2. 深くに溺れる②
【R15】
※15歳以上の方のみ閲覧可。
大丈夫な方だけ次のページへ。
***
次に支配人に呼び出されたのは、それからわずか半日後のことだった。昨日の深夜、私は約束していたシャロスという男との予定を反故にし、そしてそのまま支配人の元へ逃げ帰ってしまった。
今朝ヒッチと話したあとも、この先自分はどうなるのだろう、どうしていくべきなのだろうと考え始めたら満足に身体を休めることもできず、ずっとうだうだと転げ回っていた。……一昨日もろくに眠れなかったせいだろうか、身体をかなり重く感じた。
だから、そういう意味では、その悶々に終止符を打てるであろう支配人からの呼び出しは、喜ぶべきものだと思ってもいいはずだ。
だが、頭の片隅にわずかに居座る嫌な予感も拭いきれずにいた。……シャロスという男、正直に言えば、昨晩の私のドタキャンに腹を立てて私のことなんて見限ってくれているといいのだが。――それが、私の嫌な予感だった。
一歩一歩と硬めの絨毯を敷き詰められた階段を上っていく。三階に到着して支配人の事務所に向かい方向を変えると、すぐさまその扉は視界に飛び込んでくる。……私はきっと、ここでこれからの方向性を決めさせられるのだろう。
その扉の前に立ち、深呼吸をした。
もうすぐ夕食の時間で、そのあとはすぐに店が開店する。少しでも晴れた気持ちでホールに出たい私は、気を強く持つように意識して、その扉をノックした。
トントン、と乾いた音が私の指先から飛び出てくる。そしてそのままドアノブを捻った。
「――支配人」
隙間から顔を出すと、今日は本人の執務机のほうに座っていた。私を認識するや否や、
「ああ、アニ。わざわざありがとう」
「……いえ」
「座って」
握っていたたばこの火を消して、机の上にあった数枚の書類の中から、前回と同じように二枚ほどを選び出し、私をソファに座るよう促した。そしてその反対側に支配人本人も腰を下ろす。
その一時だけ伏せられた瞳に簡単に釘づけになってしまっていた私は、支配人が顔を上げると同時に我に戻った。意味がわからない。唐突に胸が窮屈で息が苦しい気がした。ばくばくと跳ね回る心臓を一処に留めておくので精一杯だった。この腹の底をくすぐるような感覚は一体どこからきているのだろう。
私が自分の心音を誤魔化すために用件は何かと聞くよりも前に、支配人は早速と口を開いた。
「シャロス様との新しい日程が決まったよ」
ドキリ、と心臓が跳ね、そこでそれまで騒がしかった音が止まる。今度は、じわ、と不快な感覚が背筋を登ってくるのを感じた。
「……はい」
――私の嫌な予感は当たってしまったのだ。
「もう、早くしろってしつこくてさ。……明日の深夜一時。場所は同じで『ホテルミッドラス』の四百十号室なんだけど……いけそう?」
昨晩の私のあの状態を見てもなお、支配人はそれを手配したというのなら、彼としては行くことができて然るべきと思っているのだろう。
否、この生活から一刻も早く抜け出すには、いつかは腹を括らなくてはならない。そして、今後どうするかと自問し続けた午後過ぎを思い出し、そのときも〝いつかは〟と観念するような気持ちがあったのも覚えている。そして今は、その〝いつかは〟の時期を選ぶときを迎えているだけなのだ。
なかなか返答しない私に対して、支配人は空気を改めるように静かに息を吐いた。
「……まあ、初めてだしね。抵抗があるのもわかるよ。……君がまだ準備が整わないというなら、整うまで延期にしてもいい」
そして、再び私の瞳を覗き込む。またあの、とてもきれいな深い水面のような瞳でだ。またどこからともなく、ざわざわと胸が騒ぎ始める。
違う、今はそれどころではない。――私は慌てて視線を手元に落とした。――今考えるべきは、私自身のこと。支配人がわざわざ私に託してくれている、私の貞操と未来についてを考えなければならない。
支配人の言うように、心の準備が整うまで待ってもらうか。いやしかし、心の準備が整うときなんていつかくるというのか。
私はぐるぐると重く渦巻く思考で考えた。
