追憶の美酒その帰りを一番待ち侘びていたのは誰だろうか。
砦の扉が開き、逆光に。
その体躯はかつての彼の父のように大きく。
三年でこうも成長するだろうかと、その間彼を目にすることのなかった者は思うだろう。
「おかえりなさい、お兄ちゃん!」
ここはグレイル傭兵団砦。
現団長であるアイクが久々の帰宅となった。団員の居城でもあるこの砦は彼にとって居心地の良いものである。
彼は三年前のデイン=クリミア戦役にて総指揮を執る関係上、爵位を授かり、戦争終結後も現女王を補佐すべく王宮務めをしていた。
「これで俺は晴れて平民に戻れた」
この言葉通り、アイクは爵位を返上して市井に下った。否、元通りになったのだ。
王宮務めは女王が一人立ちできるようになるまでと、もとより決めていた。最後の仕事を終え、きりのいいところで王宮を出た。
そんな兄を妹ミストはにこにこと出迎え、他団員たちも口々に彼を労い、歓迎する。
そんな中、ただ一人目線を大きく逸らし背を向ける者が一人。
「別にずっとお貴族様でもよかったんだぜ?」
小声で皮肉を投げる。
「シノン!」
それを咎めるようにミストが彼の名を呼んだ。
シノンは椅子に深く腰掛け、凭れ掛かるように宅へ肘を付き息を吐いていた。
それを相変わらずだと、緩く笑みを浮かべて見つめたのは副長のティアマトであった。
ティアマトはシノンがアイクが帰ってくるまでの間、二本の指で交互に延々と卓を叩いてたのを見ていた。短気な彼が痺れを切らしているときによく見かける仕草だった。
「それにしてもアイク、髪伸びたわね」
ティアマトがそう指摘するとアイクは目を眉間に寄せ指で髪を弄った。
「かまう暇もなかった。こっちにも久々に帰ってきたからな。さすがに邪魔だと思ったがそれを考えるのも面倒で」
目を瞑りながら細かく頭を左右に振り、アイクは纏わりつく己の髪を邪魔そうにしていた。
「シノンみたく括れるほどもないしな」
アイクは不揃いに肩程まで伸びた髪を除けるように触り、彼を邪険にしている男の名を出した。
「そういえば、その服も窮屈そうだね、お兄ちゃん」
アイクの服の袖などが破けたらよく修繕していたミストが、特に胸周りが窮屈そうになっているその服を指して言った。
「ここ数ヶ月でどの服もな。着替えも取りに帰ることができなかった。王宮で支給された服はあったが返してきた。貴族みたいな服であまり好きではないからな」
物入れに入れていた着替えはそもそも二、三枚しかなかったがそのどれもが寸法が合わなくなっていた。
「さすがに胸周りはもう直せないよ。そうだ! 今度買い物に行こう! お兄ちゃんに新しい服選んであげる」
楽しそうに両手を合わせて提案をするミスト。
「いいわね。足りない物資とか買い足しにいきましょう。ふふ、ミストも新しい服買ったらいいわよ。それにしてもアイクは成長期なのね。胸周りは筋肉よね。腕も太くなったと思うわ」
ミストに同調し、アイクの成長を指摘するティアマト。手を翳し、己と並んで背も確かめていた。三年前は彼女より低かった背をすっかり追い越し、余裕でアイクの方が高い。
「まだまだおれの方がでかいけどな! まあ、ミストも育ったんじゃねえか? 胸周り。男も女もおっぱいはでかい方がいいな!」
アイクと年が近くいつも張り合っているボーレがそんな一言を投げるとミストに殴られていた。
「よく見たら顔つきも……」
そう言われ、ティアマトに顔をしげしげと見つめられると少し気恥ずかしいのか口を結び目を逸らすアイク。そして首を横に振った。
「……たぶん、そんな暇はない。これからすぐ仕事だ」
静かに、落ち着いた声で団員たちへ告げられる次なる任務。
「フェール伯からの依頼だ。これは門外不出だ。密かに潜伏せよということなので、堂々と買い物することも難しい」
依頼内容を聞いた団員たちは皆、真剣な表情でそれを受けた。アイクへ背を向けていたシノンも真っ直ぐと彼を見ていた。
「仕事かあ~。そうだよね、うん。がんばろう」
アイクより話を受けたミストは気合いを入れるかのように両拳を握った。
「でも、お兄ちゃん、せっかく帰ってきたばかりなのにゆっくりできないね」
「仕方がない。うちは貧乏傭兵団だからな。働かなければ立ち行かない」
それでも笑顔で皆、彼の周りにいた。
「貴族生活で鈍ってんじゃねえかおまえ。足引っ張んなよ」
そんな中ただ一人が皮肉な笑みを投げ、厭味を吐く。
「鍛錬は騎士団の連中と欠かしてなかった」
シノンに投げられた厭味に表情を変えることなくアイクはそう返した。
「あー……また始まった」
このやり取りも恒例のものだ。それを指してミストは溜息を吐くように言い捨てた。
「でも、これが日常なのよね……」
諫める気も起こらず、寧ろ懐かしむようにティアマトがそう言った。
「その髪、マジで鬱陶しいな。てめえの鬱陶しさが倍増してるぜ」
「じゃあ切ってくれ」
シノンに髪型の鬱陶しさを指摘されたアイクは真顔で彼に髪を切ってくれと頼んだ。
「はあ?」
面倒臭そうに表情を歪めたシノンであったがすぐに笑みを浮かべる。
「……まあいいぜ。覚悟しろよ」
口端が意地悪そうに歪んでいる。
「お兄ちゃん! やめたほうがいいよ! 絶対変な髪型にされるよ!」
あからさまなシノンの企みに気づいたミストが兄へ助言する。
「失敗したらシノンの腕が不確かだということだ。俺はシノンの器用さは買っているからな」
信頼を寄せているという意味の言葉をアイクは口にした。シノンは苦虫を噛み潰したような顔をする。
「大丈夫でしょう」
アイクの言葉を受け、シノンの性格を把握しているティアマトがそう言った。
そしてアイクの髪に鋏が入れられる。
ひとたび鋏を手にすればシノンは真剣な表情となる。職人気質であった。
「ジロジロ見てんじゃねえ! 気が散る!」
その様子を楽しげに見つめるミストを怒鳴るシノン。傍らのボーレへくすくすと笑いを送る。
「おれなんかシノンにやらすの絶対嫌だと思ったけどな。真面目にやったらやっぱうまいよな」
ボーレは小声で笑みを浮かべながらミストへそう返した。
「っていうかこの間おまえにやらせたらハゲ作られたし」
自分の髪を擦り、ボーレはミストに散髪されたときのことを指した。
「わざとじゃないもん!」
少し怒ってボーレを小突くミスト。
そんなやり取りがされている間にもアイクの髪は床に散らばっていく。アイクは椅子に腰掛け、拳を膝の上に置き、微動だにしなかった。
「できたかしら? ねえ、いいものがあったわよ」
何かを抱えティアマトが戻ってきた。
「……あ」
ちょうど散髪が終わったところだった。髪型が変わったアイクを見てティアマトは思わず息を飲んだ。
「グレイル……」
「団長……」
「お父さん……」
その見目は彼の父親によく似ていた。皆、口々に彼の父を思い出し呼んだ。
それを耳にしてアイクは思わず辺りを見回した。狐に摘まれたような顔をしている。
「おまえだ、おまえ!」
シノンが手鏡を手渡した。手鏡を覗き込んだアイクははっとした表情になり固まった。
「そっか~、わかんなかった! あんなボサボサ頭だからわかんなかったけど、お兄ちゃん……なんかお父さんそっくりになってたんだ」
なまじ、近くで見続けてきただけに分かりにくかった変化。ミストはそれに気付いてそんな感想を漏らした。
「シノン、だからアイクをそんな頭にしたんだ。ははーん」
アイクを彼の父親と同じ髪型にしたことを指してボーレはにやにやと笑みを浮かべて言った。
「うるせえ!」
触れられたくない部分に触れられたかのようにシノンは怒鳴った。
アイクの父グレイルへ傾倒していたシノン。だからこそその髪型を選んだのだと。それを指摘されると怒る。しかし、シノンのグレイルへの傾倒ぶりは団内では周知である。
「……アイク、とりあえずはこの服を着なさい」
そんな中、さらにティアマトがアイクへ服を手渡した。そしてアイクは着替えに行った。
「シノン、ちょっと待ったらいいじゃない」
隙を見て立ち去ろうとしたシノンをティアマトが引き留めた。
「あ、わたし、お茶入れてくるね! シノン、おつかれ!」
バタバタとミストが駆けていき、茶の支度をすると言う。どうにも無碍にできない空気を感じ、シノンは深く息を吐いて椅子に座り込んだ。それをボーレがにやにやと見つめていた。
茶が用意されるとともにアイクが戻ってきた。
「よかった、サイズはぴったりね」
ティアマトに手渡された服を着たアイク。寸法は丁度良かったようだ。
「これ、どうしたの? なんか……見たことあるような……」
「ええ、これは昔、グレイルが着ていたものよ」
そう言われて納得するミストだった。首を数度縦に振る。
「だいぶ昔のものだからちょっと型も古いんだけど、とりあえずは仕方ないわね。サイズだけはぴったりだと思ったから思い出して」
郷愁を含んだような顔でティアマトは言った。
「……ちっ」
それを目にし、入れられた茶を一気に飲み干すとシノンは勢いよく表へ出た。
「どうしたのシノン」
「またあれか? アイクが団長に近くて悔しいってやつ」
「だって仕方ないじゃない、お兄ちゃんはお父さんの息子なんだもん」
表へ出たシノンを見てミストとボーレはそんな会話を交わした。
(くそ……)
表に出たシノンは草むらの陰で座り込み、身を抱えていた。
「大丈夫か? もうおまえを傷付けるものはないぞ」
今でも鮮明に蘇る当時の記憶。
かの人が己を救ったときの記憶。
手を差し伸べられたときの──
(何で、何であの服なんだ)
かの恩人がそのとき着用していた服。
先程アイクが着用した服。それそのもの。
(……団長……っ、団長……っ)
すでに故人であるそのひと。
その血脈は受け継がれ、すぐ傍にある。
しかし、彼にとってその存在は遠い。そのひとの息子という壁が立ちはだかるからこそ。
息子がそのひとへ似てくれば似てくるほど彼はその距離を感じた。
このわだかまりはいつか解消しなければならないとは思っていた。
これから長期の任務だ。
見目も前団長と近づいたアイクへ命を預ける。真剣に。
己が子供っぽい拘りを持ち続けているという自覚はあった。一度団を抜けたことすらあった。
あろうことか、敵対する軍へ所属してアイクの前へ立った。
それでもアイクはシノンを受け入れた。真剣勝負の末。
「あんたはもう裏切らないだろう?」
その剣に倒れたからこそ。
「俺はあんたを信じてるからな」
幼い頃から散々罵り、厭味も言い、立ちはだかった。
それでも信じていると言う。
(くそ……)
アイクもまた、グレイルを敬愛していた。
父のようになりたいと鍛練を重ね、精進してきた。シノンはそれをずっと見てきた。ときには気絶するまで厳しい訓練を施されているところも。
いつか父を越えるのが目標であったのだろう。その口から認めるという言葉を聞きたかったであろう。杯を交わすことも夢であっただろう。
しかし、グレイルは任務の道中で没した。
(てめえは知らねえだろう、グレイル団長がどんな酒を好きだったかって)
彼は天涯孤独の身だ。
父親の顔は知らない。物心ついたときから母親とつましく生活していた。
母親は病弱であった。そのため、幼い頃から靴磨きに始まり手仕事で日銭を得る日々だった。その稼ぎは微々たるもので食い繋ぐのに精一杯の額である。到底病気の治療にあてる額に及ばない。
いつしか彼は傭兵となった。手仕事よりは稼げた。
そしてもっと手っとり早く稼ぐ仕事があると聞いた。
「……半獣の捕獲?」
飯場で聞いたそれ。
中央国家であるベグニオンにて、奴隷や鑑賞物としてラグズ、いわゆる半獣を所望する貴族がいるという。
「一応、半獣を奴隷とするのは禁止する法律ってやつがあったんじゃなかったのか?」
彼は傭兵生活の中で得た知識から、情報元の男へそう訊いた。
「だから闇の仕事だって言ってんだよ。貴族様の考えることは悪趣味だよな。雌が特に高いらしいぜ? 何をするんだろうな、半獣相手に。おぞましい」
男は身を抱え、首を横に振りながら小声で彼へそう答えた。
「しかし、高額取引されるだけあって難度は高いぜ。奴ら、めっぽう強いからな。それを生け捕りだ。まあ、道具を使えねえときたもんだから、弓矢や魔道なんかの飛び道具が有効ってわけだ」
そう言い男は彼を指差した。
「おまえの弓の腕は買ってるぜ?」
弓使いである彼の実力を買って、男はこの話を持ち掛けたのであった。
「痺れ薬なんか鏃に塗って、当たれば楽だな」
そう言われて彼は手を顎に当てて思案する。
「……おふくろさんの薬代くらいすぐ出るだろうよ」
男の更なるその言葉に彼は目を見開いた。
そしてこの仕事を請け、決行すべく数人で組み、獣牙の国ガリアへ足を踏み入れた。
「獣牙は一番手頃だからな。ガリアは陸続きだし。鳥翼族の奴らは船でしか行けないところに住んでたり、そもそも飛び回って捕まえるのも難しい。もっとも、鷺なら簡単に捕まえられるだろうが、絶滅したっていうな。それだけに見つけりゃあ、一生遊んで暮らせるほどの額になるっていうが」
とは男の言葉だった。
彼はまだラグズを目にしたことはない。
話では、獣の姿に化身し戦闘すると聞いている。化身していない姿が本来の姿だ。獣耳や尻尾などを持つため、非化身状態でもベオク、いわゆる人間との判別はつくという。
この大陸においては、ベオクはラグズに畏れを抱き、差別的な目で見るのが一般的な感覚であった。
(別にこっちに危害を加えなきゃ、獣耳やら翼やら生えてたって、どうだっていい。しかし貴族ってやつは性根まで腐ってやがる)
彼は依頼元の貴族へ嫌悪を抱く。ラグズへは特に恨みはない。それでも、母親の治療費が稼げるとあってこの仕事を請けることにしたのだ。
彼の母親はすでに衰弱しきっていた。病床から起きあがることもできない。目を離すのも不安であったが、母の友人に頼み、留守を任せている。
(ちゃっちゃと捕まえてとっとと帰るぜ!)
