父娘金次第の沙汰でどんな依頼も受けるという男。しかし、気に入らない依頼には法外な値を掛ける。その仕事の値は男の価値観そのものだった。
依頼主が死亡したが続行されている案件がある。
それは報酬を懐に入れたまま破棄しても男にとってなんら不利益もないのだが、男は終わりまで見届けようと思っていた。
むしろ依頼主が死亡したからこその案件だった。
天幕にて男は花の香を纏う少女と対面する。
彼女の年の頃は、壮年である男が成人した頃直ぐに子を為したとしたら、今日まで成長したくらいだ。
「次のあんたの仕事は以上だ。よろしく頼む、フォルカ」
「了解」
彼女の指示を聞き、男は短く返事をした。
「……あんたも何も言わないよな。だよな。あんただからだろうけど」
そう呟き、彼女は両手首の匂いを嗅ぐ。そしてちらりと男を見やる。
「おまえのその香がちょっとした騒動を起こしてることくらいは把握している」
男は彼女がクリミア王女から賜った香水のことを指して言う。彼女がその香を纏ったことにより、彼女を取り巻く人間が少し色めき立ったことも。
「そうか」
そう相槌を返す彼女の頬はほんのりと赤みが差していた。ふっくらと柔らかさを見せる唇と相俟って可憐な印象を与える。男を見上げるその大きな蒼い瞳は長い睫毛に隈取られていた。
男はそんな彼女の服装を注視する。
任務時に着用している将軍位の軍装は解き、薄手の上衣のみになっていた。それは肌着に近い。晒布が緩められているのか、ふくよかな胸が際立っている。上衣の襟首の紐が緩められており、その撓わな胸の谷間が見える。下衣も脚の線がよくわかる細身のものだった。
「感心せんな」
男はそう声を発すると、流れるような所作で彼女の腕を取り、押し倒した。彼女は特に動じることもなく、素早く受け身を取り、脚を振り上げる。そこで男は身を退いた。そして彼女は勢いよく起き上がり、構えの姿勢を取り、近場の剣を手繰り寄せた。
男はそんな彼女に厚手の上着を放り投げた。
「完全に眠りに就く前まで着衣を解くな。特に男の前で肌を出すな」
「やれやれ。特に最近、あんた…いつもそんなんだな。まあ、体術は覚えることにこしたことはないからいいが」
彼女は少し不機嫌そうに言い、上着を着る。
「おまえは最近、そのような格好で男と対面してどうなったか思い返してみろ」
男がそう投げ掛けると彼女は首を捻り出した。
「うーん……。あ、そういえば。ああ、シノンだ。でもなんか後退ってどっか行ったけどな」
彼女は以前、薄手の夜着一枚で水浴みに行った際、警備の当番をしていたその男に捕まった。天幕に引き込まれ、押し倒されたのだが、突然後退りし、天幕から退出していった。
男は彼女のその答えに心の中で反応した。
シノンを退出させたのは男自身だからである。投擲用の短剣で背を刺したのだ。
「…どうした? フォルカ」
彼女は男の微かな表情の変化を見逃さない。表情を滅多に崩さない男であったが、彼女の観察眼は非常に優れていた。
「花の香は人を惑わす。これからはより一層用心しろ」
「……そんなもんなのか。あんたは惑わされないよな」
そう諭され、彼女は少し眉を歪めて男を上目遣いで見つめる。
(おまえ、それをおまえに気のある男どもへしてみろ。惑わされないどころの騒ぎじゃない)
男の中で煮えたぎる想いが沸いて来る。
「親父もきっと気づかないんだろうな、これ」
少し寂しげに彼女はそう呟いた。すでに他界してしまった父のことを指し。
彼女は幼い頃より傭兵として身を立てていくために父から厳しい訓練を受けてきた。気絶するまで剣の稽古をし、戦場で生き抜く術を教えられた。
黙々と鍛練をこなし、彼女は成長していった。
女らしい粧いなど殆どしたことがなく。父からそれを求められることもなかった。剣技の上達を褒められることはあっても、女としての魅力について触れられた記憶はない。
「可愛いぞ」
「似合ってるぞ」
そんな言葉は妹へ掛けられていたのは記憶にある。
そして、一度だけ副長から人形のように愛らしい粧いを施されたことがあるが、父に見せる前に団員の男に貶され、それを解いてしまった。
「やっぱり俺には似合わないよな」
少し自嘲を含んだような笑みを浮かべて彼女はそう男へ言った。
男は彼女のその一言にこれまでの彼女の境遇が反映されていると思った。
(あの粧いを先にグレイル殿へ見せていればもしかしたらおまえは戦場に立つこともなかったかも知れぬな)
男は、情報収集のため接した副長からの話を思い返す。
「だからグレイルは鈍いのよ……!」
「アイクがどんな気持ちでいたのかってわかってたのかしら……」