〝いつかは〟乗り越えなければいけない壁だというのなら、それは待てば待つほど高く成長していくような気がしてしまう。そうだ、嫌なことは可能な限り早く経験しておくほうが、のちのち楽になるはずだ。……なんて言ったって今は三百万の価値をつけられているのだ。仮に私の心の準備が整う日が来たとして、そのときもまだ三百万という値をつけてもらえるかはわからない。
――やはり、今。いくべき、なのだ。
そう決意が至ったにも関わらず、私の脳裏に蘇っていたのは、初めて接客したシャロスのあの嫌らしい笑みだ。あの独特の間延びした喋り方に、下品な手つき。……またしても昨晩のように、不快感が胃を押し上げてくる。
いや、考えるな。今はそんなこと、考えるな。
「……アニ?」
支配人の優しい声が耳に入る。ふと見上げると、その立派な眉を重たく歪めて、心配そうに私を見ていた。
その瞬間だ、これまで占めていたシャロスという男の醜い記憶はかき消され、私は今日散々妄想した、支配人に抱きしめられる場面が浮かんでいた。ドクッと心臓が大きく跳ねた。
……そ、そうだ。支配人も、私がシャロスに弄ばれないよう、予行演習をしてくれると言っていた。実際にお願いした子もいたという。
何の前知識もないままシャロスという男に会って、好き放題されてはたまったものではない。だったら、優しくしてくれるだろうと確信を持てる支配人に……その、前準備をお願いしておけば、きっと恐怖心も少しは軽減できるだろう。
そうだ、今だ。今、私はこれを乗り越える動機も方法もある。
私が決意したのがどこかの仕草からわかったのだろう。私が口を開こうと思ったとき、先に支配人がそれを促すように頷いた。
「……支配人」
「うん」
とても注意深く私の言葉を待ってくれる支配人。私はぐっと腹に力を入れて、自分を奮い立たせた。
「シャロス様、行きます」
「……うん」
しかし、その決意を語っても、支配人は思いの外心配そうなままだった。よかった、とか、安心した、とか、そういう言葉ではなく、未だに一抹の不安が残っているようなその眼差しを見て、急に私も不安な気持ちを思い出してしまった。
あっという間に入れたはずの力は抜けて、すぐに視線は手元に落ちてしまう。
いや、大丈夫だ。私にはちゃんと、支配人がついていてくれる。私の恐怖をその優しさで取り除いてくれる……はずだ。昨晩のように、無知なままで挑むわけではない。
私は落とした視線をちらりとだけ上げて、決意に対する条件を提示した。
「……その、予行演習……してから……」
それを言うと今度は支配人はぱちくり、と驚いたように瞬きをした。
私の決意がまた空振りに終わるかもしれない、もしくは私が無理をしていると懸念していたのかもしれない。そんな心配そうな顔が一転して、納得したような、腑に落ちたような顔になった。おそらく私が決意できたその理由がわかったのだろう。
支配人はその至って真面目な顔のまま、
「……そう、わかった」
静かに呟き、しかし書類に視線を落として目を合わせないようにしているようだった。私に渡すはずの二枚の書類を拾い上げて、それを差し出し、
「じゃあ今晩、閉店後にまたここにおいで」
ようやく私の目をしっかりと捉えた。茶化すわけでもなく、下心を覗かせるわけでもなく、やはり驚くほど至って真面目な顔つきだった。うっすらとだけ、温度を感じない笑みを浮かべている。これはおそらく、私を安心させるための笑みだ。
私はその指示を噛み締めながら書類を受け取り、
「……はい」
そして促されるままに事務所を出て自室に戻った。
……これでいいはず。これで大丈夫なはずなのだ。……私はそのあと、何度も何度も自室で自分に言い聞かせた。
例えシャロスでなくても、どこの誰とも知らない男に私の身体をいいようにされるなんて恐ろしくて想像もできない。しかし、支配人なら、任せられる。この身体を、預けることができる。大丈夫、支配人は優しくしてくれる。大丈夫。
それから私は、今朝よりも幾分もひどい支配人との妄想をくり返し考えてしまい、何度も何度も経験したことのない甘い感覚を身体の芯から滾らせていた。熱が上がるときに身体をくすぐるような、甘い感覚だ。――それと戦っている間に、危うく夕食を逃すところになってしまっていた。
*
「――……大丈夫?」
支配人の落ち着いていて、穏やかな声が明かりの落とされた事務所の中で尋ねる。
