雪解け吐く息はもう白くない。
白で覆われていた大地も雪解けの水でぬかるみ、次第に緑で覆われていく。
クリミア軍はオルリベス大橋を抜け、いよいよクリミア国境内に到達した。軍はそこで陣を張って一時、休息を得ていた。
天幕から少し離れた雑木林の中に彼はいた。軍を率いる将であるが、人を避けるかのようにそこで鍛錬をしていた。
聞こえるのはただ剣を振るう音のみ。以前よりその音は小さくなっていた。空気の抵抗が少なくなっているのである。無駄な動きが削ぎ落とされている証拠だ。音は小さくなったがその速度は増していて、振るう回数があっという間に彼の決めた回数まで到達する。理想は流れるように剣を操れるようになること。体の一部と化すように動かせるようになること。それは父の他のもう一人の剣の師である砂漠の隠者から受けた心得である。
その手には手によく馴染んだ愛用の剣が握られていた。それは誕生日に彼の父から贈られたものである。重さといい、刀身の長さといい、彼の身に良く合った仕様のものであった。彼の手によって丁寧に手入れがされていた。ここまで命を預けてきたものである。
特にその剣を用いて鍛錬をするときは何かがあると、強く予感しているときである。
(あの動きはグレイル殿からのものではないな)
一切の気配を絶ち、陰から彼を見つめている男がいた。男は暗殺を生業とする者である。彼がメダリオンの力によって暴走した場合、その命を絶つという契約を結んでいる。契約を遂行するため、軍属ではなく彼個人の命で動いていて、常に彼の動きとその周囲に目を配っている。
彼と関わりを持つようになってから男は、彼の剣筋も見据えてきた。日々彼は成長を続け、その動きも常に変化を続ける。
今、こうして見られる剣筋は彼の父親からのものではなく、違う流派のものであると見た。どちらかというと剛の剣であった彼の父親の剣筋と比べて今、彼が再現しているのは流麗な柔の剣であった。
(何かを成そうとしている)
男は興味深げにそれを見つめていた。
彼は動き出した。素早く駆け抜け、さほど木が生えていない広い場所に躍り出る。男もさっとそれを追う。そして彼は跳んだ。きらりと刀身が光を反射したように見えた。あたかもそれは太陽そのものかのように。
(…大味だが、侮れない)
跳躍した彼はそのまま剣を大きく振りかざし、弧を描くように振り抜いた。その軌道は月のように美しかった。
剛と柔の融合、そして天空を舞うような剣筋。実戦で用いるにはまだ隙が大きすぎるものであるが、次第に完成されていくのであろう。これは集団で混戦になった場合に用いる奥義ではないと思われる。
(いよいよか)
これは、一対一の戦闘で用いられるための奥義だ。しかも、相当な覚悟を決めないと繰り出せない性格のものである。失敗したときのリスクが大きい。彼くらいの実力者であれば、このような大技を用いなくても大抵の敵は撃破できるのである。リスクを犯してまで勝負をかけなければならない相手…それは彼にとってただ一人。
──彼の父親の仇。
大技の鍛錬を終えた彼は、再び剣を構えて息を整えながら意識を己の中に落としていく。そして大気と同化させていく。
以前、このような状態の彼に敵兵が襲撃したことがある。一見、隙だらけに見えるのだ。しかし、実際はその真逆の状態である。敵意や悪意を持って彼の周囲に立ち入れば、脊髄反射レベルの速度で始末されるであろう。
そう、少しでも「負の気」を纏って彼の懐に入り込もうとすればたちまちのうちに飲み込まれてしまうのだ。彼は体内に普通ではない量の負の気を取り込み、それを飼い慣らしている。
だが、それが全くなかったとしたら。
「よう、アイク」
突如、木の上から一人の青年が飛び降りてきてするりと彼の背に立った。そしてぽん、と彼の背を叩いた。猫のようにしなやかな動きだった。
──と、いうか猫なのだが。
「ライか。何だ?」
ライと呼ばれた青年は、猫のラグズであった。獣耳と尻尾を持つ。その動きもしなやかである。
「この期に及んで、まだ訓練か?」
ライはごく自然に、気軽にそうアイクに語りかける。
その様子を暗殺者の男…フォルカは陰から見つめていた。
(あのときのラグズか)
フォルカはライとは会話を交わしたことはない。しかし初見ではない。初見はデインの捕虜収容所での一瞬で、港町トハからベグニオン行きの船に乗るまでの間、その姿を見かけていた。
ライは、アイクたちが船に乗り込むまでの間の時間稼ぎとして、アイクの仇敵である漆黒の騎士と対決していた。そこで別れて以来、オルリベスで合流するまでの間姿を見ることはなかった。
(妙な奴だ)
フォルカはライをそう評する。特にラグズであるからこそ強くそう思うのであった。
ライはいとも容易くアイクの間合いに入り込んでいった。しかも近づけば斬られる、という瞑想中においてである。
(本当に動物だな)
木陰に何かいる、というのは感じていた。その気配は森の小動物のものとなんら変わりはなく、ましてや負の気など微塵も感じなかった。これはきっとアイクの側にただ行こうとしたからだろう。おそらく、獲物を狙う目的があれば殺気を感じることができたと思われる。
しかしそうであったとしてもそれは一瞬の淀みであるはずだ。このラグズはかなりの手練だ、そうフォルカは力量を測っている。現に、どういう経緯があったかわからないが、あの漆黒の騎士と対決して生存しているのだから。
アイクもごく自然に自らの領域にライを招き入れたのである。理屈ではなく本能で。
「この期に及んで、ということはない。終わりなんかないんじゃないか」
その双眸はしっかりとした意思を以って相手を見つめている。
「そうか、そうだよな。見たぜ、さっきの」
ライは先程のアイクの奥義の鍛錬のことを指してそう言った。
「まだ完成してないんだろうけど、あれは決まったらデカイな」
「…見てたのか。ああ、まだ実戦では使えない」
そう受け答えつつもアイクは剣を振るい、手を休めることはなかった。
「っていうか休もうとしないのなおまえ」
そんなアイクの様子を見てライは一つ息をついてそう言った。
「ああ、こんな時間でも貴重だ。俺は…剣の鍛錬を欠かしたことはない。どんなにわずかな時間だとしても必ず剣を振るうようにしている」
その剣を触らずにしてもライにはその重さが伝わってくる。その重さはどれほどのものか、いろいろと思いを巡らせる。
「こうしていると、精神集中して落ち着くっていうのもあるしな」
精神集中、というか瞑想の域に入っていた。自分は彼の領域に入ることができたが、少しでも殺気を滲ませたりすればたちまちのうちに斬り捨てられたであろうとライは思った。そして彼の領域に入れたことを仄かに嬉しく思った。
それにしても、このような域に達するまで彼にどのようなことが起こっていったのだろうか。まだ再会して間もないライにとって知りえないことが多々あった。
まだ、一年も経っていない。
しかし、彼の成長は驚くべきスピードだと感じた。長寿であるラグズの感覚だからなおのこと。彼がベオクであることを加味しても常人の数倍だ。尤も、成長期ということもあるのだろうが。
(こいつがこんなに急ぐのは)
ライはふと目を瞑り、とあることを思い出した。彼の父親が漆黒の騎士に討たれたときの光景。漆黒の騎士は自国の王が唸りを上げて駆けつけたときに退散していったが、時既に遅かった。王に付き従っていき、その場を目撃したライは彼が雨の中父親を必死に抱えて歩いていった姿をただ見ていた。
(時間は待っちゃくれない。いつまたあいつと会うことになるのかもわからない)
「…それに、俺は…これをやめると」
アイクは切先を見つめ、呟くように言葉を紡いでいく。
「待っているのは…死」
それはただ単純な原理、それだけではないように聞こえた。
「死」という単語が嫌に貼り付いて離れない。ライは一瞬、アイクの体に蒼い炎のようなものを見た。
(なんだこれは)
そして全身の毛が逆立つような感覚に襲われた。尻尾の先が逆立ったのをアイクに見られないようにぶんぶんと振り回す。
これは何だろう、そう思い考えを巡らせるとそれは戦場における負の気に近いような気がした。猫の民はそういった負の気に敏感な種族である。ライは特に鋭敏であり、あまりにそれに中てられると気分が悪くなってしまうほどである。
しかし、アイクの側にいて気分が悪くなるということはない。むしろ、何か吸い寄せられるような感覚だ。どうして不吉な単語を紡いだはずなのに。精錬とした正の気が彼から発せられているわけではないのに。
何か、中和されている気がした。
その様子を陰の暗殺者も見つめていた。二人の会話まではよく聞こえないが、読唇術でおおよその内容は伺えた。そして、彼の炎を見逃さなかった。
