1. 寄せる波③ 廊下のほうではばたばたと足音が行き交っていた。おそらく五時よりあとのコマから入る女たちが忙しなく準備をしているのだろう。私はこのドレスでどうしたらいいかもわからないので、ただ静かに時間が過ぎるのを待っていた。本を一冊くらい持ってくればよかったなと何度思ったか。その間、ずっと落ち着かず、そわそわした。
その内にようやく聞こえてきたのだ、女たちの控えめな足音とは違う、もう少し逞しい足音が。ついに来たかと私は部屋の入り口を睨みつけて硬直してしまった。
――コンコン、と案の定ノックの音が入り込む。
「アニ、そろそろ降りよう」
扉の向こうから聞こえたのは、もちろん支配人の声だ。……いよいよだ。いよいよ私の初出勤のときが訪れる。
急いで扉へ駆け寄り開くと、先ほどとは違う、また一段としっかりした黒スーツを着て、耳元にインカムを着けた支配人が私を待っていた。
心の準備ができているのかと確認するように覗き込む支配人に、ひどく緊張していた私は何も返すことができなかった。
それを察したのか、支配人が一歩だけ足を引いて廊下のほうを手で示してみせた。
「……さあ、行こう」
「……はい」
ここはまだ土足で上がる領域ではないので、先ほど私のために支配人が持ってきてくれた靴は、手に持って階段を降りた。
渡り廊下手前のスペースで青のエナメルの靴を慌てて履く。あんまりにも私の手つきが頼りないからか、支配人は「そんなに焦らなくて大丈夫だよ」と笑って見せた。……青のエナメルの靴はぶかぶかだった。
そのまま支配人の後ろについて店舗側へ渡る。ホール手前のバックヤード入り口から覗き込むと、ちょうど女たちが客――ここでは『ゲスト』というらしい――を見送っているところだった。早々に見送りを終えた女から順にこちらへ向かってくるので、支配人と二人で少し道を避けた。
女たちの流れの中にヒッチの姿も見つける。しかしヒッチは私たちに気づいていない様子で、支配人が「――ヒッチ!」と呼びかけていた。そこでようやくこちらへ注目したヒッチは、私を見てにやりと口角を上げた。それからカツカツとヒールの音を鳴らしながら、私たちのほうへ歩み寄った。
ヒッチもヒッチで、また派手な装いだ。
「わ、なあにい。随分と見目よくなったじゃない」
私の姿を足の先から頭のてっぺんまで眺めて、楽しそうにそう宣った。まるで支配人がやっていたのと同じだ。
見目がいいかどうかよりも、私はこんな派手な格好は人生で初めてだったので、その好奇の目が非常に気になった。自分の身体を隠すように腕を組み、ふらふらと視線が泳ぐ。
「……落ち着かないよ」
「あはは、慣れるよ」
軽く言ってくれるもんだ、と内心で不貞腐れていた。
「……いいね? 君には一週間はマロンの隣について、接客を学んでもらう。君が自分のゲストを取り始めるのは来週からだ」
穏やかでありながら芯のある声で支配人が言い、私はその声につられて視線を定めた。
「はい」
「私のお客さんなんだから、ちゃんと愛想よくしなさいよ」
ヒッチからもダメ押しと言わんばかりに背中を押されるので、
「……は、はい」
非常に居心地の悪い責任感を抱いてしまった。
ここへ来て緊張は最高潮に達していた。ただでさえ男が苦手だというのに、見ず知らずの男に愛想を振りまいて金を巻き上げろなんて、私に向いている仕事としては世界で一番遠いだろう。
ジジ、と微かに機械音が聞こえた。支配人がインカムを押さえて顔を上げたので何かの通信が入ったのだとその顔を見やった。支配人のそれはすぐさまヒッチに向けられた。
「――マロン、八番テーブルにご指名。マクフライ様」
それを聞くや否や、
「りょ~うか~い。……マクフライさんて、あの人かな。ずいぶん久しぶりだわ」
ヒッチはくるりと踵を返した。ホールへ続く入り口の脇にある姿見の前まで駆け寄ったのを見て、私もそのあとを追おうとした。だが私は背後から「スカイ、」と声をかけられて振り返った。支配人が改めて私のほうへ歩み寄る。
