ここから立っているのもやっと、という感じだった。
「ほれ、肩貸してやるよ」
敵将を撃破し、無事に対岸へ渡りきったこの軍の将は傍らの獣牙戦士にそう手を差し伸べられる。
「いや、いい…まだ」
「アイク、頼むからオレの言うこと聞いてくれ」
「…ライ、俺はまだ今後の方針についての会議と…」
そう言いライの申し出を断るアイクのその背は服が焦げ、火傷を負った痕が見てとれた。敵将の火槍で負ったものである。先行して敵将を攻めていたライがあわや火槍から発せられる魔道の炎を浴びようという瞬間、アイクが駆けつけ敵将を一閃した。
アイクの顔色は一見してわかるほど悪かった。少し前から諸々の事情があり、心を悩ませているのか寝不足でもある。そして将が自ら先陣を切って攻め入る戦法をとることが多いため、疲労の溜まり方は著しかった。
「そんなんで会議に出ても寝てしまうだけだろ」
その場に立っているのもやっと、という感じなのかアイクは剣を杖のようにして佇んでいた。
ライは自分が庇われたという経緯があったので余計にアイクのことを気遣っていた。
「ちょっと待ってろ」
ライはその場を離れて黒衣の参謀に声をかけにいった。そしてほどなくして戻ってきた。
「ほら、参謀殿が今日はいいって言ってたぞ。戦況を総ざらいして書類をまとめておくってさ。あと、あの情報屋のおっさんの情報待ちだとさ。会議は資料ができてからだぞ」
「…そうか、じゃあ…」
アイクのその足は一般兵の天幕に向かおうとしていた。
「ちょ、待て! 慰問もなしな! おまえが倒れたら意味ないって!」
ライはそう言うと強引にアイクの腕をとり、肩に担いで天幕まで引っぱっていく。
「…よっ、と」
ライの手で天幕の入り口が閉められると、アイクはそこで膝を付きそのまま床に転げた。
「ちょっと待て! そんなとこで寝るな!」
やはり限界だったようだ。
「…すまん」
アイクはそれだけを言うと顔を伏せ、目を閉じた。
「あのなっ…。甲冑着けたまま寝るなよ! 靴も脱いでおけ!」
ライがそう言ってももう時既に遅し、アイクはそのまま床に伏せて起き上がらない。
「ったく…仕方がない…」
そう言い、ライはまず床に転げているアイクの脚を掴んで軍靴を脱がせにかかる。軍靴というだけあって着脱が容易でない仕様だった。
(ベオクってやつはややこしいな、こんな面倒なもの身に付けないと身を守れないんだからな)
構造がよくわからなく、脱がせるのに手間取ったが、なんとか脱がせることに成功した。滑り止めと汗止めの晒布が巻かれた素足が床に投げ出される。
そして次は甲冑である。これもまたこういった装備を必要としないラグズのライにとってまた構造がよくわからないものであり、外すのが困難であった。肩当てと、籠手、胸を保護するプレートがあった。剣士であるアイクのこの装備は騎兵よりは簡素ではあるが、将軍位であるため、紋様が入っていたりと重厚感がある。
(案外重いぞこれ…)
まずは肩当を外す。そしてその下に装着されている外套を外す。それは使い込まれていて端がほつれたり破けたりしていた。修繕のあとも見られる。今日、新たに負った魔道の炎による焦げも見られた。それから籠手とプレートを外す。ガチャリと鉄の音がする。鉄の匂いが苦手なライは思わず鼻をひくりとさせた。
(でもこれと剣がないと戦えないんだよな、こいつは)
これでアイクが見に纏っているのは軍服など布地のもののみとなった。
「ほらっ、これでちょっとは楽になっただろ。もうちょっとこっちに…そう、ちゃんと寝床で寝るんだ」
ライはアイクを背後から抱えて引きずるように寝具の方まで誘導した。
「ん…、すまない」
アイクは眠気を含んだ声でそう呟いた。少し掠れ気味の声だった。