大分酒が回ったのだろうか、グレイル傭兵団副団長の女性がそう語気を荒げて吐き出していた。今までこうして愚痴を言う相手もいなかったのだろう。相当溜まっていたようだ。
男はあるとき、情報収集の一環で副長へ情報交換を持ち掛けた。
もともと、彼女はアイクが男を雇用する際、その素性の怪しさから反対していた。しかし男が的確に任務を遂行していくうちにそれなりの信頼は得られたようだ。そして、男はグレイルに関する話を提供するということで、副長からアイクの話を聞くことができた。酒の場ということで口が滑らかになっていた。
(この女はグレイル殿に気があったのだろう)
話に混ざるグレイルに関する話し振りからそれが読み取れた。大体、この歳の頃の女性が独り身で傭兵団の副長として身を窶して操を立てていることからそうなのではないかと思われた。アイクに母がいないことから、この副長がさしずめ母のような存在であったのだろう。
「あの子だってちゃんとすれば可愛いんだから。ええ、それはお人形さんのように……。一度ちゃんとさせたのよ、でもシノンが……」
あの赤毛の男の名が出た。男はその名を心に留める。
「あれをグレイルに見せていれば……。でも、グレイルは何をどう思っているのか分からなかった。あの子にだけあんな厳しい試練を課して。見えないところで泣いていたあの子の姿を思い出すわ……」
男は、この女はアイクに自分を重ねている節があるのではないかと思った。叶わぬ想いを抱えてこの女はこの先も生きていくのだろうと思った。
「でも、愛がなかったわけじゃないと思うわ。むしろ、とても深く。きっと」
そう呟く副長の目は優しげに笑んでいた。そしてグラスの氷がカランと鳴る。
──それはある雨の夜。
アイクは健康で滅多に体調を崩すことなく、元気な子供だったが、珍しく風邪を患っていた。なかなか熱も下がらず、苦しそうな咳を繰り返していた。
「ティアマトさん、おねえちゃんだいじょうぶ?」
妹のミストがそう副長のティアマトへ聞いてきた。
「大丈夫よ。ちゃんとご飯は食べたからね」
「……よかった。でも、わたし、今日はおねえちゃんと一緒の部屋にいちゃダメって」
雨足が激しくなってきた。一瞬、窓の外が光り、遅れて激しい音が落ちてきた。ミストは怯え、ティアマトにしがみついた。
「ティアマトさん…今日は一緒に寝て。おとうさんもそうしなさいって言ってたの」
泣き出しそうな目でミストは見上げながらティアマトへ訴えてくる。
「わかったわ、私の部屋にいらっしゃい」
ティアマトは優しくそうミストの背を叩きながら言った。
そして、ミストがすやすやと寝息を立てた頃。
ティアマトは静かに起き、そっと部屋を出た。まだ止まぬ雨の音を聞きながら、熱にうなされ一人暗い部屋で震えているだろうアイクのことを思った。
(アイクは確かに強い子よ。でもね、こういうときくらい誰か傍にいてあげてもいいじゃない)
グレイルは、同室のミストに風邪が移らぬよう、ティアマトへ任せたのだろう。だが、そうするとアイクは一人きりだ。
ティアマトはそんな思いを胸に子供部屋の扉を静かに少しだけ開けて様子を見た。
(……グレイル…)
そこにはアイクの父が寝台横で椅子に腰掛け、じっと彼女の寝顔を見つめている姿があった。そして桶に汲んであった水に温くなった手布を浸し、絞り、彼女の額に乗せた。
それを見たティアマトはそっと扉を閉めてその場を立ち去った。
そんな雨の夜の出来事を話すティアマトの目にうっすら涙が浮かんでいるようだった。男はそのような話を聞いて、自分が請けた依頼を思い出す。そしてそれが本気のものなのだと再認識した。
男は彼女とある契約を結んでいた。
それは、青銅のメダリオンに触れ、負の気により彼女が暴走してしまった際、その命を制御すること。
男は元々、彼女の父からの依頼を遂行するということで近付き、彼女の私兵として雇用されていた情報屋だった。後に正体を明かし、暗殺を生業とする者だと告げた。
彼女の父からの依頼とは、メダリオンに纏わる調査結果を告げること。彼女の父が死亡した場合、それを彼女へ告げるということになっていた。
彼女は男が提示した額面の金を用意し、それを受けることができた。それで男の仕事は達せられたことになるのだが、ここで糸が切れるわけにはいかなかった。むしろ彼女の傍にいる必要がある。そこで、メダリオンに絡めた案件を彼女に持ち掛けたのだ。彼女の父も男とその契約を結んだといい。
彼女は男のその話を受けて、父と同じ契約を結んだ。
彼女の父からの依頼はまだあった。
