ブルー・バード 3・昇華編扉は開かれた。
彼は歩む。
そこにいたのは彼らの未来を閉ざそうとする女神。
女神は失望していた。
争いを止めぬヒト。
ヒトは不完全であるが故にそれを改められず、
世界を不安定にし、脅かすという。
「人は……本当にどうしようもない馬鹿者ぞろいなんだろう」
彼は女神の前で自嘲するようにヒトの性を形容した。
あらゆる障害を乗り越えて彼らは『正の女神』アスタルテが鎮座する『導きの塔』の最上階へ登り詰めた。
アスタルテは大陸全土の人間を石に変えた。こうして彼らのようにまだ動ける人間が残っているが、再びその裁きを下し、ヒトの未来を閉ざすという。それは創世期からの誓約を実行したものであった。
アスタルテは『負の女神』ユンヌと元は一対であった。ヒトの争いを悲しみ、洪水を起こし、その原因であったユンヌが取り除かれ分離し、二人となった。
ユンヌはアスタルテに粛正された。エルランの働きかけにより消滅は免れたが、メダリオンに封印された。
ユンヌが封印され、眠りに就くとその影響によりアスタルテもまた眠りへ誘われる。彼女は永い眠りに就く。
そしてエルランに告げた。
千年ののち、ヒトが等しく繁栄し平和と秩序の世界を築いていれば正しき道を歩んだとして認める。そしてユンヌを受け入れ創始の神へ戻ると。
しかし、一方が富み栄え、一方が虐げられ、争いと混乱の絶えぬ世となっていれば裁きを行うと。
千年に満たずとして目覚めた場合は道を誤ったとし、これも裁きが行われる。だが、解放の呪歌による目覚めはヒトに談判する機会が与えられる。
そのような誓約であった。
エルランはヒトに絶望し、女神による裁きを求め、大陸全土に負の気を膨れ上がらせ、千年に満たない目覚めを促した。
しかし、完全に負の気でユンヌが目覚める前にエルランの末裔が解放の呪歌を謡い、誓約の通りの手順で目覚めさせた。
これを以てアスタルテと談判する機会が設けられるとユンヌが示したのである。
そうして彼らは対峙した。
しかし、アスタルテは彼らの訴えを聞き入れようとはしなかった。
「私が眠る間、人は変わらず争った。不完全であるがゆえの人の性質は、この先も変わることはない」
どのように時を経ようとも人は同じ帰路に至る、と切り捨てる。
それに対し、ユンヌは人の進化を止めてはならないと訴える。しかし、両者の意見は交わることはなく。
「だったらもう話すことはない。あなたを倒すしかないんだわ」
「おまえに私を倒すことはできぬ。私がおまえを倒すことができぬように」
対話は決裂する。存続を懸けた戦いが始まろうとする。
そしてユンヌはヒトの未来を願い、その力を彼、彼とともにこの場にいる者たちへ託した。
──その願いは、元々誰のもの?
それは「愛」だった。
アスタルテは彼を目にし、その思い出を蘇らせる。
一目で分かる。彼、アイクがかつて己の魂から生成したオルティナという娘の生まれ変わりであることが。
オルティナはエルランの唄から生まれた希望の象徴だった。物語上の女。
初めて人と人の争いを目にし、嘆いたときに慰みとして与えられた唄。彼女はその唄を好んで聴いた。
その唄が好き。その唄の謡い手が好き。
──愛、恋慕
それを形にしたのだ。
エルランもまた、彼女へ同じ心を抱いていた。彼らの願いは魂を生成し、肉を与え、一つの生命を誕生させた。
彼女は「公平」であろうとした。
しかしこうして生まれたオルティナという存在はそのこころと矛盾する。
愛とは究極の差別。
彼女はそれを望んでいたのだ。ひとりの女として──
オルティナはその望みも彼女より託された。
神ではなく、人として生きる。そんな願い。
人としての肉体を以てエルランと結ばれ、人として生きた。愛し、愛された。
そしてオルティナは使命を果たし、短い生涯を終えた。
(おまえは何故立ち向かう)
アスタルテは「アイク」に問う。
彼は、絶望に負け、狂ったエルランを征するというオルティナの意志により輪廻した存在。
(要らぬ、もう要らぬのだ。愛などというものは)
愛が憎しみを呼び、争いを生む。
ならば愛などなければいい。
ただ公平であることが秩序をもたらす。
それが「神」の在り方。
彼女は彼の存在を否定したかった。
彼の存在は己の愛の証
「俺は、いままで……どんなに勝ち目の薄い相手とでも戦い、最後には勝利してきた」
その双眸が女神を見つめる。
「俺には仲間がいる。守るべきものが在る」
彼もまた、彼の生きる糧を掲げ。
「俺の戦いは常に、かけがえのない物を掴み取る……そのための戦いだ!」
彼の炎が燃えた。
神の将としてユンヌより授けられし力。蒼炎となり燃えるそれはヒトが業として背負うもの。
憎悪、嫉妬、悔恨……負の気と呼ばれ、忌まれるもの。
しかしヒトはそれを糧にし、生きることができる。それは進化への道筋でもある。
「それだからこそ人は愛しい。私たちと同じく不完全であるからこそ人に惹かれずにはいられない」
ユンヌは半身へ語る。その愛を。
元は一心同体。その心はひとつであるはずだった。
違えた歯車の動きは、いつか精算しなければならない。
今がそのときなのだと。
戦いの火蓋が切って落とされる。
アスタルテは己の分身を生成し、防護壁とした。それは一度に完全破壊しなければ、攻撃時の衝撃がそのまま跳ね返ってくるというものであった。それと、アスタルテ本体から全域に被害の及ぶ攻撃が為される。
彼と討伐隊の精鋭達はそれに耐え、防護壁を破ろうとした。
「アイク! こちらは魔力の流れが緩やかです! 魔力攻撃のときはこちらが」
参謀セネリオが彼へ指南する。アスタルテの攻撃を退避し、僕である精霊と対峙しつつ、対処法を探っていた。
「わかった! 魔力攻撃に耐性のない者達はこっちだ!」
彼はセネリオの指南を受け、瞬時に判断し、指揮を執った。アスタルテとその僕の攻撃は全方位に及ぶため、身を隠すところもなく、常に戦闘状態であるため、セネリオも端的にしか状況、戦略を彼に告げることができなかった。彼はそれを拾い上げ補足し、指揮を執る。
「お兄ちゃん! これを」
ミストが聖杖を掲げ魔力防御の術を彼に掛ける。
「おう! アイク! 俺らが突破口を開く! おまえは一気に行け」
戦姿に化身した鷹王が高速で飛来し、精霊の攻撃を全てかわしながら戦場全体を駆け巡り攪乱していた。そして鷹王はその強大な力によって女神の防護壁を一気に崩すという。
「鷹の目をなめんな、そんなカウンターなど見切ってやる」
鷹王は彼へ方針を告げるとまたすぐに化身し女神を見据えた。
「オレも行く。魔力攻撃はちょっと苦手だけどかわせばなんとかなるさ。一気に決めるぞ!」
その敏捷さで駆け抜け、ライも鷹王同様前線へと向かった。
「……分かっているだろうがその力に飲み込まれるな」
かつて彼の影であった男が負の気を力として纏う彼へ忠告する。その力により暴走した彼の父、その事実を告げた男は彼の危うさを見てきた。
「まあ、今のおまえなら」
そう言い、男もまた彼の突破口を作ろうと前線へ向かう。
アスタルテの全体攻撃は繰り出されるまでに間があった。魔力衝撃と物理衝撃の周期がある。それを読み、対処し、耐え、次の一波の前を見計らって一斉に防護壁を崩しにかかった。
幻影が崩れ去る。
それはヒトとして生きる、未来を求める者達により打ち砕かれた。
その幻影と対峙した者達が見たのは己の姿。迷い、畏れ、そのような負の気に反応する。それに打ち負けるとき、己の攻撃が己の姿の幻影によって再現され、襲いかかるのだ。
しかし、皆、それに打ち勝った。
彼はそれを永い間己の内で繰り返してきた。
幼い頃、メダリオンに集積されていた負の気を己の内に取り込み、ともに成長してきた。そして、戦乱の中、膨れ上がるそれを飼い慣らし、耐え、英雄とも称される業を成し遂げた。
そして今、彼は再び立ち向かう。
「私の持てる力……すべてあなたに集めるわ」
「まかせろ、これで決める」
ユンヌは大陸中から集積した負の気を集め、彼へ託す。これはメダリオンに集積されたものより遙かに多く、神の力そのものといっていい。アスタルテと同程度の力を集中させ、その力を乗せた神剣を介し結合させる。
──正と負の結合
その橋渡しをするのが彼であった。
彼は正であり、負であり、そのどちらでもない
ヒトらしくあり、ヒトらしくもない
神の魂から生まれ、ヒトとして生きた。
憎しみも、悲しみも、喜びも、慈しみも、全て知っている。
彼に神の力が宿され、戦場は静寂に満ちた。
精霊は畏れ静まり、猛る戦士は神の御姿に目を奪われる。
蒼炎は彼を包み、彼に翼を与えた。
蒼い鳥──
そしてその鳥は高く天を舞った。
それは神の力に等しかった。
ヒトが背負う業ではなかった──
負の女神が大陸全土から集積した負の気。
それは、只のヒトが抱えたのであれば精神は崩壊し、肉体も破壊されるだろう。
彼はそれを背負った。神の将、器として。
(俺は……俺だから……)
内側からその存在を消されそうだった。黒く塗りつぶされ、掻き回され、押し潰され、捻じ曲げられ。
しかし彼は堪えた。
どれほど貶められようとも、痛めつけられようとも、苦渋を迫られようとも、それも己の一部であると認め、受け入れる。
そしてその翼は開かれた。
身に纏ったもの、彼の肉体全てが分子となり神の力と融合し、再構築される。
腕には荊、それは神剣と彼の体を繋ぎ力を巡らせる。蒼穹の鎧を纏い、蒼炎で編まれた翼を背に。
「あ、あれは……」
その姿を目にしたものは言葉を失う。
それは超常現象。神のなせる業。
「あ、アイクの奴、何かすげえ姿に……羽生えてる……?」
ボーレが呆けた顔で指を差し、異形の彼を端的な言葉で形容した。
「……お兄ちゃん……神さまみたい……」
ミストが呟いた。
すでに女神と対峙しているのだ。このような状況もこの場にいる者達は神のなせる業として受け入れる。
アスタルテは彼が繰り出す一撃に畏れは抱かなかった。迷いなく、間違いなく胸を貫かんとするその剣。
──ひとつに、戻るだけ
煌めく金色の剣は正の女神を貫き、彼に内包されたもう一つの理を彼女に見せた。それは荒々しくも生々しい、醜くも思える世界。しかし、それは土となる。蒔かれた種は芽吹き、美しい花を咲かせる──
正の女神と交わった彼の腕の荊は剣を天へ掲げ、希望という花を開かせた。
正の女神は見た。
彼が歩んできた道、その苦難。それとともにあった人々の想い。彼は両親から愛され望まれ生まれ、育まれた。仲間達に支えられた。ヒトとして生まれた幸福。
さらに遡り、オルティナとして生きた魂の記憶も見た。
彼女は人々の未来のため尽くし、使命を果たした。そして一人の男を愛した。女として生まれた幸福。
その花は美しかった。
その世界は美しかった。
<あんたの想いは、間違いではない。ただ、悲しくてもいつか笑える日が来るんだ。だから>
女神はそんな彼の声を聞いた。そしてそれを受け入れた。
最後は笑って──
(アスタルテ……あなたは見たのかしら)
笑みを見せ、その姿を無くしていく半身を目にし、ユンヌは胸の内から語りかけた。
(私も、もう行かなくちゃ)
もう、彼女に力は残されていなかった。持てる力をすべて彼へ託し、半身も消滅した。そうなれば、彼女も消えていく。
(ありがとう、ミカヤ。私はもう行くわ)
依り代としていた身体の主へ礼を述べ、彼女は外へ出た。
そして彼が出迎える。
粒子が集合して留まっているような、その姿は幽玄。幼い少女を象った姿。
彼はそれを昔から知っていたかのように、郷愁を湛えた瞳を向ける。
「あんたも消えちまうのか?」
寂しげに、静かに問う。
「そうね。でも、そのほうがいいのかも」
彼女は語る。
