孤空の英雄見上げた空はいつも曇天だった。
聳え立つ王城が憧憬の象徴。
手を伸ばし、いつか這い出てそこへ到達すればと──
いとも容易く、階段を登るように地位を得、その気になれば一国を手中に収めることが可能であった男がいた。
その男は、祖国とは敵対していた国の将軍。元は市井の傭兵。
「……団長」
少しの親しみと限りない憧憬を込めてそう呼ぶ。
その男は貧乏傭兵団と称される傭兵団の団長だった。前代の意志を継ぎ、基本的には少ない報酬で近隣住民の依頼を受け、細々と運営している。
「サザはいつもその、アイク団長っていう人の話ばかりね」
姉代わりの身内がいつも漏らしていた。彼、サザはその男アイクと縁合った時期のことを物語のように好んで語った。
仄暗い街道を行き、敗戦国として駐屯軍の支配下にあるこの地で這い、生きる彼のともしびだった。
もとより泥を啜って生きてきた彼の抱くひとつの理想像。夢描いた物語が目の前で実現されていく様は彼に憧憬を抱かせた。英雄譚の生き証人となったのだ。
ただ、自国に利をもたらすものではなく。勝利したのは男が導いたクリミア王国。彼の自国デインは敗戦国となった。クリミアはデインの統治権を放棄し、宗主国ベグニオンへ統治権を委ねた。その結果、末端の駐屯軍が幅を利かせ横暴な統治を行っている。
「アイク団長がもたらしたものって何? デインの人間には何もいいことはないの。だからこうしてわたしたちが活動している」
「……ミカヤ」
サザがアイクへの憧憬を漏らす度、ミカヤがそれに否定的な言葉を漏らす。それが彼らの日常。
彼らはベグニオン駐屯軍が横暴な統治を行う中、不当に高額な税金を徴収し私腹を肥やす貴族から財産を盗み、貧しい者たちへ分配するという義賊活動を行っていた。『暁の団』と名乗り、他仲間とともに地下活動を行う。
──鼠と蔑まれた己も英雄と称される日が来ようか
それが彼の掲げるべき旗。
『ネヴァサの鼠』そう呼ばれていた。
王都ネヴァサの貧困街に暮らす者をそう称する。多くは親を失った子供が身を寄せ合い、ときには争い、奪い合い、生きている。
彼はそこへ流れつき、生きてきた。
彼は十にも満たない頃、貧困にあえぐ実家から身売りに出された。幼いながらも、売りに出された者の行く末は知っていた。女ならそういった趣味の者に慰み者にされただろう。男なら単純な労働力として奴隷同様に扱われる。
その時点で家族の愛など夢物語だと見切っていた。
ただ値を付けられる物資のようだと。次々に子を産み売りに出す貧困層の家庭。子は慈しむ対象ではなく食い扶持を確保する手段であると。
売りに出された彼は輸送中、賊の襲来を受けた。業者が商品である子供を保護しようと奮闘している間に彼は逃げ出した。
結果、業者は賊に殺されたようだ。賊はその場で商品であった少女を犯し、そのまま連れ去っていった。
その少女の縄も解くべきだっただろうかと思った。己に掛けられた縄を解くのみで手一杯だったと胸の内で必死に弁明する。
「俺はいい、おまえは逃げろ……!」
英雄と称される人間ならそう言って己よりか弱き者を先に逃がすだろうかと思った。
(アイク団長なら……)
彼は今でも当時のことを思い出し、憧憬を抱く男の背を思い浮かべ、その男ならどう対処したかと想定しては自己嫌悪に陥っていた。
「鼠は一生鼠なんだよ!」
ある時、そう吐き捨てられ、殴られ、蹴られ、制裁を受けた。生きるために店頭の商品に手を出し、店主に捕まったときの言葉。
陰鬱とした雰囲気の国柄で、民衆にも気性の荒い者が多い。その上で罪を犯した彼は店主の鬱憤の行き場であるが如く制裁を受けた。
その言葉は店主が自身へも向けたかのような。
彼は歯を食いしばってその言葉を肯定することはなかった。いつも空を見上げ、聳え立つ王城を目にしては耐えた。
この国は、実力次第で成り上がることが可能であった。
当時の国王アシュナードは『狂王』と称されるほど猛々しい人物であった。武力で次々と領土を拡大していき、強引なやり口であったが、それが剛健たる象徴、そして身分に関係なく実力で取り立てるという体制に民衆の支持はあったのだ。
それが貧困層の希望でもあった。
いつか登り詰める──
泥を啜ってでも生き、その先にあるものを目指し。
それでも一度、立ち上がる力を無くし、果てようという時があった。漁る残飯も見つからず、小銭の残りはなく。そうして飢え、死んでいく貧困街の子供は日常茶飯事のように存在していた。その順番が己にも巡ってきたのだと彼は思った。
そんな中、差し伸べられた救いの手。
彼はその手を取って生き延びた。
その手は今、ともにある女のもの。姉のように想い、慕ってきた。
「ミカヤは俺が守る」
そう言って身を張り、恩に報いようと彼女とともにあった。
せめて彼女にとっての英雄は己であれと。
「いいの、いいの。サザ、無理はしないで」
窮地に陥る度に彼女に窘められてきた。そうして小さい我が身を抱かれる。
彼女は当時から現在の姿だった。少女と成人女性の狭間の姿。手を差し伸べられた当時、彼は彼女に腰を屈め語り掛けられるほどの背。しかし、現在は彼が彼女を抱けるほどとなり。
それでもずっと、子供のように扱われる。
「……ミカヤ、俺はもう子供じゃない」
もう少しで彼女の背を超そうというとき、彼はそう言うと彼女は哀しい瞳をしていた。
そして彼女は彼の前から姿を消した。
ある港で二人は逸れたのだ。それは事故かと彼は思ったが、彼女が意図的に姿を消したのだと後で思った。
雛は巣立つべき──
そういって手を離したのか。
それでも手放せないのは己の方だった、と彼は自嘲した。
まだ見せていない己の勇姿を、いつか見せる、それが果たせていない。だから手を離さない。
気付けばその港にて密航していた。どんな手段を使おうとも彼女へ追い付き、己の悲願を果たそうと。
そして密航したその船にてあの男に発見されるのだ。
「アイク団長も最初は弱かったんだ。将軍でもなかった。それが、己の道を進んでいくうちに道が開けてきた」
それからの道程を彼はいつも熱弁する。
「到底無理だ、と思える局面も乗り切ってきた。それはたゆまぬ鍛錬の賜物もあった。俺は見ていた、人知れずあの神剣を振るい、先の対決に備え……」
基本的に、口数はそう多くもなく、快活ではない彼が饒舌になるのは決まってこの話題だ。ミカヤは話の内容を好ましく思ってはいなかったが、サザの饒舌な様子を微笑ましく思っていた。ただ微笑んで相槌を打ち聞いていた。時折否定的な言葉を漏らすが。
「男の子は、そういう話、好きだものね」