(あの猫は聡い奴だ、きっとあいつの内包しているものに気づくはずだ)
ライはすう、と息を吸い込んだ。
「なるほど」
息を吐き、平静を取り戻しライはそう会話を続ける。
「おまえの強さには…親父さんから受け継いだとびきりの才能だけじゃなく、たゆまぬ努力の裏づけってのがあるんだな」
腕を組み、にこやかに表情を作りそう言い放った。
アイクは一瞬そんなライの瞳を見つめるも、すぐに再び剣を振るう。
「………」
そして沈黙。
少し気まずい空気が流れる。
(相変わらず愛想ないのな、おまえ。ちょっとは笑え)
ライはそんなことを思ったが、口には出さなかった。
「あ、オレ…もしかして邪魔してる? そんじゃ…」
その場を去るそぶりをしてライはアイクに一瞥をくれてやった。
「待て。何か用があって来たんじゃないのか?」
そうアイクが引き止めてきた。ライは内心、してやったりと心躍った。
「…ちょっとばかし余計な心配をしているだけだ。おまえさ、どんなに休めって言っても休もうとしないし」
ライの言葉にアイクは思わず手元を見つめた。しかしすぐに構えの体制に入る。
「今も、話しかければ手を止めるかと思ったけど…」
ライがそう言って一つ息を吐き出すのと同時に、剣が空を切る音が聞こえる。
「…なんだ」
アイクはその剣を振り下ろすと視線をライに向けた。
「俺はそんなに危なっかしいか?」
眉間に皺を若干寄せながら首を少し傾げてアイクはそうライに問う。そんな彼の様子を見てライは軽く吹き出す。
「それを聞くか!?」
ライはびしっと指をアイクに向けてそう言い放つ。
「おまえみたいな強引で直線な将軍、どこ探したって居ないって。作戦なんてあったもんじゃないし」
ライは、オルリベス大橋侵攻の際のことを指してそう言った。罠が仕掛けられているらしいという状況で、とにかく進むしかないとアイクがそう軍議で発言していた。実際、一本道なのだから選択の余地はないのだが。
「別に…俺は俺だ」
ぷい、とアイクはライにそう背を向けて言い捨てる。
「他の誰かと同じでなくても構わんだろう」
そう、背中で語るアイクの姿を見てライはある種の笑いがこみ上げてくる。
(ああ、やっぱりそうだ。こいつってやつは)
ライはその手を伸ばし、アイクの肩をぽんぽんと叩く。
「で、これだよ。なに? その脈絡のない自信は。ベオクって、人と同じことをして安心感を得る種族だから…なんかぷか~って浮いてるぜ、おまえ」
そう言われてくるっとアイクが振り返る。
「悪かったな」
怒り顔であるものの、年相応の表情になってきているのを見てライは内心笑んでいた。あとひと息、そう思った。
「そいでもって、ベオクのことをこんなに気にしちまうオレは…ラグズじゃあ、やっぱり浮いてるわけよ。ぷかぷか ぷかぷか オレは魚かっての」
ちらちらとアイクの眼を見ながらそうおどけた様子でライは冗談めかして言う。心なしかアイクの瞬きの回数が増えたように見えた。そして、アイクがぶっと吹き出した。
(やった! 笑えるじゃないかおまえ)
ライは拳を握り心の中で盛大に喜んだ。
「猫のくせに自分を魚に例えるなよ」
そう返すアイクの瞳が笑っている。こんな顔を見たのは初めてかもしれない。少なくとも今の風貌においては。
木陰にいる暗殺者も確かにその様子を目撃していた。
自分が目にした彼の笑みとは明らかに違うものだった。これまで目にしてきたものは、皮肉な笑みや彼自身の嘲笑であったりと本来の意味での笑みではなかった。
──扉は開かれた。さて、時間は動き出すかどうか。
その雪に足跡を付けて歩き回るのは冬の間、そして春は雪解け。
(あの猫は奴の妹と同系統だな。正の気が強い、っていうやつだろう。しかしそこまで奴に執着するとはな。まあ、奴に庇われたという経緯があるからだろうが。それだけでもないのか)
フォルカは一連の様子を見つめつつ、ライが港町トハでラグズへの敵意を持った一般市民の暴行からアイクに庇われたということを記憶から引き出してきた。
(奴…アイクは平等、無差別。それがラグズの奴らにも好まれる所以)
その思考に至ったとき、フォルカはにやりと口端を上げた。
(それは、奴自身にもだが。奴にとって己の命と三十人の他人の命の重さはただ単純に数量で三十の方に傾く。それもまた無差別)
「おっ! 笑ったな。よ~しよし。その調子で肩の力抜いてろよ」
そう言ってライは両手でぽんぽんとアイクの肩を叩く。そんなライの言葉をアイクは柔らかい表情で受け止めていた。
「わかった。休憩する」
アイクの手に握られていたリガルソードはするりと鞘にしまわれた。彼はふっと身が軽くなったのを感じたので、ライの勧めどおり休息を得ることにした。
(こうやって鎮める方法もあるのか)
体内に溜まっている気が少し拡散されたような気がする。ライの手を通してあたたかいものが流れ込んできたような気がした。
「じゃあ、天幕に戻って…おまえの妹か姫が茶でも入れてくれるんじゃないか?」
「そうだな。おまえも行くか?」
「ああ、といきたいところだが…ちょっと用がある。すぐ追いかけていくぜ」
ライはそう言い、ぽんとアイクの背を押し見送った。
「さてと…」
アイクの姿が見えなくなるとライは周囲を見渡した。
「いるんだろ? わかってるぜ。おっさん」
そしてとある方向に向かってそう言い放った。
「…猫は鼻も利くようだな」
そう低いトーンで呟きながら、かの男は木陰から姿を現した。
「ああ、あんたからは死臭がぷんぷんするからな。猫でなくてもわかるぜ?」
ライはアイク個人と契約を結ぶこの暗殺者を指してそう言う。
「たしか、捕虜収容所で初めて見たな。一瞬だったけど…あのときから妙な匂いがしたと思った。あんたは情報屋なんだって? ただの情報屋にしては妙に血生臭い匂いがするな。殺しに慣れすぎている」
わざと鼻をひくつかせる仕草をしてライはフォルカをそう評する。
「…詮索するのはためにならん、やめておけ。尤も、お前などに話すつもりもないが」
フォルカの表情は覆面に隠されていてその赤い瞳が眼光鋭く光っていることしかわからない。
「そうだろうな。ただ、とても表社会で生きている者とは思えない。そんなあんたがどうしてアイクの側にいつもいるのか、なにかしらの契約を結んでいるのだろう」
「だとしたらどうだというのだ」
ごく低い声で牽制するかのようにフォルカはそう呟く。
「あいつが望んで事情があった上でなにか為されているのだとしたらオレがどうこう言うことはない。ただ、オレもあいつの側にいる。それだけだ」
ライも左右色違いの瞳をぎらつかせてそう牽制するように呟いた。すると、
「ふ…」
フォルカから鼻で笑ったような笑いが起こる。
「なんだよ、おっさん。っていうかオレのほうが年上かもしれないがな」
ライは腕を組んでフォルカに睨みをきかせる。
「まったく、妙なラグズもいるものだ。大方、お前はあのトハの一件でアイクに肩入れしているのだろうが」
思わぬ言葉にライはぐっと息を飲んだ。
「…ああ、あいつはバカだ、あそこで出て行くべきではなかったのに行ってしまったがために大事になった。あんなのはまあ、よくあることだ。なのにあいつは本気で怒って、助けに入った」
ラグズへの差別、そして一般市民からの暴行。ライは誤って獣耳を目撃されたがためにその地でそういった状況に追い込まれた。彼はそれに対して無抵抗だった。本気で抵抗したら市民などは惨殺されてしまうだろう。彼はそれを望まない。暴行から耐えるのに肉体的にはそれほど負担はない。
「別に、その辺のおばちゃんやらに殴られようがそんなに痛くはない。まあ、気持ちのいいものではないけどな」
ライはふう、と一つ息を吐く。
「嬉しかったさ、あいつが来てくれて」
そう言う彼の瞳は強く意思を持っていた。
「あいつは…あいつは…」
「別にお前だから助けた、というわけでもないだろう」
ライが言葉を次げないでいるとフォルカがそう続けた。
「目の前に石があるから拾ったのと変わりはない」
「…なっ」
「お前がラグズだからとかそういったものも関係ない。一と三十どっちが大きいかわかるか?」
「……」
「ただ数量として三十の方が大きい、ただそれだけだ」
「なんだよ、オレがただ大勢に嬲られてたからって言いたいのか? まあ、それでも十分じゃないか」
「あいつの理に反した、だからそれを諌めようとしたということもだな」
「ただ、一が強大な力を以って三十を滅するという状況になれば…奴は一を殺すだろう、それが己だとしてもだ」
何かの例え話だろうか、ライはそう思った。