神という絶対の存在がヒトを惑わせ弱い生き物にしてしまう──
しかし彼はそれを肯定した。
彼女ら女神は生き物全ての親のようであると。彼らヒトは彼女らの子であると。
「親ってのは、子にとっちゃやっぱり必要なもんだろ」
両親に愛され育まれた記憶が彼のその言葉を作る。
父は偉大だった。母は優しかった。
そして見守ってくれた。
「あんたを喜ばせることばかりじゃない」
親不孝という言葉がある。彼は己がどれほど親へ返せたものがあっただろうかと思った。
「それもこれも全部ひっくるめて、見守ってくれないか?」
彼は腰を屈め、彼女の目線で子供のように笑み、訴えた。
「私は完全でなくていいの?」
彼は頷く。
彼は知っている。親というものは完全ではないことを。
父の過ちを、苦しみを思い出す。
過ちは許せばいい
何度でもやり直せばいい
「何度でも向き合えばいい」
それが彼の結論だった。
(ああ、だから私はあなたが好き)
最後は笑って。
小さく手を振った。
そして彼女は対話するための姿を手放し小さな鳥となって消えていく。
(私は最後の仕事を遂げにいく。もう、私の力はあなたに託した。だから私はあなた、あなたは私──)
そうして二人の女神はひとつへ還る。
彼の魂に統合され──
「……おい、おいっ」
彼の身が抱えられ、呼び掛けられる。
女神が消失した導きの塔は、歪められた空間が現実のものへ戻った。最上階は目測での塔の高さから明らかに逸脱していた。その最上階にいた彼らは女神消失時に発生した眩い光に包まれた瞬間、最下階へ降り立っていた。
「アイクっ」
彼を抱えていたのはライだった。膝を立て、そこへ彼の身を支えながら目覚めを待っていた。
「あ、ああ……」
彼は女神消失後、姿を元に戻し、意識を失っていた。女神と対峙した者たちは彼の目覚めを待っていた。
「お、目を覚ましたか」
「……そうか、終わったんだな」
ライの手を借り、彼は立ち上がった。そして伸びをし、無意識に体に違和感がないか確かめる。
「おまえ、覚えてるか?」
その問いに彼は首を傾げる。
「あぁ……アスタルテもユンヌも俺たちを見守ってくれる。消えてしまったけど、いなくなったわけじゃない」
彼は静かに語り、己の左胸へ手を置く。
「そうだな。見守っていてくれる、な」
ライは彼の姿が変化したことなど、不可思議な現象について彼自身に言及することを止めた。触れてはならぬことのように思えた。
(おまえも、消えちまわないだろうか)
戦いを終えた彼らが塔を出ると、世界は再び動き出していた。
アスタルテに石化させられた人々は何事もなかったかのように動き出す。日常生活を送っていた一般市民はそのまま生活を続ける。ユンヌを目覚めさせんと仕組まれた戦乱、その渦中にいた兵達も動き出す。矛を掲げたまま猛っていたものは矛を下げる。戦う意味などもうないと悟り、戦いを止めた。
これがユンヌの最後の仕事であった。彼女は飛び立ち、石化された人々の時間を元へ戻す。遠く、遠く、飛びながら。そして全ての人々の時間が戻った頃にはその姿は空に溶けていった。
こうして、大陸全土に及んだ戦乱は終結した。
戦乱の傷跡は多く残されたが、ヒトたちは皆、女神を失った世界の未来をその手で築き上げていく。女神との誓い、それを遵守すべく。
彼は仲間とともに日常へと戻っていった。
平定が訪れた世では傭兵という稼業は厳しかったが、細々と暮らしていた。
そんな折、団内は祝福に包まれた。ボーレとミストがその恋を実らせ、結婚することとなったのだ。縁あった者たちに祝福され、結婚式は感動的なものとなった。それから、二人の間には新しい命が宿った。
「だいぶ大きくなったな」
「うん、とても元気よ。早く会いたいなあ……」
ある日常。彼は母となろうとしているミストへ声をかけ、生まれようとする命を目にしていた。ミストは優しげな顔で腹部を撫でる。
「どうだ? ボーレはおまえのこと、ちゃんと見てるか?」
兄のその問いにミストはこくりと頷いた。その顔ははにかみながらも幸せそうに。愛された女の顔。もう、少女ではない、女となり母となる。
彼はその顔を見て何か納得したような、確認を終えたような顔に。
「お兄ちゃん?」
彼は妹のその問い掛けに優しい笑みを返すのみだった。
そして、いつものように、無愛想とも言われる感情の起伏があまり伺えない表情で退室していく。
人の気配がない物陰まで歩いていくと胸と口を押さえ、咳込みを押さえる。
「……っ!」
口元から離された手には赤黒い血液が付着してた。内臓が絞られるような痛み。身体の内から腐っていくような感覚。蝕まれる身体。
(もうそろそろ隠せなくなる……)
彼は戦乱が終結してから体調不良を感じていた。それはかつて味わったことのある感覚。
彼がクリミアの英雄と謳われた戦乱において、彼が為した功績の対価。負の気を身体に留め、その力を以て強大な敵に立ち向かう。その対価は彼の身体を大きく蝕んだこと。
それから三年間は幼い頃より蓄積した負の気から解放されていたが、再び勃発した戦乱、女神との戦いにおいて力が授けられたのだ。
その力とは負の女神ユンヌが集積した大陸全土の負の気。
彼の出自、修練から、それを負い即、死に至ることはなく、精神も侵されることはなかったが、確実に肉体を蝕んでいた。
彼の魂は元々女神の魂から生成されたもの。再び女神と統合されたのだ。しかし、器である肉体は綻びる。あまりにも大きな魂の質量に器が堪えきれない。その綻びが訪れようとしていた。
彼は、これが普通の病の症状ではないと自覚していた。そして、治癒することはできないと確信していた。
幸せに包まれた妹の姿を目にし、それを壊してはならないと思っていた。最後まで守り抜き、その幸せを見届けようと。そして、限界まで見届けた。
あとは彼女の伴侶がその幸せを見届け、守っていくであろうことを確信した彼は、その幸せを壊さぬ為に、己の死を見せることのないよう、決意を固めていた。
「あれは……」
物陰で蹲る彼の姿を目撃する者がいた。
「おい、アイク、おまえ」
「……ボーレ」
彼は血液が付着した手を握り締め、平静を装う。しかし、隠し通せはしないだろうという諦めを顔に浮かべ。
ボーレは握り締めた彼の手を解き、彼の容態を察した。
「ちょっと来い」
そして更に人目につかないであろう雑木林の奥へ彼を引いていく。ある場所で落ち着くと、彼はその手で口元を拭う。
「あのさ、おまえ、普通じゃないよな?」
ボーレのその問いに彼は目線を逸らしつつ否定はしない。
「ミストには、言うなよ?」
彼は緩く笑みを湛え、小さな悪戯をしたときのような口調で返した。
「病気なのか? おまえは誤魔化してきたつもりだろうけど、何となくおかしい気はしていたぜ? 多分、みんな思ってる」
長い間、家族のように生活をともにしてきた団員達だ。彼の変化、様態は些細な挙動から察する。
「おれはあんなのを見てしまったからな。もう、何が起こっても不思議じゃないって」
それは女神と対峙し、超常現象ともいえる光景が繰り広げられたことを指す。
「そうか。大体そういうことだと思ってくれ。俺の望みはミストが幸せでいてくれることだ。それが叶うだろうことは確認した。おまえになら任せられる」
真摯な眼差しで彼はボーレへ己の心を告げた。
「なんだよ……それ。おまえ、病気とかなら医者に……!」
「言っただろ? おまえも。何が起こっても不思議じゃないって。これは病気じゃない。だからどうしようもない」
そう言い、彼は左胸を手で押さえる。
「あいつには見せたくない。こんなところは」
そして血に汚れた掌を翳す。
「もう、あいつも母親になるんだな。泣き虫だったけど、これからはしっかりやっていくだろう」
彼はしみじみと妹の思い出を語り、その変化も語る。それを耳にするボーレは郷愁を抱きつつもやりきれなさを感じていた。
「……おまえ、どうするんだ?」
「旅に出る。行けるところまで」
それはまるで、死期を悟った動物が己の死に場を求めて彷徨うかのようだとボーレは思った。
「おまえさ……、助からないとしても、ここで静かにその時まで暮らしていくっていうのは……ないんだな。ミストのやつ、こんなこと知ったら大泣きするだろうな。弱っていくおまえを見るのも……キツいよなあ……」
深く息を吐き出すボーレ。
「おまえってさ、団長の息子だから団長になっちまってとか、おれの方が強いし、とか思ってたけど、何か、それ以上の……とんでもないことになってさ。女神を倒すとかもうわけわかんねえ」
これまで目にしてきた彼の軌跡。ボーレはそれを思い出し、それが常識の範疇を越えるものであると言った。
「おまえは、クリミアを、世界を守ったんだな」
最も身近だった鍛錬の相手。それが救国の英雄となり、果ては神をも御した。現実感があるようでない。しかしそれは事実であった。ボーレはそれを一言で称する。
「なんか、よくわからない力もあって。団長ですら狂わされたという負の気とかそういう」
彼の父がメダリオンによって狂わされた悲劇、そしてその原因である負の気を飼い慣らし成し遂げた彼の功績。
「ああ、結果的にはそうなった。俺は俺の仕事を全うしたに過ぎないが。しかし、最も身近で大事な仕事は最後まで遂行できそうにない」
彼の言葉にボーレは目を見開く。
「……団を、ミストを守る。これが」
そして一気に現実感が訪れる。
今までどのような困難も乗り越えてきた彼が不可能であろうと告げるその内容が、身近なものであること。彼の命の灯火が消えようとしているのが確かであると感じられた。
「ボーレ」
改めて彼は呼び掛ける。
「ミストを、団を、頼む」
それがどれだけの重みであるか。ボーレは息を飲み込む。
「あ……ああ、ミストは一生守っていくとすでに誓った。でも、団は……」
偉大なる彼の父の顔が思い出され、彼の功績、人望など思いはかると、己がそれを引き継ぐなどおこがましいとボーレは思った。
「おれでいいのか?」
そして訊き返す。彼の想いは汲んでいた。それを思うと引き受けるべきなのだが、確認したかったのだ。
分かっていた。ミストを守るということは団を守ることでもあると。そもそも、傭兵団の成り立ちから考えるとそこへ行き着く。彼の父が自活のために始めたものであるからだ。
「おまえも、親父になるもんな。親父っていうのは強いものだから」
それは男が男を認める、という心からの言葉。彼は父親を深く敬愛していた。その上での言葉であった。ボーレはその言葉の重みを理解できた。そして自覚し、責任を負う覚悟を決めた。
「ああ……、わかった。おれが継ぐ。ははっ、おれの方が先輩なんだからな! うまくやってやるって」
いつものように、軽口を言うように、ボーレは自信ありげに言い放ち、彼の肩を叩き、彼の要請を受けた。
「よろしく頼む」
彼もいつものように、任務を言い渡すときのように言葉を発した。
「……黙っててやる。おまえが望むときまで。もしくは……おまえが戻ってくるまで」
「すまん。頼む」
「待ってるからな、いつまでも」
そんな約束を交わした。
それが果たされるときを願って。
そう、それは「願い」──
「では行ってくる」
「お兄ちゃん、気をつけて」
彼は旅立つ。
いつもと変わらぬ顔で。
この旅は任務のためと告げた。戦時中、未踏の大陸に住む種族と邂逅し、その大陸の存在が明らかとなった。その大陸の調査という任務を諸国より依頼された、という名目だ。
団の維持のため、任務は彼一人で行うこととした。
「こういうのは独り身の方がいい」
というのは彼の談だった。修行も兼ねて一人旅をするともいい。数年団を開けることとなるため、その間団長の座をボーレへ渡すこととした。
