カリーニングラードはずっと待っていた。カリーニングラードはずっと待っていた。
なんの抵抗も受けずにカードキーを差し込むと、ピ、と通知音が鳴り、続けて廊下に金属音が響いた。くぐもった音の反響は宿泊施設ならではだ。遠慮もなしに扉を開き、スケジュールの関係でここ数日泊まっているホテルの一室に入れば、すでに明かりは点いていて、
「――あれ、он、今日は早かったんだね」
狭いシングルベッドに、まるで死体のような身体が転がっていた。
「うん……」
ぼくの声を聞いて、のそりと起き上がる身体は、見すぼらしく皺だらけで、髪の毛もあちこちに飛び散り放題だった。ぼくが薄手の夏物のコートをハンガーにかけているのを後ろから観察して、「おかえり、она」と噛み殺したようなあくび混じりで寄越してくる。まったく、だらしないなあ。椅子の背もたれにかけてあるだけの、オンのコートも拾ったぼくは、とてもやさしいと思う。
「明日からいよいよカリーニングラードだから……。ちょっと、色々思い出しちゃってね。頭が痛いよ」
ツインの部屋なので、隣に並んでいるもう一つのシングルベッドにぼくも腰を下ろした。ふか、と音が吹き出てくるほどしっかりとクリーニングされたシーツに、軽くて優しい掛け布団が、ぼくの重心を不安定に受け止める。
明日からカリーニングラードについての会議が、現地で行われる。ぼくたち、そしてカリーニングラードの化身としての役目を担ってもらっているプロイセンくんも、久しぶりに参加予定だ。……それが、間違いなくオンが頭を抱えている原因だと、ぼくは知っている。
「プロイセンくんのこと?」
「……うん」
「久しぶりに会うもんね。ぼくも楽しみだよ」
わざと笑ってみせたものの、オンがそういう気分じゃないことくらい、ぼくにはわかっている。ぜんぶ、伝わってくるから。
予想通りでしかない、味気ない「……うん」が届くものだから、いやいや、これは分身じゃなくったってわかっちゃうよと思ってしまった。
――ぼくはロシア。ロシアという国の化身だ。そして目の前に座って物思いに耽っているこの身体も、同じくロシアだ。
一つの国に、ぼくらのような化身というものが二人いる。男性型と女性型だけど、そんなの、人間にしかわからない違いで、あくまで存在としての位置づけは一つだ。……例えば一人分の巣穴を二人で兼用しているような状態とでもいうんだろうか。いわゆる根源を共にした分身、だと捉えてくれていい。ぼくはオンでありアナで、アナでありオンというわけだ。長らく国の政府機関の所有物として扱われていたものだから、今でもそこで仕事をもらい生活をしている。
例えば軍事や外交のような政治関連は男性型である〝オン〟が出席して、国際交流や行事ごとには女性型である〝アナ〟が出席することが多い。……オリンピックなんかは、二人で手分けしていろんな会場を回ったりもするんだけど。たいがいの場合は出席する催事によって、どちらが出席するのか指定されている。
「――オン、」
黙り込んでしまったオンに呼びかけたのは、あまり深いところまで潜り込まないようにするためだ。
……元々ぼくらは国の名前で呼ばれていて、二人揃うと『он』や『она』と呼び分けられていた。わかりやすく言うなら、イギリスくんの家で言うところの『he』や『she』で、フランスくんの家で言うところの『il』や『elle』にあたる言葉だ。けれど、だいぶ近世になってから、ぼくらの人権がどーのこーのと謳う人が出てきたのがきっかけで、それぞれイヴァンとアーニャという名前をもらった。……と、言いたいところだけど、ロシア人の男性を指せば誰でもイヴァンと呼ぶし、アーニャもそういう類の名前だった。オンやアナとほとんど変わりはない。何より、人間でもなんでもないぼくらは、互いにこの〝人間の〟名前を使うのが少しむず痒かった。だから、多くの化身は、今でも互いのことをオンやアナのように呼び合う。ぼくももちろんその典型だ。
「ねえ、オン」
ようやく返事をする気になったのか、ぼくと同じ虹彩で形作られた瞳が、ゆっくりとぼくを捉えた。そんな目をしていたら、またプロイセンくんに疎まれちゃうよ。
オンは、大きな家が崩壊してから、プロイセンくんのこととなると、ずっとこの調子なんだ。……もちろん、ぼくも人のことは言えないんだけど。――思い出すのはいつも、笑ってくれていたときの顔。すごく身体が暖かくなって、それから、きゅって、痛くなる。
ぼくはうまく立ち回れず一度手放してしまったことを、今でも悔やんでいるんだ。ずっと、捨てきれずに腫れ上がった気持ちを、胸の辺りに、ぼくもオンも、しまい込んだままでいる。
「……なあに?」
腑に落ちない顔つきでオンがぼくを見る。そんな情けない顔を見ていたら、ふと鏡を連想してしまった。……ぼくもこんな顔をしてしまっていたら、悲しいなんて過って……、
「ぼく、いいこと思いついちゃった」
前のめりに身体を倒した。いたずらを発案する子どものような声つきで、オンに注目を促した。
「ぼくもさ、[[rb:sie > ズィ]]について、思うことがたくさんあって」
「……うん」
口から発しただけで、ズィの弾けるような笑顔がまた浮かぶ。ズィは、プロイセンくんの化身の一人だ。周りからはユールヒェンと呼ばれている、ぼくの大好きな子。少し乱暴で大雑把だけど、すごく優しくて……がんばっても嫌いになれないんだ。
そしてその隣にいた、疲れているくせに悪人面に近い、不敵な笑みを浮かべていたのが、
「オンは[[rb:er > エア]]に、ぼくはズィに、」
オンがずっと心を囚われ続けている、プロイセンくんのエアのほうだ。周りからギルベルトと呼ばれているほうの化身。
はっきりと二つの化身を言い分けて、
「どちらが先にこのぎゅうってなる気持ちを伝えられるか、競争してみるってのはどう?」
オンの手を握って、労わるように笑ってあげる。示された反応と言えば、憂慮した挙句の瞳の揺らぎ。されるがままのオンが戸惑いがちに口を開くと、声色もそんな感じになっていた。
「……この気持ちを……伝えるの……?」
なんて弱気な言葉だろうか。でもこうでもしないと、ぼくもオンも、前に進めない。プロイセンくんと顔を合わせる度にこうやって蹲りたくなるような気持ちになって……そんな苦しいこと、終わらせたいじゃない。
ぼくだって、オンと同じ気持ちを持っているんだ、不安がないわけじゃない。でも、勇気の代わりにズィの楽しそうな顔を思い出して……すがるように思い出して、ぼくは気を強く持った。
「プロイセンくんにも聞いてもらってさ、それから、教えてもらおうよ」
「……アナ、ぼくは、」
「プロイセンくんなら、きっと知ってるよ。この気持ちをどうしたらいいのか、きっと、考えてくれる」
未だに心許ない目をして……たぶん、ぼくもそんな目をしているんだろう。けど、握っていた手をぎゅうと強く繋いで、
「ぼくたちのここに居座るプロイセンくんは、そういう人でしょう……?」
同じように、眼差しも強く繋いだ。オンの瞳の揺れは止まり、すっと、意思を持って吸気したのを聞く。
「でも、負担になるよ、きっと」
言い訳のようなものをぼくに寄越した。
「らしくないね。ぼくならほしいものには正直なはずなのに」
皮肉のつもりで返した。
「アナもわかってるでしょう。一度手放したんだもん。プロイセンくんがぼくのことを嫌いでも、仕方がないよ。……ずっとそう言われてきてるんだし……」
そんなことわざわざ形にしてくれなくたって、オンの言う通りわかっている。だからこそ、今までぼくは、いやぼくたち二人は、プロイセンくんと話すのをためらっていたんだ。ためらって、燻っていた。
「……でも、ぼくは、あのときとは変わった。あのとき言えなかった言葉が、たぶん、ぼくの中に増えてて」
静かに、必死で、自分を励ますために反論を続ける。また安定剤のように大好きな人を思い浮かべて、自分で退路を断つ。
「……オン、ぼくは、ズィが好きなんだ。叶う気持ちなのか、叶わない気持ちなのか、はっきり教えてくれるよ」
「……それが一番怖いくせに」
吐き捨てられても構わずにオンの手をそっと離す。いつかはちゃんと、踏み出さないといけないんだ。ぼくも変わった。プロイセンくんも状況が変わったし、何より優しいから、話せばきっと聞いてくれる。
ぼくはオンをあえて一人にするために、その場で立ち上がる。既にあちこちに向いている髪の毛の上から、オンの頭を撫でてやった。子ども扱いするなという眼差しで見返されたけど、それそのものが子どもっぽくてつい頬を緩ませてしまった。
「――決まりだよ。明日会ったときから、気持ちを先に伝えたほうが勝ちね」
オンは未だに納得のいかないと言った面立ちでぼくを責めていたけど、心のどこかではわかってくれているはずなんだ。こうでもしないと、堂々巡りが終わらないから。
有無を言わせる前にシャワールームに向かった。まるでぼくに考え直すように訴えるよう、しばらくぼくの残像を見ていたようだったけど、ぼくはもう決めたんだ。
オン、ぼくたちはここまでがんばって耐えてきたんだよ。あと少しだけがんばろう。ぼくたちは変わったんだから、きっと違う結末を模索できるよ。
*
飛行機の轟音が鳴り響く待合所で、俺様はすでに待ちぼうけをしていた。ソファが空いていたから、まあ不幸中の幸いだ。低いビルなら入りそうなほど高い天井と、採光の行き届いただだっ広い空間、それから各々自由に行き交う人間たちの流れ。使い込まれてくたびれた安っぽい合皮の生地が指にあたり、ぎゅ、と音を立てる傍ら、俺様はそんな景観の中で待ち人を探していた。……いや、集合時間にはまだ十五分あるわけで、別にあいつが遅刻してるとかそんなんじゃねえんだが、俺様自身が早く着きすぎちまったのがいけない。
そもそも渡航ルートが違うのだから、今回同行する政府関係者は先に現地入りしていて、カリーニングラードには俺様たちだけで向かう。子どもじゃねえんだからこれくらい当たり前だが、一人だとどうしても頭が横道に逸れていく。……ロシア、これから会わなくちゃなんねえ、俺様にとって大がつくほど苦手な野郎だ。一緒に暮らしていた時期もあるくらいで、暇つぶしには最適なほどに思い返すシーンがたくさんある。ありすぎる。軍帽とマフラーの間から覗くあの底の知れない笑みは、思い出している内にげんなりしてくる。
「――お、ギルだ、早えな」
後ろから聞き慣れすぎた声がして、頭だけで振り返った。視認するよりも先に、
「お前は遅えじゃねえか。飛行機間に合わねえかと思ったぜ」
文句を垂れれば、悪い悪い、と髪の毛をくしゃくしゃかき上げた。生まれたときからずーっと一緒にいる、俺様と同じ化身のユールヒェンだ。どか、と疲れを逃すように俺様の隣に腰を下ろして、大きな態度で嘆息を漏らした。一応は公務での移動なのでお互いスーツなのだが、まったく自覚がないかのような座り方だ。いや、そういうことを考えてのパンツスーツだろうから、特に何も言わずにいたわけだが。
「仕方ねえだろ、ヴェストがいつまでもチェックリストから離れねえから」
「ケーセセ、こっちもだ」
「まあ、色々あったしな、心配な気持ちはわかんねえでもねえけどよ」
普段から俺様はルッツと、ユールはモニカと暮らしていてる。どうやらモニカも元気なようで何よりだぜ、と思いつつ目に留まったのは、こいつの長い髪の毛だ。俺様と同じ白銀の髪の毛はただでさえ目立つというのに、その上伸ばしているせいで邪魔なんだから、会う度に切れと言っている気がする。と言っても、いつも「モニカが反対するから」と笑って流されるだけなんだが。そう言われちまうと俺様も言葉を引っ込める他ない。……結局、俺様は俺様、ヴェストに甘いんだよなあ。
目前の電光掲示板の表示が音もなく変わった。俺様たちが乗る便へ向かう保安検査場が解放されたとの表記が現れ、ああ、もうすぐ時間か、と観念した。
「んで、ユールよお、今回の呼び出し」
「ああ、ちゃんと把握してるぜ。まったくなあ……いつまで顔合わせねえといけねえんだろな」
やっぱり、こいつも俺様と同じだ。ちらと横顔を盗み見たら、少しむずむずしたような、心地の悪そうな表情をしていた。
俺様たちがロシアを苦手な理由は、たぶん根底では同じなんだ。腐れ縁の情ってやつなのか、あいつのことを上手く突き放せない。……突き放せない自分が情けなくて、だが、たぶん満更でもない。それを実感しちまうのが、なんか、すげえ悔しいときがある。あいつは盲目的なところがあるからな、散々空回りさせられちまって……いや、まあ、どっこいかも知れねえけど。そんな相手を思い出して嘆息しちまう現実に嫌気が差すんだ。……どうせ今回もまともに話し合ったって伝わんねえんだから、適当に済ませりゃいい話だけどな。
俺様が見ていたのをわかっていたんだろう。ユールは煙たそうに手をはためかせ、
「あー、なんか言えよ」
俺様に丸投げしてきた。ロシアのことを思い浮かべちまってばつが悪いのはお互いさまだ。
「ケセセ、喋るのはいつも女の役目だろ」
「人間の話だろ、俺様の性には合わねえ」
諦めたのか、先に立ち上がったのはユールだ。ガラガラと慎ましい大きさのキャリーケースを引っ張って、「ほら、もう行こうぜ」と俺様を誘導した。
ベルリンからカリーニングラードは意外に近く、直通便がないので乗り換えにはなるが、昔の移動に比べりゃずいぶん楽になっている。まあ、俺様たちが比べる『昔』がどうしても馬を乗り回してたときのことになるので、あれ以上の不便があってたまるかとは思うが、あれはあれで良さもあったのは補足しておく。
ともあれ、俺様たちは別に待ちに待ってもいないこの土地に足を下ろす。とは言え、それはロシアと顔を合わせなきゃなんねえからであって、それを遥かに凌ぐほどの心軽さを、大地を踏みしめるのと同時に、毎度踏みしめることになる。……土地なのか人なのか、呼ばれるような絆を感じているから、ここはまだ俺様なんだなと、どうしようもなく実感する。身体が浮かぶような身軽さすら感じてしまうくらいなんだ。これを踏みしめる度に、俺様たちの間には一瞬だけ共通した考えが過ぎり、そして同じだけの間でそれは拭い去られる。……いっそこっちに移住するか、いや、ヴェストと離れるわけにはいかねえだろ。その証拠に、地べたを踏んで遅くても五歩以内には、互いを見合わせてしまう。毎度のことだから、最近は思わず笑っちまうくらいだ。
さて、出口の外で今回の同行者である政府関係者が待機しているはずだと聞いていたのだが……忙しなく交差していく人間を掻き分けながら、離陸ぶりに携帯電話端末に電源を入れると、そこに新着のメッセージが入っていた。……どうやら政府関係者ではなく、ロシア様ご本人様がお迎えに来てくれているらしかった。……驚きと共に顔を上げると、急な変更にうんざりする間もなく、人混みの向こうにそのロシア様ご本人様たち二名を見つけてしまった。これじゃ、ため息も間に合わない。
そっとユールにもメッセージ画面を見せてやると、小声で「げ、」と漏らすから、そんなの、思わず笑っちまうだろ。同意しかなかった。
顔を上げたユールも、目線の先にでかすぎる存在感を放っている化身を見つけたのだろう。歩みを止めずに俺様に何度か肘打ちをして、
「なあ、ギル。右がオンに十ユーロ」
「お、出たな」
いつもの賭け事を持ち出した。
「じゃ、俺様は左がオンに二十ユーロ」
「しけてんな」
「お前が言うなよ」
俺様たち化身は、同じ国の化身同士なら互いが男性型なのか女性型なのかはもちろん把握できるが、不思議なことに、他国の化身同士ではそれがどちらなのか判別がつかない。……いや、きっかけがあればわかるが、並んで雑談するだけでは識別ができないんだ。おそらく、二人で〝一つの国〟だからだと思われる。……人間にはどちらか一目でわかるらしいから、これは国同士の間にだけある問題だ。……ま、反対に人間には化身や分身のなんたるかはわからないわけで、やっぱり種別が違うんだなと割り切るしかないところ。
両ロシア様も俺様たちに気がついたらしく、二人いっぺんに、寸分の狂いもなく同時に笑顔になって、小さく手を振った。こんなにまったく同じ行動をされると「うお、まったくわかんねえな」と漏らしても仕方がない。ユールもまったくだ、とごちったところで、
「やあ、プロイセンくん」
「いらっしゃい」
「長旅大変だったでしょう」
左右のロシアが交互に挨拶をした。その間に足を止めるほどの距離になって、先に立ち止まろうとしたユールが息を吸う。
「言うほど長くねえし、」
「お前らのほうが……」
続けようと思ったところで、左のロシアが一歩俺様のほうに歩み寄って、
「って、は⁉︎」
まだ立ち止まってすらいない俺様の胸……いや、胸筋を、胸筋を揉んだ。揉みやがった。そしてあろうことか、
「あ〜〜残念、そっちがズィか」
「やった、ぼくの勝ちだねアナ」
二人で笑いやがる。実際の被害者であり、言葉をなくしている俺様を他所にユールまで、
「おい、お前、それもしかして俺様の胸揉むつもりだったのか……?」
と動揺に声を揺らしていた。もちろんそれを笑顔で「うんっ」と流すのがロシアで、さすがの俺様もぼん、と頭に血が上る。
「なあにが、うんだよっびっっくりしただろ⁉︎」
「顔真っ赤にしちゃって、エアかわいいね」
性懲りもなく笑ってやがるから、いっそう不愉快になった。
「まあ、とりあえずこっちがアナってわかったなギル」
宥めるつもりも含めてだろう、ユールが俺様の肩を叩いて目配せをしたのは、左にいたロシアだ。俺様が先程オンであると賭けたほうだった。……胸を揉まれて、この上賭けにまで負けるたあ、なんたる災難だ。鞄の中に手を突っ込んで、
「ったくよお、俺様の負けじゃねえか」
「へへ、毎度」
潔くユールに負けた金を渡した。胸を揉まれた感覚がいつまでも残ってやがる。気持ち悪い。そしてそのやりとりを何食わぬ顔で見ていたアナは、微笑んだままオンのほうへふり返り、
「どこもやってることは同じだね」
一人で考え込んでるようなオンに気づいた。
「……オン?」
もちろんそれで俺様たちもそれに気づいたが、かき消すように笑顔が戻って、
「う、うん。じゃあ、行こうか」
アナの肩を叩いて出口のほうを指し示した。どうやらタクシーを待機させているらしい。
「とりあえず今回のぼくたちのホテルに案内するから」
「おう、頼むぜー」
歩き出したと同時に俺様もユールも、先導するロシアのあとを追って、ガラガラとキャリーケースの音を響かせる。お世辞にも綺麗とは言えない地面を見下ろすと、少しだけ懐かしい感覚がぶり返した。
前方の二人を見失わないよう改めて顔を上げ、インフォメーションセンターの上部の時計が目に入り、飛行機が予定より少し遅れていたんだなと気づく。念のため腕時計も覗いてみたが、やはりそうだ。
「落ち着いたらヴェストに連絡しねえとな」
「ケセセ、お坊ちゃんは心配性ですねえ」
独り言のつもり……というか、ユールもそうだろうと大きめの独り言を吐いたのにからかわれるもんだから、
「うっせえ、モニカも変わんねえだろ!」
つい力が入ってしまった。俺様のかわいいルッツは優しいんだよ、知ってんだろ。続けようと口を開いたところで、
「まあそうなんだけどな。モニカ、俺様のこと大好きだからなあ、ケセセ。かわいいんだぜ?」
ユールも自慢げに笑って返して来やがる。
「……相変わらず仲良しなんだね」
次には思わぬところから声が混ざって、二人で会話していたつもりの俺様たちに緊張が走った。……声を聞いただけで、しまった、こいつの前でヴェストの話はまずかったか、と柄にもなく様子を窺ってしまい、
