その足で立つ「一度は捨てたこの命、貴方に捧げます。私の主は王女でありますが貴方の指令は王女の君命そのものです」
彼の膝元には一人の将軍位の青年が膝まづき、恭しく礼を述べていた。
彼が率いる軍は、クリミア領内デルブレーにて、デイン軍の進攻を食い止め、クリミア戦疫の生き残りである遺臣の救出に成功した。その遺臣である将軍位の青年は、彼の主君であるクリミア王女が身を置く軍の行軍のための囮となり、その地で果てる覚悟を決めていた。
「頭を上げてくれ、ジョフレ」
彼は青年にそう告げた。
「貴方の慈悲に感謝致します。そして我が主の願いを叶えるとともに私めの命、ならびにこの領内の者の命を救われ、この程度の礼ではし尽くせない限りで…」
クリミア王都解放を目指す彼らの軍はデルブレー領を経由し、ジョフレらの隊と合流し進軍する手筈になっていた。しかし、クリミアの残党としてその存在が露呈してしまったため、デイン軍に襲撃を受けようとしていた。彼の主であるクリミア王女が彼らの救出を望んだ。しかし先に合流した王女の腹心は彼らの隊を囮とし、進軍するという案を強く推していた。
叙勲を受け、解放軍の総指揮を担っている彼は王女の意向を汲み彼らの隊を救出へ向かうことを推し、実行に移した。
「俺は傭兵だ。雇い主の意向を汲み取ったに過ぎない」
彼はそう言い放った。
そう言う通り彼は元々市井の傭兵であった。デイン軍の襲撃から逃れて行き倒れになっていたクリミア王女を救出したところから雇用関係が発生したのである。
「そもそも、貴方は我が主の命をも救われた。そして今や貴方は王都解放の求心力で有られる。この命、貴方へ捧げます、マイロード」
膝まづいたままジョフレは彼の手を取り、手甲の上から口付けた。
「いや、そんなことはしなくていい。命を捧げるとかそういうことは言うな。ただ無事でいてくれ。せっかく助かった命だ。エリンシアを泣かせるな。あんたらは乳兄弟なのだろう。それに、俺にはこの剣があるから」
彼はそう言い、その手を鞘に収められている剣の柄に伸ばした。
それを目の当たりにし、ジョフレははたと息を飲んだ。彼がその剣で戦場を駆け抜け道を切り開いて己の元まで到達したその姿が脳裏に蘇る。総指揮をとりながらも自らその剣技にて華麗ともいえる太刀捌きを見せていた。
「アイク将軍、貴方は戦神かのように強く輝いておられる。しかし貴方のその手を傷にまみえさせることを少しでも無くしたい」
ジョフレは真っ直ぐな瞳でそう彼に告げた。
「…そうか」
彼がそう答えるのに少しの間があった。
「その申し出、有り難く受けさせて貰う。互いに傷は少ない方がいいからな。俺もあんたが危ないときには手を貸そう」
そう言い、彼はすっと手を目の前の青年に差し出した。彼は何も言わずその手を握り、彼の強い瞳を見つめた。そうすることが彼に対しての最大限の敬意を表するに値すると思った。
そして、青年は彼に強く惹かれるものを感じた。
「…ケッ」
その一部始終を軍の中核である傭兵団の面々が見ていた。皆、団長と将軍のやりとりを感慨深げに見ていたが、ただ一人面白くなさそうに見ていた者がいる。
(あの貴族野郎、歯の浮くようなこと言いやがって。あんなガキ、ごたいそうに持ち上げて何か企んでやがるのか)
そう心の中で悪態をついているのは昔から彼とは犬猿の中と言われてきた射手の男だった。何かと彼に対しては反発的で、気に食わないという態度をとっている。
彼の妹が一連のやりとりを見て、騎士であるジョフレの立ち振る舞いに憧憬を抱いたと漏らしていた。
(お貴族様の仲間入りかよ、おめでてぇな。吐き気がするぜ)
男がそう苛々している間にも、彼は傭兵団の皆の元へ戻ってきた。改めて無事を喜び合い、彼は皆を労っていた。