にこにこと、笑みを浮かべて挙げる感想はそれ。
「またそう、子供扱いするな」
彼は頬を膨らませてそんな感想への不満を漏らす。
そして、義賊集団暁の団はいつもの活動を繰り返す。
そんな活動が彼の想いを昇華していく。それがいつとも知れず続いていくはずだった。
しかし、事態は思わぬ方向へ流れる。
駐屯軍と衝突し、前の大戦にて縁のある者と集結し、果てはデイン王アシュナードの遺児を祭り上げ、国家奪還を図ることになろうとは。
特別な予知の力を持ち、奇跡の巫女として祭り上げられるミカヤが将軍として解放軍の旗頭となる。
何の巡り合わせだろうか──
統治権を奪取したデイン王国は歯車を違えつつ進み、ベグニオンと対峙することとなった。
ベグニオン側に立ち、デイン鎮圧へ動く皇帝軍を指揮していたのがあの男。
「……覚悟はできたか?」
静かにその剣が向けられた。
彼が握る短剣に汗が滲む。
彼は守らなければならなかった。将として立つミカヤの身を。それへ向かっていくこの男を止めなければならなかった。
恐ろしい威力を誇る金色の神剣を手にしたこの男を。
かつての自国の国王を葬ったこの剣を手にした男を。
恋焦がれるほど憧れたこの男を──
互いにこの戦いは無意味であると知っていた。
デインがこうして抗戦を行うのは時間稼ぎであった。
前王の遺児がベグニオン元老院と結んだ『血の契約』に因るもの。元老院の指令に従わねば、血の契約の呪いを発動させデイン王国を壊滅させるとのこと。
ミカヤは国王なき今、契約の呪いよりデイン国民を守ろうと、指揮を執っていた。
皇帝軍へ降伏する、事情を説明する、等という手段はとることができない。何処に潜むと思われる密偵に察知され、元老院へ伝われば契約を発動されるという。元老院の指令は徹底抗戦、皇帝軍を壊滅させよというもの。
しかし、圧倒的に兵量で劣る。城内まで攻め入られ、籠城すらままならない状況だ。敗けが見えていた。
契約を破棄する手段も試みた。第三者の手で契約者を殺害するという方法だ。前王の遺児、現国王ペレアスを葬るという犠牲を出した。しかし、契約は時の指導者の元へ移動するのみであった。契約がミカヤへ移ったのみという結果に終わった。
残された道は、デイン国民が少しでも長く生きるよう時間を稼ぐ、というもの。つまりは八方塞がりだ。
それでも、契約の呪いで果てるより、戦いにより果てる道を、とミカヤは戦線に立つ。
救いはないのか──
サザはこれが最後の華かと思った。
それを飾るのが英雄と呼ばれたこの男との戦い。
悔いはないと思った。
かつて仲間であった。
この男はどのような立場の者でも、種族でも分け隔てなく接する。敵対する者の事情も考慮しようとまずは話を聞き入れようと申し出る。
慌てず、騒がず、石のように。
だが、必要とあらば容赦なく剣を向けて断ち切る。
(団長、退いてくれ、頼む)
対戦の構えをとり、立ち向かう姿勢を全面に見せるサザであったが、心の中ではそう願っていた。
(俺があんたを斬るのも、あんたが俺を斬るのも意味がないんだ)
しかしその願いが叶うことなどないだろうと。
彼は一歩下がり投擲用の短剣を発射する。
(無理だろうな)
アイクは容易く短剣を弾き、神剣の一振りで床石すら薙ぐ。風圧と砂煙が視界を遮る。
サザは視界を確保しつつ地を転げ、剣筋を避ける。
「行かせるかっ! 行かせないっ!」
捨て身だった。ただひたすらに男の進路を止めようと地に這い蹲る。
男の剣は刀身が長い剣であるため、懐に空きができる。そこを狙い、サザは身ごと潜り込み足元へ。
見上げることもしなかった。次の瞬間に貫かれるであろう覚悟を決めて足元にしがみつき歩みを止める。
端から見たら何と滑稽な姿であろうかと、彼は思う。
「鼠は一生鼠なんだよ!」
いつか吐き捨てられた言葉を脳裏に浮かべる。
(いい、いいんだこれで)
鼠でもいい。薄汚い鼠。矮小で滑稽な。
(ミカヤは……ミカヤは、俺が守る……)
短剣を強く握り、しがみ付いたアイクの軍靴へ突き刺し磔にしようとする。
確かに刺さる感触はあった。しかし、痛みを訴える声も聞こえない。
サザは思わず見上げ、その顔を仰ぎ見る。
一つ、吸われる息。そして
「!!」
ぎゅうと摘まれる頬。腰を屈めて見つめてくる。
「俺も退けん。分かるか?」
まるで子供を諭すかのような。静かな口調。
初めて対面したとき受けた罰を再現され。
「……団長……」
目頭が熱くなった。彼は眉を下げ、感嘆を漏らすのみ。
ゆっくりと腰を上げ、アイクは刃をサザの首筋に当てる。
その瞳は感情を映さず、ただ静かに深く。
何も語ることはないが、哀しみ──それは感じた。
「……っ!」
サザは軍靴に刺した短剣を勢いよく引き抜く。
「頼む、団長。あんたなら、何とかしてくれる」
かつて困難な道を行き、切り開き、進み、奇跡を起こしたこの男へ道を譲り委ねる。己の不甲斐無さに苛まれながらそれが最良であると。
ふと、その口元が笑った気がした。
「まずは、話をしよう」
神剣を一振りし、再び道を作り前を進みゆく。
翻る外套がその背を彩っていた。
そして彼は奇跡を信じ、男の背を見送った。
「俺たちにできることはないか?」
アイクの第一声はそれだった。
彼はデイン兵の築く防衛線をたやすく突破し、将であるミカヤと対峙していた。
ミカヤは魔道書を携え、抗戦の構えだ。
彼女はどくどくと心の臓が脈打つのを感じていた。喉の奥から何かが込み上げてくるような。
すでに死への覚悟は決めていたというのに。兵すら道連れに果てる覚悟を決めていたというのに。
戦線へ立ったときには気が静まり、覚悟がついたと思っていた。しかし、この男と対峙した瞬間、全身の血が騒ぐような感覚を覚えた。
(……ユンヌ、)
何故かいつも彼女とともにある小鳥の名が浮かぶ。この場にはいないが、その小鳥が騒ぎ鳴く光景が浮かぶ。それは予知の力が発動するときに似た感覚。具現化した未来の光景が頭に流れ込み、映し出される。
(どうしたの?)
魔道を発動させようと詠唱とともに宙に魔法陣を描き始めるとユンヌの鳴き声はさらに激しく。
男は剣を下げ、段下から見上げていた。
──どうして、そんな、哀しそうな眼で見るの?
途中まで描いた魔法陣が立ち消えた。
動悸がする。手が震える。
「自分たちで望んだ戦いじゃないのは……俺から見ても明らかだ。避ける手立てはもう探れないのか?」
投げ掛けられたのは男のそんな言葉。
息が止まるかと思った。背に冷たくも熱いものが走る。
震える手をそのまま伸ばせたら、心底でそう思ったのだろうか上げた手を下ろせない。
──助けて……! 助けて!