「うかうかしてると本格的に団長の座奪っちゃうからな! なあに、おれに任せておけば安泰だって」
胸板を拳で叩き、自信ありげにボーレが宣言する。
「んもうっ、ボーレったら調子に乗らないの。お兄ちゃんが帰ってきたら団長はお兄ちゃんなんだから」
そんなボーレをミストが小突く。
「本当はこの子の誕生に立ち会って欲しかったんだけど」
腹部を擦りながらミストはそう漏らした。
「すまんな」
長期の任務であれば、早めに行うのがいい、というのが彼の談であった。
そして他の団員とも言葉を交わし
「じゃあ」
手を振り、振り返らず彼は砦を後にした。
「アイク……」
彼が去った後、団員達は複雑な想いを抱えた。彼の旅立ちの理由に皆、納得した様子ではあるが、彼の真意ではないのではないかと薄々感じていた。それでも決意を固く、決行する彼の様子を目にし、止める者はいなかった。
彼の姿を見えなくなるまで、見えなくなろうとも見つめ続けていたのはセネリオだった。
「まだ見てるね」
「ああ」
その姿をボーレとミストが見つめる。
セネリオは彼の参謀、軍師だった。傭兵団付きの参謀というより彼個人に付いていたといっていい。
団に身を寄せた理由は彼への恩義あってのこと。幼い頃、心身ともに飢えて朽ち果てようとしていたときに、彼から施しを受けた。恵まれない出自からその恩義は天恵にも等しかったのだ。
いつも彼の傍にいた。彼のために任務を遂行することが至上の喜びだった。
「これは、俺一人の修行でもあるから」
と彼は言い、セネリオの同行を許さなかった。
そしてこの傭兵団は彼がいない傭兵団となった。そうなった以上、セネリオはこの傭兵団に身を置く必要がなくなってしまうのだが、立ち去る理由もなかった。
彼は言わなかった。
「またここへ戻る」
とは。
数年掛かりの任務へと旅立つ。そうは言ったが、再び皆の待つ家へ戻るとは一言も言っていないのだ。
セネリオはそこに気付き、彼の胸の内をはかる。様子が不自然であることにも気付いている。
(僕はお待ちします。いつまでも、いつまでも……)
それが彼の望みなら
帰る場所を守り、待ち続ける。
それしかできないと思った。
たとえ彼が朽ち果てゆこうとも。
これほど長い間一人になったことはなかった。
彼は任務のためといい、旅に出た。その任務は砂漠を渡り、未知の種族と邂逅し、その地を調査するというもの。
足は確かにその方角へ向かい、歩んでいた。
己の足で歩み、または乗り合い馬車に乗り、彼の周りの風景は流れゆく。
その間、見知らぬ風景を新鮮に思い、旅情に心を馳せ、ひととき愉しみを覚えていた。
それも一人であるからこそ。
どれほどまで容態が悪化して苦しんだとしても、それを心配され気遣われるであろう心苦しさを覚えなかったからだ。
眠れない夜も辛くはない。
もうすぐ訪れる安寧を思えば──
未開の砂漠へ向かう足は途中から向きを変え、人も住まわない山奥へと向かった。
すでに彼は息をするだけでも苦しい容態となっていた。幸い、まだ足は動く。手足の動きは機能するが、内臓の状態が酷いものであることは自覚できるほどであった。
もう、苦しさより終着点へ向かおうという達成感が間近に感じられていた。一歩ずつ最上階へ階段を上るような足取りだ。
何故、山を登ろうと思ったのか。
彼にそれは説明できない。ただ導かれるままに。しかし、上り詰めた先に求めるものがあるという確信はあった。
〈アイク、こっち。こっちよ〉
声がする。
それは天の声とも内なる声とも。
彼はその声を聞くというより感じ、思考するという過程を経ずに行動していた。
その声の主は彼の一部、彼の意志と同等。
分離しているそれと完全となるべく歩む。
すでに肉体は綻び、機能を止めようとしていた。だが、精神は天の声に導かれ、上り詰めゆく。
瞼は閉じられながらも生い茂る草木に阻まれることなく山頂へ歩む。手足の感覚も消える。息苦しさからも解放された。呼吸が停止したからだ。
しかし歩む。確実に。一歩一歩踏みしめ確かな歩み。
鳥の声も風の音も、青々とした緑の色も排除された世界。白とも黒ともいえない空間を彼は歩む。
その姿を目にしたのは野の獣のみ。彼の世界から木々も獣達も青い空も消えていく。彼は物質世界から隔絶されていく。しかし、彼を目にする獣は彼から隔絶されゆくそれらの物質世界の中にいた。
そして彼の視界に物質世界の青が飛び込む。
山頂に上り詰め、開けた場所へ立った彼はその青空の下へ立ったのだ。青空の下には未踏の砂漠が広がっている。この山は彼の任務を果たすべき砂漠を見渡せる場所であった。それは入念に調べた結果、足を踏み入れたのではなく、内なる声の導きにより。
〈アイク、あなた、ちょっと未練があるのでしょう?〉
彼には任務があった。それが偽りだとしても遂行できないのは悔やまれること。
〈ええ、あなたはそうして生きてきた〉
そうして彼の視界から砂漠が消え、一面の青空のみが映し出される。
獣達はその姿を見た。
一体の人間が地に伏せ動かなくなろうとしているところを。じきに骸となるであろうと察し、その肉を喰らおうと注視していた。その手に得物である剣があったが、それを動かすことも叶わないだろうと。
彼はそんな獣達の気配を感じながら思う。
かつて己が生きるために狩り、屠った獣達のことを。それは獣のみならず、彼と同じヒトも同様に。しかしそれを悔いることはない。それが世の理であると思い。
こうして果てていくのも悔いはない。
己に与えられた使命は果たせたと思った。
ただ、偽りの任務で向かうはずだった未踏の地へ少し想いを馳せた。
(あそこには、何があったんだろうな?)
そして彼は完全に物質世界から隔絶された。
肉体は機能を停止し、魂が説き放たれた。
「アイク、アイク、おつかれさま」
白くもない黒くもない世界で声がした。彼はその声に覚えがあった。そしてその声の主の姿を想い描く。その途端、幼い少女の姿を象った魂が具現した。
「ユンヌ、あんたか」
彼は少女の姿を視認するも、己の姿は視認できなかった。手を翳し、目の当たりにしようともあるのは空間のみ。
「大丈夫、あなたはあなたよ。想えばいい」
少女の言葉に従い彼は己の姿を想う。その途端、見慣れた武骨な手が眼前に現れた。
「……俺は、死んだのか?」
少女はその問いに曖昧な笑みを浮かべながらも答えない。
「見えるかしら? 確かに肉体は滅びた」
その言葉とともに彼の視界は先ほどまで瞳で捉えていた山頂の光景となる。そして地に横たわる己の肉体が獣に補食されゆく光景を目の当たりにした。
「あまり、あなただったものがこうなってしまった光景は見たくなかったし見せたくなかったんだけど」
少女もその光景をともに目にし、そのような感想を述べた。
「元女神としては失格かしら。こうなるのはあなただけじゃないもの。生き物は皆、等しくこうなり土に還る。その過程はあまり美しいといえないけど、必然で必要で」
少女は淡々と述べつつも薄く瞳に涙を浮かべていた。
「俺もあいつらのように狩って捌いて喰ったりしていたもんな。だいたい、傭兵なんて人殺しで生きてきたようなもんだし」
彼もまた淡々と述べる。己の肉体が解体されていく光景を目の当たりにしながら。
「……泣くなよ」
ぽろぽろと涙を流す少女に彼はそう声をかけた。
「だって、悲しいもの。あなたであったものが形を崩していく。もっとたくさん、生き物が、ヒトがこうなる姿を見てきたはずなのに」
「そうか、女神だからあんたはすべてを見てきたんだな。女神だからすべてに等しくあろうと思ったんだな」
少女は彼の言葉に頷く。
「こうやって誰かが、何かが死んでいく度に、すべてのものを想って泣くのも疲れるよな」
「うん、すべての死、すべてのものに平等であるべきと思っていた。でもね、無理にそうあろうとしてダメになっちゃうこともあった」
彼女がかつて半身と一つであった創世の頃、彼女へ優劣の判定を求めた鍛冶の青年二人が争い、死んでいった。彼女が彼らの剣の優劣を判じなかったがために。
「だから、今言うわ。私がこんなに悲しいのは」
潤ませたその瞳が彼を向く。
「あなたを愛しているから」
そして少女は目を細め、満足気な顔になった。
「何よりも特別。大事。好き」
ひとつひとつの言葉を大切に、彼女は告げた。
「そうか。そりゃそうだろう。元々俺は、というか以前の俺であったオルティナはあんたの半身……アスタルテの魂から生成されたんだろう? そしたらあんた自身でもあって……」
彼はアスタルテと対峙し神剣で貫いた際、魂が融合されたのだ。それとともに創世の記憶、転生前の記憶も得ていた。己の成り立ちも理解していた。
「ううん、そうじゃない。そういうことじゃない」
彼女の手が彼の肩を掴む。具現する際の姿は幼い少女と頑強な青年である彼らであるが、今の彼らに距離も身長差も存在しない。肩を掴むという行為も彼女の意志の具象であった。
「私は、あなたが、アイクとして生きたあなたが好き。一人のヒトとして」
「そうか。そうだな。女神だって誰かを好きになったって、愛したっていいもんな」
彼は彼としての人格を以て語る。
「好きとか、嫌いとか、特別強く思うことは当たり前のことだろう。ユンヌ、あんたも一人のヒトだ」
そして彼は彼女の人格を認める。
「ありがとう」
彼女はただ一言礼を述べ、彼の心を受け取った。
「私は、あなたとひとつになりたい」
すでに女神としての力は使い果たし、彼女は記憶・思念などの要素で構成される存在となっていた。半身との融合を果たしていない彼女はただその存在で在り続けていた。
「今なら分かる。あんたは消えちまわない。みんなが覚えている。俺も覚えている」
差し出される彼の手。それを彼女は握る。
眩い光。それは世界を覆うほどの。
否、それは彼らが融合したという現象の具象である。
彼らは物質世界から隔絶され、記憶・思念の海へ混ざり漂い一体となった。
〈……懐かしい〉
彼女はこの海に郷愁を覚える。それは、彼がヒトとして生まれ出ようと母なる海に漂い、ともにあったときと似ていた。
〈そうか、俺が生まれる前、母さんの中にいたとき、あんたも傍にいたものな〉
メダリオンの守り人だった彼の母は彼が胎内にいるときからそれを抱き、彼を育んでいた。彼女も彼同様にメダリオンの中で母の子守歌を聴き、微睡みの中にいた。彼が産まれ出るまでの間、彼らは傍に、ともにあった。
〈……どうだ?〉
〈うん、心地いい。そして見える、分かる。あなたのこれまでが。何を思い、何をして生きてきたのか。ヒトとして生まれ、生きるのは辛いことも楽しいこともたくさんあった〉
彼女は彼のヒトとしての記憶をすべて得た。
〈俺も。あんたのことが〉
彼もまた彼女の記憶を得、己のものと統合する。そしてすべての世界の記憶が彼のものとなった。
〈私がどうして生まれたのかもわかったでしょう?〉
〈ああ。多くのヒトに望まれて生まれた。その願いから〉
〈そう。だからあなたはまた生まれる〉
〈どういうことだ?〉
幾多の邂逅を果たした彼の軌跡は伝承となる。彼が存在したという事実、彼が成し得た事実、それは人々の願いに昇華する──
〈長い長い時を経て、あなたは伝承となるの。そしてあなたは神様……みたいなものになるんじゃないかしら?〉
〈なんだよ、それ〉
〈それはそのときわかる。願われて呼ばれたら応えてあげてね。きっと愉しいと思う〉
〈……面倒なことになったな〉
姿があれば手で頭を掻いたような口調で彼は呟いた。
物質世界で肉体の機能を停止し、土へ還った彼はその世界では死を迎えていた。
そうして消息を絶った彼は行方知れずとなり、彼を知る者は彼の消息を辿るが明らかにはならなかった。
