こころの羊
――ぼくは虚言癖を持っている。虚言癖と言っても、別に大したものじゃないんだけどね。「ここまで来るのに一時間かかったんだ」と言うべきところで、「ここまで来るのに一時間半かかったんだ」と言ってしまったり。本当なら「この量のレポートを一週間でやったんだ」と言うところを「五日でできた」と言ってみたり。……いつからこんな癖がついたのか、自分でもわからなくて。気づけばもう、こうなっていた。本当のことを言うのが、こわいのは自覚している……。「一時間半」を「一時間」と。「五日」を「一週間」と。ただそれだけのことなのに、何度こういう場面に出くわしても、本当のことを言うのをためらって、少し大きくお話をしてしまう。……ぼくはきっと、自分を大きく見せたいんだと、そう思う。等身大でいる、たったそれだけの勇気が、持てないでいる。
こころの羊 - うそつきイヴァンと読心少年 -
ぼくは激しく落ち込んでいた。知る人ぞ知るというか、もはやその道の人にはとことん有名な自然公園の中で、子どもたちのきゃっきゃっと遊ぶ声を聞きながら、途方に暮れていた。
『明後日の打ち合わせのとき、現像できてるよな?』
もう型落ちした携帯電話をいつまでも使っているぼくは、手によく馴染むそれを握り直して、受話器の向こう側にいる同期生に反論した。
「ええ? 明後日の打ち合わせ? みんなで話して決めたことだよね? 取材は全部で一週間だよ、あと三日あるよ」
『あれ、そうだった?』
「もう、しっかりしてよ」
そのあと、今回の研究班の代表を務めることになった受話器越しの同期生は、日程を練り直すわと不服そうに告げて、ぼくに気遣うこともなく終話した。
ぼくは、映画史を専門とする短大に通っている。今回は各班にわかれて研究する映画を一つ決め、それぞれ役割分担をして徹底的にその映画について研究して、それをまとめてプレゼンするという実践課題を行っているところだ。その中でぼくは、一人で撮影に使われたこの地に赴いて取材するという役割を当てられていた。
映画のタイトルは『こころの羊』で、実に四十年前に生まれた名作だ。
そんな心踊る役割を担うことができたぼくが、何をこんなに落胆しているかというと。
「ああ〜」
思わず頭を掻いて声を上げた。合わせてポケットに携帯電話を押し込んでいると、ふと視線が止まった。一直線上の少し離れたところに、子どもがじっとこちらを見て立っているのが見えたからだ。よく目立つ真っ赤なパーカーのその子どもは、情けない声を上げたぼくが気になったのだろう。バツが悪くなって、気持ち程度に少し場所を移動した。
そもそもなぜぼくが情けない声を上げるに至ったか。それは、学校の備品としてカメラを使うことを今回は許可してもらったのだけど、いかんせんこのカメラが古く、データではなくネガで管理するタイプのものだった。そして、それが災いした。……先ほど取り替えたばかりのネガを、どこかで失くしてしまったらしい。きっとポケットに入れ損ねたんだと見当をつけて、ネガを取り替えた場所まで戻ってきたのだけど、見当たらなくて嘆息を漏らしていた矢先に、先ほどの電話を受話したという経緯だ。けれど、こんなにも見つからないとなると、きっとこの辺で遊んでいる子どもが、価値もわからずに持って行ってしまったんだろうなと、否が応にも思えてしまう。
ぼくの五日間の血と涙の結晶が……この映画の撮影範囲を五日も歩き通したのに……とは、まあ、また少し大袈裟だけども。もちろん交通機関を使ったけども。
はあ、と息を吸って、近くにあったベンチに腰を下ろした。日が昇っている間は少し暑く感じて、それもあって早々に滅入りそうだ。ここが木陰になっているのは唯一の救いで、まさにオアシスといった風。
何とか顔を上げて見回せば、目の前には子どもたちが駆け回る運動場のような広場。あっちへこっちへと駆け巡って、もしかしたらもう誰かに踏まれて木っ端微塵かもしれないと諦念に蝕まれる。……班のみんなになんて謝罪しよう……。隣町からここまで、随所随所の写真や、重要箇所の管理者のインビュー写真なんかもあったのに……。
「――おい、お前、困ってんのか」
またぐるぐるしかけていたときに、子どもの声がして、隣を見やった。そしたらそこに、真っ赤なパーカーを着た子どもが立っていた。さっきぼくのことを見ていた子どもだとすぐにわかる。パーカーとお揃いの真っ赤な瞳、ちくちくとした銀髪はとても珍しく、思わず言葉を忘れて見てしまった。まるで特殊加工を施したような風貌だ。
「おいってば」
座って項垂れるぼくより、立って問いかけるその子のほうが目線が上だったのがいけない。はっきりとした目元を持った子どもは、まだまだ大きな瞳ゆえに、じっとりと見下されているように錯覚してしまった。くらりと目眩がする。
「困ってんなら、何か手伝おうか?」
一連の悪印象も手伝い、こんな小学生に助けを求めるわけにもいかないよなあ……と自己完結したぼくは、すかさず視線を手元に落とした。
「いいや、大丈夫だよ」
「嘘つけ」
「え?」
いやに芯の通った声色で、
「俺様はな、大人の嘘は見破れんだよ」
「……え?」
思わずまた顔を見上げてしまった。えらく高慢ちきなことを言う子どもだと頭を掠めたところで、その子もなにかが不服だったのか、キリと眉間に緊張感をこさえた。見下すような眼差しはそのまま、腰に手を当てて高らかに続ける。
「ていうかな、そんな面して困ってねえとか、幼稚園生でも見破れんぜ?」
これには空笑いしか出なかった。……どんな情けない顔をしていたのだろうか……。
「で、なんだ? 俺様にできることなら手伝うけど?」
態度とは裏腹に、その子どもはまたしても手伝ってくれるという。こういう子どもは邪険に扱うより、事情を話したほうが色々と早いと見定めて、また嘆息混じりに体勢を整えた。
「それがね……」
体勢を整えて目線が同じになると、その子どもの印象はがらりと変わる。身構えるほど強く大きな瞳は、別にぼくを見下しているわけではなさそうだ。
「ちょっと落とし物しちゃったみたいで」
「落とし物?」
「うん、ネガなんだけど」
きっとわからないだろうなあと思っていたら、案の定その子どもは「ネガ? ってなんだ?」と、愛らしく首を傾げてみせた。銀の髪が揺れて、木漏れ日が落ちていたことに今更気づいたら、あっという間にその光景にざわりとした胸騒ぎを覚える。
「これ、カメラ用の。使い切ったから差し替えたんだけど、差し替えたものがなくなったみたいで」
協力的な姿勢にも徐々に印象をよくしていき、ぼくは古くてごついカメラを見せながら説明してやった。ここでネガが見つかるかどうかはいつの間にか二の次になっていて、どうしたものか、この子どもの興味を引きたかっただけのようにも思える。
けれども、その子どもは気休めだろうか、「ネガ……ねえ」とぼやきながら、きょろきょろと辺りを見回してくれる。そんなことで見つかるならぼくは苦労はしなかったはずで、だから、その子どもの注意を取り戻すように、声の調子を変えた。
「いまどき見たことないでしょう? いいよ、ぼく探すから」
立ち上がろうとした。
「あ、いいや、」
驚いたのはそこからだ。
「お前、運がいいなあ。――ネガ、あったぜ」
その子どもは立ち上がろうとしたぼくの肩に手を当てて、少し遠くのほうを眺めながらそう放った。
「え!? どこ!?」
疑心は捨てきれずもしっかりと期待感は抱いて、それこそ身を乗り出して子どもが見ていた視線の先を探した。もしかして、ものすごく視力がいいのかと考えていると、
「あいつ、あの子どもが持ってる」
示した先には、走り回る子どもに紛れて、不自然に立ち止まる一人の男の子がいた。一丁前にスマートホンをいじっている、十歳くらいの子だろうか。確かに片手はきゅっと握りこぶしを作っているのだけど、その中身がネガだとまでは、到底ここからでは見当もつかないはずなのに。
「ええ!?」
改めて驚き、飛び上がっていたぼくをニヨリと一瞥して、
「嘘じゃないと思うぜ? 確かめて来てやるよ」
「……え? ちょっ……」
子どもは一直線にまた、他の走り回る子どもを掻い潜って、スマートホンをいじっている男の子に近づいていく。運動広場の真ん中に立ち止まってスマートホンいじるのは、どこからどう見ても浮いていた。
見る見る距離を詰めていくのを見守っていると、その子ども二人で何か言葉を交わしたあと、一度二人でぼくのほうへ注目してから、確かになにか小さな物品をやりとりしたようだった。
それを受け取るや否や、銀髪のほうの子どもは楽しそうに軸足から身体を翻して、そのままぼくのほうへ駆け出してくる。まだしばらく距離もあるというのに、
「ほら、ネガってこれだろー!」
「わあ……す、すごい!」
その手に小さく収まった黒い筒のような入れ物を振り回しながら駆け寄ってくる。ちょ、それ、そんな振り回し……っ! あわあわしているところにその子どもは飛び込んできて、さらに誇らしげに笑っている。
よく見なくとも、間違いなくぼくの手書き文字で『こころの羊』と書いてあるネガだった。あの子どもが握り込んでいて見えもしなかったのに、と驚愕して、大きく息を吸い込んでいた。大人の嘘は見破れると豪語していたけど、それこそ、あながち嘘じゃないのかもしれない。むしろそちらのほうに電撃が走り――
「どうして!? なんで!? もしかして君、本当に心が読めるの!?」
「……え?」
「すごい! すごい! ねえ、ぼくイヴァンって言うの! 君何年生!?」
ネガを握ったままの手のひらでその子どもの肩を掴み上げて、感激のあまり思わず揺さぶっていた。
「はあ!? お前っ、変なやつ!」
まだまだ発展途上の華奢な身体は無骨なぼくの手の中をするりと抜け出して、
「そんなの教えてやんねえよ!」
「え!? ちょっと! どこいくのー!?」
軽快な足取りで走り出してしまった。思わずぼくもつられて後を追い、
「うわあっ!?」
久々に全力疾走した脚はもつれて、ビタンッと思い切りよくこけてしまうという、目も当てられない結末を迎えた。
……もう追いつけないし、何よりまだまだ若いはずなのに思うように動かない身体が悔しくなり、涙を噛み締めて顔を上げるしかなかった。
だけど、そうやって顔を上げると、
「ったく、なにやってんだよ」
その子どもがなんとも言えない笑顔で、手を伸ばしてくれていた。
そうしてぼくは、膝小僧に拵えたズボンの小さな穴の代わりに、この不思議な子どもを隣に留めることに成功したのだった。ぼくが元々腰を下ろしていたベンチに並んで座っているけども、少しお行儀の悪い彼は片膝を抱えてぼくの様子を窺っていた。
「そんなに心配してくれなくても大丈夫だって」
じいっとぼくの膝小僧を見つめているものだから、少し照れくさくなって変な笑顔を浮かべてしまった。けれど真面目そうな子どもはふわりとぼくを一瞥して、でもズボンに穴が空いているだけじゃなくて、血も出てるし、痛そうだし、といろいろと心配の種を丁寧に並べていった。
言葉に合わせて傾きを変える小首に、連れ立って揺れる銀の髪。太陽が違う傾きを得ると、またその輝きも違って見えるだろうとなあと胸が踊った。
「あ、ねえ、」
なにかの会話の折を見つけて、ぼくはマフラーの前で両手を合わせて見せた。
「ぼくが今なに考えてるか当ててみてよ」
人の心が読めるなんて不思議な力にお目にかかる機会なんて、ぼくの長い人生でもありえないと思っていた。けれど、今目の前にいる子どもはそれができるというから、はしゃいでしまうのも仕方がない。
興味本位で尋ねてみたところ、子どもは一度面食らったように瞬きをして、それからにんまりと企みを含んだ笑みを返した。それに対しては、今度はぼくが小首を傾げてやる。
「ケセセ、おあいにくさま! 俺様そういうのしねえの! 一人正解しちまったら、次から次へと面倒になるだろ!」
足をぶらぶらと揺らして、実に楽しそうに諭された。それもそうだなあと納得したので食い下がることはしなかったけども、
「ええ……見たかったなあ」
少し落胆した気持ちは隠せない。
「で、お前はどこから来て、なにしに来たんだよ」
きらきらと期待に満ちた瞳がぼくのを覗き込む。そんなこと、聞くまでもないはずの彼だから、
「君、心読めるんでしょう」
そう返したら、今度はバツが悪そうに目だけがそっぽを向く。その表情の移り変わりはあまりにも予想外だと、目が離せなかった。ひたりと視線は戻ってくる。
「……か、形にしてくれねえと読めねえし、そもそも俺様は心の声なんて信じちゃいねえから、口から出たもの以外は信用しないんだぜ! ……まあ、例外はあるってことにしとくけど」
言葉の間もころころと転がる表情は最終的にはどこか繕うような焦りの色を孕んでいた。
先ほどから心を読むことを拒否していることもあり、
「そうなんだ……」
そう呟いたぼくは改めて疑心を抱く。
冷静になってみて、確かに彼は一度も自分から「心が読める」とは言っていない。ぼくが「嘘を見破れる」と宣言したことに対して、勝手にそう解釈しただけだ。
それで片づけてしまうには、さっきのネガ事件はあんまりにも腑に落ちないのだけど、たまたま持っているのが見えたとか、可能性はいくらだってある。
「で、どうなんだよ」
唐突に子どもがぼくに釘を刺した。彼はぼくの身の上に興味津々のようだ。しばらく一人で取材旅行に出ていたぼくは、その先で出会った不思議な子どもに気が緩んでいて、あまつさえ少しわくわくとした気持ちには違いなかった。
「それがね、ぼく短大で映画の研究しているんだけど、とある古い映画についてレポートをまとめることになって、代表で取材旅行しているところなんだあ」
「その映画って、『こころの羊』?」