泣き出したかった。本当は、戦線になど立ちたくなかった。
それを思えば思うほど男の眼が哀しみを帯びて見える。
そして、いつもサザが憧憬を表し饒舌に語る光景が蘇る。
「救国の英雄、ね。それはそうね、クリミアの人間から見れば」
少しの皮肉を込めてサザへそう言った。
「クリミアのお姫様を助けたのよね。その、お姫様にとって、その人は自分にとっての勇者様でもあるわよね。女の子もそういう話、素敵とか思うかも」
決してその男を賛辞しているわけではない。サザが話す夢物語に付き合い、それをともに楽しんだつもりだった。
「危ないときには助けにきてくれるのね、その勇者様が」
そのとき浮かべた笑みが自分でも引き攣っていただろうと思った。サザが少し困ったような顔をしていた。
「ねえ、ユンヌ。わたしの勇者様は誰かしら?」
一人、物思いに耽っているとき、寄り添ってきた小鳥にそう訊いた。
小鳥は大空を舞い、光を帯びて何かを示す。
「うん、サザは……無理しないで欲しいの。あの子はちょっと背伸びしてる。危ない目に遭って欲しくない。そんな目に遭っていなくならないで欲しいの」
語りかけてくるような小鳥の仕草に合わせ、言葉を発し。
思い出す光景。路地裏で蹲っていた薄汚れた少年。今にも息絶えようとしていた。思わず手を伸ばし、施しを与えた。そして抱き締めた。
──まるで、己の子のように
「……はい……」
彼女は消え入るような声で男へそう応えた。
避ける手立ては探れないと、そう。八方塞がりでどうすることもできないと。
「話すだけ話してみろ、何か糸口が見つかるかもしれん」
さらに踏み込み、男は歩み寄る。
「……いいえ」
手を伸ばすことはできない。彼女は上げた手を下ろす。
「……そうか、どうしようもないか」
男は彼女の心痛を感じ、その意志を受け止めた。
「ありがとう」
「ん?」
礼を述べるミカヤ。アイクは眉を上げた。
「サザが、あなたを慕ったわけがいま分かりました……」
雲が流れ、空が晴れていくようだった。ミカヤは再び魔道を発動させる構えを取る。
「構えてください……決着をつけましょう」
「……ああ」
その言葉ともにアイクも剣を構える。
そして神剣から発せられる衝撃波がミカヤへ向かった。
「!!」
その身が勢いよく床へ倒される。衝撃波を受けたのは見慣れた背中。
「……サザ!」
密かにミカヤの元へ寄り、機会を伺っていたサザは身を挺して彼女を守ったのだ。
「……っ、だい、丈夫……っ、俺は、」
かなりの衝撃を受けたようだ。息も絶え絶えになっている。
「いやあっ、サザっ! サザっ!」
ミカヤは取り乱し倒れ込んだサザを抱き揺する。そして迫り来る敵から守ろうと、彼を抱き身を張ってその先を見据えていた。
それは傍目から見ても親が子を守るような、そんな。
「言ってやれ、こいつがあんたを守ったんだと」
段を上り、迫り来た男が発したのはそんな言葉。
彼女は彼を抱きながらふるふると首を横に振る。
「勇者だなんて称号は、こいつにやれたらな」
哀しい瞳でそう訴え、男は剣を振り上げる。
多くの屍の上に立ち、得た称号──
そんなものは必要なかった。
殺すことしかできない、だから。
剣が振り下ろされようとしたその刹那、凄まじい衝撃が城を揺らす。外壁を何かが打ちつけるような。
たちまちの内に場は混乱に陥った。
そしてすぐさまその原因が何であったか判明する。
ラグズの中でも最強を誇る黒竜が攻め入ってきたのだ。歴戦の兵である皇帝軍もこれには危機を感じ、退避と状況確認を開始した。
そうして、この籠城戦は結局、第三者の介入によって終了したのである。
黒竜は停戦を働きかけに来た。ペレアス王の母が弟であるこの黒竜へ念を飛ばし、救援を依頼していたのだった。
そして、事態は予想だにしない方向へ流れゆく。
まさか女神と直に対話、対峙しようなどと──
「だから言ってるじゃない、私はミカヤじゃないって。何度もそう言ってるじゃない」
見慣れた姿の女がそんな科白を吐く。
その姿はミカヤ以外の何者でもなく。しかしそれは違うと主張するのはユンヌと名乗る者。
デインとベグニオン皇帝軍及びラグズ連合軍の戦いは再開され、混戦を極めていた。どちらが力尽きるまで収束しない、そんな戦いだった。
そんな最中、ミカヤは場を放棄し、導かれるようにある建物へ向かう。サザも後を追った。一方、アイクも妹ミストが体調不良を訴えるとともに何かの声を受信し、それに従い彼女を連れて導かれるままに退避していった。
それは邪神が眠るとされているエルランのメダリオンを安置していた建物内。
鷺の民が呪歌によりメダリオンから溢れ出る負の気を抑え込んでいたが、この戦いにより膨れ上がった負の気を取り込んで抑えが効かなくなっていた。鷺の兄妹は気を失い倒れ込んでいた。
そこでアイクらは再び合間見えた。
事態は危機的状況だった。今にも蘇りそうな邪神──
戦いの気で邪神を目覚めさせてはならないという伝承に倣い、解放の呪歌によってそれを目覚めさせることとなった。
そして不自然な静寂に包まれた世界。
アイクが建物の外に出て見たその光景は、先程まで鬨の声を上げ、喧騒とともに激戦を繰り広げていた現場が石と化したもの。あらゆるベオクも、ラグズも、戦渦の中の姿をそのままに時を止めていた。
邪神を解放したためか、これで世界が終わってしまったのか、そんな焦燥とともにアイクは叫んだ。
「……また『邪神』って言った! もういい、あなたは嫌い! あなたになんて、何も教えてあげない」
ユンヌと名乗る者がアイクへそう言った。
アイクはこれまで伝え聞いていた伝承から、大陸を破滅に導いたのは『邪神』である、メダリオンに封印されていたのもそうであると認識していた。
しかし、ユンヌによると、今、大陸の者を石化させたのは女神アスタルテであるという。それは、大陸中の者が信仰の対象とする女神の名であった。そして、ユンヌもまた女神であるという。
ユンヌはミカヤの体を依り代に、アイクらへ語りかけていたのだった。
ユンヌは『負』の女神、アスタルテは『正』の女神である。二人はもともと一対であった。ユンヌを目覚めさせたのとともにアスタルテもまた目覚めたのである。
解放の呪歌で目覚めた場合は、何らかの事情があるものとして、申し開きをして裁きを判ずることになっていたのだが、こうして目覚めとともに裁きを下してしまった。
それは不公平と言い、ユンヌは人々を元に戻すと言う。そしてこの場に残っている者へ協力を要請した。
「……あなた、名前は?」
ユンヌが謡うように訊いた。
「アイクだ」
アイクは真っ直ぐとユンヌの目を見つめ、通りのいい声で返した。それはユンヌの中で心地良く響く。
彼女は先程、邪神と呼ばれ子供のように拗ねていた。
(やっと会えたのに、ひどいじゃない)
彼の前に立ち、感じるその風は穏やかで優しく。すべてを受け入れられるような、心地良さ。
(いつも傍にいたの)
それは、彼が生まれる前から──
彼の母はメダリオンを所持していた。極端に正の気が強い、ということでメダリオンの守り人となっていた。そんな母の胎内に育まれているときから傍にいた。