歩みながら二本の指を交互に動かし、手にした弓を打っていた。
そして目的とする対象物を発見した。
「……雌猫だ。まあ、いい値が付く。すばっしこいが虎とかよりは力はない」
男が彼へ合図を送る。痺れ薬を塗った矢を飛ばせと。
物陰から彼は弓を引き絞った。
そして放とうとした瞬間──
「やべぇ! 退散だ!」
背後から虎が現れ、一人屠られた。
音もなく忍び寄り、彼らの元へ近付いていたのだ。
男は弓を構えていた彼を突き飛ばして他の仲間とともに一目散に逃げていった。
突然の出来事であったが、彼はすぐに受け身を取り、状況を把握した。
(ちくしょう……っ! オレは囮か)
男は彼を囮として逃げ出したようだった。男の思惑通り、虎のラグズが彼へ牙を向けようとしていた。気付けば数頭増えている。
(もしかして……オレらがハメられた……?)
標的とした猫の女ラグズは化身し、虎ラグズの後ろから鳴き声を上げる。あたかも彼を嘲笑うように。
彼は速やかに退散しようと、足と手を動かす。威嚇のために一矢飛ばした。獣たちはものともせずそれを避け、彼へ突撃してきた。
(くそっ……!)
卓越した身体能力の獣だ。彼の足にはすぐ追い付く。虎の腕の一振りで彼はその身を大きく飛ばされ、地に打ち付けられた。
辛うじて受け身を取るも、衝撃を抑えきれない。脳震盪が起こったかのように地が歪む感覚を覚える。立ち上がれない。
獣たちは、その習性を発揮するかのように彼を玩具のように転がして遊ぶ。獲物をしとめる前の行動。致命傷は負わされないものの、かなりの打撃を受ける。そしてこれから屠られようとする恐怖。ぎらぎらと光る獣たちの瞳が星のように瞬いて見えた。
(はっ……つまんねえ人生だったな……)
血を吐き、目の前が暗くなってきた彼はそのまま最期の時を覚悟していた。
そして決定打を繰りだそうと獣の腕が振り下ろされようとしたとき──
「待て!」
通りの良い男の声が響いた。それとともに獣の動きが止まる。
「そこまでだ。ラグズ狩りの連中を懲らしめるのはいいが王は殺生を望んでいない。これだけやれば懲りるだろう」
大剣を持ち、威風を漂わせる男。歴戦の兵と思わせる風貌だった。
「ダガ……コイツら、許せナイ」
化身を解いた虎が片言で男と会話する。
「怒りが収まらないというのなら俺が相手になろう」
ラグズ、特に獣牙の民は一旦闘争心に火が付くと収めるのが難しい。そんな性質を熟知しているらしい男は、そう持ち掛けた。
すらりと大剣を獣らへ向け、構える。
「グレイル、オマエなら相手に不足ハナイ」
虎は再び化身し、咆哮を上げる。他、数頭同様に男へ戦闘の構えを見せる。
(マジかよ、一人であんな獣何頭も相手にするのかよ)
地に転がりながら彼はその光景を目にしていた。
そして、次に彼の眼前に広がった光景は見るも鮮やかな──
獣の攻撃を難なく次々とかわし、刀背で的確に獣を打ち、動きを止めていく。斬りつけることはなくあくまでも動きを止めるのみ。もとより害意はないのだから。
(……なんだ、あいつ……強過ぎ……)
殺意を以て全力で挑むより遙かに高度な技だった。相手を傷つけず、綺麗に打ち負かす。その技量がどれほど高度なものであるか彼は分かり得た。
「まいっタ」
獣たちは降伏した。そして興奮も鎮まったようだった。
「これは誰が計画したんだ? 囮まで用意して」
男は獣へ語り掛ける。
「はぁい。あたしです」
化身を解いた猫ラグズの女が応えた。
「だって、悔しいんだもん! この間、あたしの友達が捕まえられちゃったんだもん! 絶対、こんなことする奴ら捕まえてやるって思ったの!」
悔しさを含みながらも舌っ足らずで幼い口調で怒りを口にする女。
「……それは気の毒だ。しかし王は考えて下さっているぞ。だからこうして俺を雇っているんだからな」
男は優しい口調で諭すように女へ言った。女、というより娘、といった見目だ。男と並ぶと父と娘くらいの差に見える。
「うん……。あんた強いから、わかる」
ラグズの本能が強き者への敬意を抱かせるのか、娘は男へ宥められた。
「気をつけるんだ。ベオクは道具を使う。そいつだって痺れ矢を飛ばそうとしてただろう。当たればそれなりに危険だ」
男の真摯な瞳が娘へ向く。彼は己のことを指されて冷や汗をかいた。
「はぁい。ありがと、グレイル」
ごろごろと喉を鳴らすような声で娘は男へ礼を述べた。ほのかに頬を紅潮させ。
獣たちが去り、彼へ手が差し伸べられた。
「大丈夫か? もうおまえを傷付けるものはないぞ」
重厚で優しげな声。
大きな手、少し厳つい顔、額の傷。
そうして彼の脳裏に焼き付けられる記憶。
その手を取った。
そのまま泣き出したかった。
ずっと、身を張って立ってきた。
そうして生きてきたが、寄り掛かって泣きたかった。
大きな、太い柱にもたれ掛かり、欲しかったもの。
喉の奥から込み上げるものを堪えて彼は目頭を熱くしながら礼を述べた。
その手の感触が堅く、温かかった。
「歩けるか?」
「……はい」
彼はグレイルに導かれ、自宅へ招かれた。グレイルの妻が治療を施してくれるという。
招かれた先は小さな集落であった。この集落はラグズ国家であるガリアにおいてベオクが居住することを認められている特区であった。
その一角にある質素な家がグレイル一家の住居だった。
「おかえりなさい」
「お邪魔してるわ」
グレイルを出迎えたのは二人の女性だった。一人は乳児から幼児へ成長して間もないほどの子供を抱えた細身の女性。もう一人は軍装を纏い長身で姿勢のいい女性。
「ミスト、パパがお仕事から帰ってきたわよ」
子供を抱えた女性が子供へ語り掛けていた。
「エルナ、ミスト、ただいま」
グレイルは厳つい顔を緩めて娘へ手を振った。娘も声を上げて手を振り返した。
グレイルの背後にいた彼はエルナと呼ばれた方が妻なのだと悟った。そしてもう一人の女性はどういう関係であるのか気になった。
「ティアマト、来てたのか」
「ええ。あなたがラグズハンターを駆逐する任務からそろそろ戻ってくると思って」
ティアマトと呼ばれた女性が発したその言葉に彼は身を竦めた。
「私も任務時間外ならあなたのその仕事を手伝いたいわ。いっそカイネギス様へ頼んでみようかしら。私もそれを任務として下さいって。交換士官としてこっちに来ているもの。ガリアのために役立てないかと思う」
どうやらこの女性は軍人であるようだ。生真面目な気質を見て取れるが、彼はこの女性のグレイルを見つめる視線が気になった。
(……ただごとじゃねえな)
一瞬にして男女関係の修羅場を想像してしまった彼である。しかし、エルナとティアマトの間に険悪な空気があるわけではない。
「誰だーっおまえ!」
彼が妙な想像をしていると、突如背後から甲高い子供の声が響いた。彼は思わず勢いよく振り向いた。
「う、うわ!」
「見たことないぞ! 父さん! こいつ誰だ!?」
グレイルの元へ寄り、少し興奮気味に細かく飛び跳ねながら彼を指差す少年。
「落ち着け、アイク。こいつはシノンっていう。ちょっと事故に巻き込まれてたのを拾ってきた。母さんに治療してもらおうと思ってな」
グレイルは息子へ諭すように言い、頭を数度ぽんぽんと撫でた。
「あら、そうなの。初めまして」
エルナが彼へ目を向け会釈をした。そしてミストをティアマトへ渡す。ミストはぎゅうとティアマトに抱きついた。よく懐いているようだ。
「あちこち打ち身だらけね。引っかき傷もあるわ」
彼を椅子に座らせるとエルナは彼の容態を確認する。そして消毒を施し、清潔な包帯を巻く。
「うわあ! 痛そう! どっかで転んだのか!?」
物珍しそうにアイクが手足をばたつかせてぐるぐると彼の周りを回り、視線を送ってくる。
(このガキ……ウゼぇ……)
耳に触る子供の声を聞きながら彼は眉を歪めた。
一通り処置をすませるとエルナは治療の杖を翳した。
彼は治療の術を受けるのは初めてであった。これまで、治療といえばこのように外科的な処置を済ませるのみであったが、治療の杖による治癒は経験がなかった。
(マジかよ……)
軍隊や規模の大きい傭兵団などでは常用されているというのは知っているが、彼はそういった機会に恵まれなかった。また、教会を頼ればこういった施しを受けることができる場合もあるが、彼は一度も教会へ足を踏み入れたことがない。
(女神なんか信じねえって思ってても傷は治るもんなのか)
常に己の境遇を不遇だと感じていた彼は無神論者だった。治癒の魔法はこの大陸で信仰されている女神の力によるものとされている。だから彼は治療の杖が己に効くと思い難かった。
「母さんのまほう、すごいんだぞ!!」
アイクが彼の前に回り込み、拳を作って自慢げに主張してきた。
「ああ……」
彼は生返事をした。
そしてこの子供が苦手だと思った。
否、この空気が。
温かな家庭──
頼もしい父、優しい母。
完全な家族の形であった。
この少年の闊達さがこの家庭が幸福な家庭であるということを物語っている。
「どうだ?」
グレイルが穏やかな声で彼へ具合を聞いてきた。
「は、はい。ありがとうございます。不思議なくらい軽くなりました」
彼は腕をゆっくり上げ、動かし、回復したことを示す。
「よかったな。……あと、どうだ、飯でも食っていくか?」
甘美な誘いだった。しかし同時に彼の胸を押し潰すものでもある。きっと温かな食卓であろう。それは逆に彼の不遇な家庭環境を浮き彫りにする。彼はそれを思い、首を横に振った。
「すみません、オレは急いで帰らなくては」
「ゆっくりしていきなさい」
エルナが優しく誘い掛ける。その袂にはエルナの服の裾を持ち、ぴたりとくっつきながら期待の眼差しを向けるアイクもいた。
「……失礼します!」
そんな光景を目の当たりにし、彼の脳裏には病床の母が浮かんでいた。
そして彼は急ぎ、駆けた。
あの家族を振り切るように。
それとともに母の容態を案じながら。
結局、報酬を得ることはできなかった。準備金として僅かな金を手にしたのみ。到底治療費にあてる額には及ばない。だが、かなりの日数家を空けた。金が無くとも一旦戻らなくては、と思った。
しかし──
時すでに遅し。
彼の母は息を引き取っていた。
母の友人の話によると、彼が戻った日の朝、世話をしに訪れたところ、すでに息がなかったという。彼が到着したのは夕方であった。
それから彼は母の埋葬を済ませ、自宅を処分した。最低限の手荷物のみ持ち、居を持たず生活しようと思った。
心に穴が開いたようだった。
何の目標も無くなってしまった。ただ一人この世に投げ出されて彷徨い生きるのかと。
父はいない。その存在に触れたことがない。母もいなくなった。死に目にも会えず、何もすることができなかった。兄弟も親戚もいない。頼る友人もいない。
まさに天涯孤独の身となった。
(ちくしょう……)
その頃から彼は酒に溺れるようになった。まだ年若く成人していないにも関わらず。
酒に浸り、女を買い、憂さを晴らす日々だった。そのために日銭を稼ぐような生き方だった。
そんな日々を送る中、ある傭兵団の噂を聞いた。
「傭兵なんて稼いでなんぼだろ。稼いだ金はぱーっと使ってな。旨い酒がありゃあ飲み干して、いい女がいれば手を出して、旨い話がありゃあ乗っかって」
飯場にて、仕事上の顔見知りである享楽的な男が彼に人生論を語っていた。
「まあ、そうだな。あとは成り上がりか。上り詰めて一発逆転だ」
彼もその人生論には賛成だった。
「それならデインだろ。あそこはどんな身分の奴も実力次第で取り立ててくれるっていうからな」
飯をかき込みながら男は匙を振りかざして言った。
「はっ……あそこの王もいい趣味してるぜ。悪くない。いつか登りつめてやる……」
瞳をぎらつかせて彼は応えた。
生きる目標を失っていたが、最近、そのような野心が芽生えていた彼だった。
「まあ、せいぜい頑張れ。俺はほどほどのぬるま湯で生きるぜ。かといって慈善活動に興じる趣味もないがな」
男のその言葉に彼は眉を顰めた。
「ああ、あれだ。金にならない仕事ばかりしてるっていう傭兵団の話。その長が半獣狩りの邪魔をするので有名だった奴だ」
彼は目を見開いた。
「なんでもクリミアに移動したらしいな。山賊を倒した後その砦を占拠して住み着いて拠点にしてるっていう」
目を見開いたまま彼は男を凝視し、その話に集中した。
「それならまた半獣狩りでもやるか。あの男がいなくなったならやりやすい。いや、あれはリスク高いからな。半獣どももいい加減恨みをもって逆に俺らをハメようとしてくるし」
まさにあのときのことを思い出し、苦い顔をする彼。
「おまえもよく生きてたな。前一緒にやった連中、おまえを囮にして逃げたって言ってたし」
そう言って男は少し小馬鹿にするように笑った。
「……その傭兵団の名前は?」
「はあ?」
彼は下から睨み上げるようにして唸るように男へ訊いた。
「あぁ、グレイル傭兵団っていうな」
彼は砦を前にして緊張していた。
ここが噂のグレイル傭兵団の砦という。
深く考えるまでもなく、当然の如くここまで足が赴いた。しかし、ここまできて自分はどうしたいのか自問し始めた。
(会ってどうするというんだ)
生きる目標もなく、日銭を稼ぎ、享楽的に消費してきた日々。そんな日々の中でも思い出されたのが、あの男の姿。
──強く、頼もしかった。
男の住居へ案内されるとき、その背中を見て歩いた。
そのとき、今までにない高揚を感じていたのだ。
それを思い出すと頬が熱くなるほど。
心の中の欠けた何かが埋まるよう。
それは彼が得られなかったもの。
その背中は、あたかも父の背中のようだった。
砦の扉を叩こうと手を伸ばす。
「っ!!」
勢いよく扉が開き、彼を打ちつけた。
「なんだ?」
開かれた扉の中から声がした。扉に何かがぶつかったことを怪訝に思った声だ。
「痛ってぇ……」
彼が思わず声を出し、扉の中を見ると見覚えのある子供の姿が現れた。
「誰だ、おまえ」
「……! おまえは!」
扉の中から現れたのはあのときの少年、グレイルの息子アイクだった。アイクは彼を見つめ首を傾げている。
「……あんときの、オレだ。シノンだ」
彼はガリアで一度対面していることを指し、名乗る。しかし、アイクは見知らぬ顔だと言わんばかりに首を傾げる。
「ちっ、忘れっぽいガキだ。まあいい、おまえの父親に用がある。案内してくれ」
「おやじか。わかった」
アイクは口数少なく落ち着きを見せ、応対した。