言われてどきりとした。やっぱり心が読めるの!? と目を丸めたところで、「ネガに書いてあっただろ」と補足された。……驚いた……と、同時に、やっぱりこの子は心が読めるというのは勘違いだったのかなあと重ねて認識してしまった。
ともあれ、そうだよ、と返事をしたら、その子どもは目を輝かせて拳を握った。
「へえ、すごいな! 代表ってことは班長かなんかなのか?」
あまりにもきらきらときらめく眼差しを裏切る勇気が持てず、
「うん、そうなんだ」
と返していた。
発言してからようやく、ぼくはまたいつもの癖で下らない嘘を吐いてしまったことを自覚したけども、結局心が読めるわけではないようだから、まあいいかと自己完結した。本当は、ただ単に、有名な映画監督の講演と日程が被っていて誰も行きたがらなかったから、くじ引きでぼくになっただけ。今ではありがたく思ってはいるけど、本当の班の代表は、少し前に電話で話した相手だ。
「そうなんだ! 実はすげえやつなんだな!」
あんまりにも無垢な瞳に、虚を突かれる。
「ここにはどれくらいいるんだ?」
「え、あ、りょ、旅行は全部で二週間もあるんだ。残りはあと三日だけ、ど、」
またわけのわからない嘘を吐いてしまい、あっ、と自己嫌悪の入り口に立たされたところで、子どもの表情ががらりと変わった。一気に曇ったそれが、わかりやすく眉間に皺を寄せるものだから、思わず口を閉ざして言葉を待った。
あからさまになにかに腹を立てて、ツンと一気に空気が尖る。勢いに任せてベンチから立ち上がり、
「じゃあ、せいぜい研究楽しめよ」
捨て台詞のようにそれを吐き散らして、苛立ちを発散するように強く地を蹴り歩いていく。
「え、ちょっと、どこいくの!?」
また性懲りもなく追いかけようと足を踏み込んで、なんとかその腕を掴むことができたけど、代わりに膝からの鈍痛に先ほどの醜態を思い出した。いや、こうなれば、未だに続いている醜態か。
肩を掴み上げたとき以上の一驚を得て、思わずすぐに手を引っ込めてしまった。掴んだ腕が、初めて掴むほどの柔らかさだったからだ。この子とぼくは、まだ未知との遭遇の真っ只中にいる。
不機嫌を露わにした子どもは、その鋭い目つきのまま、幼い声をがならせた。
「……俺様、嘘吐きとはしゃべりたくねーの。特に年下に嘘吐くやつ。あばよ」
どきん、と先ほどより大きな衝撃が身体を走る。ぼくが下らない嘘を吐いたことに、やっぱり気づいている。心を読めると肯定こそされていなくても、実際は読めるということだろうか。疑えど、ぼくの吐いた微妙な嘘を、『嘘だ』と断言できている時点で、信憑性はかなり高いようにも思えた。
ともあれ、また歩き出した彼をとっさに捕まえ直したぼくの心中は、ひたすらに焦りでいっぱいだった。嘘がばれていることもそうだけど、こんな気持ちにさせたままお別れなのが耐えられなかった。しかも、年下に嘘を吐くような大人だと批難されたことには、いや違うんだと、言い訳のような感情すらも浮かんでいる始末だ。吐いてしまった嘘は事実だというのに、「わあ! ごめん! 違うの!」と白々しくも叫んでいる。
「本当はぼく班長でもないし、滞在も一週間だよ! でも君本当にすごいね! ねえ、お友だちになりたい!」
転がり出たのは、なんとも突拍子のない、そんな言葉。当然彼はゆっくりとふり返り、
「……はあ?」
咎めるように問い返した。それでもなぜかぼくは必死で、ただただ惹かれて止まないこの子を手放したくない一心だった。
「だって、すごいよね! 人の心が読めるって映画の中の世界みたい!」
「……あのな、普通、誰かの心が読めるやつがいたら、気持ち悪いと思うけど?」
呆れ眼は面倒臭そうに言及した。
はた、とぼくの勢いが止まる。あ、そうか……ぼくの心も読んでいるってことだもんね、と、そこまで理解したにも関わらず、未だにぼくの手は、やわっこい子どもの腕を掴んで放さなかった。そうするくらいなら、と脳裏を過る。
「ううん、君になら読まれてもいいよ!」
これまでを凌駕する、呆れを通り越して心配するような顔つきで、「……お前、変すぎ……」とぼやかれたけど、それですべて受け入れてもらえたような気になって、にこにこと喜びが溢れ出していく。
「そうかな? ぼくね、」
「イヴァンだろ。さっき聞いた」
「う、うん、よろしくね! えーと、」
右手を差し出してみたところ、
「……はあ。あー、ギルベルトだよ」
「ギルベルトくん! かっこいい名前! よろしくギルベルトくん!」
照れ隠しのように自身のうなじを撫でていた手で、仕方なさそうに握り返してくれた。ふにふにと柔らかくやさしい手のひらを包んだだけで、温度や大きさの違いにどことなく気恥ずかしくなり、ぼくまで照れ隠しにふふふと笑みを浮かべていた。
次の日になった。
ギルベルトくんとお友だちになって一日目は、名前を知ってから割りとすぐに『今日は家庭教師が来る日だから、もう帰る』と言って帰ってしまった。……ただし、明日もここに来るのか、と問われたので、多少のスケジュールを改ざんしようと瞬時に決定して、「うん」と約束を取りつけることに成功していた。
事前にアポを取っていた、撮影に使われた老舗のカフェに午前中は取材に行き、腹ごしらえをしてからは、一つ重要なシーンの撮影に使われた歩道橋の写真を撮りに行った。それから真っ直ぐに、また昨日の公園へ赴いた。
「うわ〜おじさん、いい匂いだね。砂糖多めに入れてくれる?」
ギルベルトくんはきっと学校とかあるから、もう少し後になるだろうと顧みたのは、すでにこの公園が見えてからだった。子どもが一人もいないことに気づいてようやく、そういえばギルベルトくんもいないだろうなと思い至ったという経緯だ。
それもあり、また店構えも気になっていたので、公園の入り口にあった移動式の屋台カフェで、温かい飲み物を買うことにした。並んだあとにメニューをちゃんと見て、それから一番甘くできそうだからと、カフェオレを頼む。
テーブルの下からミルクやらコーヒーやらを取り出した髭を生やした店主は、自慢げにそれを紙のカップに注ぎ始める。目の前で上がる湯気にはコーヒーの香ばしさが存分に溶け込んでいて、あっという間に待ち遠しくなった。……けれども、そのままじゃまだまだ苦いはず。そこでぼくは店主に「砂糖多めで」と申し出ていた。
「はいよ〜。どれくらい入れるかい? うちは角砂糖だよ」
声が大きくて快活に笑う、髭を生やした店主がぼくをちらりと盗み見た。そんなことを聞かれたことがなかったので、ぼくはるんるんと胸を弾ませて身を乗り出す。
「ええ、何個まで入れてもらえるの?」
「はっは、お客さん、さてはかなりの甘党だね? じゃあ、特別大サービスで、六個まで入れてあげる」
「ほんと!」
「身体にはよくないから、この一杯でやめるんだよ。はい、お待ち」
「わー! ありがとう!」
丁寧に蓋を被せて温度が逃げないようにしてくれたものを、カウンターにスライドさせるようにして差し出された。その慣れた手つきに感動を覚えたところで、髭だらけのお顔が柔和に笑む。それを握った瞬間にもふわりと香ばしさが漂って、合わせてとても満たされた心持ちになる。
店主のおじさんにさよならと告げようと思い、また顔を上げると、すでに次のお客の対応を始めていた。どこか消化しきれない気持ちが残ってしまったけども、つい昨日ほどギルベルトくんと話したベンチに向かおうと、今度は公園へ向けて顔を上げた。
すると、どうだろう。昨日と同じ真っ赤なパーカーを着て、ギルベルトくんは既にそこで手を振っていた。他に子どもは一人もおらず、すぐに目についたのもあるけど、互いの姿が認識できるくらいにはもう間近だった。
手を振るギルベルトくんの笑顔が記憶の中のそれよりもよほど燦々と輝いていて、たちまちぼくの心の中も晴れやかに澄み渡る。ああ、もう、ぼくはギルベルトくんが好きだなあと、深い意味を考えずに得心がいく。ぼくよりもベンチに近いギルベルトくんは立ち止まったまま、少し格好をつけるように片方の腰にだけ手を当てて、ぼくがのろのろと歩いていくのを待ってくれていた。……ぼくがのろのろと歩いていたのは、手には熱々のカフェオレを握っていたから。
「ねえ、ギルベルトくん聞いて〜」
まだ挨拶する距離ですらないというのに、ぼくは抑えられずにギルベルトくんに笑いかけていた。一刻も早く時間を共有したかったんだと思うけど、まさか自分の中にこんなせっかちな部分があるだなんて意外で、また会えた喜びと一緒におかしくって顔がとことん緩んだ。
ようやく会話をする距離になり、「おうよ」とまた格好をつけて応えるギルベルトくんに笑みを見せる。身長差はかなりあるんだけど、よく物怖じされるぼくでも、ギルベルトくんはあくまで凛とした態度のままで、それも気に入っていたのかもしれない。
「そこの屋台でカフェオレ買ったらね、お砂糖たくさん入れてくれたんだよ」
「ほう? よかったじゃねえか。角砂糖だっけ?」
「うん、角砂糖じゅっこも!」
言ってから、あ、また大袈裟に言っちゃったと気持ちに影が差す。どうしてこう、何も考えずに嘘を吐いてしまうのだろう……けれど、自己嫌悪なんてしている暇もなく、ギルベルトくんはまた呆れた顔つきで「はあ?」と声を潰した。
「イヴァン、嘘も大概にしろって」
「え、」
「当ててやるぜ。六個だろ、角砂糖六個」
あまりの迷いのなさに口元はあんぐりと開いてしまう。なんでそんなにぴたりと当ててしまうの。もう既に、嘘を吐いてしまった事実よりも、ギルベルトくんの楽しそうな笑顔に飲まれていた。罪悪感はどこへやら、
「ほらな、見ろ。嘘吐いてんじゃねえか」
「……す、すごい……君やっぱりすごい……!」
そこで立ち止まったまま、言葉にできない感嘆符をひたすら眼差しに込めて伝えた。
人の心が読めるなんて、本当にそんなことがあるんだと、くり返しぼくの中で感動が巡っている。今回の取材旅行のどのインタビューや撮影よりも、断然どきどきとときめいていた。
――のに。
ギルベルトくんの表情が一気に固くなった。何かを思い出したように一度視線を外されて、戻るころには特大級の苦笑に変わっていた。どこからそんな苦虫が紛れ込んだのやら、ぼくは一生懸命に彼の言葉を見守った。
「……なんか、お前が可哀想に見えてきたから教えてやるよ。特別な」
そう前置きした彼は、どこか自信なさげで、ぼくには甚だ危うく映る。
「俺様、本当は心が読めるわけじゃねえんだ。……ここでよく買ってるやつ知ってんだよ。そいつもよく砂糖多めでって言うんだけど、決まってそこのおっさんは六個入れんだぜ」
なにかを隠すように、また視線が泳ぐ。
「……そ、そうなんだ……はは、よく見ててすごいね……」
一応はそう返したけども、あまりの不自然さに、彼の言葉の裏を読めを言われているような気がしてならず、ぼくは違う言葉に変換して聞いていた。至ってシンプルだ。
――やっぱり、ぼくみたいな他人に知られたらまずいこと……だったよね……。
それから、興味本位で友だちになりたいと騒いだ自分の軽率さを恥じた。誰だって自分が持つ特殊な技能について、面白半分で首を突っ込まれるのは嫌だろうと、今更思い至る。他人の心を読んじゃうなんて、楽しいことばかりじゃないだろうし……ああ、ぼくはなんて浅はかだったんだ。心の中で項垂れた。……ギルベルトくんがそういうことにしておきたいなら、そうしたほうがいいのだと、納得はすぐにできた。
ちら、とギルベルトくんを一瞥する。そうして初めて、ぼくはこの運動広場の外周を埋める藪を目で追っていたのだと気づく。それに反して、どうやらぼくのことをずっと見ていたらしい、その幼いながらに力を持つ瞳が、ぐつぐつと責め立てているように見えた。
「イヴァンってさ、なんで嘘吐くの?」
「え?」
これ以上ないほどに真っ直ぐな問いかけに、意識のすべてを貫かれる。途端に頭が真っ白になって、
「お前、よく嘘吐くじゃん。なんでって思うくらい、どうでもいい嘘」
「……う、うん……」
もうなにも思考として浮かばなかった。ただただぼくの身体に溢れていたのは、罪悪感とか焦燥感とか嫌悪感とか、そういった類の感情で、それらが、一緒くたになったような重く苦しいわだかまりに、完全に囚われていた。
確実に悪気のないギルベルトくんは、ぼくに止めを刺すように続けた。
「……そんな顔するなら、やめれば?」
ぶわ、と意識が散漫になる。言葉が浮かばなくなって、それでもなにかを紡がなくてはと必死にぼくのなかの言語を探した。けれど、かき分けてもかき分けても、嫌悪感の奥へ奥へと突き進んでいくだけで、どうしても見つけられない。恥ずかしかった。ぼくは。言葉も、わからなくなっていた。イヤダイヤダと逃げ出したい気持ちで、どんどん深みにはまっていくだけで――
「――あ、えと。とりあえず、どっか座るか」
ぼくのなかの言語スイッチを再びオンにしたのは、ギルベルトくんのその一言だった。
すうっと呼吸を認識して、続いて鼓動を意識的に捉える。今の、得も言われぬ感情とはいい難い〝感覚〟に、おののいていることも自覚した。それらを隠すように必死に笑った。
「……あ、うん、ごめん……そうしようか」
一気に居心地が悪くなった。今更ぼくからなにを話していいのかを見失う。昨晩ホテルで、次に会ったら聞こうと、いろんなことを思い浮かべていたはずなんだけども、それらの一つも思い出せない。
気まずいままにベンチに座り、それまでの間になんとかギルベルトくんとの話題を絞り出していたぼくは、先ほどの動揺を悟られまいと平静を保って笑いかけた。
「ねえ、ギルベルトくんはなんでこの時間に会えるの? 学校は?」
散歩している老人や、明らかに時間が自由そうな中年が休憩がてら寄っているだけのような、そんな閑散具合だ。これを見れば、誰でも疑問に思うに違いなかった。他に子どもがいないのは、まだ学校がある時間だからで、ならばこの子はいったい?