「いい? 何度も言うようだけど、うちの店はプライベートゾーンへのお触りは厳禁なんだ。もしゲストが触ってくることがあれば、すぐにボーイを呼んで」
何度かヒッチにも支配人にも言われていたことを念押しされる。そんなによくあることなのだろうかと首を傾げそうになる。
「……はい」
「同伴、アフターはノルマなしの自由。売春の斡旋も強要もこちらからは基本的にはしない。要望があるときだけ。だから自分の判断で自由にして。ただ、店のノルマを割るようならこの限りではないからがんばってね」
つまり、店のノルマを割るようなら、強引にでも売春をさせられてしまうということなのだろう。私はそれを肝に銘じ、腹を括るように深呼吸をした。
「……わかりました」
「はい、じゃあいってらっしゃい」
その優しい手のひらで力強く背中を押される。
既に姿見で自身の身なりを確認し終えたヒッチは早くもホールに出ようとしていた。私は慌てて自分の身なりも確認して、ヒッチのあとを追う。ぶかぶかの靴が脱げないように急いで歩いたので、きっとかなり不自然な歩き方になっていただろう。派手なホールの中を左見右見してしながら進む。各テーブルの上部の天井から吊るされたシャンデリアや、壁掛けの照明やテーブル、いすなどに施された金の装飾。大きな音で情緒のかけらもない音楽が鳴っていて、あたかも別世界にいるような錯覚をさせられた。この騒がしいホールにゲストは入場し終えていて、各テーブルに担当の女――こちらは『キャスト』というらしい――が相席していく。
急いで駆け寄った私は、ヒッチが八番テーブルのゲストの元にたどり着く前に追いついた。まるで親鳥を見失わないように引っ付く雛のように、不安を抱えながらヒッチの背中をただ追った。……そしてついに、八番テーブルに到着する。
「わあ、マクフライさん久しぶり~!」
「マロンちゃん、久しぶりになってごめんね!」
半円形のソファに腰を下ろすより先にヒッチは両手を掲げて再会を喜ぶ素振りを見せた。男もそれに合わせて立ち上がり、ヒッチを歓迎するように両手を繋ぐ。
「いいええ。そういえばこの間、娘ちゃんにプレゼントするって言ってたの、喜んでもらえたの?」
ようやくゲストの隣に腰を下ろしたヒッチに倣い、私もヒッチの隣に腰を下ろした。
ヒッチは終始明るいトーンのままゲストに投げかけていたが、その問いの内容に虚を突かれたのか、ゲストが一時何かを思い出すように言葉を詰まらせた。
「え、ああ。うん、あれね。喜んでいたよ」
どうやらしっかり思い出せたようだが、ゲスト自身が忘れていた事柄すら覚えているヒッチには、純粋に驚かされた。
ヒッチがゲストにお酒を振る舞い始め、
「ああ、私もお酒いただいちゃっていいですか〜?」
明るく人懐っこい笑顔でそう尋ねた。ゲストも「もちろんさ!」とすぐさま返して、ヒッチも続けて「ごちになりまーす」と笑った。
キャバクラではゲストの飲料は料金に含まれていると聞いた。だがキャストの飲料は別料金になっており、それを出してもらうことで売上にするのだと説明していたのを思い出す。……なるほどこういうことか、と心に留めた。
「あ、この子は?」
唐突にゲストの視線が私のほうに向いた。驚いて肩を竦めてしまう。
「ああ、この子はうちの新人! スカイって名前で来週デビューしまーす! 私が育成担当なの」
「へえ、スカイちゃんか。よろしくね!」
予期せぬタイミングで話の中心になってしまった私は、恐る恐ると「あ、よ、よろしく……」と言葉を絞り出した。ヒッチが敬語を使っていないから、私もそれに倣ったつもりだが、どうもぎこちなくなってしまう。笑顔を作ろうにも緊張が勝り、上手くいったとは思えない。
「で、スカイちゃんはいくつ?」
