花の香「一度は捨てたこの命、貴女に捧げます。私の主は王女でありますが貴女の命(めい)は王女の命そのものです」
彼女の膝元には一人の将軍位の青年が膝まづき、恭しく礼を述べていた。
彼女が率いる軍は、クリミア領内デルブレーにて、デイン軍の進攻を食い止め、クリミア戦疫の生き残りである遺臣の救出に成功した。その遺臣である将軍位の青年は、彼の主君であるクリミア王女が身を置く軍の行軍のための囮となり、その地で果てる覚悟を決めていた。
「頭を上げてくれ、ジョフレ」
彼女は青年にそう告げた。
「貴女の慈悲に感謝致します。そして我が主の願いを叶えるとともに私めの命、ならびにこの領内の者の命を救われ、この程度の礼ではし尽くせない限りで…」
クリミア王都解放を目指す彼女らの軍はデルブレー領を経由し、ジョフレらの隊と合流し進軍する手筈になっていた。しかし、クリミアの残党としてその存在が露呈してしまったため、デイン軍に襲撃を受けようとしていた。彼の主であるクリミア王女が彼らの救出を望んだ。しかし先に合流した王女の腹心は彼らの隊を囮とし、進軍するという案を強く推していた。
叙勲を受け、解放軍の総指揮を担っている彼女は王女の意向を汲み彼らの隊を救出へ向かうことを推し、実行に移した。
「俺は傭兵だ。雇い主の意向を汲み取ったに過ぎない」
彼女はそう言い放った。
そう言う通り彼女は元々市井の傭兵であった。デイン軍の襲撃から逃れて行き倒れになっていたクリミア王女を救出したところから雇用関係が発生したのである。
「そもそも、貴女は我が主の命をも救われた。そして今や貴女は王都解放の求心力で有られる。この命、貴女へ捧げます、マイロード」
膝まづいたままジョフレは彼女の手を取り、手甲の上から口付けた。
「いや、そんなことはしなくていい。命を捧げるとかそういうことは言うな。ただ無事でいてくれ。せっかく助かった命だ。エリンシアを泣かせるな。あんたらは乳兄弟なのだろう。それに、俺にはこの剣があるから」
彼女はそう言い、その手を鞘に収められている剣の柄に伸ばした。
それを目の当たりにし、ジョフレははたと息を飲んだ。彼女がその剣で戦場を駆け抜け道を切り開いて己の元まで到達したその姿が脳裏に蘇る。総指揮をとりながらも自らその剣技にて華麗ともいえる太刀捌きを見せていた。
「アイク将軍、貴女は戦神かのように強く輝いておられる。しかし淑女であられる貴女のその手を傷にまみえさせることを少しでも無くしたい」
ジョフレは真っ直ぐな瞳でそう彼女に告げた。
「…そうか」
彼女がそう答えるのに少しの間があった。
(なぜ躊躇することもなくわかったのだろう)
確かに聞いた、自分への賛辞の言葉とともに淑女という単語を。彼女は将軍位の軍装を身に纏い、胸を保護するプレートを装備し、元の体型が殆ど判別のつかない風貌をしていた。元々上背も高く、髪も短く、声も低めであった。初見で性別を見誤られることはよくあった。現に、なにかと彼女を気にかけている獣牙の青年は彼女のことを男性と思い込んでいた。
「その申し出、有り難く受けさせて貰う。互いに傷は少ない方がいいからな。俺もあんたが危ないときには手を貸そう」
そう言い、彼女はすっと手を目の前の青年に差し出した。彼は何も言わずその手を握り、彼女の強い瞳を見つめた。そうすることが彼女に対しての最大限の敬意を表するに値すると思った。
きっと、彼女が言いたかったであろうことは「戦場では男も女も関係ない」とそういうことであっただろう。
彼女もまた彼の意を尊重し、その言葉を飲み込んでいた。そして少し柔らかな表情を作っていた。
時折存在する軍人女性の中で、頑なに自らの性を否定するかのように張り詰めた空気を纏う者がいるが、彼女にそのような空気は感じられなかった。立ち振る舞いや言葉遣いに女性らしい部分が見受けられないのにも関わらず。
そして、青年は彼女に強く惹かれるものを感じた。
「…ケッ」
その一部始終を軍の中核である傭兵団の面々が見ていた。皆、団長と将軍のやりとりを感慨深げに見ていたが、ただ一人面白くなさそうに見ていた者がいる。
(あの貴族野郎、歯の浮くようなこと言いやがって。あんなガキ、どこを見たら淑女なんだか教えてほしいくらいだな)
そう心の中で悪態をついているのは昔から彼女とは犬猿の仲と言われてきた弓使いの男だった。何かと彼女に対しては反発的で、気に食わないという態度をとっている。
彼女の妹が一連のやりとりを見て、騎士であるジョフレの立ち振る舞いや姉に対しての扱いに憧憬を抱いたと漏らしていた。
(姫扱いってかよ、おめでてぇな。吐き気がするぜ)
男がそう苛々している間にも、彼女は傭兵団の皆の元へ戻ってきた。改めて無事を喜び合い、彼女は皆を労っていた。
そして獣牙の青年が彼女の元に駆け寄ってきて軽く肩を叩いたりして労っていた。そのまますっと彼女の背後に回り、首筋に鼻を埋める。どうやら匂いを嗅いでいるようだ。
(ケッ、半獣め。何が面白くてあいつにベタベタしてるんだか。半獣のくせに)
男は異種族であるラグズに良い感情を抱いていなかった。しかし、彼女は努めてラグズへの蔑称の使用を禁止していた。それがあって余計に気に入らないということになるのだが、実際は別の感情が大きな要因であることを男は決して認めないであろう。