「ねえ、オン」
そこに咎めるようにアナがオンの腕を叩いた。思わず四人揃って足を止める。その俺様たちの反応に一番戸惑っていたのはオンだ。無垢な瞳できょんと首を傾げる。
「え? だめだった?」
……この仕草が似合っちまうから、いつももやもやするんだよ。
自分で作り出した緊張感にも気づいていなかったようで……まあ、本人も雑談に混じったくらいのつもりだったのかと思うと気の毒だが、とりあえず沈黙してしまった俺様たちの前で、仕切り直しとばかりにアナが改まった呼吸をした。それから上手ににこりと笑み、再び足を進める。
「ホテルはタクシーで五分くらいのところだよ」
「なんだ、近えな」
「歩こうぜ」
「じゃあお前、俺様の荷物持てよ」
軽快に会話をしていた俺様たちを止めるように、オンがまた歩きながら振り向く。
「もう、タクシーは手配してあるから」
今度はさっきみたいな緊張感はない。アナも同じように身体を傾けて、
「ぼく、ズィと乗るね。オンはエアと乗って」
てきぱきと指示を出す。女性型と男性型がそれぞれ固まるんだから、当然、身体の大きな俺様たちのほうは窮屈になるだろう。その光景を浮かべて、深く考えずにまた笑ってやった。
「それ、暑苦しくねえか」
「うん、いいよ。同行スケジュールはその組み合わせのほうが多いしね」
穏やかな笑顔のままで、俺様の茶々をなかったものにされてしまった。
*
後ろのタクシーにまずギルが乗り込み、それに続いてオンが乗り込むのを見届けた。一方で前に停めてあるくせに、キャリーケースをトランクに突っ込むことに手間取っていたこちらの運転手が、小走りで運転席に向かう。その間にさっさと乗り込んだアナが車の中から、「ズィ?」と手招きをする。久々の街並みだが、そんなに景観が変わるほど久々でもない。簡単に一望してから乗り込み、ロシアの隣に座り深く息を吸ったら、新車のような匂いに酔いそうになった。この匂いはいつになっても慣れない。
それからすぐ、ロシアと運転手がいくつか会話をしてから、緩やかに車は発進した。……たった二泊三日とは言え、ほとんど俺様はロシア……主にアナと行動を共にする。……長い三日だ。今日はとりあえず四人とも同じホテルで休み、明日の朝一で会議、それが終わったら俺様とアナだけで施設の視察、それを持ち帰って今度はオンやギルも含めた面子で会議、そのあと、この地のお偉いさんと会食……まあ、だいたいそんなスケジュールだ。明後日には帰り支度を済ませて、また可愛いヴェストのところに帰れるということらしい。
「――プロイセンくん、」
窓の外を眺めていたら、反対側から潜めたような声が聞こえた。条件反射でふり返れば、ロシアが真剣な眼差しで俺様を待っていた。
「……ぼくに、手を貸してくれないかな」
「……はあ?」
何を藪から棒に、と間抜けな声で返してしまった。前置きも何もあったもんじゃない。
「実はぼくの大事な人にね、想いを伝えられない人がいて」
ロシアのしっかりと厚みのある眉尻が下がった。……〝大事な人〟か。まあ、概ね見当はつく。……アナにとって大事なその人が、想いを伝えられない……しかもそれを俺様に手を貸せって言ってるんだから、もしかしても何も、思い当たる節は一つしかない。嫌でも脳裏を掠めるのはオンとギルだった。
「ふふ、そういうぼくも、同じような意気地なしなんだけど」
憶測の配役ではあるが、オンがギルに伝えられない想いなんて、あまりに今さらだろうと身構える。……それに、俺様の深いところで燻っている感情をすくい出して、思い返してみても……昔っからここに居座っている、じりじりとした感傷は、残念ながらまだ確かにここにある。それはギルも同じだ。
「……プロイセン、くん?」
「……伝えりゃいいってもんでも、ねえだろ」
今さら、あのとき散々空回りしてた想いを伝えたとして、それは何になるんだ。はっきり形にせずにいるから、俺様たちはなんとかやっていけてるんじゃないのか。
深いところにあったはずのじりじりとした不快感が、ゆっくり俺様の腹の底まで昇ってくる。隠すように腕を組めば、そこにロシアの手がやさしく、少し戸惑うように触れた。
「そうかな。何か想いがあるなら、言って欲しいと思わない……?」
切実そうなのは、オンと共有している想いだからなのか、それとも、アナ自身も持っている想いだからか。
どっちでもいい。今はまだ、そいつらをはっきりさせる頃合いじゃないと勝手に断定してしまう。疑う余地もないほどにまっすぐとロシアを見返した。
「ああ、知りたくねえこともある。お前もだろ?」
「……ぼくは、隠し事のほうがいや」
「じゃあ、お前は俺様に何も隠し事してねえってこったな? ロシアちゃん?」
わざと語気を強めて問い返したが、案の定、ばつが悪そうに手を離した。
「そ、それは……」
こいつのこういうところだ。あのころだってそうだ、自分は腹の中に隠し事をたんまりと溜め込んでいたくせに、こちらに強要した白状で勝手に逆上したり……。もうずいぶん前の情景だが、あのころのことを思い出してしまった。……なにが伝えたい想いだ。
「よくもまあ堂々と、自分のことを棚にあげられるこった」
観念したらしく、ロシアは乗り出していた身体を整え、しっかりと身体を落ち着けた。肩を落として何かを言い迷っている様子はまだあって、揺れる瞳に、思わず目を奪われた。
「……ぼ、ぼくは、言えるもん。その、つもりだったし……ただ、君みたいに、聞くことにも準備が必要な人も、いて、」
「どうした? 怖気づいたのか」
もごもごと言い訳のような口調になっていたから、わざと挑発するような言葉を返した。
「……違うよ、プロイセンくん。ぼくは、君の準備を待ってる」
唐突に目の色が変わった。顔を上げて、今度は仕返しとばかりに、俺様をまっすぐにその視線で射抜く。
「……は?」
「君に、伝えたいことが、あって。だから、心の準備を、していてほしい」
あんまりにも真剣に言うものだから、一瞬の内に脳みそに可能性のある事柄が駆け巡った。……ロシアから……いや、〝アナ〟から俺様に伝えたいこと。……それも概ね予想はついてしまうから、腹の底にあった苛立ちが、ざわざわとした胸騒ぎのような感覚に塗り替えられていく。……あのころ散々持て余したわだかまりが、急に顔を出して暴れ出したようで……すぐには言葉を思いつかなかった。
何をそんなに焦ったのか自分でもわからないが、急いで窓の外へ視線を飛ばす。そこには流れていく街並みがあり、いくつかの様相が明らかな変化を含んでいた。……この街も、ゆっくりと変わっている。
「……そうか。……あんまし、期待すんなよ」
「……うん、わかってるよ」
車内の空気全体が、たちまち決まりが悪くなる。半分は俺様のせいだから、それを誤魔化すように窓の外を眺め続けた。だが正直に言うと、今はこの街並みも、まったく落ち着きのないものに見えていた。
……だって、『伝えたいことがあるから、心の準備をしておけ』だと。もうほぼ要件は伝わってるというのに、それはあんまりにもずるくないか? どうしたことか、わけもわからない内に顔中が熱くなって、俺様、今きっと耳まで真っ赤になってんじゃねえかと過って、一刻も早く毛布に包まりたい心地になった。あんな真剣な眼差しで『伝えたいことがある』なんて言われたら、そりゃもう、そういうことだろう。……今さら、そんな改まって告げられるのか。なんでこんなにバクバクと脈打ってやがるのか、自分の心臓ながら、まったく理解ができない。
そうだ、話題を変えようと、思考をふり払うように思い出した話題にすがりつく。そういえば、話が逸れていた。……俺様のせいか。
「んで、手を貸すって、何すりゃいいんだ」
顔を向けると、ロシアも窓の外を見ていたらしく、視線を俺様のほうに戻した。
目の中から腹の内でも窺うように一暼されて、
「エアに、それとなくオンについて考えるように促してほしいんだ」
言いにくそうに告げられる。……やっぱりそれ絡みだったかと、そこだけは腑に落ちた。
「オンね、たぶんぼくに伝わってくる以上に、エアが大事なの。だから、エアの眼鏡がもし曇っているなら、もっと透明な気持ちで、オンを見てあげてほしいなって」
ロシアは控えめな口元でぼやいていた。まるで自分のことのように、というと語弊があるかもしれない。たぶんロシアは、ギルだけじゃなくて、俺様にも同じことを言いたいんだと思う。
だが、ここはあくまであいつら二人の話として進んでいる。
「……そんなの、オンもギルも望んでんのかよ」
「少なくともオンはね。抑えるのに一苦労してるんだ、オンはぼくだから、よくわかるよ」
控えめな顔つきは変わらなかったが、声が幾分か自信を取り戻しているようだった。よほどはっきりとした気持ちなんだろう。……また変な心地が腹の中でゆるく渦を巻く。……ギルは、どうだろうか。空港での様子を思い出しても……いや、俺様たちの根底にあるわだかまりを切り出しても、これはオンにとって一筋縄じゃいかない。
それをたぶん、アナも……もしかしてオンもわかっていて、だから俺様に協力してほしいなんて言っているんだ。
「……お前に協力するかは、わかんねえ。気が向いたら……な」
「うん、それでいいよ。ありがとう、プロイセンくん」
ようやくロシアはいつも通りの笑顔を取り戻した。俺様の中の渦まで少し晴れたように感じたが、錯覚ではないだろう。
ちょうどそのタイミングで車が停車する。見れば大きなホテルのフロントの前にいて、開いた車の扉の前で、ボーイが手を差し出してくれていた。
「あ、ねえ、プロイセンくん。今晩一緒にご飯食べようよ」
降りている動作の最中だったため、完全に降りてからふり返った。
「あ? 二人でか?」
返答を聞く前から楽しそうに笑っているから、二人きりでって意味だろう。
「うん! 国同士だし、女同士だし、積もる話もあるでしょう」
続いてロシアが車から降りているときに答え合わせをされる。……このとき初めに浮かんだ感嘆は「げ、まじかよ」というものだったし、さっきの話も思い出して、情けないほどに勘ぐってしまった。
女同士ってなあ……そんな人間みたいなことを言われても……と、誰を誤魔化そうとしているのか、ごくごく小声でごちる。……というのに、楽しそうに笑っているロシアを見ていたら、まあ、飯くらいいいかと思考が被さってくる。こういうところ、たぶん俺様は甘すぎるんだよなあ。
「……まあ、いいけど」
どうせギルとルームサービスを頼むくらいしか考えてなかったしな、と自分も納得させて、トランクから降ろされたキャリーケースの取っ手を握った。
「……うん、ありがとう」
ぽたり、と雨粒が降るような錯覚を得て、ロシアの声色に思わず目を向けた。……なんだ、どことなく少し寂しそうに見えたのは、なんだろう。
「じゃ、六時半ね」
釘づけになっていた俺様をよそに、ロシアはまた早々とオンやギルのほうへ歩み始めていた。どこから紛れ込んだのか、どくどくと気持ちの悪い動悸が身体を巡る。車の中でも経験したやつに似ていた。……だからあいつは苦手なんだ。
ロシアはそれ以降も何事もなかったように合流して、俺様たちはそれぞれの部屋に向かった。
*
さて、ようやく割り当てられた部屋で落ち着いた俺様たちだ。タクシーの中での五分は大した会話はなく息苦しかった分、気心どころか心すべて知られてしまっている分身といることの気楽さを実感している。……そう、まったく、経費を削減するためなのか、予約が取れなかったのか、結局ロシアも俺様たちも、それぞれ階は違うがツインの部屋に通された。つまり、俺様とユールは同じ部屋だということだ。慣れっこだし別にいいんだが。
とりあえず荷物を置いてすぐ、互いに気遣いの欠片もなくスーツを脱ぎ捨て、楽な格好に着替えた。それからコーヒーブレイクを挟んだが、夕飯を摂るにはまだ少し早い時間だなと話している内に、久々に散歩がてら街並みを堪能しに行くかという話になった。
空気そのものが違って感じるほど、この地は俺様たちの身体に馴染む。あーだこーだと思い出話に花を咲かせながら散策した。そこで出たついでに夕飯でも買って帰るかとユールに提案したら、今晩はアナと飯を食う約束をしたなんて言う。それを聞いて、こいつすげえなと素直に尊敬してしまった。俺様なら、オンに誘われたら半分強制的に連行される事態になるだろう。
外気を十分に堪能した俺様たちは、ロシア様をお待たせするわけには行かないので、一旦部屋に戻った。それからユールは身なりをなんとなく程度に整え、じゃ、行ってくると部屋を出て行った。ロシアの部屋にアナを迎えに行ったんだろう。そういうところ、律儀だよなあと見送った。……俺様の分身か。
それから三分もしない内だと思う。はてさて一人で夕飯をどうするかなあと、なんとなく携帯電話端末を使って近場の飲食店を検索していたところだった。
ディンドン、と部屋のチャイムが鳴って、誰かが訪ねてきたのだとわかる。……いや、この場合は誰かと言っても、可能性があるのはほとんど一人しかいないのだが。
それでも、もしかするとホテルのボーイだったり、ほかの来客だったりの可能性も加味して、はい、と声をかけながらドアに向かった。自動ロックでかかっていた鍵を外して、二度目の応答を口にしながら扉を開けた。
「あ、えと、」
窓のない奥行きのある閉塞的な廊下を背景に立っていたのは、まさしく可能性が一番高いと思っていたロシアだ。うっ、と腹の底から身構えてしまった。じっと俺様の顔を見ていたかと思えば、
「こんばんは、プロイセンくん」
急ににこりと笑みを浮かべ、
「なんの用だ」
「あれ、ズィはいないの?」
俺様を避けるように部屋の中に視線を投げた。
「おう、アナと飯って。もう出たぜ」
「そうなんだ」
戻ってきた視線で、またしばらく俺様のことをじろじろと観察してやがる。何しにきやがったんだ、と俺様も腹を探るのに必死になってしまい、しばし会話を忘れていた。
ぱ、と思い出したように閃いた顔をしたのはロシアだ。
「ごめんね、急に。迷惑だった?」
ただの見てくれだろうが、少し控えめな姿勢で尋ねられる。未だに何を考えてるのかはわからないが、とりあえず言葉は返す。
「……迷惑、とかじゃねえけど……ユールが出ちまって暇だしな」
それを聞くなり、
「そっか……その、少しぼくとおしゃべりしてくれないかな」
また顔色を窺うように尋ねられた。……こうも低姿勢で来られると調子も狂うし、嫌な予感がするので、変に肩肘を張ってしまう。しっかりとドアを握り直したのはそのせいだ。
「ンだよ改まって。明日も明後日も顔付き合わせるんだから、そんときじゃだめなのか」
「うん、個人的な……ことだから……」
個人的なこと……公務には関係ないから今話しておきたいってことか。
「少しだけ。長くは話さないよ」
念を押すように付け加えられて、おまけにここまでしおらしく確認をされるのは稀なので、俺様の警戒心もやる気をなくしてどこかへ離散した。
「はあ、わかった。いいぜ。入るか?」
「ううん、ここでいいよ」
招き入れようと思っても立ち止まったまま。本当に長く話す気はないのか、居座るつもりがないならそれで何よりだが、こんな廊下でどんな話をするのかと疑問が深まる。
「……で。なんだ」
ためらいがちに俺様の瞳を覗き込んで、声を潜めるためなのか、少しだけ近くに寄った。
「あのね、プロイセンくんは、人に言えない気持ちを持っていたり、するのかな」
……なんだ、藪から棒に。前後まったく関係なく問われたから、素直に「人に言えない気持ち?」とくり返してしまった。
「いや、ぼくたちにとっては〝自分にも〟言えない、気持ち、だけど」
……『ぼくたちにとっては自分にも』というのは、おそらく分身にすら言えないという意味だ。目の前の眼差しはまさに真剣で、唐突に息苦しさを感じた。おまけに追い討ちのようにユールの心配そうな顔が浮かび、なぜか柄にもなくドキッとしてしまう。……なんだ、この変な気持ちは。
「……そんなもん、ねえよ」
だが、それがなんなのか自分でもはっきりとわからない俺様は、そう答えるほかなく、
「……ほんと?」
さらに確認を重ねたロシアに、おう、と自信もなげに返すしかできなかった。
どういう心境だろうか、ロシアは肩の力を抜くように微笑んで、また俺様の目をしっかりと捉えた。
「じゃあね、もしね、ぼくが君に言いたいけど言えない気持ちを、持っていたとして……君は、それを知りたいと思う?」
なんだ。さらに訝しんで構える。……ロシアが俺様に言いたい気持ちなんてのは、まあ、予想がつく。どうせいつも言っていることだ、こいつのものになれとかそういう。……じっと見ている視線がそもそもそれを物語っている。
ぐつぐつと煮出されるような焦燥を感じて、つい返答を急いてしまった。
「別に、知らなくていいことは、知りたくねえよ」
何もこいつに限ったことじゃない。俺様たちは立場上いろんな野郎の裏表を見せられてきたわけで……そういうの、いくら割り切っても疲れるものは疲れるだろう。だから、知らなくていいことは知りたくない。誰に聞かれてもそう答える問いだ。
「……やっぱり、そうなんだ」
「……あ?」
「ううん。それは、なんで知りたくないの? ぼくはどんなことでも、隠されてるって思うと落ち着かなくなっちゃうんだけどなあ」
まるで本当に俺様の言っていることが理解できていないのか、困ったように肩を竦めた。
「……余計なこと知ったって、いいことねえだろ」
俺様に言わせりゃこいつのほうが〝人間の表裏〟に振り回されて生きてきただろうに、とは思ってしまうところだ。……だが、どこか抜けてるこいつのこと、きっと自覚がないのだろう。
とんでもなく余計なやるせなさを抱いたせいで、次にロシアが静かに行った開口が気になった。先までと同じように疑問で満ちた表情で、
「余計なことって、誰が決めるの?」
ただただ純粋にそう問われた。
「そりゃ、俺様にとっての余計なことなんだから、俺様に決まってんだろ」
はっきりと断言してやる。
「……じゃ、ぼくがもし吐露してしまったときは、『余計なこと』って流されちゃうのかな」
「……たぶんな。お前も興味ねえことはすぐ忘れるだろ。それと同じだ」
「……そっか」
俺様を訪ねてきたときよりもよほどしおらしく肩を落として、途方に暮れるように立つばかりだ。やけに小さく寂しく映るロシアを見るに耐えず、俺様まではらはらと居心地を悪くする。これはもう性分に近いが、
「……あのな、」
俯いてしまいそうだったロシアの注意を引くため、わざと大ぶりな仕草で腕を組んでやった。
「俺様は余計なことは知りたくねえって言ってるが、これはあくまで俺様の言い分だ」
まるくてさらさらとした光を持った瞳が、しっかりと注目した。
「何を懺悔する気か知らねえが、お前が言いたいって思ったんなら、それを言っちまうのもお前の勝手だぜ。そんなこと、俺様に決めさせんなよ」
何か言いたいことを吐露したあと、それをどうするかは、それを聞いた俺様が決めるという話だ。余計なことは知らなくていいが、ロシアが余計なことと思わないのであれば、聞いてやる価値くらいはあるだろう。
ぱちぱち、と大きな瞳を何度か瞬かせた。
「……ああ、そうか。確かに……そうだね」
さっきまでのおどおどとした空気はなくなり、
「ケセセ、急にすっきりした顔になったな……って、あれ、」
その拍子に、綺麗に整えられたまつ毛がまっすぐ伸びた前髪と絡み合っていたことに気づく。思わず手を伸ばしてしまい、髪の毛に触れてさらに確信を抱く。艶と芯をしっかり持つ、手入れされた――長髪だ。
「……お前、もしかしてアナか?」
「えへへ、そうだよ。気づいてなかった?」