「うーん…もうちょっと楽にした方がいいな。お前、夜着はどこにある?」
ライがそう聞くとアイクは身の回り品の入った布袋を指差す。それを見てライはその袋から夜着を取り出してきた。
「もういい時間だからな…メシはまだだけど、もう寝ちまってもいいぞ。腹へったらメシはもらってきてやる」
そして背後から抱えるようにして軍服の合わせを外していく。丈夫な布地で仕立てられているものだが、これも外套同様にほつれや修繕のあとが見られる。
(うわ、ひでえな…これ…)
それを脱がし、背中の部分にあたるところが焦げて大穴が開いているのを発見する。そしてこれが自分を庇ってできたものだと思うとライは心が痛んだ。応急処置で回復魔法が施されていたので肉体に痛みはないようだが、こうして被弾したあとが見てとれると生々しさを感じる。
「はあ…アイク、おまえってやつは…」
そのままライは肌着のみになったアイクの身を背中から抱きすくめる。アイクは身を任せてゆるく目を閉じている。ただ呼吸をする音だけが聞こえる。ライもそれ以上は言葉を続けず、ただその体温を感じていた。そしてアイクの首筋に鼻を埋めてその匂いを嗅いでいた。
(正直、ベオク同士の戦場ってキツいんだよな。鉄の匂いと負の気が充満しすぎてさ…)
ライの脳裏にふとそういったことがよぎる。そしてそれがアイクに触れていることで緩和されていく。
(オレは親ベオクとは言ってるけど、まだちょっと…おまえがいろんな奴に対してまっすぐに信頼を寄せるようにはいかないんだ。でも、オレはおまえを…)
そう、思考をたゆらせながらライは鼻腔に感じるその匂いに安らぎを感じている。獣牙…特にその中でも猫であるがゆえの本能なのか。
「しかし…それにしてもおまえ、細いのな」
「…悪かったな」
「あ、起きてたのか?」
甲冑を身に付け、軍服を着ているときにはあまり思わなかったが、その豪胆な立ち振る舞いや戦いぶりに反してその身は細いとライはそう思った。
(っていうか…なんだ? こいつ、男のくせに妙にうなじがきれいで)
無意識に鼻を埋めたり、甘噛みしてしまう。
「…バカっ、噛むな」
不機嫌そうにそう抵抗するアイクに反してライは上機嫌なのか尻尾がゆらゆらと揺れている。
「悪りぃ、オレ…猫だからさ」
「じゃあ仕方ないか」
それで納得してしまうアイクにライは思わず吹き出してしまう。と、同時にこれは触れることを許されたのかと思うと嬉しくなった。
(に…しても妙に抱き心地いいな…。柔らかいっていうか…。ベオクってそういうもんなのかな)
改めてアイクをぐっと抱き寄せたライはそう思った。
「…ライ、俺…まだ着替えてないぞ」
「あ、悪りぃ。ちょっと待て」
ライが床に置かれたままの夜着を手に取り、アイクの肌着を脱がせる。
「ん?」
肌着を脱がせるとその身にはまだ晒布が巻かれていた。
「…ふぅ…これ、キツいからな…外してくれ」
「あ、ああ」
アイクにそう促されてライはその晒布をほどいていく。
「!!」
その布をほどいて目の前に現れたのは
「お、おまえ!?」
「なんだ?」
男のものとは明らかに違うふくらみ。
「お、女!?」
「…見りゃわかるだろ」
衝撃を受けているライに反してアイクは平然とそう返す。
「え、ええええええっ!?」
ライは酩酊を覚えた。地球がひっくり返るくらいの衝撃だった。気が動転したのかその手はぐっとアイクの胸を掴んでいた。
「痛いぞ」
アイクは不機嫌そうにそう漏らす。
ライの手の中にあるそのふくらみは、彼の手のひらくらいの大きさだった。ふくよかで弾力がある。鍛えられていて胸の筋肉もあるせいか、ハリがあり形もよかった。
(っていうか、どこに隠してたんだよこれ! そんなにこの布で締め付けてたのかよ!)