こうしてアイクを総指揮者とするクリミア解放軍に遺臣が合流し、王都奪還へ向けて進軍していく。その道中のこと。
ある日。
軍議が終わり、アイクは天幕から出てひとつ伸びをした。
「いよいよ本格的に王都へ向けて進攻ですね。ますます気が抜けません」
アイクへそう声をかけるのは、ジョフレだった。彼も騎士団を抱え、クリミアの地を識る者として軍議に出席していた。
「そうだな。まだあと一山も二山もあるが、それを越えれば目前だ。そのときのためにこの腕を鈍らせてはならない」
その凛々しい双眸がきりりと強い意志を見せていた。ジョフレはその表情を目にし、頼もしさと意志の強さを感じていた。
「ときにアイク将軍、これからの予定は?」
ジョフレは柔らかな笑みを湛えてそう彼に問い掛けた。
「だから…将軍とかって付けずに呼んでくれって言っただろ。堅苦しくて好きじゃない。あんたのことだから、人前では体裁もあるだろうから仕方ないけど…他に誰もいない場所では呼び捨てでいい」
アイクが少し眉間に皺を作りながらそう言った。
「あ、いえ……はい。では…アイク殿、と」
少し動揺しつつジョフレは彼のことをそう呼んだ。
「まあいい。あ、そう…これからだが、軽く訓練しようと思う。よかったらまた付き合ってくれないか」
ちらりと己に向くその視線が不思議と惹きつけられるものを感じるとジョフレは思った。年の頃が十ほど離れている彼はまだ成長段階の最中で、目線はジョフレより少し下くらいだ。僅かに上目遣いになり、整った形の澄んで大きな瞳が彼を向いている。
そうしてもたらされるのは戦いのための訓練の誘い。ジョフレはその指名が自分にくることを嬉しく思った。
「はい、喜んで」
ジョフレは馬上から訓練用の槍を彼へ向けていた。彼は騎乗せず、地に足を付いて応戦する。それも槍ではなく剣で。
(これが鍛練と実戦を積んだ上の賜物…!)
常識的には、歩兵に対して馬上からの槍による攻撃は、特に剣士へは抜群の相性を誇るはずだ。その常識が適用されないが如く、アイクは流麗にその槍を剣筋でいなし、間合いを詰めてくる。
己を救出せんとこの剣技で駆け抜けて現れ、鮮烈な印象を己に与えたのだとジョフレは思い返した。
そのときは馬の脚を狙い、バランスを崩させ騎手を落馬させたりもしていた。今もこうしてそのときの動作をしにかかる。しかし、必ず寸手で止める。
(なんという腕前…余裕そのもの…!)
彼に馬を攻撃する意志はないと見る。そうであればそれは余分な動作である。馬へ攻撃しないのとそのような動作を入れるのは、訓練だからだ。それを聞かずして理解できるのはジョフレもまた実力者だからである。
卓越した手綱捌きと槍術によって四方八方へ彼を追いやるも決定打を繰り出せない。これが実戦であれば逆に、一旦退いて指示を出し数人掛かりで仕留めにかかるであろう。それほどまでの腕の持ち主なのだ。
少しそのようなことを考え、意識が逸れた隙を捕らえられたのかジョフレはアイクに訓練用の剣の面で思い切り背を叩かれた。一本取られたのである。
鎧の上からとはいえ背中がじんじんと痺れた。これが重みのある真剣であれば背を砕かれていたかもしれない。いや、そもそもそのときは実戦であろうから落馬させられるのが先か。
(この力…一体どれだけの鍛練を積んできたというのか…)
少し前にどのように鍛練を積んできたかという話題になったときに聞いたことがある。彼は父親から気絶するまで訓練を受けていたという。それはどれほど壮絶なものだったのだろうか。その結果が今ここにあるのだろうが。
(……これが、傭兵という生き様なのか)
軍人として訓練を受けてきたジョフレだが、その力は君命を全うするための力。ある種の陶酔すら抱いて魂の有り様をそこに見出していた。それが原動力だ。そしてアイクの気迫からはそれとは違う種のものを感じた。ただ生き抜くための力。