こいつの戯けたような笑顔を見ていたら、少しムッと口元に力が入る。なんの疑いもしなかった俺様も俺様だが、こいつも俺様がオンだと勘違いしていたことには気づいていたはずだ。
「わざとだろ。悪趣味だな」
咎めた側から笑顔がすぼむ。
「……そんなこと言わないでよ。今日ね、ズィにも知りたくないことがあるって言われて……気になってたんだ」
「……ほう」
さすが俺様の片割れと言うか、考えることは同じだなと感心した。だが、ロシアは一人で勝手に晴れたように微笑み、
「君のお陰ですっきりしたよ。ありがとう」
改めて俺様に惜しみなく笑いかけてくる。
「……でも、もしオンが君に大事なことを話したとして、そのときは、できれば流さないであげてほしいな」
さらに勝手なことを宣って、あまつさえ心配げにどこかを見ていた。とにかく、オンに成りすましてまで俺様に何かしらの探りを入れてきたことを、自分で白状したってわけだ。ただのお節介なのはわかるが、生憎とこの返答はアナだろうがオンだろうが関係ない。
「それは、俺様が決めるっつってんだろ」
ふん、と強めに息を巻いてやった。ようやく気が済んだらしく、
「そうだね。……じゃ、ズィが待ってるかも知れないから、もう行くね。ありがとう、プロイセンくん」
よくよく考えれば、ずっと目線が少し下にあった小柄な容姿で踵を返して、颯爽と廊下を駆けていく。その後ろ姿をしばらく目で追った。
アナが言っていた『オンが大事なことを話したとして』という言葉を反芻する。……大事なこと。それは……たぶん、俺様の奥底に押し込んで、目を逸らしてきた感情に触れることだろうなと、緊張感のようなものを覚えた。あのころから空回って、未だに出口を見つけられていない、今の俺様にとっては少し陰鬱としたものだ。
なるべく音を立てぬように扉を閉じて、鍵がかかったことを確かめる。表面の塗装のざらざらとした手触りが、まだ指先に触れている。……たちまち身構えてしまったこのよからなぬ勘が思い過ごしならいいと、それが正直なところの気持ちだった。
*
『今日はプロイセンくんと夕飯を食べるから』――そう言ってアナが部屋を出て、すぐのことだった。部屋のチャイムが鳴り、アナが忘れ物でもしたのかなと、小走りで扉に向かった。スリッパで絨毯を踏みつけるこの感触はホテルならではだ。
ぼくもプロイセンくんとご飯を食べようって言えばよかったなと、漠然とした後悔みたいな気持ちで扉を開いたから、
「……あれ、プロイセンくん?」
目の前にいた存在に虚を突かれた。
「えと、どうかしたの?」
そこには気心の知れたアナが立っているものと思っていたから、ふくれっ面に近い顔つきのプロイセンくんがいたことには心底驚いた。おそらくはあえて暗めにしている人工的な光の下で、銀の髪の毛には黄ばんだ色が溶け込んでいる。
そしてそのプロイセンくんはこそばゆそうに頬を掻きながら、
「あ、いや、その……準備できてるか?」
ちらとぼくを見上げた。
「……準備?」
「お前だろ、飯行こうって誘ったの」
それを聞いてぼくは、ようやく事態を把握した。
「……ズィ?」
「あんだよ」
ためらい一つなく返ってきたから、やっぱりそうだ。そこに立っているのはぼくが思っていたエアではなく、まさしくアナが探しているであろうズィだ。きっと階段とエレベーターですれ違っちゃったんだろう。
「あ、はは、びっくりしちゃった。ぼくはオンだよ」
急いで弁解をすると、ズィはエアより少しだけ大きい瞳のきらめきをくるりと回した。
「えっ、あ、その、悪い……テンパった……」
「ううん、大丈夫だよ」
どうやらズィもぼくをアナだと思っていたらしい。お互い誤解だとわかってよかった。それよりもこの狭いホテルの中で、こんなに上手にすれ違った二人が可愛く思えてしまい、
「アナも君を迎えに行くって出て行ったけど……ここで待つ?」
「あ、おう、そうするかな」
思わず部屋の中に招き入れていた。きっとプロイセンくんの部屋に行ってズィがいないと気づけば、アナはすぐに戻ってくる。またすれ違っちゃうことを考えたら、ここにいるのが得策だろう。
部屋の電気は全灯にはしておらず、落ち着いた明るさの室内でプロイセンくんは真っ先に、鏡台に背を向けて、その前の椅子に腰を下ろした。ソファさながらのクッションが、ふかりと沈み込む。
初めにアナからプロイセンくんを夕飯に誘ったと聞いたときは、もしかして嫌々付き合ってもらう形になるんじゃないかと懸念していたぼくだ。だけど、訪ねてきたズィを見ても、そんな風には見えない。むしろ少し身軽そうに部屋の中を見回す姿を見て、
「……君は、アナと食事するの、嫌じゃないの?」
深く考えずにプロイセンくんの向かいになるよう、ベッドの上に、ゆっくりと腰を下ろした。まさかこんなことを問われると思っていなかったという面立ちで、短い間だけ気まずそうに考え込む。くり、とぼくの大好きな色の瞳が、ぼくのほうへ向けられる。
「まあ、なんていうか、単なる食事だし……一応今は、ロシアが上司みたいなもんだろ。断れねえよ」
「……じゃ、断れたら断るの?」
重ね合わせるように、その瞳を見返す。あたかも目から鱗が落ちたと言わんばかりにハッとして、躊躇なく、はっきりとぼくに返した。
「……考えたことなかった。わかんね」
これは本当に考えたことがなかった反応だ。ぼくからの誘いはすべて承諾するものと思っていたみたいな口ぶりに、どう反応するのがいいのか、ぼく自身がわからずに「そっかあ」と相槌に留めた。この習慣はあのころの名残だろうか……だとするなら、少し悲しいなとも思ってしまう。
「……まあでも、」
沈黙に陥る前、改めてプロイセンくんは破顔して、
「誘われたらげって思っちまうから、案外断れたらばっさり断っちまうかもなあ、ケセセ」
軽口を叩く調子でさらに笑った。声と一緒に肩まで揺らして、なんとも楽しそうだ。
だけどその言葉は、ぼくにはずっしりと落ちてきて、どうしようもない気持ちにさせるだけだった。逃げるように手元に視線を下ろしても、答えはどこにも書いていないことくらい、わかっている。とりあえずでそっかあ、ともう一度ぼやいて相槌を打ったけど、ぼくに諦念を抱かせるには十分な答えだった。……断れたら断ってしまうとズィがいうなら、きっとエアもそうなんだろう。……やっぱりアナの言うようにこの気持ちを告げたところで、痛い目を見るだけじゃないだろうか。……閉塞感がぼくの身体を蝕む。
そこで下向き加減だったぼくの視界に、プロイセンくんの手のひらが入り込んできた。そっと膝に触れて「おい?」と呼びかけたあと、すぐにその手は引っ込められる。反射でその手を目で追ってしまい、いつになく真面目なプロイセンくんの眼差しと出会った。まるでマーベリングのように色が混ざり合った瞳と、それを囲う赤みがかった白は、やっぱり綺麗だなあと胸がいっぱいになる。
「……お前もオンとアナだからわかってると思うが、俺様たちは分身とは言っても、共有してるのはほとんど国意の部分だけだし、俺様がこう言ったところで、エアもそうとは限らねえぜ?」
転がり出てきた呼称にどきりと胸が鳴った。急に水をかけられたように心まで一転して、プロイセンくんの真意を探ろうと身体を乗り出しそうになったのを、なんとか意識して抑える。
「……なんでエアが出てくるの?」
「え、あ、……なんとなく」
失言だったと後悔しているのか、少し後ろのめりに身体を倒した。
このタイミングでエアの呼称が出るということは、ぼくがズィの話とエアを重ねていることを勘づかれている。だから、『断れるなら断ってる』という言葉に一憂していたぼくへ、慰めるようなことを言ったんだ。
思い出というにはあんまりも薄暗い記憶が蘇る。駄々をこねるみたいに暴れたぼくに、それでも何も言わずに頭を撫でてくれた優しい手。口では悪態を吐くのに、嘘みたいにその手は暖かくて、だから、もっとたくさん泣いてしまって……張り裂けそうな心臓にその優しさが沁みて、あのときは大嫌いだとしか思えなかった。なのに、結局はそれにすがって今でもその手を追い求めてしまうから、飽きもせずに苦しくなる。……愚かだなと自分でも思う。
ぼくの目の前に今まさに座っているプロイセンくんはエアではないけど、同じように脇目も振らずにぼくのことを見ていた。……きっとプロイセンくんは、そういう存在なんだ。いつもぼくがどんな気持ちかわかってくれて、きっと余計なことは一つも考えずに手を伸ばしてくれるんだ。……ぼくにだけじゃ、ないかもしれないけど。
「……君もやっぱりプロイセンくんだね。優しいな」
今すぐにでも飛び出したい切なさを隠して、何事もなかったかのように笑いかけたら、「うるせえ」と照れて目を泳がせた。
でもその視線はすぐにどこかで定まって、ああ、何か結論が出たんだ、とわかる顔つきに変わる。本人の中で何かが腑に落ちたような、意志を持った瞳が、端正な輪郭の中でぼくを見据えた。
「……結局は、アナと同じなのかも」
「ん?」
「……俺様たちってさ、周りからはどう見えてんのかな」
不意に飛んできた疑問符だったから、無防備なままに「……お国様?」と答えてみた。けれどその回答にも声を上げて、
「ケセセ、ちげえよ。ヴェストとかフランスの野郎とか、イギリスの野郎とか、もっと近いやつらにだよ」
つい先ほど腑に落ちた何かがそうさせるんだろうけど、明るく笑っていた。その表情はエアもよく浮かべるもので、重ねて見入ってしまう。
「結局、意地張ってわかんないふりしてんのは、当人たちだけなのかも、」
「――ズィ、あ、やっぱりここにいた」
プロイセンくんの言葉を遮って、アナの声が廊下から響いた。認識したときには既に部屋の中に入ってきていて、プロイセンくんも元気よくぴょんっと立ち上がって出迎える。
「おーう、お前迎えに来るなら来るって言えよな」
「うふふ、ごめんね、伝えたつもりでいたよ」
アナも楽しそうだ。プロイセンくんまで濁すことなくアナに笑い返していて、そんな光景にまた胸が苦しくなる。
「じゃ、オン、お前と話すのなんか新鮮だったわ。またな」
くる、と二人の注目がぼくに降ったかと思えば、呆然としている間に颯爽と踵を返した。ベッドの上に座って言葉を探していたぼくを置いて、早々とまた廊下のほうへ向かっている。
「やだ、プロイセンくん、オンとそんなに楽しくおしゃべりしたの?」
「ああ、お前と話してるのと変わんなかったけどな、さすが分身」
「……楽しそうにしてるの見ると妬いちゃうよ」
声だけが残響のようにこだまして、二人はあっという間に姿を見えなくした。扉を閉める前、ふり返ったアナがぼくに微笑みかけたのが、やけに意識に引っかかる。
これからプロイセンくんとどんな話をすることになるか、本人も不安でいっぱいだろうに、なんであんなに余裕綽々と振る舞うのだろう。それとも、まだ今夜は話す気はないのだろうか。……確かにそれは気になったけど……たった今のプロイセンくんとアナの笑顔を思い出したら、もしかして大丈夫なんじゃないかと、前向きな気持ちが少しだけ湧き出してきた。……二人が楽しく過ごせればいいのにな。思ってすぐ、ぼくは自分を放り投げるように、ベッドの上に身体を倒した。
*
ホテルを背景にして、俺様はロシアが先導する中で、数ブロック共に歩いた。既に太陽はあばよと手を振っていて、建物の隙間から西陽を差し込ませている。仕事帰りの若者で賑わってはいるが、やはりベルリンよりは静かな印象の夕方だ。おそらくロシアと共に歩いたのは、十分もかからなかったくらいだろう。先導するように迷うことなく一直線にロシアは進み、こんな料理があって、これが評判で、とそんな話を道中はとめどなく聞かされた。どうやら、下調べをしてくれていたらしい……最後に楽しみだね、と一つの歪みもなく輝きを見せつけられて、思わず意識が奪われそうになった。こんな風に共感を求められたら、こういうところは可愛いんだけどなあと苦虫を噛みそうになる。自分でも自覚している、こういうところが俺様はロシアに甘すぎるところだ。何回めの自覚だ、くそう。
とにかく、レストランまでの道のりはずっと大通りの道なりだったが、最終的には一本だけ狭い路地に入った。到着すれば、なんとも隠れ家のようなレストランだ。こじんまりとした佇まいで、個人経営なのがすぐにわかる。大きな窓から漏れ出す店の光は柔らかく、ここからでも置物の一つ一つがおしゃれに見えて、不意に足を止めそうになった。かこかこ、と木製の鈴の音を鳴らして店内に入ったロシアに続いて入店する。ロシアは付与されたファミリーネームを店員に教え、すぐに予約席を探した。
内装は個人経営にしては凝っているほうか。木目調を主とした空間のデザインで、まるで木々が香るような気さえしてくる。外から見えていた小物が、所狭しと並べられていて、見ているだけで楽しい。店内が明るすぎないのも俺様的には点数が高く、奥のほうにはワインセラーのような棚も見えた。
どうやら食事は既にロシアがコース料理を予約していたようで、ドリンクが出てきてから落ち着いたあと、早速と料理が運ばれ始めた。主にロシア料理がふるまわれるコースらしいが、いくつかこの地に由来する家庭料理が含まれているんだと、それもロシアが楽しそうに話していた前情報に含まれていた。
料理を頬張りながら、何皿か跨いでロシアが近況を話して聞かせてくれる。……あんまり目新しいことはなかったが、各会議での他国の失敗から自分の反省点まで……それはもう、会話が途切れるのをこわがっているのがばればれなくらいのお喋りっぷりだった。……そんな柄にもねえことしなくてもいいのに、と思いつつも、がんばっているらしいロシアに静かに相槌を打ち続けて、運ばれてくる食事にがっつく。……久々のピロシキ美味え。
「――プロイセンくん、どうかな? おいしい?」
さらに何皿か進んだころだ。ロシアが控えめに俺様の意見を煽った。……このとき俺様たちが頬張っていたものは、まさにケーニヒスベルガークロプセだ。運ばれてきたときに少し心が踊ったが、実は家でもよく作っているから俺様としては珍しくはない。
だが、返答を今か今かと待っているロシアがそこにはいて、その心配そうな眼差しがいちいち面白かった。……ああ、そうか、もしかして、こういうメニューがあるからこの店を選んだんだろうか。
「ああ、そうだな、懐かしい味だ」
気遣いを認識したら、不意に俺様まで気恥ずかしくなってしまった。……まったく、こんなに気を遣うなんて、明日体調崩しても知らねえぞと思い浮かべながら、内側からのくすぐられるような感覚に必死に耐えている。
「……よかった。実は少し探したんだ、君が喜びそうなところ」
だから、そんな風に笑われたら、邪険にもできない。……否が応でも今日の昼のことを思い出してしまい、意識があらぬほうへ向かおうとする。俺様に伝えたいことがあると言っていたことだ。……たぶん、この食事もその〝伝えたいこと〟の一つなんだろう。……きっと、俺様のために自分なりに考えてくれた。
頬張る肉汁の味を甘く感じる。俺様のために店を探しているときのこいつを勝手に思い浮かべて、見慣れぬ感情がまたふつふつと腹の底で沸いた。わずかに視線を上げれば、久しぶりにこんな正面から見るロシアがいる。まさに目前に座って何かを待つように笑っている姿を、いつかと重ね合わせていた。ふつふつが固まり、途端にぎゅ、と心臓が掴まれたような錯覚を得る。
気を改めてロシアと向き合い、未だ何かを待つように笑っている様子に気が緩んでしまった。……まあ、何はともあれ、こんな風に悩んでもらえたことは、純粋に嬉しいものだ。
「……そうか、スパシーバな」
その気持ちのままに伝えた。カタ、と微かな金属音が鳴り、なんだろうと肉団子を頬張りながらロシアの手元を見やると、女性としてはしっかりしているふっくらした指先が目に入る。ナイフとフォークを握ったまま皿に落として、それから、本人が俯いていたことにはそのあとで気づいた。
「……君は、」
絞り出すように声が震えていて、釘づけになってしまうのは仕方がなかった。
「すぐそうやってぼくを喜ばせてくれるよね。ずるい、ぼくが君を喜ばせようとしてるのに……」
嬉しいのか嬉しくないのかよくわからかい反応だが、言葉から察するに前者なのだろう。……だが、その反応はあまりに大袈裟だ。
「……俺様感謝しただけだぜ? そんな特別なこと言ってねえよ」
「……そうだけど……スパシーバって、それだけで……こんなに嬉しいよ」
あえて「ダンケ」じゃなくて「スパシーバ」だったことを喜んでいるのだろうか。だとするなら、そっちを選んだ俺様の気持ちはしっかりと伝わっている。安心というよりは少しの仕損じたような心地を抱いた。
「……そうか、そりゃよかった」
この素っ気なさも照れ隠しだとわかっているのは、たぶん俺様自身だけだ。口の中が空になったところで、注がれていたスパークリングワインを一口飲む。……ビールのほうが好きではあるが、このコースには確かにこちらのほうが合うだろうか。
「君、ぼくのこと、まだ嫌い?」
グラスを置いて、またフォークとナイフを拾った。
「どんな質問だそりゃ」
「ごめん、」
「別に謝るこたあねえけどよ」
流してしまうように会話を続けて、皿に残る最後の肉の塊を一口に切り分ける。ロシアの手は完全に止まっていたが、構わずに食を進めていく。
「プロイセンくんは、ぼくのこと、どう思ってる?」
またそれだ。もともと困り気味の眉を持っているロシアだが、今はそれがより印象を持っていた。
どう思う、といきなり聞かれても……肉を頬ばりながらもその覚悟を決めたような表情を眺めていたら、答えはすぐに浮かんだ。
「うーん、変わったやつ?」
「……へ? 変わった、やつ?」
「ああ、俺様なんかにちょっかい出してさ、飽きもせず。しかもさ、いつまでもカリーニングラード大事そうに抱えてやがるし……」
あんまりにも胸中が複雑なのか、閉じきれない口元のままロシアは俺様の続きを待っていた。自分で言ってて恥ずかしくなってしまい、俺様も思わず背筋を伸ばしたくなった。
「そりゃ俺様かっこいいし、仕方ねえと思うけど?」
反応は未だに示されない。あんまりにも期待外れの答えだったのだろうか。
「たまに……変わってんなあって、思う」
会話を繋げるためにあえてまた結論を提示したというのに、ロシアはそれでもだんまりのままだった。……そこまで的外れなこと言ってねえだろ、と少しもんもんとした。
「……おい、ロシア?」
なんとか言えよと付け加えるつもりが、その前にまた恐々と口が開かれる。
「プロイセンくんは、変わってるぼくは、いや?」
もんもんがぐっと温度を上げて、漠然とした苛立ちに変わる。先ほどまでのふわふわとした心地はどこへやら、唐突に胸中が不穏なわだかまりで溢れた。……またこいつは、すぐそんな風に受け止めやがる。
「〝いや〟」
苛立ちが先行して、熟考もくそもなく簡潔に返してやった。結局はいやって言って欲しいんだろ。美味いはずのクロプセを食べているのに、胃のあたりがやたらとむかつく。
「……っまたそうやって。ぼくをからかってるの?」
ロシアの声つきも幾分か苛立っていた。責め立てるように俺様を捉える眼差しが、どこからどう見てもあのころと重なって、言葉をなくした。瞳のきらめきに深い影が落ちる。そうだな、こいつはそういうやつだ。
「……プロイセンくん!」
寄越された苛立ちに対抗して、さらに俺様にも怒りの衝動が強まる。乱暴に匙を皿の中に投げるとカリンと音が鳴り、見せつけるように腕を組んでやった。
「お前、変わってねえな」
向かいの瞳の中にも、鋭い光が灯った。