その様子を彼は怪訝に思った。前に見たときは闊達で落ち着きがないほどだったのに、今は落ち着き、どこか憮然とした佇まいとすら思える。まだ一年も経っていないというのに急激に成長したのかと思ったがそれも不自然だと思った。
「……君か!」
対面するとグレイルは感嘆の声を上げた。彼はそれを仄かに嬉しく思った。
「はい。あなたがクリミアへ移動して傭兵団を立ち上げたという噂を聞いて訪ねました。あのときはありがとうございました。礼を告げずにすみません」
それを耳にしたグレイルは眉を動かし、自室へ案内した。子供たちには外で遊ぶよう言いつける。
「……何か?」
ただならぬ雰囲気を察した彼はグレイルへ訊いた。
「ちょっと、口外してほしくない事柄があってな」
その瞳に宿る光は鋭く、彼を射抜くようだった。
「……俺がガリアで活動していたことは口にしないで欲しい」
グレイルの開口一番、早速疑問が沸く。
「どうして……」
「あれを見たら分かってくれないだろうか。アイクだ」
前に見た様子と違うアイクの様子を思い出し、彼は話の続きを望む。
「あのあと、集落が賊に襲撃された。妻は子供たちを守って逝った。俺は任務中で、知らせを受けたときにはもう間に合わなかった」
険しい顔で語るグレイル。
「アイクは妻が倒される現場を目にしたようだ。余程ショックを受けたのだろう。あのとき以前の記憶がなくなっているようだ。それとともに少し性格も変わってしまったようだ」
その話で彼はアイクが彼のことを知らない素振りを見せたりしたことに納得がいった。
「家族のことは認識していたがな。事件に関してはこのまま忘れている方がいいだろう。思い出させてくれるな。ガリアに住んでいたこともな。それに関して疑問を抱けば、おのずと記憶が引き出されるかもしれない」
彼は生唾を飲み込んで頷いた。
あの、穏やかで平和な光景が失われたというのだ。
優しかったグレイルの妻が、逝った。
母という存在が、無くなった。
彼はそれに対し自分が虚無感を覚えたことに愕然とする。そして自分の母親の死に目に会えなかったことを思い出し。
「……あなたも、会えなかったのですか」
彼の言葉にグレイルは首を傾げる。その仕草が息子と似ていると思った。
「オレも、母親の死に目に会えませんでした。あのとき、礼も言わずに飛び出していったのは、病気の母が帰りを待っていたから急いで帰ろうと。報酬もないけど、家を空け過ぎたから。もう、あまり容態もよくなかった」
静かに、彼はあのときの己の状況を説明する。
「戻ったときにはもう遅かった」
そこまで言うと彼は頭を垂れた。
「そうか、君は」
グレイルは彼の話を飲み込み、数度頷く。
「ラグズ狩りは多額の報酬が得られるというな。薬代も楽に稼げるほどの」
それを指摘されて彼は顔が熱くなった。
「いろんな事情の者がそれぞれ、生きるために仕事をする。それが悪事と言われることであっても」
重厚な声が響き、彼に降ってくる。
「君は、傭兵らしい傭兵だ」
彼の所業をグレイルは否定も肯定もしなかった。
「……誇りはあるか?」
その問いに彼は顔を上げた。
「己の仕事に誇りを持っているか?」
もう一度はっきりと問われる。
「……持ちたい」
彼は喉の奥から絞り出すような声で応える。
「持ちたい、です」
どこか縋るような目つきでそうグレイルへ訴えた。
「そうか」
それを受けてグレイルは一言だけ返し、見つめ返す。その眼は穏やかな。
「貧乏暮らしは平気か?」
その言葉の意味を察しつつ彼は反射的に頷く。
「うちは周辺の集落などから山賊退治や警備などの依頼を安価で受ける。覇権争いの戦闘要員などの血生臭い仕事はまず請けない。血の気が多い若者には物足りない仕事かもしれないが」
彼はもう一度頷いた。
「……お願いします」
そして頭を下げる。
「よし、わかった。君は今日からグレイル傭兵団の一員だ」
望んでいたものが手に──
彼の目頭が熱くなった。
それを悟られないように勢いよく幾度も瞬きをする。
「俺が団長で、ティアマトが副長だ。ティアマトは事情を知っている。クリミアの王宮騎士団を除隊してうちに来てくれた。これも口外しないでほしい。彼女にも事情がある。アイクの記憶にも関連する」
「分かりました」
ここまでどこか緊張した面持ちを見せていた彼だった。
「まあ、肩の力を抜いてくれ。ここでは皆、寝食を共にして、家族のようなものだ。アイクやミストへもあの件以外は普通に接してくれ。子供らが悪さをしたら年長者として咎めてくれたっていい」
そう言われて彼は表情を緩めて頷いた。
そして彼は新入団員として紹介され、砦での生活が始まった。
「シノン、ねえ、シノン、ミストとあそんで」
早速賑々しくなった。口数も多く元気に歩き回るミストが、彼へ興味を示し、誘い掛けてくる。
「ちっ……、わかったよ」
グレイルの手前、無碍にできない。まだ団に慣れていない彼は子供の世話も仕事のうちと割り切って接しようと思った。
ミストが嬉しそうに彼へ纏わりついてくる中、壁に寄り、そこからどこか警戒したように遠く目線を送るアイクの姿があった。
前は今のミストのように彼の周りをぐるぐると周り、甲高い子供の声を上げて興味を示してきたアイクだったが、こうも変わってしまったのだと。
「……どうせ一緒に面倒みなきゃなんねえし、てめえも来いよ」
彼はアイクの心中をはかりながら、手を差し出した。
アイクはそれに反応して動く。
「おいっ!」
彼に纏わりついていたミストの手を引っ張り無言で走り去っていった。
「おにいちゃん、おにいちゃんっ!」
ミストが抗議の声を上げる。
「あ、」
その声にはっとしたアイクは立ち止まった。
「すまん、おれ……」
咄嗟の行動だった。無意識に、ミストを守らなければ、という思いからとった行動だ。
「シノンは遊んでくれるんだよな。悪くない。うん、おやじが言ってたやつだし」
アイクは自分に言い聞かせるかのようにそう呟いた。
(何なんだあのガキ……可愛くねえ……!)
彼はアイクの行動に苛つきを覚えた。
しかし、グレイルの話を思い出し、精神が混濁しているのだと思った。
(まあ仕方ねえ、ちょっとおかしくなってんだよなあのガキ)
アイクがミストの手を引き、戻ってきた。
「遊んでくれ」
睨みつけるように胸を張り目線を上げ、腹の底から声を出すアイク。どこか挑戦的に見えた。
「おまえ、そんな睨みながら言うことじゃねえだろ。何が気に食わねえんだよ」
彼も睨み付けるように腕を組みながら目線を下ろし、挑戦的に返した。
「気に食わなくない」
反抗的な声で抗議するアイク。
「ちっ、オレはおまえが気に食わない」
売り言葉に買い言葉的に彼は指を差し、言い捨てた。
「けんか、だめ」
ミストが眉を下げ駄々を捏ねるように首を数度振り、二人の間に入った。
「ダメじゃない、ケンカしないで仲良く遊びなさい」
さらにティアマトが仲裁に入った。
これから、このような光景が日常となる。
「あの子もまだ、子供なのね」
とはティアマトの談だった。
「ああ、血の気が多い若者だ。あんな縁がなければうちのような傭兵団に来ることもなかっただろう」
グレイルは目を細めて返した。
「アイクとは相性が悪いようだ」
少し笑みを含みグレイルは言った。
「ええ。まあ、分かる気がするわ」
ティアマトは納得したように同調した。
「それでもいい。アイクには喧嘩相手も必要だろう」
「……ほどほどにしてほしいわ」
笑いながらグレイルがそう言うと、ティアマトは少し困惑した表情で言った。
「あいつは悪い奴じゃない。そして自分なりの信念を持っている。境遇が良くないから斜に構えたところがあるが、曲がってはいない」
ティアマトはそう語るグレイルに父親としての顔を見た。そしてこの男の元へ身を寄せて良かった、と思った。
「ふふ……そんなあなただから」
「ん?」
ティアマトの言葉の意味にグレイルが首を傾げると、ティアマトは何でもない、と首を横に振った。
(あの子がラグズハンターだったってことは黙っておく。あなたは放っておけなかったのね)
グレイルは語らなかったが、おそらくラグズ狩りに失敗したであろう彼を介抱しようと連れてきたのだと察した。
そしてその施しに感謝した彼がここまで訪ねてきたことも。
それから彼はグレイルに伴われて仕事へ出かけるようになった。実戦経験があるということで即、任務開始である。
グレイルの仕事ぶりには学ぶことが多かった。
手にしている得物が違うため、直接武術の指南は受けなかったが、戦略や判断力など学ぶことが多かった。
手仕事を得意とし、器用さを持つ彼はそれを買われることも多かった。グレイルにそれを感心される度、嬉しさを覚えた。
グレイルの後を付き、仕事へ出る彼をアイクが恨めしそうに見つめていた。彼はその目線を受ける度、優越感を感じて、小馬鹿にした目線を送り返したりもした。
「バーカ! てめえには百年早いんだよ!」
悪態をつくことも忘れない。
グレイルはそんな彼とアイクのやりとりを任務に差し障りがあるとき以外は咎めることもなく。ティアマトがたまに小言を言うのみである。
むしろアイクが悔しがり、鍛錬に力が入るのでよしとしている節があった。
「シノンはおれが倒す」
いつしか口癖のようにアイクはそう宣言するようになった。訓練用の剣で挑んでは、素手でいなされていたが。
「おまえ、本当にグレイル団長の息子か? 弱いな。ほれ」
いつものようにアイクに挑まれて、彼はその辺りに落ちてた木の棒でアイクの頭を叩いた。
「シノン! お兄ちゃんをいじめちゃだめ」
「ミスト、違う、来るな」
アイクはこれは男同士の真剣勝負だといい、妹を遠ざける。
「こいつがかかってくるから仕方なくオレ様が相手してやってんだ。感謝してほしいくらいだな」
棒を振り回しながら尊大に皮肉を吐く彼。
「お父さんに言ってやるっ」
強気な姿勢でミストがそう言うと彼は一瞬苦い顔をした。
「お父さんはシノンなんかよりずーっと強いんだから」
そう言われて「それはそうだ」と彼は心の中で応えた。そして助け出されたあの日のことを思い出す。
「はんっ、てめえ、妹に守られてるぜ? とんだ笑い種だな」
彼は棒でアイクを差し、嘲笑を浴びせた。
その隙を見てアイクは突進し、訓練用の剣を突き出した。
「ギャッ!!」
アイクの背丈で突き出された剣は丁度、シノンの股間へ向かったのだった。
「やったぞ」
「このクソガキ!!」
怒りが頂点に達した彼は手加減なしに幾度も棒でアイクを叩く。アイクは剣で受け身を取ろうとするもおぼつかない。
「またあなたたちは……!」
そこへティアマトがやってきた。それに気付いた彼は棒を捨てて一目散に逃げていった。
「ああもう、大丈夫? アイク」
心配気な顔でティアマトはアイクの頭を擦り、怪我がないか確かめる。アイクは口を堅く結んで首を横に振る。「何でもない」の意だ。
そして口を開き何かを言おうとしている。ティアマトは耳を傾ける。
「……おれは、おれは、おやじの子だ。強くならなきゃならないんだ。ミストを守らなきゃ」
それを聞き、ティアマトは抱き締めたい衝動に駆られた。そして母のように慈愛に満ちた目でそんなアイクを見つめていた。
「……ちっ」
彼は自分でも、子供のようだと自覚している。
子供相手に本気で怒り、感情をぶつける。
隙を突かれたことが悔しいはずだった。だから手加減なしに叩いた。
──紛れもなく、あのひとの息子
目を見れば分かる。
真っ直ぐで、強く。
仕事を共にし、傍で戦いぶりを見てきたからこそ余計に分かる。大抵の賊は軽くいなしていた。周辺の賊などとはあまりにも実力差があるため手加減の意味で剣ではなく、クリミアへ移動してから任務時は斧を得物としていると聞いた。
そして纏う空気は同じ。息子の腕はまだ到底父親に及びもしないが、明らかに同じ道を辿るであろうことを思わせる。
何よりも、直接その剣を継ぐため、父より修練を受ける息子。
剣とともにこの団自体も継がせるであろうことが視野に入っているのだと思った。
グレイルは任務で砦を出て、彼と二人きりの時にはよく息子のことを聞いてきたからだ。
「……どうだ? アイクは」
「まだまだですね」
その度、彼は及びもしないと返す。
訊かれる度、生まれる感情。心の奥底で渦巻くもの。
どうあがいてもグレイルの息子はアイクであった。
「シノン、おまえは頼りにしているぞ。将来的にはアイクを戦場へ立たせるつもりだ。そのときにはよく補佐してやってほしい」
己の腕は買われた。信頼は得た。
その背に近づいたはずだった。
しかし、息子にはなり得ないのだ──
(ちくしょう……! ちくしょうっ!)
自覚していた。
──それが嫉妬だということを。
だから嫌いだった。憎らしかった。
そう思っていた。
父が息子へ愛情を注ぐさまを間近で見てきた。
彼はそれを傍観してきた。
そのひとへ父の背を見出した。受け入れられて、欲しかったものが得られたと思った。
だが、彼は傍観者でしかなかった。
親子のような関係、そんな時間、それは実の息子の姿が見えない、ともに任務へ出ているとき。疑似的な親子関係。それは己が一方的に思っているのみだ、と自嘲していた。
次第に、諦めもついてきた。
この団にいて疑似的にでもそんな関係でいられたらと思った。
息子へ指南し手塩をかけるグレイルの姿を見て、心に灯が点るのを感じるようになった。嫉妬心がないわけではないが、恩人への敬愛が勝る。
その強さと理念は傭兵として尊敬できる。
また、父親としても──
「なあシノン、あんたはどっからきたんだ? どうして強くなった?」
アイクは彼へ勝負を挑むばかりではなく、興味を示し、彼の素性を知ろうと語り掛けてきた。
「てめえに言うことなんてねえよ」
こんな子供に話しても仕方がない、と思った。
「おれが嫌いだから……教えてくれないんだな」
少ししおらしく哀しげに眉を下げるアイク。
彼はそんなアイクを見て、これまでの己の態度からそう思うのは当然だろうと思った。
「まあな」
その受け応えとは裏腹に彼は穏やかな目線であった。アイクはそれを受けて首を傾け彼の目を見つめる。
「てめえみてぇにぬるま湯で育っちゃいねえ。物心付いたときから働いて親の面倒見て、傭兵として生計立てるのに独学で腕磨いて、ギリギリで生きてきたんだよ!」
そんな言葉は飲み込んだ。
そのまま目線だけが交わされる。
「……あんたは、大人だから、強いんだ」
伝わったのだろうか? 心を読んだのだろうか?