わかるようでわからないそんな言い回しに少し苛立ちを感じた。ただ、それがアイクに関連することであることは確かだろう。
「…わけわかんねえこと言ってんじゃねえよおっさん」
ライは鼻息を吹いてそう吐き捨てるように言った。
「獣はやはり獣だな、足りない頭で考えるがいい」
フォルカはそう挑発的な言葉を残してさっとその場を立ち去っていった。
「く、くそっ!」
盛大に舌打ちしてライはその場で地団太を踏んだ。
その夜、アイクの天幕に一つの影があった。
「俺の情報によると……」
その影の主である男は、クリミア領内デルプレーへ侵攻する敵襲のおおよその数と敵将の情報、地形などから考慮される作戦や時間といった情報をアイクに告げていた。
囮として篭城しているクリミアの遺臣を救出するという目的がそこにあった。クリミアの姫がそれを望んだため、アイクがそれに応えるという形になったのである。身内である遺臣たちがそれには反対したが、それを押し切る形となった。そして情報を集積し、軍議で作戦を固めた後、速攻で実行されることとなっていた。
軍議を行う前に、アイクの私兵であるが軍内の情報屋として実績を重ねてきたその男の情報の到着を待っていた。
「なるほど。それにしてもこんな短時間でよくそこまで調べたな」
アイクは感心しつつ男にそう言った。
「ふ…これは契約外のことだからアレとは別料金だ。尤も、これは二重契約になるがな。だから安くしておいてやる」
「ん? 違う筋からのセンでもあるというのか?」
少しひっかかりを覚えたアイクが男にそう問う。
「…『火消し』に詮索をする奴にいいことはない。俺が答えるのはそこまでだ」
男はその瞳だけを光らせて低いトーンで言い放つ。
「そうか、まあいい。とにかく早朝に会議だ。フォルカ、ご苦労」
そう言いアイクは書卓に乗せられている書類に目を向けようとした、が
「…別料金と言っただろう?」
男のその言葉を皮切りに天幕に映る二つの影が床に落ち、燭台の炎が消されたのか影自体も見えなくなった。
月はその天幕を照らす。雲も霧もなく綺麗な月夜だった。
ほとんどの天幕の灯りは消えて静まり返っていた。野営の炎がぽつぽつと燃えていて、見張りの兵が待機しているのみだった。
そんな中、さっと一つの黒い影が不自然にある天幕と天幕の間から現れて闇に消えていった。普通なら目視できないであろう。しかし獣牙であるライは夜目が利くためそれを動きのみであるが目視できた。
(なんだあれは)
気にはなったもののそれを追うのは無理だと思った。すでに気配もなく、どの方向へ行ったのか分からなくなった。しかしふと切り返してその天幕と天幕の間をじっと見つめていたら、もう一つの影が現れた。
ライはなんとなく気になってそれの後を追うことにした。
(確か…あっちは…)
その影が向かおうとしている先の見当がついた。
静かな水音が聞こえる。
ライは気配を殺し、息を潜め、それを見つめていた。
(なにやってんだあいつ、こんな時間に)
ここは木陰になっている泉だった。そんな場所でこんな深夜に水浴みをしている者がいる。
「…おい」
堪えきれず、ライは思わずその者に声をかけてしまう。
「! なんだ、ライか」
ライに声をかけられたのはアイクであった。驚いたような様子で振り返る。
「なんだ、じゃねえよ。なにやってんだよおまえ」
「…見れば分かるだろ、水浴みだ。ひどい寝汗をかいたからな」
アイクは特に気にかける風でもなく平然とそう返しているように見えるが、ライはほんの少しのぎこちなさを見逃さなかった。
「ふーん…。そっか。すっきりしたらさっさと寝ろよ」
ライも特に気にかける風でもないようにそう返す。
「ああ。じゃあな」
アイクはそんなライに背を向けて泉の水で顔を洗う。
「…っていうかなお前、そんな姿で剣も何も持たずに一人でいるなよな。危なくて仕方がない」
ライが指摘したアイクのその姿は、まさに一糸纏わぬ状態で無防備そのものだった。ここに来るまでの間も夜着に外套を羽織っただけの軽装であった。その姿だけなら一見、この軍の将に見えなかったかもしれない。
「あ、そうか。さすがにまずいな、すまん」
素でうっかりしていたのか、アイクはそう言いはっとした表情になった。
「大丈夫かよおまえ…。んじゃあ、まあオレが見張っててやるよ」
「悪い、頼む」
アイクはそう言うとふいと振り返りライに背を向けた。そしてその瞬間ライは声をかみ殺して笑った。アイクのその様子があまりにも無防備で気が抜けているため可笑しさがこみ上げてきた。
(でもいいのかね、こんな姿簡単に見せて…)
昼間、剣の鍛錬をしていたときの気の張りようは全く感じられなかった。寄らば斬る、という空気を漂わせ、何者も寄せ付けない雰囲気を醸し出していたのに今はどうだ、衣すら身に付けずその背を無防備に晒している。
自分だから気を許しているのだろうか、ライはそう思うとほのかに嬉しく思ったが、アイクの何処か心非ずな様子にそれだけでのないのだろうかとも思った。
ふと、足元を見るとアイクの着衣が無造作に投げ捨てられているのを発見した。元から無頓着なところがあるのでこういうものも乱雑に扱ってしまうのかと思ったが、傭兵団で雑務もしていた彼は身の回り品は最低限整頓して置いておく習慣はあった。
(本当、どうかしてるのかなこいつ…)
何気無くライはそれを拾い上げてせめて一箇所に纏めて置いておこうと思った。
(…?)
拾い上げた彼の夜着から彼のものではない匂いがした。
ほんの僅かだが、確証が持てないくらいだったが…あの匂い。
そして思わず、水面に立つ彼の姿を見る。ライは思わず息を飲んだ。
彼は月明かりに照らされてその肢体を浮かび上がらせている。何処を見つめてるともないその視線。左手を左の首筋に当てて何か物思いに耽っているようだった。
──躰が熱かった
だから鎮めようとした。
あの男が求めてきた行為を拒めなかった。本気で抵抗すれば拒めた気がする。拒めなかったのは理由を付けて求めてきたからか。己もそれを体のいい理由にして流されてしまったのではないか。
罪悪感がちくちくと胸を刺激する。それすらすでに愉しみの一部となっているのではないか。たぶん、普通ではない行為と趣向。
あの男はなにが面白くて自分にああいう行為を求めてくるのかわからない。しかしすでに嫌悪感を感じなくなってきている自分に嫌悪感を感じる。
ほの暗い部分を掬われる気がする。それにまた救いを見出そうとしているのだろうか。
また一つ、見たことのない彼の姿をそこに見た。
ライは放心してそれに見とれてしまった。
そういえば少し背が伸びて肩幅が広くなった気がする。その背中は綺麗な筋肉の付き方をしている。無駄な肉が一切ない。獣とはまた違ったしなやかさが感じられる。よく見ると戦闘で受けた細かい傷や目に見えて大きい傷も刻まれている。
そして何より纏うその雰囲気。どこか影を落とすような。
哀しみ? 諦め?
前に見た闘志を燃やし威勢良く敵に立ち向かっていく姿を思い返し、それと対照的だと思った。そして再会してからの戦い方を思い出し、そういえば感情を消し痛みも感じさせないような様子で剣を振るっていたことを思い出した。
その戦姿にある男の戦姿を連想した。
いつも死が寄り添っているようなあれ。
それに至った瞬間、ライはぶんぶんと頭を振った。そして手にしている夜着の匂いを思い出した。そして愕然とする。
もう一度彼のその姿を見つめる。
どくん、心の臓が鳴る音が聞こえた。何かが湧き起ってくる。舌で唇を湿していることに気づいた。
「ライ」
不意に自分の名を呼ばれた。ライはびくりと体を震わせて手にしていた彼の夜着を落としてしまった。
「な、なんだ」
「そろそろ戻る。ありがとう」
ふと柔らかい笑みが向けられた。それを目にするとライは胸の奥がぎゅっと痛くなった。
「あ、ああ。なんてことはないさ。ほら、これとかぶん投げておいて置くなよ。朝は早いのか?」
ライは落とした夜着を拾い上げてアイクに手渡す。
「ああ、明日は早朝に会議だ。フォルカから情報が入ったからそれをもって早速な。速攻することになるから気合入れていくぞ」
あの男の名がその口から紡がれる。
「わかった。俺もこの軍の一員としてたっぷり働いてみせるぜ」
ライはぐっと拳を握りそう宣言してみせた。
「頼むぞ」
アイクは真っ直ぐな瞳でそう応える。
──ああ痛い
どうしてこんなにも痛い。
そして自分はなんて愚かなんだろう。
アイクが天幕に戻るのを見届けるとライは木の上で夜風に当たりながら悶々と思考を巡らせていた。
(ちぃっ、オレとしたことが…なんで)
目を瞑り、手を左胸に置き何かを抑え込もうとしていた。
(あいつに欲情しちまったんだよ!)