「……変わったもん」
「変わってねえよ。あのころのままだ」
途端にダンッと音を鳴らして、
「っ! そんなことないもん!」
ロシアはその場で身体を乗り出してまで抗議をしてきた。
「ぼくっ、いっぱいがんばって、変わったんだ……!」
鋭さの中に、じわじわと広がる心痛が垣間見える。
「そんなこと言わないでよ……ぼくのこと、ちゃんと見てくれてもいないくせに!」
半ば叫ぶようにがなった。柔らかい声が台なしだ。……こいつは、本当になんも変わっちゃいねえ。この女、めんどくせえ。急転直下するように、一気に気持ちがげんなりする。
言葉を返すのも億劫だ。どうせこいつに話してもわからない、あのとき空回るようにぐるぐると巡っていた感情が、同じように俺様の胴の中で動き始めた。……しかも、それを見てロシアは、
「言いたいことがあるならちゃんと言ってよ!」
また思い出したようにわっと声を上げる。静まり返った店内では、ほかの客の注目の的になっていた。ここにいるのが俺様たちだと気づかれることすら面倒だ。
周りを一通り見回してから、
「わんわん騒ぐな、落ち着け」
ロシアの腕に軽く触れて正気を取り戻させる。納得はいっていないんだろう、悔しそうに口元を歪めたまま、小声で「……ごめん、」と呟いて座り直した。
一生懸命なのはわかるが、こいつは無意識に自分で周りの思考を誘導しようとしていることに気づいていない。あのときもずっとそうだった。俺様にはまるで無自覚的に情を拒絶しているようにしか思えなかった。……今が違うとすれば、もう俺様は衛星国ではないということ。それを黙って見ている義務はなく……そう、大人しく誘導されてやる義理もねえってこった。……まあそれでも……確かに、深く考えずにロシアの神経を逆撫でするようなことを言ったのは、俺様か。
観念して深く呼吸をすれば、目尻にたくさんの涙を溜めたロシアがじっと俺様のことを睨んでいた。噴水のようにばつの悪さが頭の中を埋めていく。
「まあ、確かにさっき『いや』っつったのは嫌味だったよ。悪かったな」
「……うん」
手持ち無沙汰よろしく、またワイングラスを握る。
「でも、なんでいつもそんな塞いでんだ?」
わざわざ自分から首を絞めるようなことを言って。自衛のための先回りだろうが、逆効果だ。そのせいで周りは同意をしてしまうときがある。……現に、『嫌いか』と問われたことに俺様は苛立っていたわけだし。……と、そこで一つの結論にたどり着き、くっと一口、酒を流し込んだ。
「俺様がお前のことをどう思ってるかなんて、態度見てりゃわかるだろって思うけどな」
グラスを置いてロシアの反応を見る。戸惑うように瞳を揺らして、隠すように自分の皿に視線を落とした。
「……わかんないよ。だって、プロイセンくんは優しいから……本当の心が見えないんだ」
またしても苛立ちが突沸した。これはなんの苛立ちだ。もどかしさか。ろくに人の気持ちを聞こうともしないくせに、何が本当の心だ。
「……俺様が優しい? 勘違いするな、そう思いてえだけだろ」
それでもできる限り、押し留めたつもりだ。
「俺様からすりゃ、自分で見ないようにしてるぜ、お前は」
「……どういう意味?」
気の抜けた言葉が返ってくる。声色からしても、本当にこれっぽっちも自覚がないらしい。好奇の目に近いそれを向けられている。だがお生憎様、伝えた通り、俺様は別に優しくもなんともない。
「そこは、自分で考えてみたらどうだ?」
「……え?」
そう易々と答えをくれてやる気はない。
だがまあ、そんな不安げな顔をされてしまうと、良心の呵責を感じてしまうんだが。
「考えてもわかんなかったら、また明日にでも答え合わせしてやるよ」
命綱くらいは繋いでいてやる。
完全に拍子抜けしてしまったような、締まりのない顔つきでロシアは改めて俺様を捉えた。
「……うん、わかった。……ありがとう」
珍しくわざとらしい笑みを抜きにして、静かに噛みしめるように呟かれる。あんまり素直にありがとうと言われるものだから、少しやり場のない悔しさが台頭してくる。……こういうところだよ。俺様がこいつに甘くて、こいつに弱いところ。ほっとけねえと思っちまうのが、本当に悔しい。
ちょうどそこへ、次の皿が運ばれてきた。話題を一度すべて打ち砕いていた俺様たちには、最高の気遣いだ。皿に乗った肉料理について、ロシアは仕切り直すようにあどけない表情を作り、それからまた談笑を再開した。
*
アナが出かけて行ったあと、ぼくはしばらくそのまま天井を眺めていた。他にすることもないし、ぼんやりと夕飯どうしようかなと思い浮かべて、ちらつくアナとズィの姿をかき消そうとした。
――アナは本当に、ズィに想いを伝える気でいるのだろうか。ぼくにとって、先に想いを告げて、それで勝ちとか負けとか……正直興味はないけど……。プロイセンくんと距離を縮めようとしているのは、少しアナだけずるいなあ……と思ってしまう。
『断れたらばっさり断っちまうかもなあ、ケセセ』
先ほどプロイセンくんから聞いた言葉も、同じように脳裏を掠めた。アナががんばって気持ちを伝えたとして、案外ばっさりされちゃうのかもしれない……そう思うと、どうしてだろうか、ぼくの足が竦むような錯覚を得てしまう。
その足先に現れた不快感を誤魔化すよう、ぼくは身体を傾けて縮こまった。考えないようにしたいのに、どうしても二人のことが気になってしまう。アナが上手くいくといいなと思う傍で、アナだけどうしてそんなに立ち向かえるのだろうと妬んでしまう。
アナははっきりと言っていた。昨日の夜の声を思い出す。はっきりと、その口で、決意を刻むように言ったんだ。『ぼくはズィが好きなんだ』と。
考えただけで、さらに不安に苛まれた。ぎゅ、と目を瞑り、なんとかその思考を振り払おうとする。頭は空っぽになる代わりに、目一杯、ぼくの大好きなプロイセンくんを割り込ませた。一緒に暮らしていたときに見せてくれた他愛ない笑顔とか、納得がいかないことへの苛烈な瞳の輝きとか、文句を垂れながらも楽しそうに仕事に打ち込む姿とか……。
「アナ……ぼくも……」
逃げ場を自らなくそうと、ぼくも言葉にして消えないものにしようとした。……けど、そこまで勇気は固まらなくて……結局そこで言葉は止んでしまった。……だけど、わかったことなら一つある。伝えることに二の足を踏んでいるぼくがあれこれ考えるのは、アナに失礼だ。
瞑っていた目を開けて、ぼくはゆっくりと思考した。先ほどまで気にも留まらなかった下ろしたてのシーツの匂いを感じて、よほど気を張っていたんだなと自覚する。
ぼくもプロイセンくんのところに、行ってみようかなあ。気持ちを伝える競争なんて本当に興味もないけど、今回プロイセンくんといられるのは、仕事の時間を含めてたったの二泊三日だ。
さらに瞬きをして、しっかりと視界が覚醒したことを確認する。それから、のそり。大きくしわを入れながら、ぼくはベットの上で身体を起こした。
ぼくも、プロイセンくんのところに行ってみよう。アナがなんで今回、こんなことを言い出したのかもわかっている。ぼくたちがいつまでもこんな気持ちに振り回されているから、決着をつけようとしているんだ。……だから、ぼくも……。
ついにぼくはこの二本の足の上に立って、そして一歩を踏み出した。がんばってプロイセンくんを思い浮かべて励みにしようと思っていたのに、出てくるのは不敵で憎たらしい笑みの顔ばかりだ。ほんのちょっとだけ、笑えてきてしまった。
少しはおしゃべりしてくれるかな……。
祈るような気持ちを抱えたまま、引き抜いたカードキーをポケットに押し込んで、そのままホテルの廊下を階段のほうまで突っ切った。プロイセンくんたちの部屋は、一階下にある。わかっている番号の部屋を探しながら、忙しなく歩き回った。
そしてぼくは、ついにそこに立ってしまった。なんでこんなに気が急いているのだろうか。ぼくの中の臆病者が顔を出す前にと、唾を飲み込んですぐにチャイムを鳴らした。部屋の中でディンドンと鳴り、訝しげな声が中から聞こえる。間違いなくそれはプロイセンくんの声で、途端に心拍数が跳ね上がっていく。
ととと、と歩み寄る音がして、ついに、ぼくの目前に立ち塞がっていた扉が、ガチャリと乱暴に開いた。
お、と目が合ったプロイセンくんがこぼして、その時点でもうぼくの心臓は壊れそうだった。どくどくとぼくを殴りつけて……いくらなんでも緊張しすぎだ。わかっているのに、彼を目の前にして抑えることもできなかった。
「プ、プロイセン、くん……!」
「あ? 今日はロシアの客が多いな」
体勢を改めて、プロイセンくんはからかうようにほくそ笑む。第一声が拒絶の言葉じゃなかったことに安堵して、少しだけぼくの動悸は治った。……よかった。改めて深く息を吸って、
「あの、少しだけ、おしゃべりしても……いいかな……」
思い切って伝えた。部屋を飛び出したときから持っていた祈るような気持ちが、ここで一番ぼくを苦しくする。
なのに彼は髪の毛を掻きながらあっさりと、
「……まあ、どうせ暇だし、いいぜ。一緒に飯でも食うか?」
予想外なことに、一緒に夕飯を摂ることまで提案してくれた。
「……いいの?」
ズィは、断れるなら断るって言っていたのに……ぼくの目の前に立っているプロイセンくんは、ぼくが誘う前から言ってくれた。まるで少し視界そのものが明るくなったように感じて、
「ああ、美味いところに連れてってくれる場合に限り、許可する」
悪巧みをするように笑った顔でさえ、眩しくぼくの目に映った。……これは、喜んでしまうところだ。ふわと身体が軽くなったようになり、おまけに頬からも一気に緊張感が抜けた。きっとゆるゆるになって笑ってしまっているに違いないけど、プロイセンくんはそれを嫌がる様子も見せない。
「……えへへ、嬉しいな」
溢れたままに言葉に換えていた。内に留めておくのは、きっと無理だった。
一つ残念なのはここの近くの美味しいお店は知らないということ……だけど、その代わりに美味しいものを食べられる方法は知っている。
「えとね、いいこと教えてあげる。このホテルのルームサービスの食事、結構美味しいんだよ」
引き締めることができないままだったぼくに、プロイセンくんはしげしげと考えて、
「……出ねえのか。まあ、それも楽でいいか」
一歩後ずさりながら、ぼくを部屋の中に招き入れるような仕草を見せた。
「俺様の部屋でいいのか」
「うん、どちらにしても領収は合わせて切ってもらうから、どっちでも大丈夫だよ」
「そっか。じゃ、まあ、入れよ」
さらに一歩を引いて、扉を支えるのを交代した。プロイセンくんの背中を追えば、ぼくらの使っているツインの部屋より、少しだけ狭い部屋に入る。少し狭いだけじゃなくて、間取りも逆だ。
早速ルームサービスのメニュー表を探し始めたプロイセンくんの後ろで、ぼくは一人がけのソファに腰を下ろした。これはぼくの部屋にあるものと同じで、さっきズィが座ったときのことを思い出した。ふかり、ぼくを乗せてクッションが沈む。
座ってから数秒、プロイセンくんの軽快な背中を見ていた。あれ、どこだ、と言いながらゆらゆらと揺れている。……少し気持ちが落ち着いたら、また微かに心臓の音が聴こえて、少し心地悪くなった。とくとく、と普段は気にならない程度の動悸かもしれないのに……プロイセンくんがそこにいるからだろうか。
「……あのね、プロイセンくん、」
自然と声が出ていた。まるでこの鼓動に促されるように、ぼくの喉の奥から言葉が湧いて、今伝えなくちゃと少し焦った。
「おう」
手を止めた彼はふり返って、適当な体勢でぼくと目を合わせてくれる。……なのにぼくは、すぐにまた逸らしてしまって……、
「ぼく、聞いてほしい、お話があって」
今言わなくちゃと思ったくせに、言葉が上手く出てこなくなった。
そんなぼくでも、プロイセンくんはじっと見つめて、待ってくれていた。ゆっくりとぼくに正面を向けて、鏡台に重心を預けるようにそこに立って……それからようやく「ああ」と、少し重ための相槌が転がる。
どうしてこんなに意味を含んだような相槌をうつんだろう。まるで早く言えと促されているようで、逆にどんな順番で話せばいいのかを見失ってしまった。
……ぼくは、プロイセンくんに伝えようとしていたはずなんだ。この、堂々巡りを続ける切ない気持ちを……身を焦がすような、プロイセンくんへの、この気持ちを。
けれど、未だに言葉一つ用意せずにぼくを見ている彼を一瞥すると、とてもじゃないけどやはり言うべきじゃないように思えてくる。これまで散々行き違っていたぼくらの間に、今さら想いを伝える意味はあるのだろうか。……いや、きっとあるから、アナはそうしようと言った。……わかっている、わかっているけど、これまで破れた気持ちが定着していて、押しつぶされそうになる。
自分で呼びかけたくせに時間だけを浪費して、次第に焦りが混ざり始めてくる。感情を読み取らせない真面目な顔つきで、プロイセンくんはずっと歪み一つなくぼくを見ていた。
はくはくと、口が空回った。どんな風に言えばいいのだろう。まずはプロイセンくんの気持ちを確かめたくて、それがどんなに浅はかなことかも気が回らずに、焦燥の中で意を決した。
「……君は、ぼくのこと、嫌い……だよね」
自分で言いながら、どうしてか泣きそうになっていた。やっぱりズィと一緒で、ぼくに誘われたから仕方なく話を聞いてくれているような気がして、早くも逃げ出したい気持ちに飲まれている。
そんな静まり返った室内で、プロイセンくんは動作を付け加えることなく、ぼくにはっきりと教えた。
「まあ、その聞き方なら、そうだな。俺様はお前なんか嫌いだ」
……ほら、やっぱりそうだ。
「……そっか、だよね……」
なんとか彼に返事だけをして、それから蹲るように頭を抱えた。ぼくはこれを聞いて、たぶん、答え次第では逃げ出そうとしていたんだ。それを理解して、余計に情けなくなる。今、アナもどこかでかんばっているはずなのに、と無理やり思い浮かべて……でもやっぱり、やっぱり嫌だなあと感傷を抱いてしまう。……やっぱり、嫌いって言われるのは、苦しいよ。アナは今ごろ、こんなのに耐えてるのかなあ。
「……おい、」
一人でぐるぐると耐えていたら、プロイセンくんの声が割り込んだ。一気に視界が明瞭になって、ここはホテルの一室だということを思い出した。それほどにぼくは自分を見失っていて、慌てて顔を上げる。
「あ、ごめん」
「言いたいことがあんだろ。待ってるぜ?」
今にも胸が張り裂けそうなほど、優しい声つきでぼくをまだ見ていた。降り注ぐ瞳はもういつかのようにルビー調ではないけど、今の色はぼくと過ごす中で浸透した色で……そこに映っているのは、ぼくだけだと実感したら心が揺れた。……彼の表情からは〝いやいや〟ここにいるような雰囲気はまったくなくて、そしてそれが、ぼくの背中を強く押した。
「……プロイセンくん」
「おう、なんだ」
「ぼく、君のことが大好きなんだ」
渾身の、これ以上ないほどの心を込めて、ぼくはプロイセンくんの真正面に気持ちをぶつけた。……そうしたら彼はとても軽く笑って、
「ああ、知ってる」
と一言でそれらを受け止めてしまったのだ。
によによと、楽しそうとも取れるような笑顔が掲げられていることに虚を突かれて、「……え、ほんと」と聞き返していた。……だって、あんまりにも手応えがなかったから。あんなにぼくの中の勇気や覚悟を丸めて伝えたのに、それらはどこに飲み込まれていったのだろう。
彼は同じ体勢のまま、涼しげな手振りをつけてまだ笑っていた。
「当たり前だろ、お前、俺様に固執しすぎだしよ、ケセセ。俺様はかっこいいから仕方がねえよな」
「……その、本気なんだけど」
あんまりにも軽く言われるものだから、念を押してしまった。
「……失礼なやつだな、俺様だって本気だ」
少し空気が冷えたのがわかった。緊迫感というのだろうか、眉間の皺が少し深くなった。ぼくに伝わっていなかったことが、それなりには不本意だったらしい。
でも、それを見たことでぼくは少しだけ安心した。……ぼくの気持ちがちゃんと伝わった上でこの反応なら、少し気は楽かもしれない。
気を取り直して、ぼくはプロイセンくんが持つ、凛とした光沢の瞳をまた見据えた。
「君を初めて見たときから……うん、ドイツ騎士団くんの君を見たときから……一目惚れだったと思う……」
もっとぼくの気持ちに説得力を持たせたくて、だから、腹の底に渦巻いていた言葉をかき集めてプロイセンくんに渡そうとした。
「あのときは周りにお友だちがたくさん欲しいって思っていたけど、君だけはずっと……それからもずっと君だけはどうしても欲しくて、君をぼくのものにしたくて……」
ぼくが気が済むまで、プロイセンくんは口も挟まずに静かにそれらを受け取ってくれている。……けど、少しだけ目頭に溜まっていた緊張感が増した気がした。そのせいで、また少し気が急いたかもしれない。
伝えたかった思い出を慌てて言語化しようとした。思い出していたのは、彼がほしくてたまらなかったぼくが、彼を手に入れて初めて知ってしまったことだ。
「でも、違うってわかった。〝ぼくのもの〟である君は、ぼくが欲しかった君とは違ったんだ」
ぼくには、押さえつけるしかやり方がわからなかった。彼はそれ以上を知っていたのに、ぼくのやり方に従順で、そして……彼の持つ自由さを、ほかでもないぼくが失わせてしまった。
あのときの彼を見て、誰がそれまでのプロイセンくんだと断言できただろうか。……ぼくは、彼を消耗させただけだった。
「……お前、ほんとに失礼なやつだな」
突き刺さるような鋭い口調に変わっていた。またしても目を逸らしていたぼくが顔を上げると、プロイセンくんはまさに呆れと苛立ちを足して二で割ったような顔つきをしていた。
「そんなことを言われる俺様の身にもなれよ」
ず、とまたしても言葉が胸に入り込んで、ぼくの心臓を突き刺す。……なんでだろう。なんでこんなにプロイセンくんは怒っているんだろう。ぼくはただ、あのころの懺悔をしていた……だけなのに。
「……ごめん、」
わけもわからず、ただ悲しいの一心で紡いでいた。……だめだ、また顔が見られなくなる。
「……はあ、わかってねえな、お前」
「え? ごめん……」
「とりあえず謝るのやめろ」
すごく怒っている。だめだ、苦しい。そんな嫌悪に満ちた眼差しを向けないでほしい。……ぼくは、こんなに君が大好きで、だから、君に許してほしいのに、受け入れてほしくて……もう、心の中がぐちゃぐちゃだった。
何か言わなくちゃとまた判断を焦って、
「……ぼく、もう苦しくて、自分でも君が大好きな気持ちを、上手くコントロールできなくて……だから、溢れちゃうんだ」
聞かれてもいないのに、こんなみっともなく言い訳なんかして。それでも、どうにかして繕いたかった。
「だから、一度ちゃんと君とお話をしたくて……」
そこまで言ったところで、ガタ、と目前から音がした。
プロイセンくんが重心を預けていた台から身体を放して、まっすぐにぼくの元に歩み寄る。そして、そこで徐に膝をついて、ソファに座るぼくと目線の高さを合わせた。引き連れた空気が明らかに穏やかなものではなくて、何をするんだろうと動揺を隠せない。……プロイセンくんはぼくに向かって、ニヤリと意地悪な笑みを浮かべた。
「……さて、そんなオンに質問だ」
「ん? な、何……?」
この場にロシアの化身はぼくしかいないのに、なぜか〝ロシア〟ではなく〝オン〟と呼ばれたことに胸がざわついた。プロイセンくんの意地悪な顔つきは変わらない。そのまま食らいつかれるような錯覚を起こしそうな口元で、
「……果たして俺様はエアでしょうか、ズィでしょうか」