ジョフレはさっと下馬し、アイクに一礼した。アイクもそれに気付いて礼を返す。そして馬の方に寄り、馬の身体を触りながら何かを確かめるようでいた。
「うん、大丈夫だな。よしよし。おまえも付き合ってくれてありがとう」
彼はそう馬に話し掛けながら優しく撫でていた。そして首筋に頬を付けて片手で抱えながら何か話し掛けるでもなく、心だけで会話しているように見えた。
訓練だからと馬へ攻撃を与えなかった彼。しかし訓練なので実戦さながらの戦法をとらなければ意味がない。そうして自然と先程の所作で対峙するようになっていったのだが、普通に攻撃を与えるより遥かに高度なことだとジョフレは感嘆するほかなかった。
(奇跡のように強く…そして優しい)
彼がそうして馬と触れ合う姿を見て、ジョフレは高まる胸の鼓動を感じた。
(本質的には慈愛に満ちた心を持つ。そして誠実だ)
勇壮な彼は魅力的ではあるが、手を血に染めないでいて欲しいとも願った。
「アイク殿、我が愛馬への労いも有難うございます」
ジョフレはそう口火を切る。
「ああ、いや。こちらが礼を言うべきだ。こいつはいい馬だな。あんたとは一心同体って感じだ」
アイクは少し笑んでそう返す。
「これでもこいつは…結構荒々しく、慣れるまでにかなりかかりましたよ」
「そうなのか」
アイクは馬の首を撫でながら少し目を見開いていた。彼に首を撫でられている馬はブルルと鳴き、おとなしい様子を見せていた。
「こいつにも分かるのですよ。貴方が優しいひとだということを」
真っ直ぐな瞳でジョフレはそう彼へ言い放つ。
「そうか?」
小首を傾げてアイクは返した。ジョフレはそんな彼が歳相応に幼げで可愛らしさすら覚えた。
「……そうです、こいつに乗って少し遠乗りといきましょうか? 以前、少しは乗馬できるようになりたいとおっしゃっておりましたから」
その提案にアイクは顔を綻ばせる。ジョフレは嬉しさを感じた。
「まずは私が手綱を持ちます。貴方もともに乗って感覚を掴んでいただけると…」
「悪くないな」
少し口許を上げてアイクはその提案に乗った。
そして、ジョフレに手を引かれ騎乗する。高くなった視線に新鮮さを覚えた。その瞬間の表情はある種の愛らしさがあった。ジョフレはそれを見ることはかなわなかったがそれを目にした者がいる。
「………」
草むらの陰に潜み、一部始終を眺めていた男が一人。その男はぼりぼりと腕を掻いていた。
(貴族ぶって遠乗りってか……。いいご身分だな! 何浮かれてやがる)
鳥肌が立っているとでも言いたげに男は腕を掻く。
(あの貴族野郎、何が面白くてあいつに絡んでるのか)
騎乗した二人の姿が遠くなる。
(っていうか、野郎二人で馬に乗って楽しいのかよ……)
男は何故か苛立ちを感じる。
「いかがですか、アイク殿?」
「ああ…いいものだな。初めて乗ったわけじゃないが、やっぱりこんなに視界が開けているものなんだ。戦局が見渡しやすそうだ」
馬上にて、ジョフレがそう問うと彼はそう返す。戦のことに関連付けた返答なのがらしいと思った。しかし、少しは…せめて今だけは戦のことから離れて欲しいと思った。一応、遊戯で乗馬に誘ったわけではないのでそれは矛盾しているのだが。
「そうですね、指揮をとるには有利と思われます。高い位置からの方が声も通りやすいです」
「俺も…騎乗するべきか」
すっかり、手綱捌きを覚えた彼は手綱を握りながらそう呟いた。
「いいえ、貴方には貴方の戦いやすい方法があるでしょう。その剣捌きは地に足をついてこそ発揮されるものですね」
ジョフレはそう穏やかな口調で返す。
「そう言ってくれるか。そうだ、俺はこんな…馬に乗りながら剣を振るうなどということはたぶん、向いてないと思う。でも、こうやって馬に乗れると何かと便利そうだ」