それは墓まで持っていくつもりのものだ。
それを遂行するため、男は彼女の傍にいる。
男は副長から聞いたグレイルからアイクへの想いと依頼を請けた当時のグレイルのことを思い出していた。
「これで俺の依頼を請けてくれるな、フォルカ」
己の利き手の腱を切ったそのひとは血を流しながらも笑みを浮かべてそう男へ言った。
「ガウェイン殿、あんたはある意味狂ってるな。だが、それで俺の刃が通用するのであれば理に適っている。それを本当に実行する者はそういないが」
「……その名は捨てた」
「了解、グレイル殿」
グレイルは元々デインの四駿と謳われた騎士だった。神騎将の異名を持つ。デイン国王アシュナードの陰謀に気付き、妻とともにメダリオンを持ち亡命したのである。そして、あるとき事故でメダリオンに触れてしまい、負の気に取り込まれ暴走してしまった。匿われていた村の住人とデインの追っ手を惨殺してしまう。それは彼の妻が身を挺して止めたのであった。その結果、自らの剣で妻を刺し絶命させてしまったのである。
その後、メダリオンは妻同様正の気が強い次女のミストへ所持させ、他の誰にも触れさせないように務めた。そして神騎将と謳われたその名を捨てた。以後、傭兵として細々と身を立てていくのである。
それでも念を入れてグレイルは男へ有事の際はその命を制御するように依頼した。しかし、グレイルの戦闘能力は伝説級に並外れているのを知っていたため男は一度その依頼を断ったのである。
──それで利き腕の腱を断ったのだ。
腕の傷の処置を済ませた後、男とグレイルは酒場へ向かった。グレイルはこれで酒は生涯のうち最後にするというので男は付き合いがてら他の依頼についての話をした。
蒸留酒の入ったグラスが二つ。その一つが空になる。そして新たに注がれ、再びその量を減らしていく。
「いいか、フォルカ。俺は今、酒が入ってるがこれは本当の依頼だからな。ちゃんと報酬は渡す」
グレイルはそう宣言した。男は小さく頷いた。
「……俺の娘を護ってくれ」
赤ら顔だがそう真剣な目で言い放つグレイル。
「もし、俺がこの世の者でなくなった場合のことは先に言ってあるよな? 例の件は俺の娘…アイクの方へ告げてくれと」
メダリオンの調査結果を報告する件を指した。
「もうひとつ。俺が死んだらアイクを護ってくれ。例のものを持たせているミストには剣も握らせていない。だからミストはアイクに護らせることになる。でもアイクは護ってやれない。で、だ」
この言葉を聞いて男は内心、少し笑いが込み上げてきた。しかし表情は崩さず。
「あんたが死んだらどう報酬を受け取ればいい?」
それだけを問う。
「例の件についてはアイクが額面の金を用意できて受け入れる意志があるか否か、だ。それと手付け金は渡してあるだろう? で、その件に関しては……」
グレイルはしばし思案する。
「娘をやろう」
そこで男は酒を噴き出すところだったが堪えた。
「ミストは女らしい嗜みを身につけさせて、性格も明るい子だ。年頃になればいい男に大事にされるだろう、きっと。……アイクは厳しく訓練させてなかなか男勝りに育った。相手の男は少なくともアイクより強い男がいい」
男はグレイルの顔を見やる。いたって真剣な表情だった。
「理想は俺より強い男だ」
そう言い、グレイルはぐい、と杯を呷った。男は無言で空になったその杯に新たな酒を注ぐ。
「俺が死ぬ、ということは例の契約が遂行されている可能性がある。ならば…フォルカ、おまえが俺を倒したことになるだろう。だからその場合はおまえが相手として理想ということだ」
グレイルのその理論に男は苦笑いしそうになった。酒が入っているからなのだろうか。しかしここまで筋道立てているということは前々から考えていたことであろうからおそらく本気なのだろう。
「俺の意志はどうなる」
思わずそう言葉を挟んだ。
「おまえ、俺の娘に価値がないとでも? 一度見ただろう? エルナ譲りの綺麗な髪と瞳だ。この世に生まれ出たとき、俺は咽び泣いた。どんな宝珠より輝き、かけがえのないものだと。何処の国の姫より美しい」
これでグレイルが呷った杯は何杯目だろうかと男は思った。
「よし、俺の娘の婿候補に教えてやろう。あのな、アイクという名は愛称なんだ。本当の名は……」
そして男はその名を耳にする。
「な、姫のようだろう」
笑みを浮かべてそう同意を求めるように言い放つグレイル。
「何故普段からその名で呼ばぬ」
男はそう返した。
「……! それは聞くな……」
グレイルは武骨な手で顔を覆い、そう答えた。酒のせいか照れのせいか耳まで顔を赤くしていた。