自信満々にぼくに問いかけた。これまではっきりと見えていたプロイセンくんの姿態が滲んで、唐突にふわふわと形が崩れ始めたことに、ぼくはえも言われぬ不安を抱く。
「……え? え、エア……でしょ?」
まさかと揺らいだそのときから、その輪郭が捉えられなくなる。こんなことを質問するなんて、もしかして本当にエアじゃないのかとしどろもどろになった。
「え……? 待って。君、エアでしょ? だって、ズィはアナと食事に行ってる、はずで」
気持ちと共に視界もくらくら揺れて、ますますわからなくなっていく。それに対してプロイセンくんは、鼻で笑うように表情を転がすだけだった。
「……け、自分が愛を囁いているのがどっちかもわかってねえのかよ。飛んだ愛の告白だな。なんでもいいのかよ」
ただそうやって嘲笑って、大ぶりな仕草で捲し立てられた。終いには豪快にため息を吐いて見せ、触って確かめろと言わんばかりにそこに構え続けた。
それ以降、何も言ってくれなくなったことで、さらに焦りが膨れ上がる。落ち着かない手つきで艶のある襟足に触れて……そうだ、髪の毛は、短いから、エアのはず……と確信を抱く前に、いや、髪の毛なんていくらでも短くできる、とまた思考が確信を打ち消していく。指は流れて今度はプロイセンくんの頬に……頰、そうだ、頰に、ズィなら傷があったはず……待って? 本当に傷があったのはズィのほう? ぼくの中のプロイセンくんが、ふやけるばかりで一向にわからない。これがどれほどの恐怖心を煽ったか、ぼくは初めて経験するほどに追い込まれていた。大好きなプロイセンくんを見失ってしまうようで、怖くなって……そして何より、プロイセンくんがわからない自分が許せなかった。
ぐっ、とプロイセンくんの頬を掴んでいた手を、手首から捉えられる。
「お前の言う大好きって、そんな程度か」
ぎらぎらと燃えたぎる瞳が、ぼくをこれでもかというほどに咎めていた。
「自分のことばっか。くだらねえ」
この手を投げやって、そのまま立ち上がって背を向ける。まるで顔も見たくないというような空気をだだ漏らしにして、また鏡台の周りを物色し始めた。
罪悪感や嫌悪感、恐怖心に、失望に……そんな色んなものがどかりと一度に突進してきて、その勢いのままに目の奥が熱を上げた。なんとか涙の代わりに言葉を、と必死になって喉を震わせたのに、
「…………ひどいよ」
そんな言葉しか出なかった。
「ひどいのはどっちだ」
間髪入れずに返った苛立ちが、決定打となった。もうこれ以上は埒があかない。どこかでぼくは、プロイセンくんを怒らせてしまった。……それだけしか、今は受け止められなかった。
「……もういい、部屋に帰るよ」
震える声をしゃんと張って、立ち上がる。
「……そうだな、そうしろ」
既に廊下に向かって歩き出したぼくに構わず、そのままプロイセンくんはせかせかと動き回っていた。
そうだった、彼はそもそも、ルームサービス用のメニュー表を探しているところだったんだ。
「……ルームサービスは、勝手に頼んでていいよ」
最後にそれだけを残して、ぼくはプロイセンくんのホテルの部屋をあとにする。自動ロックがガチャリと音を立てて、本当に彼の側から追い出されてしまったことを痛いほどに感じていた。
ゆらりと一歩を踏み出して、その勢いでぼくは来た廊下を辿る。すっかり意気消沈して、足が重くて仕方がない。本当は一歩も歩けないくらいだったけど、せめて自分の部屋に戻らなくてはと気力を振り絞った。
これは……何もできなかったよりも、ひどい結果に終わってしまった。こんなはずじゃなかったのに……ぼくはただ、ちゃんと気持ちを伝えたかっただけなのに。
廊下を渡りながら、どこにぶつけるべきかもわからない悔しさに、ぎゅうっと押し出されて視界が滲む。……せめて、ズィなのかエアなのか、それくらいははっきり答えられたらよかった。冷静になればなるほど、あれは明らかにエアだったのに、なんであんなに動揺してしまったのだろうと、咎める言葉が止めどない。後悔という後悔が、涙の粒になって垂れ落ちていく。
――こんなことなら、ぼくも話してみようなんて思わなければよかった。こんな辛い思いをするくらいなら、もう二度とプロイセンくんに会いたくないと思ってしまうくらいだった。……情けない。情けない、ぼくが怒らせただけなのに。ごめんね、ごめんね、と、また何もわかっていないのに言葉だけが頭の中を埋め尽くす。きっとプロイセンくんに知られたらまた怒らせてしまう……だけど、ぼくはいったい、どうしたらいいの。
結局ぼくは夕飯を摂らないまま、自分のホテルの部屋のソファに沈み、死んだように天井を向いて項垂れていた。取り返しのつかないことをやってしまったんじゃないか……そればかりが気になって、先ほどプロイセンくんがぼくに見せた嫌悪感たっぷりの表情が、しつこくちらつく。
もうそろそろアナが帰ってくるころだろうと思っても、それを歓迎する気にもなれない。むしろ、この惨状を前にどう振る舞えばいいのかわからない。……ぼくみたいに早めに切り上げて帰って来ていないということは、ぼくほどの失態は犯していないということだ。あっさりとたどり着いたのは、物羨みに満ちた思考だった。
――ガチャ、と音が響く。
深く潜考していたせいか、肩がびくりと跳ね上がった。同時によく馴染む声で「帰ったよ」と聞こえる。……なんて軽快に弾ませた声色だ、と認識した途端、穴があったら入りたい気持ちになった。どうやって顔を隠そう、と浮かんだときには遅く、アナはもう部屋の中にいた。ぼくがとっさに取った行動といえば、目を瞑って寝たふりをすること。
ぼくをソファの上で見つけたらしいアナが、ほんの短い間だけ沈黙したあと、
「君さ、」
たくさんのものを含んだ言い方で、ぼくに呼びかけた。……寝たふりが失敗していることは大前提として、それ以上に腹に抱えているような物言いだ。
もうこの際だ。一思いに刺してくれ、と言わんばかりの気持ちで身体の傾きを整え、その様子を見守っていたアナに、今のどうしようもない胸中をため息で晒した。
「おかえり、アナ。嫌味を言いたいのがばればれな声だね」
「……そう? でも、言いたくなるじゃない」
ようやく上着のボタンに手を添え始めたアナは、それを続けながらもぼくに寄り添い、
「だってあんまりにも救いようがない顔をしてるんだもの。……何かあったの?」
脱いだ上着を持ったまま、ぼくの正面に椅子を持ってきて腰を下ろした。……アナだってがんばってプロイセンくんとお話ししてきたというのに、ぼくばかり心配されるのは腑に落ちない。……けど、今さら誤魔化すような間柄でもないし、ぼくは潔く拳の力を抜いた。
「……プロイセンくんと話した」
「エアと?」
「うん。エアに、気持ちを伝えようと思って、」
「すごい、がんばったじゃない」
大袈裟に言われるのが逆に面白くなくて、それを止めるようにアナを一瞥だけした。……だって、確かにがんばったけど、これっぽちもお互いのためにはならなかったんだもん。……改めて深くに沈み込んでしまって、ぼくの目の前で目線を合わせたプロイセンくんを思い出してしまった。
「……そこでエアに、『俺様はエアでしょうかズィでしょうか』って言われて、びっくりして……」
「……まさか、答えられなかったの?」
アナまでそんな言い方をしなくてもいいじゃないと思ったけど、
「うん、もしかしてズィなのかなって思ったら、焦っちゃってわからなくなっちゃって」
「あら、本当に救いようがなかった」
やっぱりこれは、そう言われるだけの大失態だということを、改めて飲み込んでいく。その場に二人ともがいたのならばともかく、ズィはアナと食事をしているとわかっていてのことだった。
そのあとアナは、エアがそんなこと言ったの、ぼくのせいかなあなんて呟いていたけど、なんのことかぼくはわからなかったし、何よりアナの容赦ない評価がぼくを殴りつけるようで、身をぎゅうっと縮こまらせたくなった。
「はあ……プロイセンくんを前にしちゃうと、どうしてこんなに空回りしちゃうんだろう」
底なしの嘲りが自分を指差して笑っているみたいだ。思わず顔を隠したのは、逃げ込める穴が近くになかったから。本当はきっと、もっとずっと簡単なことのはずだったのに。
「君はぼくだからあえて言うよ」
ぼくの膝に、アナの手が静かに触れる。
「君はいつまでも初心だねえ、 ロシア」
どうしてだろうか、控えめに笑む姿は、どこか自分にも言い聞かせているみたいだった。
「まったくもって説得力しかないよ、アナ」
……君も何かあったのかな、と勘ぐるには十分だった。だって、あえて〝オン〟じゃなく〝ロシア〟と言ったんだから、きっとアナの中にも何かの後悔があるに違いなかった。
だけどアナはすぐに強がって、いっそう柔らかくぼくに微笑みかけた。
「ぼくなら、もっとうまくやれる」
「……そう、それは見ものだね。どうせ君も〝ロシア〟だ」
「……まあ、そうかもしれないけど」
勢いをつけて立ち上がるアナを目で追って、
「で、なんでエアは君にそんなことを言ったの?」
上着をハンガーにかけながら続けたアナに、ぼくも続けて言葉を返した。
「……それが、わからないんだ。自分のことばっかって怒られちゃった」
どうしようもなくて軽く笑って言ったら、アナは目をぱちくりと瞬かせてから動きを止めた。そして、さっきぼくに見せた控えめな、
「……ほんと、ぼくたちは二人でロシアだね」
少し困ったような笑みをこぼした。やっぱり今日の食事の間に何かあったんだと過ぎった傍ら、アナは次に外着を脱ぎ始めた。
「ぼくもね、プロイセンくんに……ズィに『変わってねえな』って叱られちゃった。自分で見えなくしてるって」
「見えなくしてる?」
「プロイセンくんの心がわからないって話をしたんだ……そしたら、なんで見えないのか自分で考えてみろって」
困ったように笑っていたのは、きっとそのときのプロイセンくんのことを思い出していたからだろうとすぐにわかった。きっとぼくみたいに先走る想いがあって、けど、それを上手く丸めて受け止められちゃって……ぼくも、目を逸らさずに話を聞いてくれていたプロイセンくんを、惜しむように思い出していた。
「……はは、プロイセンくんらしいね」
豪胆に振る舞おうとする割に、実直で情が深くて……ぼくの言葉であんなに怒ったのも、しっかりと言葉を聞こうとしてくれていたからだ。……次に過っていたのは、これまでくり返してきたたくさんの喧嘩や、そのあとの和解の笑顔だった。
ほんとに、ぼくは掃いて捨てるほどに、プロイセンくんが大好きなんだと痛感していた。……やっぱりちゃんと、ぼくの想いを伝えたい。そのために、何が彼を怒らせてしまったのか、ちゃんとわかりたい。……『自分ばっかだな』と口を尖らせたプロイセンくんが、記憶の中ですら、まだぼくを叱りつけるけど……今度こそ、そんな風には言わせたくない。
途端に胸のあたりがきっちりと整ったように感じた。
「でも、そうか……」
抜いだ服を比較的丁寧に畳みながら、アナがなんの前触れもなくぼやく。一度その手を止めて、ぼくにも聞こえるように顔を向けてくれた。
「『見えなくしてる』って話ね……もしかしてぼく自身が、プロイセンくんの気持ちを見ようとしてないって……意味だったのかも……」
「……気持ち?」
プロイセンくんの気持ち。……そういえば『そんなことを言われる俺様の身にもなれよ』と言われたんだっけ。そのあとのことですっかり忘れていた。あれは確か……手に入れた彼がぼくの望んだ彼じゃなかったって、言ったときだった……かなと、思い返す。
す、と喉元に刺さっていた骨が取れたように、頭がすっきりした。……そうか、言葉が足りていなかったのかもしれない。彼の献身的な働きぶりを、当時のぼくは見ていなかったわけじゃないんだ。ただ、
「――ねえ、オン」
ようやく出口が見えそうだったところに、アナが意識を留めさせた。けれど、悪気があるように見えない。むしろにこにこと嬉しそうにぼくを見ていた。
「一つだけだけど、今日わかったことがあるよ。君はぼくだから、教えておくね」
「なあに」
服を畳み終わって身軽になったアナは、そのままベッドに体を投げて横になった。
「ぼくね、ズィの前に立つと心臓がいつもよりドキドキするんだ。……エアの前ではドキドキしないの。だから、ぼくはズィなのかエアなのか、すぐにわかったよ」
少し照れたように色づく頰が、アナの感情をいっそう穏やかに見せる。……そんなに幸せそうな顔をしちゃうんだと思ったら、ぼくまでゆっくりと脈拍が上がり始めて……ぽかぽかと体温もつられて上がっていく。
「……心臓……の、ドキドキ」
「うん」
なんの迷いもなく肯定して、ぼくにも言い聞かせるように頷いてみせた。……確かに……言われてみれば、ぼくも今日、ズィに会ったときよりもエアに会ったときのほうがドキドキしていた。……そうだ、心臓が壊れそうなほどに緊張して……、
「ね、大丈夫。君はエアが大好きな理由があって、ぼくも、ズィが大好きな理由が、ちゃんとあるから」
そう。これ以上ないほどに、大切にしたい。アナの暖かい笑みがぼくにも教えてくれる。ぼくがどれだけプロイセンくんが……エアが好きなのか、ぼくの心臓がちゃんとわかっているから。
「……うん、ありがとうアナ」
「どういたしまして、明日もがんばろうね、オン」
ぼくの中にある鬱蒼とした不安を吹き飛ばしてしまうように、アナは優しい笑みを見せたままだった。……ぼくも、何かアナの励みになることを言ってあげたい。……そう思ったら、これしか思い浮かばなかった。
「うん、ぼくはまず、プロイセンくんに謝らなくちゃ」
初めに今日の失敗を取り戻す。そこをしっかり押さえて、今度こそちゃんとプロイセンくんに気持ちを伝えるんだ。
「わかった。きっと上手くいくよ」
アナはぼくの代わりに安堵したようで、それからシャワーに入るねと準備を始めた。
*
昨日の夜から、どうもギルの様子がおかしい。ルームサービスで頼んだ朝食を食べている間も、それから互いが身なりを整えている間も、首を捻っては観察を続けていた。……が、未だにどこかそわそわと落ち着きがない気がする。大体の準備が終わっていた俺様は、ベッドの上からその落ち着きの足りない背中を眺めていた。
時計を確認すれば、ロシアとロビーで待ち合わせをしている時間は刻一刻と近づいている。今日はこれから、まずは視察前会議がある予定だ。
――俺様がロシアと夕飯を食べて戻ったとき、ギルは久々に見るほどに気が立っていた。あえてそれから何があったのかは聞いていないが、それとなく気にはかけていた。……別に八つ当たりをされたとかじゃないし、大きなお世話かもしれないが、いつもと違う調子で会話を進められると、違和感で気持ちが悪くなる。まあ、十中八九、ロシアとの間に何かがあったのだろう。それだけはわかる。……少しすれば頭も冷えるだろうから、それから話を聞いてやるかと思っていたら、結局消灯するまでにその異様な調子は変わらなかった。
だが、ギルのそんな態度のお陰で、俺様は冷静になれた部分もある。食事の席でロシアに対して言ってしまったこと、そしてロシアから言われてしまったこと。そして、
――『準備をしておいてほしい』
ロシアが俺様に改めてまで伝えたいことなんざわかりきっている。昨日の夕飯のときの会話でこれは最早確信にすら変わっているのだが、どうせ好きだの家族になれだの、そういう類の話だ。いつまでも頭の中がひまわり畑してやがるが、浮かんだ笑顔がそのまま過ぎて、そうだよな、そういうやつだよとまた再認識させられていた。だから、本当は、勝手に頭の中にそれがちらついて、不本意的に安眠を妨害され続け……意図せず、一晩じっくり塾考してしまった、というのが正しい。そんなこと知るかよ、で投げ出せばいいものを、素直に『準備をしておいてやった』という形に〝なってしまった〟わけだ。……もともとロシア一人に『考えろ』というのはアンフェアだったし、俺様もある結論にたどり着いていたから、もうそれでいいことにした。
「――いってえっ!」
ガタバコッと派手な音を上げて、目の前で準備をしていたギルが叫んだ。考えに耽っていた俺様は一瞬の内に我に返り、本人の足を抱えて痛がるギルを視認する。どうやらすねの急所を思いっきりぶつけていたらしく、うおおお、とさらに声を上げてソファに摑みかかるように沈んだ。定位置から大きく場所を変えている、いかにも重そうなローテーブルも、悲痛の叫びを上げているようだった。
やはりギルはどこかそわそわして落ち着きがない。普段からこういうことがあるかと聞かれれば、まあしょっちゅうあるが、ここまで思いっきりぶつけることは稀だ。……と、思う。そろそろ助け舟でも出してやるかと、メイキングを済ませたベッドの上で、あぐらをかいたままギルのほうを覗き込んだ。
「なあ、ギル、」
「ああ?」
痛みのせいか苛立ちに任せてふり返るが、特に怖くもなんともないので、俺様は真摯にその目を見返してやった。
「昨日の夜、オンに何かちょっかいをかけられただろ」
あからさまにハッと息を止めて、盛大な間を置いた。
「……ああ?」
明らかという程度は遥かに超えて、何かを思い出していたような素ぶりを見せたのが面白かった。……こいつ、俺様ながら、こんなにわかりやすくて大丈夫か。
「お前、オンのことさ、」
「ん、んだよ」
とりあえず黙って聞いている間にと、会話の主導権を握りしめた。
「いつまでも曖昧にしてやんなよ。あいつ、はっきり言わねえとわかんねえわ」
俺様が一晩考えて出した結論の一つだ。ロシアは俺様があいつのことを嫌っていると決めつけてやがるから、そんなやつ相手に何を遠回しに伝えたところで、一つも伝わりゃしないんだ。
本来ならばギル本人で導き出さねばならない結論ではあるが、せっかくだからと教えてやった。……だが、まあ予想と大きく違わずに、深く眉を顰めて、白々しくそっぽを向かれた。
「……なんでお前に、ンなこと言われなきゃなんねえんだよ」
準備の続きをするためか、足の痛みを振り払うように豪快に立ち上がる。鏡台の脇に置いてあったネクタイに手を伸ばしているところだが、
「――俺様も、腹を括ることに、したから」
ギルだけでなく、自分自身にも教えるように告げた。
一晩かけて考えたことだ。この結論は、俺様にとっても生涯一度きりの覚悟になるかもしれない。
「あいつ、ほっとけねえもん」
堂々巡りの果てにたどり着いた、割と大真面目に出した結論だった。
「……ほっとけねえって、だからってあいつに気ィ許しちまうのかよ」
そう言われるだろうと思っていたまんまを言われた。さすが俺様の分身だ。だが、だからこそ、俺様の結論にも納得がいくはずだ。
「……ケセセ、ギル。ほっとけねえってさ、結構惚れてるよなって、気づいた」
あんなめんどくさくて鬱陶しいやつをほっとけねえって、冷静に考えて、もう深くまで溺れている。だって、辛そうにしてるとむかつくし、涙を隠そうとすると気が気でなくなる。……楽しそうだと……嬉しくなって、頬が緩むのが悔しくなる。
「はあ⁉︎」
「だからよ、お前もそろそろ許してやろうぜ」
ネクタイを握りしめたまま開いた口が塞がらないらしいギルは、そのまま固まっている……おそらくこの結論を逡巡している。
――もうそろそろ、心を許してやってもいいんじゃないのか。
「あいつがずっと何に必死だったか、ぜんぶわかってやれるの、ドイツ騎士団・公国・王国・ドイツ帝国、そんでオストドイツ……ぜんぶ見てきたかっこよすぎる[[rb:プロイセン > おれさま]]くらいだろ?」
ギルの拳が、ネクタイごときゅ、と固く結ばれた。音もなく呼吸をくり返して、冷静さを保とうとしている。