「ええ。旅の供などにはとても。この戦争が終わって…平定が訪れたら、旅とまではいかなくとも遠乗りをしませんか?」
そう口が開くジョフレは自分に軽い驚きを感じる。こうしてアイクへ好意を示す自分に気付いた。豪傑とも称される元は市井の傭兵へ抱く興味。歳が離れているせいなのか、庇護欲が涌いているようだ。甲斐甲斐しく世話をしたくなる。そういった気を起こさせる不思議な魅力があると思った。
「ああ、いいかもな。皆で少し遠くまで景色を眺めながらいくというのは。エリンシアも馬には乗れるんだったよな。クリミア奪還を成し遂げたとして、復興も大変だろう。そんなときにそういう息抜きがあるといいだろうな」
そう返されて少し落胆してしまったジョフレはまたそんな自分に驚いた。遠乗りの誘いは二人きりで、という意味を無意識に込めていた。まるで女性への誘い掛けのようだった。そしてその返答が皮肉にも女性の遠回しな断りの返事のようだったが、きっと彼は素でそう返してくれたのだろう。
(我が主君を気遣うこの心…ますます貴方の素晴らしさを知ることができた)
ジョフレは肩透かしを食らった気分だったが、ますます彼への興味を深めた。
「早く、そんな日がくるといいな」
その言葉は彼から発せられるとどれほど重みが増すだろうか。身を粉にして祖国奪還のために戦う彼。躰の傷は見たことがないが、腕と手を見れば分かる。細かい傷が常にある。その腕はまだ成長の余地を見せており、太いとは言い難いが、骨太さを感じる。美しい筋肉が乗っていた。その腰はまだ完成形ではないが、引き締まっており、安定感を感じさせる。戦士としての素質を窺い知ることのできる体つきだった。
その腰……ジョフレは、はたとそれに気づく。背後からかなり密着した状態にあるのだ。手を回したら簡単に触れられる、抱きしめられる。
「はい。貴方のご尽力、心より感謝いたします」
ジョフレは声を揺らすこともなくそうすらりと返した。しかし、内心そんなことを思ってしまった自分に嫌悪感を感じていた。
「…いや、まだこれからだ。もっと、力が要る」
少し思考が飛びかけていたジョフレはアイクのその強い意志を含んだ声に急に引き戻された。
「明日は、弓を使っての訓練を頼む。馬上からの弓だ」
「弓…ですか」
「そうだ。団にも弓使いはいて訓練をしたことがないわけではないが、馬上から射る者はいないからな。あんたは弓も使えるんだったよな」
あくまでも軍人たる彼のその態度。彼自身はまさかそこに色香が存在するとは思わないだろう。力強さ、そしてそこに内包する危うさ、少年と青年の狭間。
「はい、訓練で使用するのが主であまり実戦で用いたことはありませんが…このような腕でよろしければお相手させていただきます」
「そうか、十分だ。あんたなら」
──憧憬と庇護欲の相混じったこの感情
それだけなのだろうかと彼は思った。
翌日──
アイクは庶務と自主鍛練を終えた後、ジョフレを伴って弓騎兵との対戦の訓練をする。
相当な間合いを取って手合わせが開始される。ジョフレは弓を射るごとに離れ、アイクから間合いを詰められないようにしていた。弓騎兵は接近されたら反撃の術を持たないからだ。
さすがに人の脚で馬の脚に追いつくのは無理がある。ジョフレが弓を番える時が一番の勝機と言わんばかりにアイクは駆け、間合いを詰めにかかるが、すぐに矢が飛んでくる。そしてすぐにまた間合いを開けられる。
実戦ではそもそも弓騎兵に対してこのような戦いをすることはない。弓騎兵はあくまでも後方部隊で、歩兵と正面から対戦することはないのだが、対峙することになればこのような戦いになるのであろう。
アイクは何故、敢えて実戦ではあまり機会のないであろう弓騎兵との対戦を想定して訓練をしているのか。それは、いかなる状況にも対応できる判断力を養うためだった。それに奇襲をかける際、背面から後方部隊を潰しにかかる機会もあるだろうと。