彼の偉業は唄になり、讃えられ、彼の存在は伝説化していった。
人々の記憶の中に彼は多様な姿で生き続けた。
「王、今でも思い出しますよ。あなたのあの無鉄砲さを。今となっては懐かしい」
参謀ライは郷愁を湛え呟く。その姿は青年といえる若々しい姿だ。
「ああ、あの時俺は若かった。おまえには相当苦労をかけた」
重厚な声でライの呟きに応えたのは獅子王スクリミル。王の名にふさわしく、風格を湛えた姿だ。
獣牙の国ガリアは先王カイネギスから現王スクリミルへ王位が継承されていた。
女神と対峙し、大陸の危機から脱した大戦時、スクリミルは若獅子だった。いずれ王位を継ぐ者として戦場に身を置いた。
それから長い年月が経っていた。
かの大戦時から戦争は発生しておらず、平和な日々であった。各所で小競り合いは発生するものの、すぐに鎮圧される程度のものである。
それはガリアのみならず、大陸全土の平定であった。
武勇を誇る者は各地で行われる武術大会でその力を発揮、発散していた。
「あなたの後継者候補も育ってきました。先の武術大会でそれが存分に見極められましょう」
「はは、武芸だけはならぬ。王としてふさわしき者には思慮も必要だ。それは普段の行いから見て取れる」
「あなたがそれを言いますか」
とある昼下がり、政務の合間にて二人は政務室の窓から訓練所を眺め、談笑していた。
スクリミルは獣牙としては壮年にあたる。精力は十分であり、これよりベオクの一生分の年月を経ても現役である歳ではあるが、後継者の選定はすでに始めていた。
(ああ……スクリミルが後継者候補を探し始めるなんて。もう、かなりの年月が流れたんだな……)
ライはスクリミルが幼い頃から世話を続けてきた。その頃を思い出し感慨に耽る。
幼い頃は手のつけようもないほど暴れん坊で、備品を壊さない日々はないほどだった。むやみに喧嘩を仕掛けるため、ライは常に謝罪に向かい忙殺されていた。
先の大戦時には青年へと成長していたが、その質は変わらず、諫めるためにライは肋骨を折るほどであった。
そのスクリミルが後継者を見定める時期となったのだ。
かなりの年月が流れ、先王カイネギスのように威厳を湛え思慮深さを身につけていた。その容姿も齢を重ねた風貌となり、顔に皺を刻むまでとなった。獅子の鬣と表せられる豊かな髭も蓄えていた。
「しかしまあ、おまえは変わらんな」
自分でもその変化を自覚しているスクリミルは、それに対しさして変化のない風貌のライへ目線を送る。ライはスクリミルが幼い頃からずっと青年の容姿であり、現在もほぼその風貌を保っていた。
「俺が苦労かけた分、ぐっと老け込むかと思ったがな」
軽口めいた言葉をかけ、スクリミルは緩く笑った。
「オレはこの姿に成長するまではとても早かったんですがね。この姿でいるのはまあ、長いですね。これから先もまだまだあなたに振り回される日々が続くってことですかね」
ライもまた軽口めいた言葉で返した。
「なに、心配はいらん。おまえにも立派な部下がいるだろう。奴らも随分と頼もしくなった」
ライも後続の参謀育成を行っており、それが実りつつある。政務の分担も為され、以前より負担が格段に減っていた。
「おまえはそのなりだが、いい加減いい歳だろう。そろそろ楽になりたいか?」
「……はあ、おまえにそう言われるとはな」
息を吐き、ライは背を丸めて言い捨てるように言葉を吐いた。緊張を解いた表れである。昔のようにスクリミルへ砕けた口調となった。
「まあ、歳はとったさ。あの大戦のとき見知ったベオクは殆ど生きてない」
当時の過酷さとともに縁深かった者たちの顔を思い出し、ライは郷愁を覚えた。葬列にも加わったことがある。その時の哀しみより、すでに懐かしさの方が勝っていた。
「いろんな奴らがいたな。今でこそラグズ・ベオク間の交流は普通に行われているが、あの時初めて尻尾も羽もない奴らと過ごした。俺は己の強さに自信を持っていたからベオクに対する恐怖心とかなかったが、まだ畏れを抱く者も少なくはなかった」
スクリミルの回顧にライは頷く。
「まあ、それが俺の世界の狭さでもあったのだが。まこと、世界は広い。剣技で瀕死になるほど打ちのめされて俺は悟った」
当時のベグニオン軍将軍に一騎打ちで打ちのめされたことを指し、スクリミルは苦々しくも清々しさを噛みしめていた。
「ああ、あの。ゼルギウス将軍にこてんぱんにやられたっけ。オレもだけど」
ライもかの将軍と対戦し敗北していた苦い思い出がある。
「さらに、そのゼルギウスを破ったベオクがいて。ああ惜しい。そいつと対戦する機会もなかったな」
齢を重ねた落ち着きを見せていたスクリミルだが、当時の喧噪と兵たちの顔を思い浮かべると猛る気持ちが沸き上がってきた。
「……ああ、あいつ……」
その男の顔を思い浮かべ、ライは遠い過去の記憶へ引きずられ、急に胸が締め付けられる思いをした。
『蒼炎の勇者』
今はその名が残るのみである。
唄となり、その功績が讃えられ語り継がれている。
しかし、誰も知らない。
彼が何処へ行き、何をし、どうなったかを。
彼は普通のベオクだった。当然、これほどの年月が流れていれば生きてはいないだろう。
ライの頭の片隅には常に彼のことがあった。吟遊詩人が彼を讃える唄を歌い、それを耳にする度思い出される。
彼の居所である傭兵団の砦にもしばしば足を運んだ。しかし、団員たちも彼の行方は知らず、帰宅していることもなかった。長年通い続けたが、大戦当時の団員の葬儀に幾度か参列してからは足を向けることもなくなった。
(団員たちの葬式には何度も行った。墓もある。でもあいつの墓はないんだ)
行方知れずとなった彼の墓は建てられることもなく。
「あいつ……アイクはハタリへ行くという話だったのだろう? 今やハタリへの交通網も整備されたというのに」
未知の土地であったハタリは長年の調査により交通網が整備されるまでとなっていた。今では交易も行われ、ガリアにもハタリ住民であった狼のラグズが居住している例もある。
「あいつにそんな依頼をしたところなんてなかったっていうな。あいつはどこへ行きたかったんだろうな」
彼はハタリへ向かい、調査を行うという依頼を受け旅立ったという話だった。しかし、ライはハタリ調査に実際関わった際、そのような話はどこからも出なかったと聞いた。
「ともかく、もう生きてはいないだろう。でも墓もないんだ。誰も骨すら拾えない」
後悔の念。
彼が旅立った直後に追いかけ探し回れば行方を知ることはできただろうかと。骨くらいは拾えただろうかと。
ライは寂しさとやりきれなさと罪悪感のようなものを抱えていた。
彼を探し回れる機会などありはしなかったが。
ガリア国内の政務に追われ、それどころではなかった。
「……ライよ。気持ちの整理というものが必要ではないのか?」
表情が曇り塞いで見えたライへスクリミルはそう言葉を発した。
「言ったではないかおまえ自身が。葬儀や墓というものは残された者のためでもあると。あれは、残された者が気持ちの整理をするためのものでもあると」
その言葉にライは目を見開く。
「俺はな、牙を交え決着がついていれば悔いはないんだが。おう、おまえとはまた死ぬ前に対決したいものだ」
「やめてくれ。もう、あれで決着はついただろう」
ライは昔、猛ったスクリミルを諫める際、肋骨を折られ負かされたことを指す。無意識に手で肋の辺りを押さえた。
「はは、俺の勝ちだったな。墓まで持っていくがいいか?」
「ああ……」
呆れながらもスクリミルのある種の愛情を感じ、ライは半笑いで応えた。
「そんなおまえに新たな任務をやろう」
目を見開き、耳をぴくりと動かし、ライはスクリミルを注視する。
「蒼炎の勇者の足取りを辿れ。その結果をガリア発として歴史書に刻ませよう。何せ奴はガリアで生まれ育った縁者だ。勇者を育んだ地として、これは弔いの一つにもなろう」
これはスクリミルの心遣いだとライは悟った。
任務の形を為しているが、彼の心残りを悟り、それを果たせるようにというものだ。
「……その命、有り難く賜ります。王よ、私は貴方の心遣いに感謝致します」
「うむ」
花の香りがする。
蒼く、美しい花。
それは限られた時期のみ花開く。
その香が鼻腔を擽ると繰り返される年月を感じずにはいられない。
その花はガリアの名産として知られている。外貨を得るために香水に加工され、高値で取り引きされている。その希少価値から幻の香水と呼ばれているほどだ。
さらに、このような逸話から付加価値が生まれる。
蒼炎の勇者の母が好んだ花である。
蒼炎の勇者の父がその香水を贈り物とした。
それは当時のガリア王が彼女へ贈るようにと彼へ渡した親愛の証である。
蒼炎の勇者の父が眠る墓へその花が手向けられた。
それは蒼炎の勇者の妹の手によって。
「商売人ってものは鼻がいいというか……。こんな話、どこから伝わったんだろうな。そして何でもかんでも商売に結びつける」
ライはかの花の香を嗅ぎ、歩く。少し呆れながら独り言を漏らした。
ここはガリア国境の河以西に位置するゲバル地方。蒼炎の勇者の父が眠る地として伝えられている。
(それは、必死だったなんてもんじゃない。あいつの親父さんもこんなところで眠るなんて不本意だっただろうに)
蒼炎の勇者の伝承の一つとしてこの地に纏わる逸話が伝えられ、今や観光地と化していた。
蒼い花と絡めて美談の一つとして語られるが、この地は彼の苦難の始まりの象徴であった。
父グレイルは志半ばでデインの刺客であった漆黒の騎士との対決により破れた。その惨劇を目の当たりにした彼アイクは復讐心を糧に金色の剣を拾い上げ、いつか漆黒の騎士を打倒すべく命を削りながら力を手に。
昨日のことのように思い出される友の生きざま。
ライはこうして思い出すのも供養の一つであるのだろうと思った。
彼に墓標はない。行方知れずになった後の足取りはわからない。なのでこうして己の知る彼の足取りを辿ろうと思った。
まずははっきりと形として残っており、ガリア領であるここへ訪れたのだ。
(しかし青いクッキーとかはないよな……)
蒼炎の勇者、蒼い花にちなみ、銘菓として青い焼き菓子が販売されている。食欲を減退させる色だと思い、屋台の呼び込みを無視し、ライは歩む。
ここはグレイルの墓標を中心に出店が出店し、詩人たちが集まるなどし、街として発展していった地だ。当時彼らが駐留した城は観光用として修繕されながら保存されている。
賑やかな街並みを抜け、墓地へ辿り着いた。遠くに河の流れを臨める静かな場所だった。
(ここにまで屋台が出ていたらたまったもんじゃないよな)
ここには花壇に囲まれた墓標があるのみ。
当初、墓標は彼の父が愛用していた武具である戦斧であったが、先の大戦時、再び武具として使用され、当時の使用者から後継者へ受け継がれている。改めて石材で墓標が建てられたのであった。
もはや、当時の関係者が参拝することは殆どない。少なくともベオクは。ごく偶に先王カイネギスが訪れる程度である。
ライは彼がここで父と死別し再びここへ訪れ参拝したときは何時であったか思い出した。デイン=クリミア戦役終結後、彼がクリミアの大使としてガリアへ来訪した際であったと。その時はまだ戦斧が墓標であった。
(あの時、あいつも相当忙しかったよな。ガリアに大使として来るのでもなければここへ来られなかったかもしれない。貴族やめた後、すぐあの仕事だったからな。下手したらあの大戦が終わるまで来られなかったんじゃないか)
デイン=クリミア戦役の後、貴族としての身分を与えられていた彼はクリミアの士官として勤めており、多忙であった。爵位を返上した後、すぐに他の任務を遂行し、そのまま大戦へ身を投じていった。
(おまえ、あれからここへは来たか?)
