見えない翼薄暗い森の中を駆けていく。
本来は静寂に包まれ、精練とした佇まいを見せるこの森に戦火が点る。本格的な軍隊が戦闘を起こしているわけではなく、ある貴族の私兵と小数の傭兵らによる戦闘だった。
「アイク! あまり無理はしないでください」
黒衣の参謀がこの傭兵団の長へそう呼び掛ける。長といっても歳の頃はまだ少年といってもいいくらいだ。
「わかってる、俺一人ならいざ知らず、この状態ならな」
アイクの背には一人の女性が抱えられていた。彼を正面から見た者は彼に翼が生えているものと思うだろうか。この翼は女性のものだった。彼女は彼らとは種族の違う者だ。
翼があるからなのか、生来の性質なのだろうか、女性の身は非常に軽い。それによって彼の消耗は抑えられている。しかし、ここまで連戦続きで疲弊しているのは間違いなかった。彼は常に前線で剣を振るい、進んできた。左腕に巻かれた止血のための晒布が赤く染まっていた。腰を据えてゆっくりと治療を施す間もないのである。
この女性を抱えているのは想定外のことであった。
そもそも彼らは、このセリノスの森に接する領地を治めるタナス公を捕らえるのと鷺の民の王族の保護が目的だった。この領地を有するベグニオン帝国の神使による直接の依頼であった。
ベグニオン帝国において中央で権力を擁する元老院の間で、彼らベオクとは種族の違うラグズが奴隷や観賞物などとして闇のルートで取引されていた。タナス公の所業はその氷山の一角に過ぎない。
先に、タナス公が何らかの手段で手に入れたと思われる鷺の民の王族を確認している。それを動かぬ証拠としてタナス公の不正が露見したため、隠蔽すべくタナス公が戦闘を開始した。その戦闘に彼らは勝利し、再びタナス公と接見するも、逃走された。そしてその場に残っていた鷺の民と対面するや否や憎悪を剥き出しにされ、飛び去られてしまった。
アイクはふと状況を見渡した。
ここまで連戦続きだった。彼とともに最初から突入していった者達は、彼同様疲弊していた。別ルートより途中から突入した者はまだ余力を残している。それを受けて彼は隊列の編成を変更した。そして彼は後方へ回り、翼の女性の保護に務めることにした。
この女性はこのセリノスの森の中でまるで覆い隠されていたかのように眠っていた。見つけてしまったからには放置するわけにもいかない。何しろこの女性も鷺の民の生き残りであるのだから。
白い羽を持つのは王族のみ。先に体面した者も白い羽を持っていた。彼らは何らかの関わりがあるかもしれない。
しかし、最小限の人数で潜入し、この女性を運搬する余力などあるはずがなかった。一度退き返し、神使らが待つ地点まで引き返そうという提案があった。だがアイクは
「俺が運ぶ」
それだけを口にすると女性を背負ったまま、指示を出しながら駆けていく。
鷺の女性を救出した際、一度タナス公が姿を現したが、アイクが強固に守りを固めるとタナス公は退却し、森の奥へ避難していった。アイクはそれを速やかに追って捕らえようと引き返さずに進むことにした。
女性を抱える彼は、緊急時のためにすぐにでも抜刀できるよう意識を集中させていたが、戦闘をなるべく避けるべく杖使いの者とともに後方へ回った者達の中に入り進んでいった。こうして戦闘を必要最小限に抑え、女性の身は軽いものであったが、昏睡している者を保護しつつ足場の悪い戦場を駆けていくのは相当な消耗を伴う。しかし彼はそれをも厭わなかった。
彼の参謀はきっとこの女性が鷺の民でなくともアイクはそうしたであろうと思った。
薄暗く枯れた森。この森はかつて豊かな緑を湛え、鷺の民の生活を優しく包んでいた。しかし、それは二十年ほど前、セリノスの大虐殺によって失われた。
鷺の民はベグニオンの先代神使暗殺の濡れ衣を何者かの噂によって着せられた。暴徒と化したベグニオンの民衆がセリノスの森を焼き、鷺の民を大量虐殺したのである。
そういった歴史から、先だって対面した鷺の王族は彼に対して憎悪を剥き出しにしたのであろう。むろん、アイクはその歴史について関与していないし、知るところでもなかった。しかし、ベオクすべてに善い感情を抱いていない鷺の王族にとって彼がどうであろうと同じであった。
現皇帝であり神使であるサナキが直接鷺の民に詫びをしたいという。アイクはその悲願を達するため、任務を遂行するのであった。
彼がその翼を背負わなければその道はさらに細く長いものとなっていたかもしれない。
その道は神使の依頼を遂行した先にまだ広がる。むしろその先へ進むための通過点なのだ。
彼の本来の雇用主はクリミア王女エリンシアである。戦疫でデイン王国より領土を奪われ、その身を追われていた姫を偶然ではあるが救出したところから始まった。デインからクリミアを奪還するのが最終目的なのだ。この依頼を遂行できればベグニオンより兵を借り受けることができる。
だが、それでもまだ足りない。
デインは実力主義を謳う軍事国家だ。元からの軍勢に加え、各所から名声を求めて流れ着いた者などで手勢はかなり多い。
それを、この小さな傭兵団が核となる軍で立ち向かおうというのだ。
空の王はその翼を見た。
そしてそれが彼らを手繰り寄せるものであろうとは、このときは深く意識するはずもなかった。
(それにしてもリュシオンの奴、どこにいるんだ)
男は空より鷺の王子を捜していた。男もまた翼を持つ者。
白鷺王子リュシオンは、彼らの旧知である鴉王ネサラの謀略によってタナス公へ売り渡された。話によると、あとでタナス公の屋敷より救出し、報酬だけ手にする予定だったとのことである。
(くそっ…ネサラの奴め! ニンゲンにリュシオンを売り渡すなんて何考えてやがる)
ネサラの部下であるじいやがその身を張ってその場を収めたが、男の憤りは収まらぬままだった。
(そんなに小銭が必要か? 鴉の民の事情だかなんだか知らねえが、よりにもよってベグニオンの奴に……!)
男は同胞である鷺の民がセリノスの大虐殺によって滅ぼされたことにより、特にベグニオンに対して憎悪を抱いていた。自ら、ベグニオンの商船へ海賊行為を働くほどである。
彼らラグズがベオクに「半獣」と蔑まれるように、彼らもまた「ニンゲン」という蔑称を用いる。
本来、穏やかな性質の鷺の民であるリュシオンも同様の憎悪を抱いて、ベオクと接する場面で気を荒げていた。この男の影響によるところもかなり大きいのだが。
「ニンゲン」など信用ならないものだと思っていた。
特にタナス公の醜悪な容姿を目にするとそれは倍増される。美術品を愛で、その一環としてリュシオンを手に入れようとしたとのことだが、悪い冗談とすら思えた。
男は森の北東から聞こえた音に気付き、そこにある祭壇へ向かう。
「しっかし、あのニンゲンたち、さっきから何で戦ってんでしょうね?」
男の部下がそう口にした。
先ほどからベオク同士で戦闘を繰り広げているのを認識している。しかし関わりあうと碌なことはない、と捨て置いた。そして白の王子を捜し出すべく飛び立っていく。
リュシオンは怒りのあまり、禁呪を用いようとしていた。
「止めないで下さい、ティバーン! 私は…私は…。あなたの許しが得られなくても…私はやります!一族の報復なんです…!」
「リュシオン! 憎しみの気に支配されるんじゃねえ!」
ティバーンと呼ばれた男はリュシオンを諭す。彼の憤りを受け止めて、己もまたそうであると告げて。男の部下もまた同胞への想いを述べ、男とともに同じ気持ちでいた。
「我が鷹の民の総力をもってしてニンゲンどもに思い知らせてやろう」
男は鷹の民の王だった。その金色の瞳には鋭い眼光が光る。隆々とした躰に覇気を纏い、そう威厳を込めて言い放つ。
そしてこの場を脱しようと移動すると、またしても森の音が聞こえる。
その音によって足止めされ、一行は辺りに気を巡らせた。そして、男の部下の「目」であるヤナフがそれを発見した。
「白鷺か…」
「ま…さか…」
そこには確かに翼があった──
「何故ニンゲンなどに抱えられているんだ…? …しかしベグニオン側じゃねえ奴らは、あの白鷺を庇って戦っているようだな。不本意だが加勢するか。行くぞ!」
そうして男は部下へ指示を出した。そして男の口端が少し上がる。
「へっ、どうせなら。俺が一発ぶん殴ってやるよ、あの豚野郎…!」
男の指の関節がぱきぱきと鳴らされる。
「ティバーン! お願いです…私もいっしょに…!」
リュシオンがそう男に嘆願した。彼にはその白鷺が誰なのか、思い当たるところがあった。生存の可能性に光明を見出す。わなわなと手が震えてきた。
「禁呪を使わないと誓えるなら、ついて来い!」
タナス公の追跡は思ったのほか、困難を極めた。
セリノスに隣接した領地を持つ公は、この森に詳しかった。鷺の民の捜索のため、幾度となく調査を繰り返していたからと公の元部下から聞いている。部下も同様に熟知していた。絶妙な位置に兵が配置されていたり、遠隔攻撃魔法を操る魔道士まで配置されていたりと周到だった。こうなることを想定していたかのようだ。噂によると、同様に鷺の民を捕獲しようとこの森に侵入した輩がひそやかに葬られているのではないかとのことだ。反対勢力の者を誘い込んで隊一つを消したとの噂もある。
そんな中、アイク率いるグレイル傭兵団は疲弊しつつも、犠牲者の一人も出さずに森の最深部へ突入している。個々の能力が高いのはもちろん、森が得意な獣牙の民も同行しているのも大きい。闇でも目が利く。方向感覚も確かだ。
(なんだ、この隊は。ベオクの中にラグズも混ざっているというのか…! 獣牙の奴らか)
男はベグニオンの軍装を纏っていないベオクの隊に数名のラグズが存在していることに驚いた。
そういえば先日、竜鱗の国ゴルドアにてラグズ各国の王族による会議が開かれた際、獣牙の国ガリアがクリミア王女を保護したという話を聞いた。
そうしてラグズとベオクが接触している例は確かにあるのだが、実際に共闘している場面を目の当たりにすることはあまりなかった。
「タナス公! おとなしく降伏しろ! 今この場では命までは取らない」
凛とした少年の声が響く。彼は私兵による壁を築くタナス公へ向けてそう叫んだ。しかしそれには応じずタナス公は最後の抵抗を試みる。追い詰められたとはいえ、まだ兵の数を残しており、十分に余力は温存されていた。一方、彼らは休みなく追ってきたため余力が少なかった。