今日のホールでの業務を終えた私は、身支度を整えたあと、昼間に言われたように支配人の事務所を訪れていた。
私との約束を忘れるはずもなく、支配人は私を事務所に招き入れると、珍しく事務所の入り口の鍵を閉めて、そして事務所の中の主電灯を落とした。今は支配人の執務机の横に置いてある、フロアスタンドの明かりだけが灯っている。
私はというと、これから経験することへの緊張は凄まじかったものの、不思議なほどに嫌悪感が働いておらず、ただただ支配人の前に座って羞恥心と戦っていた。
私を座らせたソファで隣に座り、大丈夫、と尋ねる支配人がこの顔を覗き込む。それだけの動作で私は頭に炎が登ったようにのぼせて、身体が芯から熱くなっていた。頭がくらくらする、心配そうに見ているその視線も何もかも、私の体温をみるみる内に上昇させた。
私の中ではもう歯止めが効かなかった。いつの間にやら私の頭の中には、好きだ、その眼差しが好きだ、とそればかりが充満して、それを否定することも忘れていたほどだった。
「アニ?」
また静かに問われる。
今日もジャケットを身につけておらず、ベスト姿の支配人だ。座っているソファには、いつもと違うタオル生地のようなブランケットが敷かれていた。
もちろんここへ来た趣旨も忘れてはいない。私はようやく言葉を発するに至り、「だ、大丈夫……、」となんとか絞り出した。
すると支配人は安堵したようにふう、と息を吐いて、
「じゃあ、キスはどうする?」
私の意見を煽った。しかし私はそれがどんな意味かわからない。――キスをどうする? とは、いったい何を聞かれているのか。私からするか、支配人からするかという話か? それとも、舌を入れるかとか、そういう質問なのか?
動揺してしまった私に向けて、支配人はすぐに助け舟を出してくれた。
「お客さんとはキスはしないって決めてる人もいるって話はしたよね。もし君がいやなら、そういうルールを作ってもいいと思う」
それを聞いたことで、私は数日前にこの部屋で支配人から提案されたことを思い出した。
……そうだった。キスはどうするか自分で決めていいと言っていた。
口と口のキス。……以前見た映画で、感情が芽生えやすいからしないと決めている女の話があったことを思い出した。――これからの客に対しても、情なんて抱きたくないと思った。……そして、支配人にも……これ以上、溺れてしまいたくない。歯止めが効かなくなるような気がしたのだ。私は短いこの人生でろくにキスもしたことがないくせに、なぜだかそう思った。
……そうだ、これは私のファーストキスになってしまう。これからこの身体を見ず知らずの男たちに明け渡さなければならない日々になるというなら、せめて、ファーストキスくらいは、いつか訪れるかもしれない自由な日々のために、とっておきたい。
「……キスは、したくない」
ようやく結論が出た私は、俯いたままそう溢した。
いつだって優しい支配人はもちろんそれを咎めることはせず、穏やかなままの口調で続けた。
「わかった。でもそれは君がちゃんとお客さんに言うんだよ?」
「うん、わかった」
私が支配人にそう返事をすると、それを境に明らかに空気が変わったのがわかった。
ぐっ、とソファを揺らして、支配人が私との距離を詰めた。それでもまだ身体が触れ合うほどの距離ではない。
「……じゃあ、始めていくね」
羞恥心に襲われたままの私は、その距離を詰めた支配人の顔など見られるわけもなく、ただじっとその膝あたりを見ていた。スーツを身に纏っている膝だ。
「まずはお互い服を脱ごうか」
どく、と心臓が強い驚きに跳ね上がる。……ついに来た、ついに来てしまった――。
――支配人と向かい合わせになって座り、私は暗い明かりに輪郭を照らされる支配人を眺めた。――今日の一連の経験を思い返して、身体が浮くような浮遊感を得ていた。そして微かな甘さと、もどかしさと。……あわよくば、もっともっと、支配人と時間を共有したかったと、そう浮かんでいる始末だった。
「……ほら、もう服を着てもいいよ」
「……あ、」
支配人が私の肩を叩いたことで我に戻った。そして唐突に自分の裸体を晒していたことを思い出して、慌てて服をかき集めた。……だが支配人が言っていたように、もう羞恥心はほとんど感じていなかったように思う。