相当混乱をきたしつつもライは無心でアイクの胸を揉んでいた。
「おい、入るぞ」
そこに凛とした女性の声が割って入った。そして天幕の入り口が開かれ、その声の主が入ってくる。
「!!」
彼女はライとアイクのそんな光景を目撃してしまう。手にしていた桶を思わず落としそうになるが、落ち着いてそれを床に置くとつかつかと彼らの元に歩いていき…
「痛てっ!!」
ライの頭を思い切り殴り、その身をアイクから引き剥がす。
「くぅっ…相変わらずキツいなレテ…」
「ライ! 私はおまえを見損なった! ついにベオクの女に手を出し…この破廉恥たる行為! 誇り高き獣牙の戦士の風上にもおけない奴め!!」
レテと呼ばれたライと同じ獣牙の猫の民はそう彼を罵倒する。
「ち、違うんだ! 聞いてくれ! っていうかついに、ってなんだよ!」
「どう違うんだ! 間違えようがないぞ!」
語気を荒げてレテはそう怒鳴りつける。
「あ、アイクは…男だと思ってたんだ!」
ライのその言葉にレテは憐みにも似た視線を送る。
「…な、なんだよその目は…」
「頭大丈夫か…ライ…。言い訳にしても苦しすぎる」
「な、なんだよ!」
そんなライとレテの言い争いをアイクは寝具に横たわりながらじっと見つめていた。
「…おまえはその胸をしまえ」
その視線に気づいたレテはアイクに夜着を渡し、布団を被せてやる。
「すまん、レテ。あまりライを怒鳴らないでやってくれ。俺が女だってこと一言も言ってなかったからな」
アイクはレテに渡された夜着を着、そう返す。
「いや、それはおかしいぞ」
レテはアイクのその言動に突っ込みを入れる。
「よくあることだ、しょうがない。それにライとは再会したばかりだからな…」
そう、アイクは低いトーンの声で淡々と話す。この声質と話し方も誤解を生む要素であるようだ。なによりその男言葉と豪胆な振る舞いと無頓着さが大きい要素なのだが。亡国の総大将まで務めている身である。
「…わ、悪かった。ホント。いや、もう…。オレ、バカだ」
非常に申し訳なさそうにライは尻尾をだらりと下げつつそう言った。レテはそんなライの様子を見て忍び笑いをした。
「っておい、聞いてねえし。また寝てしまったな…」
胸を締め付けるものを外して楽になったからなのかアイクは再び瞼を閉じていた。呼吸が楽になったように感じる。
「ところでレテ、おまえ何しに来たんだ」
「ああ、湯浴み用の湯を持ってきた。これで体を拭け、と渡しに来たんだが。言っておくが、これも任務のうちだ。物資輸送も立派な任務のうちの一つで…」
やたらにくどくここに来た理由を告げるレテにライは可笑しさを感じた。
「ははっ、わかったわかった。アイクの様子を見に来てくれてありがとよ」
「なっ、何を言うか。私はだな…」
元々ベオクを毛嫌いしていたレテだったが、特にアイクの真摯な態度によってそれが緩和されているようだった。それが気恥ずかしいのだろう、そういう弁明めいたことがつい口から出てしまう。
「おまえもちょっとは変わったな。うん」
「う、うるさい! …ふん、お前はアイクに男だと思われてないんだろうな」
「はぁっ!?」
レテの予想だにしない言葉にライは目を丸く見開いた。
「それならちょうどいい、これで体を拭いてやれ」
その言葉とともにライの手に清潔な綿布が投げ渡される。
「おかしなことをしたら我らが王に報告してやるからな。王の縁の者の娘に手を出した、となればお前はどうなるか…」
「わ、わかったわかった! ったくもう…本当、おまえって奴は…」
ライが観念した、といった表情でそう言うと、レテは一瞥をくれて天幕から退出していった。
彼女はアイクがライの尻尾をぎゅっと握っていたのを見逃さなかった。
「さて…」
レテが退出し、再びアイクと二人きりになったライは手にしている綿布をじっと見つめ頭の中を整理しようとしていた。
(こいつが女だっていうのは現実で…)
自分の尻尾をぎゅっと握っているアイクに目をやり、その顔を覗き込む。
(親父さんにあまり似てないよな。おふくろさん似かな)
ライは昔、彼の祖国ガリアに在住していたころのアイクの両親の姿を思い返す。王と謁見していた際に見かけたことがあるのである。
(おふくろさん、きれいだったもんな…)
おぼろげにだがアイクの母は同じ蒼の瞳だったことを思い出した。
(こいつもよく見ればきれいな顔してんだよな。でもなんでオレ、こいつのこと男だと思い込んでたんだ…)
出会ったとき、ラグズという呼称を知らず、差別用語である半獣、という呼称を用いてきた。ライはそれを怪訝に感じ、それについて教えてやったときアイクは素直に訂正してきた。
(あんときから面白いベオクだって思ったんだ。ここまでベオクに興味を持ったのはあまりない。そして危なっかしいし目が離せなくて)
そういえば、とライはアイクと対面していた時間を思い返していた。
(実はあまり長い間一緒にいたわけじゃないんだよな。任務があって途切れ途切れに会ったり離れたり…。そしてトハから結構な間離れてたしな…。久しぶりに会ったら将軍になってて大変なことになってるし)
ライは港町トハでアイクたちの追っ手を引き付けて逃がしてやっていた。それ以来離れており、先のオルリベス侵攻の際にガリアの兵とともに合流し久々に再会したのである。そのときにはアイクはベグニオンにて爵位を受けてクリミア軍を率いる将となっていた。
(なんといっても、こいつが庇ってくれたときってのが忘れられないんだよな)
デインから追われる身だったアイクだったが、それをおしてトハの住民から暴行を受けていたライを助けに入った。ライが暴行を受けていたのは誤ってその獣耳を目撃されたからである。まだラグズに対する偏見や差別が根強いのだと思わされた一件であった。
(やっぱりまだベオクはあんなもんなんだ、って思っちまったけど…こいつが来てくれたからまだ信じられるって思ったな)
「………」
ライはふと思考の出口を見つけた。
(そうか、オレ…ラグズかベオクかっていうそういうことにばかり頭がいってたな。男か女かっていうのは考えたことがなかった!)
