そのままでいい「っ…!」
訓練用に刃を潰した剣の切先が彼女の腕を掠める。彼女は唇を噛み、顔をしかめた。訓練用の剣とはいえ、元は真剣であったものだ。実戦で刃がこぼれたものを加工してある。躊躇なく振り抜のき、肌を掠めれば容易に傷はつくものである。彼女にその刃を振り下ろす男は、そんな彼女のわずかな表情変化も見逃さないかのように鋭く目線で捉え続けていた。
その目は感情を映さない。侮蔑、慈悲、威嚇、同情、どれにも類さない。ただそこにある対象を捕らえているのみ。わかるのは、それは意図的になされているということのみ。
彼女は、その男の視線を振り解くように剣を振り上げる。
怖くないといえば嘘になる。
だが、戦場は手加減なしの場。真剣での命の削り合い。訓練であっても、心は戦場へ運び、実戦であるかのような立ち振る舞いで一太刀一太刀を繰り出していく。
「たあっ!」
彼女は威勢のいい声で掛け声をかけるとともに、跳躍を伴って男の肩口を目掛けて剣を振りぬいた。己も相手の目線に押されぬよう、意識を相手に強く向ける。
男は、彼女の軌道を読んでいたのかの如く流麗に己の剣で受け止め、そのまま彼女を剣ごと押し戻す。その間にも男の表情は変わらなかった。
「まだやるのか?」
男は地面に叩きつけられて腰を落としている彼女にそう問う。
「もちろん!」
彼女は明るい声でそう言い放ち、さっと脚をバネにして立ち上がる。そしてその勢いでそのまま男に斬りかかる。その一連の動作は流れるように素早く行われた。並の相手であればその所作のみで撃破しうるものであろう。
しかし男はその剣の軌道を見据え、前に踏み込んでいく。そして、小さな突きを彼女の脇腹へ向ける。刃先が触れるか触れないかくらいの加減だった。彼女の太刀も男の腕をわずかに掠めた。
男の剣にはわずかに肉が裂ける感触があった。彼女の瞳は己を見据えたままだが口元が歪められている。このままでは終われない、という気迫に満ちていた。腕や脇腹から流れ出る血も意識のうちに入れていない。もはや、精神のかけひきの問題になっている。
男もまた、腕に滲む血など存在していないが如く、その瞳に表情を映さない。
しばし、睨み合いで膠着状態が続いた。
それを打破したのは男の一手だった。男は剣を投げ捨てた。予想だにしない男の動向に彼女は気を乱し隙を生んだ。男はその脚で彼女の脚を払い、地面へ転げさせる。そのまま彼女の肩を掴み磔にし、投げ捨てた剣を手に取り彼女の首の横に突き刺した。
「…大将、まいった」
そこで訓練は終了となった。
「……あたしもどうしたもんかな」
彼女を男を見上げながらそう呟いた。肩で息をし、額には汗が滲む。立ち上がろうとするも腰に力が入らない。
すると、男が彼女を持ち上げて抱きかかえる。
「わあっ! いいよ、大丈夫! 自分で歩けるって」
持ち上げられた彼女は大声を上げて抵抗した。
「静かにしてくれ、ミストに見つかったらかなわん。あいつラグズ並の耳だからな、騒ぐとやってくるぞ」
そう言う男の瞳にはほのかに表情が宿っていた。
「ふふっ、それって本当なの? ミストは確かに耳がいいみたいだけど、そこまでって」
「ああ、あの鐘の音を聞き取ったときには俺も驚いたんだがな」
他愛もない話をして先程までの緊張感はすっかり薄れ、和らぐ空気を感じると彼女は安堵した。あの緊張感は嫌いではないが、男の感情を映さない瞳に少なからずも畏怖の念を抱いていたからだ。
「キルロイ、いるか? 頼む」
「…っ! アイク…君はまた…!」
男が彼女を抱えて向かった先は、救護班の天幕だった。その天幕で物資の確認をしていたキルロイが青ざめながらも治療の杖と消毒液や包帯などを取り出してきて彼女の手当てにまわる。
「ワユさんが血まみれじゃないか! ああ、ちゃんと消毒してから治療の杖を使わないと痕になっちゃうね。困ったなあ…女の子なのに」
アイクはワユを白いシーツが敷かれた床に置くと、その場に座り込む。