「…それが答えか…!」
タナス公の指示により、前線の騎兵が列挙して押し寄せてきた。アイクは剣を鞘から抜き、身構えた。そして同じく騎乗の者を前線へ出し脇を剣士や斧使いなどで固める。彼はその後方へ下がり、魔道士や杖使いの者らと控えた。
それが図らずも功を成すこととなる。
「アイク…! 来ます! メティオです…!」
「…わかった! セネリオ!」
セネリオと呼ばれた黒衣の参謀は魔道士である。契約を結ぶ風の精霊が魔力の波動を察知し、彼に働きかけた。近くにいたため、アイクはそれをいち早く伝え聞くことができた。
「みんな、下がれ! 伏せろ!」
アイクは混戦となっている前線へ逆流するかのように駆けていった。剣を振るい、道を作る。そのあとをセネリオと杖使いの男と数名の魔道士が追う。本来ならそのように前線へ躍り出ない者たちが連なってきたことから、前線にいた者たちは察した。彼の指示通り速やかに下がる。
敵の騎兵も後退していった。普通であればこれを追い、陣を進めるところであるが、これは明らかに罠である。
そして、空が赤く染まった。辺りの温度が急激に上昇する。炎の精霊が荒れ狂う。アイクに魔力はないが、彼はそれが降り掛かってくるであろうことは察知した。
赤く染まる空を見て戦慄く者がいた。
「…□□□□!!!」
それは古代語で叫びを上げている。悲痛な叫びだった。
「落ち着け! 落ち着け! リュシオンっ!」
ティバーンが戦慄くリュシオンに一喝を入れる。
(やっぱりか、そうか、リアーネか)
リュシオンが叫んだのは彼の妹の名だった。ベオクの少年が背負っている白鷺は鷺の姫ではないかと思ったが、リュシオンもそう思っていたようだ。それと、セリノスが襲撃されたときのことを重ねているのではないだろうか。炎で焼かれていく森は恐怖と絶望の象徴。
「まだ行くんじゃねえ!」
「ですが、ですが…ティバーン…!」
その元へ降り立とうとするリュシオンをティバーンは押さえ付けた。
「見ろ!」
彼らの眼下には遠隔炎魔法の炎の弾が激しい勢いで次々に落ちようというところが見えた。白鷺を保護しているベオクの隊が一網打尽になろうという勢いだった。
しかし。
「!!」
彼らの頭上に魔道の結界が現れた。炎の弾はそれへ引き寄せられるように降り注ぐ。結界を張っているのは少年とともに駆けてきた魔道士たちだった。
この結界のおかげで後方へ下がった者たちは身を伏せてはいるが、被害は及んでいない。
「あいつら、結構手練だぜ」
ティバーンがそう落ち着き払った声でそう呟く。しかし、リュシオンはベオクの少年の身を、というより少年に背負われた白鷺の身を案じて落ち着かないそぶりを見せていた。
「大丈夫だ、少なくとも白鷺の方は」
地面が揺れる感覚すらある。
アイクは歯を食いしばって堪えた。熱い。体が焼けるようだ。
「アイク、堪えてください!! あと数度来ます!」
セネリオが足元で身を伏せているアイクへそう呼びかけた。アイクは無言で片腕を上げると再び地に伏せる。彼の腕の中には白鷺の女性がいた。
「まだだ、まだここから動くなよ…!」
その光景を見つめながらティバーンは依然リュシオンを押さえている。そして炎の弾が降り注ぐのを目の当たりにしていた。リュシオンの顔が蒼白になっている。
「あいつら、弾切れを狙うつもりだ。ちょうどいい、これで俺らも無事に進める」
これが最後だろうか、今までより一層大きな塊が近づいてくるような気がした。
炎の弾は結界へというよりアイクへ吸い寄せられるように降り注ぐ。魔力の炎は水が低いところへ流れていくように魔力が弱いところへ引き寄せられる。魔道士など魔力の高い者が連なっているためそれがさらに顕著だ。それでも、結界の直下にいた方が半端に後方へ下がるより安全である。半端に後方へ下がった場合、さらに集中的に彼に炎が降りかかるであろう。彼は伝令をすべく前方へ駆けていったため、魔道士らが結界を完全に張るまでに後方へ下がりきるのは困難であると判断して、結界の直下で堪えることにした。
咄嗟の行動であったため、白鷺の女性を背負ったまま前方へ出てきてしまった。そうすれば、彼がとる行動は唯一つ。
そして最後の一弾が弾けた。
遠巻きにしていてもその熱が伝わってくる。ティバーンは僅かに眉を歪める。
「……なんて奴だ」
最後の一弾が落ちたのを確認する。赤い空が次第に色を失っていった。炎の精霊が鎮まっていく。砂埃が晴れるとそこにあったのは、焦げた外套を纏う彼の背。そして彼は立ち上がり、少しよろけながらも己の身の下に隠していた白鷺を抱きかかえる。すかさず彼の背に杖使いが治癒の魔法を施す。そして彼はすぐにまた白鷺を背負った。
「……そんな、馬鹿な」
彼の身の下から出てきた白鷺を目にするとリュシオンは放心したようにそう呟く。
あれだけ憎いと思った「ニンゲン」がその身を呈して己の妹を守ったというのか、と。
「リュシオン、「ベオク」にもいろんな奴がいるようだぜ」
ティバーンのその言葉にリュシオンはこくりと頷いた。そしてティバーンはその翼で飛び込んでいった。彼の元へ近づいていくごとに高揚を覚えることに気付いた。
「おまえら、弓と風魔法には気をつけろよ!」
「わかってますっ!」
ティバーンは部下とともにアイクらが到達するより先に敵の陣中に突入していた。戦姿に化身し、次々と敵を沈めていった。
大鷹が嵐のように空を駆る。
「あれは……」
あからさまに巨大な鷹が敵勢を蹴散らしているのだ。アイクはそれをラグズではないかと判断した。ラグズが化身した姿はラグズではないものに比べて一回り以上も大きいのが殆どだ。そしてそれは類い稀なる大きさだった。
「よし」
どうやらその鷹はどういうわけか自分達に味方しているようだ。そう判断したアイクはそれを勝機と思い、一挙に突撃しようと試みる。
ここまで追い詰めればタナス公も逃げ場はないだろう、と彼は背中の女性を後方の杖使いの者らへ託し、先頭を切って駆けていった。
一迅の風のように通り抜けていく。まるで枷を外されたかの如く勢いづいて。一直線に向かっていく。
大鷹はそれが近づいてくるのを感じる。
そして、彼らは交わった。
同時に同じ相手を地に沈める。そのまま向かうところは一つ。互いに目的は同じなのかと思った。
ティバーンが取り巻きの兵を薙いだ隙にアイクはそれらに目もくれずにタナス公の方へ飛び込んで振りかぶる。
剣ではなく、己の拳を。
どう、と音を立ててタナス公は倒れる。彼らの迫り来る勢いに気圧されて護身用の光魔法を発動する間もなかった。
(おいっ、なんだそりゃ! くそっ! 俺の方が殴りたかったぜ)
すぐにあとを追ってきたアイクの仲間たちが昏倒するタナス公を捕縛していった。
「生け捕り、っていうのが一番難しいんだ」
彼は振り返り、そう鷹の王へ言い放った。そのときの瞳がやたらに印象的だった。深い蒼の瞳。よく研ぎ澄まされた鋭利な刃物のような鋭さを感じた。
「あんたが、奴を生かすか殺すかわからなかった。奴はベグニオンへ引き渡さなければならない。貴族というのは厄介だからな」
彼のその言葉にティバーンははっとした。
この醜悪なニンゲンはベグニオンの貴族であったはず。しかしそれをベグニオンへ引き渡すという。ベオクというのは同族間で争いをするばかりでなく、同じ国内でも利権の絡みなどで対立するのだ。ときには同じ血族であっても。
それを知らぬわけではなかったが、こうして同胞のために怒れる魂を持つ鳥翼族である男は改めてベオクとはそういうものだと思い知らされた。目の前のこのベオクの少年もそんなベオクの一員なのかと思うとティバーンは少し残念に思った。それは無意識に。
「…どこの誰だか知らんが、加勢してくれてありがとう」
彼はティバーンの前まで歩み寄り、真っ直ぐに瞳を見つめ、そう礼を述べた。少し笑ったような瞳が年相応に見えた。注視すると存外に大きな瞳であることに気付く。
「あんたは…!」
アイクはティバーンの傍らにいたリュシオンを見てそう声を漏らした。
「…その…おまえの背に…いる者は…?」
アイクは仲間に託していた女性を再び抱えていた。そして女性をリュシオンの元へ引き渡した。
すかさずリュシオンがその名を呼ぶ。そして女性は目を覚ました。彼らは戦火より再開を果たしたのである。互いに呼び合い、無事を確かめ合った。
「あんたら、兄妹だったのか。無事でよかったな」
アイクがそう呼び掛けると、リュシオンが彼の方へ向き直る。
「…すまない! あの時の無礼を許してくれ」
彼がリュシオンを保護しようと呼び掛けた際、罵倒して逃走していったことを指した。
「妹を、身を挺して守ってくれて…ありがとう」
そして頭を下げ、そう感謝を述べた。
ティバーンはそんなリュシオンの姿を見て、あれほどまでにベオクに対して憎悪をつのらせていた彼がこのように頭を下げるとは、と感嘆を漏らした。そして己もこのベオクに対して好意的な感情が芽生えていたことに気付いた。
「おい、そこのベオク」
「俺か?」
改めて、ティバーンはそうアイクへ呼び掛けた。アイクは自分で己を指差す。
「俺はフェニキス王ティバーン。国を追われたセリノス王族の後見をしている。お前達は何者だ? 何故、鷺の民を助けた?」
本能で好意的なものを感じたとはいえ、いかような立場の者か全くわからない。ティバーンは万が一のことを想定してわざと、そう尊厳を込めて威圧感を与えるように言い放った。
「俺はアイク。グレイル傭兵団の団長だ」
アイクはティバーンに気圧されることなくさらりとそう応えた。ティバーンは己が厳つい顔と身体と雰囲気を持っていることを自覚している。それを以って威圧感を与えつつ接すれば、大概の者…特にベオクなら多少なりともたじろぐのだが、彼にはそれが見受けられない。
(…こいつ、鈍いのか、馬鹿なのか…それとも…)
ティバーンは彼の一挙手一投足に注目し、人となりを読み取っていく。
「俺は、この国の皇帝…神使サナキから、サギの民の保護を依頼されて来た」
彼の次のその言葉でティバーンは顔を引き攣らせた。