彼女の匂いを嗅ぐ青年の姿を見て男はその香を思い出していた。
(なんだってあのガキ、色気づきやがって)
彼女から香るその香は体臭や衣服に染み付いた外気の匂いとは明らかに違っていた。少し前からその香を纏うようになっていた。
「やっぱいいな、この匂い」
彼女の傍らにいる獣牙の青年はそう呟いた。
「そうなのか。いまいち自分ではよくわからん。もう消えてるんじゃと思うんだが」
彼女はそう呟きながら腕を鼻の方へ持っていったりという仕種をする。
「獣牙の鼻を甘くみるなよ。まあ、この香でなくともおまえの匂いならどれだけ遠くにいても嗅ぎ付けられるぜ」
青年はそう冗談めかして言う。好意を匂わせての物言いであるが、きっと彼女にはあまり伝わらないと思いつつ。
「なるほど、便利だな」
予想通りそう言葉通りに受け取った彼女の返答が聞けた。
「はは、そうだろう。それにしても嬉しいぜ。この花の香を嗅ぐと落ち着く。さっきまで戦場にいたことすら忘れそうになるな」
青年は目を細めて何かを思い出すかのような表情でそう呟いた。
「こんなんでおまえの負担が減るならなくなるまでつけてきてやる。それでしっかり働いてくれるんだな?」
彼女はそう淡々と言う。
「ったく…色気ねぇこと言うな。まあ、それでも嬉しいさ」
そう一つ息をつきながら言い放つ彼であったが、その顔には明らかに嬉しさが表れていた。
「ライ、俺はおまえの言うことがよくわからん。はっきり言え」
「いいんだよ、アイク。おまえはそのままで」
ライはそう言いながら笑みを浮かべていた。アイクはそんな彼の顔を見ると「まあいいか」と思い、それ以上言及をする気にはならなかった。
「しかし…そんなにこの匂いが好きならあれはおまえがつけたらいいんじゃないのか? やろうか?」
そう言うアイクにライは軽く小突いた。
「バカ。これはおまえから香るのがいいんだよ」
ライのその答えにアイクは一瞬間を置いたが納得したようだ。
「そうだ。ミストも母さんみたいな匂いがするって言ってたからな」
またしても好意を含ませた物言いには気付いてもらえず、ライは少し落胆すると同時に彼女らしいと思った。それに、妹と母親のことを口にした彼女の表情は柔らかでそれが見られてよかったと思った。
「エリンシア様、よくぞご無事で…」
「ジョフレ、あなたこそ。生きていてくれて…」
ジョフレは君主であるクリミア王女と再会を果たし、無事を喜び合っていた。彼の姉や友人である腹心も交えてさらに喜びが増した。
「すべては…アイク様が私の意向を汲んで下さったおかげです。ユリシーズたちには反対されましたが、彼らの意向も痛いほどわかります。私のわがままなのです」
腹心たちは彼を犠牲にするという意向を推していたが、本心では彼の無事を心から喜んでいた。
「姫、私めにそのような温情…勿体なき幸せです。本来ならこの身を犠牲にしてでも王都奪還の礎になるべきで…」
ジョフレは膝まづき、頭を垂れてそう切々と述べた。
「顔を上げて、ジョフレ。アイク様がおっしゃったことを忘れたの? その命、大切にして。これも私のわがままというのなら王女などという身を呪うわ」
エリンシアのその言葉にジョフレは頭を上げて立ち上がり、恭しく礼をした。
「それにしても…アイク将軍は素晴らしき御方でした。剣を取れば軍神かの如く勇壮で、覇気を以って隊を率いる。一方、慈悲深くもあり聡明な淑女であられます」
そう熱っぽく語るジョフレにエリンシアは笑みを零した。
「そうですわ、アイク様は素敵な御方です。あなたも分かりますか、その美しさを」
ジョフレに負けず劣らずエリンシアもそう熱っぽく語った。
「はい、存分に。…ところでアイク将軍から香るあの香…覚えのあるものですが」
「あら、気付きました? そうです。私からアイク様へお贈りした香水です」
エリンシアはひそかに彼女には女性らしい粧いをしてほしいと思っていた。女性らしい服飾や装飾品などを一度勧めたことがあるのだが、頑なに断られた。戦闘の邪魔になるからだという理由だが、そうではない平時であっても拒否していた。何か理由があるのではと思ったが、あえてそれを言及することはなかった。
「香水ならつけていても邪魔にはなりませんわ」
そのような理由で香水を贈った。それすらも一度は断られたが、一吹きしてその香りについて説明したところ、彼女はそれを受け取った。
「あの御方にとてもよくお似合いの香でした」
ジョフレは思い出しそう語る。
「あなたもそう思います? あれはガリアの花の香。その花からは僅かしか香の元がとれないのです。希少価値の高いものです」
その花は澄んだ蒼色の花。珍しい色素の花だった。香水もさることながらその花自体が希少なものだ。ガリアでしか群生しておらず、年に一度大量に開花する時期がある。香水を精製するにはその時期しか機会がない。
「甘過ぎず、それでいて柔らかな香。清涼感もあり、一つ芯の通ったような印象。あの方の為にあるようなものですわ」
少し恍惚としながらそう語るエリンシアにジョフレは何かただならぬものを感じた。これが婦人の趣向なのかと自分を納得させようとした。
「何故、一度は断られたそれを御方は受け取られたのですか?」
ジョフレはそう疑問を口にした。
「その場に…ミストちゃん、アイク様の妹君がおりまして…お二方のお母様の香りに似ていると言いました。アイク様はお覚えではなかったようなのですが…。ですが、それならばとお受け取りになったのです」
