繋ぐ鎖は今日も軋む
「――親父、」
ここサンスーシに居を構えるようになって、しばらく経っていたと思う。大きな戦争ももうこの〝老フリッツ〟から飛び出すことはないだろうと思えるほど、平和に日々が続いていた。
「おい、フルートの時間だ、入るぜ」
ようやくいろんなことが落ち着いてきたころ、親父はいっそう〝人間〟を遠ざけるようになり、俺様や犬たちとの時間を増やすようになった。俺様としては、思うところもたくさんある。だが、親父が望むなら側にいてやりたいし、悔しいが、こればっかりは〝国〟としての特権なのだと認めざるを得ない。人間だったら、俺様も遠ざけられて終わりだったろうから。
繊細な黄金が張り巡らされた宮廷内の廊下。数多の天井画が見下ろす中、とある一室のドアをノックして、不用意にそれを開いた。
「……親父?」
フルートケースの前に立ち、放心していた親父が目に飛び込む。
「ああ、プロイセンか。すまない、ぼうっとしていた」
顔を上げた親父は、自らに意表を突かれた表情をしていた。俺様が入室してドアを閉めたことを確認したからか、再びフルートケースに視線を落として、そっとそれを撫でるように手を置いた。
「ああ、どうした? 練習しねえのか?」
ケースに触れるだけで開こうとしない親父に、控えめに歩み寄る。すっかりと皺を増やして年を織り込んだその柔らかな面立ちで、静かに呼吸をくり返している。
親父が即位するまで、ずっと軍人王の傍らにいた俺様にはその良さがわからなかったが、親父に付き従うようになってからは変わった。音楽に精通する名人たちの演奏はもちろん素晴らしかったが、取り分け親父が催す演奏会が好きになった。とても自然な流れで、親父はフルートを教えてくれるようになった。それが、戦争が落ち着き、国内が安定してからはいっそう時間を割いてくれるようになったというわけだ。
今もその時間だったから、与えられた練習用のフルートを持って来たと言うのに、親父はそのケースから自分のフルートを取り出す様子がなかった。身を屈めて顔を覗き込んでやると、ちらり、その視線が俺様を盗み見て、またケースの上の、親父本人の手のひらの上に置かれた。
ふう、と大きく息を吸い込んだことで、俺様の意識はいっそうそちらに引き寄せられる。
「――癒えてほしくない傷が、」
ぼそりと、その口がぼやく。
「あったんだなあと、思い出していた」
思い出の中を浮遊するように、どこか遠い目をしていた。
「あのとき負った大きな傷がまだ痛んでいたら、こんなことで苦しまずに済んだのになあ……と」
あれは親父がいくつのときか。軍人王が親友を処刑したことだろうか。それとも、即位したことだろうか。いや、尽くしていた哲人と仲違いしたことか。自らを慕った皇帝が、そのせいで呆気なく命を落としてしまったことか。はたまた、軍人王の元で手酷い扱いを受けていた日々のことか。……親父が忘れたくないとぼやいている〝あのときの大きな傷〟とはいつのことかわからない。だが、どうであれ、大きな傷なら癒えたほうがいいだろうにと、そう思うことしかできなかった。それでも、今、このときに、親父を苦しめている〝小さな苦しみ〟があるのは、手に取るようにわかった。――人間を遠ざけるようになった親父は、今、どんな胸中だろうか。
やはり上手に隠すことができる親父のそれは、悟るにはあまりにも難解だった。
「プロイセン、」
「ああ、」
「お前にも、忘れたくなかった傷が、あったりするか?」
まるで、そんなに長く生きてきて、と探るような眼差しだった。こういうとき、親父も〝人間〟なのだと、ひどく打ちのめされる。
「国として生を紡いでいくのは、いったいどういう心持ちなのだろう。私はもう少しで天命を全うすることができる。――お前の心情を思うと、狂いそうになるよ」