我ながらなんて間抜けなんだろうと、ライは思った。
それでも無理はない部分はあったのだが。
言葉遣い、一人称、立ち振る舞い、話し方、それらに女性らしい要素が全くなかった。声質は言われてみればどっちともとれる。顔立ちも整ってはいるが中性的といえばそうだ。年若いため、成長途中の段階であり成熟した性のにおいもまだ感じられないので余計に判断に苦しむのである。しかも、背丈は女性にしては高い。ライより少し低い程度である。
服装も戦闘に特化したスタイルのものを着用しているところしか目撃したことがなかった。しかもほつれや修繕のあとが見られるほど使い込まれたものであったりする。特に将軍位になってからの軍装は、肩の部分の縫製が肩の形を強調するようなものであったため肩幅が増して見えるようになっている仕様であり、実際より肩幅が広く見える。胸も晒布でかなり抑えつけて、上衣の上から胸を保護するプレートで頑丈に補強されていたため、女性らしいふくらみがあるかどうか判別が付かない。
(でもよく見たらそういえば…腰は細かったよな…)
体型はわかりにくかったが、思い返すと細腰ではあった。
「はあ…」
とりあえず、湯が冷めないうちに体を拭いてやろうとライは綿布を湯に浸し固く絞った。
まずは顔、頭、首筋など。
「寝てるとこ悪いな、拭かせてもらうぜ」
そう言い、まじまじと顔を覗き込んで丁寧に拭いてみる。
(う…)
女性だと思うと急に意識するようになってしまった。閉じられた瞼はよく見ると二重で睫毛が長い。少し開けられた唇の肉感を布越しに感じる。
噛み付きたくなってしまう。しかしそれはとんでもない、と思うようになった。先ほどまでは気軽に首筋を甘噛みしたりもしたのに。
それをかき消すかのようにライはアイクの頭をわしゃわしゃと布で包み込んで拭いてやる。
「ん…っ」
アイクが怪訝そうな声を上げる。
(ちょ…おまえ…その声やばいって)
喋り声とは違うくぐもった声だったが、それは確かに女性の声だった。
それでも全部終わるまでは…とライは続いて首筋を拭いてやる。
(はあ…ここがやばいんだった…男のくせに妙にきれいとか思っちまったけど女なんだよ! 当たり前じゃないか!)
短く切られた髪であるため、その白い首筋がよく見える。そして夜着に着替えているため、肩にかけてのラインも際立っていた。
(もう、野となれ山となれってか…!)