しかし抑え込もうとすればするほど先程の彼の姿が思い出されてならない。
(本当にただの獣と変わんねえじゃないか! 誇り高き獣牙の戦士だぞオレは! ベオクの…それも男に欲情するなんてこと…!)
自らに憤りを感じ、その憤怒でかき消そうとするも、かすかな死臭の付いた夜着を纏う彼の姿がすぐに思い出されてしまう。そしてあの男になにをされていたのか容易に想像がついた。そういえば彼が天幕から出て行く前に黒い影も出て行ったが、あれはそうだったのかと考え至った。
「くそっ…」
先程の無防備な彼の姿を見なければとても想像はできなかっただろうが、それを見てしまったがために彼の痴態まで想像に至ってしまう。よく思い返してみれば、彼の左首筋に鬱血したあとのようなものがあった。胸元などにも同様のものがあった。
(あのおっさん、獣以下かよ! ったくこれだからベオクってやつは…)
その木の下から黒い影が口端を上げてちらりと目をやっていたことにライは気づかなかった。
夜が開け、早朝にデルブレー侵攻の会議が行われた。
アイクがフォルカから得た情報を材料に作戦が立てられ、それが功を奏して順調に隊を進めていった。
速攻で敵将を撃破し、無事にデルブレー城に到達し、クリミアの遺臣を救出することに成功した。これによって隊はデルブレー城を拠点とし休息や物資の補給などを行う。
もうすぐ、日も暮れようとしていたころだった。将であるアイクは一通りの確認業務などを行うと、鍛錬をしてくるそぶりで密かに用意してた馬に騎乗し、そっと一人城を出た。その手には愛用のリガルソードを抱えて。
(確かにいた。奴はあそこに)
その蒼い瞳が爛々と光る。まるで何かに吸い寄せられるように彼はその歩みを進めていく。雨が上がったばかりだった。道が少しぬかるんでいる。慣れない騎乗だが確実に速度を上げて進んでいく。
(…待っていろ、俺はそこに行く)
まるで恋焦がれた相手に会いに行くかのように駆けていく。
先刻、侵攻している際に確かに見た。デルブレーを侵攻するデイン軍の陣営とは離れたところに佇んでいたところを。まるでその存在を誇示するかのように。
それはその場から動こうとはしなかった。自軍は速攻でデルブレー城へ向かっていたので仮にそれが急襲してきても追いつけないだろうという判断で放置した。
「…やっと会えたな」
目の前にそれがいた。重厚な漆黒の鎧を身に纏ったそれが。
「…ふっ、私の姿を見て、逃げ出さずに向かってくるとはな」
それは表情も伺わせず、彼を見据えていた。
何故、この場にそれが現れたのかわからない。しかし見つけてしまったからには対峙するしかない。いつ対峙することになるかわからないと、時間を惜しんで鍛錬を積んできた。そう思って急いできてよかったと彼はそう思った。
父親は復讐のことは忘れ、静かに生きろと言った。
だが、これは喪失感を埋める格好の材料でもあったのだ。そしてそれを越えれば昇華されて…次へ歩める、そう思っていた。
ざわざわと血が騒ぐ。体内の血が沸きあがってくるかのようだ。
「親父の仇を討つまで俺は何度でもおまえに挑む!」
彼は高らかにそう叫んだ。
漆黒の騎士はその彼の姿を見て静かに、息の根を止めてやろうとそう言った。そうして一振りの剣が構えられる。重厚な魔力を帯びたような剣。その剣で彼の父親は絶命した。
彼も父から贈られた愛用の剣を構える。予感は正しかった。その時がすぐにやってきた。
怒り、恨み、哀しみ、それらの感情が支配する。普通なら、それらの感情に飲み込まれて目の前が見えなくなってしまう。これも負の気の一種。だからうまく飼い慣らさなければならない。
父親が撃破されて倒れたとき、彼はそれらの感情に支配されて恐怖すら飛んだ。ときにそれは力となる。しかし、どう足掻いても勝てない勝負というものがある。明らかな実力不足、それは冷静に考えれば分かる。しかし冷静でいられるはずがあろうか。一太刀でも浴びせることができれば、そういう想いで身体が動いた。
結果、外的要因で命を獲られることは避けられたが、それがなければ確実に自分も命を失っていた。
昂ぶった気がすっと落ちていく。落としていく。
(どうした、小僧。先程までの闘志はどこに?)
漆黒の騎士は急に気を静めた彼の様子を見て眉を顰めた。そして次の瞬間、彼の姿はそこになく。
(…やるな)
淀みのない気の流れ、流れるような動き、瞬きをするような速度で彼は漆黒の騎士の間合いに入る。さすがにその一撃で撃破とはいかないが。激しい金属音が鳴る。
(この剣技…異国のものも習得したというのか? 我が師のものと異なる動きが重なっている)
漆黒の騎士はかつて彼の父親に師事していた。その剣技なら何よりもなじみが深い。しかし、その息子である彼が繰り出す剣技はそれとは違う動きも重ねられていた。それは、剛の剣と柔の剣。
体格や剣の重量などではるかに不利である彼だが、漆黒の騎士の熾烈な一撃を受け流していく。そして間合いを詰めたままである。基礎の型ができていればこその動きだ。刃を受ける一点、それを一つ一つ見極めて流れを作り立ち回る。
(そしてこの恐怖を感じていないかのようなその瞳。まさに無心。小僧…すでにその域か)
油断してはいられない、漆黒の騎士はそう思った。そしてその剣を一閃する。その一太刀で衝撃波が巻き起こる。
「!!」
彼は咄嗟にそれを避け、間合いを取った。常人の反応速度なら明らかにそれで沈んでいただろう。研ぎ澄まされた彼の神経は、不測の事態にもすぐに対応した。その衝撃波はなんらかの魔力が絡んだものだとすぐに判断した。普通に剣を振るっただけでそのような衝撃波が発生するはずはないのだ。
「これを避けるなどと…かなり、やる」
その言葉が聞こえるか聞こえないかという距離に彼はいた。こんな状況下において彼の口端が少し上がっていた。
(正気の沙汰か、分からぬ。しかし、こいつは育てば我が師を越える。確実に)
しばし膠着状態が続き、睨み合いとなっていた。しかし漆黒の騎士が何かの気配を察知したらしい、一瞬だが虚が生まれた。それが合図かのように彼は駆け出す。
「馬鹿め!」
間合いを詰めることを許さない、とでも言わんばかりに漆黒の騎士はその剣を一閃して衝撃波を放つ。真正面から向かっていく彼はそのまま進めば確実にそれの餌食になったであろう。しかし、彼は空を舞う。
衝撃波を飛び越え、それは空を舞うが如く。漆黒の鎧の頭上よりはるか高く。その剣は確かに握られ、月のような軌道を描く。
(…! これは…!?)
一瞬だが騎士はそれを見た。彼が纏う蒼炎を。
彼の跳躍もまた常識では考えられないものであった。何らかの力が働いているものでなければ不可能である。
(しかし、メダリオンはデインの手にあるはず…)
そう、一瞬のうちに思考がめぐらされ彼の剣が振り下ろされる。彼の持つ剣は鎧の隙間を狙うことに特化した形状だった。狙いも勢いも完璧だった。
(だがしかし、相手が悪かったな)
確かに隙間を狙ったはずだった。普通の鎧ならばそこから肉を斬る感触に差しかかり相手がくずおれるはずである。
しかし、耳に聞こえるかどうか分からないほどの甲高い音を立ててその彼の剣は真っ二つに折れた。なまじ、真芯を捕らえたがためにその力はてきめんにその刃へと跳ね返る。
そして騎士はその剣を振るう。衝撃波が彼を吹き飛ばす。彼は石が遠くへ飛ぶようにその身体を投げ出される。剣の切先が腹の肉を割いた。
──もっと早くに気づけばよかった
ぬかるんだ道を風のような速度で駆け抜けていく大きな青い猫が1匹。
戦闘終了後、ライはなにげなくアイクの姿を探していた。確認業務をこなしていた姿までは見かけていた。姿が見えなくなると気になってしまい、近場にいた兵などに聞いてみると帯剣して歩いていった姿は見たと聞いた。彼のことだからまた鍛錬に出かけたのだろうかと思ったが、ふと彼がある一点を見つめていたことを思い出した。
「オスカー殿、アイクを見かけなかったか」
ライは見張りにあたっていた傭兵団員の男にそう尋ねた。
「ああ、アイクなら…あっちの方に鍛錬しにいったのかな」
男は彼がその一点を見つめていた方向を指差してそう言った。
「あ、ありがとう…」
ライはそれだけを言うとその方向を目指して行くことにした。それ以上何も言えなかった。理由はわからないがなにか男に気圧されるものを感じた。
ライが化身して駆けていく姿をオスカーが高台から見つめていた。
(…アイクは大丈夫、きっと)
行軍で来た道を引き返す、という感じでライは足を進めていった。ぴりぴりと気配と匂いを感じ、それが次第に近くなっていく。
(あいつなら…もう十分に強い、こんな、オレが心配することじゃない。あいつ個人の問題だって思うけど…)
なにか嫌な予感を感じてそれに突き動かされるようにライは駆けていく。
ライはアイクが自身の仇と対峙しにいったのだとそう確信を得ていた。彼が見つめていたその一点、そこには漆黒の鎧を身に纏ったそれがいた。それで間違いない。
その漆黒の騎士がそこに現れた理由は定かでない。しかも、それはあの情報屋の男に指摘されるまで気づかなかったのだ。
アイクたちの部隊は殿を務めていた。先行部隊が首尾よく進軍していくのを見届けるとともに進行しようとしていたさなか、男がアイクに急接近してきて何かを耳打ちしていた。そして速やかに男は隊を離れる。
その後すぐ、アイクは指令を出すとともに単独で後方に下がりある一点を見つめていた。アイクのすぐ側で戦闘していたライはその姿を見かけていて、自らもその一点を注視した。そしてそれを見てしまった。
ライはそれと対峙したことがある。港町トハでデインの追っ手からアイクらを逃がすために時間稼ぎとして対戦した。そのときは漆黒の騎士が何者かとやりとりをした後、不可思議な力でその場からいなくなり事態は収束した。しかし、戦闘は完璧なる敗北だった。
(…あいつ、あれは…攻撃が全く効かねぇ! なんかの力が働いてるのか分からないが…。あの剣もただの剣じゃなかった!)