はた、と虚を突かれる。目を見張って、目の前で心配そうに見守る親父を、しっかりと思い出に変えていく。……まさか俺様の心を忖度しようとする〝人間〟がいようとは、これっぽっちも思っていなかったからだ。だが、俺様だって、そんな弱みをみすみす見せてやるつもりはねえ。親父の前では、〝立派な息子〟でいてえじゃねえか。
「……はあ? そんな今更なこと言ってんじゃねえよ。俺様はどこぞの大王みたく貧弱じゃねえ!」
腰に手を当てて仁王立ちしてやる。どうだ、カッコイイだろう。そう付け加えてやる必要はなく、
「あはは、それもそうだな。お前は強い、知っていたよ」
楽しそうに笑って、そして乱暴に頭を撫でられた。
「ケセセ、そうだぜ! お前に心配されることなんかねえからな!」
「ふふ……そうだ、悪かった」
年季よりも皺くちゃな手は、ぐっと伸び上がっていた頭から、俺様の肩に降りてくる。笑みはそのままだったというのに、
「この先、何百年生きたとして、どうか、たまにでいいから、私が居たことを思い出してほしい。できれば哀しみの内で見つける温もりのような、そんな温かな気持ちで。私を『親父』と、そう呼んでくれたこと、心のどこかに、」
言葉は飲み込まれ、それから続くことはなかった。愛おしそうに髪を撫でられて、親父の息子でよかったなんて――……ふ、と親父がより笑みを深めたことで我に返る。
「はあ、年を取るといけないね」
とても残念そうに愚痴った。
「さあ、練習の時間だったね。今日もビシバシ行くから覚悟なさい」
嫌みたらしくニヤついた親父が、慣れた手つきでフルートを取り出し、それを振って俺様に構えよ促した。譜面立てを持ち出して、乗せたままだった手製の楽譜を据える。俺様に指導する傍ら、自らの作曲に俺様を利用している節があるが、目を瞑ってやっている。
構えるのを待たれていたが、演奏を始めようとしても、目の前の譜面はデュエットだ。何のことはない、親父もフルートを口元に当てて、あたかも俺様について来いと言うように一瞥した。
目配せでテンポを取り、ふぉーと柔らかな音色がその楽器から吹き出されていく。頃合いを見計らって、その旋律に乗り込む。絡み合うような音律の和は、これ以上ないほど心地の良いものだ。時折目配せをして笑い合ったり、今のは如何なものかねと、咎める視線がかち合ったり。
ともに追いつ追われつでときを奏でる。俺様の指がほつれて諦めた後も、親父は一人踊るように演奏を続けた。ふるふると遊んでは泣くような音色は、どこか懐の深いところを疼かせて、俺様まで泣きたくさせる。もう既に、教わる立場から惹きつけられる立場に変わっていた。
親父の音色。明るい旋律なのに憂うような。いつまでも聴いていたいような――
――はた、と眩い光が瞼に差した。
「……あ、起こしちゃった?」
ふわりと気配が動き、やつの大きな手のひらが俺様の髪の毛を撫でていたのだと知った。
目前には、真っ白なシーツ。一周回って声高らかにオーガニックを謳うそれは、少しごわついていて、化学香料の匂いがした。枕を抱えていたらしい。凪いだ風と、囲む陽だまりがすべてをうやむやにしようとする。再び目を閉じる。
おはようと言われるでもなく、清々しい朝なのだと理解した。同時に、今のはすべて夢だったと。……自分の置かれた時代も、必然的に叩きつけられた。今はもう、二十一世紀だ。あのころと着るものも、形だけではなく素材から変わっていて、俺様も、今はもう、国ですらない異質だ。
覚醒を拒否して重く閉ざしていた瞼を、ゆっくりと持ち上げた。ロシアの手がある。光に包まれて薄ぼんやりと。ここは、どこだったか。たぶん、この光景は、カリーニングラードにロシアと拵えた隠れ家だ。郊外の。
体を捻って仰げば、ところどころに黒い点が打たれたような古い天井。全体が白いから光のせいで視界がちかちかする。眩しさから隠れるために腕で目元を覆うと、さわりと反対の手にロシアが触れた。