エリンシアはそのように返した。
ジョフレは大方それで納得したが、その香水に纏わる事柄を思い出そうとしていた。
(そうだ、姉上がこれを…)
覚えがあると思ったのは自分の姉がこの香を纏っていたからであった。
「そうそう、あれはルキノも使っていたことがありましたね」
エリンシアは思い出し笑いをしながらそう言う。
「はい、そういえば。ですが、ある日を境に使わなくなったようで…」
「まだ時期ではなかったようですね」
そう言ってエリンシアはくすくすと笑っている。ジョフレはその笑いの意味が分からず、首を捻っていた。
少し前。
その香水を受け取ったアイクはどうしたものかと小瓶を見つめていた。
折角貰ったものだから使わないでおくのもエリンシアに悪いと思い、朝起きて身支度を整えた後、一吹きしてみた。
なるほど確かに快い香りがする。妹が母親の匂いがすると言っていたが、どうしても記憶にない。どうして自分には記憶がないのだろうと思っているが、母親からこのような香りがしたらよいものだろうと思った。
今日は物資の補給が主で、行軍は行われない。その間、会議や鍛練が行われたりする。
天幕から出て最初に顔を合わせたのは、傭兵団の斧使いの男だった。
「よお、アイク。おはよう」
眠そうな声で男は声をかけてきた。
「おはよう、ボーレ。眠そうだな」
見た通り眠そうなボーレにアイクはそう返した。彼はアイクと歳が近く身近な鍛練の相手であり、きょうだいのようなものだった。こういったやりとりも何気ないものだ。
「ん?」
眠そうだったボーレが何かに反応した。
「何だ? 何か匂いがする」
早速香水の香りに気付かれたらしい。アイクは少し肩を竦めて反応を伺った。
「…分かるのか?」
アイクはそっと様子を伺うようにそう言った。
「おまえか?」
ボーレは指を指してそう言った。一気に眠気が吹き飛んだとでもいうような表情だった。
「あ、ああ…。エリンシアに貰った香水なんだが…」
少し言葉を濁しながらアイクはそう返した。
「なんだ、おまえ。オシャレすんのか」
少しにやついた表情でボーレはそう言った。「だから嫌だったんだ」とでも言いたそうな顔でアイクは目を逸らした。
「貰ったから使わないと悪いだろ」
いつもの仏頂面がさらに不機嫌そうになり眉間にシワが寄せられた。
「またまた。別にいいんだぜ~。汗臭いよりはいいんじゃねえか?」
そうは言いつつもこれまでこういった粧いをしてこなかった彼女に対するからかいを含んだ物言いだった。えてしてこのくらいの年頃の男子はそういうものであろうか、きょうだいのような存在であるからなのか。
「うるさいな。俺は別にこんなのは要らん。ミストが…母さんの匂いがするからって」
アイクがそう言い捨てると、ボーレはからかいの表情をやめた。
「母ちゃんかあ…。そっか。おれの母ちゃんはどんな匂いするのかわかんないけどおまえたちの母ちゃんはいい匂いしてたんだな」
複雑な家庭環境で傭兵団に流れ着いてきたボーレは、純朴な物言いでそう言った。その物言いと表情とその背景にあるものを思い、アイクは眉間のシワを解いた。
「あ、ああ…。俺は覚えがないんだが、そうらしい」
「ミストは覚えてるんだな。うん、いいんじゃねえかそれで」
そう言ってにかっと歯茎を出して笑うボーレの顔にアイクは僅かに笑みを返した。
「さ、腹減ったな。メシ行こうぜ、メシ」
「ああ。今日は何だろうな」
ボーレはそう言うとアイクの肩を叩いて飯場へ足を向ける。寝起きでもきっちりと腹の減る二人組はそのまま歩いていった。
「大将~、聞いたよ! エリンシア様にもらった香水つけてるんだって?」
昼下がり。会議が終了して鍛練に入るまで間があり、詰め所で歓談をしていた。
傭兵団の剣士の女性がアイクの元にやってきてそう明るく声をかけた。
「なんだ、ワユ。そんなところまで話が行ってるのか…」
アイクは溜め息混じりの声でそう言った。ワユは構わずアイクの背後に回って匂いを嗅いでいた。
「いいなあ~。高貴そうな匂いがするよ。しかもお姫様にもらったとくれば…憧れちゃう! 大将、似合ってるよ」
少女趣味の強いワユはそう憧憬を示す。そしてそのままアイクの肩に手を回し抱き着く。
「よせっ」
アイクはそう短く抵抗の声を漏らす。
「あら、アイク。何やってるの?」
その場に傭兵団副団長の女性が通り掛かった。
「ティアマト…ワユをなんとかしてくれ」
困ったような声でアイクがそう訴えるとワユはそのままひょいと顔をティアマトに向ける。
「ティアマトさん! 大将、いい香りするんだよ~。うんと女の子らしい! エリンシア様も粋なものくれるよね!」
ワユはにこにこと笑顔でそう言った。アイクは視線を下に落としている。
「まあ…」
ティアマトは感嘆の息を漏らしてアイクの元に近寄り、匂いを嗅いだ。そして感慨深げな表情になった。
「この香りは…ああ…エルナ…」
ティアマトはアイクの母親の名を呟き、何か思いを馳せるような様子を見せた。ティアマトのその言葉を耳にしてアイクは視線を上げた。
そしてティアマトがアイクの髪を撫でる。
「やっぱりあなたはエルナの娘よ。よく似合ってるわ。うん、やっぱりもっといろいろ教えるべきだったのよ。ごめんね」