駆けながら対戦した当時のことを思い返していく。
(くそっ、せめてこのことをアイクの奴に言っておけばよかった!)
その気配と匂いが濃くなってきた。そして一頭の馬を見かける。
(…こいつは…?)
蔵付きの馬だった。ということは誰か騎乗してきたものだろう。そしてライは確信を得た。彼はすぐそこにいる。
「!!」
ライはその瞬間を確かに目にした。
蒼炎を一瞬だが纏った彼が宙を舞う姿を。常識では考えられない距離を飛ぶ。
(あいつ…! 本当にベオクなのかよ!!)
その奥義は雑木林で鍛錬していたものだったのだろう。見事に完成されていた。鎧の隙間を狙う角度も完璧だった。
しかし、ライの懸念どおり漆黒の鎧によってその剣が弾き返される。彼の愛用の剣は真っ二つに割れて飛ぶ。そして彼の身体も衝撃波によって吹き飛ばされた。
ライは地に叩きつけられて倒れたアイクの元に駆けていった。
「…あのときの青猫か…久しぶりだな」
漆黒の騎士はライの姿を認識し、そう言い放つ。化身をしていて発言ができないライはそれをただ見据えて唸りを上げていた。傷ついて立ち上がれないアイクを庇うように。
「…ふ、安心しろ。今この場で命までは獲らぬ。そしていいことを教えてやろう」
アイクは倒れながらもその目を鋭く光らせてそれを見据えていた。そして漆黒の騎士が語るそれを歯を食いしばりながら耳に入れていく。
彼の父親に一度投げ渡した神剣でならその鎧に打撃を与えられるとのことだった。彼はそれが施しのようで気に入らず、自身がそれを使用することはなかった。
騎士はそれを告げると不可思議な力でその場から消えていった。
(まただ…一体あれは何なんだ)
再びその光景を目にしたライは怪訝に思いつつも、化身を解いてすかさずアイクの様子を確認する。
「おい! おまえ! 大丈夫か!?」
「…ライ…か、ああ、俺は……くそっ…」
彼は苦痛と屈辱に顔を歪ませていた。その手は血まみれになった腹を押さえいている。軍服が赤く染まっていた。
「た、倒せ…なかった…。まだ、足り…ない…力…」
そう絞り出すような声でアイクは喋る。そして激しく咳き込む。
「いい、バカっ、喋るな…!」
アイクは咳き込むと同時に血を吐き出した。
(どうやら内臓もやられたみたいだ…。あんな衝撃波をまともに食らってよく生きてるなこいつ…!)
胸の辺りもそっと触ってみると肋骨も折れているだろうことを確認する。
(早く戻って治療してやらないとヤバイ…!)
化身していない姿で抱えて走っていくには遠すぎる。かといってアイクの乗ってきた馬に乗るというのは乗馬経験のないライにとって無理なことであった。
(ちょっとこの状態のこいつには厳しいけどこれしかない…)
とりあえず、ライは応急処置を施してやる。腰の物入れに入れてあった晒布をアイクの腹に巻きつけて止血をしようとする。その傷を覆っているアイクの手を除けると傷口が露になる。
(うわ、かなり深いぞこれ)
思わず目を覆いたくなるほどの深さだった。腹を割いたのは剣の切先だったが、衝撃波と相まってそれだけでも深い傷となってしまったのである。
処置を施したライは急いで折れた剣を回収して鞘に収め、地に置いた。
「安心しろ、これもちゃんと連れて帰ってやるから」
そうアイクに言い聞かせるように言ってやる。そしてアイクの口に晒布を噛ませる。
「舌噛むとマズイからな勘弁してくれ」
ライはそう言うとアイクの外套を剥ぎ取るように外し、彼を背負い、彼ごと自分の腰に巻きつけきつく縛る。
「ちょっと辛いだろうが、しっかり掴まってろよ!」
その言葉とともにライは化身し青い猫の姿になる。そして鞘にしまわれた彼の愛剣を口に銜えてそっと走り出す。
すでに辺りは暗くなっていた。その闇に紛れるように一人の男が佇んでいた。
(あの猫はやはりやってきたな…)
その男はアイクと漆黒の騎士の対決の一部始終を眺めていた。
男はアイクに漆黒の騎士が出現したことを告げた張本人である。この男がそれを告げなければアイクはそれと対峙することもなかったであろう。大儀のためにはその方が良かったのである。万が一のことがあれば行軍に影響が出る。
しかし、男は軍属ではなくアイク個人に雇われの身である。
雇用主に有用な情報を告げた、ただそれだけのこと。
その情報を告げれば彼がそれと対峙しに行くのは明らかなことであった。実際、情報を告げたとき彼はその場ですぐ覚悟を決めたかのように意志の強さを見せた。
「俺はただ情報を提供したのみだ。それをどう生かすかはお前次第」
男は彼にそう言った。
「ああ、俺は行く。機会というのはいつ訪れるか分からない。これを逃せばいつになるか分からない。そのために鍛錬を積んできた。俺は負けるつもりはない」
彼はそう返した。
「ちなみに、これも契約外の仕事だ。押し売りに近いがな」
男がそう言うと彼は微妙に笑んでこう返す。
「…別料金なんだろ。ああ、くれてやる」
どこか共犯者めいたものを感じた。そして彼の成長の片鱗をそこに見た。どことなく余裕を感じさせる。もう、少年期は脱して完全に青年期に移行したのだと思った。精悍な男の色香すら感じさせる。
実際にその料金を徴収するかどうかはともかく、覆面に隠された男の口端が僅かに上がっていた。
(奴は、確かにめざましい成長を遂げた)
男は情報を告げたときのことを回想しつつ、青猫に搬送されていく彼の姿を見送っていた。
(武器さえ選べばあれを撃破することもできるだろう。一瞬だが、負の力を己の味方につけて大技を完成させた)
そして腰に装着している己の獲物にそっと触れる。
(さて、こいつの出番はあるかどうか)
来るかどうか分からないその日を思い、男は気を引き締める。
辺りはすっかり静寂に包まれていた。その場には彼が騎乗してきた一頭の馬が迷い歩いている。男はその馬を捕まえ、跨り城の方へゆっくりと走らせた。
来た道より距離を長く感じる。
(くそっ…まだか、まだ着かない…)
アイクを背に抱え傷に障らないようなるべく衝撃を抑えて走るライの姿がそこにあった。まだ、自分にしがみ付く力は残っていることを確認しながら走っていく。声にならない呻きが聞こえる。
(……何だ?)
ライは自分の中に重い気が流れ込んでくるのを感じた。
屈辱、憤怒、諦念、哀憐…
イメージが再現される。
先程の戦いで真っ二つに折れた彼の愛用の剣、そして漆黒の騎士の剣を胸に倒れる彼の父親の姿。そこには土砂降りの雨が降っていた。
(これは、こいつの…)
ライの思考の中にダイレクトにその光景が再現されていた。実際に自分が目撃していた場面だが、その視点は明らかにアイク本人のものであった。
そこは、まっくらやみ。
その中でもがき、這い出そうとする彼の姿がそこにあった。
(何だよこれは)
──父さん、おれ…まだ、おかえりも言ってないよ
幼い声が静かに響いた。そして雪崩のようにその光景が再現されていく。
メダリオンに触れようとした幼い彼の姿、彼の中に吸収されていく蒼炎、そんな彼を咎めた父親の姿、いき過ぎた咎で彼の首にかけられた父親の手。
──ねえ、父さん…おれ、あいつを倒したら肩車してくれる?