射手との訓練は経験があった。ただし、それは歩兵であるため、間合いの取り方が違ってくる。
いずれも接近戦に持ち込む必要があるため、アイクは飛んでくる矢を回避しながら前へ進んでいくほかなかった。特に一対一の訓練だからこそであるが。
(意味あるのかよこれ…)
この訓練の様子を陰から見ている男が一人。
(だいたい、弓騎兵とタイマンする機会なんてそうあるもんか。ありゃ隊を組んで遠くから次々に矢を放ってナンボだろ)
心の中でそうケチをつける。
(それに…弓使いってやつはこうやって陰から狙うもんだぜ…)
男は自分の得物を構える仕種をする。
こうして潜伏している弓兵を始末するのが歩兵である剣士の仕事でもあるのだが。そして男はさらに陰から彼が契約を結ぶ暗殺者の目が光っていることを知らない。
(あいつはバカだからなんでもかんでも訓練しようとしやがる。まだオレと訓練してるほうが実戦で使いようがあるだろうが)
男は彼に訓練を頼まれたらとりあえず嫌そうな顔をするのに、そう心の中で呟いた。
「!」
ジョフレの矢が彼の膝下に当たった。男はそれを目にして思わず目を見開いた。
(ち…ありゃわざとか、外したのか…! 確かに脚を狙えばいいだろうがよ…)
男は無意識に、矢を放ったジョフレへ小さな怒りを感じていた。
もちろん、鏃は抜かれている訓練用の矢だった。しかし、なまじある程度間合いを詰めて距離が近かったためにその勢いを受けた矢が彼の脚に当たった。
それでも彼は痛みを見せようとせずに前へ進もうとする。しかし明らかに速度が落ちる。
「アイク殿、今日の訓練はこれで終わりにしてください!」
ジョフレの声が響く。それでもアイクは進もうとする。それを見てジョフレは咄嗟に馬から飛び降り、両腕を広げて静止するよう訴える。さすがにアイクもそれを見ると足を止めざるを得なかった。
静止した途端にアイクは息を荒くして呼吸を短く繰り返し始めた。馬の脚に追いつこうと駆け回っていたため、息が切れかかっていた。回避力が鈍ってきたのはこのせいでもある。
「…申し訳ありません! このような怪我を負わせてしまうなどと…」
すかさずジョフレが駆け寄ってくる。胸を手で押さえながら荒い呼吸を繰り返す彼はちらりと彼に目をやった。
かなり必死に手綱捌きを繰り返し、弓も無我夢中といっていいほどの勢いで扱っていたジョフレだった。ぴたりとついてくるように彼は猛攻を仕掛けてきた。弓を番えているときに追いつかれて一撃を食らうかと思った。人間離れすらしていると思った。
しかし、このように息が乱れているところを見ると、やはり人間なのだと思った。
「謝ら…なくて、いい…っ。俺の…力…不足…」
彼は息を切らしながらそう応える。そしてそのまま歩いて陣地へ戻ろうとする。矢を受けた脚を庇うようにして不自然な歩き方になっていた。
それを見たジョフレは何も言わず、彼を抱き抱えた。
「私がお連れします…! 無理をしないでください…!」
「いや、いい。降ろしてくれ」
彼は急に抱き抱えられたのにも関わらず、冷静にそう返した。
(なんだあれは……)
物陰の赤毛の男は、彼がそうやって騎士に姫抱きされている光景に奇妙なものを感じた。男同士なのに、と。しかし彼はそれを拒否する。それに何故か少し胸がすくような気を覚えた。
そういえば。
似たようなことがあった気がする。
──数年前
まだとても実戦に出ることのできないほどの実力だが、アイクは日々鍛練を重ねていた。父親から受ける訓練のほかにも自主的に試行錯誤していた。
あるとき、目先を変えてみようとシノンに訓練の相手を頼んだ。たいてい嫌な顔をされて断られるのだが、シノンはたまたま気が向いたので暇潰しにでも相手をしてやろうと思った。