少し涙ぐんだような様子で切々と語るティアマトにアイクは逃げ出したい衝動に駆られた。
「俺は、別に今のままでいい。ドレスもイヤリングも要らないって言ってるんだ。もう鍛練に行ってくるからな。ティアマト、あんたは間違ってはいない。俺はこうだから」
そう言い切るとアイクはさっと立ち上がり、逃げるようにその場を去っていった。
自分が少し粧いをするとこうも周りの反応があるとは余程今までにない印象を与えるのだと思いながらアイクは修練場へ向かおうとしていた。
向かっていく途中、赤毛の男とすれ違った。互いに目を合わせることはなかったが、男ははっとして振り返った。そして蒼い髪の後ろ姿が足速に遠くなっていくのを見た。
その横顔が強い印象を以って脳裏に再現される。凛とした眼差しと愛らしい口許。それに芳しい花の香が相俟って可憐な印象を受けた。
(チッ…)
男は心の中で舌打ちをした。
その少女にそんな印象を一瞬でも抱いてしまった自分に苛ついた。普段反目しあい、まるで子供だと思い、色香など感じるはずがないと思っていた相手だからこそ。
何かの間違いだと思いたくてそれをもう一度確かめようと男は彼女を追った。
背後から何気なく近寄り、通り過ぎてみる。やっぱりその香りがする。
(そういえばミストの奴が何か騒いでた気がする)
男は彼女の妹がその香の出所について嬉々として他の団員に話していたのを思い出した。
(けっ、お姫様に貰った香水ってかよ。それにしてもガキのくせに)
そう悪態をつきつつも男は何度も彼女の背後を行き来した。
「なんだ、シノン。何か用か?」
さすがに彼女もそれに気付いて男にそう声をかけた。
「うっせぇ。何もねえよ」
不機嫌な声でシノンはそう返した。
「なんだ、一緒に鍛練してくれるんじゃないのか?」
アイクは手にした剣をぶらぶらさせながらじっとシノンを見つめる。その視線にシノンは一瞬息を詰まらせた。
「オレはそんな暇じゃねえよ。と、言いたいところだがつきやってやるか。めいいっぱい的にしてやる」
にやにやと笑みを作りながらシノンはそう応えた。そして自分の得物を手にする。
「臨むところだ! 俺はあんたを倒す!」
シノンが相手になるというのを受けて彼女の顔が生き生きと輝いた。
(やっぱり色気も何もねぇ)
彼女のその様子を見てシノンはそう思ったが、その表情を目にして笑みが零れていた自分に気付き、苦虫を噛み潰したような顔になった。
シノンのその表情の動きを見てアイクは首を傾げた。
「腹でも痛くなったのか、シノン」
「なってねえよ! お前じゃあるまいし、朝から肉を大量に食って腹壊すとかねえよ!」
アイクの検討違いの指摘にシノンは語気を荒げてそう返した。
「俺は別に朝から肉を食っても腹は壊さないが」
ものの例えにそう真顔で返してくるアイクにシノンは苛立った。
「この脳筋女! 決めた、打ってやる。打ってやる」
「何かよくわからんが…よし、いくぞ」
二人は間合いを取り、臨戦体制に入った。
「…で、シノンさん。ボコられたわけですか」
「うっせぇ! シメられてぇのかてめぇ」
詰め所でそんなやりとりをする傭兵団の男が二人。
「やめて下さいよ、ぐるじい…」
「ガトリー、てめぇはいちいち余計なことを言うんじゃねぇ!」
シノンはガトリーと呼んだ男の首を背後から締め上げる。
「はあ…、それにしてもシノンさん、大人げないっす」
締め上げから解放されたガトリーは一つ息を吐いてそう言った。するとシノンの鋭い眼光が彼に降り掛かった。
「ガキにマジになっちゃいかんですって。なんでそんなにアイクなんかに構うんですか。いつも文句ばかりつけてるのに」
言われてみれば至極真っ当な言い分だったが、指摘されたくない部分だと思った。
「…ケッ」
それだけに言い返すこともできずそうやって舌打ちをするしかなかった。
「構うならもっと可愛い子いるじゃないですか~。ステラちゃんとかたまんないっすよ。マーシャちゃんも捨て難いっす」
軍内の女性の名を挙げ、目尻を下げながらそう語るガトリーにシノンは拳を落とした。
「お前はまたそうやってフラれて泣きをみるんだろうが!」
このようなやりとりもこの二人の間では日常茶飯事だ。
「ヒドイっす、シノンさん~。あ、そういえば…アイクといえばなんかオシャレに目覚めたとか?」
シノンはガトリーのその話題にぴくりと反応した。
「おれ、気になってアイクの匂い嗅ぎにいったんすけど、アレはあんなガキのつけるもんじゃないっすよね~」
わざわざ確かめにいったというガトリーに呆れはしたが、自分も同様なことをしたためなじることもできなかった。
「そうだな」
そう相槌を打つしかなかった。
「あの香水、前に言ってたじゃないですかシノンさん。お気に入りの子がつけてたって」
シノンはそのガトリーの言葉であることを思い出した。
以前、数度通った娼館にあの匂いを纏った女がいた。その女は躰が好みだった。ただそれだけの思い入れしかなかったが、その女はシノンのことをいたく気に入ったようだった。
「けっ、オレが気に入っていたのは躰だけだ。本気になってたのはあっちだ。客に本気になるなんて商売女としてなっちゃいねえな」
女は始め、石鹸の香りと僅かな体臭しか纏っていなかった。
『あたしね、本気でシノンのことが好きになったんだから。あんたのためならここを出たっていい』
その言葉とともに思い出される当時の光景。女はそのときあの花の香を纏っていた。