今更、何を言うのだろうかと。先代の皇帝を暗殺した咎で、鷺の民は滅ぼされた。その後継者たる現皇帝が、鷺を助けるよう動いたりするか、と。
ティバーンがそう憤りを口にするも、アイクは静かな口調で皇帝サナキが鷺の民へ贖罪をしようとしていると告げた。リュシオンがそれを信じがたいと憤りを口にする。しかしアイクは神使は森の入り口まで来ていると告げ、信じるかどうかは会ってから決めるといい、と判断をリュシオンに委ねた。
そしてリュシオンはサナキの謝罪を聞くことにした。
それを受けてアイクは表情を緩めたのとともに、倒れ込む。
「おいっ!」
ティバーンは思わず彼の身を受けて支えた。そうだ、その背には同胞を守り抜いた証がある。焼け焦げて短くなった外套、そして背の素肌が見えるほどに焦げた上衣。回復魔法で応急処置を施したとはいえ、その損傷が見てとれる素肌。そしてここまで同胞を背負いつつ連戦をこなしてきた疲労もあるのだろう。
「だ、いじょうぶ……」
アイクはそれだけを応え、よろけながらもリュシオンとサナキが対面している場へ歩む。サナキの部下が膝を折って謝罪する彼女を諌めようとしていた。彼はその場に割って行って彼女の気の済むようにさせろと言った。
そして、リュシオンの妹である白鷺姫リアーネの訴えもあり、セリノスの大虐殺の件は神使の謝罪により和解となった。
ティバーンはその姿を見て、このベオクは信用に足る者だと思った。
直接、魂を掴まれた。
そんな想いを自覚し、それは歓喜すら覚えるものだと。
そして、もっと知りたくなった。
「よお。それ、結構サマになってんじゃねえか」
「そうか? よくわからん」
深草色の軍装の少年が鷹の王にそう声を掛けられる。裾長の上衣の上に浅葱色の外套を纏う。緋色の裏地が鮮やかだった。彼の姿勢の良さと相俟って、きりりとした印象を与える。
テラスより吹き込む風が彼の額に巻かれている帯布をなびかせていた。
「まずは形から、ってか。将軍さん」
「そうだな、ここまで来てしまった以上そうあるべきなんだろうな。しかしあんたまでそう呼ばなくてもいい」
「はは、言うまでもねえ。俺だってベオクの階級なんか食えねえもんだと思う。なあ、アイク」
「…でもあんたは「王」なんだろう? ティバーン」
タナス公を捕縛し、鷺の民と神使の和解を橋渡ししたアイクは、ベグニオンよりクリミア奪還のための兵を借り受けられることとなった。そのためには一定の地位が必要という。ベグニオンの兵を動かすにはそれなりの爵位がなければ兵も納得しないとのことだ。アイクは爵位を受けるのを柄ではないと一度は拒否したが、そのような理由があるならばということで受けた。
彼の傭兵団が核となってここまできたため、自然とその役は彼が負うこととなったのである。
「正直、これも堅苦しくて仕方ない」
「そのうち慣れるんじゃねえか? 第一、おまえの服はでっかい穴空いちまって直しようもなくなったし」
アイクが窮屈そうに襟元に指を引っ掛けて動かしていると、ティバーンがばん、と彼の背を叩く。
「っ!」
「あ、悪りぃ」
先日、リアーネを炎の弾から守った際に被弾した背中を叩かれ、アイクは思わず声を上げた。
「まだ痛むのか?」
ティバーンはそう問い掛けながら彼の背を摩る。
「ん…治療を受けたからだいたいは良くなったが…。今こうやってあんたに叩かれてまだ完全に治ってないんだってわかった」
アイクは目を瞑りながらティバーンにされるがままになっていた。そうしながらティバーンは、彼が倒れてそれを受け止めたときの背中を思い出す。それは皮が剥け、赤く爛れた跡があった。治癒の魔法で処置を施していたとはいえ、それは痛ましい様だった。
「おまえ、鈍いだとか馬鹿だとか言われてないか?」
「どうして分かる?」
「おいおい」
ティバーンの手がぽんぽんとアイクの肩を叩く。
「認めるのかよ」
「よく言われるからな。でも問題はない。みんなが俺を支え、助けてくれる」
彼のその返しにティバーンは声を上げて笑う。
「そりゃよかったな。いいタマしてんなおまえ。しかしな、自分の怪我の程度くらいは把握しておけよ。あんな炎の弾とかあれだけ食らったら俺らなんか羽が使い物にならなくなっちまう」
そう言うティバーンの羽をアイクはそっと触れた。手触りがいいのか、無心に触る。
「これか」
「おい」
ティバーンの羽がふわりと揺れる。
「おまえな、仮にも一国の王の羽に気安く触れるなよ」
「すまん」
口ではそう返すもアイクは止めずに表面をさわさわと触れる。
「…怖いもの知らずか。だろうな。俺がこんな顔したって退かないだろ」
ティバーンはアイクの肩をぐいと掴み向き直らせ、眉を釣り上がらせ眉間に皺を寄せ眼光鋭く睨んでみた。
「あんたのこの羽が燃えてなくなってしまうほうが怖いな」
アイクはティバーンの瞳をじっと見つめ、眉を少し歪めてそう返す。
それを受けてティバーンは一瞬言葉を失い、息も止まった。そしてふつふつと込み上げてくる何か。
「ほれ、触れ! 好きなだけ触れ!」
ティバーンはくるりと後ろを向き、アイクをその羽でばさりと包んで揉みくちゃにした。
「う、わあ、いらん、こんなにいらん」
突然揉みくちゃにされて惑ったアイクは思わずそう声を発した。その声を聞いてティバーンは声を上げて笑った。
「…よし、今晩はじっくりとおまえの話を聞こうじゃないか」
「ん?」
やっと羽から解放されたアイクはティバーンのその言葉に反応した。
「おまえの成そうとしているクリミア解放へ我がフェニキスも力を貸そう。だから、クリミアの総大将の人となりを見極めさせろ」
「……!」
テラスから室内へ戻った二人は調度品のテーブルを挟み、向き合って椅子に掛けた。燭台の明かりが煌々と二人を照らす。
テーブルに置かれているのはベグニオン産の葡萄酒が一本とグラスが二つ。ティバーンは栓抜きは使わず、ボトルを片手で掴んでコルクを歯で噛みそのまま引き抜いた。
「おっ」
アイクは目を見開き口を少し開けてそれを注視した。
「じっくりと話をするには酒がつきものだ。どうだ? 酒は好きか?」
グラスにどぼどぼと酒が注がれる。作法などないとでも云うが如く、ティバーンは片手でそう豪快にボトルを傾けていた。アイクはその様子を見て、少し口許を緩ませる。
「飲んだことがない。嗜好品だからうちのような貧乏傭兵団にはあまり縁がなかったのか。旨いのか?」
「そうか、じゃあまずは飲んでみろよ」
そう勧められるもアイクは首を横に振る。そしてもう一つのグラスに酒を注ぎ、ティバーンの方へ差し出す。
「そっか」
ティバーンはその杯を受け取った。
「…乾杯」
ちりんとグラスが鳴る。そしてティバーンは一気に酒を煽った。その様子をじっと見つめて一呼吸置き、ティバーンの顔を凝視したのち、アイクはグラスに口を付ける。そして一口含み、舐めるようにして喉へ流す。しばし吟味したのち杯の半分まで喉に流し込んだ。
「なんだよ、その飲み方。もっと旨そうに飲め」
「…そうだな。これから先もそうできればいいのだが」
そう促されてアイクは残りの杯を一気に煽った。
「…ん?」
「ラグズの権力争いはどんなものなんだ?」
アイクのその問いでティバーンは何故彼がそのような飲み方をしたのか察した。
「はっ…そうか。ベオクってやつは己の力だけで頂点目指すもんじゃないってな」
そう言い、ティバーンは力こぶを作り、それが純粋な戦闘力などを指すことを示し
「ときには毒を盛って蹴落とすことだってある」
そう言葉を続けた。
「そうだと聞く。それが貴族社会なんだと。先が思いやられるな。だから爵位なんかいらないって言ったのに」
アイクはグラスを両手で包み、それを見つめながらそう漏らした。
「おまえさん、存外に頭が回るんじゃねえか。何も知らないガキだと思ったが」
「うちの情報屋の受け売りだ。宮廷で出される食料には気をつけろ、とな。なんでも、上流階級の中にはそのために犬猫を飼っている奴もいるという」
ティバーンはアイクのその言葉に「成る程」と納得したが、同時にあることに気付く。
「は…っ! おまえ、俺に毒見させたのかよ!」
「すまん。早速教えられたことを実践してみた。しかしあまり気分は良くないな」
ティバーンは一瞬憤りを感じたがすぐに素直に謝り、そう神妙な顔になってしまったアイクの様子を見たら怒る気にもなれなかった。
「俺は何も知らないんだ。これまであんたらのような種族を「半獣」と疑うことなく呼んでいた。「ラグズ」なんていう呼び方も知らなかった。貴族のやつらがどんな暮らしをしているのかも知らなかった。貴族ってやつは融通が利かなかったり自分らのことしか考えない奴が多いのかと思ったら、真剣に対外的なことや領民を思う奴もいる」
切々とそう、アイクはその双眸を鷹の王へ向けて訴えていく。
「俺はあんたのこともまだよく知らない」
「俺にもあんたを見極めさせてくれ」
「俺はあんたを信じたい」
ひとしきりアイクはそう言いきると口をきゅっと結んでただただ強い眼差しを保つ。
──これは、雛だ
ティバーンは思った。
生まれたての雛鳥。今まで知らなかった世界を知り飛び立とうとしている。大事に育てればきっと大きな翼で強く空を駆けることができるだろう。
「来い」
ティバーンは立ち上がり、ボトルとグラスを持ち、床に胡坐をかいてどっしりと座り込んだ。
「さあ、仕切りなおしだ。こうやって座り込んで杯を交わすのがフェニキスでは正式なんだぜ」
それを受けてアイクは自分のグラスを手にし、外套を外して投げ捨てるとティバーンと向き合って同じように胡坐をかいて座り込んだ。
「…よろしく頼む」
アイクはすっと杯を差し出す。
「よっしゃ」
ティバーンが酒を注ぐ。
「ところで味はどうだ?」
「あまり旨くない」
そう言いながら表情をあまり変えずに葡萄酒を口にするアイクが可笑しくてティバーンは笑みを浮かべた。
少しだけ窓を開ける。すっと夜風が吹き込んでくる。酒で少し上がった体温も冷まされるだろうか。とはいえ、酒の量はまだ序の口といったところなのだが。
ティバーンは振り返り寝台へ横にさせたアイクの姿を見やる。そういえば、まだ成人もしていなかったのだと思った。ましてや、初めての酒だったという。
しかし歳の割に妙な貫禄すらあると思った。その口調だろうか、佇まいだろうか。