それでもゲストはヒッチのように明るく続けてくれる。
「二十二」
「二十二! もしかして大学生~!? あ、いや、聞かなかったことにするね! はは!」
「はあ……」
どうもこのテンションには慣れない。楽しそうにしなければいけないのはわかっているが、自分を上手く偽ることができず、切り替えが困難を極めた。
「趣味とかあるの?」
ゲストはこんな私でも仲良くしようとしてくれているのか、さらに質問を続けた。彼みたいなゲストばかりなら、慣れれば上手くやっていけるだろうか。
とりあえず私は会話を途切れさせないよう、急いで「しゅ、趣味……?」と反応を見せた。
緊張のしすぎだ、私は私の趣味はなんだったかとしばし考えてしまった。……今は奪われてしまった日常の中で、私がずっと続けてきたこと……それは、確かにあったはずだ。
閃きに任せて私は口を開いた。
「……か、格闘技」
するとゲストは一瞬少し反応に困ったような顔をして、
「か、格闘技? はは、お、面白いねえ」
無理に笑っているような苦い笑顔を作った。
おかげで私は悟る、今の返答はおそらく失敗だったことを。
「ま、マロンちゃんはまだ趣味のアクセサリー作り、続けてるの?」
その証拠にゲストは私との会話を諦めて、その身体ごとヒッチのほうへ向け直したのだ。
せっかく私に気を遣って話しかけてくれていたのに、私としたことが……ひどく動揺してしまう。
それはそうだろう、ここへは〝女性〟に会いにきているのだから、格闘技のような〝男性的〟な趣味を答えられても困るだけだ。……かと言って、私はほかに誇れるようなものはない。手先がさほど器用ではない私は、ヒッチのような繊細な趣味は持っていない。
「ええ~最近なんか乗らなくてえ、できてないんだよねえ」
「そうなんだ~! でもマロンちゃんなら大丈夫だよ! いつも華やかだし、また作れるようになるよ!」
楽しそうに続ける二人の会話の調子を聞いて、上手く対応できない自分に落胆した。耐えられず俯いてしまう。……やはり、私には向いていない職業なのだ、これは。
そこでふと気づいたことがあった。なんとヒッチの膝、そこにゲストは手を乗せていたのだ。確かにそこはプライベートゾーンではないが……ヒッチはあんな風に膝に手を置かれて嫌ではないのだろうか……? あれも我慢しなければならないのか。うんざりしてしまう。
その光景が気になったこともあり、ヒッチとゲストの会話はいまいち頭に入ってこない。楽しそうに会話している二人が、その心中で交わしている感情とはいったいどんなものなのだろう。ヒッチは心の中で、この男のことをどう思っているのだろう。……どういう心構えで、こういう男と相対さなければならないのか。
「ところでマロンちゃん――」
ゲストがヒッチに身体を寄せるように声をかけた。そしてヒッチの耳元でこそりと何かを耳打ちする。それを聞いたヒッチは私にも聞こえるほど大きく息を吸い込み、
「ええ、もうやだー! マクフライさんったらいけない人! あははっ」
大声で笑った。
……なんだろう、何か言われたのだろうか。いけない人ということは、何かいたずらなことを言われたのだろう。……そうか、こういうときは笑い飛ばすことも必要なのか。そのあとも続いていく二人の会話に隣で聞き耳を立てて、自分の肝に銘じる。
「わあ、マロンちゃん、もしかして香水変えた?」
「ええ~よくわかったねえ! 変えたの、ほら!」
今度はヒッチのほうから身体を寄せる。ゲストの鼻先に自身の手首の内側を近づけて、匂いを嗅げるようにしてやっている。こういう細かいスキンシップも必要……ということなのだろう。――なるほど、こちらが相手に対して警戒心を持っていることを悟らせないことに尽力すべきなのかもしれない。
「わあ、ほんとだ、いい匂い! どこの香水?」
「ひーみーつっ! 売り切れたらやだもん!」