「あれって、想い人のために…という意味があるっていうじゃないですか」
ガトリーがそう言うとシノンは眉間に深くシワを寄せた。
「重いんだよ、そういうのは」
シノンはそれ以来その店に通うのはやめていた。ガトリーの言葉通り、その香水にはそのような意味があった。床の中で女がそう熱っぽい瞳で説明していたのを思い出した。
「はあ…シノンさん冷たいっすよね。おれなら一緒に幸せになりたいっすよ」
そう呟くガトリーはまた拳を食らった。
「だからお前は! 商売女に本気になるやつがあるか! てめぇなんかは搾り取られておしまいだ」
きつくガトリーを睨みつつシノンはそう吐き捨てる。
そうしつつもふとあることに気付いた。
(あいつもその意味を知っているのか)
シノンの脳裏に蒼い髪の少女の姿が思い浮かんだ。
「それにしてもシノンさん、あれはアイクなんかには勿体ないっすよね~。よっぽどその子の方が似合ってたんじゃないっすか?」
手をひらひらさせながらガトリーがそう話し掛けるとシノンは反射的に蹴りを食らわせていた。
「うっせぇ! あんな女なんかより……」
そう言いかけて止めた。顔が熱くなったが冷や汗がぶわっと吹き出た。
「え?」
シノンのその言葉にガトリーは目を丸くした。
「いや、あのその、その女のことはもう言うな。思い出したくもない」
少ししどろもどろになりつつも話題を逸らす。
「わかりました~。そのうちもっといい子が現れますよね!」
ガトリーはへらへらと笑顔でそう返した。
(こいつがバカで助かった…)
シノンは内心そう思いつつ安堵した。
今日の彼女はいつもにない香りがする。とても芳しい。この香には覚えがある。
ちょうど、手を差し延べてくれたのがこの花が香る季節だっただろうか。胸が締め付けられそうなほど彼女が眩しく見える。
あ、彼女が微笑みかけてきた。なんという柔らかで優しい顔なのだろうか。こんな自分にもそんな顔を見せてくれるなんて。
受けた施しもさることながら、己の存在を認めてくれたというだけで彼女はこの世界のすべてだ。
そんな彼女に邪な思いを抱こうなどあってはならない。ただ付き従い、行く手を阻むものを退け、その道を拓くのみ。
あってはならない。ならない…。なのに、どうして眼前に彼女のその撓わな胸の谷間があるのだ! 揚句の果てにその肉感的な太股まであらわに晒して己に迫ってくるではないか!
その柔らかそうな唇が己の名を紡ぐ。それだけで夢心地なのに、その唇が己の額にそっと押し付けられた。ああ、この忌まわしき印にその唇で触れようとは!
ああ、アイク! 僕は……!
そこでその光景が途切れた。
その光景の中で悶えていた黒衣の小さな軍師は目を醒まし、しばし呆然としていた。
(なんて夢を…)
彼は夢を見ていた。そして自分がうたた寝をしてしまっていたことに気付いた。
(あんな夢をみるなんて…僕はアイクになんて感情を…。ああ、そんなことがあってはならない)
会議が終わった後彼はその結果をまとめ、これからの行程について資料とつき合わせながら検討し、書類を作製していた。
真面目な彼だが、少し疲れが溜まっていたのとちょうど午睡の時刻というのもあって、いつのまにか書卓に突っ伏して眠っていた。
(ん? この毛布は…?)
この天幕には自分以外いないはずだ。人払いもして警護もつけているからそうやすやすと部外者が立ち入ることはないはずだ。それなのに自分でかけた覚えのない毛布がかけられている。
「セネリオ、起きたか?」
かの人の声がした。
「あ、ああ、アイク…っ!」
セネリオと呼ばれた彼はその声に動揺して慌てた様子を見せた。
「何慌ててるんだお前」
アイクはセネリオのその様子を淡々と指摘する。彼女の手にはセネリオが途中までまとめた書類があった。寝具の上に腰掛け寛いでいるようだった。
「さすがだな、俺でもわかりやすくまとまってるぞ。まだ途中までのようだが、疲れているみたいだからゆっくりやれ」
そう柔らかい表情でアイクはセネリオを労った。それを受けてセネリオは表情を変えないが、疲れなど一気に吹き飛ぶような思いを噛み締めた。彼女の手で掛けられたであろう毛布をぐっと握り締めていた。
「いいえ、早急に…!」
「無理をするな」
気力に満ちてきたセネリオはきりりと表情も引き締めて仕事に戻ろうとするが、アイクはそんな彼に無理をしないよう軽く諌めた。そんな心遣いもセネリオは嬉しく感じ、益々気力が沸いてきた。
「それにしてもアイク…なぜここに?」
会議が終わった後、詰め所から修練場まで行ったのは知っている。彼女の性格上、夕食の時間まで鍛練をしているのではないかと思ったが、ここにいる。
「ああ。俺が香水つけたからって、何か周りが煩くてな。だからお前のところに逃げてきた」
アイクは自分で自分の腕などの匂いを嗅ぐ仕種をしてそう言った。
「もうそろそろ…さすがに薄くなってきたんじゃと思うんだが。セネリオ、おまえはとやかく言わないからいいな。別になんてことはないだろう?」
そうやって首を少し傾げながら問い掛けてくるアイクにセネリオは息を飲んだ。
──なんてことないことはない!
心の中でそう、声を大にして叫んだ。
あんな夢まで見てしまったのはそうだ、その香のせいだ。
(貴女のその香は多くの人間を惑わすのです! 僕も例外ではありません!)