ライの背に冷たいものが走る。重く、重く貼り付くようなその気。まるで壊れた時計をずっと眺めているようなそんな感覚。
(うあああああっ!)
化身しているため、発声はできないが心の中でただ叫びを上げた。
どんどん流れ込んでくるその気。まるでアイクの腹から流れ出る血液がそのものかのように。止血のための晒布はとっくに真っ赤に染まり、ライの背も赤く染め、血が滴っていた。
それだけではなかった。
ダルレカの民衆から侵略者として向けられる視線、親の仇として子供から石を投げられたときの憎悪、将軍位への出世に対する軍内からの嫉妬、大儀を掲げ侵攻する者としての重責…それらが具体的なイメージを伴い再生される。そしてアイク本人とは関わりのない人々の軋轢から発生する感情も再現される。
微弱な蒼炎が彼を包んでいた。それを背にライは駆けて行く。
(ちくしょうっ…何だよこれは! くそっ!)
それはアイクの体内に蓄積されている負の気だった。漆黒の騎士との対決に敗れ、身体と精神が弱まったために微弱に放出されている。そのアイクを背負い、直に触れているライはそれに込められた思念を受け取り、そこから再生される光景を思考の中で再現していた。
ライは猫の民の中でも特に正の気が強いため、それに触れて精神に影響を受けることはなかったが、気分が悪くなってしまうのである。気を抜くと嘔吐までもよおしてしまうであろう。
(こんなものがこいつの中に詰まってるってのかよ!)
ライの足取りもだんだんと重くなっていく。城がようやく見えてきた。あと少し、あと少しなのだが…
(もうちょっともってくれ! まだ手を離すんじゃねぇ!)
アイクの体力が限界に近くなってきた。ライにしがみ付くその手の力が弱くなっていく。
(!)
ライは一騎の騎兵を目撃する。その騎兵は両手を上げて敵意がないことを示している。その姿は見覚えのあるものだった。
騎兵は下馬し、ライの側まで駆け寄る。
「ライ殿、アイクを見てやってここまで運んできてありがとう。あとは私に任せて欲しい。あなたは先に戻ってキルロイに伝えておいてくれないか」
その騎兵は出発前にアイクの行き先を訪ねた傭兵団員の男であった。
「…わかった、オスカー殿、オレは先に戻りこいつの傷の箇所など伝えておく」
ライは化身を解き、アイクをオスカーに託すと救護班の神官に伝令をすべく再び化身していち早く駆けていった。
「お兄ちゃん!」
彼の妹の叫びが聞こえる。軍内に混乱をきたさないよう、裏手の通用口からオスカーに抱えられて戻ってきたアイクの姿があった。その軍装は広範囲にわたり赤く染まっていた。それが目立たぬよう外套で包まれている。しかし明らかに尋常ではない彼の姿を見て彼の妹は取り乱していた。
オスカーは弟であるボーレに目配せをする。
「ミスト、あまり騒ぐな、落ち着け!」
ボーレは背後からミストを抱え口を塞ぐ。その隙にオスカーはキルロイが待機している一室にアイクを運んでいく。
「…うっ…うっ、お兄ちゃんは私が治す…っ、だって、だって…」
ミストは治療の杖を握り締めてぽろぽろと涙を零していた。
「わかる、わかるけどさその気持ちは…。でもそんな気が乱れた状態で回復魔法なんて上手くいかないだろ」
「悔しい…っ、悔しいよ! 私何もできないじゃない」
その小さな肩が震えていた。ボーレはそのまま彼女を抱きとめていた。
「お父さんももういいって言うよきっと、敵討ちなんてもういいって。私、もう嫌だよ、お兄ちゃんまでいなくなったら…」
「大丈夫、あいつは大丈夫だ。おれより強いとかぬかしてるあいつのことだ、そう簡単に死なねえよ」
ボーレがそうミストに言ってやると彼女は少し落ち着いたのか手で涙を拭い一息つく。
「そうだよね、ボーレなんかに負けないもんね。お兄ちゃんは強いんだから…」
「ば、バーカ! おれはあいつの先輩なんだよっ! おれだって負けねえよ!」
ボーレとミストが他愛もないやりとりを繰り広げていると、そこに一振りの鞘に入った剣を手にした獣牙兵が歩いてきた。
「これ、アイクに返してやってくれないか」
その獣牙兵はミストにその剣を渡す。
「ライさん…」
ライはミストにその剣を託すと無言で背を向け水場の方に向かっていった。その背は一面が血の色に染まっていた。そしてどこか疲労感を漂わせていた。
「…あいつがアイクを途中まで運んできたんだっけ? にしてもすっげー血の量…。っと、それは…団長がアイクにやった剣じゃないか」
ボーレはライの背を見送るとミストの手にあるその剣を注視する。
「うん、これはお父さんがお兄ちゃんに贈った剣…。これを持って戦うときは何かあるの。お兄ちゃん、これをすごく大事にしてた」
そう言い、ミストは何気無くその剣を鞘から抜く。
「!」
その鞘から出てきたのは剣先のない折れた剣だった。しかし鞘にまだ重みを感じる。ボーレがそれを手にし、そっと鞘を逆にする。すると残りの刀身が出てきた。
「なんてことだ、真っ二つに折れてやがる」
ボーレは驚愕の表情を隠せなかった。刃こぼれして使用できなくなるということは日常茶飯事だが、このようにきれいに真っ二つに剣が折れるということは滅多にないことであった。ましてやこれは手入れも入念に行われてきた剣である。
「お兄ちゃんは…すごく頑張ってる、これを見てもすごくよく分かる。一生懸命やってきたの。私を、みんなを護ってくれた。そしてこれからも」
ミストはそう言い、その鞘をぎゅっと抱きしめた。
「ああ、そうだな…。しかしあいつ、無茶し過ぎだ。んで、手に負えない部分が大きくなってるな。んまあ、せめてお前のことはおれが任されてやるよ」
「…何それ」
ボーレのその言葉にミストは勢いよく振り向く。
「お兄ちゃんがそんなこと言った?」
ミストの詰問にボーレは首を横に振る。
「バーカ! あいつの足手まといにならないようにしろよ!」
ボーレはそう言い、ミストを小突く。その顔は少し赤かった。
水場に向かって歩いていくライはその途中でオスカーと遭遇した。
「…ライ殿、重ねてありがとう。おかげでアイクは一命を取り留めたよ。出血がかなり多かったから回復に時間がかかりそうだけど…」
その細い目であまり表情が分からないが彼は少し笑んでいることが分かった。
「こちらこそ。あと一息というところでオレも走れなくなっていたかもしれなかった。あいつの体力も限界に近かったから化身した姿では運べなくなるところだった」
ライはこめかみを押さえながらそう返した。
「あ、そうか。化身した姿を保つのにも体力を消耗するんだったね」
オスカーの指摘は半分当たっていたが半分違っていた。ライはあえてそれを訂正することもなく頷いておいた。
「…あの、オスカー殿、あんた…知っててアイクに馬を用意しただろ」
ライのその言葉にオスカーは一瞬眉を動かしたが、すぐに普段通りの表情に戻る。
「さすが、鋭いね。そう、私が用意してやった。そうでなくてもあの子は歩いてでも行ったと思うよ。一度決めたら誰がなんと言ってもそれを曲げないからね。昔からそうなんだ。だから目が離せない」
まるで母親のような目線だった。彼のことをよく知っている。そして、一人の男と認め彼の行動を止めることはしなかったのだろう。無論、影からそっとフォローすることを忘れずに。
ライは思った。自分がその立場ならどうしただろうか。
彼の妹はきっと彼を止めただろうか。自らも付いて行こうとしただろうか。彼ら兄妹にとって父親の敵討ちは本懐である。傭兵としての任務より意味合いが大きい。
しかし、彼が任務としての大儀を抱えている以上それを優先しろと言ってやる人間もいるべきであろう。
(でも…オレもきっとそれは言えない)
ライは化身した姿でその身ごと水場で水浴みをする。猫の民は水に浸かることはあまり好きではないが、ここまで血に塗れたら洗い流さないわけにはいかない。無心で水を浴びていた。
その間に思考の整理をする。
まず、彼の身体から発せられる蒼炎について。これは一瞬だが二度見たことがある。鍛錬をやめたら死が待っているといい「死」という単語を口にしたとき。そして漆黒の騎士に奥義を決める一瞬。
他、彼が抱えている内面的な問題。断片的なイメージの再現だったが、今まで知りえなかった父親との関係性も垣間見れた。
(あいつ…親父さんにあんなことされたのか…)
そのイメージの中で彼は蒼炎に包まれて、父親がその彼に触れていたことを思い返す。自分も彼を背に抱いて気が流れ込んできたことを考えるとそれで何らかの影響があったことを察した。
(確か、メダリオンってやつは触れると気が触れて暴走すると聞いた。それをあいつの妹が持って護っていて…)
そのメダリオンはこの世のあらゆる負の気を集め邪神が眠っているとされているものだった。それに触れると常人なら精神が崩壊して暴走し、破壊活動に走るという話だった。
イメージの中でそのメダリオンが蒼炎を発し、触れずして幼い彼がそれを吸収しているところを思い出した。
(…! そうか、あいつ…昔から負の気をああやって溜め込んで…)
そして、どうして鍛錬をやめたら死が待っているのか理解した。
(気を鎮めることをやめると気が触れてしまうからだ)
そのことにライは身を震わせた。彼の気が触れたら…と思うと怖くなった。もし、そんなときが訪れたら自分は彼にどうしてやるのが最良なのかと思った。彼は何を望むだろうかと思った。
そこで思い至った。
鍛錬をやめたら待っている…死、それは精神の死という他にもう一つ意味を持つのだということを。ふと、あの死臭の漂う情報屋の男のことを思い出した。
あの男が言った言葉の意味…
『ただ、一が強大な力を以って三十を滅するという状況になれば…奴は一を殺すだろう、それが己だとしてもだ』
わかった。
この妙な言い回しの意味が。
(アイク…おまえ…、おまえはなんて奴なんだ…!)