まだまだ実力差もあり、実戦経験も違い過ぎるほどの差があるのだが、日々の鍛練の成果を試したいとアイクは思った。少しは太刀打ちできるだろうかと。
「お前、誰にも言ってねぇだろうな?」
「…言ってない」
「言うなよ。あとでどやされるのはオレなんだからな」
彼の父や副長は彼とシノンが手合わせをすることを認めていない。まだ基礎も固まっていないのに、応用ともいえる射手との手合わせはまだ早いとされている。
シノンが彼との手合わせを嫌がるのは団長や副長に注意を受けるからというのが大きかった。こうやって彼から頼まれても受けるなと言われている。
「バレたら全部俺のせいってことでいい」
彼は強い意志を見せてそう彼に言い放った。そうは言っても年長者の責任ということになってしまうのだが。
(ったく、これだからガキは…。まあ、一度やってやらねえとわからないようだな。たまには面白いかもしれない)
シノンはひとつ息をつく。
「やるからには容赦しねぇからな。二度とそんな口聞けないようにしてやらぁ。…来い」
そう言ってくるりと背を向け、雑木林の奥へ入っていく。アイクは訓練用の剣を握り、目を輝かせてそれを追っていった。
(俺はシノンを倒す…!)
この男が彼にとって手近な目標であるのだ。
少し開けた場所に出てきた。
「さあ、ここらでおっぱじめるとするか。いいぞ、かかってこい」
シノンはさほど間合いを取らずにアイクへそう開始の旨を告げた。アイクはその様子を見て見くびられているのだと思った。射手が距離を開けないで剣士と対峙するということは相当な自信なのだろう。
「くそっ!」
すでにその時点で悔しさを感じていた彼は短く声を漏らした。そして剣を構え、素早く向かっていく。
「やっぱりまだまだだな!」
シノンはアイクの攻撃を難無く回避する。
「うっ!」
シノンはするりと彼の懐に入って背に肘鉄を食らわせた。それに怯んだ隙に駆けだしてあっという間に間合いを取る。そして流れるように弓を構え、牽制の意味で一発矢を放った。彼の足元に突き刺さる。
「てめぇはまだまだオレに勝てねぇんだよ! これで分かっただろっ!」
挑発ともとれる言葉を投げ掛ける。それを耳にしたアイクは奥歯を噛んで眉を吊り上がらせ闘志を燃やす。剣の柄を握る手に力が篭った。
「ただ真っ直ぐ向かってくるしか能がねぇな!」
その言葉通りアイクはただひたすら追いつこうと駆けていく。
「逃げるな!」
思わずこんな言葉が口から出てくる。
「馬鹿か! そう言われて間合いを詰める弓兵がいるかっ!」
その言葉とともにシノンはもう一発矢を放つ。本数に限りがあるので最小限の発射に留めていた。またしても彼の足元を狙う。彼は寸手で回避する。
「はっ! しゃらくせえ! …ん!?」
シノンがもう一度矢を番えた瞬間、アイクは思わぬ行動に出る。足元の石を拾ってシノンへ目掛けて投げ付けた。
「くそっ」
咄嗟にそれはかわしたが、その隙をついて彼は一気に間合いを詰めてきた。そして叫びを上げて剣を振り下ろす。無我夢中、といった言葉がよく当て嵌まるような様子だった。石にかじりついてでも目の前の敵を撃破しようとする気迫。それだけは実力以上のものがあると思った。
少し冷や汗をかいたシノンだったが、彼が大きく剣を振り上げた瞬間さっと屈み、蹴りで彼の脚を払った。均衡を崩した彼は大きく転倒する。
「まだだっ!」
痛みも忘れ、といったふうに彼はそれでも立ち向かう。すぐに立ち上がり、再び剣を彼に向ける。
「てめぇ、実戦ならすでに死んでるんだよ! さっさと大人しくなりやがれ!」
再び間合いを取ったシノンがそう叫び、次の一手を打つ。そしてそれは彼の脚に当たった。
「…っ!」
鏃を抜いてある矢が彼の脚をえぐった。さすがに刺さりはしないが多少、出血の伴う傷を負った。思わずその場に座り込んでしまう。