彼はアイクのその言葉に息を飲んだ。
「大人は、すごいんだ。おれの知らないことを知っている」
「……はんっ、てめえにしちゃあ分かってるな」
彼は指で軽くアイクの額を突いた。アイクは頬を膨らませて額を擦る。
「馬鹿が、自分が馬鹿だってこと知ってるのは悪くねえ」
笑みを浮かべ、彼はアイクを見下ろし言い放つ。
「シノン、おれもあんたのことあまり好きじゃないけど、うちに来てよかったと思うぞ」
彼はアイクのその言い種に口元を歪めた。
「好きじゃない」というのは売り言葉に買い言葉なのだろうか。いざ己に向けてそう言われると少し腹が立つと思った。
そしてこの子供にそう言われて腹が立った自分にまた腹が立った。
「おやじに聞いた。傭兵って、いろんなところに行くって。あんたもいろんなところに行ってたのかと思った」
見上げながら射抜くように見つめてくるアイク。
「いろんなところに行ってたからあんたは強くなったのか? そしてまた違うところに行くのか?」
いつになく饒舌だと思った。口数も少なく、愛想のない子供になったと思っていた。それがこうして語り掛けてくる。
「行かねえよ」
彼は思わず答えた。
「本当か?」
目を見開いて訊いてくるアイク。
そう答えてしまって内心、焦りを感じた彼だった。顔が少し熱くなる。
「あんたは、家族だぞ。おやじが言ってた」
彼の服の裾を掴み、アイクはそう訴え掛けてくる。
その様子に彼は、母の服の裾を掴み少し甘えるような仕草で目線を送ってきたアイクの姿を思い出した。まだ、惨劇を目にする前の子供らしい子供の様子。
いつもなら反射的に振り解いて小馬鹿にする言葉でも浴びせるのだが、このとき彼はただ見つめ返すのみだった。
いつも背を張って、憮然とした顔をし、強くなろうと泣き言を言わずに鍛錬に励む。そんな子供。
父に妹を守るよう言いつけられ、理想像である父に近付こうとする。そんな、大人びようとする子供。
「……へっ」
言葉を返すでもなく、彼は感嘆を漏らし、そんなアイクの頭を乱雑に撫でた。
「これ、ひとに見せちゃいけないの。わたしがずっと持ってるの」
ミストがそう言い、肌身離さず持っている何か。
彼はそれを目にしたことはないが、何かを持っていることは知っていた。アイクが持ち、そのようなことを言っていれば意地悪で取り上げてみたかもしれないが、さすがに女児から強引に取り上げることはしない。グレイルの手前もあった。
(さすがにあんなチビから取り上げるほどオレもヤキが回っちゃいねえ)
興味なさげにやり過ごす。
しかし、時折アイクがそれを気にする様子は見かけた。
(妹のもん欲しがってんのかあいつ)
アイクは、ミストがこそこそと懐からそれを見つめて満足気にしているところを恨めしそうな目で見つめていた。
(ダメって言われりゃあ、気になるのは分かるがな)
ミストの行動にむず痒さを感じていた彼であった。そして、アイクの様子が滑稽に思えたが、気持ちは分からないでもなかった。
しかも母親の形見であるという。宝飾品の類だろうかと思った。彼も生家を出る際、母親が愛用していた髪飾りだけは持ち出してきた。
母を思う気持ちは兄妹ともに同じものであろう。それなのに兄の方だけ形見に触れることが許されない。
(意味分かんねえよな)
それはグレイルの言いつけでもあった。元々、アイクらの母も「人に見せてはいけない」と言っていたそうだ。
ある時、ミストは母の形見を懐から出し、布で綺麗に磨いていた。ひとしきり手入れが済むと満足したのか、そのまま卓に置き、忘れて外へ遊びに行ってしまった。
それは青銅のメダリオンという。
掌に収まるほどの大きさで円盤状のもの。懐から出すと青白い光を放つ。
これはグレイルが抱える業に関わるものであった。
エルナがこのメダリオンの守り人として所有していた。没したエルナに代わり、現在はミストが守り人として所有している。
何故、このような経緯となったか、このメダリオンに関することはグレイルのみぞ知る。しかし、グレイルはそれについて語ることはなかった。
「なんでおれが触っちゃだめなんだ」
時折、アイクがそう疑問を口にしていた。
しかしグレイルはとにかく駄目であると一点張りであった。理由の説明はなかった。
「へっ、ざまあ」
咎められては拗ねるアイクを彼はからかうことがあった。からかわれたアイクが眉をつり上げて殴りかかってくるところまでが一連の流れである。
「てめえは母ちゃんのおっぱいでも吸いたいのか? あれ触ってもおっぱいなんか出てこねえよ」
母の形見を大事に持ち出してきた己のことを棚に上げて彼はアイクをからかった。
「いらん、おれはそんなのいらん」
仕舞いには訓練用の剣を持ち出して彼へ攻撃してくるアイクであった。
それが繰り返されアイクは興味のないそぶりでいたが、見つけてしまったのだ。ミストが不在でメダリオンのみが卓に置かれていたところを──
「あ……」
アイクがそれを目にしたと同時に青白い光が放たれる。それは蒼炎と形容できる、ゆらゆらと揺れる炎のようだった。呼び寄せられるように魅惑的に放たれる炎。
頬を紅潮させ、アイクは高揚を覚えつつ手を伸ばした。
その少し前、険しい表情で子供部屋へ駆けていくグレイルを彼は見かけた。
「お父さん、わたし、メダリオンきれいにしたの。見る?」
ミストにそう話しかけられたグレイルは首を横に振った。
「綺麗にするのはいいが、すぐに仕舞うんだぞ」
そう言われてはっとした表情で懐を探る仕草をするミストだった。それに気付いたグレイルは飛び出すように子供部屋へ駆けていった。鍛錬を終えたアイクが子供部屋へ向かおうとしていたのを思い出したからだ。
(団長……? なんだ? あの慌てよう)
滅多に見られないグレイルの焦燥ぶりに驚いた彼はそっと後を追った。
「……あれほど触るなといっただろう!」
いつにない剣幕のグレイル。厳しく叱りつける声が響いた。
アイクの手はメダリオンへ触れる寸前であった。グレイルの剣幕に驚き、全身をびくりと震わせた。
「なんで! なんでおれだけ! なんでおれは触っちゃだめなんだ!」
今までの鬱積を吐き出すかのようにアイクは反抗した。
「母さんの形見なんだろ? おれだって母さんの子だ! なんで触っちゃだめなんだ!」
少し瞳に涙を溜めながら訴える。
「駄目だと言ったら駄目だ! 分からないのか!?」
まるで取り付く島もない、といった剣幕でグレイルは息子の訴えを退ける。
(……なんなんだ? 団長……)
扉の隙間から伺っていた彼は、さすがにグレイルの態度が異様であると思った。
「おやじの馬鹿っ! わかんない、わかんないよ! どうしてなんだよ!」
アイクの訴える通りだと思った。理由が分からない。
「おまえがそこまで聞き分けのない奴だと思わなかった……」
グレイルは腹に響くような重厚な声でそんな言葉を投げる。そして手を伸ばす。
「この馬鹿者」
片手でアイクの頭を掴む。その大きな手が。
いつもは頼もしく、守ってくれるその手が襲う。強大な怪物のように思えた。
「お、おやじ……」
反抗を見せていたアイクは全身を硬直させ、わなわなと口を震わせる。
そのまま床に突き落とされる。
「分かれと言っただろう」
その拳が頭を殴る。起き上がると再び床に沈める。
「わかんない! わかんない……っ」
アイクは抵抗し、何度も起き上がろうとする。
もう、グレイルは言葉を発することもなく、アイクの身体へ言って聞かせるようになっていた。蹴りまで入るようになり。
「……っ、うっ……わかった……」
床へ大の字となり、抵抗を止め、絞り出すような声でアイクは降伏を宣言した。
「もう、触んない……」
すぐそこまで涙が出かかっているような声。
「分かったか」
それだけを言い、グレイルはアイクの手を引っ張り、部屋の外へその身を放るように出した。
彼は慌てて奥の物陰に隠れながらその様子の続きを伺った。
(マジかよ……)
雑巾のように放られたアイクはよろりと立ち上がってどこかへ消えていった。
入れ替わるようにミストが駆けてきてメダリオンを手にしていた。
「そうだ、もう離すな」
「うん!」
何事もなかったかのようにグレイルはミストへ穏やかに声を掛けていた。
彼は顔面がぴくぴくと引き攣るのを感じながら動悸がしていた。
──底知れぬ恐怖
厳しくも優しい、そんな父のようなひと。
叱咤の際も筋の通った理由を提示し、導くように諭してくれた。そんな尊敬に値する人物。
それが理由も告げず、実の息子を痛めつけ、最後には雑巾同然に放った。娘へは変わらぬ態度。
全く理解できない行動であった。理解できないからこそ恐怖を感じた。
(何か、事情があるに決まっている……)
そう思いながらも様々な感情が入り乱れ、襲いかかり、彼も泣き出したい気分になった。
その足は自然とアイクを探す。
案の定、聞こえてくる泣き声。納屋に籠もり泣いているであろうアイク。一人で堪え、一人で泣いている。
信じ、敬い、慕っていた父からのそんな仕打ち──
彼も壁を隔てて座り込み、目頭を押さえていた。
その夜、彼は月明かりの元、食卓兼会議用卓のある広間にて一人佇むグレイルを見かけた。
手元を注視するとグラスを手にしているのが分かる。
(団長……?)
そのグラスは口元へ運ばれる。何かを飲んでいるようだ。
「あの……」
静かに近付き、彼はグレイルへ声を掛けた。
「ああ、シノンか」
気配に気付いていたのかどうか分からないが、グレイルはゆっくりと彼の方を向いた。
「もう酒は飲まないと決めたんだがな」
グレイルは琥珀色の液体が入ったグラスを緩く傾け、息を吐き出すように言った。
「団長が飲むところ、初めて見ました。飲まないかと思っていた」
「それほど飲むわけじゃない。昔は仲間と飲んだりしたものだ」
少し懐かしむような口調で語るグレイル。グレイルは過去を語らない。だから彼はグレイルの出生や出身、経歴などを知らない。アイクら実の子もそれを知らないという。踏み込んだところではっきりと語ってくれることはないだろうと思い、彼はその情報の断片を心に留めた。
「一人で飲む酒は、そこまで旨いとは思わない」
そう言い、グレイルはくい、と喉へ酒を流した。
「そうですね」
彼が相槌を打つとグレイルは笑う。
「おまえは酒が好きなんだよな? 一人でも旨そうに飲むだろう。まだ成人していないころから嗜んでるとは感心できんがな」
「あ、……はい、すいません」
そう指摘されて彼も緩く笑った。
「ん、」
そんな彼へ酒瓶が差し出される。
「あ、はい」
彼は頬を紅潮させ、慌ててもう一つグラスを用意してきた。そしてその杯を受ける。
「うむ、いい飲みっぷりだ」
まずは一杯。勢いよく飲み干した彼を見てグレイルは口元に笑みを浮かべる。その顔はほろ酔い加減で赤くなっていた。
「どうだ?」
「これは、旨いですね」
ボトルを注視するとデイン産の年代物の蒸留酒というのが分かった。ここクリミアでも輸入品として手にすることができるが、クリミア、デイン間の貿易はあまり盛んではないためここでは稀少品である。
「高いんじゃないですか、これ」
「……ここではそうだな」
彼はグレイルの一言一言に含みがあるようで気になるが、敢えて深く追求はしない。それより、こうして杯を交わすことに対する嬉しさが勝る。
「団長と飲めるなんて」
端的に嬉しさを示す。
「……シノン、おまえはデインみたいなところへ行って出世したいたちだろう。よく俺のところへ来たな」
そう言われて彼は首を激しく横に振った。
「義理堅いんだな」
笑みを湛えてそう言われると彼は顔を熱くした。
「自分の意志ならいい。だが」
言葉を区切り、一口酒を含むグレイル。
「使命というものを押しつけるのはな。生まれたときからそうであれば疑問にも持たないだろう。親や長というものは神ではない」
飲み込んだ酒が喉を通るのが月明かりで生々しく見える。
「俺が過ちを犯さない人間だと思うな。俺の理念に抵抗を覚えるようであれば立ち去ってもいい」
彼は目を見開き、その言葉を胸の内で反芻した。
すぐに思い出されるは、昼に実の息子へ折檻をしたこと。
それでも彼は首を勢いよく横に振る。
「団長がそんな、そんな。そんなこと言ったらオレなんかどれだけつまらない人生を送ってるか」
少し身を乗り出し主張する彼。
「おまえは自分の足で立って、ここまできた。つまらなくなどない。大した男だ」
そう言われて彼は眉を下げ、目頭が熱くなるのを感じた。
「おまえと飲めて良かったぞ。これでしばらく酒はまた封印だ。次は……」
その言葉の続きを息を飲んで待つ。
「アイクが成人したらだな」
──やはり、そうなのか、と思った。
「シノン、おまえに頼みがある」
「はい?」
「……この酒は俺の部屋の奥へしまっておくからな。覚えておいてほしい」
彼は目を見開いてその言葉を受けた。
その言葉の意味は──
訊けなかった。
ただ分かったのは、息子への情。
ないはずなどない。
あんな理不尽な折檻をしたのには理由があるのだと。それは明かされないが。
息子へ何かを負わせることへ心痛を覚えていることも分かる。特に強く表面化した今日は、止めたはずの酒に手を出したくなるほどの心苦しさを覚えたのだろう。
その杯は息子と交わされることはなかった──
かの人と交わした杯。
それを思い出した。
記憶の中で生き続ける。
草むらの中で佇み、そんな追憶に耽っていたシノンは空を見上げた。
己に託された、かの人の望み。その意味を改めて噛みしめる。
(団長……覚悟ができてたっていうのか)
ともに杯を交わしたその酒の在処を託していった。
息子が成人するまでにその命は失われているかもしれないという覚悟を決めていたのかと、そのときから薄々感じていた。しかし、何故、そのような覚悟を決めていたのか当時は分かりかねた。
(あいつも、か)
重なる親子の顔。
メダリオンによって翻弄された親子の命運──
その命を懸けてまで守り抜こうとした使命。
親は子へそれを託した。
(へっ、命懸けろと言われて、本当に懸けるなんて真似、本当の馬鹿にしかできないことだ)
アイクの辿った道筋を思い返し、つくづく愚かしいと思う。それに比例してなんと輝かしいものであるとも。
(出世しようと思ったらそれなりのことを、か)
アイクが爵位を受け、総指揮を執り、クリミア解放を成し遂げ、救国の英雄と呼ばれるようになるまでの道のりがまさしくそうであった。半ば、成り行きではあったが、それを成し遂げる能力は並大抵のものではない。
それに反してシノンは、一度団を抜けデインへ雇用され、団員らと対立したのであった。
(どこで間違っちまったんだ……)