ライは水場から上がり、全身を震わせて水気を飛ばす。それでもまだこびりついた血液が完全に取れない。
(オレにはできるのか、あいつが望んだとしてもあいつの命を奪うなんてこと…!)
ライは化身を解いて深呼吸をする。そしてその場に座り込む。見上げるとすでに辺りは暗く、星が見えていた。
(あのおっさん…情報屋なんかじゃねえ…なんてことだ)
ここでライはフォルカの正体に気づく。何故、いつもアイクの側にいるのかその理由が分かった。そしてアイクがそれを望んで契約したであろうことを思うと、少し手の届かないところにいるのだとある種の寂しさも感じた。
(暗殺者…か。金でどんな働きもする男と聞いたな。そりゃ、そんな契約も軽く結んじまうわけだな…)
その思考に嵌ってしまったライは項垂れてしまう。しかし心の底からふつふつとそれに対抗する気が湧いてくる。
(オレはあいつを殺さない、殺させない。オレにできることがあるはずだ)
ライは勢いよく顔を上げて立ち上がり足早に彼が眠るその部屋へ向かっていった。
その部屋にはアイクの静かな寝息だけが響いていた。
キルロイの懸命な処置により出血も止まり、折れた肋骨もある程度は繋がったようだ。あとは体力の回復を待つのみだ。
ライがその部屋に入ろうとしたとき、丁度黒衣の参謀がその部屋から出てきた。彼は心底心配気な顔をしていた。アイクの傷があまりにも深いため、キルロイと交代で最近覚えたばかりの回復魔法を施していた。
「眠ったばかりです、あまり騒がないで下さい」
彼は冷たくそう言い放つ。ただ、入室禁止を言い渡されなかっただけよかったと思った。彼はアイクに心底傾倒していて他の誰にも心を許さないという人物であった。入室しようとしていたのが他の人間なら人払いをしたかもしれない。ただ、今日はライの働きが大きかったためアイクが助かったといってもいい。それがあるので彼はライに投げかける言葉をそれにとどめたのであろう。
「ああ、少し様子を見させてもらうだけだ。軍師殿もお疲れさま」
ライにそう呼ばれた彼…セネリオは一瞥をくれると無言でその場を去っていった。
ぱたり、と静かに部屋の戸が閉められる。
ライは足音も立てずにアイクが眠る寝台へ向かう。セネリオの言葉どおり、寝息を立てている彼の姿がそこにあった。
(よかった…そう、そうやって生きててくれよ)
と、ライがそう思い彼の寝顔を覗き込み安堵した途端、突然彼の瞳が開かれる。
「あ…悪りぃ…起こしちまったか…」
「ライか…いい。俺は寝てはいなかった」
アイクのその言葉にライは眉を顰める。
「なんだよ、狸寝入りしてたっていうのか」
「…そうでもしないとセネリオの奴、一晩中ここにいるから」
窓から射す月明かりに照らされて見える彼の表情は少し曇っている。
「俺が寝たら休んでくれ、って言ったんだ。あいつは俺が寝ても一晩中付き添っているつもりだったらしい。でも慣れない回復魔法を使って体力が消耗しているはずだ。あいつはそんなに体力もないし…休んでもらわないと倒れられたりしたら困る」
「…そうか」
ライは、自分がこのような状態なのに人の体調のことを気にかけて寝たフリまで決め込んだアイクのことを大した奴だ、そう思った。
「っていうか、おまえ自身どうなんだ。本当に寝ろよ」
そうは思ったもののやはり彼自身の体調が気にかかる。それは当然のことだった。
「…眠れない」
「は?」
当然、かなりの出血を伴う怪我をし、体力がかなり低下しているのにもかかわらず彼は眠りに落ちることができないと言った。
「俺は…あいつを…倒す…今度こそ絶対に…」
そう呟く彼の瞳は煌々と光る。精神の昂ぶりを感じられた。
「おいおい、それはいい。いいけど今は寝ろ」
ライは思わず手のひらでアイクの目を覆い視界を遮ってやった。
「わかってる」
彼はただそう返す。
「本当かよ」
ライはアイクがとても眠りに落ちていくような状態に見受けられなかった。ふと、寝台の横にある机を見ると折れてしまった愛用の剣がそこに置かれていた。先刻、自分が彼の妹に託したものだった。
「やっぱわかってねえ」
彼の手がその机の方向に伸びていた。その手を掴み、寝台に戻してやる。
「すまん」
「いやいや」
どうして、セネリオに対しては彼が休めるようにという気遣いで寝たフリまでしたのに、自分の前ではまるで駄々っ子のようなそぶりを見せるのか。
「おまえ、やっぱりバカだな」
「なんだと」
自分の軽口にこうやって不機嫌そうに返してくる彼。それが可愛いと思った。それでいい、そう思った。
「おまえは自分の価値を分かっちゃいない。おまえが死んだら哀しいって思う奴がたくさんいることを忘れるな」
それは真っ直ぐな想い。気づいてしまった暗殺者との契約内容に抗うような想い。
「ライ」
その瞳が自分を見つめ返してくる。
「俺もおまえが死んだら哀しいぞ」
──ああ、どうして…おまえって奴は
アイクのその言葉にライは目の前が霞んだ。あまりにも真っ直ぐな言葉。それがそのまま心に跳ね返ってくる。
「…っ、当たり前だ、当り前だっ…」
ライはアイクの手をとってぐっと握り締める。
「今日は…悪かったな…面倒をかけた。俺は指揮官として失格だと思う。自分の始末を自分でできなかった。」
「ああ、でも…誰もおまえを止めることはできなかっただろう?」
そう言いライはアイクの手を寝具の中に戻してやる。
「みんなには迷惑をかけた。でも分かっていてくれた」
アイクのその言葉にライは細目の傭兵団員の男のことを思い返した。
「そうだな…」
「ああ、だから早く復帰できるように…努力する」
「そうか、まずはゆっくり休め」
ライのその言葉にアイクはこくりと頷いた。
「ん、これは…?」
ふと、剣が置かれている机に水差しと薬が置かれているのに気づいた。
「薬か? …飲まなくていいのか?」
「いい。そうだ…水だけくれ」
「わかった」
そう言うとライはゆっくりとアイクの上体を起こしてやり水差しを口元に運んでやる。咳き込まないようにゆっくりと飲ませてやった。
「すまない、少し喉が渇いていたみたいだ。これで少しは眠れるかも」
「そうか、よかった。じゃあオレは退散するよ。くれぐれも変なことするなよ。おとなしくしてろよ」
そっとアイクの身体を寝台に戻してやりライは彼の頭をそっと撫でる。
「子ども扱いするな」
アイクは少し不機嫌そうにその手を払いのける。そういうところがまだ幼さを感じさせる。以前より大分、大人びて青年といった風貌に成長していったが、そういう部分はまだあどけなさを感じさせた。それは決して、将軍としての顔では見せないものである。
ライは再びそっとその扉を閉じて退室した。
(本当に、眠れていればいいんだが)
アイクが治療に専念してから三日は経った。
傷の回復は順調だった。腹の切り傷は相当深かったため、目に見える傷跡が残るであろうが、生活に支障はない程度に回復する見込みだ。
ライは合間を見てアイクの様子を見に行っていた。彼は軍の仲間や傭兵団員たちには気丈に振る舞い、よく眠れていて体力もすぐに回復すると言っていた。
しかし、どうにも気になって仕方がなかったのである。彼の瞳があの夜と同じく煌々と光ったままであった。まだ、一種の興奮状態であると察していた。
ライはその部屋の前で立ち尽くしていた。彼はちゃんと眠っているだろうか不安だった。もし眠っていたとして、この扉を開ける物音で起きてしまったらと思うと扉を開けることを躊躇してしまう。
「ライさん」
そうしていると一人の男に声をかけられる。傭兵団に所属する神官の男だった。この男が主にアイクの治療を施していた。
「…キルロイ殿」
「ちょっと話が…」
キルロイは小声でライにそう持ちかけて場所を移動させた。
その夜、それは起こった。
ライはその扉を叩く。しかし反応はなかった。きちんと彼は眠れているのだろうか、反応がないということは眠っているということだろう。理性ではそう思う。しかし、何か嫌な予感がする。ラグズならではの勘であろうか。彼の匂いを感じない。気配も感じない。
意を決してその扉を勢いよく開ける。
(…ちっ…! こんな予感は当たって欲しくないぜ)
寝台に彼の姿はなかった。それを確認するとライは一目散に部屋を駆け出していった。
(バカヤロウっ! どこに行ったんだ!)