「…戦場に立てば男も女もないからな」
「そうだよ!」
傷を負わされた当の本人であるワユがアイクの言葉にそう同意を示す。そんな二人の言葉にキルロイはため息をつかざるを得ない。
「わかってるよ、そうだね。でも、僕の仕事はこれだからね。なるべくきれいに治させてもらうから」
「ありがと! キルロイさん!」
そう言ってワユはおもむろに服の裾をたくし上げる。彼女の素肌が腹部まで露になり、さっきまで青かったキルロイの顔が赤くなっていたのをアイクの表情をあまり映さない瞳が見つめていた。
「ああ…やっぱり、ミストにやってもらったほうがいいんだけどな…」
そう呟くキルロイだが、アイクもワユも首を横に振る。
「ワユと訓練自体やるなって怒ってうるさいからなあいつ」
「そう、ミストにも大将にも悪いからね。だからキルロイさんこれからもよろしく! 大丈夫だよ、あたしが強くなれば」
キルロイの丁寧な治療を受けてきれいに傷の癒えたワユは、自分のテントへ戻っていった。治療の一部始終を見つめていたアイクはまだその場にいた。
「…おつかれさま」
キルロイがそうアイクへ労いの言葉をかける。
「いや、あんたがな」
アイクはそのまま言葉を返す。
すると、キルロイは無言で消毒液をアイクの腕の傷口に塗る。
「手加減するのって難しいんだよね? アイクはあまり得意じゃなさそうだからね、そういうの」
「…ああ、親父はうまいことやってくれていたなと思う」
郷愁を漂わせるその言葉に呼応して彼の瞳がふと揺れる。
「よかった」
「ん?」
「アイクもそういう顔、できるんだなって。そうだよ、ここでは痛いものも痛いって言っていいからね」
「平然とした顔で立っていて、気づいたら外で倒れてるとかナシにしてね」
──三年前
戦力を二分にする陣形をとることとなった戦闘にて、一方は早駆けでクリミアの遺臣を救出を目指す部隊、一方は敵勢を引付けて迎撃をする部隊に分かれた。
救出部隊は騎兵中心で速攻を目指していた。将であるアイクもその部隊とともに進んでいたが、ごく少数の手勢とともに踵を返して迎撃部隊の方へ向かっていた。大勢の敵勢を引付けながら。
「きたっ! …にしても大将、あんなに大量に連れてきて…。よおし! やりがいがあるね!」
歩兵であるワユは迎撃部隊の陣にて作戦通り、アイクが敵勢を引き連れてくるのを今か今かと待ち構えていた。
普通の部隊なら将が囮になるなど有り得ない話である。これはアイク個人の戦闘能力に裏づけされたものと、この部隊の性質によるものであった。もともとが傭兵団を核とする多国籍軍のため、このように縦横無尽な戦闘スタイルをとることが多い。今回の場合、速攻での進軍を必要とし、先行する部隊の進行をスムーズにするため、障害となる敵勢をなるべく先行部隊から遠ざける必要があった。そのため、最も手っ取り早く敵勢を引付けるための囮が必要であったが、それを将であるアイクが自ら買って出た。
叙勲を受ける前、傭兵団としてのみ戦闘をしていたときのスタイルを踏襲していてその経験からのものである。
将が囮であるということは効果絶大であった。わざと名乗りを上げて地位を示し将軍位の軍装を身にまとった少年のもとに、戦果を欲する兵が本来の命であるクリミアの遺臣の首を忘れ、次々に突進していった。
アイクは敵勢の攻撃を受け流しつつ、迎撃部隊の待つ陣へ後退していく。引き連れてきた手勢は騎兵であるため、敵勢の騎兵のスピードと程よく合わせられる。アイクは歩兵であるが、ある程度敵勢に囲まれそうになると、ともに戦っていた獣牙族のライの背に乗り離れながら、応戦していた。囮として、敵勢に追いつかれそうで追いつかれない絶妙なスピードだった。迎撃部隊の後方には岩壁がそびえていた。迎撃部隊の手勢は少数であるため、背後に岩壁を頂く形に陣を敷いている。