心の中から彼へ呼びかけるライ。
そして彼の父の墓標の隣にある剣を模した碑へ目を遣る。
(おまえの墓を作るといったらやっぱ、ここか)
剣碑は石の台座に建てられていた。
台座には
『勇者、偉大なる父とともに──』
と刻まれている。
埋葬が叶わなかった彼だが、こうして碑が建てられ奉られていた。
「……ん?」
剣碑を眺めていると柄にあたる部分に一羽の鳥が停まった。何処から飛んできたのかわからない。気付けばそこにいた。
ライは白昼夢でも見たのかと思った。
目を擦りもう一度その鳥を見た。花壇で咲き乱れる蒼い花と同じ色。美しい羽を持つ蒼い鳥だった。
(どこから来たんだこいつ)
その鳥が驚き飛び立っていかないよう注意し、息を止め注視した。
「ライ、よく来たな」
懐かしい声がした。
それは現界する。友の想いという念が形作られて。
「あっ……」
すべての意識が飛び、ライは口を開け、ただ感嘆を漏らすのみ。
「アイク」
そしてその名を呼ぶ。
空を仰ぎ、宙を見る。
広げられた翼は光を受け、きらきらと輝き、ライの視界いっぱいに広がる。
蒼い翼を背負う彼がそこにいた。
「おまえ……それ」
その翼で空を舞う彼の姿を目にしながらライは指差し身動きせず。
「それより、おまえ」
ライはアイクの翼を持ったその姿も兎も角、出会った当時の少年の姿であることにも驚愕する。
そしてアイクは地に降り立った。その途端、蒼い翼は光の粒子となり消えた。
〈あなたは、また生まれた──〉
彼はそっと歩み、地を踏み、物質世界に交わる。
「驚くなよ。俺は俺だ」
アイクは緩く笑み、ライの前に立った。
「おまえ、生きてたのか」
ライがそう投げかけるとアイクはただ見つめ返すのみ。
「いや、もう体は狼に食い尽くされて無くなって骨ももう風化してるし、そういう意味では生きてはいない。でも俺は生きている」
理解の範疇を越えるが当然であろうことをアイクはさらりと言った。
「ああ……オレは幻か夢を見ているのか」
ライはただ笑うしかなかった。笑いながら頭を掻き、独り言のように呟いた。
「……って、痛てっ」
そんなライの頬をアイクはぎゅうと抓った。
「なあ、俺は神みたいなものになったとか言うんだ、ユンヌが。いまいちよくわからないし面倒なんだが、おまえが呼んでくれたからまたこうして地に足を着けられた」
背筋を伸ばす仕草をし、夢物語のようなことを常識であるかのように言うアイク。
「おまえ、俺のことを探してくれようとしたんだろう?」
ライはこの事象をまだ理解し難いながらも頷き相槌を打つ。しかし、実際目の当たりにした女神の名が登場したあたりから納得がいくようになってきた。
「ああ……ああ、そうか。そうか」
そして自分で自分を納得させるかのように感嘆を漏らす。
「おまえ、あの時から……いや、初めからそうだったのか? いろいろと普通じゃないとは思っていたけど……」
ライは女神と対峙したときの事象を指す。
アイクは負の女神の力を受け正の女神を制した。その時、彼の肉体などが分子となり神の力と融合し再構築された。それを目にしていたことをライは思い出す。蒼炎で編まれた翼も目にしていた。先ほど背負っていた翼と同様のものであろうか。それはまさに神そのものといっていいほどの常識外の姿であった。
それより以前、負の気を体内に取り込んで己の力とし、脅威へ立ち向かったことも思い出す。これも常人になせる業ではなかった。
「ああ……おまえはそうして俺をよく見てきた」
懐かしい顔がある。郷愁を湛え彼は笑む。
アイクはライへ己の成り立ちを語った。
元は女神の魂から生成され、「願い」により肉体を持ち現界したこと。オルティナとして生き、使命を果たし、再び両親に願われ同じ魂を以て転生したこと。女神たちを統合し、すべての記憶を持ったこと。
「でも、俺は俺なんだ」
そして彼はヒトとして、アイクというベオクとして生きてきたことを確認するかのようにライへ言い放った。
「もうわかった。ああ。おまえはアイク、おまえ以外の何者でもない」
その手が差し出され、強く握られる。
〈嬉しい、嬉しい……! アイク、あなたもあなたになれたの〉
彼と融合したかつての女神も祝福する。
己を一つの人格として認められたときの喜びと同様の喜びを湛えた。
「……俺も、俺を探しに行きたい」
友との邂逅を果たした彼はそう自らの願いを口にした。
「おまえと、旅がしたい」
ライはそんなアイクの言葉の意味をまだすべて理解できない。
「ああ……、オレも。おまえと旅をしよう」
その言葉の意味はこれから分かるだろう。
ライはそう思い、再び邂逅した友と歩む旅路へ心を馳せた。
彼らの旅の第一歩は彼が奉られた碑より始まる。
「これは墓というわけでもないんだろうけど、墓みたいなものだろう。自分の墓があるってどういう気持ちだ?」
剣碑の前へ腰を落ち着かせ、邂逅を果たすまでの間のことを語り合っていた二人。話題は眼前の碑へ移り変わっていた。
「……こうして立派な石碑ができたのはそんなに前じゃないんだ。それまでここは親父の墓でしかなかった。親父のことを悼むために来てくれたのは嬉しかったな」
「そうか、おまえ、そのときからいたのか?」
ライの問いにアイクは否定はしないが顎を引き、曖昧に相槌を返す。
「いたといえばいた。まあ、人の思念さえあればその記憶はすべて見えるし」
「あ、ああ……そうか」
ライは改めて彼がヒトを超越した存在であることを実感した。それでもそこに「嬉しい」という感情が存在していることに安堵した。一つの人格として彼は確かに此処に在るのだ。
「昔、団員たちがたまに来てくれていた。俺が知る人間がここに来ていて、それが途切れたときは寂しいと思った」
それは単純な時の流れ。参拝者もまた土へ還っていったのだ。彼は静かに緩やかにそれを識った。
「ああ……、オレも、団員の葬式には何度も参列した。こういうのって、くるよな」
「ありがとうな。おまえもそうか、ラグズだからな、本当はすごくおっさん……爺さんなんだろう?」
アイクはライが団員たちの葬儀に参列したことに対し礼を述べ、その昔と変わらぬ容姿を軽口めいて指した。それは同時に時の流れも意識し。
「バカ言え。見えないのかこの若々しい風貌が。お兄さんと呼びなさい」
少し芝居がかった口調でライがそう言うとアイクは吹き出し笑った。ライはこの光景に郷愁を覚える。滅多に笑みを見せないアイクだが、こうして自分が軽口を叩けば柔らかい笑みを見せ。
「スクリミルなんか立派に髭なんか蓄えてすっかりカイネギス様みたくなった。見せてやりたいくらいだな」
顎に手を遣り、髭を触るような仕草をするライを見てアイクは口端を上げた。
「じゃあ、見に行こうか」
「え?」
彼は再び生まれてから初めて世界を歩く。
「どうだ? あれ」
「どんな味がするんだろうな、気にはなる」
墓地から街へ。人の営み、賑わいをその目で直に目にしたのが久々である彼は興味深く周囲を見回す。
「食ってみるか……?」
「いいのか? 俺、金持ってないぞ」
「ああ、土産としても買って帰るし」
ライは銘菓として売られている青い焼き菓子を購入し、一口分をアイクへ渡した。そして残りは土産とする。
「……旨いか?」
食欲が減退しそうな色の菓子を口にするアイクへ目を遣り、ライは疑い深そうに聞いた。
「まあ、味は普通だ」
「そうか」
当たり障りのない感想を聞き、ライは少し安心したとともに面白味がないと思った。それでも目を輝かせて青い菓子を見つめるアイクの姿を見て満足した。
(まるで子供のようだ。久しぶりに人と関わって楽しいのだろうか)
そんな彼の姿を目の当たりにすると、幼い風貌を象った負の女神の姿を思い出す。
(ああ、すべて一緒になったっていう)
かの女神が彼とともにあるという話を思い出した。
「何か変な気分だな。これ、俺をイメージして作ったという菓子というけど、こんな、菓子になるとか俺……」
人々の営みの中における己の存在。彼は己が遠い存在のような実感を得た。
「あまりいい気はしないものなのか?」
「いや、こうして俺は生きているんだなと思う」
今や伝承となり、人々の記憶で生き続ける彼。ライはこれが「神のようなもの」になることであるのかと思った。
彼らはガリア城下を目指す。
アイクの提案により、スクリミルらと顔を合わせようというのだ。──当時の彼を知る者との邂逅。
「ああ~……、おまえの足取りを辿りに行くぜ、って言ってわりと盛大に送り出されたんだけどこんなに早くあっさりとおまえと一緒に帰るとか格好が付かないな」
とはライのぼやきであった。
「早い方がいいだろう。そしてガリアへ行って終わりというわけではない」
「そう言うか。しかし、そもそもだ、もう生きてないと思われているおまえが普通に現れたらびっくりするどころじゃない」
すでに常識を超越した存在である彼を受け入れているライだが、常識の範囲で考えると在らざるものである彼の存在をどのように説明するべきか迷った。
「……それは大丈夫。おまえが俺を俺と思ってくれた。それと同じように思ってもらえるなら俺は俺でいられる」
アイクがそう説明するとライは納得させられる。すでにこうして彼の存在を受け入れているのだから。
「ああ……、狼のラグズがいる。本当だな」
ガリア市街を歩き、街並みを眺めるアイクはライに聞いていた通り、ハタリから移住してきた狼のラグズがいることをその目で確認した。
「やっぱり砂漠より住み良いんだよここは。だいぶ移住してきている。しかし故郷が恋しいんだろう、よく行き来しているよ。定期便も出ているから気軽になったもんだ」
ライのその説明にアイクは複雑な思いを抱いた。
「ハタリも、ハタリの民も身近になったんだな。あれからあの砂漠に足を踏み入れて道を切り拓いていった者がいる。俺の任務が本当の任務であれば面白い仕事だったんだろうな」
命の灯が消えゆくのを隠すための嘘。長い時間が掛かるという任務。それは永い時を経て成され、新たな文化を生んでいた。
〈それでも、嬉しい。でしょ?〉
彼の中の女神が問い掛ける。
(ああ。これがヒトの歩み。未来なんだ)
そして彼も彼女に同調する。
「そうだろうな。大変だったとは聞く。それだけに成し得たときの喜びも大きかっただろう」
ライは彼の少しの無念を察するも、その瞳はヒトを慈しむ女神のようであると思った。
城下から城内へ。存外に早いライの帰還に兵たちは驚いていた。
「いや、アイクがな、王に会いたいって言うもんだからさ……」
「え? あの、アイクって……蒼炎の勇者ですか?」
ただのベオクであり、今や伝承となるほど昔のベオクが今現在存在しているかのように指すライへ疑問の声があがる。
「ああ、なんといったらいいか……。とりあえず、いるんだよ」