高まる胸の鼓動を抑えようとセネリオは息を吐いた。
思えばこの香に気づいたのは会議の最中だった。軍師である彼は会議など指令が必要な場面では必ず彼女の傍におり付き従っている。今日もいつもの通り彼女の隣に座り、任務を遂行していた。そんな彼が彼女の香に気づかないはずがない。
この香は昔、彼が行き倒れていたところに彼女から施しを受けた季節に咲いていた花の香だった。鼻腔をくすぐるその匂いに彼は様々な想いを去来させた。そしてその香は何よりも彼女に似合っていると思った。
彼は彼女に対して崇高な思いを抱いていた。生まれが卑しい自分を救い、認めてくれた、それが彼の生きる糧となった。そんな彼女に対しては異性としての恋慕というよりは女神に対する崇拝に近いものがあった。
しかし、やはり生身の人間だ。彼も彼女も。
彼女のその健康的な肢体を直に目する機会があれば彼も興奮を覚えずにはいられなかった。そしてそのたび彼はそんな自分に嫌悪していた。
「…もう、それほど香りませんね。揮発性のものなので時間が経てば薄くなります。アイク、貴女の判断は的確です。僕の天幕ならば煩い連中もやってくることはないでしょう」
彼は自分でも驚くほど冷静に説明的な返答をすらすらと言っていることに気づいた。
「そうか、よかった。ありがとう、セネリオ。邪魔したな」
彼もそうだがあまり表情を変えない彼女は僅かに笑んでそう礼を述べた。
「いいえ」
セネリオはアイクのその笑みに天恵のようなものすら感じたが、やはり表情を崩さず短く返事をした。
「邪魔しているところ悪いが…俺も少し眠くなってきた。少し休んでいいか?」
「え、あ、はい。結構です」
この天幕で休憩をしたいというアイクの申し出にセネリオは了承した。そしてアイクはおもむろに上着を脱ぎ、軍靴の紐を解き始めた。
「夕飯まで、な。わりと時間があるから…少し楽にさせてもらうぞ。正直、これはちょっと堅苦しくてな」
彼女は将軍位の軍装のことを指してそう言う。それは丈夫な布地で仕立てられており、勇壮さを誇張するかのような型で縫製されているため、普段着としては窮屈なものであった。
それと靴を脱ぎ、ワンピース状のインナーとスラックスのみになった。
「ふう…これも苦しいんだよな」
そう呟きながら彼女はインナーの中に手をいれ、胸に巻いている晒布を緩めた。そうして楽になった彼女は伸びをしてばさりと寝具に倒れ込んだ。
「悪いな、セネリオ。おまえが仕事しているときにこんな」
その状態で彼女はそう語りかけてくる。
「いいえ、いいえ」
セネリオは反射的に首を横に振る。
「…おまえも一緒に寝るか? まだ疲れとれないだろ? 補給は明日いっぱいまでかかるからそんなに急ぐわけではないし」
そう言いアイクは寝具の端に少し移動しスペースを作りそこをぽんぽんと叩く。
「いいえ! だ、大丈夫です…! 僕はすっかり休ませていただきました!」
さすがに動揺を完全に隠せず、セネリオはそう強い語気で彼女の誘いを断った。
「そうか、じゃあ…がんばれ。おやすみ」
彼女はそのまま自分の腕を枕にして眠りに入っていった。口には出さないが彼女も疲労が溜まっていたのかそのまますぐ寝息を立てていた。
「………」
セネリオは呆然とその場に立ち尽くしていた。そして生唾を飲み込んだ。
眼前にあるのは憧れの想い人の瑞々しい肢体。晒布が緩められてそのふくよかな胸が山を作っている。柔らかそうな質感が主張している。普段は長い裾の軍服に隠れてよく見えない太腿がスラックス越しとはいえ質感が露わになっている。軍靴を脱いだその足は滑り止めの晒布が巻かれているが、裸の指先が見えている。
(貴女は、少なくとも僕のことを男としては見ていませんね)
彼は深く息をついた。
(まあ、特に誰のことを意識しているというわけでもないようですが)
そして先刻彼女に掛けられた毛布を今度はその手で彼女に掛けてやった。
(貴女は僕が守ります。貴女に害するものはすべて排除します。貴女の行く道は僕が拓きます)
彼は胸に手を置き、そう誓いを立てていた。
夕食が終わり、アイクは日課の自己鍛練を終えて、水浴みをしていた。
(これでようやく完全に消えるな…)
もう二度と香水などつけるものかと思いながら体を拭いていた。
いつもは手近にある水浴み場であれば、一般男性兵が使う場所でも平気で使っていたのだが、今日は目隠しが施されている女性専用の水浴み場の隅で目立たないように用を足していた。
「お姉ちゃん」
背後から声がした。
「ミスト」
声をかけてきたのは彼女の妹だった。
「えへへっ、今日はこっちに行ったって聞いたから着ちゃった。背中拭いてあげる」
ミストはそう可愛らしく言い、手布を水に浸しきゅっと搾る。
「ああ、頼む」
アイクはそうさらりと返事した。
「それにしても…ミスト、おまえ…エリンシアに香水貰ったこと散々言いふらしただろ」
少し不機嫌そうな声でアイクはそう言い放つ。
「うん。だって、お姉ちゃんあの香り…すっごく似合うんだよ。お姉ちゃんもちゃんとオシャレしたら女の子らしいってみんなに教えなきゃ! それにエリンシア様から貰ったものとくればステキでしょ?」
そう悪びれもなく屈託なく返してくるミストにアイクは溜め息をつきたくなった。分かってはいたが、全く悪気がないだけにタチが悪い。
「おかげで今日はえらい目に遭ったぞ」
「えー、どうして? みんな似合うって言って褒めてたよ! 明日もつけてね」
アイクにしてみれば周りのその反応が気恥ずかしくて嫌だったのだが、ミストにそう言うわけにもいかなかった。
「あのな…」
アイクはそれ以上言葉が次げず、一つ息を吐いた。
「そうそう、ライさんはなんて言ってた?」
唐突にその名を言われてアイクは少し吹いた。