ギルベルトくんの溌剌とした笑顔がそこに咲いた。
「俺様は優秀だからな、学校なんか行かなくても、勉強ばりばりってわけ。家庭教師もいるしな」
「ん? つまり通信制かなにかかな?」
「そうそう。つーしんせー!」
「そうなんだ……」
ぼくがこのとき考えていたのは、心が読めるって大変だなあということで、これも伝わっているのかと思うと少し不思議な気持ちになる。
ともあれ、こう元気いっぱいに肯定されると、やっぱりこの子はまだ子どもなんだなあと実感する。いや、目線も背丈もなにもかもぼくより下にあるわけで、もちろんそれを忘れたことはないのだけど。立ったとき、だいたいギルベルトくんの頭はぼくの胸くらいの位置に当たる。
なんとも自然な流れだった。ぼくはそういえばギルベルトくんはいくつなんだろうと疑問に思っていたことを思い出して、その思考が読まれたからなのか、ギルベルトくんに先手を打たれた。
「イヴァンは? イヴァンはいくつなんだ?」
さすがと過る。
「ぼく? ぼくは十九だよ。ギルくんは?」
「十九……」
ぼくの年齢をくり返す口元がなんとも言えず愛らしく見えた。少し不服そうなのは、いったいぜんたいどうしてだろうか。悪い気はしないのだけど、そのあとギルくんは口元を尖らせたまま「俺様は教えてやんねえからな」と念を押した。
不満に声を上げるのも当たり前な話で、
「ええ、それは不公平だよ〜!」
飛びつくように抗議したところ、教科書通りのべーをしてみせられる。その舌すらも幼くてかわいらしい。
「最初からお前と俺様は公平じゃねえんだよ! 大人なんだから我慢しろ!」
と、いじめっ子のそれを彷彿とさせる表情を作り上げた。なんとも強引な俺様ルールには納得はいかないけども、『大人なんだから』と言われると、う、と二の足を踏んでしまう。その言い分はとてもずるくないかい、君。
これからどう太刀打ちしていこうかと、頭の中で捏ねくり回していたところ、は、と二人して唐突に意識が公園の外に向いた。
少し離れた公園の入口に立ち、「お〜い! ギルベルト〜!」と呼んでいる初老の男性がいた。ギルベルトくんの父親にしては少し老けているなんて思ってから、失礼だったよねと隣を盗み見た。彼はそんなことを気にしている様子もなく、
「うわ、親父だ、今日早すぎじゃね!?」
独り言を零しながらベンチから立ち上がった。
「悪い、イヴァン、俺様帰るぜ!」
「え、あ、うん? 気をつけてね」
とっさには引き止める口実も思いつけず、本当はとても胸の中がもわりとわだかまったのだけれど、〝大人らしく〟聞き分けよく彼を見送った。手を振っていたのも、ギルベルトくんは気づかないまま、わあわあとなにかをしゃべりながら、男性のほうへ走っていく。……『親父』と呼んでいたから、やはり父親で間違いないんだろう。ぼくのほうへへこりと会釈をして、けれど、ぼくが会釈を返す間もなくギルベルトくんへ視線を戻していた、品のある初老の男性。
どこかのタイミングでふり返って、ぼくが手を振っていることに気づいてくれるといいなあという気持ちで、しばらく上げた手をそのままにしていたぼくは、いつまでもその手を空振りしていた。
父親に飛びつく勢いで合流してからも、楽しそうになにかをおしゃべりしていて、それからも、ぼくになんか気づく気配はまったくなかった。完全に蚊帳の外になってしまったぼく。――不意に、客観的に自分を見てしまった。元々ぼくとギルベルトくんは昨日会ったばかりだし、もう明日にはお別れすることが決まっている。……どんよりとこころが雲行きを怪しくして、どんどん手を振る動作からエネルギーが抜けていく。抜けていくのが、自分でわかる。まだなにも知らないのに、と悲しくなる。
そのときだ。
くるりとギルベルトくんの身体が踊るように回って、今度はぼくが手を下ろす間もなく、そのままぼくのほうへ走って戻ってくる。なにごとかと脳みそをフル回転して、ギルベルトくんからの弁を心待ちにした。
「あれ? どうしたの?」
笑って迎え入れると、
「夕飯までに帰ればいいって」
「そうなんだ」
ギルベルトくんもどことなく嬉しそうで、それを見たら、ぎゅうっと胸が苦しくなる。先ほどの〝悲しさ〟とはまったく質の違う苦しさだ。どうしてこんな心持ちになるんだろう、むしろ、この不可解な心持ちは、きっと気のせいだと、慌てて自分の思考をかき消した。……だって、ギルくんに読まれてしまう。……読まれてしまって困る感情だろうか、また意識すると余計な疑惑が浮かぶ。そしてまたくり返し、自分で自分の思考を振り落とした。
「――今のはお父さん?」
「おう。まあ、そんなところ」
にんまりと笑って見せてくれる。
その笑顔がぎこちなく見えた。どうしてだろうか、ぼくはまた深くを考えず、
「……大丈夫?」
なんて尋ねていた。
ギルベルトくんは深く首を傾げて、「何がだ?」と問い返していたけど、まあそう返したくなるのもわかる。とても残念なことに、
「ごめんね、ぼくは君みたいに心を読めないから……」
唐突に己を無力に感じる。もっと上手くいろんなことを察してあげられたらよかったんだけど。そう思っている間にも、ギルベルトくんの『なにを言ってるんだ』という空気は深まる一方だったので、慌てて「いや、なんでもないならいいんだけど」と取り繕った。
それがまた失敗だった。ギルベルトくんもつられてしまったのか、どこか決まりが悪そうに、「まあ、うん、なんでもねえよ?」と返して笑い直すだけだった。
「それよりあのさ、」
ぼくのよりも幾分も小さい手のひらが、なかなか様になる所作で本人の腰に添えられた。どんと構えて、不敵に笑うギルベルトくんは、今日はまだ木漏れ日にならない日差しの下で、眩い銀の髪がベールみたいに光を透過させている。
「イヴァンが研究してる映画って、『こころの羊』って言ったろ?」
「うん、そうだよ。知ってる?」
「俺は知らないけど、ここいらでは有名なんだって聞いた」
断言したかと思ったら、
「俺は見たことねえんだけど、有名な星空のシーンがあるんだろ?」
続けられた言葉に、その名シーンが浮かぶ。ぐるぐると厚い羊毛に包まれていたヒロインのこころが、主人公に対して初めて開かれるシーンだった。どこかの丘で撮影された満天の星空で、この映画の見せ場の三本指に入るほどのシーンだけど、どこでもないただの〝丘〟だったため、その詳しい位置情報はあまり知られていない場所だった。それもあり、すぐに話題に食いついてしまった。
「あ、うん! あるある!」
「その場所、連れてってやるよ」
親指を立ててその方向を示し、なんとも男前にそう宣言したギルベルトくん。
「ほんと!? いいの!?」
「おう、いいぜ。そのほうが班のやつらも助かるだろ!」
「うん!」
勢い良く立ち上がったぼくは、あっという間にギルベルトくんと目線の高さが逆転する。やっとで抑えられるほどの抱きしめたい衝動を追いやって、誤魔化すようにるんるんとカメラを構え直した。確かめるようにじりじりとネガを巻く。
ギルベルトくんの笑顔が楽しそうに踵を返して、既に一歩を踏み出しながら教えてくれる。
「さっき来た俺の親父。親父がな、昨日の夜、その場所を教えてくれたんだよ」
「そうなんだ」
丁寧に会釈をしてくれた男性を思い出して、感謝の気持ちが絶えず溢れる。まさかたどり着けるとは思っていなかったその名所に、さらにまさかのギルベルトくんに案内してもらえるなんて。昨晩の時点では思ってもいなかったから、余計に喜びでいっぱいになった胸が、窮屈だと悲鳴をあげて、また不可解な軋み方をした。
数歩だけ進んだギルベルトくんが足を止めてふり返る。
「……どうする? 行かねえの?」
まるで悪巧みをけしかけるような笑顔は、ぼくの中に埋もれた歓喜や萎縮や郷愁なんかを呼び起こしていく。その上で、丁寧にぼくを待ってくれているという、取り分け強い優越感を、容赦なく叩きつけているようだった。
ぼくたちが公園を出る際、すれ違いで子どもたちの集団が公園に雪崩込んでいた。年のころもギルベルトくんと同じくらいだと思ったけど、ギルベルトくんとは目配せ一つせずに通りすぎていく。この近所の子どもたちだろうに、そう気に留まったけど、そうか、ギルベルトくんは通信制の学校だったと思い至る。……友だちは、いない……?
気になったけど、もちろん道中でそんな話はしない。ぼくの住む街の話をせがまれて、いろんなことを話して聞かせた。自分でももうどれが嘘でどれが本当かわからなくなっている話も含めて。そうしている内に日はほんの少しだけ傾き、ギルベルトくんは「ここを登りきったら到着だ!」と意気込んで小高い丘を紹介していくれた。
――ついに。ついにぼくは。ギルベルトくんの、果ては彼の親父さんの図らいで、班のみんなに胸を張れるほどの情報を入手できていた。
まだ日が出ている景色ではあったけれども、それを何枚もカメラのフレームに収めて、今晩もう一回来ようと、携帯電話の位置情報を保存した。こんなとき、みんなが持っているようなスマートホンにすればもっと早くことが進むのだろうと思うと、少し複雑な心境になる。
「よお、撮影は終わったかー?」
一筋だけ舗装された石畳の道筋があり、その脇、木の陰からギルベルトくんが顔を出して戻ってきた。気づけば日はもっと傾いていて、橙色を帯び始めている。ぼくはギルベルトくんを見つけて、彼が立っているほうへ向かった。
画面の中で見慣れたこの光景を目の当たりにしただけで大興奮してしまったぼくを笑って、「ちょっと湖のほう見てくるわ。ゆっくり写真撮ってろよ」とギルベルトくんは言って、草むらに消えていった。この場所の近くに珍しい野鳥が見られる湖があるらしいとは、道中で聞いていたから、気をつけてねと声をかけて、すぐさまファインダーを覗いていたぼくだ。そうして彼と別行動になって、もう三十分以上も経っていたなんて、携帯電話の時計表示を見てびっくりした。
「……あれ? それ、どうしたの?」
「ん? あ、ああ」
頬の辺りに少し土埃がついているのは初めに気になったのだけど、近づいたらふくらはぎの辺りに擦り傷が見えた。公園ではこんなものはなかったはずなのに、と、慌ててギルベルトくんの顔を見たら、ひどく動揺したように目をふるわせて強張っている。
「な、なんでもねえよ。ちょっと、こけた……だけ……」
「ええ!? 大丈夫!?」
ここへ連れてきてくれたのはギルベルトくんだけど、確実にこの場の現場責任者は年長者のぼくだった。そんなぼくがギルベルトくんを放って一人で撮影に夢中になって……こんな怪我をさせてしまったことに気が咎めた。どうしていいかわからないけど、なにを考えるよりも先にギルベルトくんの側に寄って、上からの目線のまま「どこで転けたの!? 湖に落ちてないよね!?」と詰問してしまっていた。
ギルベルトくんは勢いを殺すようにぼくの身体を押し返して、「大袈裟だなイヴァンは、こんなんいつものことだよ」なんてなだめようとする。けど、そんなわけないじゃない。ぼくの中の悔しさや不甲斐なさは拭えず、
「うそ! 血も出てるしっ、」
無意識に掴んだ手首が大きくびくつく。我に返ると、目前の〝子ども〟は、自分の頭を守るように反対の腕で顔を覆っていた。さらに衝撃が走る。――こんな大きな〝大人〟から力いっぱい引っ張られたら、どんな子どもだって緊張してしまう。いつも畏怖せずに対等のような態度を取ってくれるから、忘れていた。ぼくはギルベルトくんとは年齢だけじゃなく、体格も体力も大幅に違うんだと。
そっと手首を放して、ごめん、とできるだけ小さくぼやいた。本当はただやさしく伝えたかったんだけど、とっさのことにやり方がわからなくなり、小さくなってしまっただけだった。
少し距離を置き、ギルベルトくんが警戒を解くのを待ってから、
「……ほかに痛いところはない?」
ガードを失くした頭をゆっくりと撫でてやった。日が沈む前の弱い橙が、ギルベルトくんの銀の髪を染めている。いつも焦がれるように見ていたそれを、指の先で感じているのはなんとも新鮮だ。
ちら、とその幼い瞳がぼくを盗み見る。未だに完全に下ろしきっていなかった腕をようやく下ろして、行き場をなくした警戒心に戸惑うように「どこも痛くねえよ」と、誰もいない草むらに向けて零していた。その言葉はぼくの喉元に一度引っかかって、一呼吸置いてから「そう、よかった」と告げることができた。合わせて、頭を撫でていた手を下ろす。
互いに少し気持ちは落ち着いただろうか。
きっと痛むだろう傷とその周りをもう一度よく見て、さらに腰を落として傷口の細部を確認した。細かい土のくずが入り込んでいて、きっとどころか、これはかなり痛んでいるだろう。ハンカチの一つも持ってこなかったことにも後ろめたさを抱く。一度公園に引き返して、蛇口を探して洗うかなあと見当をつけながら顔を覗き込んだ。
「歩ける? おんぶしようか?」
ようやく警戒心が解けたのだと、その目つきでわかる。様子を窺うような控えめさが消え、
「……はあ? ふっざけんな! 誰がおんぶなんか!」
本人の〝嫌〟を全面的に押し出していたからだ。
けれど、明らかに立ち姿がぎこちない。重心が左のほうへ寄っている気がするし、誤魔化しようもないくらいだ。もしかして強がっているのではと思わないほうがどうかしてる。この怪我はぼくの責任でもあるのだし、大事に至っては困る。ついにぼくは、ギルベルトくんから三歩ほど離れた。
「じゃあちょっと、」
「?」
「歩いてみて」
大袈裟に『してやられた』という顔つきになった。やっぱり痛んでいるのを隠している。確信を持って、
「ほら、なんともないんでしょう?」
意地悪くそう促してやる。
ギルベルトくんはそれでも尚、意を決したように呼吸をして、重心を置いていた左足はそのまま、右足を前へ伸ばした。ゆっくりとつま先を地べたに近づけていくけども、その時点で既に険しい顔を作っている。
「……っ」
音にならないよう、押さえ込んだ吐息が漏れた。それ以上は見ている必要もなく、
「やっぱり」
急いで彼の身体を支えるように近づいて、また腰を落とした。そのまま右足を持ち上げてやると、誘導してやるまでもなく小さな手のひらはぼくの肩に乗り、安定を図るように身体全体で右へ左へと重心の置き場を探っていた。