それらを思い、戦乱が終結した今でも彼は自己嫌悪に陥っていた。押し寄せるは後悔の念。
かの人がこの世から去ったそのときのことを思い出す──
ただただ絶望を感じた。
その夜は雨が降っていた。それは鮮明に思い出される。
クリミアの姫を匿い、ガリアへ亡命するべく歩んでいた団はデインの追跡を受けていた。そんな最中であった。
「起きてください! 敵襲かもしれません!」
休息中の各人の部屋の戸を叩く音と呼び掛けの声が響いた。その声の主は参謀として抱えられている魔道士である。
彼は即、簡易的に装備を身に付け、表へ出た。
そこで見たものは忘れられない光景。
薄笑いを浮かべてかの人の遺体を足下へ置き、佇んでいるアイクの姿だった。
「アイク、どうしましたか?」
参謀セネリオがいつものように淡々と問うた。
「親父は、死んだ」
どこにも焦点の合っていない瞳がそこにあった。能面のような表情で抑揚なくアイクはそう告げた。
「お兄ちゃん……?」
そんな兄を目にし、首を傾げながら眉を歪めてそう問うミスト。そして足下の遺体を目にする。
「いやあああああああ!」
そこには血塗れの父の姿。ぴくりとも動かない。兄も血に塗れていた。
「……アイク?」
ティアマトがそろりと歩み、その名を呼ぶ。アイクはそれに応えるかのように口端を少し上げて笑んだ。
喉の奥から何かが込み上げてくるようだった。
足下がぐらついて倒れそう。
アイクの佇まいが現実感を薄れさせるとともに強くさせた。父が死んだというのに、悲壮感を漂わせていない。薄く笑んでいる。ただ不気味であった。しかしそれは茫然自失な状態であるというのも見て取れた。
「このクソが!!」
反射的に体が動いていた。
彼は衝動に身を任せ、それをアイクへ全てぶつける。
「てめえ団長をどうしたんだよ!」
拳で叩き飛ばす。その身を濡れた地面へ倒す。彼は倒れたアイクへ馬乗りになり、襟元を掴む。
何も、何処も見つめない瞳がただ開かれ、口だけがぱくぱくと動いていた。
「やめて! シノン! やめて!」
ティアマトが駆けてきて彼を止めようとする。他団員の男とともに彼はアイクから引き離された。
「アイク、団長は襲撃にあったのですか?」
彼は羽交い締めにされながらセネリオがアイクへ問うのを聞いた。抑揚がなく淡々とした調子である。アイクも淡々と返した。
デインの手の者にグレイルは討たれたという内容であった。
アイクがグレイルを殺害したわけではなかった。そのようなことをするはずはない、と団員皆、そう思ってはいたが、頭に血が上っていた彼はそうとも思えて激昂していたのだった。
「てめえっ、てめえ……何淡々としてんだよ! 一体てめえは何してたんだ!」
そしてそれよりも、彼はアイクの態度が気に入らなかった。この一大事であるというのに感情の揺らぎすら見せず淡々としているアイクが気に入らなかった。
それと同時に恐怖を感じていたのかもしれない。
(泣け! 喚け! それでいいはずがない)
目を覚ませ──
そう言いたかった。
壊れそうだった。
いつまでも子供だと思っていた。
母の服の裾を掴み、甘えているような。
父に折檻され、納屋で泣いていたような。
「アイク坊や」
アイクが団で実戦を重ねるようになってからも時折そうして揶揄していた。
「シノン、おまえは頼りにしているぞ。将来的にはアイクを戦場へ立たせるつもりだ。そのときにはよく補佐してやってほしい」
グレイルの言葉が蘇る。
一度きりだったがともに杯を交わしたことも思い出す。
息子が成人したら、ともに杯を交わしたいと言っていたことも。
今ここで潰えた夢。
「クソッ……! 団長っ! 団長……っ!」
彼はぬかるむ地面を叩き嘆いた。
この広い世界の中、ただ一人になったような哀しみ。
恩義を受けて、敬愛していた人を亡くした哀しみ。
父を失ったような。
身寄りもなくなり天涯孤独の身となった。幼い頃から死線を歩き生き抜いてきた。そして最後の最後で惨めに囮となって嬲り殺されるところだった。
そこに差し伸べられた手、光。
その光が消えた。
「見苦しいですよ」
そんな彼へ投げられた冷たい一言。
呪いが掛けられたかのように赤いが冷たい瞳。そんな瞳で視線を投げ、冷たい一言を放ったのはセネリオだった。
彼はこの参謀がアイクとは別の意味で嫌いだった。
理想主義者が多いグレイル傭兵団において、少数派の現実主義者である。
デインへクリミア王女を引き渡し、安全策をとるという意見が彼と一致した。普段も、概ね意見が似たようなものになることが多い。
それとなく思考が分かる。互いにそう思っているだろう。
決定的に違うのは、セネリオがアイクへ傾倒していることであった。アイクへ何らかの恩義があったのか、アイクが目的で砦を訪ねてきたように思えた。そうして入団したのであった。
以来、事あるごとにアイクへ付き、従っている。
その姿が滑稽に思えた。
しかし、グレイルへ傾倒している己を省みると、己もまた滑稽であると思えた。
だから嫌いだった。
「何とでも言え」
彼はそう呟いた。
すべては己を映す鏡。
辛辣なセネリオも、茫然自失なアイクもみな。
そしてグレイルの埋葬が行われた。
彼はこの手で葬送を行うこともできないなんて、と思った。
グレイルを埋葬するための穴はアイクとセネリオがともに掘っていた。初め、アイクが一人で掘っていたところ、セネリオが申し出て手伝うことになったのだ。
どれだけ目を掛けられようと、恩を受けようとも、思いを募らせようとも立ち入ることの許されない領域。自分は所詮、他人なのだ──
彼はその光景を見つめながら悶々とそんな考えを巡らせていた。
あなたの、息子に、なりたかった
そのひとを想い、目を閉じる。
「シノン」
声がする。そのひとの息子の声が。憎々しい声が。
目を開けると、セネリオが穴の外へ出ており、アイクのみがいた。
「頼む」
それが何を意味するのか分かった。
「……なんでオレが」
そう返すと団員たちが一斉に彼へ視線を集め、頷く。そしてそのひとの遺体が運ばれてきた。穴の側まで寄せられるとセネリオがそれを指で指し示す。
彼はそれを受け、穴の中のアイクへその躯を支え渡した。落とさぬように細心の注意を払い。
その身は重かった。ずしりと感じる。思っていた通りの重みだった。しかし、冷たく固かった。喉の奥に込み上げてくるものを感じた。
そして土が被せられていく。最後に顔を。そして見えなくなった。
葬送が済むと、抜け殻になったような感覚を覚えた。
本当は憎しみなどなかった。
ただ、虚無感だけがあった。
「アイクの野郎が団長になるのだけは許せねえ」
そんな憎まれ口を叩いた。
そして団員の反対を押し切って団を出た。
アイクの顔が見られなかった。
見ていられなかった。
敬愛する人の息子。だから。
輝かしい日々、それを思い出す。
ずっと手に入らない、それを思い知らされる。
それならば振り出しに戻ろう。
そうして、野心を満たすためデインへ向かった。
「オレは出世してやるからな」
つき合いで団を抜けてきた舎弟へそう宣言した。そのとき飲んだ酒はただただ苦かった。
そして団を離れてからは、忘れ物をしてきたような感覚から抜け出せなかった。それは再び相見えるまでずっと。
再び相見えたときには敵同士だった。
アイクが新団長となったグレイル傭兵団はクリミアの姫に雇用されていた。
デイン王国がクリミア王国を宣戦布告もなしに襲撃したところから始まった戦であった。
クリミア王家の唯一の生き残りとなった王女が旗頭となり、宗主国ベグニオンの援助を受け奪還をはかる。
その総指揮をアイクが担っていた。
デインへ向かったときからそうなる覚悟はできていた。
彼はベグニオン=デイン間の国境であるトレガレン長城へ配置されていた。
ベグニオンからの派遣兵を伴ったクリミア解放軍は国境越えを目指し、トレガレン長城を攻略しにかかる。
破竹の勢いでクリミア軍は攻め入ってきた。堅牢な砦であるこの長城の守りが崩されていく。
竜騎士や傭兵であるキルヴァスの鴉ラグズによる空中からの攻撃、高所からの弓矢、遠距離魔法、すべてをくぐり抜けてきた。
彼は将として先頭に立つアイクの姿を視認していた。
団を抜けてから季節が一つ変わった程度だ。その程度の期間で驚くべき成長を遂げていた。格調のある軍服を身に纏い、通りの良い声で指示を出し、自らも先頭を切って白兵戦を行う。
(アイク坊やが無理しやがって)
高台から彼はクリミア兵を撃墜していた。敵に察知されぬよう的確に射抜き、すぐに身を隠す。単独での動きだった。他デイン兵との連携はない。ただ一人で戦場へ立っているようなものだった。
(潰した数で報酬が決まるってもんだ。とりあえず数だな)
ある程度敵兵を撃墜したら身を隠すつもりでいた。
この堅牢な守りから、クリミア軍の撃退は容易であると思われていた。しかし、優秀な斥候がいたのか、配置を把握されていたかのように対処され、守りを崩されていった。
彼は奥の高台にいた。その位置から打ち抜けるところまでクリミア兵が押し寄せてきている事態が劣勢へ傾いている兆しである。己の戦果が上がるとともに危機感を抱き始める。
(そろそろやばいか……)
彼は手を止め、退避を始めようとする。
「シノンさん!」
高台を降り、脱出路を行こうとしたそのとき、聞き覚えのある声が彼を呼んだ。
「……おまえ! ヨファ……!」
団員の一人である少年が密かに彼へ接近していた。そして声を掛けた。
「やっぱり、シノンさんだ、よかった。今からでもいい、帰ってきてよ」
「おまえっ、どうしてここまで」
「この辺りまで攻め入ったらどんどんクリミア兵やベグニオン兵の人たちがやられていったんだもん。そんな狙い打ちできるのってそうはいないって」
己の腕を評価されている点は喜ばしいと彼は思った。しかし、それを喜ばしいと思っている場合ではない。
「おまえもよく戦場に立つようになったもんだ。オレの居所を見抜けるほどまで成長したか」
ヨファは密かに弓の指導を行っていた弟子であった。その素直な性格から彼は気に入り手を掛けていたのであった。
「ううん、アイクさんが」
その名前を耳にし、彼は目を見開いた。
「咄嗟にシノンさんじゃないかって思って、探らせたって。そしたらここって」
その言葉とともに鳴り響く一つの軍靴の音。
「親父から聞いた。あんたが本来ならデインあたりに行きたいだろうクチだっていうのを。俺もデインの実力主義は理に適っていると思う」
軍靴の音が止まった。
「……てめえ」
すでに幾人もの兵を沈めてきたその剣を手に、彼の前に現れたその姿。
「シノンさん! 戻ってきてよ!」
「……そうはできねえってことくらい分かってるだろ?」
彼は愛弟子の訴えを耳にしながら矢を番える。
「ここをどこだと思ってる」
きりきりと引き絞る音。
「戦場だ」
矢が放たれる。そしてすぐにそれを弾く甲高い音。
「はっ、アイク、てめえとはいつかこうなる気がしたぜ」
矢を弾いた剣をゆらりと振り、アイクはその剣を彼へ向けた。
「俺の首を持って帰ればあんたも出世できるか?」
挑戦的な科白。
彼は思い出す、昔、何度も訓練用の剣で挑んできた幼いアイクのことを。そのたび軽くいなしていた。叩きのめしていた。
「最後までてめえは胸クソ悪りぃ奴だ」
もう一度彼は矢を番え、構える。
「シノン、あんたは俺が倒す」
懐かしい科白だった。
ただ、昔と違うのはこれが命を懸けた勝負であるということ。
彼は喜ばしくも恐怖を覚えた。
アイクが纏う圧倒的な覇気。将軍位の軍装を纏っているせいだろうか、いや、もとより──
あのひとの息子
だから。
まだ青臭さが抜けきらない、成長途中の体躯であり、成人もしていないその身であるが、傭兵として戦場へ立ち始めたばかりの頃とは佇まいが明らかに違う。
あるべき姿へ近付いていると言っていい。
──あのひとの息子になれなかった。
そしてあのひとの息子に討たれるのだ。
いっそ華々しいと思った。
他のどんな敵に討たれるよりも納得のいく最期だと。
「やだっ、ないよ、こんな!」
ヨファの泣き叫ぶ声が聞こえる。この愛弟子には戦場での傭兵のあり方も教えた。雇用主が違えば敵同士。
説得は効かないのだ。
「わかってる、けどっ……けど」
震えながら己の得物を手にするヨファ。
「ああ、いい。それでいい」
彼はその様子を目にし、口端に笑みを湛えた。
そして彼の矢が流れ、アイクの剣が振るわれた。
朦朧とする意識の中で聞いた声。
「動くな! 傷口が広がる!」
斬りつけたその手で介抱してきた。
「……なんの、つもりだ……、はやく、やれ」
血が流れゆくのが分かった。目の前が暗くなっていた。
早く止めを刺して、決着をつけよと彼は相手に促した。
相手は言葉を返すでもなくただ見つめてきた。
そこで幻を見た。
在りし日の光景。差し伸べられた手。
追いかけた背は大きく、頼もしく。
降り注がれた治癒の魔法の光は優しく、温かく。
彼は治療を施されていた。治癒の魔法を掛けられている。その光を浴びて、アイクの母に治療を施されたときのことを思い出していた。
「シノン! 助けるからねっ!」
それはその娘であるミストの声。彼女が治癒の魔法を施していたのである。
(まったく、情けないったらないな)
当時のことを思い出し、シノンはそのとき穴があったら入りたいとすら思った。
それが団へ再加入した経緯だった。
(カッコつけて死ねると思ったのに生き恥じゃねえか)
アイクの手加減により生き残ったシノンは、半軟禁状態で収容された。結局、クリミア軍の快勝であり、どのみち彼は追いつめられたのである。
「あんたはもう裏切らないだろう?」
目を開けたとき、アイクがそう語り掛けてきた。
「馬鹿野郎……斬るなら真剣に斬れ」
「俺も、あんたもそう、真剣だった」
真摯な瞳がそう訴える。
「あんたは筋さえ通っていれば納得するだろう? だから俺はあんたを斬った。俺があんたを斬れるならあんたは納得するだろう?」
「俺はあんたに勝った。実力主義のデインへ行ったあんただ。だから納得できるだろう?」
クソッタレ、変な論理振りかざしやがって
そう声が出せなかった。
圧倒されていたというのか。
「俺はグレイル傭兵団の団長アイクだ。他の誰が団長でもない。そしてグレイル傭兵団はあんたを再び迎え入れる」
そう宣言され、手を強く握られる。
「……家族だから」
嘆願するように独自の論理を展開する剣幕、そして再び迎え入れると訴えるその様子、そのどれもが子供のようだと思った。握られた手が温かい。体温の高い子供の手のように思えた。
(仕方ねえな、オレがいねえとダメなんだろ?)