迎撃部隊との合流を果たすとあとはひたすら掃伐あるのみである。ここに来るまで敵の攻撃を受け流すのみだったアイクも確実に仕留めるつもりで一太刀一太刀を繰り出している。
自らも俊敏な動きで敵を捌いていくワユはその光景を横目に感嘆の息を漏らす。と、同時にアイクが敵魔道士の放った魔道の炎の中に飛び込み、剣圧でそれを振り払うのを見た。その炎は傍らの獣牙族に向けられていたものだった。
炎の直撃は免れたものの、焦げた匂いがそこを通り抜ける。アイクの右脚を炎の断片が掠めたらしく、衣服が焦げて素肌が見えていた。
それでも彼の表情は痛みも映さず、ただ戦局を見据えるのみだった。
ここまで敵を引付けてくる間にも普通ならば一人で応戦する数ではない物量の敵勢と応戦してきていた。ここにきてまた最も敵勢が集中して攻撃してくるため、相当な物量の敵勢と応戦している。
ワユはアイクが仕留めそこねた敵を確実に仕留めながら、そんな中にいる彼の表情を伺い見る。そこにはやはり、高揚も恐怖も何も映さない瞳があった。表情から次の手を読むのも困難で、恐れを映さないため脅威を感じさせる。そのような表情のためか、あれだけの戦闘をこなしてきたのに疲弊を感じさせず、怪我もものともしないように感じさせ、化け物じみた印象を与えるのだが、よく見ると左腕からははっきりとわかるほどの流血をしており、右肩に矢傷を受けた痕があった。
あまりにも平然と敵勢を捌き続けるアイクの姿に感覚が麻痺してしまいそうになると彼女はそう感じた。
敵勢にも焦りが見えてきて、攻撃はアイクへの一極集中と化してきた。アイクは岩壁を背に敵を引付け、応戦していた。傍から見ると将が敵勢に囲まれてかなりの危機的状況のように見える。
あわや、というタイミングでアイクは剣を掲げると突如地に体を伏せた。
それは一瞬だった。
アイクを取り囲んでいた敵勢が唸りを上げて発生した巨大な魔道の風で岩壁に叩きつけられる。その風の発生元には黒衣の魔道士がいた。
素早くその場から立ち上がり、敵勢の山の中から抜け出したアイクは剣を振りかざし、掃伐と捕縛を指示した。
あとは先行してた部隊と合流して遺臣を救出すれば戦闘が終了する。アイクはそのまま囮部隊として同行してきたオスカーの馬に乗せてもらおうとする。
「ちょっと待って大将!」
ワユがアイクに白い手布を投げて渡す。
「ああ、すまん。助かる」
アイクは受け取った手布を左腕の傷口に巻き付け、一方を口で咥えて一方の手できつく結び、応急処置をする。白い手布はあっという間に赤く染まった。
「アイク、あまり無理をしないで下さい」
先ほど風魔道を発動させた魔道士セネリオがそう、心配気な顔で告げると初級回復魔法を施した。彼は元々攻撃魔法が専門であり、最近覚えた回復魔法はまだ不安定なものであるため、開いていた傷口をなんとか塞ぐ程度だった。
「さっきはオレが油断しててすまなかった、助かったよアイク。あとはオレたちに任せてくれ」
化身を解いてライが拳を作りながらそう言い放っていた。
無事にクリミアの遺臣を救出し、残党も降伏させた後、部隊は城を拠点とし休息を取っていた。
「大将、痛くないの? それ」
迎撃部隊と再び合流して、その中にいたワユと顔を合わせたときの第一声がそれだった。
「痛くないといえば嘘になるかもな」
そう言いつつも平然とした様子でアイクはそう返した。
「あ、悪いなこれ」
アイクは先ほどワユに渡されて止血に使っていた手布を外して彼女に返す。
「えーっ! いいって! いいって! っていうか外しちゃダメだって大将!」
手布を外したその傷口は、セネリオの回復魔法のおかげで塞がってはいるものの、血の固まりを残し今にも再び開きそうになっていた。
「お兄ちゃん! バカー! もう! 早くこっちに来て!」
駆け足でその場にやってきた妹のミストがアイクの手を引っぱり、救護室へ連れて行った。その勢いでアイクが一瞬よろけたのをワユは見逃さなかった。無意識に右脚を庇っているように見えた。
