だったため、急いで顔を背けた。……何より、こんなグロッキーな顔を支配人に見られたくなかった。
「いえ……平気です……」
「待って。顔色悪いよ。本当に平気?」
視線を上げると、やはり支配人はとても心配そうにこちらを見ていた。私はその表情を見るなり、何故か唐突に泣きたくなってしまった。……こんなの、まったく平気ではないが、だったら一体どうしろと言うのか。私はここで金を稼いで、いずれ自由の身にならなくてはならないのに、大丈夫でなかったら、どうしてくれると言うのか。
――わからない。逃げたい。本当はこんなこと、できないし、したくない。
ジジ、と支配人のインカムから聞き慣れた機械音が鳴った。悪夢の始まりを告げる銃声のように聞こえた。
「あ、スカイ、指名だって。行けそう?」
支配人が私にそんなことを確認してくる。――私に選択肢があるというのか。
「……行きます」
できる限り心を押し黙らせ、私は機械のように支配人に返す。
「……じゃあ、十番テーブルだって。バーナード様」
「――はい」
私は入り口横の姿見で自分の全容を確認だけして、もう一度深呼吸をした。……まだ気持ちの悪さは拭えていなかったが……大丈夫だ、誤魔化せる程度には落ち着いている。次のゲストがまたあのシャロスとかいう男だったら逃げ出しているところだが、次もあんな変態とは限らない。大事な指名客だ、私はなんとか乗り越えなければならない。
*
結局、初日に入っていた私への指名は二人だけだった。二人目のバーナードというゲストは一人目に比べてかなり内気だったようで、常識と節度を持ったやり取りをしてくれた。口下手だったらしく、口下手二人で話題に詰まったりもしたが……シャロスという男のような人物でなくて本当によかった。
翌日も予約が数件入っていると聞いていたが、自分を落ち着けるために昼食のあとは談話室で読書をしていた。ここ最近読み進めているシリーズものだ。今の私にとって、この時間が一番気持ちが安らげる時間となっていた。……ヒッチはまた同伴があるからと準備に勤しんでいる。
「――やあ、隣座ってもいいかな」
文面に熱中していると、頭上から声が降った。不意を突かれて顔を上げると、そこには店の開店時間に着ているスーツとは違う、別のスーツを着ている支配人が立っていた。目が合うとにこり、と柔らかい笑顔を作ってくれて、私は思わず目を逸らしそうになった。
「……支配人」
「うん。あ、本を読む邪魔をしちゃったかな」
「あ、いえ」
そう言って、私の向かいの席を引いた。がた、と音を立てながらそこに座り、スーツの内ポケットへ手を伸ばす。
「煙草失礼するよ」
そして私の目の前で、煙草を一本吹かし始める。私はこれまで喫煙経験はないので、どんな銘柄なのかは予想できない。しかし、微かに甘い臭いがするだろうか。
煙草の端を口に咥えて、静かに息を吸う。そのときに見えた喉仏がやけに目に留まり、気づけば息苦しいような気がしていた。……おそらく煙草の煙のせいだ。私はふらりと視線を外して、行き先を探した。
「ごめんね、半年間は外出禁止なんてね。つまらないよね」
支配人が煙草の合間にそう切り出した。
ここ最近この読書に没頭していた私は、そこまでの孤独感も退屈感も感じていなかったことを自覚して、「……いえ、まあ……」と応えておいた。そんなことはないときっぱり言い切るには、まだ少し警戒心が残っていたのかもしれない。
「――ねえ、アニって大学で工学やってたんでしょ? 何か夢があったの?」
支配人は興味津々といった眼差しで私に尋ねた。少し身を乗り出していたものだから、私は反対に少し身体を後ろへ引いてしまった。それから「夢……?」と反芻しながら、膝の上に置いていた本をテーブルの上に置く。
私はただなんとなく過ごしていた大学生活を思い返していた。
「いや……ただなんとなく……大学の卒業証書がほしくて、別に専攻は何でもよくて……」
正直に経緯を説明した。そう、私は一人暮らしができる大学ならほとんどどこでもよかったのだ。だから比較的入りやすそうなところを選んだ。
ちらり、と支配人の反応を窺った。幻滅されるかと思いきや、そんなこともなく、
「ああ、そうなんだ……それなのに悪いことしたね」
支配人はまた煙草を口元に運びながら、少し申し訳なさそうに笑った。
「でも何かやりたい仕事とかあったんじゃない?」
続けて問われる。……だが、今さら〝やりたい仕事〟なんて考えたところで、一生ここでお金を稼がなくてはならない可能性もあって、そんなこと、考えるだけ無駄なような気がしてしまう。今さら何のために夢を持つというのか。
「今となってはそんな話しても意味はないから……、」
だから、素直にこの気持ちを吐露した。なんとなく、支配人のまっすぐな眼差しを見ていられなくて、手元に視線を落としてしまう。
「そんなことないよ」
芯の通った、凛々しい声が談話室に響いた。引かれるがままに顔を上げる。
「君もいつかは自由の身になれるんだ。そのときに何の展望もないとつらくなっちゃうよ」
「展望……」
「そう、展望」