口端を上げて彼は笑った。
「俺はあんたを信じてるからな」
「……勝手にしろ」
その手は振り解かず温もりを感じていた。
「はは、あいつがどうしてもっていうからな! オレ様の実力が必要と請われたからな! 立ちゆかないからな!」
彼はアイクに負わされた怪我が回復してクリミア軍兵として戦線に立つ際、かつての仲間へそう息巻いていた。
(馬鹿じゃねえの、馬鹿……)
そんな当時の自分を思いだし、シノンは息を吐いた。
そして、生きてて良かった、そう思った。
(まだあの酒のこと教えてねえよ。グレイル団長の頼みを叶えず死んでたまるか)
命を担保とする。そしてそれを貰い受ける相手がいる。
どうしてそこまでするのか。それが宿命だというのか。
団に再加入した彼は居心地の悪さを感じながら、徐々に変わりなく団に馴染んでいった。団員らも変わらず接する。
「やっぱ、シノンさんがいなきゃだめっすよ!」
そう太鼓持ちをするのは舎弟のガトリー。この男も彼とともに団を抜けたが、異なる雇用先を選んだため、途中で別れた。そしてある経緯を経て、先に団へ戻ってきていた。
「おまえ、女につられて戻ってきたんだってな」
「つられてだなんて! おれがステラお嬢様を守らなければ! 聞いてくださいよ~。そりゃあもう美人で……」
目尻を下げながら女の話をするガトリーに、彼は呆れつつも懐かしさを感じた。
「まあ、オレがいない間に見ない顔が……って当然か。知った顔の方が少ないくらいだ。ベグニオンの奴やら半獣やら混ざっててわけわかんねえな」
もはやここは多国籍軍といっても過言ではなかった。
核となるのは、グレイル傭兵団と捕虜収容所から解放したクリミア兵。成り行きや志願で加入した傭兵、ガリアから派遣された獣牙兵までは見知っていた。
「いつのまにか鳥翼のやつらまでいる……」
ラグズは獣牙族のみならず、鳥翼族までいた。これはアイクの機転により恩を受けたことから加入していたのだった。
「何かデインの娘もいますよ。かわいいけど、気が強そうでちょっとおれのタイプじゃないっすけど」
「はあ?」
デイン出身の竜騎士の女性まで属しているという。
「トハから出たときらしいんですけどね、ちょっとうちを偵察にしにきて……そしたらキルヴァスのカラスに絡まれてるのが気になって手助けにきたらしいっす。何故かそのまま居着いてるらしいっす」
「まったく……どうなってんだ」
混沌とした軍の編成具合に彼は呆れて溜息をついた。
「あいつもわけわかんねえ奴ばっかり引き入れやがって」
その呆れぶりはアイクへ向いた。
「っていうか、あからさまに怪しい奴がいるし」
「え、誰っすか」
「あのおっさんだよ、一人飯が好きっていう斥候の。くそ、オレの居所あいつが見つけたのかよ」
彼が指すのはアイクが個人的に雇用しているという情報屋の男だった。優秀な斥候であり、卓越した戦闘力も具える。職業上の理由か性格故か、他の団員や兵などと殆ど会話を交わさない。
彼がトレガレン長城の高台にて潜伏しているのを発見したのはこの男であった。
「ああー、あのフォルカっていうおっさん。アイクがなんか雇ってますね。グレイル団長ゆかりの者らしいっすけど。それが本当なのかわからないっすけどね」
ガトリーのその言葉に彼は目を見開いた。
「団長と……?」
「最初、団長に用があるっていきなり現れたんですけどね、団長亡くなってたからどうしようもないじゃないですか。そしたらアイクでいいって。んまあ、ボーレに聞いた話なんすけど」
ガトリーもその場にはいなかったため、他の団員に聞いた話であった。
「なんだかんだいって、妙に腕が立つし、斥候も優秀だし、便利らしいのでそのままいるっすね。セネリオの奴が金さえ払えば確かだって言ってたから、アイクも納得してんっすかね」
「……そうか」
ガトリーから己が抜けていた間の話を聞き、彼は様々な思いを巡らせた。その中でとりわけ気になったのがこの情報屋の男のことであった。
彼はある男のことを思い出す。
それは、まだアイクが十五にも満たない頃。
グレイルは定期的に深夜、外出することがあった。団員が寝静まった頃を見計らって外出しているようだった。
彼は夜中まで夢中で手仕事をしていることがあり、グレイルが出掛ける物音を察知していた。
(ち……だいぶ夜更けまで起きててしまった。また朝起きられねえ……)
肩を解す仕草をしながら彼は物音も気に掛けていた。燭台の油も尽きかけの頃。
(……あれは団長だよな。たまにどっか行くみたいだけど……)
物音が聞こえると窓の外をそっと見る。大きな影が消えていく。
あるとき、好奇心からグレイルを追跡してみることを思い立った。
グレイルに察知されないよう、なおかつ見失わないよう慎重に歩んだ。林の中を通り、複雑な経路を行く。
(一体、どこへ行くんだ……えらい道を通るな、団長)
そして少し開けた場所へ出た。砦の周辺は仕事や狩りなどでよく歩き回るが、そこは未踏の地であった。何時もグレイルに伴われて行くのだが、意図的になのだろうか、そこへは連れて行かれなかった。
そしてグレイルが合図をすると一つの影が現れた。
(なんだ……? あいつ)
覆面をした男が一人。いかにも表稼業ではない雰囲気を醸し出している。
何かしらの取引を行っている様子だ。しかし、会話の内容までは聞き取れない。これ以上近付くと察知されるであろう。彼は息を殺しながら様々な憶測を巡らせた。
(特に受け渡しはなし……定期連絡ってやつか?)
何か金品などやり取りされた様子はない。二三会話を交わし、男は立ち去った。グレイルは一人になった。
(……?)
グレイルは月を仰ぎ見、素手であるが、剣の構えを取る。それも、利き腕ではない方の腕を軸として。そして無心に素振りを始める。
そのとき、グレイルはすでに剣を使うことはなく、斧を得物としていたがそれは明らかに剣の構えであった。そして、剛胆さを感じさせる重みのある型だった。剣でありながら岩をも砕くような。
彼は思わず息を飲んで見とれていた。その型に魅了される。そして、己を助け出したときの剣技を思い出す。
(そういえば……)
朧気だが、そのときはそのような型だった気がした。軸腕も当時と同じ。
(なんで軸腕変えたんだろうな、団長……。斧だと要領が違うのか?)
ひとしきり一人、型を終えるとグレイルは己の手を見つめ、何か物思いに耽るようだった。
そしてこれは立ち入らないほうがいい領域と思い、彼は己の胸の内に留めることにした。
(それにしてもあの男は何なんだ)
グレイルと何かしらの交渉ごとを交わしていた男。その佇まいは印象的だった。覆面で殆ど表情は読めないが、瞳だけがやたらに鋭く。
(団長に用があるといったらオレの知り得る範囲ではあいつしか思い当たんねえ)
記憶の中の男と、アイクが雇用している男が同一人物であるか確証は持てなかったが、彼は何かの糸口を掴んだ気がした。
(……団長が何やってたか、何を思ってたか、分かるかもしれないからな)
そう思い、アイクの影のように傍に控えるその男へ目線を遣るようになった。すると、おのずとアイクへ目を掛けているようにもなった。
「シノンさん、何アイクばっか見てんすか」
「う、うるせえ! 別にアイク見てるわけじゃねえよ!」
ガトリーが何気に指摘すると反論する彼だった。
それからアイクはデイン領ダルレカへ突入する前、多額の金を軍資金から借り受けていた。クリミア解放軍を撃破しようと待ち構えていたデインの傭兵を撃破したところ、得た金であった。そこから一部を借り受けたという。
(ガキが何あんな大金使うっていうんだ。女でも買おうっていうならシメるぞ)
その話を耳に入れた彼は、アイクの金の使い道を探ろうとした。金の入った皮袋を手にしたアイクを追う。
アイクは己の天幕へ入った。そこから動く様子はなかった。彼は根比べとでもいうかのように、天幕の前で張っていた。
(クソ……寒いんだよ! 誰か来るならさっさと来い!)
雪降りしきる中だった。彼は物陰に身を潜め、現れるであろう相手を目にしようとしていた。
(……天幕まで呼びつけていたそうってわけか?)
女を呼びつけて買い、天幕内で遊技に耽るのでは、などと想像していた。その女の顔でも見て後にからかってやろうかと思った。
「……好奇心は猫をも殺す」
低く響く声。物音もなく影が現れた。それに気付いた次の瞬間に見たのは紅い瞳。覆面で覆われて瞳だけがやたらに印象的に、残像のように見えた。
「……シノンさんっ! シノンさんっ! 凍死しちゃいますって!」
彼が次に聞いた声は己の体を揺する舎弟の声だった。
「もう~、酔っぱらって気持ちよくなっちゃったんすか? 酒飲んで冬、外で寝ちゃったらお迎えが来ちゃいますって」
起こされて、急に事態が把握できなかった彼だった。勢いよく辺りを見回す。最後に見たのはあの紅い瞳。
「あー……、オレ」
頭を抱えて言葉を途切れさせる。
「クソ、アイクの野郎が女買うっぽいからどんな女なのか顔見てやろうと思ったのに」
「シノンさん~、そんなことしてたんっすか。面白そうっすけど、こんなとこで寝ちゃだめですって」
「ああ、酔っぱらってたなオレ」
頚椎の辺りを擦って彼はガトリーへ受け応えた。
それは一瞬の出来事だった。
彼はあの男に失神させられたのであった。
あまりにも鮮やかな手腕。その道の者と思わせるに十分な。
その男には二つ名があるという。
その名を酒場で唱えると、一週間以内に現れる。
金次第の沙汰で仕事をこなすという。
(裏の道で有名だった奴じゃねえか。あれか、あいつがそうか)
彼はその男の通り名と、傭兵として渡り歩いてきたときに聞いた話を合致させた。
「ああー、飲み直ししてえな。酒場に行って」
「そうっすね」
「そんで、呼んでみるか、火消しさんよ、って」
「なんすかそれ。シノンさん、相当酔ってますね」
その背中が小さくも大きくも見える。
ダルレカを通過しようと指揮を執るアイクの姿に彼は複雑な思いを抱いた。
「このときのためにってんじゃなかったのか。あのデインの女を盾にさくっと通過しちまえばいいものを」
クリミアと敵対しているデインの出身、そしてこのダルレカの領主シハラムと同姓である女竜騎士ジルがいた。軍内でも、シハラムと何らかの関係があると思われている。内通を謀るのではないかと嫌疑もされていた。公にはしていないがジルはシラハムの娘であった。
彼はジルを質にしてシハラムと交渉すべきと思った。
しかし、アイクはそれをしなかった。
「シハラム卿は俺が討つ」
そう宣言して。
民の信望が厚く、よき領主としてこの地を統治していたシハラムであったが、この地が荒れる覚悟を以て抗戦の構えを見せている。その様子から、いかような交渉を用いても覆らないであろうというのがアイクの意見であった。
それとともに、ジルに身の振り方を己の意志で決めさせようというのだ。
ジルはデインの反ラグズ思想を教育として受けてきた。しかし、アイクらと同行するうち、その思想に疑問を持ったということだ。
ここまでクリミア軍に留まっているということは未だデインの体制に疑問を抱いているということだ、というのはアイクの弁だった。
その上で、アイクはジルに選択させようという。それが「自由」であるといい。
そう語ったときのアイクの瞳に冷たい炎が宿っているようだった。彼はその冷たい蒼を見て、グレイルが没したとき見せた虚ろな瞳を思い出した。背筋が寒くなる。そして焦燥感も覚える。
「アイク、よく決断したね」
団員の一人である三兄弟の長男が感心したようにそう言った。いつも穏やかな表情で、感情が読めない男であるが、心なしか心痛を覚えているようだ。僅かに眉が下がっている。
参謀であるセネリオはすでにアイクと打ち合わせたのかアイクの意向を把握しており、補足説明などしていた。
「僕はジル・フィザットを交渉材料にするべきと思いますが、アイクの意向に従います」
「はっ……」
またしてもセネリオが己と同意見であったことに彼は逆に苛ついた。
「わかったよ、てめえがシハラムを討つんだろ? オレはてめえと同じ領主館への特攻隊にいりゃあいいんだな?」
彼は利き手の人差し指と中指を交互に動かし、無意識に苛つきを表に出しながらアイクへ聞き放った。
「……ああ、頼む。後方の守備は任せた」
険しい佇まいなアイク。眉間の皺が一層深くなったような。将軍位となってからはそのような表情ばかりしているような気がした。
彼はそんなアイクを一発殴ってやりたい衝動に駆られた。昔のように、棒で何度も叩くように。
(そんなツラばっかりしてんじゃねえ)
その空気が嫌だった。ひたすらに重い。
殴ったら目を覚まし、威勢のいい声を上げて反撃してくるだろうかと思った。
しかし、さすがに軍議の最中でそのようなことをするわけもなく。
そしてアイクはシハラムと対峙した。
シハラムは領主館の上手にある水門を開放し、クリミア軍を足止めにかかった。領民をも犠牲にしようというのだ。
これにより速攻を余儀なくされる。自軍の兵とダルレカの領民を守るため、アイクは急いで進んだ。この地をよく識るジルの先導で。
そして娘は父の死を目の前にする──
ジルが説得するも、シハラムは覚悟を決めていたようで、降伏することはなかった。己が死ぬほかに道がないと。戦場で将が死すれば部下の責任は追及されないであろうと。
アイクに討たれた父の躯を抱え、ジルは泣き叫んだ。
(クソ……)
彼はいたたまれなさを感じて盛大に顔を歪めていた。泣き叫ぶ父を殺された娘の声、そして人の父親を殺めたアイクの顔。
この憎しみはただの雑兵へ向けばいい、そう思い彼は弓を引いていた。
(憎まれ役ってやつはすでに汚れてるやつが負えばいい。裏切り者にお似合いだ)
自嘲を含み、矢を放った。
しかしその矢は魔道の風によって折られた。セネリオが阻止したのだ。彼が不穏な動きをすれば首を刎ねると宣言していた。
「クソ! この馬鹿! オレだってクリミアについてた方がいいって分かってら! アイクの首を取ろうっていうんじゃねえ。あっちの首をさっさと取って早く終わらせようってんだ」
この機に乗じてアイクを抹殺しようと思われていた彼は己の利を挙げて反論した。
「……僕も負うことが許されなかったのです。だから邪魔はさせません」
セネリオはそう意味深なことを言う。彼はその心をそれとなく感じ取ったが言及はしなかった。
そしてその結果が、人の父を殺めたアイクの姿──