救護室には衛生班の神官たちが負傷兵の手当てをしてる光景があった。
「いや、大丈夫だ。俺はいい。軽度だからな。他の奴らの手当てをしてやれ」
その光景を目にしてアイクはミストにそう言い放つ。
「何言ってんの! お兄ちゃんを放っておけるわけないでしょ!」
「二人とも、どうしたの?」
兄妹が言い合っていると、そこに救護物資を抱えてきたキルロイがやってきた。キルロイはアイクの怪我の様子と救護室の様子を見て、事態を把握した。
「…わかったよ、ミスト。アイクはあっちの部屋で治療するからね」
「…頼む」
キルロイの提案にアイクがあっさり了解したのを見てミストは少し不満気だった。
「なんで、お兄ちゃん…キルロイの言うことはあっさり聞くの!」
その部屋は他の負傷兵はいない、宿舎としてあてがわれた部屋の一室だった。
「わ、私にもやらせてよ、お兄ちゃんの手当て。包帯の巻き方も治療の杖もだいぶうまくなったんだから!」
アイクはそんなミストの言葉をよそに、外套を外し、軍服と軍靴を脱ぎ、肌着だけの姿になっていた。
「…これ、直しておいてくれないか。あまりボロを着ていると将軍だと思われなくなる。思われなくても別にいいが、士気や作戦に関わるらしいからな。せっかくエリンシアに仕立ててもらったものだし悪いだろう。もっとも、もう袖がなくなってしまってるが…」
ミストはアイクから投げ渡された服を受け取り、渋々了解した。
「…キルロイ、お兄ちゃんをよろしく」
「うん、わかったよ。大丈夫」
その言葉を聞くとミストは部屋をあとにした。
「…さて。アイク…無理をしたね」
そういうキルロイの目線の先には寝台の上に大の字に転げているアイクの姿があった。
「多少…な」
キルロイは先ほど抱えていた救護物資の中から消毒液を取り出し、アイクの左腕の傷を拭いていく。
「…っ!」
傷口に消毒液が沁みる。アイクは戦場では決して見せない苦痛の表情を見せた。
「いくら回復魔法で処置するにしてもちゃんと消毒しないと化膿して痕になるからね。さ、いくつ傷があるの? あ、脚に火傷まであるじゃないか。だからか、ちょっと歩き方がおかしかったよ」
神官の使う回復魔法はヒトの持つ自然治癒力を促進させて傷を癒すものである。なので、化膿した傷をそのまま回復魔法で癒すと傷跡が残ってしまいがちになる。戦闘終了後に適切な処置を施した後、治療の杖を用いるのが理想なのだが、戦場ではそうもいかず、速効性を重視するためそのような処置を施さずに杖が用いられる場合が多い。
キルロイはてきぱきと左腕の傷の処置をしていくと、右足の火傷に水で冷やした布を乗せる。
「まいったな、あんたの目は誤魔化せないな」
アイクは肌着を脱いで、右肩の矢傷も晒す。
「矢は抜いたんだがな、なにせ後ろだからどうなっているかわからん」
「よかった、神経にまでは届いてないみたいだから。でもこれは痕になるよ…」
そう言ってこの傷にも消毒液で処置していくキルロイ。
「神経がやられてなければ別にいい」
「…まあ…女の子じゃないからね、いいんならいいけど治療している身にしてみればあまりいい気はしないよ。見るたび傷が増えていって…」
「…いっ!」
消毒液が沁み、刺すような痛みを感じたアイクは小さく声を上げた。
「痛いかい?」
「…痛い」
アイクは項垂れてそう、キルロイの問いに答えた。
「よかった。ちゃんと痛いって言ってくれて。…うん、わかるよ。戦場ではそんな顔見せられないって。兵たちの前でもだよね。アイクがあんな顔で戦うようになったのって団長が亡くなってからだったかな」
先ほど、大勢の負傷兵が治療を受ける救護室に入らなかった理由はいくつかあった。立場上、一般兵と同じ場所で治療を受けるわけにはいかない。そう言われたとき立場的なものは全く気にしないアイク自身は腑に落ちないようだったのだが、兵たちの士気に関わると気づいたときにはそれが最も大きな理由になった。