やけに身体が重い。覚めてもなお、鮮明に思い出される夢のせいか、身体の中が強くざわついて気持ちが悪い。久々に親父の夢を見た。夢なのか記憶なのか、はっきりとは覚えていない。だが、サンスーシでのあの光景は、〝いい夢だった〟と爽やかに目覚められるほど、俺様の中で澄んだ思い出ではなかった。――誰も座らなくなった椅子が、未だに瞼の裏に焼きついて。
思い出したくもない泥々に、沈んで行くように錯覚した。
「……イヴァン、」
鼻にかかった声が出た。寝起きだから仕方がないか。腕をずらして、できた隙間からロシアを仰ぎ見ると、何か気になることでも見つけたのか、じっと俺様のことを眺めていた。しっかりと潤いを抱くすみれいろの瞳は、いつ見ても俺様を現実から遠ざけようとしているようだ。
それから一つ、声色から何か悟ったのか、ロシアは迷うことなく瞼を落として、身を屈めた。
「……ん、」
優しい温もりを、柔らかいところにそっと触れさせる。
――イヴァン、と。名前を呼んだだけで、ロシアはそこにいることを教えてくれるというのに、
「おーはよ。寝ぼけてる?」
「……かもな」
どうしてこうも、深く抉るような痛みが拭えないのだろう。触れ合う吐息が名残惜しくて、上体を起こしたロシアを追い、ベッドに起き上がった。ぎご、と古いベッドは悲鳴を上げる。たったこれっぽっちのことで、不安になって、それに苛まれて。あのころに比べれば、よほど近くにこいつはいてくれているのに。
やはりまだ少しぼうっとする。凪ぐ風が素肌を撫でて通り抜けていく。
「――癒えてほしくない傷が、」
ぼそりと、この口がぼやく。
「あったんだなあって、思い出しちまった」
「うん?」
静かな声遣いで、ロシアは問い返した。まるであのときの俺様のようだ。
「……親父がさ、いつか言っていたんだ。『あの傷は癒えてほしくなかった』って」
「……うん」
「あのときは『傷なら癒えたほうがいいだろ』って思ってたんだが……なんか、今、わかったような気がする」
こいつと今、こんな風になるまでには多大なる紆余曲折を経たことは覚えている。だが、そうなるよりももっと以前の、まるで一人あぶれたバケモノのような心境に比べれば、今のこの喪失感なんて、気にも留まらなかったろうに。愛する人たちの営みに参加することなく、ただ傍観していた日々に比べれば、よほど現実的で平和だというのに。ふいに自覚した小さな異物感が、取るに足らないほどの、疎外感が、喉の奥からこみ上げてくるようだった。
す、とロシアの視線が向こうのほうへ投げられたる。困ったように笑うそれから、返答はだいたい予想ができた。
「……ごめんね、ぼくは、切り捨てる質だから、わからないや」
こいつの場合は、本当に〝切り捨てる〟が適切だと思った。
「……そうだな、そんな気がする。お前は癒えるよりも先に忘れちまいそうだな」
本意にせよ不本意にせよ、こいつはありとあらゆるできごとを、綺麗さっぱりと封印してしまうところがある。癒える癒えないは、関係なく、どこか奥のほうへ追いやられて。……だが、本人も薄々気づいているだろう。もしかすると、それはただ単に、そんな気になっているだけだと。封印した、あるいは、切り捨てた思い出は、実はまだ可視状態でそこに蓄えられているのだと。……そんなこと、言わなくもいいから、言わないが。
「ギルベルトくん、」
何の前触れもなく、名前が呼ばれた。
「ん? なんだ」
素直に顔を向けてやったら、ロシアは……イヴァンは、ただ目を細めるだけだった。
「ううん。呼んでみただけ」
指先に触れて、絡めて。ここにいる感触がする。少しごわついたオーガニックのシーツの上。俺様は異物であれ異質であれ、ここにしっかりと繋ぎ止められているんだと、こいつの綻んだ笑みで実感してしまう。
あのころの傷を癒やすきっかけとなった張本人は、今でもここで、自ら生かし続けた俺様の小さな小さな傷を、責任を持って面倒を見てくれているという、それだけが誤魔化せない現実だった。
おしまい