(一度顔を見てみたかったの)
産声を上げたとき、呼ばれたような気がした。
芽生え、産道を通るまで、ともにあった。
彼女は暗い、寂しい、メダリオンの中でその命を感じるのが愉しみだった。それが外の世界へ旅立つ。寂しさを覚えたが嬉しさも覚え。そうして祝福した。
「アイク」
メダリオンの中からその名を送った。それを受けた彼の母は彼にその名を与えた。
──そして今、彼はその名を名乗る。
そうして名乗った彼は彼女の郷愁を含んだ瞳を見て、何か大事なことを忘れているような気がした。何かが呼び起こされるかのようだった。
「はじめまして、アイク」
その出会いは遠い記憶の彼方──
狭い寝台で妹と微睡み、午睡の時間。まだ十にも満たない頃。身を寄せ合い、二人、揺りかごに揺られるように眠りに落ちていた。
ミストは懐のメダリオンを大事そうに抱え、母の温もりを感じるように眠っていた。アイクはミストを守るように抱えて眠っていた。
零れるような柔らかい日差し、それと青白い光が二人を包む。それはメダリオンから発せられていた。
「おかあさん……」
母に抱かれる夢を見ているのか、ミストはそんな寝言を漏らした。
「……おまえは、だれだ?」
それはアイクの寝言。夢の中で誰かと対面しているかのような。
アイクの意識の中──夢の中に現れたのは一人の少女。
彼はその少女へ向かって言った。
「私はユンヌ」
背丈は彼と同じほどだろうか。綿菓子のように柔らかそうな髪。愛らしい丸い瞳。手足が少し出る程度のケープを羽織っている。そんな幼い少女だった。
「そうか。おれはアイク。……知っているようだな」
彼女が己の名を知っていたことを疑問に思わないアイクであった。
「あなたに会えて嬉しい!」
ユンヌは駆け寄り、無邪気な顔でアイクの両手を取り、上下に振る。
「ん?」
アイクは面食らって首を傾げた。
「あのね、私、ずっと、暗くて狭くて、寂しいところにいたの。でも、あなたが傍にいた。あなたと一緒にあなたのお母さんの子守歌を聴いていたの」
手を繋いだままユンヌはそう訴えた。
「なにか、悪いことをしたのか?」
アイクがそう訊くとユンヌは眉を下げる。
「ちょっと……」
「悪いことをしたら、そういうところに閉じこめられるよな。おやじに尻を叩かれて物置に入れられる。この間、雨だったから家の狭いところで剣の稽古をして皿とか落として割ったらな……」
アイクは最近父親から受けた罰を思い出し、苦い顔をしながら例を出した。その話にユンヌは唇を上げた。
「でも、アイクは雨の日でも稽古をしてるの。えらい」
笑みを浮かべ、ユンヌはそうアイクを褒める。
「ああ、おれは早く、強くなりたいんだ」
眉を上げてアイクは返す。
「私、そんなアイク、好き」
頬を桃色に染めてユンヌはそんな言葉を真っ直ぐに投げ掛ける。
「そうか」
アイクは唇を結んで頷く。
「あのね、また会えたらいいな」
「そうだな」
「あまり長い間、一緒にいられないけど、また会えたら一緒に遊んでね」
「ああ」
そうして二人は小指を結び、約束を交わした。
それから、アイクはミストとの午睡の度にユンヌと会っていた。
「こんにちは、アイク」
再会すると、ユンヌは淑女よろしくケープの端を持ち、愛らしく頭を傾げて挨拶をする。
「ん、」
アイクも軽く頭を下げて会釈する。
そうしてアイクが最近の出来事などを話し、会話を愉しみ、子供の遊びをする。
「ずるいぞユンヌ、空を飛んでるなんて」
鬼ごっこをしていた。ユンヌは空を飛び回り、楽しげにアイクから逃げ回っていた。アイクが飛び跳ねつつ不満の声を漏らすとふわりと降りてくる。
「あなただって飛べばいいのよ」
「おれは空なんて飛べない」
頬を膨らませてアイクは首を横に振る。
「あなたは飛べるわ!」
その声は高らかに響く。それはあたかも啓示のように。
「ほら」
「ほんとだ!」
ユンヌの声を受けて一歩を踏み出したアイクは翼を得たように宙を舞った。くるりと一回転する。
「忘れないで。そう、あなたは飛べるの」
「やった!」
宙を舞い、二人は笑みを漏らす。
「これで戦ったらすごく、強そうだ」
剣を構える仕草をし、アイクは自由を得たと言わんばかりに天空を駆ける。
「どう? 気分は?」
ユンヌもまた自由に舞い、彼にそう投げ掛けた。
「どんな奴が現れても負ける気がしないぞ」
そう力が漲るようだ、とアイクは返した。
そして楽しい時間は過ぎゆく。
「……またね」
ユンヌがそう、小さく手を振る。アイクが大きく手を振って返す。
その後、ミストが置き忘れたメダリオンへ好奇心から触れようとしたアイクは父親から激しい咎を受けた。
絶対に触ってはならないものであると教えを受けていた。それを破ろうとしたのを発見されたのである。
その咎は成人間近になっても強く印象に残るほどのものだった。
それからメダリオンを無意識下でも避けるようになり、成長を重ねたのもあり、妹と午睡することもなくなった。
そしてユンヌと再会することは二度となかった。
そんな夢を見ていたのだ。
幼い頃に。
とても大事なことのような気がした。
しかし、思い出せない。ただ、懐かしさだけが蘇る。
「ふーん……アイクは、私のこともう『邪神』って呼ばない?」
「あんたが嫌ならやめる」
ミカヤの体を依り代としたユンヌは夢とは違う姿。背丈も高く。アイクはさらに高く、逞しく。頑強な成人男性の姿に。ユンヌはそんな彼へ向けて、上目遣いで訊き、アイクは少し目線を下げて返す。
「ユンヌでいいか?」
その名を呼んだ。
ユンヌは空を飛び回りたいほどの喜びを覚える。しかし、堪えて。
「うん! だったら、もう許してあげるわ」
堪えきれない喜びは漏れていた。強く頷き、童心を思わせる顔、口調で彼へそう言った。
そして、目的地へ無事に辿り着けるよう、彼へ力を与えると言う。目覚めたばかりで全員へ施すのは無理であるため、彼だけに。
「ちょっと、目をつぶって」
「……こうか?」
アイクはユンヌの言葉に素直に従い、目を瞑った。
「あなたは飛べるわ!」
遠く、声が聞こえたような気がした。
そして女神の力を授かるのである。
「どう? 気分は?」
「……どんな奴が現れても負ける気がせんな」
アイクは静かにそんな感想を漏らした。
ユンヌはあの時の彼を思い出し、笑みを零す。
その一部始終を見ていたサザは居心地の悪さを感じていた。ミカヤの姿ではあるが明らかにミカヤではない、そんな何か。
ユンヌは石化していない者たちへ指示を出し、部隊編成も行った。皆、これは女神の啓示ということで受け入れていた。
「俺はあんたと一緒に行く。……ミカヤの傍を離れない」
サザはユンヌを睨み付けながらそう主張した。ユンヌは一瞬見下すような目線を投げる。サザはミカヤが決してしないであろう表情を目の当たりにし、少しの怒りを覚えた。
(いつまでも、親離れしないんだから。でも、ミカヤもそう。この子がいないとダメなの。とりあえず、今は、一緒にいないとダメね)
ユンヌは一歩歩み、サザの前に立つ。
「……いいわよ、ミカヤもそうしたいって」
「直接、話をさせろよ!」