「これで終わりだな。戦場では動けなくなった時点で死んだと同じだ。オレはもう戻るからな。てめぇも勝手に戻れ」
そのままシノンは背を向けて砦の方へ戻っていく。
アイクは悔しさを噛み締めながらゆっくりと立ち上がった。転ばされて打った痛みも残っている。それでも自分の足で歩いていく。
確かにそうだ、歩けない戦士など戦場では死んだも同然。
父がまだ自分を実戦へ出さない理由がよくわかったと彼は思う。こうしてはっきりとは言わないがそうなのだろう。副長もそれをはっきり言わない。いつも「あなたがもっと強くなったらね」とそれだけを返される。
彼は自分の浅はかさと実力不足を思い知った。そして悔やんだ。それを教えられた赤毛の男に対して恨みはない。こうして置いていかれても。一人にされても。
よろけながら歩いていく。歩く速度は明らかに普段より遅い。男の歩く速度は普段の自分よりさらに早い。しかし男の姿は遠いながらも目の届く範囲にあった。こうして歩いている間ずっと。
たぶん、まだ見えるところにいるだろう。
シノンはさっと振り返り確認するとアイクの姿を見つける。気づかれないよう、すぐに前を向くのだが。
(くそっ、また団長とかに怒られる)
彼と訓練をしたこと、そして怪我を負わせたこと。
(あいつなんかボーレと取っ組み合いでもやってればいいんだ)
シノンはそう胸の中で悪態をつく。もっと歳が近い相手と鍛錬していればいいと思った。
(あんなのが一緒に仕事に来られちゃ邪魔で仕方ない)
胸がざわざわとしてきた。どうしてこんなことを思うのか。
彼は天涯孤独の身で、幼い頃から食いつないでいくために軍に入り訓練を重ね戦場を渡り歩いてきた。そのため、子供だからという理由で志願している者に留守番をさせるのは心情的にはあまり好きではなかった。
自分の足で歩きたいと言う者の歩みを止めるのは好きではない。そして、子供が傷付くのを見るのは嫌だというのは大人の我欲だと思っていた。
しかし。
彼が戦場へ出たいという願いは好ましいものではない。
子供だから。いや、それは違う。
子供であろうが女性であろうが有能な者なら前線で活躍するべきだと思う。
彼はその理由に気付いている。しかし認めたくない。
(オレは…あいつが嫌いなんだ)
だからそう念じる。
しかし、彼の足に怪我を負わせて気が晴れたということはない。むしろ──
(あんな矢に当たるなよな。どうやってもバレるだろうが)
彼が足に怪我を負ったことによって責任を追求されるのが嫌だ…ということにした。
シノンはアイクの足元だけを狙って打っていた。鏃を抜いた矢とはいえ、顔や頭、胴に命中したらただごとでは済まなくなる。脚にもなるべく当てないつもりでいた。しかし、最後の一手だけは掠めるくらいに当てようと思った。そうでもしないと彼は諦めることをしなかったであろう。
しかし、その一撃も当たらないで欲しいと心の奥底で願っていた。
砦に戻ったシノンは急いで消毒液や包帯などを持ち出してきて大部屋の机の端に置いておいた。そしてそれを視界から外すようにして弓の手入れをし始める。
しばらくしてアイクが戻ってきた。そして机の上に置かれたそれらに気づいたようだ。そのままそれらを手にし、思索していた。
「さっさとそれで手当てしておくんだな。傭兵は体が資本だぜ? いつまでも怪我を放置したら命取りだ」
シノンはアイクにそう声を投げ掛ける。
アイクはそう言われて、椅子に座り座面に足を掛け、布に消毒液を染み込ませ傷口を拭い始めた。染みて痛いのか顔を歪めていた。そして包帯を手にしそのままぐるぐると巻き付け始める。
「バカか、ただ巻きゃいいってもんじゃねえ」
そう言いシノンは自分が腰掛けている椅子を勢いよく引きずりアイクの方へ寄せて自分も靴を脱ぎ、裾をめくり、アイクが怪我を負った脚と同じ脚を露出した。