「……こっちの足だよね?」
下から見上げる。一度落ち着いたはずの顔つきはまた動揺の色が濃く出ていて、返事をもらえなかった。よほど痛むのかと思い、勝手に運動靴を脱がせて、
「おい、いいって、」
抗議されていることはさておき、そのまま靴下もするりと脱がせてやった。脱がせた靴の中に脱がせた靴下を丸めて入れ込む。……そうして現れたのは、見事なまでの青あざになった足首だ。しかも少しぷくりと盛り上がっている。……これは、もしかすると、もしかするかもしれない……。
「あらら、これ、たぶん大丈夫じゃないよ……。腫れてるね」
顔を上げてまたギルベルトくんのほうを見てみたら、彼は未だに青ざめていたというのに、
「腫れてねえよ、大袈裟だっつうの。靴返せ」
横柄な態度で手を伸ばし、わかりやすくぶう垂れた。そんな彼に大人気なく苛立ってしまったらしいぼくは、とっさにそれらを彼から遠ざけた。ぎり、とわざと視線を強くしてギルベルトくんを見返す。
「だめだよ、ギルくん、無理したら! なんでこんなになってるのに我慢するの?」
『ぼくは大人』よろしく、深く考えずに弁を振るった。だけど、彼の唇は尖ったままで沈黙する。それにもさらにわだかまってしまい、「痛いんでしょう?」と、叱っているようにもとれる口調で責めてしまった。……だって、痛いはずなのに、それは変わらないはずなのに、意地を張って頼ろうとしないのが、とんでもなくもどかしかった。どうしても、痛いことを認めさせたかった。
なのにギルベルトくんは、じっと返答を待っていたぼくに対して「痛くねえよ」と、改めて頑なな態度を見せる。もわりとまた、わだかまりが渦巻いた。なにも考えないまま「うそ、」と叱って、勝手知った風に少し右の足首を捻ってやった。
当然ギルベルトくんの身体全部が驚いたように跳ね上がり、「いってえ!」と叫び声を上げる。狙い通りだった。
「何しやがんだクソイヴァン!?」
そして、ぼくをクソ呼ばわり。更に腹が立った。ここへ来て、そういえばぼくは子どもが苦手だったことを思い出した。こういう聞き分けなくぴーぴー騒ぐ子どもが、特に嫌いだ。苛立ちに任せて、ギルベルトくんの空いていたほうの腕を掴み、注目を強制するようにぐっと引き寄せる。
「そんなに痛いのに、子どもがそんな嘘吐いたらだめじゃない!」
とどのつまり、大人ぶっていたぼくはこれっぽちも大人になれていなかったことにも気づかず、
「お前だって嘘吐くだろ! なんで俺様はだめなんだよ!?」
真正面からぶつかってきたギルベルトくんの反論に、面食らってしまった。怒髪天を突かれたように激昂する。
「いっ、今はぼくの話はしてないでしょ!?」
「そうやって大人はいつも棚に上げるんだよな! お前だってほんとのこと言うのこわいくせに! おんなじじゃねえか!」
「……っ、」
言葉に殴られたように錯覚したのは、これが初めてだった。とっさにぼくの中で噴火していた怒りがまた、言葉を失い、ぐり、と胃の辺りを思い切りよく抉った。
――『こわいくせに!』
自分でわかっていることと、誰かに指摘されることは違うことだ。ばれている。ぼくが等身大の自分を曝け出すことを恐れていること。自分の一番隠してしまいたいことを、こんなにもあっさりと知られている。恥ずかしい、悲しい、悔しい、だいきらい。どの言葉も、今のぼくのこころを包んでいる感情には足りなかった。
ぐわ、と眉間に力が入ったかと思うと、今度は目元に熱がこもって視界が歪む。とっさに奥歯を食いしばった。
どうしてこんなに動揺しているのか、ぼく自身もさっぱりわからないのだけど、
「……な、な、な、なんでお前が先に泣くんだよ……!? ばかじゃねえの……!」
言われながら『ぼくだってこんなに必死に堪えてるのに……!』と、それだけは脳裏に言葉として浮かべることができた。必死に見返していたギルベルトくんの姿はそれ以上歪むことはなく、
「うるさい……っ! 泣いてないでしょ……!」
ぼくの声もふるえていなかった。……大丈夫だ。ぼくはちゃんとぼくを保っている。
満足に動揺も治まっていなかったけど、あえて何事もなかったようにギルベルトくんの履いていないほうの靴を握った。
「とにかく、ギルベルトくんは黙ってぼくにおんぶされてればいいの!」
否応なしにギルベルトくんの前に屈んで背中を見せてやった。ぼくの心理状態がどうであれ、なんとしても自宅に送り届けなくてはならない。
「ぜ、ぜってえやだ……!」
少しでも考えてくれるのかと思っていたけど、甘かった。ぼくが背中を見せてすぐさま、ギルベルトくんは片足で立ってふらふらしていたにも関わらず、ぼくを睨みつけていた。
ぼくの苛立ちは最高潮に達する。
……もういい。そんなにしてまで意地を張りたいなら、ぼくはもうどうしようもない。投げやりになってしまい、ギルベルトくんの前にどん、と空の靴を思い切り叩き置いて、二歩ほど下がって腕を組んだ。
「じゃ、ぼくは君をここに置いていくからね」
「……!」
「そんなに意地張りたいなら最後まで張ってればいい」
そのまま後ろ向きに更に一歩下がった。
頭上に広がる夕暮れの空は、いつの間にか佳境を迎えていた。ビビットピンクに覆いかぶさるプルシアンブルー。
ギルベルトくんは更にぼくに対抗して、その場にどかりと座り込んだ。乱暴に空いた靴をひっつかんだのを見ると、その靴をまた履き直そうとしているらしい。……ぼくが丸めた靴下をポケットに押し込んで、顔を歪めながらその運動靴を手早く履いて見せた。
「おうおう、だったら早く帰ればいいだろ! 俺様痛くねえからな、自分で歩けるからな!」
芝生の草に手を突いて、左足を中心にひょいと立ち上がって見せる。不敵な笑みの割に青ざめているところを見ると、どこまでその意地は続くことやら。
「ふうん!」
互いに引っ込みがつかなくなっていた。ぼくは知らんぷりして身体を反転していたし、ギルベルトくんも「くっ」と漏らさぬように抱え込んだ声を落として、その意地と格闘しているようだった。
ざ、ざ、ざ、と響くのはぼくの足音のほう。もちろんギルベルトくんの足音はそんな軽快には響かず、むしろ唸るような声が不安定にぼくの意識に紛れ込む。――それまで抱えていた怒りが、どうしてか唐突に哀しみに姿を変えた。いったいどうして唐突にそうなったのか、自分でも理解ができず、戸惑ったままふり返った。
ギルベルトくんは未だに歯を食いしばって、一歩、また一歩と、不恰好にその歩みを進めていた。左足に重心のほとんどを乗せているせいで身体のバランスが取れず、ひょこひょこと大きく腕を振って……それでも文句も垂れずに一人で進もうとしている。
――どうして。なんで。
ぐ、とお腹に力が入った。
なんでそんなになっても、頼ってくれないの……?
ぼくはようやく気づく。ぼくはずっと、素直に頼ってくれないことに苛立っていたんだ。そしてこれは、ぼくの完敗だった。ぼくが……ぼくがもっと上手に〝頼れる〟ようにすればよかったのだ。なのに、かっこ悪く自分の気持ちだけを大事に守って……これではまるで、ぼくがギルベルトくんに甘えてるみたいだ。
すっかりビビッドピンクが消えた空の下で、ギルベルトくんのその頑なな態度は、どこまでも愚鈍で不器用に映った……そして、健気で、愛おしい。言葉を失くしてその様子を眺めている間に、勝手にぼくの中にあるなにかと重ねてしまったからだろうか。もっともっと彼に寄り添いたいと思った。
「――はあ!?」
ギルベルトくんの大きな声が上がる。それは既にプルシアンブルーよりもいくつも深みを増した暗がりの空に、軽く吸い込まれていった。あ、思考が読まれてしまったかなと思ったぼくだけど、ギルベルトくんの焦燥しきった顔は、まっすぐにぼくのほうを見ていた。
「だから! だからっ、なんでお前が泣くんだよ……!?」
足を止めて、わざわざギルベルトくんが指摘してくれる。そうしてぼくは、この両方の頬を駆け下るくすぐったさは、涙だったんだと自覚する。ずず、と鼻をすすれば、少し涙も落ち着いたような気になる。
「ごめんね……ギルくん、ごめんね……」
抑えられていなかった。逸る気持ちのままギルベルトくんに歩み寄り、
「なんでだろ……っ、ぼくっ、」
目元を拭ってから改めてギルベルトくんと対面した。こんなに格好悪いところを晒して、ぼくはなんて情けないんだろう。未だにずびずびと鼻をすすりながら、照れ隠しに笑うしかなかった。そうしたら、つられたのだろうか。対面していた滾るような瞳から、はらはらと水晶のような大粒の涙が溢れ出してくる。本人としても不意だったらしく、ひどく動揺していたギルベルトくんは、「うっ、うっ、」と苦しそうな呼吸を始めた。息が追いついていないようだった。
「……っ ば、ばかやろっ……!」
乱暴に瞳を拭う動作すら、ぼくの意識を独占した。満天の星空の下でのその様子は、どんな映画のワンシーンよりも美しく、息を奪うほどの痛烈さを孕む。
ギルベルトくんの目の前でぼくは自分の涙を拭い、そしてうーうーと唸るように泣くギルベルトくんの涙も拭って、〝甘えやすい〟ように、
「お願い……お家まで、おんぶさせて……」
そっとお願いする。今はもう暗闇を含んだ銀の髪が、ふさふさと上下に揺れた。簡単なことだった。
ようやく互いに近づくことができた。そんな気がしただけなのに、ぼくは勝手に安堵して、ギルベルトくんに改めて背中を向ける。途端にずしりと、思っていたよりも重量を持った身体がぼくに乗る。華奢に見えても、そこにはしっかりと重みがある。でかく育った自分の身体を少し誇らしく思いながら、ゆっくりと腰を上げた。
「……痛くない?」
投げかけてやると、
「……痛い」
静かに返ってくる。
なんだろう、もう、それが、その一言が、だめだった。一気にまた胸の中が苦しくなって、じわじわと目頭まで熱が迫っていく。もう守るものなんてないのに、それでもまた歯を食いしばって涙を堪えた。……こんなにも、胸が張り裂けそうで、息が苦しいなんて。ぼくの背中に乗って、鼓動を預けてくれている温もりが、大事で大事でやりきれなかった。この気持ちをどうしたらいい。持て余すほどの――これは、たぶん、好きという気持ち。大事に大事に、したい、そんな気持ち。
まだ小学生の小さな子どもに、ぼくはなんて感情を抱いているんだろうと、自分を咎めた。けれど、咎めれば咎めるほど、その気持ちはすうとぼくの中に浸透していき、拒む隙も与えてくれない。
……心を読めるギルベルトくんには、おそらくもう、とうの昔に伝わっている。大人の、しかも昨日知り合ったばかりの、そんなぼくから、こんな感情を読み取ってしまったら、きっと居心地悪いだろう。申し訳なくなった。けれど、否定しようとする言葉は、不自然なまでにしばらく続いた。
「――あれ、ギルベルト?」
がしゃりと重そうな玄関が開いたあと、まさしく今日こそ見かけた初老の男性が顔を出した。
頭上に広がっていた満天の星空は、先ほどよりも強く輝きを持つ時分になっていて、ぼくはギルベルトくんに誘導されるがままに、三十分を超える道のりを完歩しきっていた。……もちろん、ギルベルトくんをおんぶしたまま。褒めてほしい。
何軒も連なる邸宅の内の一つの玄関から覗いた男性は、シチューのような、少し甘い匂いをまとっている。出迎えてくれた親父さんは、図体のでかいぼくなんか眼中にないように、一直線に背中に乗っているギルベルトくんを見て、至って真面目な調子で続けた。
「どうやら私は、君の年齢を把握し損ねているようだね」
ぽろりと零すような言い草に、ギルベルトくんはぼくの頭越しに「うるっせえよ」と力いっぱいの反論をした。その声の張りですぐにわかる。この二人は、本当に仲がいいのだと。……親子なのだから当たり前なのだけど、どうしてだろう、また、胸中が少し切なくなる。
「あの、すみません、ぼくがちゃんと見てなくて……足を捻らせちゃいました……」
ギルベルトくんの親父さんは言われるがままに、ぶらぶらとぶら下がる可愛らしい足を一瞥して、
「ああ、そうだったのか」
玄関をより広く押し広げてくれた。
「じゃあ、奥のソファに下ろしてくれるとありがたいのだが」
「はい、失礼します」
開かれた玄関から中に入り、段差のない玄関で雑に靴を脱ぐ。ギルベルトくんの小さな手が「あっち」とぼくの視界で、それまで通り方向を指して誘導してくれるので、あっという間にこの家のリビングにたどり着くことができた。
そこに大きな一人がけのソファが目に入り、「そこ」と更に案内され、その前に向かった。ところどころスウェードが剥げて、年季の入り方がよくわかる大きな一人がけのソファ。骨組みは木製だろうか。アンティークソファの類かもしれない。ともあれ、そこにギルベルトくんを下ろそうとする。ゆっくり、ゆっくり。
「……っ」
痛みに揺れる声がする。
ぼくはより一層慎重さを意識して、腰の高さを下げていく。ギルベルトくんの体重が浮いたことを認識して、次にその温かな手がぼくの首の周りから離れ、それでようやく、彼がソファに安全に降り立ったのだとわかる。
「大丈夫?」
膝立ちになったままその場でふり返り、ギルベルトくんの顔を覗き込んだ。ちら、と一目だけくれたギルベルトくんは、バツが悪そうに視線だけをソファの肘置きへ追いやり、ごくごく小さな声で「……おう」と答えてくれる。
先ほど、二人してみっともなく泣いたあとだったことも手伝って、まだそんなに唇を尖らせて、と面白くなった。無事にミッションクリアできたことも含めて、彼の照れくさそうな顔を見ることができてとてもうれしくなる。
「……ふふ、よかった」
不意にだけども、頬の筋肉をだらしなく緩ませてしまう。
腑に落ちないようなギルベルトくんの視線が、腑抜けたぼくの視線と重なって、ぴたりと止まった。じっ、と互いのことを見ていた気がするけど、それがどれほどの時間だったかは、本当のところ、定かではない。
だって、なにを言うよりも先に、キリリと鋭く尖ったギルベルトくんの目線が飛び上がり、
「おいっ! そこ! 見てんじゃねえよ!」