アイクはジルが泣き崩れる光景を見つめ、血塗れの剣を握ったまま立ち尽くし、薄く笑みを浮かべていた。
「ボサッとしてんじゃねえ!」
彼はそんなアイクを語気を荒げて蹴り飛ばした。
「あ、あぁ」
アイクは焦点の定まらない瞳を彼へ向け、そう応えた。そして部隊へ指示を出していった。
──壊れた、心
蹴りを一発食らわせられて少し胸がすいた、彼はそう思った。しかし、それで引っ張り上げることはできないとも思った。
冷たくなった父親の躯を抱えて戻ってきたときの瞳、そして人の父の仇となったその瞳。冷たく虚ろな。それらが脳裏にちらつく。
無邪気にはしゃぎ、父と母に囲まれ、屈託なく笑みを見せていた遠い昔の姿も思い出し、それが幻のように思えた。
そういえば、背も伸びて肩幅も少し広くなった気がする。小さい、小さいと馬鹿にしてきたが、あと少しで追いつかれるかもしれない。骨格は彼の父によく似ている。筋肉も程良く乗り、腕も太くなってきた。
──そんなに、急に大人になるな
ただ痛みだけが伝わる。
成長痛にしては大きすぎる痛み。
それからさらにアイクは責を負った。
ダルレカの民を想うクリミアの姫の声を聞き、アイクは兵糧より賠償として食料を提供した。
しかし、ダルレカの民はクリミアの施しを受けるのは屈辱だといい、武器を持たず民の前へ出て謝罪をしたアイクへ投石したり罵倒の言葉を投げ掛けた。
毅然とした表情を崩さなかったアイク。
彼はその姿を思い出し、一人戦場となったあとの河辺を歩いた。
そこは、ぬかるむ土、流された作物、柵や建物であった木片などが混ざり合い、惨状を示している。
これらを見るだけで生活を犠牲にされた民がどれほどいるか明らかだった。賠償としての食料を配給する際、父を失い病気の母がいるという小さな子供がアイクへ縋っていたのを思い出す。
彼はその子供に己の境遇を重ねた。これから辛い人生が待っているだろうと思った。そしてまだ憎むべき相手が誰であるか分からない歳であると。
ただ、目の前で施しを行う人物に縋るのみ。その人物が己の不幸な境遇を生み出した元凶であっても。
(憎むことも知らないで生きていくのか)
憎しみはときに生きる糧となる。
(仕方ねえって割り切るようになったら大人っていうのか)
木片を拾い上げて彼は力なく振る。
(戦争屋として矢面に立つってことはああいうガキ作り出す元凶になるってことだ)
今度は力を込めて振る。
「だから言っただろう、てめえみたいな甘ちゃんには荷が重いって」
声に出して、一言漏らす。
投石を受けて一瞬歪めたアイクの顔が脳裏にちらつく。
彼は木片を放って小石を拾った。
「てめえを一番憎んでるのは、オレなんだからな」
徐々に水が引いていく川へ投げ込まれる石。
「絶対おかしい、絶対。あいつは頭がおかしい」
石が川底へ吸い込まれていく。
「自分の父親殺されても泣かねえ、人の父親殺しても泣かねえなんて」
挙げ句、己の命すら駒のように扱う。
それを目の当たりにしたときの衝撃は忘れることはなかった。
(あんな大金の使い道がてめえの命を止めるための依頼だったなんて)
シノンはアイクの顔とグレイルの顔を交互に思い出し、息を吐いた。そしてその契約が執行された現場も思い出す。
(火消しに依頼、という時点であれだ)
地下世界で有名な暗殺者。その通り名は知っていた。確実な仕事をするという。
(団長……あなたは……)
ともに杯を交わしたあの日を思い出す。
己のことは殆ど語らなかったグレイル。そして、言葉少ない中語られたアイクら兄妹が母を失った経緯は嘘であった。
(己に枷を嵌める生き方を選んだ)
かの暗殺者と定期連絡を交わした後、月明かりの中、己の手をじっと見つめていたその姿を思い出す。
(アイク、おまえは……)
父と同じ契約を結んだ息子。
グレイルは『火消し』のことをアイクへ話してはいなかった。ことの真相は己の死亡時にアイクへ伝える契約であったが、同じ契約を結ばせようなどと思ってはいなかっただろう。
(やっぱり選び取っちまうのか)
火消しが持ちかけたそれ。父と同じ契約を息子は結んだ。その道を選び取った。
シノンはその真相を知った当時を振り返る。
──それを目の当たりにしたのは最終決戦
クリミア解放軍はいよいよ王都メリオルへ到達し、首都奪還、そして戦乱の終結を目標とし、鬨の声を上げた。
メリオルはデイン国王アシュナードが占拠していた。デイン王都は放棄し、メリオルを拠点としていたのだ。そこへ兵力を集結させ、持てる全ての軍勢を以て抗戦の構えを見せていた。クリミア軍も各国から助力を得、同等の戦力を以て立ち向かっていった。
戦闘狂と称されるアシュナードは将であるアイクとの一騎打ちを喜び勇んで受けた。アシュナードが使用する武具はアイクが持つ神剣ラグネルでなくては攻撃が通用しないという。そうして神懸かり的な対決が行われた。
アイクは一度、アシュナードへ致命的とも思える一撃を浴びせた。しかし、アシュナードは青白い光を帯びる何かを懐から取り出し、包みを開け、触れた。アイクも覚悟ができていたようで、それを凝視しつつ注意を払って構えていた。
(何だよ……決着がついたんじゃねえのかよ……!)
アイクの決戦を目にしながら彼は弓隊としてデインの竜騎士隊を対処していた。飛竜の翼を射、騎手を貫き、次々に撃墜していく。そんな中、常にアイクへ目線を送ることは忘れなかった。否、目が離せない。
アイクの戦闘力はここまで強大になったのかと感嘆していた。それは凄まじい戦いであった。神剣の威力も神懸かり的である。衝撃波を発するなど、尋常ではない威力だ。そして、ラグズ最強である黒竜に乗り、飛来しつつ熾烈な攻撃を浴びせてくるアシュナードも背筋が凍るほどの強さであった。アイクはそれと同等に渡り合い、一度決定打を浴びせたのである。
しかし、アシュナードが懐から取り出した何かに触れると、アイクに負わされた傷など無かったかのように動き出す。それどころかさらに力が増強したかのように見えた。
アイクは苦戦を強いられた。治癒の魔法で傷は塞がったものの、体力は回復しない。一方、アシュナードは体力の消耗すら感じさせない勢いであった。
そんな中、別部隊にて対空戦を制した鷹王が加勢に現れた。その連携により、アイクは勝利を得た。
そしてアイクが敵軍の将であるアシュナードを断首し、絶命が確認された。これでこの戦乱は幕引きとなった──
否、
(……!? あの竜、生きてやがる!)
操り手を失った騎竜が咆哮した。
この騎竜である黒竜は所謂『なりそこない』だと思われた。不正に生態を歪められたラグズだ。化身が解けず、自我を失われ、操られたもの。
操り手であったアシュナードが死亡したため、黒竜は暴走を始めた。
「くそっ……! おまえら下がれ! たちうちできる相手じゃねえ」
周囲のクリミア兵やラグズ一般兵へ向けて鷹王が叫んだ。
(まあ、こんな弓じゃ刺さりそうもねえな……)
その鱗は鉄を弾き、口から吐き出される閃光は容易く城壁を砕く。太い爪が地を割り、尻尾が兵十名を軽く凪ぐ。
混乱を極める中、彼は黒竜の被害を受けぬようアイクを探した。
(ん……? 何探ってやがる……)
アイクは、妙な行動を取っていた。すでに物言わぬ死体となったアシュナードの懐を探っていた。この非常時にとる行動ではない。
(何こんなときに漁ってんだ!)
戦利品でも漁っているように見えた。しかし、何か様子が妙だ。
(……あれは!?)
その手に光る青白い光。
(メダリオン!?)
それは触れることを禁忌とされたもの。グレイルが心痛を覚えながらも咎を与え、それを禁忌であると教えた。アイクはそれを今この場で犯す。
彼はそれにどのような意味があるのか分からなかった。しかし、アシュナードがそれを所持していたことからある予測はついた。
(……やっぱり、こういうことかよ!)
メダリオンを所持したアイクは先程のアシュナード同様、疲れ知らずと言わんばかりに戦闘力を増大させ、黒竜へ立ち向かっていった。
鷹王が暴れ狂う黒竜を挑発し、引きつけていた。鷹王はアイクの様子が普通ではないことを察しながらも黒竜撃破を手助けする。そして黒竜を撃破した。
(これで終わらないってか)
彼はただこの状況を眺めていることしかできなかった。それがもどかしく思えた。そしてアイクの様子が尋常でないことを察していた。
攻撃対象が切り替わったと言わんばかりに辺りにいる一般兵へ無差別に攻撃を開始する。
(ちっ、危ねえ奴だ!)
彼も巻き添えを食らわぬよう、目線を向けたまま避けていた。
そして鷹王がそれを対処しようと対峙していた。
(……やるしかねえのか)
彼は弓を握り、矢筒へ手を伸ばす。
鷹王はこれまでの戦闘から疲弊していた。何度目かのアイクの攻撃により、翼に損傷を受け、化身を解き受け身を取って地に落ちた。
そんな時──
(あいつ……!)
アイクの前に現れたのが例の男。
(火消しか……!)
男は僅かに手を振り、そのような所作で容易くアイクの注意を引いた。あたかも暗示を掛けたかのように。
それで攻撃対象が切り替わったのか、アイクは男へ剣を向けた。
「お兄ちゃん……! いやあっ! やめて!」
アイクの一方的な熾烈な攻撃。男はその筋を読み、避ける。懐へは入り込めない。
そんな戦闘が繰り広げられる中、後方で支援に徹していたミストがここまで辿り着き、兄の暴走する様子を目の当たりにした。
「バカ、行くな! 今のあいつは普通じゃねえ! おまえも死ぬぞ!」
それを追ってきたのが団員のボーレ。力づくでミストを押さえる。彼はそれを見て、普段単細胞だと思っていたボーレもそれを判断する頭があるのかと思った。
「お兄ちゃんのバカ! なんで、なんでメダリオン触っちゃうの! お父さんにダメだって言われてたのに! お父さんもおかしくなっちゃったのに!」
ミストが叫びながら告げたその内容──
それは一部の者にしか告げられていなかった真相。
彼はある予感に確証が得られそうだと思った。
「なんだよそれ!」
彼同様それを告げられていなかったボーレは疑問を叫ぶ。
「昔、お父さんが間違ってメダリオンに触っちゃって、匿ってもらっていた人たちや追ってきたデインの兵隊さんたちを無差別に殺しちゃったの。普通の人がメダリオンに触ったらおかしくなっちゃうからって。それは、それは」
ミストは端的に説明し、言葉を続ける。
「お母さんが止めた。わたしもそうだけど、お母さんはメダリオンに触れるの」
それで予感は確証となった。
グレイルは嘘をついていたのだ。
あの日訪れた集落、あそこでグレイルは惨劇を繰り広げたという。グレイルは賊の襲撃に逢ったと説明していた。しかし、集落の者を手に掛けたのはグレイル自身であったのだ。
(……なんてことだよ、団長……)
アイクへ折檻をした日、止めたはずだと言った酒を手にしていたグレイル。
「俺が過ちを犯さない人間だと思うな。俺の理念に抵抗を覚えるようであれば立ち去ってもいい」
そんな言葉が思い出される。
今、それは更なる意味を含んだものだと理解した。
アイクへ手を掛けたこと、それだけではなく、自らの手で惨劇を招いたことを──
贖罪、という言葉が浮かんだ。
利益を度外視し、人々のために安価で依頼を請け、尽くす。それがどのような意味を持っていたのか。
そして当然、アイクもその事実を知っている、知ったはずだ。その上でのこの行動であろう。
(世の中ってのはどうしてこうままならねえ。仕方ねえって思わねえとやってらんねえのかよ!)
彼は奥歯を噛む。
「アイク、てめえ! 馬鹿野郎!!」
世界で一番、憎くて羨ましい相手。
そんな相手を罵倒する涙声が戦場に響いた。
「おまえの母ちゃん、いねえだろ! どうしていなくなったか、分かったよ!」
ミストを押さえていたボーレがそう言った。
これまでの状況、話などから判断するに、メダリオンに触れると精神が犯され、暴走するようだ。そして、戦闘力が増強されるようである。
そもそもグレイルが殺害されたのは、メダリオンを欲したアシュナード配下の者の手によってだった。そして先程までアシュナードが所持していた。一度アイクが致命傷を負わせたはずのアシュナードが傷など無かったかのように復活したのはメダリオンの力によるものと思われる。
(元から狂ってる奴はもう狂いようがないってわけか)
アシュナードは変わらぬ佇まいでメダリオンの力を取り込んでいた。
(どういうわけかミストや団長の嫁さんは狂わねえみたいだが)
それは後に正の気が強いためと説明された。
「行くな、絶対に行くな。おまえが死んだらアイクは……」
ボーレがミストを押さえながら念を込めてそう言った。
グレイルの妻エルナは賊の襲撃から子供らを守るため没したと説明されていた。しかし、ボーレが言ったように、エルナはその身を挺して夫の暴走を止めたのだと彼も推測した。
(嫁さん手に掛けちまったのかよ団長……)
同様に兄を止めようとするミストであった。しかしボーレが押さえ込んでいたため母と同じ道を辿るのは防がれている。その様子を見て、彼は母娘の血の繋がりを感じた。
(ミスト、おまえもか)
親の行動をなぞるように子は動く。
アイクが何故、メダリオンに自ら触れたのか。
それは黒竜に対抗するため緊急措置としてであると。戦闘力を増加させるためメダリオンに触れたのだろう。他に対抗しうる実力者も体力の限界が見えていたり、持ち場を離れられなかった。それを判断してアイクはこの方法に懸けたのであろう。
(後先考えねえで……なんてことを)
黒竜を倒したまではよかったが、その後、精神の制御はままならず、戦闘兵器と化してしまった。
(いや……)
そんなアイクの前に立った『火消し』と呼ばれる暗殺者。
「っ、くそ……っ、あのおっさんがなんとかしてくれる、たぶん」
「フォルカさんが……?」
ボーレとミストが指したその男は──
金次第の沙汰でいかような依頼も請けるという男。そして本業は暗殺。
(あいつ、まさか)
死ぬ気だ
身を挺して、守ろうと。
このような事態を想定してアイクはあの男と契約を結んだのではないだろうかと彼は思った。万が一、メダリオンに触れてしまったとき、その命を制御せよと。
昔、グレイルがあの男と定期連絡をしていた場面を思い出す。おそらくグレイルは同じ過ちを犯さぬようあの男へそのような依頼をしていたのだろうとも思った。
グレイルは事故を想定して契約を結んだのだろう。しかし、アイクはそれを故意に。危機を脱する手段として利用した。
(後の始末は考えてあるってわけか……!)