「……え、誰もいませんが……」
ライは傍らのアイクを手で指すも兵はその姿を認識していないようだ。
「え、あ、そうか、どこに行ったんだろうな? とりあえず王の元へ行くからな」
兵が首を傾げ不審な表情をしているのを察し、ライは咄嗟に話をはぐらかして切り上げた。そして手を振り謁見の間へ進む。そして傍らに彼が存在していることをその目で確かめる。
「おっ……! おまえ、大丈夫って言っただろ!? オレしかおまえのこと見えてないんじゃないか……もしかして」
焦りつつ小声でアイクに抗議するライ。
「あいつは俺のこと知らないからな。しょうがない」
「は?」
抗議するライを後目にアイクは真っ直ぐと謁見の間へ歩む。
「あ、アイク殿! 久しぶり! ライ様が連れてきたってんで探したぞ」
その道すがらある兵が彼を探し出し認識し、声を掛ける。
「あ、あんたは」
この兵はデイン=クリミア戦役時派遣され小隊長を務めた男だ。クリミア復興時にも派遣され、その際よく顔を合わせていた。彼もラグズ連合の依頼で参戦したベグニオン侵攻時には昇格しており、そこでもよく顔を合わせていた。
「ベオクも長生きするもんだ。おれもすっかり出世してこの通りだ! 王じゃないけどあんたと手合わせしてみたかったって思ってた。ライ様があんたのこと探しに行くって旅立ったけどすぐに会えて何よりだ」
その男は手を差し出してくる。アイクは笑みとともに手を握り返した。そして手を振り別れる。
「あ、ああ……そうか」
ライはそれとなく理解した。
今ここにいる「アイク」を認識できる条件を。
「ここでも、俺は生きていた。俺は俺だった」
両手を緩く眼前に掲げ、彼はヒトの記憶にある己の存在を実感していた。
「そういうことか、ああ」
「そうだ。こうやって見つけていくんだ俺は、俺を」
彼は当時と変わらぬ姿で獅子王の前に現れた。
「ほう、アイクよ。あの頃と変わらぬ姿であるな」
その姿は筋骨逞しく、大剣が身丈に合った歴戦の戦士といった風貌である。ベグニオン進攻から女神との邂逅に至る大戦時、彼が青年であった頃の姿であった。
「そうか。あんたは随分変わったな」
前王カイネギスのような風格を湛えたスクリミル。それは年月の経過を彼に感じさせるのに十分である。そのような時の流れに於いても昨日会った友のように受け入れられることに彼は嬉しさを覚えた。
「なあ、スクリミル。あの頃っていつだ」
ライが何気なく疑問を投げ掛けてみる。
「呆けたか、俺はこいつとはあの頃しか時を共にしておらん。ラグズ連合でベグニオン進攻を始め、女神を倒すまでだろう」
「はあ、そうだな。それしかないよな」
ライはスクリミルのアイクへ対する態度からある疑問を抱いた。そしてそれを確かめるためにこのような質問をした。そして理解する。
(……オレとスクリミルが見ているアイクは違う?)
「アイクよ、おまえはどのような旅路を歩んだのか。あれから長い時が流れた」
当時と変わらぬ姿で現れた彼に疑問の声を投げ掛けることもなく、スクリミルは彼の歩みを尋ねた。
「俺は──」
彼は語る。
女神と魂を融合し、その肉体が地に還ったことを。偽りの任務へ悔恨の想いを仄かに抱きながら時の流れを見守っていたことも。
「まだ旅の途中。こうしてあんたと出会えたことも一つの道標だ。この地へ足を踏み入れ、ハタリの民が移住しているところを見て、こうして誰かの歩みが実を結んだということを知った。あんたはかなり血気盛んだったが今や立派な統治者であることも知った」
彼のその報告を耳にし、スクリミルは大いに頷いた。
「ああ、良い旅の土産話だ。次の旅へ発つ前にゆるりと休んでいけ。叔父貴にも顔を見せるといいだろう。次に会うときはまた土産話を頼もう。こいつを供に使うとよい」
スクリミルはライの背を叩きながら上機嫌な口調でアイクへ向けて言った。
「……っ、て、おい」
ライはスクリミルへ耳打ちする。
「何かおかしいとか思わないのか?」
「何がだ?」
ライは具体的に指摘する。
彼がベオクの寿命を超え生きて歩いていること。その風貌が当時の若々しいままであること。自ら没したときの記憶を語ったこと。それらが常識の範囲外のことであること。
「ああ、おかしいとは思うが、目に見えるし腑に落ちるのだ。ああ、何だか懐かしいな。あの時の滾る気持ちが蘇るようだ。なあ、こいつと手合わせなどしてもいいだろうか」
彼が存在していることを疑問に思いながらも受け入れているスクリミルであった。
そこにいることが不自然で自然な
その存在に触れ、在りし日が鮮明に思い出される
思い出せる、ということは
幸福である
「……ほどほどにな」
ライはこれ以上追求するのを止めた。
「よし、アイクよ。折角の再会である。俺は一度おまえと手合わせしてみたかった。試合を頼めるか?」
「ああ」
子供のように楽しげな二人の顔を目にし、ライは彼の存在が及ぼす意味について思う。
──彼は青い鳥
かつてヒトは女神に祈った。
女神はヒトに願われた。そして生まれた。
女神はどこに居たのか?
祈るということは、願うということは?
それは己の内に──
二人の手合わせは大勢の観衆に囲まれ、大盛況のうちに終了した。それは壮絶なせめぎ合いであった。単純な筋力からの力押し、技量による駆け引き、どれもが最高峰の試合であった。
あの『蒼炎の勇者』と王の試合、という触れ込みであった。まさしくガリアの民にとって夢の対決である。
──それもまた、一つの願い
積年の望みが叶ったスクリミルは至極満足であった。
「俺の願いを叶えてくれて感謝する」
「俺もあんたと手合わせできて良かった」
固く握手を交わす二人。
特に騒動も起こらずつつがなく試合が終了し、両者とも納得の結果となり、ライはほっと胸を撫で下ろしていた。
(まあ……良かったかな)
ライの目には少年の姿で見える彼の楽しげな顔。その顔は失われた時間を取り戻すかのように力の限り遊ぶ子供のように見えた。
(それにしても、奴らも楽しそうだ)
二人の試合を観戦したガリアの民。その中には当時のアイク本人のことを知らない者が多くいたが、その姿を認識し、試合を観戦していた。
(これが伝説、か。そしてそれは強い願いでもある)
ライは青い鳥──アイクを認識する条件について再考した。
面識の有無を問わず、彼へ強い想いを寄せること、それが条件であると。
彼は己を「神のようなもの」と称した。その魂は女神の魂を統合したただのベオクとして生きたヒトのものである。
それは蒼い翼を広げ再び生まれ、昇華された存在。
(まだ、おまえといられるよな)
もっと、もう少し、その姿を見ていたいと思った。
彼がこの広い世界を羽ばたく姿を。
ともに歩み、彼と関わる人々の笑顔を、幸せを──
「ところで」
汗と埃を洗い流し、落ち着いた頃合い。
「その様子だとまだ軍師殿には会ってないな?」
酒卓を囲みながらスクリミルがある人物について言及する。
アイクはそれを耳にし、反射的に頷き、遅れてその顔を思い出した。
「ああ、そうだ、あいつ……」
それは、印付きであり、永い寿命を持つかつての参謀だ。はっきりと別れを告げることもなく長い時が過ぎた。
「そうそう、オレからも言ったんだけどセネリオのこと。蒼炎の勇者に関するガリアの歴史書の編纂を委託してるって」
「そうだそうだ。あいつならおまえに最も近しい身であっただろう。だからな」
参謀セネリオは常に彼へ付き従い、傍にいた。
彼が唯一神であるかのように心酔し、他の世界を遮断するかのように生きていた。
この世に生まれ落ちてから疎まれた少年時代を過ごし、死に絶えようとしていたとき彼と出会った。彼の施しが生きる糧となった。
セネリオにとって彼が世界のすべて、その世界は彼そのものであった。
「……良かった。あんたらがあいつの世界を広げてくれているんだな。そして元気そうで良かった」
セネリオは傭兵団を離れ、クリミア・ガリア間の奥深い森へ移住していた。歴史書編纂や魔道書精製などで生計を立て、独自の魔道の研究を行っているという。
「報酬を渡すとともにたまに経過報告を聞きに行ったりな。相変わらず邪険にされるけど昔よりは丸くなったと思うぜ」
アイク以外の人間に対し興味を見せないような、きわめて素っ気ない対応であったり、嫌悪を露わにするセネリオである。特にラグズへの対応は嫌悪混じりであることが多かった。
ライはそれを思い、ごく稀に茶を出されることも含め大進歩である対応だとアイクへ告げた。
「まあ、依頼者へ対する対応なんだろうけど。それでもな」
その話を耳にし、安堵の表情を見せるアイクを見てライもまた微笑んだ。
「おお……俺も軍師殿に会いたいぞ。こちらへ訪ねてくることもないんだ。生憎、これでも俺は席を空けるわけにもいかないからな」
スクリミルは大戦時、軍師としての策を見せ、ラグズ連合に勝利をもたらしたセネリオに対し、敬意含みの好意を抱いていた。
「よし、次はあいつの元へ行こう」
考え込むような表情で俯いていたアイクは顔を上げ、短く次の目的地を告げる。
「ああ、そうしてやるといいよ。きっと喜ぶだろう」
「土産を用意するから持っていってくれよ。俺からだってちゃんと言ってくれ」
スクリミルがそう主張するとライとアイクは和やかに笑った。
訪問者など二、三ヶ月に一度訪れる使者くらいであった。
歴史書の編纂という仕事を請け、報酬として現物支給の食肉や穀物などの食料を受け取っている。
魔道書の精製で現金を稼ぎ、日用雑貨・魔道の道具などを揃えている。
鬱蒼とした森に囲まれた小屋での生活。
セネリオは淡々と日々の仕事をこなし、自身の研究に明け暮れていた。
そんな生活をベオクの一生分の時間を超え、続けていた。そしてこれからも続いていくであろう。気の遠くなるような時間だ。
彼は彼の主を待ちわびていた。
おそらく主が生きているであろう時まで傭兵団に在籍し、帰りを待ち続けていた。
その間、団員たちが老い、土へ帰っていった。葬儀へ参列することもあった。その度顔を合わせるのは現在は使者として訪れるライだった。
言葉はないが、一人、また一人と顔を合わせることもできなくなっていく団員を見送り、時の流れをともに目の当たりにしていた。
彼がライへ茶を淹れるようになったのはそれからであった。
今日も変わらぬ一日が訪れ、書物と向き合い、一日が終わっていく。そう思っていた。
そんな折、少し開けていた窓から一羽の鳥が舞い込んできた。
静かに書を捲り、卓に乗った鳥を視界に入れず飛び去るのを待った。それでも鳥の視線を感じる。
それが勘に障ったセネリオは羽筆を持ち、軽く振って追い払う仕草をした。
その動作に合わせて鳥は卓から飛び立ち、宙を回った。そしてそのまま地に足を着ける。
「……あ?」