ミカヤに憑依し、彼女の意識を閉じさせているユンヌ。それへ対する苛立ちを全面に出し、サザは抗議した。ユンヌはそれを聞き入れず、少し意地悪な笑みを浮かべた。
「またね、アイク」
目的地を示し、切り替えして好意を全面に出した笑顔をアイクへ向けてユンヌは去っていった。
サザは胸の奥に靄がかかったような感覚を覚えた。
(団長……)
ミカヤの姿でアイクへ好意を示すユンヌ。それを見て覚えたのは奇妙な感覚だった。ミカヤはアイクへ対して好い想いを抱いていなかったからなおのことだ。
そして、己が持つミカヤとアイクへの好意が入り交じり、ユンヌへは苛立ちを覚えた。
(あの鳥め……)
ミカヤを離れ、見慣れた小鳥の姿で飛び去っていったユンヌの姿を見てサザは毒づいた。
神の力を体に宿す、ということがどういうことか。
溢れるような力を感じる、と感想を漏らしたアイクは同時に危ういことであると気付いた。同様に神の力を受けた使徒と対戦してそれを強く思う。
アスタルテの加護を受けたベグニオン兵と対峙した。さしずめ『正の使徒』といったところだ。石化した者を解除し、力を与え、手駒としているようだ。
皆、洗脳されたか如く盲信的に正の女神への忠誠を誓い、痛みも覚えることなく立ち向かってきた。
(アイク、あなたは知ってるの。それが危ういってこと)
力を与えるとき、ユンヌはそう胸の内から語りかけた。
(これであなたに悲しい思いをさせた)
それは、彼が幼い頃目の当たりにした悲劇を指す。
メダリオンに誤って触れ、精神を乱され、惨殺を繰り広げた彼の父。身を挺してそれを止めた彼の母。
その記憶はある者によって塞がれたが、心の奥底に深い傷跡を残した。そして後に事実を知ることとなる。
(原理は同じだから)
メダリオンに秘められた負の気は所有する者の能力を限界まで引き上げる。しかし、その者の負の気を増大させ、自我による制御が不可能となる。
(あなたは己の命を絶つ覚悟で臨んだ)
彼はそんなメダリオンの守り人であったミストを守り抜こうとした。そして、そんな父の悲劇を踏襲しないため、暗殺者に命の制御を依頼したことがあった。
(なるべく、影響は最小限に抑えるようにしたけど)
ユンヌは精神を浸食しない程度の力を彼に与えた。精製した気を与えたのだ。負の気の中でも、闘争心、反骨心、そのようなものを選んで。
メダリオンは怨念、憤怒、憎悪、などの気も含んでいた。精製せずにそれらをそのまま取り込むと、彼の父のように暴走してしまうのである。
(アステルテが与えたのは、絶対的忠誠、正義心)
それは正の使徒のことを指す。
(「正義」を疑うこともなく盲信的に)
ユンヌはそれを施したアスタルテへ哀しみと憤りを感じた。
(いきなり裁きを下しちゃう、そんなあなたが一方的正義なんて、ないわ。わからずや)
元はひとつであった半身へそんな想いを抱いた。
(アイク、ごめんね。私の勇者)
力を授ける瞬間、ユンヌはそう胸の内で語りかけた。
(あなたを辛い目にたくさん遭わせる、遭わせてきた)
強くなる、ということは、それだけ犠牲になったものがいるから──
窮地に追い込んだサザとミカヤを両断しようという刹那のその声を聞いた。
ミカヤの中から聞こえた彼の声。
「勇者だなんて称号は、こいつにやれたらな」
哀しみを湛えた瞳で訴えた。
それでも冷たく、剣を振るう。
壊れそうな心を感じた。
(それでもあなたは歩くの)
アイクの隊が目的地である導きの塔へ向かう。同時にミカヤの隊も同じ目的地へ向かっていた。全滅という万が一の事態を避けるため、隊を分けているのだった。
ミカヤ隊もまた正の使徒と戦闘を繰り広げていた。
戦闘に勝利はしたものの、正の使徒の存外に強大な戦闘力について隊にいた者が戸惑っていると、ミカヤに光臨したユンヌが説明をした。
正の女神の加護のせいであると説明すると、隊の者たちは納得していた。
「ミカヤ……そこにいたのか!」
そんな中、ミカヤの姿を見かけたサザが勢いよく駆け寄ってきた。
ユンヌは皆へ励ましの言葉を投げると、ミカヤへ意識を明け渡し去っていった。意識を取り戻したミカヤを見て労いの言葉をかけ、この事実を他の隊へ告げた方がいいという者を見てサザは、ユンヌが光臨していたのだと悟った。
「……またユンヌが現れたのか。あいつ、気軽にミカヤの体を乗っ取って……おとなしく鳥のままでいればいいのに」
そんな状況に毒づくサザだった。
そんなサザへミカヤが己とユンヌは近しいものだと、予知の力はユンヌによるものだったと言う。眠りながらもユンヌは彼らを気にかけていたとも言い。
「ユンヌはベオクとラグズを深く愛している……」
「だったらどうして邪神なんて呼ばれてたんだろうな」
ミカヤが神妙な面持ちで語るとサザも同調する。
「それはわからない。ただ、そう呼ばれると彼女はとても傷つくわ」
「……ごめん、俺も気をつけるよ」
傷心の少女を慰めるようにサザは優しく謝罪の言葉を発する。それを耳にしたミカヤの口角が大きく上がり、滑稽なものを目にしたときのような笑みを湛えた。サザの目が見開かれる。
「本当? じゃあ許してあげるわ」
可笑しさを堪えきれない、という表情でミカヤの口からそう発せられた。
「……あ! お、おまえ、ユンヌか!?」
サザは慄き、彼女を指差した。
指差されたユンヌは「ご名答」とでも言わんばかりに、またしても口角を大きく上げた。
「まったく、サザはミカヤの前だけいい子ぶってるんだから」
「うるさい」
不機嫌そうにサザはそう漏らし返した。
「ふふ、あなたはミカヤの勇者様。……だったらいいわね」
ユンヌは後ろで手を組み、少し首を傾げつつじっと目線を投げながら近寄る。サザは片側の頬の筋肉を歪めて苦い顔をする。
「少なくとも、ミカヤがあなたを必要とするのはわかるわ。ぜったいにサザが必要。特に今はね」
そう言われて悪い気はしないが、最後に付け加えられた言葉に引っかかるサザだった。
(危なっかしい、弱い、そんな我が子は手元にいないと不安で仕方ないもの。今の局面を乗り越えるには精神の安定が不可欠。将来的なことまで言わないわ)
ユンヌは胸の内でそんな思いを浮かべるが、口にすることはなかった。
(そんな関係もまた、自由)
たとえ、彼らの関係が不健全な依存状態であろうとも、それがヒトの性である。それだからこそヒトは愛しいものであるとユンヌは思っている。
「だから言ってるだろう、ミカヤは俺が守るって」
サザはユンヌを睨みつけ、そう宣言する。ユンヌは思わずくすくすと笑う。その様子にサザはまた苛立つ。
「そうね、あなたに死なれると困るのよね」
ユンヌは片手で片肘を支え、首を傾げながら顎を手で支えそう言い放つ。
「……ねえ、あなた、アイクのこと好きよね?」
唐突な問いにサザは口を開けて固まった。
「いつも聞かされてたもの。ミカヤがうんざりするくらい」
そう指摘され、サザは顔を熱くした。
「ネヴァサの鼠、と言われたくらいのあなただもの、アイクの出世話……それは憧れないわけないわ」
そんな出自まで持ち出され、心の襞までこじ開けられるかのような指摘に苦々しさを覚えないわけがない。