「何で奴なんだ。今日は顔見てないぞ。あいつはガリアの部隊内で調整があるって言ってたからな」
そう言われてみれば今日は彼の顔を見ていないことに気付いた。
「えーっ、ライさんにはまだなんだ。つけていってあげてよ」
「だから…なんでだ」
そう返しつつもアイクは若干顔が熱くなっていることに気付いた。
「え、へへ。またまた~」
続けざまにミストがそうからかいを含んだ物言いをしてくるが、アイクはそれを振り払うように一つ息をついた。
「おまえもあれをつけてみたらどうだ。ボーレのところにでも行ってやれ」
そう言い切ってくるりと体の向きを変えてミストの体の向きも変えさせる。そしてごしごしと彼女の背中を拭きだした。
「なんで! なんでボーレなのっ」
そうやって抗議の声をもらす妹にアイクは笑みを漏らした。
「でも…わたしもつけてみたいな」
頬を朱く染めて両手を口許に当ててミストがそう呟いた。
「ああ、いいぞ。つけてみたらいいだろう」
「うん。ていうかお姉ちゃん…」
ミストはちらりと振り返る。
「今日、一緒に寝ていい?」
「ん? どうしてだ?」
「お姉ちゃんももう一回あれ、つけてね」
そう言ってミストは顔を赤くしていた。アイクそれでなんとなくどうしてなのか察した。
「わかった」
もう二度とつけるものかと思ったが、妹のそんな可愛いお願いなら聞いてやろうと思った。
「はあ…それにしても」
「なんだ?」
溜め息混じりにそう呟くミストにアイクはそう聞き返した。
「やっぱりお母さんに似たのはお姉ちゃんなんだよね。えいっ」
再びミストは振り返り、アイクの胸を掴んだ。
「こらっ」
アイクはそう小さく怒りミストの頭を小突いた。
「あー、いいなあ。おっきくて」
そう呟き、自分の胸に手を置き比べるミストにアイクは苦笑した。
「どうしたらそんなになるのかなあ」
そう言ってミストはちらりと上目遣いでアイクを見つめる。アイクはその視線を受けて何か言葉を発しようとしたが、ミストの次の言葉で遮られた。
「肉を食えばいい、っていうのはナシだよ」
妹のお願いを聞き入れた彼女は自分の天幕にやってきた妹にその香を吹き掛ける。
「ありがとう、お姉ちゃん。うん、いい匂い」
ミストは嬉しそうに自分の手首などの匂いを嗅いでいた。
「おまえも似合うぞ。うん、これはおまえにやろうか?」
アイクは小瓶を指で掴みミストに差し出した。
「ダメダメ! これはお姉ちゃんのなの。せっかくお姉ちゃんにあげたのにエリンシア様ががっかりするよ」
そう力説するミストにアイクは仕方がないな、という表情になった。
「さ、お姉ちゃんもつけて」
ミストはアイクが所在げなく持っていた小瓶を手に取り、彼女に吹き掛けた。
「うーん、やっぱりお姉ちゃんから香ってるのがいい」
そう言いながらミストは床に腰掛けているアイクの背後に回り、首筋に顔を埋めるようにして抱き着いた。
「ったく、あいつみたいなことするな、おまえも」
思わずそう呟くアイクにミストはぴくりと反応した。
「えっ、なに? 誰?」
「何でもない」
彼女の脳裏にはあの獣牙の青年の顔があった。彼はそうやって時折、彼女の匂いを嗅ぐ。ラグズである彼は彼女の匂いを嗅ぐことによって、ベオク同士の戦闘で充満する負の気に充てられ疲弊した精神が安らぐらしい。
何故、そうなのかということまでは考えたことはなかったのだが。
「さあ寝るぞ」
アイクはそろりと寝具に身を寄せ横たわり、いつもより端の方に寄る。それに誘われるようにしてミストは毛布に潜り込んだ。
「あったかい」
きゅっと毛布の端を掴んでミストは小さく呟いた。
「まだ夜は冷えるからな。ちゃんと肩まで掛けて寝ろよ」
ミストはそう語りかけてくる姉の瞳が優しげなのに気付いた。夜闇でもうっすらとわかるくらいだった。
「うん」
短く返事をして彼女はすっぽりと毛布の中に潜り込んで姉の胸に顔を埋めた。
「おいおい」
そう言いつつもアイクはそっとミストの髪を撫でてやった。優しい花の香と姉の愛情に包まれて妹は寝息を立てていた。
彼女は母もこうやって自分達を寝かしつけていたのだろうかと思いながら、記憶を辿ろうとしていた。はっきりとは覚えていないが、朧げな印象だけはうっすらと蘇る。
その天幕の外に夜空を見上げながらその香を愉しんでいた男が一人。目をつむってより強くそれを感じる。
さらにそれが強くなってきた。強くなってきたと思ったら…
「何やってんだライ」
そう声を掛けられた。彼はびくりと身を震わせた。その香の発生源がすぐ傍にいた。
「うわっ、寝たんじゃなかったのかよおまえ」
ライは少し後退りをしてそう言い放った。
「おまえ、立ち聞きしてただろ。なんか気配がするから様子を見にきた」
アイクは呆れたようにそう返した。
「いや、そんなつもりはなかった。たまたま通り掛かってな、何か懐かしい匂いがするからふらっと寄っていったらここだったっていうわけだ」
飄々とそう説明するライだったが、たまたま通り掛かったというのは嘘だった。
(本当はおまえの顔見にきたんだけどな、寝ている感じだったし)
そしてひゅう、と口笛を吹く。
「暇な奴だなおまえ」
いつもの仏頂面でアイクはそう言った。
「つれないねえ、おまえ」
ライはアイクの肩を軽く小突いた。そう言いつつも彼の顔は緩んでいた。
「しまったな、おまえがくるならつけなきゃよかった」
アイクはふと思い立ったように呟いた。
「何がだよ」
ライがそう聞くとアイクは自分の腕などの匂いを嗅ぐ仕種をする。
「おまえはわかるんだろ、この匂い。ましてやさっきつけたばかりだからな。ったく、今日はえらい目に遭った。俺がちょっと香水つけたからって騒いだりからかったり…」
そう愚痴を漏らしながらアイクは不機嫌そうな表情になっていた。