ぼくの斜め後ろ、リビングの入口からぼくたちのことを眺めていたらしい、ギルベルトくんの親父さんに向けて、必死な様相で訴えていたからだ。ぼくがふり返るころには、親父さんは慌てて踵を返すところで、
「おっとと。救急箱、救急箱。イヴァンくん、だったよね?」
どきりと不意を突かれる。
「あ、はい」
「ちょっとこっちに来て手伝ってくれるかい」
ぼくの名前を既に知っていることに対してこの上なく驚いたのだけど、それはさておきギルベルトくんの顔を確認してしまった。彼も『行けよ』みたいな仕草を顎で示してみせるので、ぼくは待たせた分だけ焦り、慌てて廊下を進みだした親父さんの後ろについた。
玄関先で嗅いだシチューの匂いが一際香り、すぐそこがキッチンなのだとわかる。そのキッチンの横にある小さなウォークインクローゼットに親父さんが手をかけ、その扉が開かれるのを一歩下がって見守った。誘導されるがままに一緒に入り、親父さんがなにかを探している様子を、そのすぐ隣で目で追う。
「あ〜、救急箱あったね」
黄色の、少し目立つプラスチック製の箱を取り出した親父さんは、それを引き寄せてから蓋を開けた。更に今度はその中からなにかを探しているようで、がさがさと物を出したり入れたりしている。
「イヴァンくん、今晩我が家はシチューなんだ」
動作と話題の間にできた齟齬のせいか、思わず「ん?」と疑問符を漏らしてしまう。
「せっかくだし、今日は夕飯食べて行くかい」
しかも、尋ねられたことが、あまりにも突拍子もなかったのがいけない。一気に身構えた。
親父さんの手は、未だに薬箱の中で忙しなく働いているし、親父さんの意識すら、すべてそちらに向いているようだった。けれど、言われたことでまず浮かんだのは、ギルベルトくんの顔だ。……心を読める彼は、ぼくの中で渦巻く感情を読み取って、道中どんな気分だったろう。
「……いえ、きゅ、急なことで……ご迷惑ですから……」
きっと居心地が悪かったに違いないと思っていたぼくが、彼が一緒に食べたいと思っているわけがないと至るのは簡単なことで。あまつさえ、きっと早く帰ってほしいと思っている。……もしかすると、ぼくのほうに少し後ろめたさが残っていたのもあったかもしれない。
そんなことをすべて見透かしているのか、親父さんは手を止め、
「あれ、本当にそう思うかい」
またしても大真面目な顔つきで、ぼくに尋ねた。この親子からはよく真正面からぶつけられる問いのせい、頭の中で一人大論争になってしまい、「え……」と動揺した声を出すのが精一杯だった。
親父さんは薬箱からなにかの軟膏と絆創膏と、それから包帯を取り出したことを確認すると、救急箱の蓋を閉め、元あった場所へと追いやっていた。最終的に意識が戻ってきたのは、やっぱりぼくのところだ。
「いいよ、ギルベルトに決めてもらおうか」
「え、いや、ちょっと……!」
それこそ正面からギルベルトくんに尋ねたら、彼に正面から現実を突きつけられてしまう。それが焦りの根本にあったのだと思う。ぼくは必死に親父さんを追い、リビングでソファに座るギルベルトくんのほうへ、自ら進んでついていった。
「ギルベルト、」
「ん?」
リビングに踏み込むやいなや、親父さんは注目を求めながらギルベルトくんの前で腰を下ろし、
「これもなにかの縁だと思うから、今日はイヴァンくんも一緒に夕飯をどうかと思っているんだ。どう思う?」
足の手当てを一旦置いたまま、ギルベルトくんの瞳をじっと見つめた。
「あ、いや、いいですって、ぼく、帰りますから……!」
慌てるような手振りで、ぼくはソファの横から割り込む。ギルベルトくんに『嫌だ』と言われるくらいなら、自分から身を引いたほうがいくらかましだ。この心持ちを彼に託して、彼の回答を静かに待った。ひととき、互いの真意を確認し合うような沈黙が生まれる。
ふ、とギルベルトくんは不機嫌そうにそっぽを向いた。どき、と小さな鼓動が身体を打つ。
「……そ、そうだぜ、こいつにもなんか予定とかあんだろうしな」
「そ、そうなんだ! ぼく、今晩はうんっと忙しい、」
――は、と言葉が止まる。ぼくはまた、自然に嘘を吐こうとしていた。親父さんのお誘いを断るなら、このまま嘘を敢行してしまってもいいと思ったけれど、ギルベルトくんに嘘だとばれるのは必至だ。……いや、そんなことじゃない。ぼくはこれ以上、ギルベルトくんに嘘は吐きたくない。夕飯を一緒に食べる食べないの話で留まるものではない。
そう過ぎったぼくの頭に次に浮かんだのは、〝訂正するなら今だ〟という勇気をふり絞る気持ちだった。まだ間に合う。初めてぼくは、言い切る前に自分の嘘を、省みることができているんだ。今なら、まだ。
う、と言葉が詰まり、それでも葛藤の中を強行した。すは、と小さく息を吸い込む。
「い、いや、本当は……ぼくのほうには……なにもない……」
言葉がまとまらないまま、それでもなんとか〝本当のこと〟を言った。予定がないことを恥ずかしいとは思わない。思わないのに、なぜか泣きたくなるほどの不安を掻き立てられていたし、逃げ出したいのを堪える拳はふるふるとふるえていた。……本当のことを言うだけで、こんなに動揺してしまうなんて、それだけでもう恥ずかしくて、早くこのときが終われと願っていたほどだった。
「ほら、ならば決定だね」
呆気なかった。……なんとも当たり前のように言った親父さんは、なにを気に留めることもなくて、本当にたださらりと流れるような自然さで会話を続けた。……続けてくれた。
ぼくが怯えすぎていたのだと気づいて、今度こそ受けた衝撃の分だけ、どくどくと心臓が波打ってぼくを叱る。
「……ギルベルト?」
呼びかけが聞こえて、そちらのほうを見やった。未だにつん、と唇に角を持たせたまま、
「い、いいんじゃねえの。おんぶさせちまったし」
ぼそぼそとその考えを教えてくれた。
親父さんの強引さに救われたぼくだけど、ぼくが変に頑張ってしまったせいで、ギルベルトくんにもう少し我慢させてしまうことになったのは、後から考え直してとても申し訳なかった。……けれど、親父さんはそのあと、驚くほど穏やかな笑みを浮かべてギルベルトくんのことを見ていて……それがとても印象的に映っていたぼくは、深く深く意識の中に焼きつけていた。
そうして三人で温かなシチューをいただいた。足の怪我はひょっとするとひょっとするかもしれないけど、この時間の医者はどこも開いていないから、明日の朝行こうと話をしていた。
どうしてかずっと不機嫌そうな顔が治らなかったギルベルトくんと、一人でなにやら楽しそうにしていた親父さん、ときたま振られる話題に返すだけのぼく、と、とても支離滅裂な食卓ではあったけど、初めてギルベルトくんと囲むそれは、それだけでお腹がいっぱいになりそうなほどに満たされた。シチューを頬張る彼はかわいい。……こんな気持ちを抱いているのはぼくだけだとわかっていても、そう容易に抑えられるものでもなくて、少し困ってしまった。……明日には地元に帰らないといけない現実を思えば、尚更だ。身体の中がぎりぎりと痛んで、笑顔を保つのがやっとだった。
ギルベルトくんの成績の話や、この地区周辺の商業施設の話……話題もとりとめのないものばかりだったけど、シチューを平らげるくらいなら、それで事足りた。
そのあと、親父さんはギルベルトくんに『足を痛めてるんだから、今日くらいソファでテレビでも見てなさい』と言った。どうやら普段はお皿を下げて、自分の分の食器を洗っているらしい。指示されるがままに、ぼくがギルベルトくんをソファまで抱えて行き、戻ると、親父さんが一人で後片づけを始めようとしていた。この手にはまだギルベルトくんを抱えたときの柔らかい感触が残っていたけど、むしろそれをかき消すようにぼくがお皿を運ぶのを代わり、それから『ぼくも手伝います』とキッチンに入った。
親父さんが洗剤で食器を洗っていき、ぼくがそれを水洗していく。親父さんはその間もずっと一人でいろんな話をしていて、その折に、こんなことを言い出した。
「イヴァンくん、それにしても君はラッキーだねえ」
なんのことかと気を取られ、手元の作業を止めてしまいそうになった。やっぱりそれまでと同じように、一人で楽しそうに話を進めていて、
「あんなに不機嫌なギルベルトは早々お目にかかれないよ」
なんてぼくに教えてくれる。
「え?」
「いやいや、どうやら君は歓迎されているようだねって話だよ。見ていれば、こころを許しているのがわかる」
手元を見る。もこもこの泡が、水に流されてお皿は綺麗になっていく。その様子が鮮明なイメージとなって、ぼくになにかを訴えているようだった。……つまり、ギルベルトくんは普段、こころを開いていない人には、不機嫌な顔は見せないと……そういうことなんだろうか……それって、いいことなのだろうか……。ぼくにはいまいちピンとこなかった。
結局理解しきれず、「そうなんですかねえ」と零したら、そのままのペースでぼくに次のお皿を手渡しながら、「ときに君は、映画の研究をしているんだっけ」と続けられた。話題が変わったことに気づき、そういえばあの名場面の撮影場所を教えてくれたのは、この親父さんだったんだと思い出す。
それから少しだけ、『こころの羊』についての話をした。
どうやら親父さんはこの地で撮影された映画だと知ってから鑑賞したそうだけど、内容にとても惹かれて、それから独自に散策とかして楽しんだという話だった。そのときの話は、直接映画の研究には関係のないものばかりだったけど、それでもとても楽しかった。
最後のお皿を水洗し終えたぼくと、仕上げにシンクを片づけていた親父さんは、すべての締めに手を洗って水を切ったのが同時だった。少し湿ったタオルで手を拭くのも、同じタイミングだ。
「ありがとうね、イヴァンくん」
体勢を整えながら、親父さんが視線を合わせる。自身の腰を労るようにさすり、それまでの楽しそうな雰囲気とはどこかが違う、至って真剣な眼差しだった。その面立ちから、一気に質実さが滲み出してくる。ぼくも背筋を伸ばして声を正し、
「え、いえ……もともとぼくの不注意ですし……息子さんに怪我をさせてしまい、本当にすみませんでした」
てっきりおんぶして帰ったことだと思って、そう連ねた。
そうしたら親父さんはこともあろうか、『なにを言ってるんだ?』と言わなくても伝わるほどに顔をしかめて、
「そういうことじゃないよ、まったく君は鈍感だね」
とんとんと肩を強めに叩かれた。そういえばギルベルトくんにもこんな顔をされたことがあるなと思ったら、それが浮かんで戸惑った。とにかく親父さんの言いたいことにはまったく考えが及ばず、ただただ非力に「ええ」と返して、ほんの少しだけ痛んだ肩を撫でる。……結構力いっぱいだったみたいで、指の先で突かれるような痛みが少しの間だけ残った。
そっとキッチンの出入り口まで歩んでいった親父さんは、その戸枠から控えめに、テレビを見ているギルベルトくんの横顔を眺める。つられてぼくもそこを覗き込むと、それを待っていたように、またとても静かな息遣いで口を開いた。
「ギルベルトがここ数日、やけにおしゃべりなんだよ」
ぼくと一緒にいたギルベルトくんは、割りとよくしゃべる子だったので、あえてそれを言及したことに疑問を抱く。ちらと横目で親父さんを見てみると、なにが気になるのか、本人の口元を隠すように手で覆っていた。そんなことしなくても、これくらい声を抑えていれば本人には聞こえないだろうに、とぼくはまたテレビをぼんやりと眺めているギルベルトくんに視線を戻した。
「……気づいているかどうかわからないけど、ギルベルトは私の息子じゃない」
同じように控えめなトーンで聞かされた真実に、ただ無感情に「ああ」と思った。似ているところがありながら、ときどきぎこちなく感じるのはそういうことだろうか。いろんな辻褄がぼくの中で合致する。「たぶん、息子になる日は近いだろうけどね」と付け加えた言葉は、いったいどんな真意を孕んでいるのだろうか。勝手に読み取ろうとして思考を巡って、でも、それを最後まで待ってくれることはなかった。
「ギルベルトはこころをすぐ開いてくれる子なんだ、とても素直で愛らしい」
口元はまだ覆われていて、声もくぐもったまま。
「だけど、付き合っていく内にわかるんだよ。あの子のこころは二重扉なんだ。『こころの羊』とも似ているね。何重にも羊毛をぐるぐるぐるぐる……本当の想いはどこへやら」
二重扉……。その扉が、とても重く感じた。ぼくは、果たして彼の二番目の扉の前に立つことすら叶っているのだろうか、さっぱりわからない。それと同時に……『羊毛をぐるぐるぐるぐる』、親父さんの言葉に引っかかりを覚える。ほぼ反射的に嘘を吐いてしまうぼくも、二重扉の向こうのギルベルトくんも、こころにふかふかの羊毛をまとった羊を抱えているんだと、ぶつけられたように実感した。
「おまけに周りに頼るのも苦手だからね。君におんぶされているのを見たときは、それはもう驚いたよ」
相槌すら返せなかったぼくは、のめり込むように親父さんの言葉を聞いていた。つまりそれは、少なくとも一つ目の扉は通してくれていると思っていいのだろうか。まさかそれ以上進んでいることは、ないだろうけど。
その指の隙間から微かに聞こえる言葉は、ぼくにはとても大切で、なに一つ見落とせないものに感じる。
目の端に親父さんの動作が映ったのでまたちらと盗み見ると、疲れたのか口元を覆っていた手はようやく下ろされた。声はまだごくごく小さいままだったけど。
「ともあれ、彼の両親の教育方針で、通信課程で学校を終わらせてしまったからねギルベルトは。もちろんお友だちの話なんてしてくれる機会がなかったというか」
気配が動き、再び声がくぐもる。
「けれど、今日見ていてわかったよ。君はギルにとって、」
「――お、親父!?」
二人して戸枠の手前で肩を跳ねさせてしまった。ギルベルトくんの咎めるような声が原因なので、ほぼ同時なのは当たり前なのだけど、咎めるような声色は後ろめたさを一気に掻き立てた。一方的に聞かされていただけとは言え、勝手にギルベルトくんの奥を覗くような真似をしてしまったのは事実だ。
だけど、親父さんはなにを悪びれる風もなく、「あ、ごめん、なんだね」と返していた。……ある意味では、その淡々とした態度には感心する。