「これはこうだ」
清潔な晒布をアイクが負った傷と同じ箇所に当て、きれいに包帯で巻き上げる。アイクはそれを見真似して包帯を巻き直す。
「違う! そんなんじゃすぐずり落ちる」
少し苛立った声でシノンはそう咎める。アイクはすぐに包帯を解く。シノンも包帯をすぐに解いてもう一度巻き始める。
「なにしてるんすか、ティアマトさん」
そんな二人の光景をそっと陰から眺めていた副長ティアマトの背後から声がする。ティアマトはその声の主へ、口に指を当て「しーっ」と言った。その声の主であったシノンの舎弟ガトリーは思わず口をきゅっと結び、ティアマトの視線の先を見てみた。
(なにやってんすか、シノンさん)
その視線の先にあったのは根気よくアイクへ怪我の処置を教えているシノンの姿だった。
いつもアイクにはきつくあたり、気に食わないとか嫌いだとか言っていた彼だった。ガトリー自身に対しても口悪く罵ったり叩いたりと手荒い扱いが多い。
しかしガトリーはそれでも彼のことを嫌いにはならなかった。むしろ慕っていた。
その二人の光景を見て、思い出す。いつも最後は酒を奢ってくれて付き合ってくれる。泣き言を言って返ってくるその言葉は荒いが、根気よく付き合ってくれる。
「見なかったことにしてあげて」
ティアマトがごく小さな声で囁くように言った。ガトリーはこくりと頷いた。
「自分の足で歩ける。いや、歩けなければ戦場では死んだも同然」
彼のその強い主張により、騎士は少年を地に降ろさざるを得なかった。地に足を付けた彼はしっかりとその足で歩く。
「ではせめて、その傷の手当てを私にさせてください」
ジョフレはそう志願する。しかし。
「いや、いい。これくらいなら自分でできる。救護班やあんたの手を煩わせるほどではない」
アイクはそう返した。
「傭兵は体が資本だ。自分である程度処置ができなくてはならない」
ジョフレは彼のその言葉に今まで彼が歩んできた道筋をそこに見た。それを尊重したいと思った。
「わかりました。ですが、少しでも異常がみられたら直ちにおっしゃってください。それこそ体が資本です。これは貴方の義務です…!」
それ以上自分ではどうすることもできないと思ったジョフレは、もどかしさから思わず強い口調になった。
「わかった」
そう返す彼の口許には僅かに笑みが湛えられていた。その柔らかな表情にジョフレは安堵とともに胸の高なりを覚えた。
(へっ、わかってんじゃねえか…あのバカ)
陣地に戻ろうと立ち去っていく二人の背を見つめながら陰の男は深く息をついた。なにか胸の中が満たされるような想いだった。
そしてそのまま座り込んで空を仰ぎ見た。
「ねえねえ」
「何?」
詰め所で歓談する少女が二人。
「またシノンってばお兄ちゃんのこと陰から見てるよね」
「そうだね~。さっき、ジョフレ将軍と訓練してる大将追っかけてったよ」
「よく飽きないよね」
「そうだね」
「ね~。シノンってさ…絶対お兄ちゃんのこと好きだよね」
「うん。悪いけどあたしでもわかるよ!」
そんな会話を繰り広げる二人の背後に影が差す。
「ミスト、ワユ…二人ともそれ、絶対シノンの前で言わないことよ」
そこに立っていたのはティアマトだった。
「うん。わかってる」
ミストがそう相槌を打った。
詰め所の外に耳あり。
そこに落ちた煙草の灰は足で地面に擦り込まれ消える。煙草の主である男はそれらの会話も情報の一つとして処理していた。
「おい、フォルカ何やってんだ。こっちにいたのか。話がある。仕事だ」
依頼主の声がする。男はちらりと彼が怪我を負ったであろう脚を見る。
「……おまえが鍛錬している最中、物陰に潜む弓兵の処遇はどうする?」
男は彼にそう持ち掛けてみた。
「それ、シノンだろ。放っておけ」
「了解」
─了─