「ともかく、くれぐれも頼むぞ…! 特に、アイクへ纏わる悪い虫は排除してくれ……!」
そうして酒が深くなってきた頃、男はその依頼を胸に留めグレイルの前から姿を消した。
この件については、実際にグレイルが死亡するまでは保留にしておこうと思った。
そして男はその契約を遂行することになった。
ただ、彼女の父を葬ったのは男自身ではなかったが。
それでも契約は遂行しようと思った。
「なあ、フォルカ。俺は、皆をこの手で殺してしまうことがあるならば、俺ひとりが死んだほうがいいと思う。そしてあんたも生き残って欲しい」
それはメダリオンに関する案件を持ち掛けたとき、彼女が言った言葉だった。そういえば、彼女の母も身を挺して夫の暴走を止めていた。その命を以ってして。
男は彼女の父の亡命を手助けをした際、一度見たことがある。そのひとの姿を。
そのひとは男の正体を知っていた。それでも慈悲深く微笑みかけてきた。メダリオンに触れられるというほどの正の気の持ち主だ。闇に生きてきた男はその気に中てられそうなほどだった。
その深い蒼が男を否定もせず肯定もせず見つめていた。ただ、あるがままを映すかのように。その蒼はどんな宝珠よりも美しかった。
「そう、あなたは人の命を糧としているわけね。野の獣も同様に生きているわ。獣と違うのは、死して悲しむ者がいるか否か、だと思う。私は今、こうしてあなたの人生の一地点に立った。だから私はあなたの死を知れば悲しみを覚えるでしょう」
そんな言葉を投げ掛けられた。そのときの深い蒼が忘れられなかった。先に死したのはそのひとであったが。そしてそのひとの命を奪ったのは己の依頼主……すなわち、そのひとの夫であったのだが。
そのひともきっと、あの花の香が似合っていただろう。
男はそのひとの娘が纏う花の香を嗅いで思った。そしてあの契約は遂行される。
(報酬はこれだけでいい)
たおやかに咲き誇ったその花を愛で。
その花が綺麗に咲いているだけでいいと思った。
実を結ぶのを見届けよう。
「似合う、似合わないはおまえが決めることではない」
男はそっと彼女へそう告げた。その花の香について。
「分かるだろう、おまえの周りの騒々しさを聞けば」
静かにそう、筋が通った答えを与える。しかし彼女は不服そうだった。
「あんたはどう思う?」
「……十万だ」
答に掛かる額面を提示する。それを見て彼女は僅かに口端を上げた。
「あんたは、似合わないなら似合わないとはっきり言うだろう?」
彼女のその言葉に男は目を見開いた。
「……おまえの父親がおまえが粧いをすれば喜ぶか否かはおまえの本当の名に込められた想いを汲めば分かると思うが」
今度は男のその言葉に彼女が目を見開いた。
「あ、あんた……何故それを……!」
彼女は顔を紅潮させて言い放った。男はそれには応えず立ち去った。それを追って彼女は天幕の外へ出るが、すでに男の姿はない。
「よう、アイク。何やってんだ?」
そこへすっと獣牙の青年が尻尾を揺らしながら現れる。
「なんだ、ライか」
「まったく…また『なんだ』って言ったなおまえ」
ライは軽く笑い、彼女の肩を叩く。
「あのさ、ライ」
「なんだ?」
彼女はちらりとライを見上げる。
「十万ってどう思うか?」
「ん?」
「高いか? 安いか?」
唐突な問いではあったが、ライはその意を汲んだ。何しろ、先程の彼女とあの男の会話を立ち聞きしていたからである。彼はなるべく暇を見つけては彼女の元へ立ち寄っている。
「何に対しての十万だよ」
「あ、いや……その、いい。忘れてくれ」
どうやら勢いで聞いてしまったのだろう。照れが出たのか口ごもる彼女が可愛いとライは思った。そして
「オレはこの匂いを嗅げるなら十万は安いと思うな」
彼女のうなじに鼻を埋め、ライはそう答えた。そのままぎゅう、と抱きしめたかったがそれは止めておいた。
「そうか。そんなに疲れが取れるのか。おまえは得な奴だな」
返ってくるのはそんな言葉。どうして自分にはこんなに色気のない答えなのだろうと思うライだったが、それだけ気の置けない仲だということに思うようにした。
「ならどんどん嗅いでくれ」
彼女の頭がくい、と後ろへ傾けられライの頭に乗っかった。その重みは幸せの重みだとライは思った。
(アイクはオレが幸せにしてみせるぜ、おっさん)
心の中であの男に宣言をする。
その宣言を聞いたわけではないが、木陰に潜む男はそんな彼らの姿をじっと見つめていた。
男はライが彼女に手を出そうものなら短剣を投擲したかもしれない。だが、彼女の穏やかな顔を見てその必要はないと判断した。
そしてそのまま闇へ溶けていった。
─続─