『常勝将軍』の生々しい治療風景は見せられないのである。
士気にはイメージというものが大きく関わっている。それを少しでも削ぐようなら別室で治療を受けるべきだと思うようになった。
「不死身のアイク将軍、か。俺はまだ親父に及びない。そんな親父も死んでしまうのに俺が不死身なわけはない。俺は圧倒的な強さを持っているわけではないから弱さを見せられない、それだけだ」
そうは言っているが、非戦闘員であるキルロイでもアイクは卓越した強さを身に付けているように見える。戦場におけるカリスマ性も十分である。しかしこれは本人の心の問題であろう。
まだ少年といってもおかしくない年であるアイクが背負っているものはあまりにも大きすぎる。この一年で彼は、特に彼の父親が亡くなった後は濃縮された時の流れを飲み下したかのような成長をしていった。斬り捨てた命の重みについて考えることを許す時間もないままに。
いつか、自分のところに治療を受けに来たワユが、戦闘中のアイクの瞳に畏怖の念を抱いていることを告げたことがある。同じ剣士であるために、戦渦に身を置く彼の姿を間近で見ることが多い彼女である。
「大将さ…何処かに往ってしまっているのかなっていう目をしているのね。いろいろと分からなさ過ぎて怖いときがあるんだけど…」
いつも細かいことは気にしない、が口癖で信条の彼女の口からこのようなことが出たのが驚きであった。彼女の口からこのようなことを聞いたのは後にも先にもこれっきりであるが。
「ワユさん、アイクは大丈夫だから」
多くは語らず、ただそう返すしかできなかった。彼と同じ戦場に身を置くワユにですら、彼の真意は教えられない。
自分は非戦闘員ではあるが、男だ。
「特に、ミストには見せられないんだよね」
項垂れているアイクにキルロイはそう返した。その言葉にアイクはさっと顔を赤くした。その様子に年相応の表情を垣間見て、キルロイは柔らかく笑んだ。
「こんなのは俺だけで十分だからな。あいつにはあまり変わって欲しくない。俺に図々しいだとか、鈍いだとか言っていればいいんだ」
彼もまた少年、だけど男だ。
「…そうだね」
キルロイはそれ以上のことは言わなかった。言えなかった。
そうしている内に、キルロイは右肩の矢傷を処置すると、回復魔法を施し、右足の火傷に薬草を包帯で固定し処置を終えていた。
「ありがとう、キルロイ」
アイクは治療が終わったことを確かめると、礼を言い、肌着を着け、替えの上着を着込むと一瞥をくれてから部屋を後にした。部屋のドアが閉まったところで彼は帯布を額に巻く。
その帯布が固く結ばれるときはその手に剣を握るとき──
「…あの、アイクの奴どこにいるか知らない?」
アイクの治療が終わり、再び一般兵の治療が行われている救護室に戻ったキルロイは、青い猫の獣牙戦士にそう問われた。
「ライさん、アイクは…さっき僕が手当てして…それから見てないけど部屋に戻ったのかな?」
「いや、部屋にはいなかった」
そうライが返すと、二人はしばし沈黙した。
「…探してくる」
「その方がいいですね…ああ、ちゃんと休むように言っておけばよかった!」
ライはこの軍に加入してまだ間が短いが、その人懐っこい性格で人々から聞きまわったこの軍でのアイクの様子を思うと、彼のしそうな行動は予測がつく。何より彼は自分の親友だ。
再会したばかりでまだあまり積もる話もできていないし、昼間の戦闘で庇われたこともあったので、彼の顔を見たかった。
鍛錬か、兵の慰労か…
彼のしそうなことはこのあたりだろうと思った。先に訓練所を覗いてきたが彼の姿はなかったので、後者の方だと思い、城内をうろうろとしながら彼の姿を探す。城外にも天幕があるのでそこまで行っているのだろうかと思い、外へ出た。
行く先々で彼が訪ねてきていないかと問うが、いずれも彼が立ち去った後であった。
(…ちっ、見事にすれ違いかよ!)