……遅かれ早かれ、おそらくギルもたどり着いたであろう結論だ。ぐつぐつやもんもんと燻らせていた熱は、ずっと二人の根底に沈めていたもの。共有していたも同然なのだから、俺様が知らないわけがない。……ならば、背中くらい押してやりたいと思ったが……まあ、これを荒療治と呼ぶこともできるかもしれない。
「……お、俺様のは、」
慌てるように後ろを向いて、鏡に正面を向けた。なんとも可愛らしい顔つきでネクタイを広げて、
「そんなんじゃ、ねえし……」
ぎこちなく首に巻き始めた。精一杯の平静さを保とうとしていたのはいいものの……手が震えて耳まで真っ赤にしている姿に、なぜか俺様まで恥ずかしくなって、あー、もう馬鹿野郎、なんて幼稚な悪態を吐いてしまった。……頼むからそんな恥ずかしい面でロシアの前に出るなよ、と後ろから追い討ちをかけたら、うるっせえ、と力いっぱいの抗議が返ってきた。
やんややんやと準備を済ませた俺様たちは、待ち合わせの十分前には部屋を出ていた。ギルがカードキーを抜いて、それを胸ポケットにしまい、じゃあ降りるかとエレベーターホールに向かう。どことなくがやがやと騒がしい気がするが、二人してそわそわしているからだろうか。自分一人で結論を出したときはこんなにむずむずしていなかったのに、ギルと話をしてからというもの、変に気まずくなってしまった。……俺様ほどの時間を費やしていないギルは、おそらくまだ俺様の結論を噛み砕けていないのだろう。ちら、と横目で見てやれば、口を歪なへの字に曲げて、まあこれはこれで面白いからいいかと思った。
エレベータが迎えに来て、ようやく俺様たちは乗り込む。きっちりと着込んだビジネス用のスーツだが、俺様もギルも無頓着すぎて、ストライプが入ったヴェスト選定のお揃いのものだ。それに加えて、俺様はぶち壊したくなるようなハイヒールを履いているから、背丈が少しだけギルに近づいている。事前に配布されていた書類だけを入れた鞄は軽く、持っていることすら忘れてしまいそう。エレベータの中で一度だけ、適当に施した化粧がおかしくないかと軽く確認する。そんなことをしている間に、エレベータはもうロビー階に到着していた。
「……あれ、なんか落ち着きねえな」
「ああ」
フロアに踏み込みながらも二人で見渡した。あちこちで宿泊客だけでなく従業員までもが井戸端会議をしていて、中には何をそんなに急いでいるのか、駆け足で玄関とロビーを行き来している人間もいた。……カウンターの中では、警察官とこのホテルの責任者のような男が険しい顔をこさえて立ち話をしている。
……これは、何かがあったな。確信を抱いたのはギルも同じで、先ほどまでの救いようのない浮き足立った顔つきがすっかり姿を消していた。とりあえず、ロシアと合流して仕事をしなければならないので、ロビーに設置されたソファの近くに寄り、立ったまま待機をする。自分たちで言うのもなんだが、これだけ目立っていればロシアも見落とすことはないはずだ。
全面ガラス張りのフロアから外を見れば、ホテルの裏手のほうから救急車が出て行った。……サイレンを鳴らしているわけではないので、そこに患者は乗っていないか、すでに〝患者は乗っていない〟か、どちらかということになる。
「――プロイセンくん、」
考えすぎて不快な胸中になりそうだったところに、ロシアの声が降って湧いた。不意を突かれた俺様たちは二人同時にふり返り、二人同時に「あ?」と聞き返していた。
よくよく見れば、そこにロシアの化身は一人だ。その後ろには珍しく黒スーツのボディガードが貼りついている。
「遅かったじゃねえか」
「てか、お前一人か?」
ボディガードとの身長差から、ここに立っているのはおそらくアナだと判断して、ならばオンはどこかと訝しむ。
「なんか、えらく騒がしかったし」
一通り周りを見回しても、あのでかすぎる存在感はどこにもなく、はた、と向き直ったロシアにも違和感を覚えた。……何か、振る舞いがいつもと違う気がする。
ああ、そうか、少し顔色が悪いのか。無理やり作ったような笑顔を見て腑に落ちた。
「その、オンが、」
妙な間の溜め方をした。
「――刺されちゃったみたいで、」
余りにも突拍子もなく、しかも予想の斜め上から降ってきた言葉だったせいで、
「ぶはっ、刺されっ、たのか⁉︎」
「おいおい、飛んだ間抜けだな⁉︎」
俺様もギルも、思わず吹き出してしまった。……いやいや、悪いが人間如きに間合いを取られるようなヘマは、化身だったら普通はしない。囲まれでもしたら話は別だが、そんな、こんなご時世で。信じられないという気持ちが大きかったが故の失笑だ。
そんな俺様たちを前に、それでもロシアは難しそうに笑うだけで、咎めることも共感することもなかった。あくまで落ち着きを保つように、俺様たちの目玉を交互に捉えた。
「先に色んな手続きしておくからって、一人でロビーに降りてたんだけど、そのときにね。……犯人は押さえたんだけど、どうやら心臓の近くを刺されたらしくて、機能の回復に少し時間がかかってるの」
事情を理解するや否や、俺様とギルは教科書に出てくるような見合わせ方をしてしまった。ロシアもその様子を苦笑でもって見届ける。
俺様たち化身は国が続く限り、何をされても死ぬことはない。傷をつけることはできるが、その傷は長くは残らない。人間には想像もできないほどの速さで傷が修復されていく。……だが、傷が深ければ深いほど、損傷が大きければ大きいほど、治癒にかかる時間は長くなる。……ましてや、今回は心臓の近くと言った。……直接心臓を傷つけていなくても、周りにある肺や胃、肋骨、大きな静脈や動脈をやられていれば、数時間はかかるだろう。
死ぬという心配はないが、痛いことは痛いだろうし、損傷の場所に寄っては苦しかったともあり得る……思わず笑っちまったことを反省した。
それなら今日はどうするのか、まず初めに過ぎった疑問を言葉にしようとしたところで、先にギルが頭の後ろで腕を組んで笑った。
「じゃ、俺様のほうのスケジュールは延期だよな? ケセセ」
楽しげに一歩踏み出したかと思えば、行儀の悪い子どものように、後ろ向きで玄関のほうへ数歩進んでいった。
「鈍臭すぎるってからかってきてやる。どこにいやがんだ?」
おそらく先ほど見送った救急車に乗っていたのがオンだと目星をつけたらしかった。呆れるほどに悪い顔つきで笑ってやがる。意地を張ってオンの気持ちを弾くのはさておき、さすがにそれはねえだろ、と咎めてやるつもりだった。
先にロシアが黒スーツのほうに顔を向けて、「案内頼める?」と段取りを組もうとしてるのを見て、ちょっと待て、まずはギルを叱れよと思いながらも様子を見ることにした。
「……ですが、それではアーニャさんの身に何かあったら」
「まさか君は本気でオンが戦い負けしたと思ってるの?」
黒スーツとロシアは真剣な顔つきでやり取りをしている。黙り込んでしまったのを見て、ロシアは伝えたかったことが伝わったことに安堵したように頭を撫でてやっていた。
「大丈夫、ぼくにはプロイセンくんもいるしね」
ちら、と盗み見られたのは俺様だ。……そりゃ化身といえば誰もがボディガードの経験くらいはあるもんだが。
「げえ……俺様巻き込まれるのはごめんだぜ」
茶化して言っても、拾われることなく流されてしまった。
「ね?」
「……わかりました。ですが、代わりの者を手配しますので」
「うん、それでいいよ」
勝手に丸くまとまってしまったようだ。最後にロシアが俺様にウィンクをしていた意味がよくわからないが、そんなことを気にしている間に、黒スーツはギルの前に躍り出て、
「では、ギルベルトさん、こちらへ」
と誘導を始めてしまった。
「おい、ギル、」
さっき、からかってやると息巻いていたことが気になる。今朝のやりとりの件もあるし、俺様にとって今のあいつらを二人きりにするのは、少しばかり不安ごとが多かった。
なのにギルはあくまであっけらかんとした表情を見せて、その黒スーツと一緒に歩いていく。
「大丈夫だって。帰ったらどんな間抜け面だったか、お前にも話して聞かせてやるよ」
言い終わるころには背中なんぞ向けやがって、足取りを軽くさせて遠ざかっていく。ほくそ笑む顔とふざけた言い分にカッとなって、
「待てよ、そうじゃねえだろ!」
追いかけて一発かましてやろうと、思わず足を踏み込んだ。……と、同時に、ロシアの手が俺様の腕を掴み、それに気を取られている間にギルは玄関から出て行った。
――ったく、あいつは本当に何を考えてやがんだ。
「プロイセンくん?」
ふわりと力が抜けて、そのふっくらと可愛らしい手が俺様から離れる。
「大丈夫だよ、今度こそオンもちゃんとやれる」
声の質だけはいつでも優しく響いてくる。その言葉を聞いて、ようやく理解した。ロシアはあえてあいつらに、二人で話す時間を作ろうとしたんだ。オンの身に起きたことは不幸だったが、それが吉と出ないとも限らない。
「……君は、準備は、してきてくれたかな?」
ドキ、と鼓動が殴ってきた。未だに優しすぎる声色で、今度は俺様に釘を刺してくる。……だが、焦ることはない。俺様はちゃんと『準備はしてきた』んだから、こいつからの言葉を真正面から食らっても、もう大丈夫だ。
……とは言え、それを明言してしまうのは少し不本意なので、どう反応すればいいだろうかと沈黙してしまった。……それでも十分伝わっていたらしい、ロシアが改めて俺様の腕に触れて、控えめに笑いやがった。……くそ、そんな他愛ない笑顔なんか、これっぽっちもいいなんて思ってねえんだからな。……もちろん心の中で呟いた言葉は、自分への誤魔化しだ。もうとにかく何を置いても、この身体に埋まる心臓が、一人で勝手に騒がしかった。
ロシアに誘導されるがまま、ホテルの玄関の外に出た。元々待機していた車はギルが乗って行ってしまったらしく、新しく車を手配したのだと連絡を受けたようだ。
ロータリーの端でその車の到着を待っている間、ロシアはとても大人しかった。『準備はしてきてくれた?』と問われたことで上がっていた心拍数も、徐々に落ち着き始めていた。
昨日とはまた違う、水のように透き通る朝の光を帯びた景色を見ているのに、どこか晴れない部分があるのはもどかしいものだ。何も言わずに通り過ぎていく車を眺めているロシアを、俺様も隣で眺めていた。
大人しいよりも少し強張ったように見える横顔が気になり、そういえば先ほど顔色が悪いことに気づいたことを思い出した。あんまりじろじろと見ているのもあれなので、わざと視線を道路に移して、俺様も行き交う車をぼんやりと追った。
……おそらく、オンを傷つけた犯人は、オンに対する個人的な恨みで動いたのではなかったのだろうなと考察する。アナの顔色が悪いから、おそらくは間違いはない。
俺様たちは同じ国の化身同士なら、国意の部分では繋がっていて、相手が考えていることや思っていることはだいたい共有している。それは痛みなどの〝感覚〟も同じだ。だが一方で、国意とは関係ない〝個人的〟な部分は相手にはよほどでないと伝わらない。……だから、俺様たちは分身の間でも会話を必要とするわけだ。……つまり、個人的な恨みや辛みで受けた傷は片割れには伝わらないが、〝国民〟からの不満や反故により受けた傷は、二人で共有のものとなる。アナが今青ざめているのは、おそらく、オンが心臓付近に受けたその傷が、まさしくその類だからだ。アナの中でもその傷が痛んでいる。
そんな調子で無理にスケジュールを進めなくてもいいだろうに、と軽率に思ってしまうのは、俺様が平和ボケしてしまったからだろうか。余計なお世話なのを理解した上で、ロシアにそう伝えてやろうと思った。……ちょうどそこへ、ロシアが一足先にふらりと歩き始める。俺様の手を引くようにふり返りながら、一言「来たよ」と、ロータリーの真ん中に停まったリムジンバスのような黒塗りの車を指し示した。後部座席の窓にはスモークが貼られている……いかにも、な一台だ。
その広めの車に乗り込むと、そこはボックス席のように座席が向かい合ってるタイプのものだった。大袈裟だな、とごちりながらロシアの隣に座ると、他の公用車は出払っていて、今はそれしかないのだと運転手が教えた。
俺様たちがしっかりと腰を落ち着けたことを確認した運転手は、ゆっくりと車を走らせ始め、だが、存外すぐにまた停車した。未だにロータリーの端っこに停まっているが、ギルについていったボディガードの代わりが到着するまで、おおよそ十五分ほどくらいか、ここで待機するようにと指示をされたと告げられた。続けざまにその運転手は車から降りて、では合流して来ますので、と俺様たちだけを残してどこかへ立ち去っていった。……なんとなく手際が悪いなと思ったが、まあ突発的なことでバタバタしてはいるのだろう。
ふ、と隣の気配を過剰に意識してしまった。
……意図していない。少なくとも俺様は意図していないのに、密室で二人きりになってしまった。〝そういう話〟をすると予め互いの間で再確認していたせいか、途端に気まずくなって言葉が離散する。
あー、なんか言わなきゃなと気を揉んでいるときに、ロシアが力を逃すような深呼吸をした。……そうだ、そういえばこいつ、身体を痛がっていたんだった。
「なあ、ロシア」
「うん?」
ほら、俺様のほうに向いた笑顔も、いつもと違って少し歪んでいる。そんな適当な笑顔で誤魔化せてると思っているんなら、俺様も甘く見られたもんだ。
「……今日の予定、キャンセルしたほうがいいんじゃねえか?」
「なんで?」
平気な顔で問い返されて、
「いや、お前痛えんだろ? 隠せてねえよ」
つい力説してしまった。
どうやら本当に隠せていると思っていたらしい。ロシアは大きな目玉を見開いて、俺様の言葉を一瞬だけ疑ったかと思うと、
「え、そんな……我慢できるくらいだよ」
すぐに観念したのか顔ごと瞳を伏せていた。なんで突然、そんな風に顔を隠す必要があるのか理解できないが、やせ我慢しているならこちらも気分が良くない。
「……お前が言うなら、それでもいいけど」
顔を見られたくないんなら、と、ロシアとは反対側に視線をやって、あたかも興味なさげに腕を組む。
「もうあのころみたいにこん詰めて働かなくてもいいんだろ? 無理はすんなよ」
「あ、あのね、」
なんの前触れもなく、いつもするようにロシアは俺様の腕に触れた。
「昨日の……話なんだけど」
見ようとすればまた顔を隠しやがり、それでもしっかりと訴えるように腕は掴んだままにしていた。そのロシアの態度をちゃんと理解するまで、たぶん数秒の時間を要した。忘れかけていた鼓動が再び俺様の中を駆け巡り始め、
「……ああ、唐突だな」
「えへへ、早くお話したくて」
くっと上げられた顔には、性懲りもなく優柔不断な笑顔が掲げられていた。ああ、もう、またそんな顔をしやがる。
あくまで平静であると装うために、ロシアの手を振り払い、改めて腕を組み直して見せた。余裕綽々な笑みも忘れずに。
「おう、それで、わかったのか。俺様の言っていた意味」
逸らさぬようにしっかりと目を見てやっていたら、くるくると頭の中で思考が巡ったのがわかった。大した音も立てずに淑やかに座り直して、俺様ではなく正面の窓から外を仰いだ。
「……それがね、ごめんね、たぶんこれかなあって答えはあったんだけど……」
嘘のない素直な言葉を探しているのだろう。真剣な眼差しがそろそろと控えめに俺様を一瞥して、ロシアは胸の内を絞り出していく。
「あのね、ぼくは君を前にすると抑えられなくてなってね、どんどん気持ちのままに押しつけちゃって」
なんだこいつ、自覚はあったのか。浮かんだ横槍は言葉にする間もなく、
「君からの気持ちを受け取る余裕がぜんぜんなくて……」
続いた声に掻き消されていった。じ、と今度こそ熱い視線が俺様を捉える。そんなにそこを覗き込んだって、こいつが探している〝本心〟なんて隠れてやしないのに、それでもロシアは必死になって探している。
「本当はどう思ってるのかわからなくて、今だって、」
「――俺様が本当に優しいかどうかはこの際置いておいてよ、」
その必死さのせいにするのは卑怯だろうか、思わず口を挟んでしまった。そんなところ探さなくたって、なあ。
「お前の目に優しく見えてんなら、なんで迷うんだ?」
「え、」
久々に聞くほど間の抜けた声が漏れていた。せっかくの淑やかさがまたしても台なしだ。
とにもかくにもロシアの答えを待てずに、俺様も少しばかり考えてみた。目の前に座っている俺様の真意を疑うということは……そうか、それはつまり、
「ああ、そうか。実は俺様が腹の中で、『こいつめんどくせえ、嫌い』って思ってるって、疑ってるわけか」
咎める意味はさらさらなく、ただ思いついた一つの意見を共有するために確認した。
ロシアはどこか決まりが悪くなったのか、また少し俺様のほうに傾いていた身体を正して、す、と息を整える。
「……そうだね、そういうことかも。でも、君に、これ以上嫌われたくないから……どうしても不安になる」
なるほど、そういう心理だったのか。それがわかって幾分かすっきりしたが、ロシアの表情が曇る一方なのは解せない。……そんなの、ロシアからの俺様に対する信頼が足りていないだけだろうと思ったが、まあ確かに俺様はロシアのことをしょっちゅう『めんどくさい女』だと思ってはいる。だが、そんな俺様にも、それをあえて口に出さない理由みたいなものはあるわけで……――ああ。脳みそだけでなく、身体の中を閃きのような電気が走った。
「あのな、確かに思うことがないとは言わねえよ」
「え、ひどい」
「だが、それをなんでわざわざ言わずにいるか、考えたことがあるか?」
「えっ」
飾ることを一つもしていない、素のロシアの動揺した声を聞くからに、そんなこと眼中にもなかったようだ。……まあ、そうか、俺様の気持ちを考えるほどの余裕がない、とは、すでに会話の冒頭で前置きされていたことだ。
思い返してみても明白だ。
「確かに一緒に住んでいたあの時代は、お前に話したところで聞きやしねえって、俺様も端から会話する気も失せていたがよ」
なあなあで引きずったままになっていたが、従順である必要性から放たれた俺様は、もうその理由を持ち続けていることもない。そんなの、わかっていたはずだ。
……なるほど、俺様にも改めるところがあるってこともわかった。
ぴ、と射抜くようにロシアを見つめる。はらはらと揺れる虹彩が素直に見返していた。
「……お前、変わったんだよな?」
昨日、ぎゃんぎゃんと喚いていたから、よほど本人なりには変わったつもりなんだろう。
「……うん、うん! 変わった!」
何を問われたのか理解したと同時に、ロシアはぎゅっと手のひらに力を込めて、縋るように俺様に迫った。
そうだろう。そしてもちろんのこと、俺様自身もあのときからは変わっているし、なんなら役割や体裁だって形を変えているのだ。
ロシアが縋るついでに掴んできた手のひらを、上から覆って身体を対面に向けた。
「……じゃ、その言葉を信じてやる」
今度こそ聞き漏らされぬように、取りこぼされないように、真っ直ぐにアメジストさながらの瞳を捉えた。
「お前がめんどくさくて我慢できねえときは、ちゃんと話すようにしてやるよ」
はっきりとこの口からそれを告げた。
だが、自分でやったことながら、問い返すような目つきで瞬きされると、途端に今の状況を客観的に見てしまった。それのせいで頭が煮えたぎる。じわ、と発熱による汗が噴き出して……それでも引くに引けずにロシアの答えを待っていた。……だが、一向にロシアはくるくると思考整理をしている様子から変わらない。……もしかして、わかりにくかったか……?