「あなたはいつか、登り詰めてやる、と泥を啜りながら生きてきた。いつの日か英雄になれればと」
サザはつらつらと語られる己の深層心理を苦々しく受け、地面を見つめる。
「でもね、気付いてたの。自分は凡人だって」
思わず顔を上げる。
「だけど、たった一人のための英雄になれれば」
顔を上げた先には、ミカヤの胸に手を当て真っ直ぐと視線を向けるユンヌ。
「……あなたはアイクになりたい?」
ミカヤの姿で問うてくるユンヌ。
サザは遅れて首を縦に振った。
「馬鹿ね」
いとおしさを湛えた笑みでユンヌはそんな言葉を投げた。
「わかったわ。あなたにミカヤを守るための力をあげる」
その言葉にサザは眉を上げた。
「本当にいい?」
「何でそんなこと聞くんだ」
早くその力を授けてくれと言わんばかりにサザはそう訊き返した。
「うん、そのひとに近づいてみればその立場が理解できるわ」
「……いいから。何でもいいから」
ユンヌの意味深な言葉に引っかかりを覚えつつ、サザは急いた。
そしてユンヌは負の気による力をサザに授けた。
「……すごい、体の内側から力がみなぎってくる」
その力を実感したサザは思わず両手を胸の前で掲げ、呟いた。
「そう。力は増強されるわ。でもね」
そんな言葉を続けるユンヌにサザは目線を向け直した。
「あなたの幸せを少し、奪うかもしれない」
「は?」
思わず聞き返すサザ。
「どういうことだ」
「考えてみて。英雄と呼ばれた者の行く末を」
そしてユンヌはサザに背を向ける。
「じゃあね。これからも……ミカヤを支えてあげてね」
それから、彼らは隊を進め、いよいよ導きの塔前にて合流した。
『導きの塔』には女神アスタルテが控えている。その袂へすでに到着した部隊が帝都にいた正の使徒を征していた。
大陸中の者へ啓示を与え、ミカヤの元へ戻ってきたユンヌが状況を説明する。そして、塔に入る前に休息を取り、夜を明かそうという提案がなされた。
正の使徒へ率先して攻撃を仕掛けていったのは鷹王であった。猛々しい鷹の民の王。女神に負の気を注入されずとも力が満ち溢れているようだった。自身でも負の気が多いらしい、と言っていた。
サザはそんな鷹王の様子を見て苦い思いを呼び起こす。
デイン軍と皇帝軍及びラグズ連合軍が対峙していた際、彼はあの男に空中から浚われ、地へ落とすと脅迫の材料にされたのだった。ミカヤがそれで攻撃の手を止めた。
──生き恥である。
ミカヤがそこで冷徹に彼を見捨てることはできないとは彼自身思ったが。
ユンヌに力を授けられて以来、時折地が歪むような感覚を覚えた。体内に何かが渦巻くような。
もがくように、それを脱したい、という欲求。それが故に、破壊衝動が込み上げてくる。
好戦的な鷹王の様子を見て、これが負の気の影響かと思った。
そしてユンヌの言葉を思い出す。
「そのひとに近づいてみればその立場が理解できるわ」
アイクもまた同様に力を授けられたはずだ、と思い出した。
(団長……あんたは)
そのひとが今、何を思い、剣を振るうのか知りたかった。
灯りのない中、暗闇に佇む一人の男。
天幕の中央にて胡座でいた。傍らには神剣と称される一振りの剣。
その男の前に音もなく、すっと立つのは一人の密偵。
男の瞳が開かれる。
「団長」
彼は男へ呼びかけた。男は何も返さず、剣を手に取ることもなく無心に佇むのみ。
「なあ、団長」
彼はすっと短剣を鞘から抜き、男の首元へ寄せる。それでも男は身動き一つせず闇に佇んでいた。
その様子にたじろいだ彼は深く息を吐き出して腕を下げる。
「……ユンヌが、何かしただろ。あんた、大丈夫か」
その言葉にアイクの眉が微かに歪んだ。
「そう訊いてきた奴はいなかったな。サザ、おまえはデインの巫女とともにいたな。ユンヌが何か言っていたか」
やっと開かれた口。サザはアイクの声を聞いて仄かに安堵を覚えた。瞑想をし、ただ闇と親しむ姿はどこか常人離れしたような佇まいだった。
「まあ、いろいろ。俺もあんたのように負の女神の力を授かった」
「そうか」
サザが説明すると、アイクは納得したように静かに一言返す。
「あんた、いいのか? 大将ともあろう者が、こんな鼠の侵入を許すなんて」
音も立てずに天幕へ侵入し、アイクの前に立ったサザ。そのことを指す。サザはそれを示すように再び短剣を手にし、すっと引き、斬る仕草をした。
「そういえば、デインとは敵対していたな。おまえはデインの者。ああ、そんな奴を招き入れたな俺は」
アイクは微かに口角を上げ、そう返す。
サザは背中に走るものを感じた。熱く、冷たく。
そして、密林の中へ迷い込んだような感覚を覚え。
「あの時は、クルトナーガがやってきたから中断されたな。それから女神が目覚めて……。デインもベグニオンもラグズ連合も皆、別の脅威へ一緒になり目が向いた。それが今の状態だ」
アイクは、黒竜が攻め入り中断された彼らの対決を指す。そして、それぞれの立場の者が一丸となってアスタルテへ対抗しようという今の状態も述べ。
「おまえは今でも俺を討ち取りたいか?」
暗闇に光る瞳。視界はままならないが感じる眼光。
「斬れ。斬れば勇者となれる」
その手がサザの手を取り、刃を自身へ向けさせる。
サザはわなわなと震えた。
「……団長っ!」
そして勢いよくその手を逃れ、もどかしく剣を鞘に戻した。
「あんた、やっぱりどこかおかしい」
「そうかもな」
どこか郷愁を湛えた表情とともにアイクは大の字になって床に横たわる。その視界には天井。端に映るはサザの困惑した表情。
サザは腰を落とし、じっとアイクを見つめる。
そのまま手が伸び、両手をその首元へ。
「今、簡単にあんたの命を奪えるというわけか」
「あんたは、もがき、苦しむことなんてあるのか」
片方の手を離し、床に着き、もう片方の手は首元へ掛けたまま。そして少し力を入れる。
「どんなことをしても抵抗しないというのか?」
重ねた唇を離す。
離した唇から返答が発せられることはなく。
「団長、アイク団長……あんたは」
サザの手がアイクの顔を仰け反らせる。前髪から手櫛を入れ、後方へ押しやり首ごと傾ける。
喉笛に噛みつくように唇を走らせる。唇を離すと大きく息を吸い込む。息継ぎをするように。それとともに体内の気が沸騰するような感覚を覚えた。
くらりと目眩がしそうだ。強い酒を呷ったような酩酊。
もっとそれを欲し、彼の手はアイクの躰を這い回った。掌に感じる凹凸。鍛え抜かれた鋼の肉体。暗闇でもわかるその様態。
「あなたはアイクになりたい?」
ユンヌの問いが脳裏に響く。
彼は迷わず頷いた。
(欲しい、欲しい)
掌が蠢く。その欲望を体現するかのように。
(その力が欲しい)
そしてアイクに馬乗りになるサザ。目を見開き、闇の中の勇者を見つめる。背中に電流が流れるような悦楽、興奮。下肢に熱が集まっていくのがわかる。
鞘から短剣を出し、アイクの顔の横へ突き刺す。
そして獣が生肉を貪るようにその唇を貪った。
あたかも、その生き血を啜れば力を得られると信じたかの如く。
「サザ」
不意に名前が呼ばれた。
「飲まれたか?」