ライは覚悟を決めてアイクの夜着をたくし上げて背中を拭いてやろうとする。
(…っ、ああそうか、そうなんだよな…)
その背中には大きな切り傷、火傷の跡、小さな傷跡…戦場で受けたものがいくつも刻まれていた。その中にライ自身が庇われてできたものがある。優美な曲線に鍛えられて引き締まっている筋肉、そしてこの傷跡。このアンバランスさがライに心苦しさを与える。
(女なのにこんな…って思っちゃダメなのかな。こいつはラグズもベオクも差別しない。そして女だからといって弱音を吐かないでこんな体になりながら戦っている。こいつはこいつなんだ、目を背けちゃダメだ)
ライは目を見開いてその背中をじっと見つめ、丁寧に拭いていく。
そして次は下肢の方だ。夜着はワンピース状のものであるため、すでにたくし上げられていて腰巻一枚の状態になっていた。素足には靴を履く際の滑り止めにしている晒布が巻かれている。
その光景にライの喉がごくりと鳴る。
(って言ってもな、オレだって男だぜ? どうにかならないほうが不思議だぞ)
確かにその曲線は女性のものだった。目の前に広がるのは瑞々しい若い女の肢体。その細腰と骨盤が相まって醸し出すくびれ、程よく脂肪の乗った臀部、鍛えられて筋肉が付いているがすらりとした脚。
(…はあ、こんなのさらけ出していいのかね…。まったく、少しは気にしろよ…いくら疲れきって眠いからってさ…)
呼吸の回数が増えているのを意識しながらライはその躰を拭いていった。するとその身が少し捩られて小さな声が聞こえる。そして床に伏せている乳房がちらりと覗けるのを目の当たりにしてしまった。
「…!!」
ライの全身からぶわっと変な汗が吹き出た。
(く、くそっ、早く終わらせないとどうにかなりそうだ!)
意を決してライはアイクの身体をひっくり返して仰向けにさせる。そして目を細めてあまり視界を広げないようにして腹の辺りから拭いてやる。布越しに感じるその感触は少し堅く、鍛えられていることがわかる。女性とはいえ、筋力を鍛えるために鍛錬を積んでいるため程よく筋肉が付いていて、一般の女性よりその感触は堅めである。…臀部ともう一箇所を除いては。
(やっぱここも拭いておかないとダメだよな)
ライのその手は乳房に到達していた。そこは確かに柔らかかった。その感触を改めて感じると思考が吹き飛びそうになっていた。誘惑に負けて細めていた目を開けてしまう。ほんのりと色づいている乳頭も視界に入ってきた。気づいたら布越しではなく素手でそこに触れていた。
「おねーちゃん、入るよ」
少女の声が天幕の外から聞こえてきた。そしてすぐに天幕の入り口が開かれる。少女は天幕の中での光景を目にすると一瞬固まる。
「ご、ごめんなさいっ! お邪魔しました!」
治療の杖を手にしたままの少女は早急に天幕から退出しようとする。
「ま、待ってくれっ! 違う! 違うんだっ!」
ライは青ざめてそう叫んだ。
「…というわけなんだ」
「そうだったんですね、取り乱してすみません」
ライは少女に事情を説明し、天幕に留まってもらうように説得した。そうでもしないとあの同僚がいつまた怒鳴り込んでくるかわかったものじゃない。
「いや…あれはそう見られてもおかしくない、ホントごめん」
ライと少女は向き合って正座していた。この少女はアイクの妹のミストだ。傍らにはすやすやと寝息を立てているアイクがいる。まだ残っていた傷をミストの治療の杖で癒される。
「ああ、よかった。まだ痕の残らない傷で…」
彼女は安堵した表情でそう呟いた。
「そうか、こいつの治療に来たんだよな」
「はい、お姉ちゃんはいつも前線で戦っていて傷が絶えないから…。もう消えない傷跡もたくさんあるけど、できるかぎりきれいにしてあげたい」
彼女のその言葉がぐさぐさと胸に突き刺さってくる、ライはそう感じた。
「…ライさんは、お姉ちゃんのこと、男の人だと思っていたんですよね」
「あ、ああ…ごめん、それは本当に…」
ライは、その話の流れで先ほどまで思考をぐるぐるとさせていた事柄に触れられて動揺を隠せなかった。
そういえば、この妹はアイクのことをちゃんと『お姉ちゃん』と呼んでいることに気づいた。そういえばそう呼ばれていたことがあった気がするようなしないような、と記憶が曖昧だったが。彼女と接する時間はアイク以上に少なかっただけにはっきりとしていない。