「何であんたは王になろうと思ったんだ」
彼のその問いを思い出す。そんな己の根幹に関わることを聞かれるとは思わなかった。そして、そもそもラグズにとっての王とは、国家とは何なのかと。
(まったく、酒の肴にしちゃずいぶん重たいよな)
ティバーンは風に吹かれながら腕を組み、昔を思い返していた。
それはまだティバーンが王となる前、一人前の戦士として独り立ちしてから数年が経った頃だった。血気盛んな彼は、手合わせと称して来る日も腕を振るい、国中に名を響かせていた。持って生まれた身体能力と戦闘のセンス。そのどれもが卓越していた。
そしてまさに、本能のままに過ごす。
腹が減れば肉を狩り、手下に調理させ、それを存分に食らう。眠れぬ夜が来れば、同族の女を口説き抱く。時には少し強引に。もしかして何処かに名の知らぬ子が存在するのかもしれない。
欲しいものはすべてその腕で手に入れてきた。
そうやって登り詰めればあとは頂点を目指すのみ。欲しいのは王座。
ラグズの王はその力が最も強い者がなる。彼はその掟に則って、時の王へ王位を寄越せと勝負を挑んだ。この時の王はすでに高齢で、単純な体力勝負なら勝てる自信があった。
しかし、彼は羽をむしり取られる勢いで敗北してその場を脱した。
「くそっ! 卑怯だ…! 多勢に無勢じゃねえか」
敗北した際、彼は地に膝を付きながらそう吐き捨てた。
「だから、言ったのだ。おまえも部下を伴って勝負せよと」
時の王は殆ど手を出すことなく、隊列を組みよく統率の取れた部下に指示を出すのみで勝利した。一方、彼は殆ど一人で応戦した。部下ともいえない手下を引き連れて挑んだものの、連携を組むことを意識していなかったため、隙を突かれて次々と撃墜されていった。仕舞いにはその手下たちも付き合いきれないと逃走してしまった。
「それがあんたの実力とでも言うのかよ! 一人でかかってこいよ!」
「…ティバーン、おまえは「王」になろうとしているのだろう?」
時の王はそれだけを静かに語りかけると彼の元から去っていった。彼は地べたに這い蹲って屈辱を覚えていた。いきり立って拳を地に打ち付ける。
「…大丈夫ですか?」
そこへ、王の部下の一人であろうか、まだ羽も生え揃わない少年が彼にそう声を掛け、手布を差し出した。
「くそっ!」
頭に血が上っている彼はその施しを素直に受けることができず、手を振り払って無碍にした。こんな、羽も生え揃わぬ小僧に憐れみを受けるなんて、と思った。
重い体を引きずるようにして根城に戻ると、そこには手下たちはいなかった。
「はっはっは! こてんぱんにのされてきたな!」
「うるせえ! この雀ラグズ!」
笑いながら彼にそう声を投げ掛けてくるのは、幼なじみのヤナフだった。ヤナフも同じく鷹のラグズなのだが、体躯が小柄なため、彼によく雀のようだと揶揄されていた。
「やっぱこうなると思ったぜ、なあウルキ」
「…ティバーンには悪いが私もそう思った」
ヤナフの側にいてそう応えたのは同様に幼なじみのウルキだった。
「おまえらな…揃いも揃って」
「だからおれらは行かなかったんだぜ。あっちはよく訓練されてる奴らじゃねえか。ウチみたいにバラバラで勝手に動いてる奴らだけで太刀打ちできない。いくらおまえが豪腕振るったって一人じゃな」
ヤナフは麻布のラグの上にごろごろと転がりながらそう言った。
「奴らも付き合いきれねえって言って出ていったぜ。だからおれがこうやって寝床あっためておいたぞ」
そうにやにやしながらティバーンを見上げているヤナフはむんずと首根っこを掴まれる。
「てめえはタマゴでもあっためてろ! くそっ」
そんな二人のやり取りを黙って見ていたウルキは軽くため息をついた。
「そんなんだから鷺の姫には避けられるんじゃないのか? リアーネ姫は最近のおまえは昔とは変わったとか言って悲しそうな目で見てるわ、リーリア姫にはフラれたんだっけ?」
「な…っ!」
同胞として交流の深いセリノス王国より、時折王族が来賓として訪れる。屈強な一族揃いのティバーンの家では昔から来賓として訪れた鷺の民の警護をしていた。そのため、鷺の王族と縁が深かった。
「ヤナフ…今日という今日はてめえ…」
彼はいきり立って眼光鋭くヤナフを睨み付け拳を向けようとするが、間にウルキが割って入ってきた。
「ティバーン、このままのおまえなら私たちも傍には居られぬ」
そう静かな声が響く。
彼は辺りを見渡し、この根城にいるのは自分とこの二人だけなのだと改めて思った。
「…わかった。少し頭を冷やしてくる」
彼はそれだけを残して飛び立っていった。
「なあ、ウルキ。ティバーンの奴、王になれると思うか?」
「…ヤナフ、おまえもその心は同じだろう?」
「まあな。じゃなかったらこんなむさ苦しいところにずっといねえよ」
彼は今日のことを思い返しながら空を漂っていた。
自分には何が足りないのだろう、と思った。
王になれば鷺の姫だって尊敬を示してくれるだろうか。そうだ、尊厳が欲しい。もっと自分は尊厳を得られるはずだ、そう思った。
「ねえ、ティバーン。あなたはどうして王になりたいの?」
鷺の姫にそう聞かれた。そう聞かれて正直に「モテたいから」と返せるわけもなかった。ましてやその対象が目の前にいて。彼は口ごもる。しかし、鷺の民は心を読む能力がある。
「そうなの、残念ね。それが理由ならあなたの成すことはあなたにとって無駄になるわ」
彼の心を読んで、そう透き通った瞳と声で訴えてくる。その純粋さがかえって彼の心へ衝撃を与えた。
それでも、いや、だからこそ王の座は諦めきれなかった。もはや己の尊厳を保つための糧と化している。
「ん?」
眼下にあるものが目に入る。それは見覚えのあるものだった。谷風が強い中、彼は吹き飛ばされないよう注意してそこへ向かう。
「何やってんだおまえ」
そこにいたのは王との対決のあと、手布を差し出してきた少年だった。少年は一人分にも満たないような足場に立ち、堪えるようにしてそこに留まっていた。
「あ…ああ、あの、僕、降りることも昇ることもできなくなって…」
強風に煽られながら必死に均衡を保とうとしていた。まだ羽の生えそろわない少年にとって、この強風は脅威なのだろう。今、飛び立てば風に煽られて均衡を崩し落下してしまうかもしれない。
「なんでてめえみたいなひよっ子がこんなところまで飛んできてんだよ」
彼はその場で空中静止しながら少年に問い掛けた。このような強風で空中静止するには強い翼がいる。
「王様に…あの果物を食べて、もらいたく、て…」
必死な様子で少年はそう応えた。
「そうか、とりあえずこんなところで立ち話もなんだ」
彼の腕がすっと少年に伸ばされる。
「来い」
少年はぱっと顔を明るくしてそっと彼の腕に飛び込んだ。
「ありがとうございます!」
地に降ろされた少年は瞳を輝かせてそう礼を述べた。
「おまえ、何でわざわざ無茶してあんなところに…」
「王様の体調があまりよくないんです。だからあれを食べて元気になってほしくて」
少年は切々とそう語る。
「なんだよ、そしたら肉食った方がいいだろ」
「…王様はあまり肉を受けつけないようになってしまいました。だから余計に心配です」
「はっ…そうか、もうトシだからか」
彼は先刻対峙した王の姿を思い返していた。威厳を湛え、圧倒されそうなほどの気迫を感じたが、肉体的な衰えには勝てないのだと思った。
「でも、あれなら食べられるかなって…」
その果物とは、フェニキス名産の果実酒の原材料にも使われるものだった。滋養強壮の効能があるが、その実がなる木は切り立った崖にしか生息しないという希少なものだ。
「確かに、あれなら食いやすいし精もつくかもな」
「でも僕の羽じゃまだあれを取りにいくこともできなかった…」
少年はそう言うと落胆してしまった。
「よし、俺にまかせろ」
「えっ?」
彼のその申し出に少年は驚きの声を上げた。
「元気になってもらわねえとな。まだ勝負に勝ってもいない」
「…はい。できることなら、王様を交代してください。王様はずっと体調が良くないみたいだから…」
少年のその言葉に彼は目を見開く。
「おい、いいのかよ。そんなこと言って」
王に仕える身であるのに彼へそんな言葉を向ける少年に彼はそう問い掛ける。
「僕は、王様が好きなんです。とても尊敬しています。身寄りのない僕を面倒見てくれました。先輩たち含めていろいろなことも教えてくれました。できることならずっと王様でいてほしいけど、辛そうにされるところはあまり見たくないんです」
彼はこの少年の口から発せられた「尊敬」という単語をその胸に刻んだ。こうまでもあの王は慕われているのかと。
「…そうか。しかし、俺が王座を狙ってもいいんだな?」
「はい、あなたならきっと強くて優しい王になれると思います」
少年は崖から救出されたときの彼の腕を思い返しそう言った。きらきらと輝くその瞳を見て、彼はある思いを蘇らせ、新たな決意をする。
「俺はおまえらを守るぞ! 強い者は弱い者を守らなきゃならないんだ」
幼い頃、鷺の姫たちに言ったその言葉。
そのためにもっと強くなろう、そう思って腕を磨いてきた。しかしいつしか己の欲に溺れ見失っていたそれ。
「待ってろ、絶対に王になってやる」
「はい、そのときはあなたにお仕えします!」
「おまえ、名は?」
「ロッツといいます」
テラスから吹き込む風が強くなってきた。風が冷たい。そういえばもうすぐ秋も終わりに近いと思った。ティバーンは寝台を振り返り見てテラスの窓をそっと閉めた。
(思い出させてくれたな。そうだ、初心忘れるべからず、か)
ティバーンは静かにアイクが横たわる寝台の隅に腰掛けた。
(俺は「鷹王」の名に恥じぬ男でありたい)
彼はロッツに「王になる」と約束した後、一晩静かに気持ちの整理をして時の王の元へもう一度出向いた。
もう一度勝負を仕掛けるのかとその場の誰しもが思ったが、彼は地に膝を付き深く礼をして請う。
「あんたの弟子にしてくれないか」
その場の誰しもが驚愕の表情を隠せなかった。しかし
「…悟ったか、ティバーンよ。腕力だけでは王足り得ないことを」
王は落ち着いた静かな口調でそう彼に語りかけた。