「んっ!」
そんなアイクの眉間をライは軽く指で突いた。
「そんな顔すんなよ。せっかくいい匂いさせてるんだから。おまえも安らがないか? この匂い」
鳩が豆鉄砲を食らったような表情でアイクはライを見つめる。
「この匂い、ガリアの花の匂いだろ? ガリアにしか生えない珍しいやつだ。そうだ…おまえの髪や瞳の色そっくりだぜ。綺麗だぞ」
ライはにこにことしながらそう語る。
(おまえもな)
その言葉はそっと彼の胸中に飲み込まれる。
「そうか。一度見てみたいものだな」
そう言う彼女の眉間にはもうシワは刻まれていなかった。
「ああ、見に来いよ。オレが連れていってやる。…そういえばその香水、カイネギス様が昔、ベオクの女性に渡したことがあったな」
アイクはライのその言葉に目を見開いた。
「その女性はベオクの友人の妻だと聞いた。親交の証ということらしい。それはガリア産の純度百パーセントのやつだぜ。名産物で貴重なものなんだ。結構まがい物とか出回ってるらしいけどな」
そう言いライはさっとアイクの側に寄り、ふんふんと匂いを嗅ぐ。尻尾がひょっこりと上がっていた。その仕種がなんとも猫そのものでアイクは思わず口端を少し上げた。
「うん。こいつも純度百パーセントの正規品だ。これはエリンシア姫に貰ったんだっけ?」
「ああ」
「うんうん、さすがだな」
そう感心してみせるライにアイクは可笑しさを感じた。
「何笑ってるんだよ」
そう言いつつもライのその顔も笑っていた。
「おまえはよくわからん奴だが面白いぞ」
アイクのその一言にライは吹き出した。
「おまえに言われたくないぜ」
そう言ってライはぴしっとアイクの肩を軽く叩いた。
「しかし、いいな」
ライは夜空を仰ぎ見てそう呟く。
「その香を嗅ぐと和らぐんだ。正直、ベオク同士の戦闘で充てられる負の気は些かキツくてな。ヘタしたらこの腕も鈍るかもしれなくて」
そうライが吐き出すと同時にぐいと腕と頭が掴まれた。
「いっ!?」
突然のことにライは驚き、声を上げた。
「これで落ち着くなら嗅げ」
ライは自分の顔がアイクの胸の中にあることに気付き、一瞬頭の中が白くなった。
「つけたばかりだから濃いぞ」
ぶっきらぼうにそう言い放つその口調に全く色気はなかった。引き寄せられたその勢いも乱雑で何か物を引き寄せるような感じだった。
その手が頭を掴み、ぐりぐりと撫でている。
「さっきこうやってミストを寝かしつけたぞ」
アイクがそう言うとライは「あはは」と固まりながら笑った。たぶん、彼女の妹に対してはもっと優しく撫でていたのだろうと思ったが、顔に当たる柔らかな感触とその香にしばし夢心地だった。
(あー…こいつ、ホントデカいな)
その感触から彼女の胸の大きさを実感していた。晒布が巻かれていないのだろう。夜着一枚しか着用していない上でのこの感触は体温も伴って非常に刺激が強い。花の芳香と混じる彼女そのものの匂いがまた堪らなかった。そして自分の顔がかなり緩んでいることに気付いた。
「元気になったか?」
そう聞かれてライはぴくりと反応した。
(ヤバイ、別の意味で元気になる)
このままだとどうなってしまうかわからなかったので、ライはアイクの胸から顔を離した。
「はーっ、なったなった。オレは元気だ! ごちそうさま」
そう言ってライは少し変な挙動で全身を伸ばしていた。挙動はおかしいが、確かにその顔には充足感が漲っていた。
「それはよかったな。じゃあまたきっちりと働いてくれよ」
素っ気なくそう言い放つアイクにライはやっぱり「こいつはこうだ」と思った。
「ああ、そりゃあもう」
ライはウィンクをしてそう返した。尻尾が垂直に立っている。
「くっ」
そんなライを見てアイクは思わず小さな笑い声を漏らした。
「よし、あれはなくなるまでつけるぞ。それでおまえの動きがよくなるなら安いものだ」
「いいのか?」
ライのその問いにアイクはこくりと頷いた。
ジョフレはアイクを一目見たときの印象を思い返していた。
遠目に見たときはなんて勇猛な将なのだろうと思った。隆々とはしていないが、動きに安定感があり、実際の大きさより大きく見えた。その勇壮さを誇張するかのような軍装と相俟って精悍な青年なのだろうと思った。
だが、実際に対面してまず香ったあの花の香、それがふわりと彼の鼻腔に入ってくると途端にその認識が覆された。
甘過ぎず、それでいて柔らかな香。それがよく似合っていた印象だった。きつく結ばれた口許と凛々しく上がった眉がそれとは相反する印象だが、内面の慈悲深さがその奥にあることを肌で感じた。それでいて一つ芯が通っていて確固たる意志も感じさせる。
(なんと失礼ながら一目見たときは男性と思ってしまった。しかしあの香が御方の魅力を存分に引き出していた。それで女性と確信できた)
目をつむり、想いを馳せるジョフレは友人である王女の腹心が漏らしていたことを思い出した。
友人は彼の姉にかの香水を贈ったことがある。贈った直後は姉からその香が香っていた。しかしあるときを境にその香はしなくなった。それについて友人は落胆しているもようだった。
「それで私、ルキノに教えたんです。その香水は『想い人のために』という意味があるということを」
ジョフレはエリンシアがいたずらな笑みを浮かべながらそう言ったことを思い出した。
(気の毒に…ユリシーズ…)
ジョフレはそう思いながら一つ息をついた。
しかし、エリンシアが『まだ時期ではない』と言っていた通り、まだそうなのかもしれない。ジョフレは友人の健闘を祈った。
そこでジョフレはかの将軍がその意味を知っているのかふと気になった。
(アイク殿、その香は誰のために?)
胸に置いた手をぐっと握り締め、彼はある決意をするのであった。
─続─