唐突な問い。脈絡のない言葉だったが、彼はそれがどういった意味か理解した。そして顔を強張らせる。
「あ……ああ、」
感嘆を漏らし、わなわなと震え。
「ユンヌの奴、おまえに無理をさせるか」
力なくアイクから降り、両手を床に着くサザへそんな声が掛けられる。
「負の気の力は確かに漲るような力を与えてくれる」
上体を起こし、アイクは静かに語る。
「だが、飲まれてはならない」
「待っているのは……悲劇」
その瞳の蒼は深く、静かな色を放つ。
サザはアイクがこうして決戦の前に瞑想をしていた理由を悟った。負の気で乱されようとする己の自我を制御していたのだ。
「正の使徒の奴らと原理は一緒だ」
その言葉にサザは放心したような表情で頷いた。
「……殺された方が楽なことはあるな」
アイクはそう言葉を続ける。
「俺は、おまえに殺されてもおかしくない」
「前に、言っていたなおまえ。自国が荒らされるのはいい気はしないと」
それは三年前のデイン=クリミア戦役に遡る──
クリミアの総指令官として軍を進めたアイク。デインからクリミアの国境を越えるため通過が不可欠であったダルレカの地にて戦火を点した。
抗戦したダルレカの領主は領地を犠牲にしてまでクリミア軍を止めようとした。
しかしアイクもその歩みを止めることなく進み、領主をその手で討った。
結果、ダルレカは壊滅的な被害を受け、民は路頭に迷う。領民の信頼を厚く受けていた領主は死亡。
その戦の後、サザはその様子を良く思いはしない、とアイクへ漏らしたのだった。
「どんなことをしても足りない、償いをしろと言われたら」
膝を立て、座り、息を吐くようにアイクはそう語る。
「だが、それがクリミアの正義だった」
「そして俺はクリミアで英雄と呼ばれる」
その瞳が真っ直ぐと向いた。サザはそれを受けて息を飲んだ。
「俺はただ、傭兵として任務を遂行しただけに過ぎない」
──剣を手にし、障害を両断し、前へ進む。
「団長……」
思わず手を伸ばした。
触れられそうな、その、壊れそうな心
「心を無くせば、飲まれずに済む」
ただ無心に剣を振るう。たとえ目の前に立ったのがかつての仲間だったとしても。
「あんた、怖いな」
サザは思わずそんな感想を漏らした。
「俺なんか、怖くて怖くて仕方なかった。あんたが襲ってきたこと自体もそうだけど……もっと怖いことが」
両手を胸の前で掲げ、語る。
「俺はやっとの思いであんたの足に剣を刺した。でもあんたはためらいもなく俺やミカヤを斬ろうとした。それが怖い」
当時を思い出し、饒舌に思いを告げた。
「それが、普通だ。それでいい」
アイクは優しげに笑みを作り、そんな言葉を返す。
「……っ、うっ、う、うわあああっ……!」
サザはアイクのそんな表情を目の当たりにし、嗚咽を漏らす。溢れ出る感情のままに。
ただ哀しさが込み上げた。
それは孤独な空。
それを見上げ、英雄に憧れていた。
その英雄はただ、緩やかに笑っていた──
「これが……神に背くということなのだ」
彼らは塔の袂で夜を明かした。
夜明けとともに塔から眩い光が発せられる。
聞こえてくるのは喧噪。目前に正の使徒が迫っていた。皆、すぐさま臨戦態勢へ入った。
これは帝都で討った正の使徒。彼らの肉体を蘇らせ、アスタルテが再び操っているものだ。
それを目の当たりにした者が呟いた言葉。それは神に背いた報いであると。
肉体を傷付け、立ち上がって向かい、攻撃できないようにしとめたはずだった。まるでそれがなかったかのように、肉体は修復され、再び向かってくる。
石化を解かれ、力を与えられた際にはアスタルテが掲げる正義を盲信的に信じ、襲ってきた。しかし今度は意志すら持たない。物も言わず人形のように操られ、向かってくる。
言うならば、死体が襲ってくる、ということだ。
普通の感覚であれば不気味であると感じるであろう。
それを感じる間もなく非常事態であるため、ただその脅威を押さえようと躍起になるのみであった。
(神に……背く)
今、これから行おうとしていること。
サザは事態を収束しようと指示を出すアイクの背を見つめ、この状況について胸の内で呟いた。
(ユンヌの奴がなんとかしてくれるわけじゃないのか)
そんなことを思うと、この状況を悲観したユンヌがミカヤの姿で蹲っていた。
「もうだめ……このままではもう……時間がないのに」
焦燥しているその様子。
「今度こそみんな完全に石にされてしまう! だれも助からない!」
そんな彼女へアイクが声を掛けていた。
「私は誰も救えなかった……」
サザはユンヌのそのような様子を見て、神とは一体何なのか、と思った。
(勝手な奴だ)
ただそんな感想が漏れる。
そして昨日の夜を思い出し、かの人の諦念を含んだかのような笑みが蘇る。
(アイク団長が受けた痛みが無駄になる)
ユンヌへそう憤って一言言おうと思った。そして歩み寄ろうとしたそのとき、アイクはユンヌの頬を抓った。
「痛っ……! な、何をするのよっ!?」
それはかつて密航していたサザへ行った罰と同じもの。
アイクはユンヌへ彼女が彼らに力を貸すお人好しの神様だと言った。その表情は昨夜、サザへ向けたものと似ていた。
サザはさっと顔を熱くする。
「……アイク……」
ユンヌは泣き腫らしたあとのような表情でただその名を呟いた。
話し合いで解決できればいい。
だが、そうもいかないことがある。その可能性を加味し、正の女神へ対抗しようと、負の女神は加護を与えた。
ユンヌによると、それは直にアスタルテと対峙する直前まで控えておこうということであった。
しかし、遙か昔にその身に加護を受けた黒竜王が行く手を阻んだ。話し合いに応じず、対戦することになれば、同様に女神の加護を得た武器や身体でなければ撃破できない。
そのため、加護を与えるのを急いた。
これで、各々の武器は神をも傷つけることができるものに。
アイクが現在手にしている神剣ラグネルは、過去にアスタルテが加護を与えたもの。ユンヌを封印せんとした際、アスタルテがそのときの戦士へ施したものだ。
今度は、逆を。
サザは己の武器に加護を受け、ふと思った。
(正の女神が俺らの言い分を聞き入れなかったら……殺るしかないのか)
神を斬る力を得た刃を見て思った。実行しなくてはならない可能性が。
──女神殺しを
塔の最上部にアスタルテが鎮座する。
彼らは塔の袂へ正の使徒を抑えるための隊を残し、塔内部へ侵入していった。階を重ねるごとに道を阻むものがいた。彼らはそれらと対峙し、退け、前に進む。
そうして前進するごとにユンヌは昔話と称して創世に関する真実を語っていく。
ラグズ、ベオクともに、伝え聞いていた伝承とは異なる真実。
(もとはひとつ、って言ったな)
ただただ漠然と、規模の大きな話だとサザは思った。もとより今日明日生きるのに精一杯だった彼は、神の成り立ちなど興味を持ったことなどなかった。
それより、いつも身近にいたミカヤ、それに関わってきたユンヌのことなど、己に近い事柄が気になっていた。
(アスタルテとユンヌはもとはひとつ。そして、アスタルテが言うこと聞いてくれなかったら、倒す。そうしたら……ユンヌは?)