「俺は、あんたの持つ知識や人望が欲しい。そしてその王座も」
彼のその言葉に王の部下たちがざわめいた。
「何故、おまえはこの王座を欲するのだ」
「…強い者は弱い者を守らなきゃならないんだ」
そして彼はすっと例の果物を王に差し出した。王はそれを受け取り一口齧る。
「おまえのその強い翼はもっと高みを目指せるな」
王のその言葉に傍らにいたロッツが強く頷いていた。王は一瞬、その様子に目を配る。先日、ロッツから手渡された果物の出所を聞いていた。
「ああ、そいつを両手で抱えて持って帰れるくらいにな。でも、こいつみたいに羽が生え揃ってない奴でも簡単に採ってこられるのが望ましい」
ティバーンはロッツを指差す。ロッツはさっと顔を赤くした。
「その木を低いところに持ってきて育てるんだ。たんと増やして弱ってる奴がよく食えるようにしたらいい。余ったら酒にして名産品として輸出するとかな」
王は静かに数度頷きながら彼の話を耳に入れる。
「おまえ、栽培法など知っているのか?」
その問いに彼は首を横に振る。
「俺にはそんな能はねえ。知っている奴を探し出して聞く。一人が知ることやできることに限りがある。だが、誰かしらその道に通じている奴がいると思う。それを上手く使わない手はない」
彼がそこまで語ると王は大きく頷いた。
「…ティバーン、おまえは「鷹王」の名に恥じぬ男になれ。未来のフェニキスはおまえの手に掛かっている」
王のその言葉に辺りは一瞬静寂し、感嘆の声が漏れる。
「はっ、現鷹王殿。貴方の教えを御教授賜り、この私がフェニキスの安泰を御約束致します故」
彼は王へ再び深く礼をした。最大限の敬意を示し。
そして、ここまできた。
ティバーンは腰帯に括っている短剣をそろりと抜き、その輝きを見つめた。燭台の炎を反射する。
ラグズは戦闘に鉄製の武器は用いない。これは純金製の模造刀だった。儀礼用の短剣である。そして王位の証だ。
武器を扱わないラグズが「道具」の象徴である短剣を持つことにより英知を意味する。刃に金を用いるのは錆びない金属であることから永遠を意味するのと、鷹の民に多い瞳の色と同色だからである。
これをどうして帯剣しているのかとアイクに聞かれた。
アイクは、獣牙の民にラグズは鉄の匂いを嫌い、鉄の武器は使用しないと聞いたと言う。しかしラグズも例えば肉を切るために刃物を道具として使用するとは聞いていたそうだ。
「あんたのそれも肉を切るためなのか?」
「はは、そりゃよかったな」
これは王位の証なのだと説明した。そしてアイクは納得したような表情になった。
アイクはティバーンの話すことにひとつひとつ興味を示し、真剣な眼差しで耳に入れていた。特にティバーンが王となるまでのいきさつはその蒼い瞳を丸く見開いて聞いていた。
「そうか、それはわかりやすくていい」
ティバーンが王になろうと思った理由を知ると、アイクはそう言った。
「タナス公の一件で、貴族というのは私利私欲でやりたい放題なのかと思った。そうではない奴もいるが。ベオクの制度だと貴族になりたくない奴も、ふさわしくない奴もその家に生まれたからってなるんだ。やりたい奴がやればいいのにな。そしてふさわしい奴だけが」
そう言うとアイクは深く息を吐き出し、瞳を閉じた。
「とは言っても、俺も…親父が傭兵団やってて、親父が死んで、それで団長になったんだ。それが気に食わなくて団を抜けた奴もいる」
ティバーンはそこで初めてアイクが自分のことを話したのに気付いた。アイクの顔が悩ましげで多感な少年の顔になっていた。まだ不安定なそれ。
「しかし、同じだ。あんたと。うちの傭兵団は貧乏だけどな、集落の中で困っている人間がいたら安値で仕事を請けていた。それは親父の意志だった。俺はそれを誇りに思う」
本当に、鳥翼族ならまだ羽も生え揃わないくらいの歳だというのに、とティバーンは思った。彼の中にある確固たるものを感じる。
「俺も、みんなを守りたいんだ」
その瞳の澄んだこと。
そして彼がリアーネを体を張って守り抜いたことを改めて思い出した。
「わかる、それはよくわかる」
ティバーンは頷き、そう相槌を打つ。そして彼のグラスに酒を注ぐ。アイクはとくとくと注がれる葡萄酒を凝視する。そしてくい、と飲み干す。
「おまえの親父に会ってみたかったな」
ティバーンのその言葉にアイクは胸を詰まらせた。そして眼前の鷹王が厳ついながらも優しげな瞳だったのを見た。
「そういえばこんな風に親父と酒を飲んだことはなかった。どんな酒が好きかも知らなかった。いつか俺も一緒に飲むようになるのだと思っていた」
アイクは淡々と、しかし頬を朱に染めてそう漏らす。それを見てティバーンは自分の杯をくいっと煽った。この雛鳥をそっと手の平で掬いたいと思った。そして、ティバーンはアイクから彼のここまでの道程を聞いた。傭兵団の砦を出てからこうして爵位を受けるまでのことを。
「…れはっ、たお、すっ。しっこ、くの騎士を…っ」
大方、彼の歩みや仲間たちのことを聞いたころにはすっかり呂律が回らなくなっていた。瞳だけは見開かれてティバーンの方を向いている。
ティバーンはアイクが自分で何を話しているのかわかっているのだろうかとすら思った。
「俺は漆黒の騎士を倒す」
と言いたいのだろう。
それは彼の父の仇。そこにあるのは怨念と執念だろうか。それともまた何か違うものもあるのだろうかと思った。まるで、籠の中から抜け出したいとでもいうかのような。
彼は目の前で父親を殺害されたという。
その事実を知り、こうしてうわ言のようにそれを倒す、と何度も言っている姿が痛々しく思えた。
「たおす、ぜっ…たい、」
「おまえ、酒癖悪いな」
ティバーンはそう呟いてアイクの額を指で突いた。アイクはそのまま後ろに倒れた。
「おいっ!」
アイクは酔い潰れて昏倒してしまったようだ。ティバーンは数度アイクの頬をぺちぺちと叩くと、これは起きなさそうだと思った。そして彼を寝台に上げて横たわらせた。
寝台に上げると、彼の額の帯布を外してやり、腰帯も外し、裾長の上衣を脱がせて楽にしてやった。
カチャリ、と短剣が鞘に仕舞われる音がする。
そしてティバーンはアイクの寝顔を覗き込む。
(はあ、あどけない顔して眠ってやがるな)
ひとつ息を吐く。
(できることならゆっくり育ってほしいもんだが。しかし、人の上に立つ素質はあるぜ)
彼は自分が何も知らないと言った。そして仲間たちが支えてくれる、教えてくれる、と言った。そう、彼はそれを知っている。
(おまえは、知らないということを知っているんだ)
そしてティバーンはかつての鷹王に教えを請うたことを思い出す。今でも部下たちの得意分野を把握し適材適所へ配置し、力を借りているということを自覚している。
(これから、おまえには様々な困難が降りかかるんだろうな)
ティバーンは彼のこれからの未来を案じた。うわ言のように仇を倒すと何度も言っていたことを思い出す。
(…まあ、今はゆっくり眠れ。…ん?)
うめき声のような声が聞こえる。それはアイクが発しているものだった。眉を歪め、苦痛な表情を浮かべる。
「…、何、してるの、どうして…」
寝言だろうか、端的な言葉を発している。
「お、とうさん…」
その一言に違和感を感じた。
(ん…? おとうさん?)
先ほど、酒を飲みながら語ったときは「親父」と言っていたはずだ。
「う、あああ、ああっ…!」
言葉にならない呻きが響く。そして額に汗が滲んでいた。
「おいっ!」
ティバーンはアイクの頬をびし、と叩く。アイクはそれで目を覚ますでもなく頭を激しく横に振る。身を捩り、腕が大きく振れる。そして仰向けになるとはだけた胸元に玉のような汗が浮いているのが見えた。そして彼はうっすらと瞳を開けた。目の前に腕があるのを見るとそれにしがみつき、そのまま再び瞳を閉じた。
「…まったく、どうしてくれよう」
そのまま仕方なくティバーンはアイクを片腕で抱きながら寝台に横たわる。その体勢のまま片脚で交互に靴を脱ぎ床に捨て置く。
「どうしたんだよ、怖い夢でも見てるのか」
幼子に語りかけるように静かで優しげな声で語りかける。返事が返ってこなくとも。
そうしているうちに彼の寝息が静かになってきた。
──それは黒く塗りつぶされた記憶
消えたわけでない。しかし見ることができない。
それは籠の中の鳥のように彼を閉じ込める。
深い冬を抜けた。しかしまだ春というには空気が冷たい。
すでにデイン国境を突破し、王城を制圧した。デイン王城の王座に王はなかった。クリミアを奪取したデイン王アシュナードはクリミアを拠点としているという。
そしてさらにオルリベス大橋を抜け、クリミア国境を突破した。ついに祖国へと足を踏み入れた。それからクリミアの遺臣と合流し、さらに王都奪還を図ろうというところであった。
「将軍、いかがされましたか?」
「いや…、何でもない。それより今日の守備はよくやったと思う。さすが、ベグニオンの兵はよく訓練されているな。部隊長、あんたの動きは俺も勉強になる」
アイクは戦闘終了後、各部署へ出向き、報告を受け、確認を行っていた。その際、労いの言葉もかける。それは将軍位となってからは欠かさず行っていることだ。
彼は部隊長の男が報告書を読み上げているときに目を瞑り、眉間に皺を寄せて数度深く呼吸をした。男にその異変を指摘されるとすぐに表情を引き締め直した。
「これからが正念場だ。なるべく被害は最小限に…危ないと思ったら無理をしないでくれ」
「はっ!」
敬礼をする男に会釈をすると、アイクはすっと歩いて立ち去っていった。男は彼のその後ろ姿を見て、深く息をついた。
男は自分が初めて戦場に立ったのがあのくらいの歳だっただろうか、と思った。ここまで登り詰めるのに十五年はかかった。しかし、正規軍ではない派遣兵として送られた時点でその程度のものなのだ。神使に直接謁見したこともない身分なのである。後に神使と近しい元老院の元長が手を回して派遣されてきた正規軍とは格差がある。男は正規軍が到着次第、その配下に置かれた。
(世の中、生まれついての身分と時の運や潜在能力はどちらが有用なのだろうな)
男は己の掌をじっと見る。
(ラグズなんて得体の知れない種族の力をさも当然のように借り受けるなんて、これも傭兵上がりの成せる業か?)