「……え、えーと、それは、ぼくにとって、いいこと?」
恐れていた通り、なんっっもわかってねえロシアが、可愛らしく首を傾げた。照れ損ご免で、その熱が苛立ちに置き換わり、
「あったりめえだろ!」
掴んでいたロシアの手を乱暴に投げ出して、
「あのころみたいな主従関係がいいってんなら、俺様はお断りだ! 他を当たってくれ!」
俺様のできる精一杯を改めてぶつけてやり、慌ててこの動悸を聞かれぬように距離を整え、足を組んだ。まったく、飛んだ鈍感野郎だ、野郎じゃねえが。
果たして俺様の努力は報われたのか、気になってちらと盗み見してやれば、呆けたように固まっている。……おうおう、意味を考えてやがるな、と見ていたら、唐突に顔色が良くなり、はあっと大きく息を吸った。目を合わせてやるのは癪だったので、急いでどこかへ視線を投げやる。……ようやく気づいたのか、遅えよ。
「ち、ちがう! ぼくは、プロイセンくんじゃなきゃやだもん! プロイセンくんがいいもん! ぼくの嫌なところ、ちゃんと全部言ってくれるの?」
完全に興奮状態になってしまったロシアは、ぐらぐらと俺様の身体を揺さぶって声を上げた。一応俺様も「ああ」と返事をしてやっていたが、それが聞こえていたのかは微妙だった。
さらに興奮冷めやらぬと言った様子で、今度は俺様の身体を引っ張り、無理やりにこの二つの目を向かい合わせにした。
「……それはつまり、これからもっとぼくの側にいてくれるってこと……? 君に言われないことは、嫌じゃないって思っていいの……?」
甘えるように瞳をゆらゆらさせて、これがわざとだったらぶっ叩いてやるところだが、そうじゃないから困ってしまう。今まではないものとして受け流してきた感情は、今さら真正面から受け止めるには強大すぎる。
「限度があるけどな、まあ、だいたいは」
掴まれていた身体を放させて、スーツを整えながらまた姿勢を正した。それを見てようやく我に戻ったのか、
「ふわふわだなあ」
ロシアもそわそわと髪の毛を整えながら座席に座り直していた。隣からは花が飛んできそうなほどの、嬉しそうな空気が漂ってくる。
こんなに喜ばれると、なんか、心が窮屈になる。俺様の性分なんだ。ロシアが嬉しそうだと、どうしようもなく気が緩んで……よかったな、って声をかけてやりたくなってしまう。そして、そんな自分に悔しくなっていたのが、今までの俺様だ。……そう、今日くらいは、もっと『はっきり言ってやろう』と、心に決めてきたんだった。
思い出して、腹を括るように固唾を飲む。俺様の結論はもはやちゃんとロシアに伝わっているのはわかっている。……だが、まだ、なんでそう結論づけたかは、話していないから……嬉しそうに俺様の言葉を噛み締めているロシアに、気持ちだけ顔を傾けてやった。
「……まあ、なんていうか、お前が、泣いたり悲しんだりするの、弱えんだよ」
俺様にしては渾身だった。ついに、言ってしまった。きっとこの先、おそらく生き絶えるまで、金輪際、絶対に口にはしないだろう言葉だ。
それをロシアは漏らすことなくすべてをしっかりと聞き取り、
「……え、」
大袈裟なほどに目を丸くした。
「よ、要するに、俺様は優しいからな、めんどくさいお前でも、結局はほっとけねえっつうか、」
みっともなく言い訳みたいな言葉を陳列してしまうが、羞恥のせいか言葉が止まらない。既に先ほど上昇していた体温が、またしても蒸気を吹き上げる。……はっきりとした言葉をくれてやろうと思ったのは確かに俺様だが、
「……その、あんま、まじまじ見んなよ……」
その追い討ちをかけるような眼差しには、もう耐えられなかった。とりあえずは顔を隠すような醜態は晒したくなく、ぐっと堪えて、俺様とロシアの間で手をひらひらと振った。顔中が焼けるように熱くて、それすらも恥ずかしい。とりあえずは視線の邪魔には成功したが、ロシアはそんなことには構わなかった。
「……プロイセンくん、それ、ほんと? ぼくのこと、そんな風に思ってたの?」
こんなに一生懸命言葉を待たれては、やっぱり無碍にはできない。
「ああ、まあ、だいたい、な」
だいたいどころか、そのまんまだというのに、また下手な照れ隠しをしてしまった。
す、と、潔くロシアの気配が離れる。今度こそお行儀よく座り込んで、そして、本人の手のひらをぎゅ、と握った。
「それ、ほんとかなあ……」
訝しんでいるわけじゃないのは、声色からわかった。今にもまたベソをかきそうなほどに喉を詰まらせて、ロシアはひたすらに自身の握り込んだ拳を見ていた。
「ぼく、覚えてる、よ。初めて会ったときさ、君は女性型だから騎士の称号をもらえなくて、旅の下働きしててさ」
何を言い出すかと思えば、もうすでに涙ぐんだ声つきをしていたロシアの口から、古い情景が流れ出していた。俺様の前にも広がって、しん、と心を落ち着かせる。……俺様だって覚えてるぜ。騎士団での遠征の途中、真っ白な雪景色の中に、ぴーぴーと泣き喚いている子どもがいて……忘れようがねえだろ。
「君の遠征の途中で、一人で迷子になっていたぼくを見つけてくれて、寂しくないように遊んでくれて。それから、何回も構ってくれて……そのときも君、ぼくに『ほっとけねえな』って、笑ってくれて……ぼく、すごく嬉しくて、」
じくじくと鼻水や涙を溢れさせて、顔を伏せたままのロシアは、それでも嬉しそうだったから、なんか、俺様までむずむずしてしまう。
そうだ……あれから、お前の眼差しがずっと憧れを孕んでいたことにも気づいていた。いやむしろ、だから、ほっとけなかったのかもしれない。……大きな家にいたころは、お互い空回りばかりしてて、あれは本当に、苦しかった。
ずず、と一際強く鼻水を啜ったロシアは、ようやく俺様の結論を飲み込むことができたのか、顔を上げた。隣に座った俺様の横顔を覗き込んで、
「プロイセンくん、これからはぼくたち、もっと仲良くできる? その、恋人、みたいに」
わざわざ逃げ場をなくすような質問を投げかけてくる。……まったく、そんなの、どう返事しろっつうんだよ。恥ずかしいにもほどがあるだろ。頭に浮かんだ返事はどれも不採用、もごもごと口を空振りさせながら、それでも言葉が出なかった。
「……嫌ならちゃんと言ってね。そう約束したばかりでしょ?」
さらに食い入るように詰め寄って、ロシアは俺様の言葉を欲していた。そうだ、今日くらいははっきりしてやるって……俺様決めただろ……! と、また自分の尻を叩いて、意を決して喉を絞った。
「……たぶん、嫌じゃない……んだと、思う……」
意識すればするほど脈拍に繋がって鼓動が速くなる。俺様がやっとこさ絞り出した言葉も、ぼそぼそと言ったのが気にくわないのか、
「本当に? その場しのぎは嫌だよ? ぼく、本当だと思っちゃうよ? いいの?」
やっぱりどう考えてもめんどくさいこの女は、俺様に詰め寄るのをやめなかった。……これでは、先に進めない。一度ちゃんと叩き込んでやる必要がある。……そう観念するほどの気迫で、俺様は肉を切らせて骨を断つ決意をした。
「……あのなあ、」
迫っていた身体を押し戻して、そのふっくらとした膝に跨り立つように、上からロシアの頬を押さえた。俺様だけでなく、ロシアにも逃げ場を与えないよう、まっすぐに視線を繋げて、
「俺様の目を見ろ。俺様の目を見て、また同じことが聞けるか」
今度こそ疑う余地を奪い取ってやるように教え込んだ。
はらりと、銀の髪が二人の顔を隠すように垂れ落ちていく。外からの光が幾重か遮られて、視界を埋め尽くしたアメジストが輝きを変えた。きっとロシアからもこの瞳の輝きがよく見えるのだろう。返答は忘れられて、代わりに蔓延した静けさが、心臓の音をよりうるさく感じさせた。
「……綺麗だね、プロイセンくん」
ロシアの手が俺様の頬に触れたそのとき、ふに、と唇に吸いつかれた。……不意打ちも甚だしく、どう反応していいかまったくわからずに頭が真っ白になる。ここでわーわー騒いだら、俺様かっこよくない、それだけはわかった。
「……おい」
「えへへ」
苦肉の策で咎めるために声を唸らせても、反省の色なんか見せるわけもなく、ロシアはだらしなく笑む。……一連の流れを経て、未だにロシアの両頬を包んでいた俺様は、完全にそれらを放すタイミングを見失ってしまった。そのせいでどんどん決まりが悪くなって、しかもじわじわと〝そういう意味〟でのキスを交わしてしまったことに気づいて、また花火が打ち上がるように熱が突沸した。今度こそ毛穴という毛穴から汗が吹き出しているかもしれない。
俺様に捕らえられていたロシアは、にこ、と笑みを深めた。今度は何をしでかすつもりだと強張ったのも遅く、ぎゅ、と抱き込まれていた。
「お、おぉ、おいっ⁉︎」
……それはもう力いっぱいに抱きしめられて、邪魔な胸が窮屈そうに押し潰されてやがる。それでもお構いなしに、力の限りの抱擁をやめなかった。
「ありがとう……プロイセンくん、大好きだよお〜……」
今にも抱き潰されそうだ。身の危険を感じながらも、優しい俺様はなるべく機嫌を損なわないように、とんとんと控えめに訴えかけた。
「あーわかったから、一旦離せよ」
そしたらどうた。調子に乗ったロシアは、あろうことか俺様を抱きしめたまま、小声で「……やだ」とほざいたのだ。
うわ、と早くも嫌気が差してしまう。ここは先ほど勝ち取ったばかりの権利を行使するタイミングだろと、俺様はさらに声を低くした。
「……そういうのめんどくせえからやめろって」
途端に力が緩んだかと思えば、またさらに強く抱きしめられて、ぐお、と変な声が漏れてしまった。ロシアは聞き分けなくぎりぎりとそれを続けながら、
「えー! ひどい! こんなときくらい優しくしてくれてもいいじゃないケチー!」
なんぞと喚き散らしやがる。冗談じゃねえ。
「これ以上どう優しくしろっつんだ! そういう約束だろ! 甘えんな!」
思いっきり身体を引き剥がしたら、ようやくロシアも諦めて俺様を手放した。……まったく、こういうところだっつの。
どかりとまた座席に落ち着き、何度目かになるが、ふんと鼻息荒くスーツを正した。
……なんかもう、色々と緊張の糸が切れてしまった。……とにかく、隣でロシアがこんなに幸せそうに笑っているんだ。……なんか、やっぱり悔しくてむかつく。
「……あー、やめだやめだ。今日はもうやめにしようぜ。どうせギルたちも動けねえんだろ。お前から言えば明日に変更できるんじゃねえの!」
「うん、まあ。今日は主に施設の視察だしね」
不思議そうに見てやがるが、投げやりになったのはお前のせいだからな、と乱暴に息を吹き出した。……そもそも、ここで十五分待てと言った運転手はまだ戻らないんだ。もう明日出直すでいいだろう。
「じゃ、もう明日に回せ。一日伸びたのはお前らの警備の手薄さのせいって言っとけ。お前も背中痛いんだし、ギルたちのところに行こうぜ。オンの見舞いな」
鼻息を荒くしていた自覚はあったが、そもそもあんなことがあったあとで仕事を敢行するほうがおかしい。生身の人間なら大事件だぞ。
「えへへ、ユールくん優しいね」
唐突すぎる流れの破壊に、思わず正気を確認してしまった。
……本当にこいつは今まで俺様の隣にいたのかと確認したくなるほど、まったくもって前後の合わない声と、言葉の内容だった。……そもそも、
「……なんでいきなり[[rb:名前 > それ]]なんだ」
初めてロシアに人間のほうの名前を呼ばれた。俺様とギルは互いのことをわかっているから、互いが〝名前〟を気に入っているのは知っているが……てっきりロシアは名前が好きじゃないのかと思っていた。
「……なんかね、やっとわかった気がする。なんでプロイセンくんは名前を欲しがったのか。名前で呼び合うのか」
……そう、まだ化身が名前で呼ばれていなかった時代、比較的に早い段階から、俺様とギルは当時の上司にお願いして、名前を授かった身だ。……なんとなく、分身である互いを、切り離してみたかったのかもしれない。
「……今ごろか?」
「うん……ユールくんが大好きなぼくは、今だけはロシアのアナのほうじゃないんだ。……アーニャなんだ」
ロシアが……アーニャが、ほわりと笑った姿が、あんまりにも心に刺さって、一気に息苦しくなった。……そんな風に笑ったこいつを見たのは、ひょっとすると何百年ぶりかもしれない。
「……そうかよ」
「えへへ。じゃ、運転手さんに頼もうね」
ずっと見ていられなかったから視線を外したことを、たぶんロシアは気づかないままだ。軽い手つきで携帯電話を取り出して、おそらくすべての段取りをしている政府機関に連絡をしているのだろう。そのあともずっと、だらしなく俺様に笑いかけ続けていた。
*
ロシアやユールの手前、あんな風に振る舞ったが、内心の俺様は少しふわふわとした心地で車に揺られていた。なんでわざわざ一人になってまであいつを茶化しにいくのか……簡単なことだ。昨日のロシアからの話と、俺様の態度……それからユールの決意。それらのせいで胸中はぐちゃぐちゃで落ち着きがなくなってしまったからだ。
一体どこから波紋が広がったのか、俺様たちの間で大きな変化が訪れようとしているのを、肌で感じていた。アナから聞かされていた希望もそうだし、オンから吐露された心の塊……それから、ユールから掴み出されてしまった、俺様自身の感情……。それらに整理をつけるには、昨日みたいな中途半端な会話だけでは意味がないことくらい、俺様にだってわかる。だから、今度こそ、あいつが望んだ通り、しっかりと腰を据えて話してやろうと思い至ったのだ。
それから病院までの五分は、この胸騒ぎを落ち着けるにはあまりにも少なすぎる時間だった。本当にあ、と言っている間に到着してしまったように思う。病院内でも少し奥まって、隔離されたような一室の病室の前に立ち、そこで見下ろす『イヴァン・ブラギンスキ』というネームプレートを確認する。
俺様たちが救急車を見送ってから三十分も経ってはいなかったが、おそらく負傷したのはもう少し前だ。意識くらいはあるだろう。……ドアを眺めていても仕方がないし、ここは俺様らしく腹を括るところだと、扉の取っ手を握った。
カラカラカラ、と軽く摩擦する音が響き、扉が横にずれたところから、ロシアの姿が現れた。元々背もたれにもたれかかって上体は起こしていたのだが、俺様を視認するや否や目玉をぱちくりと瞬かせて、すかさずその場で身体を前のめりに起こした。……痛みを思い出して「いっ」と声を詰まらせて、険しそうに顔を歪める。
おいおい無理すんなよ、と後ろ手に扉を引き直し、しっかりしまったことを確認した。
どうやら準備していたスーツまで台なしにされたのか、病衣を着せられているから、主張が過ぎるほどのけが人に見える。……まあ、心臓の近くをやられたらしいから、実際に〝大けが人〟なんだが。その姿が、多分に違和感を含んでいた。
「……なんで、来たの?」
点滴まで繋がれているというのに、〝友達〟甲斐なくそんなことを尋ねる。
昨日の今日で俺様と顔を合わせたくなかったのか、はたまたこんな弱っているところを見られたくなかったのか……いずれにせよ、邪険にされたことには腹が立った。
「はあ? お前が刺されたっつうから、笑いに来てやったんだろ」
そのお返しだと言わんばかりに、俺様は見下すように笑ってやる。自分で始めたやり取りのくせに、それ以上反論する元気がないのか、ぷ、と子どもさながらに頬を膨らませた。
「……いじわる」
病室の端にあったパイプ椅子を引き寄せ、
「おいおい、それが俺様だぜ?」
「……そうだね。昨日のも、やっぱり君だったんだもんね」
そこに座った俺様は、ロシアが容赦なく投げつけてきた罪悪感に、まんまと思考をとられた。……昨日、ロシアに言われたことに腹が立って、意地の悪いことをしちまったのは……まあ、反省はしている。だが、俺様のことを不要物扱いしたことは、それに十分足る理由だということも、忘れちゃいない。……あのときの俺様がどれほどこいつに……、
――はた、と目が合っていたことに気づいた。ロシアは俺様から何かを言うのを待っているのか、痛い身体を起こしたままでじっと見ていた。……こいつにとって、『病院のベッドの上』ほど不釣り合いな場所はない。
「……で、どうしたんだよ、らしくねえじゃねえか。お前が人間なんかに不意を突かれるわけねえだろ」
国の化身なら誰だって、近くに敵意を向けている国民がいればわかるものだ。国民の意思のようなものは、俺様たちの源であるからだろうか……攻撃しようとするくらい〝強い〟思いなら、それは尚さら鮮明にわかるはずのもので……だからこそ、俺様たちは今回のことを聞いたときに笑い飛ばそうとしたし、目の前のこいつの状態を見て、違和感しか抱かなかった。
それをこいつも承知の上だ。ふぅ、と軽い吐息に混ぜて、
「……うん、わざとだよ」
なんともさらりとそう言ってのけた。この眉間に走った緊張感はなんだ。
「なんで、そんなことわざわざさせてやんだよ」
そのしれっとした態度を問いただそうと声を絞っても、ロシアは無感情に笑ってみせるだけ。
「本当にぼくを殺せちゃったら、楽しいじゃない」
「……おい、こっちは真面目に聞いてんだけど」
まるで投げやりな態度。叱るような声調になってしまったが、ひょうひょうとしているこいつが悪い。いくら死なないとは言え、傷自体は痛んでいるはずだ。そんな遊び感覚なわけがないだろう。
じっと視線で追い込んだ甲斐があってか、ロシアは作っていた笑顔を取りやめて、ばつが悪そうに俺様の反対側を見やった。ふらふらと寄り道をして、再びその視線が俺様に戻ってきたとき、
「――ああいうの、たぶん、一つの時代に何百人もいて」
雪が降るようにしんしんと、柔らかく声を紡いだ。俺様たち以外に誰もいない病室には、それがよく響く。
「その内、一握りが実際に行動を起こすんだ。時代や国に対する憎しみは、全部ぼくに向く」
走馬灯と言ったら縁起でもねえが、
「……ああ、俺様にも、覚えがねえわけじゃねえよ」
いつの時代も、謀反や過激派の中には、俺様たち化身を最終目標にするやつらはいた。俺様たちを捉える者、殺せばいいと思う者、その時々で違ってはいたが。
「……だけど、今の時代なら、ぼくたちが死なないのは誰もが知っていることだよね。それでも中には、今回のように気が触れてそれがわからなくなる人もいる」
……ああ、そうか。聞かされたときは『このご時世で』と思ったが、そういう輩もいるのは確かなのだろう。ロシアはそれでも、憎むような強張りは一切たりとも見せなかった。……当たり前か、〝かわいい国民〟には変わりないのだから。
「……そういう人には、見せてあげるのが早いよね」
俺様に是非を問うよう、しっかりと表情を捉えられていた。
……国に対するなんらかの恨みが拗れて敵意を向けられた場合、ロシアは見せてやるのがいいと言う。……果たして、『死ねない』ことを見せてやるのが目的なのか、それとも『君は殺したよ』と見せることが目的なのか……疑問に思うまでもなく、答えについての予感は、薄々だが持っていた。
ふわふわと空気を含んだ髪の毛に、ところどころ血がついているのが目に留まる。……心臓近くだ、きっと相当大変だったろう。故に、問いかけるような眼差しを無碍にすることはしたくなかったのだが、俺様の中でついに答えは出なかった。
わかりやすく肩から力を抜くように息を置いて、改めてロシアと向き合う。
「……そいつは今どこに」
「罪悪感に苛まれて自殺ようとしたって、今はどこか別の病院じゃないかな」
俺様の場合、そういう輩は組織だったやつらしか経験したことがなかった。まだ俺様が〝国〟だった時代だ、人間からすればもう遠い昔の話。……だからだろうか、一国民が化身に傷をつけた場合に注ぐらしい、自害するほどの罪悪感というのを聞いて、思わず前のめりに「まじかよ」と問い返してしまった。
かけられていた毛布の端をきゅっと握り、思いを馳せるように目を伏せた。
「それも、いつものパターンだよ。みんなぼくを傷つけたあとに、たいてい泣き出しちゃう」
不意に、その瞳がまた俺様のほうに戻ってきて、悲しいのか嬉しいのか、どちらか判断のつかない笑みを口元にだけ浮かべた。
「泣いて、取り乱して……本当にその場で自殺しちゃう子も、何人か、見てきた」
綺麗さっぱりと言葉を奪われた。
それがいつものパターンだというのなら、やはり敵意に気づいたらそこで止めてやるべきなんじゃないのか。どうしてロシアはあえて自分を傷つけさせるのか、
「――結局は、ぼくが愛おしいんだと、嬉しいな」
言葉に合わせて、口元が必死に笑った。まるで否定だけはしないでくれと訴えるような、有無を言わさぬ頬をされて、俺様はその言葉と表情の両方に打ちのめされていた。
ロシアの中に渦巻くこの齟齬の正体が見える。……こいつは傷つけられたあと、後悔する姿を見たくて……わざわざそんなことをさせている。痛さは変わらないだろうに……そう思ったら、もう落ち着いていられなかった。……なんでそんなになるまで、俺様は気づいてやれなかったんだろう。
捻り上がるように、胸中が複雑な思惟で埋もれ、押されるように軽いパイプ椅子がガタ、と音を立てていた。衝動的もいいところ、俺様はたまらずにロシアの頭を抱え込んでいて、身体の中に爆発した得体の知れない感情を抑えられなくなっていた。
「……え、なに、どうしたの」
「うるせえ、ガキは黙ってろ」
もぞもぞと俺様の腕の中で動いてみてはいたが、特に力づくで解く様子もない。……あまつさえ、ゆっくりと俺様の背中を抱き返して、鼓動を噛みしめるように呟いた。
「……優しいね」
声色は、これまでと同じだった。
「その優しさが、いつも辛いよ」
――ああ、くそやろう。得体の知れない感情が、苛立ちのように身体の中を燃やしていく。この謎のもどかしさはなんだろうか。物足りないような、乾きのような情緒が込み上げてくる。
「ああ、俺様はな、お前のためにこうしてるわけじゃねえからな。俺様はお前が夢見てるほど優しかねえってこった」
何を言っても言葉が足りない。
「俺様は俺様がこうしてえから、」
まるで止まれなくなった口を塞ぐように、ロシアはいっそう強く俺様の背中を抱えた。
「……プロイセンくん、」
今度は、その声に魂のような芯が通っていた。思わず身構えてしまうほどの、しっかりとした声つきで、
「昨日の話の、続きをしよう」
ゆっくりと俺様を捉えていた腕を解き、同じように、俺様も抱いていたロシアの頭を、ゆっくりと放した。まさにその距離で、両者ともが視線を捉える。
「特別だ、聞いてやる」
そのまま、ロシアが使っているベッドの端に座った。身体はもちろんロシアのほうに傾けて、意を決したように呼吸を整えているのを見届ける。
「ごめんね、話って言っても、まだぼくの中で整理がついたわけじゃないんだけど……でも、まだ伝えきれていないことが、あって」
「なんだ」
昨日は終始そこに居座っていたためらいとも迷いともとれる揺らぎは、今日にはもう見当たらなくなっていた。
「ぼくは、〝ぼくのもの〟だった君も、大好きだったんだよ。色々と、空回ってばっかりだったけど」
――『欲しかった君とは違ったんだ』と昨日そう告げた、まさにその口から、もはや期待もしていなかった言葉が流れ出てくる。
「……でも、本当に大好きだったのは、一番は、自由に飛び回る、そうだね、まさしく黒鷹のような君だから。それを言いたかったんだ」