危機を脱した後は、命の制御を以て終結させよと。あたかも使い捨ての兵器のように。
(てめえは爆弾と一緒かよ!)
弾けて、散って、終わり。命の尊厳など存在しない。投下して排除して、征する。そんな駒の一部。
「クソ……!」
ただ感嘆を漏らして彼は走った。戦場を舞う砂煙に混じり。そして物陰に身を隠す。
肺に空気を入れ、矢筒に手を伸ばす。
(見せてやるよ、オレ様の達人技)
意識が閉じられていく。周りの景色は黒く塗り潰され、ただ見えるのはその対象のみ。
(あっちが『火消し』ってんならこっちは『狙撃手』だ)
静かに弓を引き、狙いを定める。
どく、どく、と鼓動が響く。
激しく動く的を狙う。
機会はそうない。外せば己の身に危険が及ぶ。遠く離れていても居所を察知されればあの神剣から発せられる衝撃波で攻撃されるだろう。
(足だ。足を)
足を射、動きを止めようと思った。
(クソ……)
しかし、あの暗殺者との対戦でかなり激しい動きをしているため狙いが定めにくかった。そうなれば上半身を狙うのが易い。
そしてそれはアイクの命を奪う可能性が大きい。
(どうせ、おまえは死ぬ覚悟なんだろう?)
彼も覚悟を決めゆく。
(今度は、オレがおまえを)
一度、敵対し斬られた。それは命を懸けた救いの手。
それをなぞらえて彼は、その相手へ弓を引く。
弓を引きながら思い出されるのは遠い日。
「うわあ! 痛そう! どっかで転んだのか!?」
無邪気に寄ってきて物珍しそうな目線を送ってきたアイク。
「シノンは遊んでくれるんだよな、悪くない。うん、おやじが言ってたやつだし」
惨劇の後、記憶を閉ざし、無愛想な性格になり、警戒心を持ちながらも打ち解けようとしてきたアイク。
「シノンはおれが倒す」
小さな身で対抗心を持ち何度も挑んできたアイク。
「シノン、おれもあんたのことあまり好きじゃないけど、うちに来てよかったと思うぞ」
どこから来てどうして強くなったか問い、大人の強さについて語り、そうして好意を示してきたアイク。
(……ちっ、アイク坊やが)
その小さな姿が目の裏に映し出される。
そしてその姿は成長し、今、死闘を繰り広げる姿へ近づいていく。
「親父は、死んだ」
薄笑いを浮かべ、かの人の遺体を足下へ置き、佇むアイク。
「シノン 頼む」
かの人の葬送を手伝って欲しいと呼びかけてきたアイク。
「俺の首を持って帰ればあんたは出世できるか?」
再び相見え、対峙し、挑戦的に問うてきたアイク。
「動くな! 傷口が広がる!」
斬り付けた後に介抱してきたアイク。
「あんたはもう裏切らないだろう?」
目を開けたとき、そう語り掛けてきたアイク。
「……家族だから」
再び迎え入れると言い、手を握られた。
体温の高い子供のような手。
「俺はあんたを信じているからな」
弓を握る手がぶるぶると震えた。
「クソ、クソ……っ! ちくしょうっ!」
喉の奥が痛い。
「狙え、狙うんだ、心臓を、せめてひと思いに」
口腔でそんな科白を共鳴させた。呪文のように。
そして機会が訪れる。暗殺者が何かの合図を発した。それに連動し、アイクの動きが一瞬止まる。彼は目を見開き、全ての時が止まったような感覚を覚えた。
それに身を任せ、弓を引いた手を離そうとしたそのとき──
「……!?」
相打ちだった。
暗殺者の刃がアイクの胸を刺し、アイクの刃が暗殺者の身を抉った。
鮮血が飛ぶ。
「シノン!」
ミストの声が響いた。兄が相打ちになる姿を目にし、悲鳴を上げた後の第一声。
その先には弓を捨て、身一つになりアイクを押さえつける彼の姿があった。
「ミスト! 早く! こいつからメダリオンを奪え!」
その声に従い、ミストはアイクの懐を探り、メダリオンを奪取した。
「杖使え! 魔法掛けろ! ボーレ、ぼさっとするな! キルロイ呼んでこい!」
そして彼はメダリオンを奪取したミストへ治癒の術を施すよう指示を出す。立ち尽くしていたボーレへも神官の男を呼ぶよう指示を出した。
「お兄ちゃん……っ、うっ……」
「泣いてる場合じゃねえ!」
泣き出しそうになりながら、ミストは治癒の杖を掲げる。彼はそんなミストを叱咤し、アイクの装備を解いていく。装備を解き、衣服を脱がせると、晒布で止血の措置をする。
「こいつは死なねえよ! こんなんで死んでたまるか!」
措置をしながらそう叫ぶ。
「この馬鹿! かっこつけ野郎が! かっこつけて死ぬんじゃねえよ馬鹿野郎!」
措置を終えるとアイクの頬を叩いたり抓ったりして耳元で罵倒する。
「……う、シ……ノン、バカ……」
「バカ! 喋んじゃねえ!」
指を動かし、声を出すアイク。意識があるのを確認できて彼は胸を撫で下ろした。彼の声に従い、アイクは声を出すのを止めたが、彼の声を耳にしながら意識を保とうとした。
そしてキルロイが到着し、本格的に治療を開始した。
(……急所は外しやがったな、火消しの野郎……)
彼は処置をしていてそれに気付いた。そしてその暗殺者がいつの間にかこの場から消えていたことにも。
「……よかった。もう大丈夫だよね、お兄ちゃん」
涙を拭きながら搬送されていくアイクを見送るミスト。
「オレ様が止血してやったんだ。死んだらたたじゃおかねえ」
腕を組み、彼はそう言い捨てる。
「……ありがとう、シノン」
笑みを向け、ミストは彼へそう礼を述べた。
「はっ、グレイル傭兵団の団長に死なれたら、オレは食いっぱぐれるからな。これは仕事だよ、仕事!」
「……お?」
彼のその言葉にボーレが眉を上げた。
「シノンがアイクのこと団長って言った!」
「あっ!」
ボーレがそう指摘するとミストは口を手に当てて声を出した。
「う、うるせえ! 言葉のはずみだ!!」
そして思い出す、あの酒の在処を。
その酒を酌み交わす時がやってきたのだと──
草むらに座り込み、これまでのアイクに関わる記憶を引き出し、物思いに耽っていたシノンであった。
(……もう、坊やじゃねえよな、さすがに)
記憶の中にはいつまでも、小さな身を張って己に立ち向かってくるアイクの姿がある。しかし、今目に映るのは筋骨逞しい成人男性の姿。
(団長、約束は果たします)
その姿と在りし日の恩人の姿を重ねる。
夕食後、明かりも灯さず団長室にいた。元々はグレイルの部屋であったが、現在アイクの部屋となっているため、アイクが広間にいる間、急いで用を足すシノンであった。
(アイクの奴、見つけたりしてないだろうな)
そう思いつつ、壁掛けを外し、部屋の隅の壁石を一つ抜く。その部分だけ漆喰が塗り込まれておらず引き抜けるようになっているのだ。そして空洞が現れる。
一度、グレイルに目の前でこの仕掛けを見せられたのだ。この空洞へ共に杯を交わした酒を仕舞っておくと言っていた。しかし、本当に酒を仕舞っているかは確認していなかった。
(……どうだ?)
手を奥に入れ、硝子の感触があった。シノンは目を見開いて息を飲んだ。そしてその酒瓶を引っ張り出す。
目の前に現れたのは追憶の品であった。感慨深さを覚えつつ、埃を払った。
(ん?)
酒瓶の他に書筒があることに気付いた。そしてシノンはそれを開け、中に入れられていた手紙を目にする。全文読むと深く息を吐きながら書簡へ戻した。
「おい、アイク」
夜も更けた頃、シノンは団長室の扉をそっと叩き、アイクを呼んだ。
「なんだ、シノン」
就寝しようとしていたアイクは少し眠そうな目を擦り、応対した。
「ちょっと来い。騒ぐな」
指を口に当て、声をあまり出すなという仕草でシノンはアイクを広間まで誘った。
「まあ、そっち座れ」
窓辺の卓へ着くようシノンは促す。
アイクはこのような誘いをするシノンに首を傾げていた。まず二人きりで対面しようなどということなどなかったからだ。増して、シノンから誘いかけるなどと。そして何の話があるのだ、と疑問に思った。団の運営方針が気に食わないとか、脱退するとかそういう話なのかと思い始めると眠気が冷めていった。
それでも口を開くことはなく睨み付けるようにシノンを見つめた。
「相変わらず目つき悪りいなおまえ」
「あんたほどじゃない」
「ああん?」
売り言葉に買い言葉。アイクとシノンは睨み合いになった。
「ち、それはいい。長期任務になるみたいだからその前に果たしておかなきゃならんことがあってな」
いつもならここでいがみ合いになるのが定番であったが、気を取り直してシノンは本題を切り出した。
「それが何か分かるか?」
卓に置かれた月明かりに照らされる酒瓶。古ぼけているが存在感を放つ。
「あんたの飲みかけの酒か」
「まあ、そうって言えばそうか」
アイクの答えに含み笑いをするシノン。
「……これはグレイル団長が飲んでいた酒だ」
シノンのその答えにアイクは目を見開いてもう一度酒瓶を注視した。
「おまえがまだほんのガキの頃だ。オレは団長と一緒にこの酒を飲んだ」
両肘を卓に付き、手を組み顎を置きながらシノンは語る。
「そのときオレはまだ知らなかった。団長が業を背負っていたことを」
両膝に拳を置き、真っ直ぐと視線を向けてシノンの話を耳に入れるアイク。
「おまえが団長にえらく打たれて泣いてた日の夜だったな。メダリオン触ろうとしてたときか」
アイクの眉が歪む。それは誰も知らないはずのことだと思っていた。まさかシノンに目撃されているとは思っていなかった。そして一人泣いていたことも。それをからかわれることもなかったのでまさかと思った。
「一人、苦い酒を飲んでいた。たまたまオレはそんな団長を見かけて声を掛けて……一緒に飲むことができた」
「あのときか……。あんたに見られてたなんて。あのとき、何で親父があれだけ酷く打ってきたのかわからなかった。でも」
「ああ。メダリオンがどれだけヤバイのかって、今のおまえなら分かるだろう?」
命を懸ける覚悟でそれに触れ、死闘を繰り広げ、辛くも生還したアイクは重く頷いた。
「そりゃあ、団長は言えなかっただろう。嫁さん……おまえの母親を手に掛けてしまったこととかな。理由を言えばそれに辿り着く」
「俺はまだ本当にガキだった。どうして、どうして、と理由が知りたかった。だが、親父は説明するつもりではいた。それをフォルカに依頼してたのだからな」
アイクの手が卓に置かれ、組まれていた。目線はそこへ向き、神妙な表情を作る。
グレイルが交わした例の暗殺者との契約──それは二つ。
万が一メダリオンに触れて暴走することがあれば命を奪うことによってその身を制御すること。そして、グレイルが没した場合、メダリオンに関わる惨劇について、アイクの成長を判断して説明すること。
「親父が、と思った。すぐには受け入れられなかった」
事実を知ったときの衝撃。人格者である父の犯した過ち。
「……事故だろ」
シノンが一言投げるとアイクは頷く。
「団長が言ってた。俺を完璧な人間だと思うな、って」
アイクの顔が上がる。
「仕方ねえよ。団長も人間だろう。団長が愚かな人間というならオレなんかどうだ。しょうもないだろ。まあ、おまえよりはずっと格が上だがな」
そう言い、シノンがアイクの額を指で突く。アイクは思わず顔を顰める。
そしてシノンはグラスを二つ用意し、酒瓶の栓を開けた。
「さあ飲め」
酒を注ぎ、杯を渡す。
「おまえが成人したら、という約束だった。おまえが王都へ行きっぱなしだったからちょっと過ぎちまったが」
口元が笑う。
「……乾杯」
グラスの音が響いた。
「シノン」
「なんだ?」
喉へ酒を流し、その熱さを感じながらアイクは呼びかける。
「ありがとう」
真っ直ぐに、礼を告げた。
「は……っ、グレイル団長の頼みだからな! てめえにどうこうってあれじゃねえよ」
一気に酒を飲み干すシノン。
「あのときも、あんたは俺に応急処置をしてくれた。呼び掛けてくれた。うるさいって思ったけど、それで戻ってこられた気がする」
黒竜へ応戦するためメダリオンに触れ、暗殺者と相打ちで倒れた後のことを指した。遠のく意識の中聞こえたいつもの罵倒の声が思い出される。そしてその声が救いの手の一つであったことも。
「バカ、本当におまえはバカだったからな。あんな火消しとかいう奴に始末させるとか。オレのほうが確実に打ち抜いてやったぜ?」
空のグラスを手にし、シノンはアイクへ照準を当てるようにもう片方の手で指差す。
「……あんたに殺されるのも、悪くなかったな」
それを受けてアイクは微かに笑み、そう言った。
「おまえ、酔ったか?」
「俺はそんなに酒は強くないんだろうな」
そう言い、二人は声を出して笑った。
「ほら、もっと飲め」
「いや、明日から早速支度して砦を出るから」
「いいから。おまえの尻くらい拭ってやるよ」
「なあ、団長」
とくとくと酒の注がれる音が聞こえる。
今夜は忘れられない夜になる。
「そうだ、これ」
シノンが書簡を差し出した。
「ん?」
「グレイル団長からの手紙だ」
そう言われてアイクは筒から一枚の紙を取り出した。
「親父……」
全文読み終えたアイクはただ感嘆を漏らした。
「おまえがそれを読むときには自分はこの世にいない、とな。それでも祝いたかった。だからな」
手紙に記されていたのは息子の成人を祝う言葉。
「親ってやつは……いいよな」
その一言にアイクはただ静かに頷く。天涯孤独の身、そして父親という存在を知らなかったシノンはしみじみとそう呟いた。
(羨ましい)
そんな本音は胸に仕舞う。
「さあ仕事だ」
夜が明け、長期任務のための荷物を纏めるとアイクは団員を率いて砦を出発した。
きらきらと輝く陽射しを受けて見える砦。
慌ただしく団員たちがアイクの後を追う。シノンはそれを目にし、振り返り砦を目にした。そしてアイクの背へ目を返し後を追った。
その背中は頼もしい。
それに気付いたとき、ここが戻る場所であると強く思った。
目に映るのは愛すべき背中であった。
─了─