ゲストも嬉しそうに何度もヒッチの手首の匂いを嗅いでいた。ヒッチの自然なスキンシップに圧倒されてしまう。やはり私にはここまでのことをできるという自信がこれっぽっちも持てない。
「ええ、そんなあ、いいじゃない~!」
「えへへ、だめですう~!」
さも仲のいい恋人同士のようなやりとり。この場所がキャバクラのホールでなくて公園とかだったとしたら、さ、と目を逸らすほど見ていて恥ずかしい光景だ。実際私は耐えられず、ほかのテーブルに視線をやってしまった。……だが、どこもかしこも楽しそうに身を寄せ合う男女が目に入るばかりだった。
私は気づかれないように息を吐いた。……早く終わらないかな……。考えていたことと言えば、もはやそれだけだった。
――それから延々と感じられた一時間がようやく過ぎ、出口までゲストを案内するボーイの元まで見送ったあと、私とヒッチは休憩のために店舗の裏側に向かった。
ホールからバックヤードに入り、化粧を直しに行くよと店舗側にあるという化粧室に連れて行かれた。道中でヒッチは「あんたさあ、」と切り出して、「もっと笑わないと」とか「愛想よくしなさいよ」とか、いくつか私に対する不満を垂れていた。私は尤もなその不満に返す言葉も思いつかず、どうすればいいのだろうと塞がれたような気持ちになってしまった。
店舗側の化粧室は初めて入った部屋だが、その部屋には壁に沿って全面に鏡台が並べられていた。そこは化粧を直そうとする女たちで溢れている。人と人との間に隙間を見つけたヒッチがそこに身体を入れ込み、それから細かく自身のメイクの具合をチェックしていく。
それが終わり、またホールのバックヤードに戻ると、そこで次の呼び出しに備えて待機するという。……ようやくこのルーティンの全貌が見えてきた。しかし、またあの異世界のような空間に出て行かなくてはならないのかと考えただけで、足が竦むような思いをする。――やはり、あまりにもこの仕事は私という人間に向いていないのだ。
「――マロン。どう? スカイは」
次のゲストたちを迎え入れるための準備に勤しむホールのほうをぼんやりと眺めていると、背後から支配人の声がした。ヒッチもそれが支配人だとすぐにわかったからか、振り返りながら呆れるような声を出した。
「もう~、こいつ全然だめ。無愛想なもんで客困りまくりだよ〜! この顔どうにかしないと」
そして少し乱暴に私の肩を叩く。……不愛想な私が隣に座っていることは、育成担当のヒッチの顔に泥を塗っているようなものなのだろう。次こそは上手く笑わなければ、きっと私は見放されてしまうのだと背筋が凍る。……笑え、笑えばいいだけの話だ、笑って楽しく過ごせばいいだけ。――けれども、そう思えば思うほど、私はその行為に対して自信を喪失していく。
ヒッチにも支配人にも顔を合わせられず、隠れるように足元をじっと見ていた。どうしたらいいのだろう、どうすればいい。もしこのまま上手く笑えなければ、私は借金を返すことができず、一生ここで過ごす羽目になるのか。
「……うーん、こういう系統が好きなお客さんもいるとは思うんだけど……確かにうちでは初めてのタイプかもしれないなあ……売り方を考えないと」
「こいつが笑えば話は早いんだけど?」
「まあ、そうだけど、こればっかりは性格とかもあると思うし」
支配人の言葉を聞いて、思わず顔を上げてしまった。
――私に『笑え』と言うのではなく、このままでいいからやり方を考えようと言ってくれたことに驚いたのだ。
私と視線が合った支配人は、『大丈夫だよ』と優しく微笑むように首を傾げた。私はそのとき、自分の心臓の鼓動が速くなっていることを自覚した。唐突に泣きたくなってしまったのは何故なのだろう。歪みそうな表情を再び隠すために、慌てて下を向いた。