黒鷹のような……それはつまり、プロイセンたる俺様本来の姿のことを言っている。……確かに〝こいつのもの〟だった俺様は、どう足掻いても、本質からそれとは違っていた。それでも俺様は俺様だと言い張ることはできたが、俺様たちは国の化身……国が違えば、残念ながら周りからは違って見えていたんだろう。
「ギラギラってね、瞳が燃えてるみたいでね、かっこよくて。いつでもかっこいいけどね、でも、やっぱり君は……かっこよかったんだ」
まさしく憧れを見上げるように笑っていたから、ロシアから目が離せなかったというのに……思い出の果てへ駆け巡ったのか、途端に崩れ落ちるように俯いてしまった。それでも俺様の視界では、その長い睫毛は未だきらきらと揺れていた。
「……なのにぼくは、何をやってもだめで。やっと〝手に入れた〟君を檻に閉じ込めるようなことしかできなくて。それだって行き詰まって、手放すしかなくて」
そうだな、こいつが今していることは懺悔なんだ。……さっきと同じように、毛布の端を握り込んで縮こまるロシアを見て、そう実感するように聞いていた。
「すごく、かっこ悪かった。でも、あれからたくさんがんばったんだ。自分で言うのは、やっぱりかっこ悪いけど」
実際、大きな家の崩壊後からここまで、体制が変わっただけでも混乱は大きかっただろう。体調を崩すことは今ですら続いている。ましてや、国民の胸中を考えても……そこんところは俺様だって経験しているんだ……わかってやれる。
どのタイミングで俺様の言葉を挟もうか、しばらく考えていた。……こいつの真剣さは十分すぎるほど伝わっている。俺様に話したいと言っていた感情が、いろんな泥々に深く絡み込んでしまっているのも理解した。……そして、それに対する俺様の応えも、相応の覚悟で返してやりたかった。
ふわり、と、その柔らかい髪の毛が持ち上がる。なんとか持ち直したのか、切実さを滲ませた瞳がまた、俺様の注目をしっかりと掴んだ。
「ぼく、君のことばっかり考えちゃうんだ。少しでも時間があると、君はどうしてるかな、君とこうなっていけたらいいな、こんな話がしたいな、あの風景が見たいな……って、本当にそればっかり考えちゃうの」
先ほどまでとは違う声つきに不意打ちを食らった。強く活力に溢れた、意欲を含んだ声。なぜだかわからない、またさっきみたいな、曖昧な形をした熱が現れて、
「……でも、それは叶わないってわかっているから、苦しくなって」
喉の奥のほうを勝手にカラカラにしていく。思わず唾を飲み込んだのはそのせいだった。……心なしか胸がざわついて、呼吸が浅くなっているような感覚まであった。
ちら、とロシアはそんな俺様の顔を見て、それからまた目を伏せた。見ているのは俺様の手元か。すぐにまた視界を覗かれ、
「昨日は、だめなところを見せてごめんね。ぼくはもっと自分の心臓に素直になるべきだった」
徐に俺様の手は取られ、どくり、と共鳴するように、心臓まで強く波打った。……いや、共鳴したなんて錯覚だ。俺様はこいつと分身ではない。……だが、抵抗なんて思いつきもしないまま、俺様の手はロシアの胸の真ん中に連れていかれた。
「ぼくね、こんなにドキドキするの、君の前でだけなんだって気づいたよ」
病衣の下に幾重にも巻かれた包帯の感触があり、さらにその下から、とくとくと押し上げる鼓動があった。
「アナに教えてもらっちゃったんだけどね。不思議だね。同じプロイセンくんなのに、ズィの前ではドキドキしないの」
静かに言い切ったあとは、その鼓動を聞かせるように言葉を止めた。……この近くにはまだ、たいそうな傷が残っているはずなのに、この心臓は力の限り打ちつけている。……錯覚じゃない、本当に共鳴しているように、どくどくと俺様の内側からも、強く鼓動が鳴り響いていた。……これのせいなのは明らかだった、頭がひどくぐらぐらしている気がする。
そっとロシアは俺様の手を放して、わざわざ俺様の膝の上に戻してから、しっかりと顔を上げた。
「プロイセンくんだったらどっちでもいいわけじゃないんだ。……ぼくは君が大好きなんだ、ギルベルトくん」
たちまちの内に意識がはっきりした。あんまりにも呼び慣れていないその言葉は、どこかぎこちなく感じさせたからだ。だが、その不慣れな響きのせいだろうか、頭の中がすっきりと明るくなった。
「……いきなり、人間の真似っ子か?」
試すようにロシアを見据える。
「ううん……エアって呼ぶの、なんか寂しいなあって思って……」
「それはお前の勝手な感傷だぜ、オン」
「やだ、イヴァンって、呼んで」
この話を始めてから消えては戻る意思のような輝きが、再びロシアのアメジストを彷彿とさせる瞳を埋め尽くしていた。あんまりにも精巧な眼差しを向けられるから、当然のように、他へは視線が移せない。
「君とユールヒェンくんが、〝名前〟で呼び合うの、実はいつも少し不思議だったんだ。でも、今はすごくわかる。……ぼくは、〝ロシアのオンのほう〟じゃなくて……〝イヴァン〟として、君が大好きだから」
あまりの熱烈さに、未だ捕えられたままだった。一つの瞬間も無駄にすることなく、ロシアは俺様に想いを見せつけてくる。
「この心は、アーニャにも分けてあげないの。ぼくだけのものだから」
そう言われた途端、耳鳴りのように脳裏によぎった。
『お前もそろそろ許してやろうぜ』
……つい今朝方、ユールが観念したように言っていたあの言葉だ。
そりゃ、こんな一世一代のような懺悔をされてしまったら……もう何が正しい判断なのかわからない。ただこの身体は衝動で溢れていて、そいつが触れろと叫んでいるようだった。……あのころから……いや、いつからかもわからない何世紀も前から、そんなのあり得ないと埋め立ててきた感情が、吹き戻しのように噴水した。……今度こそ。今度こそ、空回らずに交わせるのか。
「……ったく、お前はほんと俺様が大好きだな」
両手を広げて信じていいのか突如として不安に襲われて、結論を誤魔化そうとした。なのにロシアは怯むことなく、
「うん、ずっとそう言ってるよ。今なら、何回でも言うよ」
改めて腕を掴んで、視界を追いかけてくる。……なんだ、俺様動揺しているのか。冷静な第三者のような声が飛び、自覚したらもっと言葉が思いつかなかった。
そんな中でも、すべてを言い切ったであろうロシアは、容赦なく俺様を見つめ続けた。耳障りのいい声はより柔らかく聞こえ、
「君の答えがほしいな。この気持ちは、持ってていいものかどうか……教えてほしい」
俺様にすべての答えを託した。
……とどのつまり、やはり俺様にお似合いなのは『優しい』とかそういう類の言葉ではなく、『天邪鬼』とかのほうだった。ロシアから託された答えと向き合おうとしたって、まず先に立つのは、そんなの、俺様が知るかよ、という反発だ。……だって、俺様が捨てろと言ったら、その気持ちを簡単に捨ててしまえるのかという話だ。そんな軽いものじゃないだろ、そんなに軽いものだったら、一発ぶん殴ってやるところだ。
「……ばかやろう」
……そういえば、昨日も似たような感情を抱いたことを思い出した。おそらく、ロシア相手に抱いた感情のはずで、
「そんな大事な気持ちを、他人に決めさせんなって」
確かにそう言ったはずだった。……言ってから追考してわかる。そうだ、これを伝えたのはアナだった。昨日の、伝えたい想いを伝えるかどうか……みたいな会話だ。伝えたいなら伝えろ、と。
だから同じように、俺様の言葉を目玉をまん丸と見開いて聞いているロシアにも、力強く教えてやった。
「お前がそれを大事に抱えてきたんなら、お前の意地で持ってりゃいいだろ」
はたはた、と二回、白金の睫毛が上下した。その仕草で途端に思い出したが……そうだ、これは俺様への……お、俺様への気持ちのこと……だった。
力強くもかっこよくもセリフをぶち込んでやったはいいが、突発的な羞恥が吹き上がった。俺様にその気持ちを持っててもいいかと聞いたということは、つまり、こいつの中では俺様がその気持ちを迷惑に思うかどうかという問いとして、置き換えられる……というか、もうそれを問うためのものだ。気づいた途端、急激に脳みそがカタカタと回り始めた。
だからか。ロシアはまだ俺様の言葉を待っているような顔つきで、静かに見ている。何か言わねえとと焦った。見切り発車で口を開いて、
「……別に、迷惑とか、思って、ねえよ……」
ごにょごにょと、音量調整を失敗したステレオのように、付け加えるしかなかった。
そろ、と控えめにまた手に触れられる。視線を逸らしていたらしいと初めて自覚して、諦めと共に顔を上げた。
「……迷惑じゃない?」
甘えるような眼差しに変わっているような気がしたが、素知らぬふりで小さく頷いて見せた。そしてまた目を逸らそうとしたところで、
「……それだけ?」
「……は?」
けが人のくせに身体を動かして、俺様との距離を小さくした。そして、ここへきてとどめを刺そうという魂胆だ。
「君はぼくのこと、好き?」
すべてがホワイトアウトした。頭の中が完全に真っ白で、意思とは関係なく脈拍も熱も上がり放題だった。まるで怒髪天を突かれた猫のように身体が飛び上がり、
「はあ⁉︎ そこまで答えてやる義理はねえよ⁉︎」
力いっぱいにロシアの手を振りほどいていた。だがそんなことには怯まないのが、我らがロシア様だ。
「ええっ⁉︎ そんな真っ赤な顔して⁉︎」
「言うなシロクマ野郎お!」
指摘された通りだ。おそらく顔だけでなくて、身体中が真っ赤になるほどのぼせている自覚はある。……そうか、これまで名前をつけられずにぐつぐつさせていた感情に、今ここで名前がついてしまったのだ。
「別に、迷惑じゃ……ねえ……って、言ってんだろお……っ」
頼むからこの言葉から察してくれ……切実に願いならも、もう真正面から顔も見られずに俯いた。……なんなんだ、こんな俺様これっぽっちもかっこよくねえじゃねえか……と自分に文句を垂れるていたときだ。
するりとロシアの手が伸びて、
「……じゃ、ちゅうは?」
また手首を引いて、俺様の身体をロシアのほうへ向けさせた。俯いていても、髪の毛を短く整えている俺様だ。簡単に顔を覗き込まれて、ついにはそのアメジストよりも精妙に磨かれた瞳と、出会ってしまった。
「ちゅうは、迷惑……?」
近さのせいか。まるで何かの探知機かのように、ロシアが近くにいるだけ心臓が早く脈打つ。逃げ出したいほどの羞恥は持っていたし、回避できるものなら適当な言い訳は欲しかった。
「……そんな、人間みたいなこと……っ、」
だが、結局のところ、俺様は拒否しきれなかっただろう。ついに触れ合った乾いた柔さで、それまで抱えていた余計な感情の一切が、その瞬間だけは消え去っていた。
優しく触れるだけの、その一つの瞬きを去り、まるで未だ途切れていないかのように濃厚な視線を重ねてしまった。頬を包んだ手のひらがやたらとでかくて、おまけに思っている以上に熱い。そしてこの眼前の瞳には、いつまで眺めても飽きさせない、宝石には持つことができない生命力のような炎を、奥のほうで滾らせていた。
「……あ、あー……」
――俺様、今、キスしたのか。なんの前触れもなく認識した、まさにその瞬間の内に、条件反射のように頭が爆発して、
「ああ⁉︎」
「うわあっ」
座っていたベッドから火をつけられたように飛び上がってしまった。
だめだ、だめだだめだ……! なんで俺様黙ってキスさせた⁉︎
度を過ぎた恥ずかしさに耐えられなくなり、頭を掻き乱しても治らない。何か言い訳しないと恥ずかしさで死にそうだった。死なねえけど、死にそうだったんだ。
ぐる、と床がえぐれるんじゃないかと思うくらい、力いっぱいに身体を翻して、ベッドの上で未だにきょんと首を傾げている呑気なロシアに、思っ切り指を指してしまった。
「い、今のは見舞いだ! 手ぶらで来ちまったからな!」
同じようにまた踵を返して、
「じゃ、俺様はせっかくできたオフの時間だから、その辺ぶらぶらしてくるぜ! 久々の街並みだ!」
今すぐここから逃げ出したくて仕方がなくて、がっしりとスライド式の扉の取っ手をひっ摑んだ。
「あ、待って! ぼくももう動ける!」
言葉にギョッとして上体だけふり返れば、今さら俺様に勝るとも劣らない慌てぶりで、かけられていた毛布を引っぺがしたあとに、繋がれた点滴に狙いを定めているロシアを見つけた。まだ病衣のままというのもあり、追いつけるはずもないのに、
「はあ⁉︎ 空気読めよ! お前は来んな!」
必死になってロシアを咎めながら、カラカラカラと、横に扉をスライドさせた。そしてそこから逃げ出せると確信を持って一歩を踏み出した途端、確信は虚しく打ち砕かれて、その場で足が止まった。
……まさかな。
瞬きを何回かしてみても、そこに立っていた二人の化身は消えやしない。
そう、扉の向こうには、あろうことかアナとユールが立っていたのだ。仲良く肩を並べて。しかもアナは必要以上ににこにこしてやがるし、その上ユールはげんなりと青ざめていた。
「よかったね、オン!」
目の前の俺様に挨拶する前に、病室の奥にいるロシア……イヴァンに向けて声を投げた。……そして一方のユールは惜しむことなく侮蔑の視線を俺様に降らせていて……。
「ギル、お前さすがにその取り乱し方はねえよ。同じ化身として恥ずかしい……」
失敗でも隠すように自分の額を軽く押さえていた。
だらだらと冷や汗が背中を駆け下っていく。この密閉とは程遠い薄いスライド式の扉と、それに増して、二人のこの両極端に振り切れた反応は……恐ろしくて自分ではその先は考えられなかった。
「……も、もしかして、」
投げ出した思考をしっかり拾って微笑んだのは、笑顔が映えるアーニャのほうだった。
「ごめんね、いい雰囲気だったから、邪魔しちゃ悪いかなって思って」
「……マジで……」
アーニャはこくこくと人形のように顔を縦に振った。
聞かれていた。……俺様たちの、あんなこっ恥ずかしいやりとりを……この二人に完全に聞かれていた。
だが、そのせいだ、いろんなものが直ちに吹っ切れて、頭の中が一気に軽くなった。いつまでも入り口を塞いでいるのも、逃げ腰でいるのも不恰好だ。……そんなこと、初めからわかってはいた。
「……はあ、わあったよ!」
これ見よがしに嘆息を見せつけてやってから、俺様は改めて先ほどまで座っていたパイプ椅子を病床の横に引きずり寄せて、そこにどかりと座った。ずっと何が起こっているのかと俺様を見ていたイヴァンの、そのごっつい手を自分から掴んでやる。
「これで、満足か。くそっ」
指の節々に当たる、ゴツゴツとした太ましい骨や硬くなった皮が、なんの代わり映えもなくて、妙にロシアであることを実感してしまった。そうしたらもうだめだ。慣れないことをしたせいで、また一気に体温が爆上がりした。
「……うん、嬉しい」
またロシアも噛み締めて言うものだから、余計に調子が崩される。ユールにもアーニャにも、俺様が今はイヴァンの顔すら見るのもままならないことは、もうとっくにばれているだろうが、それはどうしようもできない。俺様だって、自分がこんなにイヴァンに弱いなんて思っていなかったから、びっくりついでに半ば動揺すらしている。
アーニャの人のいい笑顔が目に留まって、あ、こっちも無理かも、と重なる表情から目を離した。あたかもユールに助けを求めているように見えてしまったのか、病室の扉を閉めながら、軽く首を横に振られてしまった。……ちげえっつーの。どいつもこいつも。
隣をチラ見すれば、目が合ったロシアがだらしなく口元を緩ませて、えへへ、と笑いかけてくる。……あ〜〜ッなんっだこれ……と、また突沸したくすぐったさに、頭を抱えたくなった。……こんな心情になるんて、聞いてねえ。
「――だあ、もう! 今日だけだかんな! つうかそんな傷、あと二時間もすりゃ完治だろ! 昼飯期待してるからな⁉︎」
「うん、ランチでもディナーでも、最高のものを用意してあげるね」
るんるんと踊るような返事を聞いて、しまったこれ自分からデートの誘いしてんじゃねえかと目が点になってしまった。ああ、もう無理だ……あとは頼んだ……と誰にでもなく目配せを投げやろうとしたら、
「ねえ、」
ぞろぞろと俺様の横にパイプ椅子を引っ張ってきた二人の内、アーニャが、
「今日はもう仕事延期にしたからさ、日程が一日延びちゃったけど、自由時間ができたよ」
「ほんと?」
「うん」
あたかも吉報かのように報せた。……あと二時間くらいで完治するであろうイヴァンの傷に加え、急遽できた自由時間。どれをとってもイヴァンのたどり着く答えは明白だった。
「ねえ、ギルベルトくん。傷が治ったらさ、一緒にどこか行こうよ」
ほら来た。こいつは昔っから、意味もなく俺様を連れまわすのが好きだった。……そう、〝昔〟っから。
「……どこかって、どこだよ」
「うん、どこでもいいんだ。海岸線でも公園でも。君とこの街を並んで歩きたいって、ずっと思っていたから」
こんなに穏やかに微笑むこいつを見たのが久しぶりすぎて、懐かしさに胸の中が掻き立てられた。……そうだな、こいつのこういう表情は、ずっと見ていたいくらいには気に入っていた。思考としてはめ込んだ途端に、またじわじわと熱に追い立てられるのを自覚して、不器用なまでにそれを上手く隠せずに口を尖らせてしまった。
「……お、お前が、そんなに俺様と行きたいっつうんなら、まあ、付き合ってやっても、いい……が」
俺様が言い切るまでしっかり聞いていたイヴァンの反応を見るべく、ちらりとだけ視線を上げた。目が合ったところでわかりやすく眉尻を下げられて、呆れるような顔つきになった。
「……君ってたまに、ほんとにめんどくさい人だよね」
「お前に言われたくねえ」
なんたる言い草だ。選りに選ってこの俺様があのロシアにそんなことを言われるなんぞ納得できるはずもなく、前のめりに身体が構えた。
「ね、ユールくん、ぼくたちもお散歩行こうね」
だが、俺様たちはそこまで。反対側からまた穏やかに笑む声が聞こえ、俺様たち含めて全員がユールに顔を向けた。
突然の注目に驚いていたものの、組んでいた腕をほぐして、軽く咳払いするような仕草を見せた。さすがに俺様の分身だ、絵になる所作をさらりとやってのける。
「……あ、あー、いいけど、あんまくっつくなよ」
「うんっ」
ロシアはどちらにしてもロシアで、アーニャは舞い上がって抑えられないように、思いっきりユールの腕に抱きついてご満悦そうにしていた。それに対して、「ほら、そういうの!」とユールがムキになって身体を放している。……前言撤回。なんだよ、お前だって赤面してんじゃねえかよ、と横槍を入れるのはなんとか我慢した。
そのあとアーニャは楽しそうにイヴァンに「がんばったから、二人とも勝ちだね」とはしゃいでいたが、それは一体なんのことだろうと、ユールと静かに見合わせた。
……というかな。それよりも、こいつらの雰囲気も今朝とは変わっていることに気が留まって、またなんの前触れもなく鼓動と一緒に体温が上がる。……当てられるとはこのことだろうか、無意識にイヴァンのほうを向いてしまい、待ってましたと言わんばかりにイヴァンに微笑まれた。……あーもー、だから、そういうのだっつの。余計に顔が見れなくなって、誤魔化すように壁掛けの時計を見やった。
「それにしてもなあ……」
俺様の永遠の相棒、ユールがえらく真面目に口を開いた。
「傷つけたってなんにもならねえ化身に手を出すって、ここの人間も相当キてるなあ」
心配するように続けた。……そうだ、他でもないここカリーニングラードでの出来事だ。あまり俺様たちの存在が知られていないから、今回はたまたまロシアだったが、ひょっとするとその標的は変わっていたかもしれない。
とにかく、イヴァンが「みんながみんなじゃないよ。今回はたまたま一人いただけ」と付け加えていたが、こればっかりは気にしてしまうところだ。……国民なら、一人残らず幸せになってほしいと、願わずにはいられないのだから。
「俺様たちを前にすると人間は気が高ぶっちまうって言うけど、こんな高ぶり方もあるんだよな。久々だったから、少しびっくりした」
ユールは過敏な反応を見せるように、自らの拳を覆ってはほぐしてとくり返した。俺様と同じ心境らしく、やはり拭いきれないことをその仕草から滲ませていた。
なのにイヴァンときたら緊張感の欠片もなく、身体をほぐすように伸びをして、
「うーん、未だにいるんだよね〜。しかもいつもぼくなんだよ。なんでアーニャじゃなくてぼくなんだろう」
戯けて見せた。それにはアーニャも頬を膨らめせて「ちょっとお」と反論していたが、イヴァンはそれに対しても「ふふ、冗談だよ」と笑うだけだった。
時間が経過したのもあるのだろう。すっかりと顔色を良くしたイヴァンが笑っているだけで、今はいい気がしてきた。……まったく、本当にだらしのないやつだ。そんなイヴァンを見ていたら唐突に目が合って、「楽しみだね」とゆったりとした笑みが俺様に向けられる。
……つい今しがたまで痛めていた胸が、少し軽くなる。……言葉をなくしていたのは、幼いころのイヴァンを思い出してしまったからだ。……そうだよな、何百年も前に出会って、俺様の心の中の、どこか異質なところに入り込んだこいつは、こういう笑い方をするやつだった。そう思い知らされて、どこからともなく心が膨れるように心地よく痛んだ。
――そうか、俺様は、ずっとこれを待っていたのか。
おしまい
(次ページはあとがき)
あとがき
ろぷの日〜〜っ!
というわけで、またまたこんな長いお話を、
ご読了ありがとうございました!(*'▽'*)
アニャユルちゃんとイヴァギルちゃんでダブルデートしてくれ〜〜!笑
同じような二人の同じような関係性だったもんで、なんかすごいラザニアみたいになってません? 大丈夫?
ろぷのラザニア……
もうなんていうか、事の発端はとある動画様を拝見したことだったんですが……!
イヴァンちゃんとアーニャちゃんの〝分身感〟が最高にヒットして、気づいたらこねこねこねこね……。
上手く描けていたでしょうか。
今回は特に、私の感じた不気味感や違和感を得ていただきたくて、いくつかそういう仕掛けをしたお話でした。
それも含めてお楽しみいただけていたら幸いです。
今まで『人間よりの国』を書いてきたんですが、今回は真逆ですね。
『国という人外』を書いてみたかったのもあるかもしれません。
にょたりあちゃんを描くにあたって、一応エクストラディスクも履修したのですが、
イメージがだいぶ違ったので、完全に私の捏造キャラクターになってしまいました……
すみませんm(_ _)m
高坂くん、可愛くて愛おしかったです( ˘ω˘ )笑
余談も余談なのですが、
キャプション書きながら思いました。
ろぷフォーエバーってちょっと鬱な響きしません……?
あ、ごめん、しないか、すみません、スルーでどうぞ(*'▽'*)
それでは取り留めのないあとがきまで目を通してくださってありがとうございます。
初めてアニャユルちゃんを書かせていただいたこともあってか、この二人が愛おしくてたまらないです。
可愛い……百合百合してて可愛い……笑
ユールヒェンにキザなことをさせたかったんだ!!
(ギルベルトでも言ってるやつ)
強い女だいすき(脈略)
よかったらコメントやメッセージなどいただけると喜びます……(*'▽'*)
名前残したくないという方は、どうぞ拍手もご利用ください……( ´ ▽ ` )
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改めまして、ご読了ありがとうございました!(*'▽'*)
今年もろぷの幸せを全力で願って――!