最後にもう一度訓練所を覗いた。やっぱり誰もいない様子だと思ったが、思い返してもう一度訓練所の床を見た。この訓練所には灯が点っておらず、頼りになるのは柱の間から漏れてくる月明かりのみであったが、夜目の効くライにとってはそれでも十分だった。
月明かりの元にあったのは床に転げている一振りの訓練用の剣と、その剣の持ち主であった。
「おいっ! アイクっ! お前なにやってんだよ!」
剣と一緒に床に転げているアイク自身の体をライは抱き起こし、声をかけた。
「…あ、ライ…。俺は…」
アイクはうっすらと瞳を開けて、自分を抱きかかえているライを見上げた。
「まだ、終わってない、あと500回…」
どうやら、兵の慰労の後、日課である鍛錬の素振りをしていた途中なのだろう。
「…バカ! こんなときにやることないだろ!」
「…やらなきゃいけないんだ、俺はまだ弱い…。今日だって、漆黒の騎士に手を出すことだってできなかった」
実は、アイクが囮として迎撃部隊の陣に戻ってきた際、父親の敵である漆黒の騎士が突如視認できる距離に現れたのである。想定外の出来事だった。作戦の遂行が優先であったため、対峙することが叶わなかったというのが大きいが、近づく余裕がなかったというのもある。
「そいつとはまた戦える日が来るって、きっと! 俺は敵わなかったけどお前ならきっと倒せる! でも今は休め」
ライは港町トハで一度漆黒の騎士と対峙しているので相手の力量は存分に心得ていた。
「っていうか…お前、ちょっと熱あるんじゃないか」
ライの手がアイクの首筋から首元にかけて触れる。その手に熱を感じた。
「ああ、厄介だ…心に体がついてきてくれないな。いっそラグズになればついてくるかな、体は…。もっと肉を食うか」
アイクは瞳を歪めて口元を少し上げてそう呟いた。
「もう…本当っ、無理すんな。お前はお前のままでいいよ」
そう言い、ライはぐっとアイクを抱きしめる。
昼間の戦闘の傷はキルロイの治療で癒えたが、体力までは回復しない。あれだけの敵勢を相手にし、しかも自分の首を囮にするという過酷な戦法で戦い抜いた後なのに、休息もせずにいた親友の姿を見てライは胸が詰まる思いだった。自分が食らったら致命傷になる炎魔法から身を挺して庇われたのも手伝っている。
炎の断片を被弾したはずの右脚の裾をたくし上げてみたら、痛々しく包帯が巻かれているのを目の当たりにした。
「…大げさだろ? 別に歩くのに支障は…ないぞ」
弱々しい声でアイクはそう言うが、説得力がない。
「ああっ、もういい。何も喋るな、お前はもう寝るんだ」
ライはその手で彼の額に巻かれている帯布をずり下げて彼の目に掛けた。そしてそのまま彼の寝室へと運ぶ。
通りがかりにキルロイに出くわした。
「…アイク…やっぱり君は…」
「ああ、兵舎を回った後、素振りしてた。あと500回とか言って…訓練所でぶっ倒れてた」
ライに抱きかかえられながらアイクは寝息を立てていた。
「誰にも気づかれないようにこっそりと戻ってくるのにちょっと苦労したんだ」
「ありがとう、僕じゃこうはいかないからね」
非力なキルロイにとっては、眠っている人間を腕に抱えて運ぶことは困難なことであった。倒れているアイクを見つけても誰かの手を借りることになっただろう。
「神官殿もこんなに丁寧にこいつのことを治療して…それこそオレにはできない。ありがとう。特に今日はオレを庇った傷があるから…」
「僕もまだまだだったね、だいぶアイクの本音を聞けているかなって思っていたけど、やっぱり何も言わないで動いてしまうんだ。まあ、そうするだろうということは思わないわけではないけどね」
互いにこの少年の弱音のようなものを聞いている。心の奥底でそんな意識の共有が図られた。そして互いに、自分が聞いていないものを片方が聞いているのだと思った。
──そして今。
「お兄ちゃん! またワユさんをひどい目にあわせたんだって!?」
キルロイの投げかけた言葉に対して沈黙していたアイクは、その一声ではっと顔を上げた。
「わあっ、ミスト」
驚きの声を上げたのはキルロイだった。
「言ったじゃない! ワユさんは女の人だから傷モノにしちゃダメだって!」
ミストは天幕にずかずかと入ってきて、捲くし立てるようにそう言った。
「どうしてわかったんだお前」
顔色を変えず、アイクがそう問う。
「水浴みをしないかって誘ったら、今日はいいって言って…。もしかしてって思ったらやっぱり!」
女性の勘は怖い、そう思ったキルロイだったが
「そうか」
アイクはその一言で返していた。
「そうか、じゃないわよお兄ちゃん! もう、本当っ…無神経なんだからっ」
「何がだ?」
その光景を見てキルロイは忍び笑いをしていた。そして、三年前に聞いた『あいつにはあまり変わって欲しくない』というアイクの言葉を思い返し目を細めていた。
─了─