ギルベルトくんはどうしてか頬を膨らませて、「な、なんでもねえよっ」とまたテレビのほうへ顔を向けた。今のはいったいなんだったんだろうと思ったけど、少し考えれば明らかだ。親父さんがぼくに彼の話をしているのだと気づいて、それを止めようとしたんだ。……口元を覆ってまで、しかもあんな小声で話していたのだから、とうていこの距離で聞こえるはずはなかったのに。……ということは、ギルベルトくんはこころを読んで気づいたんだ。
ぼくがぞくぞくと鳥肌のように毛が逆立ったのに対して、
「おやおや、いらないおしゃべりしているのがばれちゃったね」
「……すごいですね」
親父さんは戸枠から一歩、二歩と下がって、「ああ、いろいろあったからね」と独り言のようにごちった。今度は鼻先を触るように誤魔化していたけど、また明らかに口元を隠して、「不思議な特技が身についてしまったから、私も秘め事ができなくなって大変だよ、はは」本音を吐露した。まるで失態を反省するように遠慮がちに笑っていた。
確かに、読心術を持つ人間と同居するのは、ぼくの想像を遥かに超える凄惨さがあるんだろう……。この人だから、いや、ギルベルトくんとこの親父さんだから、やっていけているのだろうと楽観した。
「えーと」
なんの前触れもなく、親父さんはポケットをまさぐった。粗雑な手つきは、先ほど薬箱を引っかき回していたときと重なる。そういえば戸枠の前でギルベルトくんについて話しているときにはまだつけていたのに、いつの間にかエプロンを外していた。ぼくもそれを真似て、貸してもらったエプロンを外しながら、親父さんに注目する。
「はい、これ、君にあげよう。今回の旅行の土産だ」
差し出してきたのは、小さな紙切れだった。受け取る前にしっかりと確認して、受け取ったあともしっかりと確認した。……それは親父さんの名刺だった。
さ、と顔を上げて視線で真意をと訴えかけると、
「ここの住所だよ」
と、軽い調子で補足された。めくってみると、確かに流れるような美しい筆記体で、住所が書き添えられている。
「よかったら地元に帰ってからも、ギルベルトに手紙を……、」
まるで本人の中で意志がぶつかり合ったような、変な言葉の止め方をされて、
「まあ、それは気が向くことがあればでいい」
あまり物憂げに続けるものだから、ぼくのほうもぐっと喉の奥がつっかえて、身体がたちまちこわばった。
そのあとぼくはまた親父さんのあとについて、ギルベルトくんのところへ戻った。どちらからも言葉にしなかったけど、もうそろそろ帰らなければいけない。いざリビングに戻ると、ギルベルトくんの不機嫌の度合いは食卓で見るよりも格段に増していた。その視線は真っ直ぐすぎるくらいに親父さんに向けられて、ぼそっと言葉を落とした。
「……隠してただろ」
「ギルベルトは本当によく見てるねえ」
「誤魔化すな」
「大丈夫だよ、彼に変なことは言ってないから。ね、イヴァンくん?」
会話の意味がわからず、ぼんやりと見ていたやり取りに突然放り込まれる。とっさに「え、あ、はい」と親父さんを肯定したあとにギルベルトくんを見たら、ソファの上からぼくを訝しむように見上げていた。……かわいい……と思ってしまってごめん、と読心への対策を打ったら、ギルベルトくんは口の端でわざとらしく「ち、」と音を慣らした。
「……どうも親父は信用なんねえなあ」
「はは、それは心外だよ、ギルベルト」
再びテレビに焦点を戻したギルベルトくんに向かって、親父さんは諭すように頭を撫でていた。そこで生まれた空気感が、ぼくには入り込めないよと諭しているようで、うっ、とまた深くから感情がこみ上げてくる。……ぼくはそろそろ、彼らの時間を返さなくてはならない。
「――ギルベルトくん、ぼく、そろそろ帰るね。遅くまでお邪魔してごめんね」
そう言ったら、「おう、」と静かに返された。……けれどそれ以降は、一言もしゃべらなかった。
帰る直前、玄関先まで見送りに来てくれた親父さんは、明日は病院のあとは大事をとって家に居させるから、公園には行けないよ、と教えてくれた。明日で旅行の日程が終わりなんだとぼくはこころの中で反芻して、ここからは見えない不貞腐れたギルベルトくんが、最後に見た彼になってしまったらどうしようと一人で焦っていた。まだお別れの言葉を言うほど気持ちに整理ができていなくて、いろんなことについてありがとうすら言えていない。なにより、叶うならば彼の笑顔で締めたい。
往生際の悪い感情がひょこりと顔を出して、一度扉を閉じかけた親父さんの手を止めた。首を傾げるようにぼくを見た親父さんに、「明日も来ていいですか」と尋ねる。瞬きの間だけ言葉をなくしていた親父さんは、それから深く深く、ため息のような笑みを零して「もちろんだとも」と返してくれた。
目前の玄関が今度こそ閉じて、踵を返した瞬間に「あ、でも、ギルベルトくんはぼくに会いたくないよなあ」と反省した。……それこそ最後に見たあの様子だと、彼はぼくのこころに気を使って言わなかっただけで、本当は少し、距離を置こうとしているようにも思える。……今、強引にでも、手短に別れを伝えておくべきだった。……と、思ったのは、羊毛をまとったほうの羊の考えだった。
ふわりと星空を見上げる。……今度はあの場所から、ギルベルトくんと一緒にこれを見たいなあ。唱えてからまた正面を向く。車が一台通り、眩しくて目を細めた。
本当は、もっともっと側にいたい。彼について、もっと知りたい。
見栄がまるく剥かれた本心は、ホテルに帰り着くまで、ひいては布団に入って寝つくまで、ぐるぐるとぼくの身体の中を走り回っていた。
次の朝、ぼくは名案を思いついていた。
……これを名案だと思ってしまうほど、ぼくの気持ちは抑えられなかったんだと、そう思って間違いなかった。
「――ごめん、今回の取材旅行、延長できないかな?」
なかなか寝つけなかったくせに、なかなか朝も寝ていられず、太陽が昇るよりも先にぼくは寝ることを諦めてしまった。今日でギルベルトくんとお別れなのに、悠長に寝ていられるもんか。そう思って布団を抜け出した。
古い携帯電話を耳に押し当てて、まだ閉まっている本屋のシャッターや、いい匂いのするパン屋を横切って歩いていく。電話越しの人物は、数日ぶりに話をする、ぼくの班の代表を務める同期生だ。
『ええ? 延長なんかできるわけないだろ!』
「お願い! この先の宿泊費はぼくの実費でいいから!」
起きてまず、荷物の片づけをした。帰るにしろ延長するにしろ、きっとホテルは変わるだろうから、まずはそれをまとめようと思ったのだ。そうこうしている間に朝食の時間になり、チェックアウトできる時間になった。
ただ、おそらくある程度日が昇るまで寝ているであろう代表への相談は後回しにするしかなかったぼくは、すべてを少し煮え切らない心持ちのまま進めていた。ホテルのフロントに無理を言って大荷物を午前中だけ預かってもらえることにはなったから、それは本当にありがたかったのだけど。……当初の予定では、帰りの便は昼過ぎだ。
『ええ……資料どうすりゃいいの? 明日打ち合わせだけど』
あからさまに嫌な声だ。……当たり前だけど。というか、結局打ち合わせが明日になったこと、ぼくは一つも共有されていない。ぼくも少しむっと口元に力を入れてしまったけど、延長に関しては、こんなことを言い出したぼくが悪いのはわかっている。
けれど、けれど。
こんなに融通の効かない気持ちは初めてなんだ。悪あがきをしてしまいたいくらい、抑えられないんだ。
「取材データはメールで送れるし……必要ならネガは宅配便で送るよ。今から速達で出せば、明日の午前中にはついてるんじゃないかな……それか、ぼくの携帯で撮ったデジタル版でよければ夜には送れるよ」
昨晩は既に暗がりだったから気づかなかったけど、ギルベルトくんの自宅の前の道は、思っていたよりも長く拓けていて、とても見通しのいい道だった。散歩する老人やマラソンをする若者とすれ違い、とても綺麗でいい街だなと思っていたら、少しずつぼくの中も風通しがよくなってきたように感じる。見上げれば、歩いている先、カーブのちょうど真ん中あたりに、ギルベルトくんの自宅は既に見えていた。
近づくにつれて、先ほどまでのとんでもない罪悪感が、ほかのなにか、別の強く胸を叩く感情に入れ替わっていく。こんなことをしようと思っているのに。……でももうここまで来たんだと、なんとか現状を打破する方法を模索してしまう。
『いやいや、でもまずいだろ? 何かあったの?』
受話器の反対側にいる同期生が、なにやら心配そうに尋ねた。そんなに風に問われると、ぼくも幾分か決まりが悪いんだけど。……なんとかこの同期生を穏便に納得させたくて、ぼくは携帯電話を握り直した。
「……え、その、ぼく、こっちで男の子と出会って。彼、友だちいないみたいで独りぼっちで可哀想だし、ぼくがもう少しだけ一緒にいて、どうにかしてあげたいなあって」
また、事実を捻じ曲げて言ってしまった。言いながらも気づいていたんだけど、どうしても納得してほしかったから止められなかった。これくらい言っておけば、同期生の良心を揺さぶることができると思ったから。……なんなら、まだ取材したい場所が残ってるって言えばよかったんだけど、そう省みたのは、もごもごと言い終えたあとだ。
『なんだよそれ……そんなこと言われてもなあ……』
けれど、少し効果はあったらしい。答えを渋っているのがわかる。そうこうしている内に、もうギルベルトくんの自宅の目前だ。玄関から親父さんがそそくさと出てきて、車庫に向かったのを見て、あ、と、思わず駆け出していた。ギルベルトくんの様子を聞いておきたかったからだ。
「とりあえず、待たせてるからまた連絡するね!」
『え、ちょっと!? おい!?』
そのまま通話をぶちきってやって急いだのだけど、ぼくのことは気づかずにそのまま車は発進してしまった。仕事に向かったのだろう。車体の背中を見送るのは少し寂しい気持ちになってしまったのだけど、こればかりは仕方がない。……もしこの旅程を延長できることになったら、またちゃんと挨拶はできる。
とりあえずそれは諦めて、ぼくはギルベルトくんの家の玄関先に向かった。さっき強引に通話を切ってしまった携帯電話が、またぶるぶるとぼくを責め立てている。――ごめん、こんなことしてるの、ほんとに正気の沙汰じゃないのはわかってる。……わかってるけど……ぼくはそのまま、携帯電話の電源を切ってしまった。先ほどから自分がくり返している暴挙に耐えられず、身体中がひどくこわばっている。拳を強く握り込んでなんとかふるえを止めようとしても、なかなかそうはいかない。……でも、ここまで来たんだ、後悔や反省は後からする。罪悪感や背徳感からくる、少し興奮しているような自覚をここで得る。ぼくは今、高揚している。
玄関の前に立ち、後ろめたさに潰される前にと高揚に任せてチャイムのボタンを押した。ガンゴンと少しいかついベルの音が鳴る。昨晩もこんな音だったかなと思い返したけど、そのときはギルベルトくんとおしゃべりをしていて、まともに耳に入っていなかった。
ともあれ、真っ白な玄関の扉の前で、改めるように深呼吸をする。
――そういえばぼくは、ギルベルトくんに会って、なにをどう伝えるつもりだったんだろう。
ここで唐突に疑問が湧く。ただただ彼と離れたくない、彼の側にいたいという気持ちで「会いに来る」なんて言ってしまったけれど、それ相応の口実をぼくは持ち合わせていなかった。ここへ来て気づくなんて、どうしてこんなに愚鈍なんだぼくは……思わず足のつま先を見下ろしてしまう。このままだと扉を開け放った瞬間から、お互いで話題を探すはめになってしまう。そんな気まずい時間は、過ごしたくない。
――そうだ、まずはお見舞いを言わなくちゃ。手持ち無沙汰だということは、この際置いておくことにする。そう、この訪問の最大の目的はお見舞い。ギルくん、足の調子はどう? そこから会話を広げよう。申し訳ないから、ぼくが旅程を伸ばしていろいろお手伝いしてあげるよ。そう言えば完璧なんじゃないか。打算に打算を重ねるくらい、時間の余裕があった。
……けれど、待ってみても、ギルベルトくんは出てこない。
あれ、と思い、もう一度ベルを鳴らす。
足の具合は思っていたより悪かったのだろうか。もしかして、入院することになっちゃったとか……?
不意に、目前の玄関が乱暴に開いた。
「――んだよ」
不機嫌なんてものじゃない。大変お怒りになられているギルベルトくんが、玄関を開け放って唸った。お馴染みの真っ赤なパーカーを今日も着ていて、その瞳も、いつにも増して真っ赤に揺らめいていた。ぼくはなんでこんなにいきなり睨みつけられているのかさっぱり見当もつかず、ドッと心臓が驚いて飛び上がる。
「……あ。え……と……」
用意していた嘘の言葉が、ぜんぶそれでどこかへ吹き飛んでしまった。真っ白になって、その空白でギルベルトくんを忖度しようとしたけど、そこになにか目ぼしい見込みが浮かぶことはない。
ぴく、とまた眉毛が緊張感を増して、それから踵を返すためにその小さな身体は傾いていく。
「お前なんか嫌いだ。もう俺様に構ってくれなくていいぜ、」
扉が閉まっていく。ギルベルトくんの、扉が……
「むなくそわりい」
閉まっていく――
反射的だった。唐突に真っ暗になっていく視界にまた抵抗して、思い切り扉を掴んでいた。閉じないように押し返してまで。
ぎ、とギルベルトくんは一層強く、ぼくを睨みつける。明らかなる敵意。……ぼくは動転した。どうしてこんなことに……? ぼく、ギルベルトくんになにかしてしまった……?
「あ、あの、ごめん、その、ギルベルトくん、なにかあった?」
尋ねる声がふるえている。ここへ来るまで数多の罪悪感を振り払ってきたつもりでいたのだけど、そんなことをすべて覆してしまうほどの恐怖に苛まれていた。
なんで、どうして。なんでこんなことになってるの。
「俺様はな、」
ぼくが止めさせた扉を手放して、
「大人になってまで嘘吐き癖が治らねえお前なんかに同情されるほど、落ちぶれてねえんだよ」
「……え……?」
は、と閃きを伴う息遣いが漏れ出す。
――さっきの、電話の……内容……?