――こんな華やかさがすべての世界で、私みたいな笑顔の一つも作れない根暗女なんてお荷物になるだけだろうに。……それでも支配人は、私を脅すことではなく、歩み寄ることを選んでくれる。……これが、支配人がこんなにも慕われている所以なのだろうと、不覚にも心に沁み込んだ。
ジジ、と微かな機械音がまた耳に届く。
支配人が胸元につけたインカムのマイクを握ったのが目の端に映り込む。支配人はそのマイクに向けて「了解」と話しかけたあと、
「……マロン、四番テーブルにご指名。リー様」
簡潔に次の指示をヒッチに出していた。ヒッチはそれを聞くや否や、す、と背筋を伸ばし、
「りょうか~い。リーさんね」
姿見の前でとても短い間だけ身なりを確認したあと、私に合図をして二人でこの異世界のようなホールに飛び込んだ。
上手く笑えないことに甘んじるのではなく、それでもヒッチのゲストが幻滅しないような振る舞いをしなくては、と私はなんとかなけなしの自信をかき集めた。しかしそう思えたのも、すべて支配人の理解に勇気づけられたからだ。私はそっと振り返り、バックヤードから私たちのことを見守ってくれている支配人の姿に、何とも言葉にし難い感情を掻き立てられていた。
その日の閉店後へとときは飛ぶ。
最後のゲストを見送ったあとバックヤードに戻ると、そこに立っていた支配人は、この日出勤だったすべての女たちに「お疲れさま」と声をかけていた。それはもちろん私たちにも同じことで、ついでに私には「明日、ゆっくり今後について話をしよう」と言った。私は頷くだけで了承して、ヒッチに連れられるがままに寮棟に向かい、退勤の解放感を味わった。
女たちの中にはこれから『アフター』と呼ばれる、閉店後にゲストとともに食事や飲みにでかけるという営業をする女もいるそうだ。ヒッチも頻繁に誘われるそうだが、今日は私の初日だったからか、はたまた私の同席で疲れたのか、それらの誘いを断っていた。
一旦部屋に戻って休憩する者、そのまま浴室に向かって化粧を落としたりと寝支度を始める者、談話室でいそいそと電話している者などがいた。そしてヒッチのあとに張り付いていた私は、「もう先に化粧落としちゃおうか」というヒッチの提案に乗り、そのまま浴室に向かった。
一通りメイクを落としきったヒッチは、備え付けのタオルで顔を拭きながら、
「ふう、今日はお疲れさま」
誰にともなく声をかけた。ただ、その声が発せられた音量から、聞こえる距離にいるのは私だけなので、おそらくそれは私にかけられた声なのだろうと理解する。
私も返事をするためにタオルで顔の水分を拭き取っていると、
「まあ初日にしてはがんばったんじゃない」
ヒッチはへらへらと笑いながら、私のほうへ顔を向けた。
よくも私に恥をかかせてくれたわね、と言われなかったとわかったとき、私はどうやらヒッチの基準を満たすことに成功したのだと心から安堵した。
「……うん」
「――その髪、自分でやったの?」
繊細な肌が乾燥しないようにと握ったボトルの蓋を捻りながら、ヒッチは藪から棒に尋ねた。何故そんなことを聞かれるのだろうと疑問に思いながらも、私は私の個室で静かに感じていた支配人の手つきを思い出してしまっていた。……なんだかまた、鼻がむずむずするような感じがする。
「……いや、支配人がしてくれた」
それをヒッチに伝えると、ヒッチは顔に触れていた手を止めて、目を丸くして私のほうへ再び振り返った。
「……え、支配人が?」
そして次の瞬間、大きな口を開けて「あーっはっは!」と笑い声を上げた。
何がどうしたのだとその様子を驚きに任せて見ていると、ヒッチは楽しそうにお腹を抱えて「道理で下手くそだと思ったー!」と景気よく声を飛ばした。その意外過ぎる言葉に、私は自分でも不意に「……え?」と声を零していた。
「もう~! あんたが自分でがんばってやったんだと思ったじゃない。なんだもう!」
そしてさらに少しの間、あはは、とその笑い上戸の発作は続く。