「ううん、いいんです。それでも大事に思っていてくれていたようで。お姉ちゃんもきっとライさんのことは…」
彼女はそう言って、安心しきった寝顔を見せるアイクに目をやり、穢れのない瞳でライに視線を向ける。
ライはそのあまりにも穢れのない瞳にぐうの音が出そうになった。
「あああ…ははっ、ところで…」
どう返せばいいか途方に暮れそうだったので、話題を転換する。
「なんでこいつ…アイクは男言葉を使ったり、そもそも傭兵やってたり…とか女らしいところが全然ないんだ?」
純粋に疑問に思ったことを口に出してみた。
「それは…私のせいもあるんです…」
彼女は父母が狂王のいるデインから持ち出したという青銅のメダリオンの守り人だった。母と同じく、その穢れなき正の気で常人が触れれば精神が崩壊して暴走するというそれに触れることができる。母は他界しているため彼女が今まで肌身離さず保管してきた。
「その正の気が乱れるといけないというのでお父さんは私に剣を持たせることはありませんでした。今、私が帯剣しているのはあくまでも護身用です」
傭兵稼業をしていたアイクたち一家だったが、彼女は女であるというのとその事情により剣を握ることはなかった。
「でもうちは傭兵団として暮らしていました。戦いに出られない人間を何人も抱える余裕はなくて…」
それでアイクは剣をとったというのだ。
「お姉ちゃんは魔道の才能もありませんし、セネリオみたいに頭を使う方面に優れているわけでもありませんし…家事もあまり得意ではないし…」
食べていくために、選択肢はなかった。幸い、剣技の才はあったので父親の厳しい訓練の元、腕を上達させていった。
「お姉ちゃんも…女の子なのに、って思ったけどああいう性格だから剣を持っているほうが性に合っているみたい。それに負けず嫌いだからいつもボーレやシノンを倒すって言ってた」
同じ傭兵団員の男たちにも対抗心を燃やしていたようだ。特にボーレは年の近い男で身近な相手であり、ともに訓練することが多かった。シノンは弓使いであり年も離れているが、何かとアイクに悪戯をしたりからかったりしていたため因縁が深い。
「男言葉なのもそのせいみたいで…。小さいころからそうだったからずっとそれが抜けないみたい。それで本格的に傭兵になってしまったから今さら女の子らしくもできないのかな…」
母親がいなかったというのも大きいかもしれない。傭兵団の男たちに囲まれて男手で…しかも食べていくため男同様に育てられたために。女性の副団長もいて女性としての最低限のことは教えられたようだが、実母ではないため団長である実父の教育方針に口出ししていいものか彼女は判断しかねたので、特に言葉遣いなどを矯正されることはなかった。
「私はティアマトさんにいろいろ教えてもらったけど、お姉ちゃんは胸にさらしを巻くことくらいしか教えてもらわなかったのかな…」
妹はこうして女性らしい振る舞いを身につけて成長している。
「お姉ちゃんもきれいにすればすごく可愛いのに。お母さんに似ているからきっと。でも邪魔だからって髪も短く切っちゃった。ライさんに会うちょっと前くらいまで少し伸ばしてもらってたんだけど…初めての戦のあとに切っちゃった。ライさんに見せてあげたかったな…」
いきなり自分の名前が出てきてライはびくりと反応した。
「あ、ああ…こいつらしいな…。しかしどうしてこいつがこんなんなのはミストちゃんのせいでもあるって?」
動揺しつつライは方向を修正しようとする。
「あ、ええと…。もし、お父さんも誰もいなくなったとしても、私たち二人きりになったとしても…生きていけるように、お姉ちゃんが私を護るって。だからもっと強くならなきゃって」
そう語る彼女の瞳は少し潤んでいた。
「そうか…」
ライはそれだけを言うと言葉を続けることができなかった。
「でも、私はお姉ちゃんに幸せになってほしい。できれば誰かお姉ちゃんを大事に想ってくれる人が現れればいいなと思っているけど…。お姉ちゃんはそんな奴はいないだろうとか、剣一つで大丈夫とか言っているけど…」
そこで彼女は顔を上げてライをじっと見つめる。
「…ライさん、お姉ちゃんをよろしくお願いします」
ライは一瞬卒倒しそうになった。
(ちょっと待て…!!)