それともそれすら才覚だというのか。
男は己の劣等感に苛まれつつ釈然としない感情を抱えていたが、アイクがこうして変わらず直接声を聞きにくることには好感を抱いていた。
こういった例はわりと多い。
幾ら爵位を受けているとはいえ、元は市井の者。そして年若く無名である。そのような者が総指揮を執り、ベグニオン正規軍をも動かしているのだ。加えて、ラグズ各国からも支援を受けている。大陸規模の戦争といってもいい。そんな戦争の総指揮者だ。
──「成り上がり」以外の何者でもない。
羨望や嫉妬、侮蔑の視線が投げ掛けられることもある。ともすると、軍内に不穏な空気が流れ、士気にも関わってくるのだが、アイクはそれをものともせずになるべく末端の者へまで声掛けを怠らなかった。
それが作用して彼個人への信頼から軍は纏まりを保っていた。
「俺一人が戦っているわけじゃない。あんたたちの力があってこそだ。よろしく頼む」
その謙虚さが彼の澄んだ瞳と相俟って強い訴えとなる。歴戦の兵もそれによって奮起した。
(あとは何を……)
アイクは自分の天幕に入る前に一呼吸置いて、休む前にまだすべきことはなかったか思い返していた。
(話の途中で寝るのはやはりまずかっただろうか)
部隊長とのやりとりの最中に意識が一瞬途切れかけた。そのあと、クリミア王女の側近フェール伯と天幕にて初めて腰を据えて話をした。向こうからも人となりを見極められていたようだ。彼が兵に細やかな声掛けをして回ることに好感を覚えたという。彼がそのような快男児ではなく、クリミアに害する者であれば秘密裏に始末したとまで言っていた。
多少、芝居の掛かった口調から冗談も含まれてはいるのだろうが、この男は本当に実行する男だろうと直感で察した。
しかし、どうにも話が回りくどく修飾の多い語り口が彼の思考を止める。気付いたら眠りへと誘われていた。疲れのせいだろうか。
フェール伯にもそれを指摘された。
アイクは天幕の前でじっと固まり、そんな回想に耽った。野営の炎がぼんやりと視界の端に映る。そして周囲を見渡す。警護の兵は違う方向を向いている。
ここは厳重に警護の兵が置かれた区域。傭兵団の団員たちは離れたところにいる。彼は今はそれでいいと思った。
「………」
そのまま静かに膝を折り、頭を抱え込んでしゃがみ込んだ。深く息を吐き出す。
(疲れている方がいい。途中で目が覚めないで眠っていられるだろうから)
その丸められた背中は戦場にいて指揮を執り剣を振るっているときに比べ、なんと小さいことか。
「!」
その小さな背中に大きな手が置かれる。
「元気か?」
低く、落ち着いた声。大きな手の感触と相俟ってその大きな体を想起させる。アイクはゆっくりと振り返った。
「…鷹王」
振り返ったその顔は孤独、不安、疲労…そういったものを滲ませるものだった。
「ここんところが凝ってんじゃないのか?」
ティバーンの指がアイクの眉間をぐりぐりと揉む。アイクは目を瞑って顎を少し引き、口をきゅっと結んだ。それを見てティバーンの口元が少し緩む。
「久し振りに合流したというのにゆっくり話す間もなかった。短い間だったが、いろいろあったようだな」
アイクが爵位を受けてからこうしてクリミア王都奪還まであと一息、というところまで様々な出来事があった。ティバーンは側近をアイクの隊に預け、自国に戻り、鷺の王族を保護していた。しかし、留守中の隙を突かれてリアーネがデインの手の者に誘拐されてしまった。それに加え、アイクの隊に同行していたリュシオンの要請を受けていたため、自軍を率いてクリミア解放軍に加勢することとなった。
「よいしょ」
「うわっ」
ティバーンは片腕でアイクを小脇に抱えて彼の天幕へひょいと入った。急に持ち上げられて惑ったアイクは小さく声を上げた。
「よしっ」
小脇に抱えたアイクを寝台に放るとティバーンはどっしりと床に座り込んだ。
「…おまえさんは、あれからずっとこうして一人なのか?」
その問いにアイクは首を傾げた。
「傭兵団の仲間とは離れたところにいるじゃないか。警護も厳重だしな。さらに密な私兵も潜んでいるようだが」
「さすがだな。あいつの気配に気付くなんて」
そう返すアイクの口調と表情は鋭さを湛えたものになった。いつでも臨戦体制のそれ。
その私兵とは、彼個人と契約を結ぶ情報屋のことだった。道中、彼の父親から依頼を受けた件を遂行し、彼に重要な案件を告げた。それは彼の妹が所有していた青銅のメダリオンに纏わることだった。
「そいつがあの、例のメダリオンに関する調査結果をおまえに知らせた奴なんだな?」
ティバーンのその問いにアイクはこくりと頷いた。
今まで点と点だったものが一つに結ばれたのだ。リアーネがデインの者に攫われた件、ひいてはセリノスの大虐殺の件についても。それがアイク個人の過去とも繋がっていたとはなんという偶然なのだろうかとティバーンは思った。
「奴は金で御せるからある意味信頼がおける、とセネリオが言ってたな。…まあ、それはそうなのだろうなと思う。他の誰にも頼めないことだって頼めるんだ。今思うと親父も苦しかったんだな、って」
アイクは遠い目をしてそう吐き出すように言った。そして「あ、」と小さく声を出し、しまった、という表情になった。
「…今のは聞かなかったことにしてくれ」
そう呟くアイクにティバーンは首を小さく横に振る。
「聞こえちまったら放っておけねえ。おまえは俺を信じてくれないのか?」
ティバーンはアイクの肩をぐっと掴み、その力強い双眸で彼を見つめた。アイクは細かく瞬きをする。何かを堪えているようなそれ。口許もきゅっと結ばれる。
「…っ、俺は、あんたも、信じたい…っ」
固く閉じられた瞳から涙が滲む。
ティバーンは何も言わずに彼をぐっと抱いた。アイクは声を殺して嗚咽した。
「駄目なのか…っ、信じちゃ駄目なのか、俺のせいか…? メダリオンが奪われたのも…」
青銅のメダリオンとは邪神が封じられているとされているものである。それを復活させんと大陸全土を負の気で覆い尽くそうと戦禍を巻き起こしているのが、デイン国王アシュナードそのひとだった。おそらくそのデインの元へメダリオンが渡ったのであろう。
アイクらのベグニオンへの渡航を手助けするなどで道中、力添えをした竜鱗族の男が、彼の妹からメダリオンを盗んだのである。その男には信頼を寄せていて、彼の妹もその男にメダリオンを見せたりしていた。彼は妹にメダリオンは探し出してやるから、と諭した。
「おまえのせいじゃねえ、違う、おまえは…」
ティバーンは喉に言葉を詰まらせながらアイクにそう声を掛けてやる。
「うっ…、くっ…、俺のせいだ、俺がやった、ダルレカも壊滅させた、領主を殺した、俺も憎まれて然るべき…」
アイクはその身を震わせて堰を切ったように言葉を吐き出す。
「いい、いいんだ、俺がやったってことで、それで済むならいい…。もし俺がメダリオンで暴走したとしたら始末はあいつがしてくれる。いいんだ、これで」
脈絡のない言葉が続く。
「…いったい、誰がおまえにそこまで負わせるんだろうな」
ティバーンはアイクの発する端的な言葉からこれまでの彼が辿ってきた道筋を想像する。彼の気が済むまで言葉を吐き出させ、涙を流させ、落ち着くのを待った。そして彼がぽつりぽつりと静かにこれまでのことを説明する。
彼の隊がオルリベス大橋を抜け、クリミア国境へ入ろうという段階の前に、ダルレカを通過する必要があった。それを阻止すべく、領主シハラムの隊が立ち塞がった。それを撃破しなければ先には進めない、避けては通れない道だった。彼は自らの手でシハラムを討った。領民に支持を受けていた領主、そして彼の隊にその娘も属していた。
さらにその前に、彼は例の情報屋よりメダリオンに纏わる調査結果を耳に入れる。その調査結果は彼にとって衝撃が大きいものであった。
デイン国王の陰謀を察した彼の父は妻とともにメダリオンを持ち、亡命した。そして辺境の村で匿われていたが、あるとき誤ってメダリオンに接触してしまい、負の気が暴走しデインからの追っ手のみならず、匿われていた村の住民まで手にかけていった。そして、彼の母は身を挺してそれを止めた。父の剣が母の胴を貫き絶命させた。
「それがさっき言っていた件だな」
メダリオンと彼の父に関する過去は、この戦の中核を成す者たちの前で語られていた。
「ああ、そして…、あいつとのもうひとつの契約、これは誰にも言わないつもりでいた。親父も同じように墓まで持っていく気だったのかもしれない」
アイクは目を瞑り、想いを馳せるように語る。
「奴…フォルカの本業は暗殺だ、親父は奴にもしもう一度メダリオンで暴走することがあった場合、命を絶って暴走を止めろという依頼をしていた。そして俺も……」
その手が彼の左胸に置かれる。
ティバーンはその彼の胸を見つめ、呼吸によって収縮をしているのに安堵を覚えた。少しその速度が早い気がするが。
(おまえは生きなきゃだめだ)
心の中でそう呼び掛けた。
「おまえさんが、それを傭兵団の誰にも言わないってのはわかるな」
ティバーンのその言葉にアイクは目を見開く。
「…孤独だな。長と名がつく者は弱いところを見せちゃならねえって」
「俺もな、ヤナフやウルキなんかとは羽も生え揃ってないときからの縁だけど、俺は「王」なんだ。あいつらも畏まってくれる。俺もそれに見合った振る舞いをしなくてはな」
少し笑ったような瞳。アイクはその瞳を見つめ、何かに包まれていくかのような感じを受けた。「分かってくれる」そう思うと再び涙腺が緩みそうになる。
「ん? どうした?」
潤んだ瞳で彼は見上げる。
「…よし、俺が聞いておいた。これでおまえは墓までそいつを持っていかずに済んだな」
その言葉とともにティバーンは再びぐっとアイクを包み込むように抱き締める。
──離れたくない
このままやわらかい羽の中に包まれていたい。寄り掛かりたい。身を任せたい。溶けてなくなってしまいたい。しかし、この庇護してくれる相手がいなくなってしまったらどうすればいいのだろう。
それが、なくなったら………怖い。
彼はその身を震わせ、喉の奥から漏れてくる声を堪えた。
「う、あああ! やだ!」
突如声を上げ、彼は鷹王の腕を振りほどき、勢いよく駆け天幕を飛び出していった。
「おいっ、なんだよっ!!」
彼の突然の行動にティバーンは惑い、追おうとする。しかし夜目の利かない鳥翼であるティバーンは出足が鈍る。それでも何とか物音や気配などで辿り、彼を発見した。
(こいつはちょっと、ただごとじゃないぜ)
彼は木陰でうずくまり、胸を押さえながら荒い呼吸を抑えようとしていた。
「どうした…アイク!」
ティバーンはそっと近付き、うずくまる彼にそう声を掛ける。まるで飛べない雛鳥を掬いにいくかのように。
「いい、来ないで、くれっ…」
アイクは地に膝を付きながら苦しげにそう返す。それでもティバーンが近寄ってこようとすると、よろけながら胸を押さえ、逃げる。
「何だよっ、おい! 待てっ」
がさがさと茂みを踏む音を立てティバーンは追う。
「嫌だっ、来るな! もういい、俺はっ、ひとりでいい」
そう叫びながら遠ざかる。しかしすぐに追い付かれ、腕を掴まれる。