支配人に『どうかな?』と言われて手鏡を渡されたとき、確かに後ろ側なんて見えなかったので、前からの様子だけで私は大丈夫だと言ってしまった。しかしヒッチは支配人が施してくれた髪の毛を『下手くそ』と宣って爆笑しているのだ。……つまり、それは。
「……そ、そんなに変だった?」
おそるおそるその顔を覗き込むと、私が今日一日の自分の印象について不安に思っていることに気づいたのか、何とかその笑い声を引っ込めた。
それから再び美容のための液を手に振りかけ、
「まあ、気にならない人は気にならないだろうけどさ」
私の不安を取り除くにはちょうどいい見解を教えてくれた。――つまり、これは見目に厳格なヒッチだから『下手くそ』と思っただけで、正面からの私しか見ていなかったゲストたちには気づかれていなかったと考えてもいいのだろう。
ヒッチが台に戻した美容液のボトルを今度は私が掴み、それをしょげしょげしながら手のひらに振りかけた。
……私やほかのキャストに気を遣って、支配人が仕上げてくれた髪だ。もし、本人が普段しないことを不器用ながらにがんばってくれたのだとしたら……いくら下手くそだったとしても、それは少し愛おしいなと、心が温かくなった。
「私明日も同伴あるんだけど、明日は私が出る前にヘアセットとメイクの仕方教えてあげるわ。自分でできるように覚えな」
私の胸の内でじわりと広がっていく不可解な情動など気づくはずもなく、ヒッチは笑みの延長線上で私に釘を刺した。
忙しいのに時間を割いてくれることや、せっかくがんばってくれた支配人に対してなど、申し訳ないような気がして、私は何とも歯切れ悪く「……よろしく……お願いします……」と返すことしかできなかった。
翌日の昼過ぎ、支配人の事務所に初めて呼び出された私は、おずおずと言われるがままにそこに出向いた。
奥の大きな窓の前に支配人自身の執務机があり、その手前に向かい合わせになった、高そうな革のソファが置かれている。その間にはガラス張りのローテーブルも丁寧に配置されて。両脇の壁に沿うように大きな書類棚があり、少し圧迫感のある部屋だ。……何故かこの事務所を見て、支配人が裏社会の人間だったことを思い出していた。
とりあえず案内されるがままにソファに腰を下ろすと、支配人も手帳や書類をローテーブルに置きながら反対側に腰を下ろした。
今後の私の売り出し方について、いろいろと案を考えてくれていたらしい。まず始めに、これから一週間、ヒッチの隣で接客を学ぶ間に、店頭では私の写真を使ったデビュープロモーションを打つのだという。
私の写真に添えるキャッチコピーも考えてくれていたようで、今日さっそく発注する予定だという看板のデザイン案も見せてくれた。差し出された紙を受け取り、そこにあったキャッチコピーを目で追う。
『淑やかで寡黙なクールビューティー!』
どうやら私は、こういう路線で売り出される方針のようだ。……『賑やかで楽しいポップキュート』なんかよりは確かに私向きのフレーズではあるが、クールビューティーとはいかに……。とりあえず、『寡黙な』という言葉に口下手な私のすべてを委ねることにして、この案を了承した。
それならさっそく宣材写真を撮ろうという話になり、ヒッチは予定よりも少し早く呼び出されて私にメイクとヘアセットを施してくれた。
ホールの華やかな壁紙をバックに写真を何枚か撮られ、支配人もそれには満足しているようだった。写真を撮り終えるや否や、じゃあ看板の発注をしてくるから、とまた事務所に引っ込んでしまった。
同伴のため、先に出てしまったヒッチにも取り残された私は、仕方なく一人で談話室に向かった。部屋にいてもすることがなく、ヘアセットも完了しているためベッドに横になることもできない。……となると、本を読みながら時間を潰すくらいしかできないだろうと思ったからだ。
前日に読みかけだった本をまた引っ張り出し、私は一人黙々とそのシリーズを読み進めた。
つづく