「さっきもお姉ちゃんを休むようにってここまで引っぱってきてこうやって介抱してくれたし…。お姉ちゃんも気を許しているみたいでよく眠れているし…。ライさんって本当にいい人ですね」
何の疑問も抱かず、そもそも自分がラグズだということにも触れず、この妹はライに全面の信頼を寄せて姉のことを託そうとしている。
この純粋な瞳に見つめられると、ライは少なからず性的な誘惑に負けてアイクの胸に素手で触ってしまったことに罪悪感すら感じてしまった。
(やっぱり姉妹なんだな、こういうところがそっくりだ)
素直で純粋、目の前の相手のことを信じて引き込ませる。それが危なっかしいと思わせる要素であるが強さでもある。
「あ、ああ…放っておけないからな…」
ライがそう言うとミストはにっこりと笑っていた。
「そうそう、ライさんにだけ教えてあげる」
ミストはとっておきのものを持ち出すようにそう言う。
「え?」
「お姉ちゃんの…アイク、っていう名前…本名じゃないの」
その言葉にライは目を丸くした。
そういえば、アイクという名前も男だと思い込んでいた要素の一つであった。この名前は明らかに男名前であるからである。
「今は…私しか知らないはず。傭兵団のみんなも知らない」
「…なんていうんだ?」
ミストはそっと耳打ちするようにライにその名を告げた。
「ふふっ、その名前で呼ぶのはお姉ちゃんと二人きりの間だけにしてね。お姉ちゃん、すごく恥ずかしがるから」
外はすっかり暗くなり、野営の炎がぽつりぽつりと燃えるだけになったころ、アイクはふと目を覚ました。気温がすっかり下がっていたが、肌寒さを感じなかった。傍らには大きな青猫がいた。それを目にすると思わずその青猫に抱きつく。獣の体温と体毛がこの上ない暖かさをもたらす。そのまままた眠りに落ちそうになる。
が、青猫は少し動きアイクに離れるよう促す。そしてその姿を人型に変える。
「ふぅ…やっぱ一晩中ってのはちょっとキツイな」
その青猫は化身していたライだった。化身していない姿が本来の姿であるため、猫の姿を長時間保つのはよほど力が漲っているときでなければ困難である。
「ライか。…すまんな」
「いやいや。怪我した上に風邪ひかれるとオレの監督不行き届きになってしまう」
ライは伸びをしながらそう言い放つ。
「別に誰に頼まれたわけでもないだろ」
アイクはそうそっけなく返す。
「そうつれないこと言うなよ、オレがやりたくてやってんの」
「そうか」
表情の変化に乏しいアイクだが、少しだけ口端が上がっていた。
「二人きりのときくらい甘えていいぞ」
そう言ってライはアイクの肩をぽんぽんと叩く。
「なんだよ急に。言っておくが俺は女だからって誰かに護ってもらわなくてもいいからな。おまえも危ないときがわりとあるだろ。でもおまえの親切はありがたいと思うぞ」
「ははっ、ありがとう、どういたしまして。いいんだそれで」
ライは笑顔でそう言い、ぐっとアイクを抱き寄せる。
「な、なんだ」
「うん、やっぱりおまえの匂いはいい。オレもおまえに助けられてる。お互い様だ」
アイクは特に抵抗することもなくライに抱きかかえられる。
「でもな、あまり無理すんな。な、アイジェリーク」
その名を呼ばれたアイクは思わずライを引き剥がして突き飛ばす。
「なっ…なんでだ! どうしてその名前を…っ」
アイクは赤面しながら動揺している。
「おおっ、そんな顔もするんだ」
「うるさいっ!」
そのままアイクはライに背を向けてしまう。
「ミストちゃんに教えてもらった。大丈夫だ、おまえと二人きりのときしかそうやって呼ばないから」
「呼ばなくていい! …くそっ、ミストのやつ…」
「なんでだよ、ミストちゃんはお姫様みたいな名前でいいなあって言ってたぞ。いい名前じゃないか」
ライはそう言ってアイクの肩に手をかけるがアイクは不機嫌そうにその手を払いのける。
「親父がその名前つけたらしいんだけど…自分でつけたくせに呼びにくいからってアイクって呼んでたんだ。ずっとそれで呼ばれてるからその名前で呼ばれ慣れてない。それに俺には似合わない。」
聞けば、そういう理由だった。それを踏まえて妹のミストは呼びやすい名前を付けられたようだ。アイクという名が男名前であることには気づいていなかったらしい。
「そんな名前つけたから余計がっかりだろ、俺がこんなんだから」
アイクがそんな言葉を吐き出したのと同時にライは背後からぐっと抱きしめる。
「そんなことは言うな。言っちゃダメだ」
ライがそう言うとアイクは抵抗もできなかった。
「いいさ、おまえはアイクだ。他の何者でもない」
自分がラグズだということを受け入れてくれたように彼は彼女がそう生きてきたことを受け入れよう、そう思った。
「…ライ」
彼女は小さな声で彼に呼びかける。
「見守っていてくれないか」
彼は確かにそうその言葉を聞いた。表情が見えないのが惜しい、そう思った。
「ああ」
彼はただその一言を返す。
そして、ここから始まる。
─続─