そう考え至り、気づいた。
「……団長」
「なんだ?」
まさにこれから、正の女神が控えているという階への扉が開こうとしていたときだった。
「……なんでもない」
(あんたは気付いているのか?)
やはり、説得は効かなかった。
ユンヌは半身へ訴える。
人にはまだ可能性があると。人は進化し、営みを続けている。その変化を止めてはならないと。
人──『マンナズ』それはこの世界で唯一彼女らが創ったものではない生き物。様々な動物が進化してマンナズとなり、ラグズ、ベオクとなった。そして、ラグズとベオクもまた交わり進化という変化を遂げていく。
その変化を見たい、止めてはいけないと訴える。
しかしアスタルテは、その進化の過程で人は多くの命を巻き添えとし、秩序と安定を乱すという。勝手な進化を繰り返す生き物は世界を不安定にし脅かす、だから滅ぼさなくてはならない、と。
(ただ必死に生きてるだけなのに。それが駄目だというのか。いるだけで邪魔だというのか)
ユンヌの寄り代であるミカヤを守るため傍に控えるサザは、神々の会話を耳にしそんな感想を抱く。
(俺みたいな鼠なんか、こんな高慢ちきな女神からしてみれば塵みたいなもんだろう)
そんな卑屈なことを思いつつ、加護を受けた刃に掛けた手に力を込めた。ミカヤを護ろうと構える。
「俺たちはいわばそこに勝手に住み着いて、悪さしている生き物ってとこか」
ユンヌが直談判を受け入れないアスタルテへ対抗するため、ここまできた戦士たちに彼女の討伐を託した。そして、かつて正の女神の加護を受け、今、負の女神の加護を受けた神剣を手にした勇者へ──
勇者は語る。
ヒトは、女神にとってこの世の邪魔者だと。
女神の言い分を聞き入れ、彼ら自身がそうであると称し。
サザは目を見開いてその言葉を耳に入れる。自分でも卑屈だと思ったその発想と同じ。
「アイク……!? そんな風に言わないで」
ユンヌが眉を歪めそう訴える。
そして彼は自分らが未熟であると、戦いを避けようとしてかえって戦いを広げてしまうことがあると言った。
「人は……本当にどうしようもない馬鹿者ぞろいなんだろう」
アイクははっきりと、そう言い切った。
サザは天幕で佇んでいた彼、先の戦役で祖国の一領土を侵略した彼、英雄と呼ばれた彼、それらを思い、今彼が言ったその言葉を反芻する。
それらを一蹴──馬鹿であると。
「だけど……それだからこそ人は愛しい」
ユンヌはアイクの言葉を受けてそう言った。自身と半身は不完全である。それと同様に人は不完全であるからこそ惹かれずにはいられないと。
思わずサザは傍らのミカヤ、否、ユンヌを見つめた。
(ああ、俺は、馬鹿だ)
恋い焦がれたそれ。完全なるもの。
高みに存在し、それを得られれば幸福を得られると思っていた。
薄汚い、などと罵られたりもしない。
尊敬を集め、讃えられる。
(それがなんだ、それがなんだ)
そして、かの英雄を見つめる。
彼は己が愚かしいと知っていた。
だから受け入れて。
「だが、どんな馬鹿者にだって、家族を愛し、友を愛し、人を……愛する心がある」
真っ直ぐと、その言葉を女神へ向けた。
罪を認め、改善するよう努力すると訴えた。
だから、やりなおす機会を与えてくれ、とも。
しかし覆らなかった。
正の女神は判決を覆さぬといい。それを望むことすら許されないとも。
(アイク、ありがとう。だから好き。そしてさようなら)
ヒトの未来を勝ち取ろうと前へ進む勇者。
女神はそんな勇者へそんな想いを手向けた。
勇者は正の女神へ剣を向ける。その剣へ負の女神の力を乗せ。そうして最後の一手を決めた。
この場にいるものは形容のし難い光景を目の当たりにした、と思っているだろう。サザはその一人として、それは忘れることができない光景だと胸に刻んだ。
(女神を、斬るなんて)
負の女神の力を受けた神剣が正の女神の胸を貫いた。そして正の女神は光の粒子となって消滅する。
それから、目の前にいたのは小さな少女だった。
今にも消えそうな、透ける光のようだ。
それが負の女神本来の姿であることを、誰もが自然と分かり得た。
「はじめまして、アイク」
いつか、昔、会った少女。
二度目に会ったときにはおしゃまに淑女のようにケープの裾を持って挨拶してきた。
空を飛べると、教えてくれた。
無邪気に、自由に、遊んだ。
しかし、いつしか会えなくなった。
何か大切なことを忘れているような気がした。アイクはユンヌと初めて対話した際にそう思ったのだ。
そして今、再びそんな気がした。
思い出せない。だけど、それは温かな記憶。
「あんたも消えちまうのか?」
彼は腰を屈めて目の前の少女に問う。
「そうね。でも、そのほうがいいのかも。神という存在が結局は人を惑わせ弱い生き物にしてしまう」
女神は、少女は、哀しげに言った。
「それでもいい」
「え?」
「あんたは生き物全ての親のようなもんで──」
彼は温かな記憶を感じながら語る。
母の胎内にいたときのような温かさ。
ふたりはそのときからともにあった。ともに同じ子守歌を聴いていた。
彼は母の胎内の記憶を思い出すかのように、懐かしむような口調で少女へ語った。
「親っていうのは子にとっちゃ、やっぱり必要なもんだろ」
世界の創世主である少女を親と称する。それが、彼らヒトにとって必要なものであると語る。
そして、愚かしい……ヒトという存在は子であると称し、喜ばせることばかりではないとも語る。
「それもこれも全部ひっくるめて、見守ってくれないか?」
彼は郷愁とともに、優しさを含んだ笑みを少女へ向けた。
その顔はあの夜にも見た──
サザは天幕での出来事を思い出す。また思い出し、顔を熱くする。
そうして勇者と女神、ふたりは認め合い、分かり合い、誓いを交わした。
「……あっ!」
サザが声を上げるとともにアイクが手を伸ばした。その手は空を切った。サザがユンヌが消えゆくのに気付き声を上げ、アイクはユンヌを掴もうとしたのだ。
見上げると一羽の鳥が光を伴って飛び立っていった。
「……団長、分かっていたのか?」
ユンヌが去った後、サザはアイクへ改めて訊いた。
「分かっていても、やらなければならなかった」
アイクはサザの質問の意図を汲み、そう返した。
「それが、ユンヌの望みだから。……違うかしら?」
背後からミカヤが言葉を掛けた。
「ミカヤ……」
振り返り、サザが呟く。
「よかった。もう、これであいつにミカヤを乗っ取られずにすむ」
そして眉を上げ、鳥が飛び立った方へ顔を上げて向け、強い口調で言い放つ。
「そうだ、鳥になってどっか行っちまえ。もう帰ってくるな。ミカヤは……ミカヤは……」
「おまえが守るんだろう?」
瞳の奥に涙を溜めたサザの肩にアイクの手が置かれる。
「だっ、団長……」
かっと顔を熱くするサザ。振り返り見たその顔は、かの少女へ向けた顔と同じものだった。
ただ、守りたい。
愚かしいと言われようとも、その想いはいつも、いつまでも輝けるものであった。
勇者は言う。
誰もが、誰かの英雄であると──
─了─