ようやく一つだけ思い当たる節が浮かんで、ぶわと総毛が逆立ち、冷や汗が身体を覆った。
あんなに距離があったのに……聞かれていた……? 声など届くはずもなくて、ならば、ギルベルトくんが聞いたのは、こころの声……? 玄関前のみっともない心境も、すべて筒抜けだったということ、
「もういい。延長なんかバカなこと考えてねえで、さっさと帰りやがれ、」
扉を無理やり止めさせていたぼくの手を払いのけるため、ギルベルトくんの手のひらが手首に触れた。柔らかくて、まだ幼い手……そして、少し冷たい……
ぐっ、とまた止められない情動が吹き上がった。
――でも、もしぼくのこころを読んだのだったら。そのとき、ギルベルトくんは一緒に読んだはずなんだ。ぼくの本当の感情を。もう自分からも隠せないほどの、この鮮やかで、熾烈な感情を。
「――ギルベルトくん!」
「……あんだ?」
幾分かぼくよりも目線が下にいるギルベルトくんを、できるだけまっすぐに見つめた。こんな終わり方は嫌だ。……こんな終わり方は……いやだ……!
ぼくの手首に触れたほうの手を、上から奪い返していた。
「君、心が読めるんでしょう」
迫ったら、ギルベルトくんは目を見張る。そしてまっすぐ見つめるぼくを睨み返して、またきゅっと声を絞る。
「……読めねえよ。読めねえっつってんだろ」
更に納得がいかなかった。ぼくは確かに嘘吐きだ。自覚している。そしてそんな自分がきらいだ。でも、『心が読めない』なんて、
「君だって嘘吐きじゃない!」
「は?」
「とぼけるふりするならいいよ、どうせもう伝わってるんだよね……!」
もう既に知れてる本心なら、隠す必要なんてどこにもない。嘘吐きな自分なんてもううんざりだ。
「ごめん、ぼく、抑え方がわらなくてっ。ぼく、君のこと……っ! こんなに離れたくない、初めてなんだ、ぼくっ、君が……!」
「……はあ?」
けれど、本当のこころを晒すのは、どうしてこんなに難しいんだろう。言葉がまったくまとまってくれなくて、喉は窮屈で、それでもなんとか成し遂げようとした。もっと上手く、もっと、核心を。
「ぼくだってもう、嘘なんか吐きたくないよ。だから、この口で言うから、ちゃんと、本当のこと、言うから、」
どうしても、今ここで口に出して、形にしてしまいたい。
「何歳離れてるかもわからない君に、こんな気持ちを持ってしまったの、ぼくも戸惑ってるけど、でも……君が、く、苦しいくらいに、っ、」
ぐっと、腹部に力がこもる。
「っ大好きなの!」
叫び上げるように宣言した。こんなに大きな声を出したのはいつぶりだろう。もしかして、産まれたときに上げた産声以来かも知れない。午前中のきらきらした空を震わせるような、そんな力がぼくのお腹の底、余熱でぐつぐつと煮えている気がする。
強張って閉ざしていた瞼を薄っすらと開くと、目の前にギルベルトくんの足が見える。……ギブスをはめていて、あ、足、やっぱり大丈夫じゃなかったんだと、呑気に浮かんだ。
「……は?」
ギルベルトくんの声で、ぼくは顔を上げた。
「……はああ!?」
ぼくがなんとか叫び上げた声を、ギルベルトくんの声がいとも軽々しく上書きして響く。見る見る頰が真っ赤になり、けれど頰だけに止まらず顔中、果ては耳たぶや首の周りまで、全部が真っ赤っかになったギルベルトくん。声を上げたあとの開いた口が塞がらないらしく、なんとも面白い表情で止まっていた。
腕を掴んでいることも、掴まれていることも互いに忘れて、二人してひたと時を止めた。
「……ギ、ギルベルトくん?」
先に戻ったぼくが顔を覗き込もうとした、まさにそのときだ。
ギルベルトくんがとんでもなく大きく息を吸い込んだから、とんでもなく大きな声を出すんだろうとわかった。
「ば、ば、ば、ばっっかじゃねえの!? そんな、俺様、えっ、意味わかんねえよ……っ! は!? はああ!?」
既に知られていると思っていただけに、まさかここまで動揺されるとは予想だにしていなかったぼくは、この勢いに及び腰になってしまった。控えめに「ギルベルトくん、大丈夫?」と尋ねたところで、「大丈夫じゃねえよ! なんてこと言いやがんだよ!」と、見事なまでにそのままの調子で返答があった。
――あれ、おかしい。
ギルベルトくんはこころを読んで、知っていたんじゃないの? これまで散々こころを読まれていたぼくの、この気持ちを……本当に知らなかった……?
急に不信感に襲われる。焦燥感も加えて。そうだとばかり思っていたのに、あまつさえ確固たる確信すら抱いて、伝わっている覚悟すらしていたというのに。ギルベルトくんのこの様子を見てしまったら、いとも簡単にその自信は揺らいでいく。
「君、知ってたんじゃないの……?」
揺らいだままの声色で尋ねた。カッと二つの真っ赤な瞳が見開かれて、
「しっ、知らねえよ! 言ってんだろ!? 俺様は人の心なんか読めねえって! そんなこと……知るかよ……っ!」
「で、でも君……ぼくの考えてること何回も当てて……、」
勢いを根こそぎ殺がれた、いや、それどころか、ずり、と後ずさりまで始めてしまったぼくのほうへ身を乗り出したギルベルトくんは、はっきりと宣言した。
「俺様が読めるのは、人の〝こころ〟じゃなくて――〝くちびる〟だっ!」
「…………え……?」
叫んだ小さな身体が、一生懸命肩で息をして呼吸を整えようとしていた。
なにも言えなかった。言えるはずがなかった。驚愕により思考停止に陥る。ギルベルトくんはこころがよめない。……ずっと、本当のことを言っていた……ギルベルトくんは……こころを……?
「だから、今までのはぜんぶ、お前の唇を読んでたんだよ! 心が読めるなんてほんとに信じてやがったのが信じらんねえ! 信じてるほうがおかしいだろ……!?」
「え? え? ええ?」
「『え?』『え?』、『え?』『え?』うるっせえ!」
昨晩のことを思い出した。そういえば、キッチンで親父さんと話をしていたとき、親父さんは不自然に唇を隠していた。そして『不思議な特技が身についてしまった』……そうか、ぼくはてっきり〝読心術〟のことを言っているのかと思い込んでいたけど、〝読唇術〟のほう……だったんだ……。
魂が抜けるような落胆を味わう。……けれど、ギルベルトくんの言う通りだ。『こころが読める』と信じていたほうがどうかしてる。……なんでそんな当たり前のことにも、気づかなかったんだろう……。
それから走馬灯のように、これまでのことが意識の中を駆け巡る。……たしかに、ギルベルトくんに言い当てられたことは、全部言葉として形にしていたものばかりだ。〝思っていること〟を言い当てられていたんじゃない、〝嘘〟を指摘されていただけだ。……ネガのときは、男の子が『ネガだ』とかなんとか呟いていたのなら、辻褄は合う。カフェオレのときは、おじさんとの会話を〝見て〟いた、たったそれだけのこと。
はっ、と我に返る。ぼくが動揺していたのを、同じく動揺したまま待っているギルベルトくんと目が合う。その顔を見ながら、ぼくはもう一つ、もっと早く思い至るべきだったことがあるのを、思い出していた。
「……じゃ、もしかしてぼく……言わなくていいこと、言っちゃった……?」
――『君が苦しいくらいに――、』自分の声で響き込んだ過去が、ハウリングのように耳を痛めた。
「そうだよ。……誰もンなこと知りたくなかった……!」
ぼそぼそと嘆声が零された。
「……そんな……」
ぼくの分の嘆声も零す。……けれど、それはあまりにも重くのしかかって、
「あ……あ、ああ〜〜」
するすると手のひらがなにかを撫でたのを感じて初めて、未だにギルベルトくんの手首を握っていたのだと気づいたけど、もうそれどこではなかった。その場で頭を抱え込んでうずくまる。
なんてことだ。……こんな、こんな……大人げない……。知れていないなら、言わなきゃよかった。言わなきゃ、自分をもっと誤魔化せた。嘘でぐるぐる巻きにして。……『既に知れている』ということは、本心を曝け出す勇気だったんだ。勇気だったけど、それは、勇気だったけど。
……けれど、もしかしてギルベルトくんは……。考えたくなくて、一度思考を止めた。でもやっぱり不信に思って、考えた。――結局ギルベルトくんは、心が読めると信じていたぼくを、面白がっていただけ……? だから、こんなどうしようもないぼくなんかと…………
ぷつり。
頭の中で一つ音がして、ぼくの中の感情回路が、どこかで外れた。
すく、と、軽く立ち上がる。
ぼくはなにを勘違いしていたんだろう。昨日親父さんに『こころを開いているのがわかる』なんて言われて、こんなみっともない告白までして。ぼくはいったい、なにを期待していたんだろう。こんな醜態を晒して、ぼくはいったい、これからどうすればいいんだろう。
「迷惑かけてごめんね……君の言う通りだ。ぼく、帰るよ」
ふらりと不安定な足取りで踵を返した。……これ以上は、ギルベルトくんに迷惑だ。ようやく目が覚めた。一刻もはやく、ぼくは彼の視界から消え去りたくて仕方がなかった。
「おい、イヴァン?」
ギルベルトくんがぼくの腕を掴んだけど、
「……ううん、数日間ありがとう、」
ぼくはなけなしの自我を保って、なんとかそう挨拶を述べることができた。ギルベルトくんの幼く非力な手はすぐにぼくの腕から離れて、
「……っ」
――喉が鳴る音がして、続いて、ずず、と鼻をすする音が聞こえる。途端に意識が鮮明になって、その音が特によく聞こえた。ぼくはこの音に覚えがある。これは泣いている音。……泣いてる。……後ろで?
そんなはずは、と思ったけど、気づいたらふり返っていた。可愛らしく渦巻く白色のつむじがぼくを待っていて、肩が震えていることしかわからなかったけど、明らかにギルベルトくんからの音だった。
「ギ、ギルベルトくん!?」
見るからに崩れ落ちそうな不安定な身体を支えようと、無意識に肩を掴んだ。
「なっ……なんでもねえよっ、くそイヴァン……っ!」
どうするどうするとおどおどしているだけのぼくに、ギルベルトくんは悪態を吐きながら涙を拭う。
ぐりぐりと胸が抉れる。痛みが、沁みて、広がる。膨らむ。苦しい。なんで、ぼくのこと、そんなに嫌なの? ぼくはどうしたらいいの? 君を泣かせたいわけじゃなかったのに……!