着ける足がある。否、出現した。鳥が宙に返った瞬間、変わらぬ日常が覆されたのだ。
鳥は少年の姿となり、地に足を着けていた。蒼い翼を背に、翼と同じ色の大きな瞳を彼へ向ける。
「……なあ、セネリオ。この半獣が! って言わないのか?」
少年は翼を揺らしながらいたずらに笑み、セネリオへそんな言葉を投げる。
「……、アイク……?」
その名を口にした。
その瞬間、少年は翼に包まれ、翼は光を放ち粒子となり消えていった。
セネリオは瞬きするのも忘れ、両手をわなわなと前に差し出し少年の元へ寄る。そして膝を折る。目線が重なり、忘れもしないその印象的な蒼い瞳を目の当たりにした。
「久しぶりだな。元気か?」
小さな手が差し出される。剣を握り続け固くなる前のまだ柔らかい子供の手。
「はい」
その手を握り返す。
どうしてこのような姿でアイクが存在するのか、ラグズのように鳥から人の姿へと化身し翼を持ったのか、その翼はどこへ消えたのか、など疑問だらけであった。
しかしそのようなことはどうでもいい、と理論派・現実主義者であるであるのにも関わらず、セネリオは眼前の主を受け入れたのだった。
(ああ、セネリオにはそう見えるのか)
窓の隙間から彼らの様子を伺っていたライは、セネリオが目線を低くしたことからアイクを小さな少年の姿で認識しているのだと推測した。
その者にとって最も印象深い彼の姿──
セネリオにとって、最も印象深く認識しているアイクとは、施しを受けたその時の彼であった。
ライはともに訪問せず、外から彼らの様子を伺っていた。
(久しぶりだもんな。二人きりにさせてやろう)
折を見て加わろうかと思っているが、しばし二人の光景を眺めていることにした。
「ちょ、ちょっと待ってください」
少し声を上擦らせて立ち上がり、セネリオは慌てて茶器を用意する。手が震え、茶器の蓋が鳴る。
振り返ると少し高い椅子にゆっくりと上がり行儀良く待つアイクの姿があった。目が合うと仄かに笑いかけてくる。
茶葉を茶器に入れる手が震え、茶葉が少し床に落ちる。
「どうぞ」
頬の辺りの筋肉を強張らせながらセネリオはアイクへ茶を差し出した。
卓に置かれた器を両手で掴み、アイクはふうふうと息を吹き、冷ましながら茶を口にした。
「うまいな。なあ、ライにも毎回ちゃんと出してやれよ」
「え、あ、あ、はい……」
使者として訪れるライへたまに茶を出すという話から、もてなしは毎度行うようにと言った。セネリオは苦笑いをし、ライはくすりと笑った。
そして彼がこの世の者ではないということを実感させられる。彼は今現在、生を受けている者同士の交流を取り持っているのだ。セネリオもライもそれを感じ取った。
「……あなたは……、おそらく、もう生きてはいない」
ぼそりとセネリオはそう口にした。
「僕は幻を見ているのです。僕は、あなたのことを忘れたことは一日たりともありません。だからついに幻を見るようになったのです」
セネリオはきわめて理路整然とこの状況を口にする。高揚と絶望を同居させながら。
「おまえは頭がいいからな。よくわかっている。そうだ、俺の肉体は滅び、地へ還っている。それが死というものであればそういうことだ」
アイクは静かな口調で幼い少年の姿にそぐわぬことを口にする。
「だが、こうして俺は今、おまえの前にいるだろう? それを幻と言うのか? おまえはこうして、今俺を見ている。俺もおまえを見てきた。だから俺は生きている」
その言葉は音ではなく心へ直接、現象として刻まれる。
「ああ……」
セネリオの頬に一筋の涙が流れた。
「アイク、あなたは」
心へ流れてきたその言葉、現象。それを胸に抱き感じる。そして彼が「居る」ということを全身で感じたのだ。
もう言葉は要らない。彼がどのような存在であるか、どのような経緯でこのような存在になったのか、それらすべてを悟った。
百年分の会話を一瞬で──
それほどの濃度であった。
願えばそこに。
「原理はわかりました。概念の具象化──。まさに、僕が追い続けているもの……」
セネリオは一度目を閉じ、あるものを思い描きもう一度目を開けた。そして目の前には初陣の頃の彼が現れたのだ。
(もう一度、連れていって欲しい)
戦地へ。ともに歩んだ戦乱の世へ。
そんな願いを抱き彼を見つめるも、彼は首を横に振る。
「道は、もうそこにはない。もう歩いてはならない道だ。
過去を回顧するのはいいだろう。思い出を胸に過去を偲ぶのはいいし、こうして思い出してくれるのは嬉しい。
だけど、おまえはまだ道の途中だろう? 立ち止まるな。大丈夫だ。俺は生きているから」
その指がセネリオの左胸を指した。
「はい……」
それはあたたかくも厳しい。セネリオは彼の指標を受け入れた。
「あの、いいか? ライだ。邪魔するぞ」
頃合いを見てライは戸を叩く。
「はい」
セネリオは袖で目元を拭い戸を開けた。
「あー……、今日は依頼の件じゃなくて、遊びに来たんだ。んー、わかるだろ? そこにアイクがいるだろ? オレもまあ、そうなんだ」
端的な言葉であるが、セネリオは悟った。
ともに囚われた過去から解き放たれようとしていることを。彼に未来へ導かれていくことを。
「……どうぞ」
茶器に残っていた茶を差し出しセネリオはライをもてなした。それはすでに温くなっているが仄かに感じる温かさが未来への兆しであるかのようだった。
「おい、アイク、何とか言ってやってくれよ。出してくれるだけ有り難いけどさ!」
温い茶を口にし、ライはアイクへそう軽口を叩いた。アイクはただ笑っていた。
「あなたに出す茶はもったいないので出涸らしで十分です」
「まあ、相変わらずだなー。うん、いいんだけどさ」
「ライ、スクリミルから渡された土産出してやれよ」
「あ、そうだ」
「たしか肉だぞ。いいな」
「アイク、それはあなたが食べてください」
こうして三人で他愛もない会話をし、食事をし楽しいひとときを過ごした。
それからセネリオはまた一人となった。
静まり返った小屋の中。
そこで一瞬で過ぎ去った団欒を思い返す。
そして筆を走らせた。
──概念の具象化について
仕事の傍ら進めている研究。その書に新たな発見が記された。そしてその書は年月を重ねるごとに厚くなっていった。
その歩みは止まらず、遠い未来に実を結ぶこととなった。
セネリオ自身も地へ還り、偉大なる賢者と伝記に記される未来にはその研究が形となっていた。
二人の歩みは特に打ち合わせずとも同じ方へ向いていた。
見慣れた景色が流れていく。
ライにとっては時折通った道、アイクにとっては家路へと続く道。
「こんな平和な時代になったが、皆、メシを食えているだろうか」
「大丈夫だ。今は全土で武術大会が開かれるようになって、それで武芸を磨きたいという奴らが多くてな。道場で鍛錬するのが一般的になって」
戦乱の世から平定の世へ。
武を極めようとする者は戦場ではなく、規則に則った試合で力を試す。
賭博場紛いの施設で行われ、大金が動く試合もあれば、国営の施設で行われ、栄誉とされる試合もあった。
かつて傭兵として戦場へ身を投じていた者は、武芸者として生計を立てることが殆どとなった。
アイクが父より引き継いで運営していたグレイル傭兵団もその例に漏れず、武芸者を育成し、道場としての運営が主となっていた。
「そりゃあもう、伝説の蒼炎の勇者ゆかりの道場とあっちゃ、人気さ」
「そうか。しかし俺は人に教えるのは苦手だな。俺がやっていたらうまくいかなかっただろう」
アイクは自身のことを省み、端的に感想を述べた。自身の修練はどこまでも追求していけたが、他人へそれを伝授する機会もさほどなく、念頭に置いたこともなかった。そして伝えられる自信もないということだ。
「まあな。めんどくさい、突っ走る、とか言ってた奴が教えられるとは思わない」
ライは昔、アイクが勢い任せに口走った言葉を軽口として言う。二人は思い出し笑った。
──その足はかつての家へ向かう。
「行ってきます」
少年は家族へそう告げ、いつもの場所へ向かっていった。
「ああ、あの子、またあそこね」
「お疲れ様。いつもありがとう」
少年の母親が掃除用具を手に見送り、少年の祖母が礼を述べた。
彼女は老いのせいで足が悪く、一日の殆どを椅子の上で過ごしている。それでも長寿であり、健康状態は良好であった。手仕事をしたり、孫と語らったりと穏やかに日々を過ごしていた。
そんな彼女の代わりに母がある部屋の掃除をしていた。
「本当は、わたしがしたいんだけど、無理をして逆に迷惑をかけてはいけないねえ……」
「いいえ、このくらいなんてことは」
母は腕まくりをし、余裕があるところを見せた。
「もう、使われない部屋だから片付けて他の子に割り当てようかねえ……。ほら、あの子にも子供が産まれたわ。また手狭になる」
別の孫に子供ができ、彼女は曾祖母となっていた。
「そんな、お兄さんはいつか、きっと……」
「わたしもこんな歳よ。兄さんは歩いて帰ってこられるのかしら」
彼女は遠い昔に旅立った兄を待っていた。任務といい、旅立ち、それ以来戻ることのなかった兄。
彼が旅立った理由は彼女の亡き夫が墓まで持っていった。彼が帰らぬ人であろうことは知らなかった。
それでも彼女は彼の部屋を当時のままに、いつでも帰ってきて居場所があるように保っていた。
「でも、もう少し、あの子が大きくなるまでは。そのままでいさせてもらおうかしら」
現在は彼女の孫の一人がその部屋によく出入りし、寝台で英雄譚を読みふけったりしていた。
「あの子ったら、本当に『蒼炎の勇者』の話が好きね。うちがその家系であることは確かに誇らしいけど」
母はため息をつき、彼女は微笑む。
「そう。でもうちの人は斧使いだったから剣技を継承できなくて残念だわ。あの子は剣士になりたいのよね」
ここはグレイル傭兵団の砦。
この傭兵団はかつて、大陸の歴史が大きく動いた局面の中心にあった。創設は彼女の父親による。そして兄へ継承された。兄はとある任務のため席を空けるといい、その間、彼女の夫へ団長の座を継承していった。
その後、彼女の兄は帰ってくることはなかったので、団長の座は彼女の夫からその子へと継がれている。
現在は道場としての運営が主だ。彼女の夫は斧使いであったため、現在道場として伝授できる主な武具は斧となっている。
「剣も槍も弓もある程度はうちで教えられるけど、極めようと思ったら外へ行かなきゃならない。ああ……それより読み書きを学んで代書人にでもなってくれたほうが」
母は息子が武芸者としての道を歩むよりも、身入りが良く、身の危険が少ない職を選ぶことを望んでいた。
「昔よりは安全よ。傭兵じゃなくて競技者なら。大会は不殺が取り決めだから」
彼女は手仕事である刺繍をしながらしみじみと語った。