「馬鹿言うな、おまえはひとりじゃない、ひとりにしない」
そのままぐっと抱きしめる。逃げられないように。
「もうやだ、いなくなる、それなら最初からいないほうがいい…っ……」
アイクはその腕の中で嗚咽して呼吸を荒げて暴れる。彼の左胸に手を当てると、どくどくと早い速度で脈打っているのが分かる。ティバーンはその苦しげな様子を痛々しく思った。そしてともに酒を酌み交わしたあと寝入った彼がうなされていたのを思い出した。
(こりゃ、ひどい錯乱ぶりだ。こいつはちょっと根深いものがあるな)
依然、興奮状態が治まらないアイクにティバーンは手刀を落として昏倒させた。そしてその彼の身を抱え、ある者の天幕へ向かう。
「…おい、リュシオン、起きてるか?」
「どうしましたか? ティバーン」
ティバーンが向かった先はリュシオンの天幕だった。リュシオンはちょうど眠りに就こうとしていたところだったが、わざわざこんな時間にティバーンが訪ねてくることから何かあったのだと思った。
「ちょっとな、こいつをどうにかできないかって」
その腕の中には意識を失っているアイクの姿があった。リュシオンは思わず声を上げそうになったが堪えた。
「…そうですか、それは痛ましい」
そう呟き、リュシオンは寝台に横たわらせているアイクの額に触れる。
ティバーンは彼がこれまでの行軍で受けてきた心因的外傷、一人で抱え込んでいる案件などを説明した。そして夢を見てうなされていたことも。
「ああ、私は気付いてやれなかった。負の気が充満している戦場では心を読む力も鈍る。いや、それに頼るが故に、だろうか。ティバーン、あなたはこうしてアイクの様子を見逃さずにいたために彼の心に気付けたのです」
リュシオンは悩ましげな表情を浮かべる。
「アイクはこんな辛さを抱えながらも、その様子を見せるどころか私の体調を気遣っていた。さながら、リアーネを庇い、守り通したときのように」
リュシオンのその白い指がさらさらとアイクの前髪を梳く。その様子を見てティバーンはこの変わりよう、と思った。あれほどまでにベオクに対して憎しみを抱いていたのに、と。それは己も同様なのだが。尤も、ここまで心を砕くのはアイク個人に対してだが。
「で、さ。おまえ、こいつの心ん中読んでみてくれねえか。例によってこのあたりも負の気が多い場所だろうが、今は夜だ。少しは鎮まっているんじゃないか」
ティバーンのその言葉にリュシオンはくるりと振り返る。
「今おまえに話したこと以外にこいつ、何か抱えてるんじゃないかと思うんだが。こんな、取り乱すなんて…。何か、俺が引き金になったみたいで責任感じるんだよ。」
リュシオンは目を瞑り、一考する。
「彼にのしかかった重責がストレスとなって蓄積したのでしょう。そしてあなたが手を差し伸べたことによって箍が外れて…」
ちらりとティバーンに目線が送られる。ティバーンは小さく頷く。
「それが大きいと思うんだが、もっと根が深い気がする。聞いただろ? こいつの親父さんのこと」
「はい、メダリオンをデイン王の手から遠ざけるためにデインを出たと」
「…その先だ。メダリオンで暴走してデインの追っ手や匿われていた村の住民を無差別に惨殺したと」
リュシオンはアイクへ目線をやり、眉を歪めた。
「こいつ…その時の記憶はない、と言っていた。歳の頃から察するに、現場に居合わせてもおかしくはないとも言っていた。しかし、それどころかそれ以前の…ガリアにいたであろうころの記憶すらないという」
ティバーンがそこまで言うとリュシオンは静かに頷いた。
「…わかりました。それ、ですね」
リュシオンの掌がアイクの額に置かれる。
「本当は、むやみやたらにヒトの心を覗くのは良くないと思います。しかし、そこに彼を苦しめるものがあるならば…それを確かめて痛みを和らげたい」
「…ああ。俺には他にいい方法が思い付かねえ。こいつを分かってやることしか」
ティバーンのその言葉を皮切りに、リュシオンは精神を集中させて彼の心の中へ入りゆく。
──そこにあるのは曲がりくねった迷路
その袋小路にひとつひとつ彼が受けた侮蔑や重責などの記憶が溜まっている。積み重なった死体の山もある。それらは見えない場所にしまい込まれているかのように置かれていた。見かけるたびに胸が痛んだ。
通り道には見慣れた姿がある。
(これは…ああ、アイク…そうか、よかった)
それを見て安堵した。ティバーンの側近たちが力を貸そうと呼び掛けてくる。そして己の姿もあった。呪歌を歌っているようだ。そして獣牙の民たちもいる。ほか、クリミア解放軍にいるベオクたちなども皆、彼の力になろうと働きかけてくる。
傭兵団の仲間が談笑したり労いの言葉をかけてくる光景もあった。彼の妹も笑顔で彼を呼び、元気な姿を見せていた。もっと奥へ進めば、彼の母と思われる女性が佇んでいる。しかしそれは透けそうなくらい薄い印象だった。
別の分岐へ入ると、漆黒の鎧に身を包んだ騎士がいた。彼は何度もそれに立ち向かい、倒されてはまた立ち向かう。それが延々と繰り返されていた。しばし、それを見つめているとその漆黒の騎士は別の壮年男性に姿を変えていく。
(これは……)
おそらく、彼の父親の姿なのだろう。彼が手にしている剣もいつのまにか訓練用の模造刀に変わっていた。そしてまた延々と訓練が繰り返されていく。
それをしばらく見つめていたが、ずっとその光景は変わらないのでまた別の分岐へ入った。
「よお、どうだ、おまえも一杯飲めよ」
そこにはよく見慣れた男が酒瓶を手にして杯を勧めてきた。
「ティ、ティバーン……」
思わずたじろいだが、その酒は目の前に現れた彼の杯に注がれる。気づけば背景がベグニオン宮廷の一室になっていた。二人はどっしりと座り込み酒を酌み交わす。その入り込めない様子にそういうことかと納得した。立ち尽くし、しばしその光景を眺めていたら、二人の姿が徐々に変わっていく。ティバーンは先ほど見た、壮年男性の姿に。彼はその壮年男性に似た青年の姿に変えた。そしてそのまま酒を酌み交わす。再び背景が変わり、古びた砦の一室となった。二人はその卓を囲んでいた。
その光景を見て、感嘆の息を漏らす。
(そうか……)
目頭を熱くしながらその光景を後にし、再び歩き出す。そしてそこには小さな少年が父親の背にしがみつき、幸せそうな顔で眠っている姿があった。父親はゆっくりと歩いていく。頭上には一羽の大鷹が舞っていた。
やがて、父親の歩みが止まる。彼は降ろされ、そこに一人置かれた。父親の姿はない。目が覚めたときには目の前に蒼く光る青銅のメダリオンがあった。彼はそれにすっと手を伸ばす。
(…それは駄目だ!)
思わず彼にそう警告を発する。
そして次の瞬間には彼の小さな体が吹き飛んだ。大きな男が彼を殴り飛ばした。それは先程彼を背負っていた男。そしてさらに殴り、平手で打ち、咎を与える。泣き叫ぶ彼。突然の理不尽な仕打ち。
そこに先程の大鷹が舞い降りて彼を攫う。そして安全な場所へ避難させた。
(ああ………)
彼は大鷹の羽に包まれて涙を拭い、しがみつく。もう、そこから出たくないと言わんばかりに。
次第にいたたまれなくなってきたが、まだ道は続いている。さらに進む。
そこにはさらに小さな子供がいた。籠の中にいる。何か恐ろしいものを見たのだろうか。硬直して悲痛な表情を浮かべている。思わず、開放したいと手を差し伸べる。
「!!」
するとそこには今まで登場してこなかった一人の男が立ち塞がった。短剣を手にし、殺気を漂わせている。覆面で顔を覆っている。さしずめ、籠の番人といったところだろうか。
「わあ、あああっ! ああっ!」
籠の中の子供が苦しそうに泣き喚く。そこから出してやりたいが、それ以上先に進めばこの番人に始末されるであろう。硬直して動くことができなくなった。
「──…シオン…、おい、リュシオン……、おい!」
鷹が鳴いている。その鳴き声と己を呼ぶ声が重なる。
「もういい、それ以上はいい!」
手首を掴まれた。そして瞳を開ける。そこは薄暗い天幕の中だった。
「……あ、ティバーン……私は…」
掴まれた手首を見つめ、放心したようにそう呟いた。
「おいっ、アイクっ、しっかりしろ!」
その声で我に返る。眼下には呼吸を苦しげに繰り返し、汗を噴き出させているアイクの姿があった。
あの時と同じだ。何か怖い夢を見ているのだろうか、うなされていた彼。寝言で父を呼んでいた。
「大丈夫、大丈夫、俺はいなくならない、ここにいる」
ティバーンはがしがしとアイクの頭を撫でて宥めていた。そして汗を拭ってやる。
「…やはり、「それ」なのかもしれません」
その様子を見てリュシオンはそう呟いた。
「どうだったんだ?」
ティバーンは強く視線を送りそう問い掛ける。
「それは不可侵な領域のようです。そこまで入り込むことはできません。無理に暴こうとするとこのように彼が苦しみだすのでしょう。覗こうとした者までそれは及ぶかもしれません」
そこまで言い切るとリュシオンは深く息をし、目を瞑った。
「おまえ顔色悪いぞ、大丈夫か」
「私も少し動悸がします…。ですが、記憶が薄くならないうちに報告しておきたいです」
ティバーンは寝台の端を叩いてリュシオンに座るよう促した。
「おそらく、「それ」は何らかの形で封印されています。彼自身が己を守るために封印したのかもしれない。もしくは誰かの術によって」
リュシオンは手を組み膝に置いた。
「私たち鷺の民はこうして心を読む力に長けています。それは特に白鷺が得意とする。そして…記憶を封じる術も存在する。それは特に黒鷺が……」
その言葉にティバーンは目を見開く。
「何だよ、鷺の民はおまえら以外は絶滅したって……」
「真相はわかりません。ただ、そうまでして封じられているということは、それが彼にとって望ましくない記憶であることだけは確かでしょう。しかし、彼はそれを思い出せないのです。そのとき受けた衝撃だけは残っているのでしょう」
リュシオンの組んだ手に力が篭る。
「籠の中に閉じ込められているイメージだけは分かりました。その中には彼が記憶のないという歳の頃の子供が入っています。そしてそこには番人がいました。短剣使いの覆面をした殺気を漂わせる男…近寄ればすぐにでも抹殺されそうな。そこであなたに呼ばれたのです」
ティバーンはそれを聞いて数度頷く。
「間違いねえな。そいつは…アイク個人が契約を結ぶ暗殺者だ。「それ」と関連付けられているのだろう。目の前で父親が惨殺を繰り広げた惨劇。あいつもそうなった場合、命を絶ってでもその暴走を止めろという契約を結んだ。親父さん同様にな」
リュシオンはそれを聞いて悲痛な面持ちになる。
「アイクの奴…相当追い詰められてるな。そんな契約がある意味救いになってんだ。しかし、どっちがいいのやら。その惨劇を完全に思い出して乗り越えるべきかどうか。何がなんだか全く覚えてないのにショックだけ残ってるなんて余計にタチ悪くねえか?」
野営の炎を背に天幕の入口でうずくまっていた彼の姿を思い出す。振り返ったときの、不安、孤独、疲労を滲ませたその顔。
「確かに…正体不明の不安感、恐怖感なんて克服が困難ですね」
リュシオンがそう返した。