「え、えっと……ごめんね、」
ぼくの出来うるすべての勇気を振り絞ったのに、ギルベルトくんは最後まで聞こうともせず、
「やっぱりお前もそうなんだな……!」
思い切りよく自分の頬を拭き上げたその手で、ぼくの両手を払いのけてドアノブに手を置いた。涙でぐしゃぐしゃになっている、けれどそのせいでいつもよりも何倍も光を含む、火炎のような赤い瞳を尖らせて、ぼくに真っ直ぐに突き立てた。
「どうせ大人はみんなそうだ、すごい子どもじゃないとだめなんだろ……っ!」
「え?」
「お、俺様が心も読めない普通の子どもだから! 普通の子どもだからっ、もう興味ねえんだろ!?」
今にも派手に扉を叩き閉めてしまいそうな剣幕で、そうじゃないと言葉を挟む隙もなかった。そのまま勢いは増していき、
「やりたい放題じゃねえか! そんな大人ならいなくなっちまえ! ばーかばーか!」
ぎゅ、と扉を握り直したのをぼくは見逃さない。
「イヴァンも結局、他の大人と同じだったんだ! お前の顔なんか、もう見たくもねえっ! 帰れ! 消えろ!」
「わーわー! お願い! ちょっと待って!」
やけくそなのか爆発したのか、引き際がわからないギルベルトくんが予想通りに扉を乱暴に閉めようとして、またしてもぼくは反射的に抵抗して押し返してしまっていた。
「離せばか! 帰れ!」
「だからっ、ちょっと待ってよ! それにこんなところで騒いでたら、ぼく逮捕されちゃうかも……!」
「たっ、逮捕されろ! 存分に!」
こうなったらもう子どもの押し問答だ。もちろん足を悪くしているギルベルトくんと、ただでさえ腕力の限界をわかっていないぼくが、真っ向からやり合うわけにはいかなくて、ぼくはできる限りの力加減をしてはいた。押しつ押されつ、玄関扉の悲鳴が聞こえてくるようだけど、ここは譲るわけにはいかないというのが、ぼくにとっての正解だ。
半ば泣きながら怒鳴っていたギルベルトくんがなにをそんなに嘆いていたのか、まだ整理はついていない。でも、〝平凡である自分〟を晒すことに怯えているのも、〝平凡である自分〟を晒すことで人が去ることに怯えているのも、そう大差はないように思えた。
ぼくは、〝平凡である自分〟を曝けだしても失望しない、そんな誰かに側にいてほしい。
――「ギルベルトくん、側にいさせて!」
とっさにそう叫んでいた。ふわ、と扉を押し返す力が緩む。虚を突かれてギルベルトくんの目を見返したら、そこに感情の揺れ動きがよく映っていた。
そう、本当はぼく、君の側にいたいんだ……! 君に迷惑だから帰るねって、そんなの本心なわけがないじゃない。
「勘違いさせたならごめん……! 始まりが悪かったの。君が心を読めるから友だちになりたいって言ったけど、今は違うの。もう、違うの」
散々いろんな方向へ紆余曲折を経てしまっていたぼくは、どうしても後ろめたさに負けて、その瞳を見つめ返すことができなかった。目が泳いで、けれど、ここはしっかりしなければと自分を奮い立たせようとする。本当にこうすることを望まれているのか、自信は持てないままだったけど、
「君が、君でよかったと思う……!」
ぼくが勝手に、こう伝えたかった。
「――好きだよ、ギルベルトくん、」
そう、心が読める読めないじゃない。ぼくはギルベルトくんがギルベルトくんだから、こんなに大好きなんだ。ぼくが勝手に伝えたいだけで、彼の気持ちなんてまったく考えていないけど。
ぼくが改めて宣言し直した言葉で、また変なスイッチが入ってしまったらしく、大きく吸気して、性懲りもなく扉を押し閉めようとした。
「こ、こ、こ、こんなガキによくそんなこと言えるよな!?」
もちろんぼくだって、今更引き返さない。
「本当はまた会いに来たい! ぼくのこと忘れないでほしい! ……お手紙も書くし! 君が大人になるまで待ちたい!」
「〜〜っ! ばか……!」
完全に俯いて顔を隠してしまったギルベルトくん。まだ扉に手は添えていたけど、もうそれどころではない様子で、またそのかわいいつむじをぼくへ向けていた。ぐっとこみ上げた別の衝動を、そうとは知らずに飲み込んで耐える。
先ほどまでの威勢が一気に姿を消して、ぼくを測り兼ねているようなためらいを、見え隠れさせている。
「……大人の嘘は見破れるんだぜ、俺様は」
まるで自分に言い聞かせているような口ぶり。嘘を見破れる……でも、なら、それは読み違いだ。目をそらせないように腰を落として、ぼくはギルベルトくんと目線の高さを合わせた。俯いて見ないようにしていた彼の顔を、無理矢理に下から覗き込んで、そして、ゆっくりと発音した。
「じゃあ、口元じゃなくて、ちゃんと目を見て」
ぐるぐると踊るような瞳の輝きが、ぼくの目と繋がる。口は確かに嘘も騙る。けれど、目は口程に嘘を騙れない。
「嘘じゃないから。これは、本当に、嘘じゃないから」
瞼が降りる。きゅっと固く降りて、
「……そんなこと言ったって無駄だ……! イヴァンがそのつもりでも、そうならなかったらどうすんだよ……っ」
驚いた。ギルベルトくんは、感情の逃げ道を作ろうとしていた。確かに、ぼくがお手紙書くからと約束して帰ったところで、帰りの電車で事故が起こるかもしれない。なにがあるかわからない。……そうなる未来を信じた結果、落胆してしまうのを恐れているんだ……。
はっきり言うと素直に信用してもらえないのはとても胸が苦しかったんだけど、ぼくだって彼の行動は理解ができる。ぼくもよく逃げ道を作ろうとするから。……だからか、ぼくはすぐにギルベルトくんがどう言われたいのか、わかってしまった。
肩を持っていた手を下ろして、それでも顔を覗き込んだままでいる。
「……じゃあ、信用しなくていいよ」
彼は何度かぼくを見て、それから別のどこかへ意識を向けた。今はただ、その意識がぼくに戻るのを願って先を続ける。
「ぼくが送る手紙にお返事だけしてほしい」
今はそれだけでいい。ギルベルトくんがぼくと同じ気持ちでいるわけがないのもわかっている。だけど、あわよくば、彼との縁が途切れないように。
す、と小さく呼吸を挟む。
「……住所、教えるとか言ってねえけど」
「昨日、親父さんが教えてくれた」
論点が変わった。〝信用できない〟について、納得ができたのだろうか。ともあれすかさず答え合わせをしてやると、彼は呆れたように頭を掻いて、
「……は、あいつなに考えてんだ、ばか……」
よく見たら、また顔が少し赤くなっている。もし彼がはにかんでいるのなら……彼は、納得してくれたと思っていいだろうか。もしそうならうれしいはずなのに、こころはまたしてもとても苦しくて、路頭に迷うな気持ちを身体いっぱいに抱えた。そういえば、こうやってギルベルトくんと目線を合わせて話すのは初めてかも知れない。座っててもお互いが座ってるとやっぱり高低差があるし、ぼくが座って彼が立っていると、彼のほうが目線が高くなる。――……いや、違う。閃きがぼくを殴る。……近いんだ。唐突に意識してしまった。……今、ぼくと彼の距離は、文字通り目と鼻の先なんだ。
ぎぎ、と尚更苦しくなる。軋むような、この身動きが取れない感じは、もはや好きとかそんな可愛らしいものには留まらなかったけど、ぼくの中でもこもこと発達していく愛心に変わりはなかった。これ以上近づいてどうするんだと思ってしまうほど、既に間近にいるのに、まだまだ足りない気がして、自分の抱いた欲の深さにぞっと寒気が走った。
そのせいだろうか。ここまで言っておいて、唐突に不安になる。……こんなに抑えられない気持ちを持って、こんなに剥き出しのまま彼にぶつけ続けていいのだろうか。確かにそうしなければと思ったけど、どうしてそう思ったのか、わからなくなる。
目前のギルベルトくんを見れば……そうだ、やっぱり。真っ赤になっているのは、泣いていたからだ。……ぼくなんかに言い寄られて、そんなのこわいに決まってる。照れているのかもしれないなんて、ぼくはまたどうしてこんな救いようのない勘違いをしてしまったのだろう。
またこころが塞ぎ込む。そう思ったら、もうギルベルトくんの涙を堪えるような顔つきが、ぼくのことを心底拒否しているようにしか見えなくなってしまった。急いでギルベルトくんの顔を覗くのを止め、
「あ……その……ごめん……」
顔を合わせられなくなったのはぼくだ。ここまで言ったんだ。ギルベルトくんは、ぼくがどこまでこの気持を抱いているかわかってくれたはず。正気を取り戻した今なら、まだ理性的にお別れができる。そもそも、小学生にこんなこと。
「あ、あはは、やっぱりただのわがままだよね、こんなの。ごめんね、忘れて、ごめんね」
そそくさと立ち上がって、玄関の外へ一歩引いた。ぼくが暴れたせいか、よく見たら足元の玄関マットがずれていた。わざと気を逸らして、これ以上余計なことを言うのを抑えようとする。これ以上はだめだ、穏便に帰らなくてはと焦る。彼からの返答がなければその分だけ、その焦燥はどんどん膨れていく。
「……だから、なんで大人はそういうところで引き下がるんだよ」
とても静かな声遣いだった。子どもの喧々とした粋のよさはなくて、足元を見ていた視界に入り込んでいた小さな拳が、ぎゅっと固く握られたのがわかった。
「お、俺様だって……三日間じゃお前のことなんもわかんねえし、お前のことだけじゃなくて、自分のこともよくわかんなくなっちまって、」
ゆっくりと顔を上げたら、彼は言いにくそうに、えと、その、と挟んで、ちらりとぼくを一目した。
「なんか、すげえ、悲しい。今日、起きるのも憂鬱だった」
そう教えてくれた。……今の言葉でギルベルトくんはなにを言いたかったのか。都合よく解釈する方法はいくらでもある。今日がぼくの旅程の最終日だから、悲しんでくれているのかな。今日起きるのも憂鬱だったのかな。……危険な期待が再び膨らみ始めて、警鐘を鳴らすために「……ギルベルトくん……?」と真意を話すよう促した。それなのに彼は、
「だから、親父に住所聞いたんなら、ちゃんと送れよ、手紙」
昨晩のように口元を不機嫌に尖らせたまま、でも瞳は先ほどより、少し柔らかくなっていた。こんなところでそんな顔をするなんてひどい。そうは口にしなかったけど、思っていた。膝から崩れてしまいそうなほど、その言葉がうれしかった。……だって、彼から手紙を送るようにと言ってくれたんだもの。彼は、まだぼくに機会を与えてくれると言う。
「う、うん、」
「お、お前なんか信用してやんねえんだからな」
胸を反らして、偉そうに腕を組んで見せられる。
「手紙が来なかったら、俺様すぐお前なんか忘れてやるから」
そう言うくせに、その裏で待っているというこころが見えて、一気に情動に飲まれた。あまりの不意な喜びのせいだ。身体の芯から吹き上がる感情で、上手く返せなかった。返していいのだろうか。ぼくは、さっきみたいな調子で、自分勝手なこの感情を、返していいのだろうか。
「……じゃあ、手紙を書いたら、お返事してくれるの……?」
「だから、そう言ってんだろ」
不服そうにくり返す口元が、何度も言わせんな、と続けた。宛てを探すようにふらふらと目線が泳いでいく。本当に本当に、信じていいの。……そう思ったけど、自然に嘘を吐いてしまうぼくなんかより、ずっと本当のことを伝えようとしていたギルベルトくんのほうが、幾分も信頼に足ることは明白だった。
ぐっとこみ上げたのはなんだったか。ひどく抱きしめたくなって、でもそれは堪えた。ぼくが一方的に抱いているだけだったら、怖がらせてしまう。その間に沈黙は続き、ちら、とぼくのことを窺うように、ギルベルトくんの瞳が一瞥した。一瞬の仕草がどうしてこうも胸を打つのか、また苦しい心地にさせ、急いで気をそらさねばと動揺した。
「あ、えと、その、」
「……とりあえず、突っ立ってねえで、入るか?」
ようやくこの〝扉〟が少し、ぼくのために開かれた。入ってもいいよと彼は言うけど、
「……えっ、」
ぼくの動揺は治まるどころか、更に狼狽えてしまう。
きっと、ここで甘えて「じゃあお邪魔します」と入るのは、いろんな意味でまずい気がする。それは、ぼく自身の中に渦巻く衝動のせいで、だから、ぼくが一番それの存在をわかっていた。このまま二人きりになったら、ギルベルトくんをこの腕の中でぎゅーと抱き潰してしまいそうだ。……考えただけで肝を冷やした。こんな幼気な子どもを怖がらせるわけにはいかない。……大事に、大事に。
昨日、星空の下で強く苦しめられた愛おしさを思い描く。
「ごめん、ぼく、やっぱり今日はちゃんと帰るよ」
少し寂しそうにしてくれたけど、もうそれだけで十分だ。
そう。ここまでお話ができたんだ。ギルベルトくんの気持ちも、少し聞けたし……もう、聞き分けのない子どもみたいなわがままは、お終いにしなければ。この期に及んでなのはわかっているけど、ようやく冷静になれたぼくは、自分の至らなさを省みた。
「……ぼく、すごくわがままだった。でも、ギルベルトくんが聞いてくれたから……」
全部ギルベルトくんのおかげだ。嘘を吐きたくないと思えただけでなく、それに向けて気力を振り絞れたことも、ギルベルトくんがその小さな身体で、いろんなことを受け止めてくれたからだ。……こんな子に負担をかけて情けないけど、それを、これから挽回していきたい。ギルベルトくんが頼れて……そして彼に見合う人に……ぼくは、なりたい。
言葉を探している様子のギルベルトくんは、絶えずぼくの言葉をしっかり見守っている。
「君が大人になるの待ちたいって言ったけど、ぼくもがんばるね」
見上げる視線が、もったいないくらいだ。彼の眼差しは、いつだってぼくを奮い立たせてくれる。……だから、大人になったギルベルトくんに笑われないように、
「ぼくも、こころを大人にしなくちゃ」
もう、彼にいらぬ負担をかけなくて済むように。不用意に感情をぶつけないように。
……と、大真面目に決意を新たにしたところで。ぐふ、と、無邪気な笑い声を漏らされた。……ぼくとしては、かなり真面目に宣誓したつもりだったんだけど、と苦笑している間にも、
「確かに、泣きわめくのは大人っぽくはないな! 俺様だって、もうそんなに泣かねえぜ」
からかうように、更に笑い飛ばしてくれる。おそらく怒るような反応を期待していたであろう彼には申し訳ないけど、その笑い飛ばしてくれる笑顔がやさしく見えて――、
「――ああ、本当に、好きだな」
大好きな銀の髪を撫でていた。抱きしめるのをこんなに我慢しているんだ、これくらい許してほしい。
途端に静かになった彼は、見開いた瞳を慌てて伏せて、また耳の端っこまで真っ赤に染めた。それを見せつけられて、再び強襲した衝動で、変な声が出そうになった。そこをなんとか、ぐっと力強く地を踏みしめて耐えきる。波が去った隙を見計らい、「じゃ、じゃあ、ぼく、帰るね」と手を引っ込めた。
引っ込めたはずが、ふに、と温もりに捕まえられる。ギルベルトくんの、真っ赤に染め上がった小さな手のひらが、ぼくのを掴んでいた。触れ合った肌から、また衝動が流れ込むようにびりびりと痺れる。目が眩むほどの熱情を二人して握り込んで。
「……手紙、よこせよ」
表情を隠しているギルベルトくんが、ぼそぼそと紡いだ。やっと聞こえる程度の声だったけど、確かにそう言った。
もう我慢の限界だった。また彼の目の前に片膝をついて、頬に触れた。顔を上げるように覗き込んで、ぼくを捉えた視線に吸い込まれそうになる。けれど、ぼくの手に触れた頬の感覚があまりにも不慣れで、ぼくをしっかりと現実に呼び戻して、そして縛りつけた。
「うん、絶対送るよ。足、お大事にね」
胸が張り裂けそうなくらい辛いけれど、なんとかその距離を保ったまま踏み留まることができた。こんなに離れたくない。こんなに名残惜しい。でも、だからこそ、今はきっと、引いたほうがいい。
気力を集め直して、ぼくは立ち上がり、高くなったぼくの目線を追いかけて、彼も顔を上げた。改めて互いに別れを告げて……そうしてぼくたちは、〝出会い〟の幕を閉じることになった。
予定通りに地元に帰ったぼくは、それ以降、映画『こころの羊』を見れなくなる(見ると号泣して立ち直れなくなる)という、とんでもない弊害が起こってしまったのだけど、なんとか研究は最後まで成し遂げ、成功したと言える。
ぼくがギルベルトくんに初めて書いた手紙の内容は『研究結果のプレゼンで、最優秀という評価をもらったよ』という、報告の手紙になった。この報告は、嘘偽りなく、本当の報告だった。
おしまい
(次のページにあとがき)
いかがでしたでしょーーか!
ろぷの日、今年もおめでとうございます!!
いいな、ろぷですよ今年は!!(2017.6.2ですからね!)
さて、実はこちらは「うそつきイヴァン編」(つまりイヴァンちゃん視点)として書いたのですが、
ギルちゃん視点が間に合わない&なくても差し支えない感じに仕上がりましたので、
これを一つのお話として上げさせていただくことにしました……!
(もしギルちゃん視点ほしいというお声があれば、なんとか時間を見つけて書くやもですが……!)
結局描きたかったものがみなさんに上手く伝わっているのか定かではないんですが、
相変わらず不安定な二人が大好きです。
いつも辛い思いをさせてごめんね……でもちゃんと最後にはハッピーになるからね……うう……
見てのとーり、もちろん私はハピエン厨ですから、十年後とかに付き合うようになったときに、
親父にめちゃくちゃに冷やかされてほしいです。笑。
それとか、大きくなって友だちとかに今付き合ってる彼氏とはいつから? って聞かれて、
そもそもの始まりは小学生のときからかなとか答えて、ドン引かれてほしい。笑。
二人の幸せな未来に夢は広がるばかりですが、今編はここまでになります。
お楽しみいただけていたら幸いです(*^^*)
今年もろぷの幸せを願って――!
ご読了ありがとうございました♡