「そりゃあね、行ってしまって帰ってこなかったら、と思うと苦しいのはわかる。待つのは辛いわ。でも、思うの。離れていても、家族は家族なのよ」
彼女の手元には青い鳥。
一針一針、丁寧に縫い、それを形作っていた。
この鳥は孫が物心つき、兄の部屋へ出入りするようになってから見かけるようになった。
兄の部屋で少年へ昔語りをすると現れるのだ。
「ああ、また会ったなおまえ」
砦の裏手にて少年は剣の素振りを終えると草むらに座り込んでいた。ここはかつての団長とその息子がよく二人きりで剣の修練を行っていた場所である。祖母からをそれを聞いた少年は以来、好んでここで自主鍛錬に励んでいた。
「来いよ」
少年は指を差し出し、小鳥へ指に停まるよう促した。
この青い鳥は祖母から蒼炎の勇者──祖母の兄の話を彼の部屋で聞く際、どこからともなく現れる。
「なあ、いつも言ってるけど俺、剣士になりたいんだ。でもじいちゃんが斧使いだったからってうちは斧が得意な道場になっちゃった。おかしいよな? 蒼炎の勇者が団長だったのに。剣の総本家、ってならなかったんだ」
指に停まらせた青い鳥に向かって少年は友のように話しかける。
「やっぱりさー、斧より剣だよな。剣ってかっこいいから」
鳥は細かく瞬きしながら少年を見つめていた。
「あー、いつかは旅に出て剣を極めるんだ! 強い奴とどんどん戦って強くなるぞ! あの人もそうしたんだろう?」
吟遊詩人が唄う蒼炎の勇者の物語には有名な一節があった。
──その後、彼の姿を見たものはいない
「ばあちゃんは仕事に行ったまま帰らなかったって言ってたけど、きっと強い奴を探しに行ったんだ。そしてどんどん強くなっていったんだ」
目を輝かせ、少年は語る。
〈ああ、そうしたかったな〉
「ん?」
少年は誰かの声が降りてきたような気がして目を見開く。そして辺りに誰もいないことを確認して気のせいだと思った。
「まあいいや。それにしてもおまえ、よく会うな。そうだな。そろそろ名前があってもいいよな」
依然、少年の指に停まりおとなしくしているこの鳥は、まるで少年の話に耳を傾けているようだった。普通の鳥であれば少し近寄るだけですぐに逃げるが、この鳥は人を恐れず静かに人の声に耳を傾けているかのように佇んだ。
少年はこの鳥を幾度も目にし、こうして自分の夢や鍛錬の成果などを語りかけるようになった。そうして愛着が涌いていた。
「どうしようかな……」
どのような名前を与えようか少年は思案した。
「……うん、これだな」
そしてこれしかない、という名を思いついた。
「なあ、アイク。おまえはアイクだ」
その蒼い翼が、かの蒼炎の勇者を想起させた。少年は伝え聞いた姿しか想い描けないが、強くその印象を想い描いた。
「あ!」
鳥は名を授けると少年の指から飛び立った。蒼い翼が少年の視界いっぱいに広がり、太陽の光を受けてきらりと輝く。その身が太陽へ向かいくるりと返ると、翼を背にした男の姿が──
「……おまえは、誰だ?」
少年の開口一番。
「何を言う、おまえが今名付けただろう?」
翼は粒子となり消え、その印象的な蒼は瞳へ集約されたかのような。
「ああ、そうか。アイク。おまえはアイクなんだな?」
いつものように、小鳥へ話しかけるように少年は眼前の正体不明な男へ話しかけた。
「ああ、そうだ」
緩く口元が笑む。その笑みは涼やかに走り抜ける風のようだった。
(アイク、おまえは「ここ」にもいたんだな)
ライは物質として存在しない何かに話しかけている少年の姿を木陰から覗き見て、彼がそこに存在することを悟る。
彼がどのような存在となったか、ライは納得していった。それとともに、目に見える現象としての彼は消えていく。
(分かっていた、分かってきたんだ。おまえはもういない。でもいるんだ。ここに)
樹に凭れ、少しずつ膝を折り、その視線は地面へと。その手は胸に。
(そう長くはなかったけど楽しかったぜ……)
地面にぽたりと水滴が落ちた。
思い浮かべれば鮮明に蘇る。どのような言葉を交わし、どのように生きたか、彼の在りようが。
そしてもう、悔いはない。
「これ、言ってなかったからな。なあ、聞いてくれ」
胸を数度叩き、ライは一言彼へ向ける。
「じゃあな」
別れの言葉。
自分にも言い聞かせるように。長年の気がかり、心残りからも決別する。
それを口にする勇気が出たのもこうして彼とともに彼を想う人々に触れたからであった。
そして青い鳥は羽ばたく。
「わあ! すげえ!」
少年の模擬刀を手にしたアイクが剣舞のような業を見せた。それは英雄譚でも伝えられる業。月のような弧を描き、煌めく太陽を背にするような。一騎打ちに於いて一撃必殺の威力を誇る。
少年はそれを幾度も想い描き、いつか己もその業の使い手になれればと思っていた。
「……これでいいのか?」
「うん! 見せてくれてありがとうな!」
高揚から顔を上気させ、少年は礼を述べた。
「でもこれは、隙が大きいからな。大将同士の一騎打ちにはいいが、混戦した中で使うには……」
アイクはその先を説明しようとし、言葉を噤んだ。
──戦争を知らない子供
そんな子供に数多くの人間を屠る術を説明することはないだろうと。
もう、剣技は競技と化した平定の世。
「いいよ、全部教えて」
少年は真っ直ぐな瞳で訴えかける。
「ばあちゃんとじいちゃんから聞いた。アイク、あんたの物語は華やかで勇ましい話ばかりだけど、辛いこともあったって」
その言葉でアイクは妹とかつての仲間の顔を思い浮かべる。
「……あのな、これ、誰にも言ってないんだけど、じいちゃんが死ぬ前におれだけに、って教えてくれた。
あんた、どこか知らない場所へ死にに行ったんだろう?」
死に場所を求め、偽りの任務で家を離れたこと。それはただ一人だけに告げていた。
「あんたは黙っていてくれ、と言ってたっていうし、じいちゃんもそのまま誰にも告げずにいようと思っていたって言っていたけど」
「あんたの本当のこと、誰も知らないのって、さみしいだろ? おれが覚えててやる」
(ああ、忘れない。忘れないさ!)
その少年の言葉を耳にしたライは、彼が辿った軌跡、その上の苦悩を思い出す。
それが怒濤のように蘇り、嗚咽しそうになるのを堪え、口元を押さえた。
そして、ライは伝えなくては、と思った。
「やあ、久しぶりだな」
そろりと歩み寄り、ライは少年へ声を掛けた。
「あ、ライさん!」
ライはこの少年と顔見知りであった。団員が殆ど没してからあまりここへ立ち寄ることもなかった。しかし、ここで生まれ育った少年が物心つき、『蒼炎の勇者』の物語が好きなことを知るとクリミア方面へ用事があるとき、たまに顔を見せるようになっていたのだ。
「そこに、いるだろう?」
突然、何かを指摘されて少年は首を傾げたがすぐに頷いた。
「うん! アイクだよ、あのアイク! 剣の技も見せてもらった! やっぱり言ってた通りすごいね!」
少年は伝記や伝聞でしか知らなかった憧れの英雄のその姿、業を、目の当たりにできた興奮を伝える。
「あの青い鳥がそうだったんだ。なんだ、すぐそばにいたんだな」
「そうか」
ライはただ微笑み相槌を打った。
この少年もアイクという現象、概念に触れ、実感していた。強い想いが昇華され、目の当たりにしたのだ。
「なあなあ、また教えてくれよ」
少年はライへ昔語りをせがむ。
「今度は、もっと。辛かったことも悲しかったことも教えてくれ」
「ああ」
「ライさん、お久しぶりです」
ライは少年とともに砦を訪ねた。少年の祖母が出迎える。彼女とは長い付き合いであった。戦乱の世から見知っていた、今となっては数少ないベオクである。
「ばあちゃん! おれ、ばあちゃんの兄ちゃんに会ったよ! って、あれ? そういえばどこに行ったんだ。あの鳥! なあ、あの鳥がそうだったんだ」
「まあ、あなたもなの」
彼女は穏やかに笑う。ライはその様子を見て、安堵のようなものを覚えた。
帰らぬ人となった彼を待ち、想いを馳せ続けてきた彼女を見てきたライは己の想いを重ね、心を痛めていた。そんな彼女が己と同様に彼の姿を目にし、想いが昇華されたであろうことに。
「わたしのところへも来たわ。いえ、ずっとわたしたちのそばにいたのね」
その手元には一糸一糸丁寧に形作られた青い鳥。これまで目にしてきたその姿を縫い留めた彼女の作品である。
「ああ、ライさん、お掛けください。ようこそいらっしゃいました。……あの、この子の言ってることお分かりになります?」
彼女の問い掛けにライはこくりと頷いた。
「ばあちゃん! おれがお茶入れるね!」
少年が元気よく台所へ駆けていく。
「あの子も大きくなったでしょう。剣士になりたいという想いも変わらずに、鍛錬も欠かさず行っている。そろそろ、外へ出てもいいころだと思うの」
待ち人をずっと待ち続けている彼女のその言葉。ライは眉を上げた。
「あの子の母は離れがたくて反対するけどね。気持ちは分かるわ。待つ辛さも、離れる辛さも」
彼女は静かに語りながら指を動かし、針を進めていた。
「でも、離れていても家族なのは変わりないわ。そして想えばいつもそばにいる」
その穏やかな笑みは慈愛に満ちていた。
「あの、あいつは、アイクは何と言ってたんだ」
己と同じように、彼の姿を目にしたという彼女へ、ライは一言訊いた。
「ありがとう」
それが彼の言葉だった。
〈ここはとても居心地がいいわ〉
〈そうだろう。あんたが言った通り、俺は望まれたんだ。望まれて生まれたんだ〉
彼を想う人々の思念に導かれて青い鳥は飛んだ。
ひととき、邂逅を果たし意志を交わす。
互いに幸せなときだった。
それを繰り返し、彼は己が人々の記憶で生きていることを実感し、感謝する。
〈わあい! 猫枕って一度寝てみたかったの!〉
〈なかなかいいものだな〉
勇者の剣碑の元に陽気を浴びながら丸くなる大きな青猫がいた。その猫に蒼い翼を持つ小鳥が停まる。
(アイク、来てくれたんだな)
青い鳥が停まったことを感じると青猫は待ち人が現れたことを知る。
諸国を巡り、すべての旅程を終えたライは再びこの場所に戻り、それまでの旅程を思い返していた。
きっと彼は現れるであろうと想いながら化身し、ふかふかの毛皮で彼を迎えようとしていたのだ。
どうやら、彼に気に入られたようだった。小鳥は毛皮に埋もれてその毛並みを楽しんだ後、陽の光に包まれながら微睡んだ。
〈あなたって、いい友達を持ったわね〉
〈ああ。辛いとき、俺がそうだと知っていてくれた。そして今でも忘れないでいてくれる〉
彼は己と同化した女神と会話しながら幸福に包まれていた。
「ライ、礼を言うのを忘れてた。ありがとうな」
その言葉がライの意識に直接届く。
「もうひとつ、言うのを忘れてた」
「またな」
──青い鳥はそばにいる
いつでも会える。
想えばそこに──
─了─