「悪いことに夢にはしっかり出てくるようだ。記憶は残っている証拠だな。しかしどんな夢だったか思い出せないらしいぜ。いっそ完全に記憶が消えちまってたらよかったのにな」
ティバーンはそっとアイクの額に触れる。
「…これは言おうかどうか迷いましたが」
リュシオンは悩ましげな表情でそう言いかける。
「なんだ?」
「彼の父親と思わしき男性が、子供の姿の彼に酷い折檻をしているところも見ました。これははっきりと見られました」
その言葉にティバーンは顔を引き攣らせる。
「なんだと…?」
「彼がメダリオンに触れようとしていたのです。私も思わず駄目だと叫びました」
そう続けられた言葉にティバーンは納得したような表情になった。そして深い溜息をついた。
「…まるで呪縛、だな」
「メダリオンのせいでこいつは……」
リュシオンはそう本気で彼を思うティバーンを見て、記憶の中の大鷹を思い出した。
「…彼は一羽の大鷹がさらって助け出されましたよ」
その言葉にティバーンはぴたりと動きを止め、数度瞬きをした。
「酒を酌み交わすあなたが彼の父の姿に変えて、彼は青年の姿に変えました」
ティバーンの瞳が閉じられる。あのとき、彼がいつか父親と酒を酌み交わすようになるものだと思っていた、と言ったことを思い出した。そして深く息が吐き出される。
「もうひとつ、呪縛があるな。それは永遠に失われてしまった壁だ。ない壁は乗り越えられない」
「あいつ、親父さんを越えないとならないんだ。まいったな、俺が引っ掻き回したのか」
バツが悪そうにそう呟くティバーンにリュシオンは首を横に振る。
「いいえ、あなたは間違ってはいないと思います。彼がもっと与えられるべきものだったものを与えられたのではと。アイクはもう少し、甘えてもいい。おそらく、あの理不尽な折檻を受けた時点でそれがままならなくなってしまったのでは」
「そう言ってくれるか、リュシオン」
二人は顔を見合わせて笑んだ。
「…乗り越える方法は、彼自身が知っているのはないでしょうか」
リュシオンが拳を作りそう訴える。
「ああ」
──俺は漆黒の騎士を倒す
彼のその言葉が鮮明に再生される。
そして、彼の中で延々とそれに立ち向かい倒されてはまた立ち向かう光景も。それが彼の父の姿に変えていったことも。
「アイクは終わることなく延々とそれに立ち向かっていきました」
「…そんなのがずっと続くのって嫌だな。本当に、それはこいつが倒さなきゃならないんだ」
そう言い、ティバーンはアイクの頭を撫でる。
「大きくなれよ、たくさん食ってたくさん眠って」
その様子を見てリュシオンはくすりと笑う。
「彼もそうなりたいと思っていると思います。青年の彼は彼の父に似ていて隆々としていました」
それを聞いてティバーンは笑う。
「ははっ、可愛い奴め。そうだ、強くなれ、なるんだ」
そして、天高く舞え──
今日もアイクは鍛練をする。王都奪還の足掛かりとして制圧したピネル砦にて駐留のさなか。もう一つの要所、ナドゥス城の攻略を控えていた。
手にしているのはこれまで愛用してきた父から贈られた剣ではなく、金色の刀身をもつ大剣だった。これは漆黒の騎士より彼の父へ施されたものだった。騎士は対等な勝負を望んでいた。その剣を以ってして条件が揃うとのことだった。彼はひそかにその剣を回収し、保管していた。今まで使用せずおいてきたのは、因縁が深く使用する気になれなかったからだ。彼の父もそれが施しのようで気に入らず、使用しなかった。
それを今、こうして実戦で用いようと訓練しているのだ。
「よう、いよいよだな」
陣からは離れて鍛練していた彼だが、そう声を掛けられる。
「…あんたか」
アイクは振り返り一瞥をくれる。
「ちょっと前からそいつで訓練してるんだよな。いよいよ実際に使用するときか」
「ああ、きっとこいつでなければ奴を倒せない」
そう言い、アイクは片手ですらりとその剣を翳した。煌めく刀身。剣を知らない者でも特別な力を感じるような逸物。
「鷹王、あんたが牽制を仕掛けに行ってくれたおかげでこいつを使う準備が入念にできた。感謝する」
張り詰めたような気を纏い、一人の戦士の顔でそう彼は言った。
アイク率いる本隊がピネル砦を攻略している間、ティバーン率いる隊がナドゥス城へ牽制を仕掛けていた。本格的な攻略は同時に行えないため、本隊が挟み撃ちにならぬよう片方を牽制しておく手筈だった。その際、ティバーンはナドゥス城でそれを見たのだ。
「こいつで倒せるんだな、漆黒の騎士の奴を」
そこにいたのは彼の仇。圧倒的な強さを誇り、危うくティバーンの隊に多大な被害が及ぶところだった。
「奴は対等な勝負をしたいと親父にこれを渡した。ということは、これで攻撃が通じるということだ。他の武器では駄目だ。親父が使っていた斧が全く通用しないくらいにあの鎧に弾かれていたから」
アイクのその言葉にティバーンは腕組みをし、頷いていた。
「っていうのも、前に聞いたな。うん、よかった。ちょいとご無沙汰だったが、元気そうで。よく眠れてるか?」
あの夜からティバーンはアイクとは少し距離をおいていた。こうして二人きりで話すのも少々久しぶりである。
「ぐっすり眠れているかと言えば嘘になる。なるべく横になるだけはなって体は休めるようにしている」
アイクは首を回して解す仕種を見せる。
「…あのときは、すまなかった。俺はどうかしていた。でもあんたに聞いてもらってよかった」
そう言い、少し俯いて照れた様子が年相応の少年の顔だった。アイクはティバーンが距離を置いてくれて助かったと思っている。自分のあの取り乱した様子を見られて、恥ずかしく顔を合わせられないと思ったからだ。
そんなアイクの思いを汲んだのだろうか、ティバーンはそれをいとおしいと思った。胸がくすぐられるような。ふつふつと沸いて来るこの感情は、あれなのだと。あのとき、眠っている彼へ語りかけているのを見ていたリュリオンに「あなたに息子ができたらこんな感じでしょうか」と言われた。
「また、話したいことがあれば言えよ」
低く、静かな声でそう返す。彼はこくりと頷く。
「…それはそうと、そいつは実戦でまだ使ったことがないのだろう?」
ティバーンはアイクの手にある金色の剣を指差す。
「ああ、こいつ…ラグネルはまだ。ちょっと特殊なもので、なかなか組み手を頼めそうな奴もいない」
そう言い、アイクはラグネルを構え、念を込めて振りかぶった。
「!!」
ラグネルから剣圧とはまた異なる衝撃波が発生し、それが地面を深くえぐり一筋の跡を作った。普通のベオクが食らったら重傷を負うかもしれない。
「なんだこれは! こんなの、普通の奴が食らったら死ぬんじゃねえか」
ティバーンは驚愕の表情でそう声を荒げて言った。
「だからだ。俺も驚いた」
アイクはそう言うともう一度構えて大岩へラグネルを振り下ろし一閃する。岩は綺麗に真っ二つになった。よく見ると同じような状態になった岩が幾つか転がっていた。
「…はあ」
ただ感嘆の声を漏らし、ティバーンはアイクの方へ歩み寄る。
「ちょっと貸せ」
そう言ってアイクからラグネルを奪う。そして片手でぶんぶんと振り回す。
「…おまえ、片手でこれ持てんのかよ」
ちらりとアイクの体躯を見やる。
「ミストよりは軽くてリアーネよりは重いな」
「かもしれんな」
アイクのその例えにティバーンは笑った。
「おらっ!」
そして掛け声とともにラグネルを振り下ろしてみる。
「うわっ!」
すると、ただ力任せで適当に振るったため、巻き起こった衝撃波に手首を返された。そして思わずラグネルを落としてしまった。
「悪りぃ」
そう言いながら拾い上げ、アイクの構えの真似をして手近な岩と向き合う。
「…どうだ?」
「いいんじゃないか」
「よし!」
その様子をじっと見つめていたアイクにティバーンは己の構えはどうか聞くと、もう一度構えた。そして振り下ろす。
「……」
岩は鈍器で叩かれたようにえぐれたが、綺麗に割れることはなかった。それを見てティバーンは笑った。
「ははっ、やっぱりラグズが使うもんじゃねえな」
そして彼の腕を掴み、持ち上げその筋を見る。肩や背や胸を触り何かを確かめる。
「ベオクってものは不思議だな。こんな細いのに、このでかい剣で綺麗に岩を割るんだから」
そう言われてアイクは少し不機嫌そうな顔をする。
「……これでも、少し、背が伸びたんだ…」
見上げながらそう訴えてくる。
「すまん、すまん! うん、前に比べて肩もしっかりしてきた気がするぞ。ここんところも育ってきた。鳥翼族にとっても大事なとこだ。空を飛ぶにはな」
そう言いながらティバーンはアイクの胸を数度叩くようにして触る。
「おまえさんも空を飛べるかもな」
その言葉にアイクは笑みを浮かべた。無愛想が代名詞のようで滅多に見られない彼のその笑顔。ティバーンもつられて笑んだ。
そして割り切れなかった岩の前に立ち、その拳を正面から叩き込んだ。岩は綺麗に割れた。
「…どうだ? いっちょやらないか」
手にした石を握りつぶし、ティバーンはアイクにそう持ちかけた。
「あんたが相手なら不足はない。よろしく頼む」
そうして二人は鍛錬を開始した。全力で力を出し合う。
もうすぐ日が暮れようとしていた。緋色が二人を包みゆく。
「…これで、手ごたえはあったか…?」
「ああ、さすがだ…やっぱり、実戦は…違う」
二人は身を投げ出して地に転がり、天を仰ぎ見ながらそう言葉を交わしていた。実戦さながら全力で鍛錬をしたため息が途切れ途切れになる。しばらく呼吸を整え、言葉も途切れる。
「半端ねえな、おまえ。あの衝撃波は反則だ」
「あんたこそ。空から来られると牽制も難しい」
ようやく呼吸が整うと鍛錬の内容を振り返る。
「しっかし、ちゃんと技を編み出してんだおまえ。あんなに脚力があるとはな。うっかり近寄れない」
ティバーンはアイクが繰り出した技のことを指してそう言った。攻撃しようと低く降りてきたときを狙われ、天高く舞い月のような弧を描く刀身が振り下ろされようとしていた。しかし
「当たらなきゃ意味がないんだがな」
それは寸手でかわされた。
「普段の戦闘でも隙が大きくてそんなに使うことはできない。これは……」
「ああ、奴を倒すために、だろ?」
「そうだ、これであの鎧を砕いてやる…!」
アイクはそう吐き出すように言うと、勢いよく立ち上がる。ティバーンは夕日が逆光になる彼の背をそのまま見つめた。
──こうして大きくなっていくのだろう
見えないけど見える、その背には翼がある。
そして、少年は青年へと成長を遂げていくのだ。
「なあ、アイク」
「なんだ?」
「……おまえさんのその技に名前はあるのか?」
ティバーンのその言葉にアイクはくるりと振り返る。
「そんなもの考えたこともなかった」
「リュシオンが言ってたけどな、言霊ってやつがあるそうだ。それに名前をつければもっと強くなる気がしないか?」
「…わからんが、そんな気もする。しかし特に思いつかない」
「じゃあ俺がつけてやろうか」
アイクはこくりと頷いた。
「──天空、ってどうだ」
「いいな、わかりやすい」
逆光で見づらいが、確かに笑顔がそこにある。
「俺も、あんたみたいに空を飛びたい」
そしてそっと手を離す。
雛鳥は逞しく成長し、その銀の翼で力強く飛び立っていくだろう──
─了─