どうしてこんなにもまっすぐな眼差しができるのだろう。きらきらと海の水面が輝くような深い青の瞳に、私は釘づけになってしまった。この生き生きとした瞳を見て、この人が裏社会の人間であることを誰が信じられるのだろう。まるで無邪気な眼差しに、私は簡単に吸い込まれていた。……まただ、また、息ができなくなったようだ。
――は、と我に戻る。
支配人が煙草を吸うために視線を外したからだ。
「……今は……ない……」
「そっかあ」
私は思い出した会話の続きを紡いで、支配人もそれを否定することなく相槌を打った。
それから、ふう、と息を吹き出してから、
「ねえ、アニは食べ物で何が好き?」
一気に声の調子を変えて笑った。
唐突なその問いに私は不意を突かれ、「食べ物?」と間抜けな声で返してしまった。支配人も「うん」とはっきりと念を押す。
私はその問いにはすぐに答えが浮かんでいた。……そうだ、支配人と初めて会ったときも、あの買い物袋にはしっかりとそれらが詰まっていた。
「……ドーナツ……アップルパイ……」
「はは、甘いものが好きなんだ」
「うん、まあ」
特に、最寄りのスーパーの中に併設されていたパン屋のアップルパイは本当に美味しかった。……まだ一週間ほど前でしかないというのに、既に懐かしい気持ちになってしまう。あの日常は、もう遠い昔のことのようだ。
支配人はまた煙草を一吸いしたあと、
「そっかあ。じゃあクッキーとかも好き?」
「……好き」
「はは、やっぱり!」
楽しそうに笑ってくれた。その笑顔を見ていたら、なんとなく心が凪ぐのがわかる。なぜだろう……支配人が笑うと、私も嬉しくなっていることに気づいた。
支配人は吸い終わった煙草の吸殻をまた携帯灰皿に押し込んで、
「いいね。お店のおつまみにももっと甘いおやつ増やしてみようかな」
さらに楽しそうに続けた。
「お店の?」
「うん。少しでも君が接客しやすくなるようにさ」
それを聞いて、私は不覚にもどきり、と心臓が高鳴ってしまう。
またしてもその穏やかな笑みは私の視線を捉えていて、しかもそんな眼差しで私のことを考えてくれていたのだと知ってしまったからだ。……こんな不愛想な女のために、どうすればいいかと試行してくれていることに、不意を突かれたのだ。
ぼう、とわけもわからず頭に熱が昇った。頬が熱くなるのを自分でも感じている。
「あ、ありがとうございます……」
「ううん、僕の仕事だからね」
持っていた携帯灰皿をまた内ポケットに戻しながら、支配人は軽く付け加える。――そうだ、これはあくまでこの男の仕事であって、別に私を個人的に気にかけたわけではない。そんなことわかっている。
「――ところでアニ、何を読んでるの?」
また声の調子を変えて、支配人が身を乗り出した。
テーブルの上に置いていた本を持ち上げて、「ん、」と声をかけながら、ハードカバーの表紙を見せてやる。
それを見るなり、支配人はまたいっそうきらきらと目を輝かせて、「おお、そのシリーズ!」と声を上げた。
「いいね、元々好きなの?」
「いや、初見です」
「そうなんだ。そのシリーズ、ハリウッドで実写映画化されてるんだよ。ここにもDVDがあるはずだ」
支配人は軽い足取りで本棚のほうへ歩いて行き、端の方に収納されていたDVDのコーナーに寄っていく。それから並んだ背表紙を指で撫でながら何かを探り、「あ、」と目当てのものを見つけて取り出した。
「ほら、これ。見たことないよね?」
そのDVDのケースを私のほうへ向けて見せてくれる。
そこには有名な俳優が役に扮した姿で映っていて、背景もこのシリーズの世界観が広がっていた。おそらく場面的には、このシリーズの一巻の内容なのだろう。
「はい、ないです」
「そりゃいいや。じゃあ今度一緒にここで見ようよ」
「一緒に?」
そのケースを持ったまま、支配人は先ほどまで座っていた席に戻ってくる。そしてそれをテーブルの上に置いた。
「そ。君の反応が見てみたいからさ。どう?」
尋ねられたところで、私はどうせいつも暇をしている。まだ先輩の女たちのように同伴などしたこともなく、またする予定もない。ここで読書をしているのも、その暇さ故だ。
私の返答を楽しみにしているらしい支配人に、私は少しくすぐったいような感覚を噛みしめながら応えた。
「は、はあ……暇なので」
「じゃあ決まり!」
またとても楽しそうに笑ってくれた。
――きっと支配人は〝半年は出禁〟である私のことを按じているのだろうなと思った。ヒッチからも『人がよすぎる』と評される人なのだから、きっとそうなのだろう。
「明日は予定あるからだめなんだけど、明後日なら時間開けられるからさ。またここに来るよ」
「……はい」
支配人は席を立ち、先ほど取り出したDVDケースを元の位置に戻した。それからまた私のほうへ歩み寄り、
「じゃあ今日は邪魔したね。また明後日、ゆっくり話そうね」
いつまでも私に背を向けず、後ろ向きに歩きながら談話室の出口まで向かった。
それから出口の手前でまた「じゃあね」と手を振り、廊下へ姿を消した。
私はその余韻を少しの間、眺めてしまった。……あの人は本当に、私たちのことで一生懸命になってくれるのだろう。そういう信頼感のようなものが、私の中にも芽生え始めていた。
つづく