「……あ、ありがとう、ございました」
背中を向けて下着を履き、ブラジャーを身につけ、そして前ホックを留めながら私は伝えた。
支配人は下着とシャツを雑に着直して、
「いいえ。これで少しは怖くなくなるといいんだけど」
私のほうへ身体を向け直して言った。
私はまだボトムを履いているところだというのに、無遠慮に視線を向けられていた。……おそらくそれほど、支配人には日常的な行為だったのだろう。――そう思った途端に、ぎゅう、と胸が締めつけられるように痛んだ。……ああ、なんだ、これは。
一人わけもわからず起こった自分の中の変化に戸惑っていたというのに、支配人は私の腕を引っ張って注目を煽った。
「いい? 今僕がやったみたいなこと以外の、そうだね、君を傷つけるようなことを客がしようとしたら、君は逃げてもいい。その後始末は僕がちゃんとするよ。君は君が大丈夫だと思う方法でお客の相手をしたらいい」
とても真剣な眼差しでそう釘を刺した。……こういうところは徹底しているなと、ぼんやり浮かぶ。……私〝たち〟は、こんなにも支配人に守られている。
「……うん、わかった」
じゅぼ、と背後でライターの音がした。すぐに漂い始めたたばこの匂いを捉えて、支配人がそこで一服を始めたのだとわかった。
……もし今日、支配人とキスをしていたら……その味は、きっとたばこの味だったろうと感情が乱れた。
ようやく服を着ていた元の状態を戻ったところで、私は改めて支配人に礼を言おうと身体を向ける。するとそこで、フロアスタンドのわずかな明かりに照らされた支配人が、言葉を失うほど非現実的な光景として浮かび上がっていた。……まるで、そこに本当は存在していない幻覚のように、ゆらゆらと淡く照らされている。
しかしその顔は、先ほどまでの行為や、それこそ今ここでたばこを嗜む姿に似合わず、とても幼く感じさせた。……どうしてかわからない。けれど心のどこかで、支配人の姿が寂れて見えたのだ。
私は藪から棒に、支配人の顔を覗いた。
「…………支配人って、何歳なの……?」
そこに存在していることを知りたくて、私は上手く言えないこの感情を、その問いかけに託した。
けれど支配人はたばこの灰を灰皿に落としながら少し楽しそうに笑って、
「僕? ふふ、それは秘密だよ」
やはりその真実がわからないほど、幼い瞳で私を見ていた。
その姿の何がよかったのか、私はまた身体の底から熱が上がっていくのを自覚した。慌てて視線を逸らしたのはそれが理由だ。それと同時に行為中の抑制の効かない状況下で、何度も支配人のことが好きだと思ってしまったことを想起させられていた。
だめだ、ずっと否定していたはずなのに。……もう私は、だめだ。手遅れだ……だって、こんなに鮮明に自覚してしまったのだから。
「あ、あの、では、ありがとう、ございました」
なんてことだ、自覚したことを思い出すや否や、私は支配人の瞳を見ることができなくなってしまった。だから、逃げるように支配人に感謝の言葉を改めて伝えて、慌てて事務所の扉のほうへ進む。
するとたばこを咥えたままの支配人も私を追ってきて、私の横から手を伸ばして事務所の扉の鍵を開けた。
そして私を誘導するようにドアノブを引いてくれる。開かれたところから廊下の明るい光が差し込み、私は眩しさに眉を歪めながら、その明かりの中に入っていく。
頭を下げようと支配人のほうへ再び身体を向けると、支配人は「アニ、」と静かに私の名前を呼んだ。
その声が静かでありながら、どこか芯のある凛としたもので、私はたちまち顔を上げてその瞳を見返してしまった。そうしたらもう、あっという間にそこに囚われてしまう。
支配人はほんの少しの間、その瞳の瞬きを私に見せたあと、
「――僕のためにも、がんばってね」
にこり、と何かを含んだような笑みを浮かべた。くるり、と世界が回るような閃きが私の中に走り、
「じゃあ、お休み」
しかし、その閃きの正体を突き止める前に、さっさと扉を閉めて事務所の暗がりの中に戻っていってしまった。
私はその支配人の笑みの余韻にしばし動けずにいて……、そして意図せずにまた湧き上がった数多の感情に思考をかき乱され、慌てて自室に戻ってこの身をベッドの上に投げ捨てた。
つづく