彼の気配や匂いを最大限に察知するためにライは化身し、全神経を集中させる。そしてそれを感じる。その波動はあの漆黒の騎士が繰り出したものに近かった。
そしてライはその光景を見て一瞬、放心した。
城から少し離れたところにある雑木林で見慣れない大振りの剣を構え、振り下ろす彼の姿がそこにあった。その剣は金色に光り、魔力を帯びたような重厚さがあった。そしてその剣から放たれる剣圧は衝撃波となり木の一本を薙ぎ倒した。
その木が倒れると同時に彼自身も倒れる。
ライはすかさず駆け寄り化身を解いて彼を抱きかかえた。
「何やってんだよお前!!」
見ると、その衝撃で腹の傷が開いてしまったのか夜着が少し赤く染まっていた。
「…こいつ、この剣でないと倒せない、あいつ…。俺はこれを使えるようにならなければ…ならない…」
倒れこみつつも彼はその手に握った剣を離そうとしなかった。これがあの漆黒の鎧も貫通するという神剣、ということだ。
彼は興奮のためか頬が上気していた。だが、目元には隈がありこの三日間でろくに眠れていなかっただろうことを物語っていた。ここまできたら正常な精神状態ではないのだろう、そう判断した。
仇敵に対する…それは執着とも言えた。そして与えられた屈辱。それが彼の精神を揺さぶり休息をとることを許さなかった。あの敗北で体内に蓄積していた負の気も表面化してきて制御が効かなくなっているのだろうか。
ともかく、非常に危険な状態であると思われた。
ライは何も言わず、彼にその剣を握らせたまま彼を抱え、猛烈な勢いで寝室まで運んでいく。そして寝室にたどり着くと乱暴にその剣を引き剥がして、彼が暴れないように押さえつける。
「おとなしく…してろって言ってんだろっ」
そして腰の物入れから包みを取り出して、その中身を口に含んで彼の顎を掴み、口を開かせ強引にそれを飲下させた。机に置いてある水差しにも口を付け、水を含みもう一度彼の口に流し込んでやる。
彼は咳き込んだが、ライに押さえつけられていて動けない。そして抵抗を試みる。
「頼む、寝てくれ、ちゃんと寝てくれ!」
そのままライは彼を押し倒すようにして抱きすくめ、寝台に押し込めた。アイクはそれでも暴れようとするが、次第にその力は弱くなってきた。
ライが口移しで飲ませた薬の効果が現れてきたようだ。
「よし、いい。そのまま、眠ってしまえ」
ライはそう優しく語りかけて、抱きすくめる力を少し弱めてやる。そして優しく背中を擦ったり、髪を撫でてやったりする。
それに絆されるかのようにアイクは身体の力を抜いていく。次第に完全に力が抜けていき規則正しい呼吸が聞こえるようになった。
もう大丈夫、そう判断したライはそっとアイクの身体を離し、寝具に収めてやる。
(それにしてもかなり強力な薬だな…)
この薬は先刻、キルロイが小声で場所を移動しようと促してきたときに渡された睡眠薬であった。
あの神官は彼がずっと眠れていなかったであろうことを見抜いていた。それでこの薬を飲むようにアイクに勧めていたのだが、彼はそれを拒んでいた。この薬は強力なだけに副作用が大きく、一度使用すると常習性が出てくるようになる。その副作用については説明されていたため、なるべくそれを服用せずに眠ろうと努めていたのであろう。
だが、強制的にでも睡眠をとらせないと一向に体力が回復しない。
キルロイは体力的にも性格的にも強引にアイクにその薬を飲ませることは難しかった。なので、それをライに託した。
本当に危険な状態に陥ったと判断したらなんとしてでも飲ませて眠らせて欲しいとそう言っていた。
睡眠が何よりの薬であるように、強制的にではあるが睡眠をとることができたアイクは回復の兆しを見せた。副作用が心配なため少しずつ薬の量を減らしていく。
もう、煌々と光る瞳はそこになく、一時期よりは落ち着いている様子を伺える。それを目にしたライは特に安堵していた。
「今日は飲まないのか?」
「ああ、いつまでもこれに頼っていたらいけない。傷は大体治った。だいぶ動けるようになってきたから早く復帰しなくては」
ライの問いかけに、アイクは寝台にその身を横たえながらもしっかりとした口調でそう返す。
「逸る気持ちはわかるけどさ、焦って台無しにするな。無理するなよ」
「ああ。すまない」
「じゃあ、ちゃんと寝ろよ…って、寝れるのか?」
その問いにアイクは沈黙する。
「やっぱり、まだ落ち着いてないんだな」
「ああ、正直そうだ。何度もあいつのことが思い出されてならない」
彼が言うあいつ、とは漆黒の騎士のことだった。それに纏わる事柄が浮かんでは消え彼の脳裏を支配する。そして彼の睡眠を妨げる。
「まあ仕方ないのか。よし、わかった。ちょっと気分を変えてみるか」
ライはそう言ってアイクに外套を渡し、彼に掛けられていた毛布を丸めて小脇に抱えると彼の手を引いて表に出ようと促す。
「いい機会だ。あまりじっくり話をする時間もなかったし、眠くなるまで話でもしようか」
ライに連れてこられた場所は高台でしっかりと根を張る一本木の根元だった。まだ夜は寒さがあり防寒具などがなければたちまちのうちに体が冷えてしまう気温だった。
「まだ寒いけどさ、しっかりこれ被ってて冷やすなよ」
そう言ってライは持ち込んだ毛布を外套に包まっているアイクにさらにかけた。
「ん…」
樹に凭れかかり、アイクはライにそうされるまま短く返事をした。
「大丈夫か? 寒かったら寒いって言えよ。眠くなったらそのまま寝ていいからな」
「すまん」
アイクはそう言うと自らが被っている毛布を傍らにいるライの方に引っぱる。
「なんだ、オレに入れって?」
「おまえは寒くないのか?」
このような気温なのに袖のない衣服を着用しているライを見てアイクはただ単純にそう思った。
「ああ…そっか、ありがとう。せっかくだから入れさせてもらうか」
ライは促されるままにアイクが引っぱってきた毛布の中に入った。
「まあ、オレがこんな服着てるからそう思ったんだろう。オレがラグズだってこと忘れてないか? これは服というか体毛というか…」
「そうなのか」
ライの説明にアイクは納得したようにそう相槌を打つ。するとライはぷっと吹き出す。簡単に己の言うことを信じてしまう素直さに可笑しさを感じた。
「なんだよ」
「なんでもない」
その様子を見てアイクは少し怪訝そうにするがライはさらりとそう返した。
「…あのさ」
「何だ?」
ライがそう持ちかけアイクがそう訊き返してくる。それに対する少しの沈黙。
「オレはおまえのそばにいるからな。いざというときにおまえを殺す勇気もないけどそうさせないし、そうしなくてもいいようにするからな」
意を決して言った言葉。ライは少し己の鼓動が早くなったのを感じた。
「ライ、何を…」
唐突なライの言葉にアイクはそう返す。
「だから、おまえが笑えればいい、眠れればいいって思う」
ライの脈絡のないその言葉に戸惑いを感じながらもアイクはおどけてみせたライの様子やこうして気遣う姿を思う。そしてそっと瞳を閉じた。
「…知ってるのか?」
アイクはそうライに問う。
「やっぱりそうなのか? 知っているというか…見えたというか…そこから考えたらそうかなと思った。おまえの中にとんでもないものが詰まってるってこと。そしてあのおっさんにおまえが自分の始末を依頼してるってこと」
ライはアイクの中に幼い頃から蓄積してきた負の気が封じ込められていること、そして万が一それが膨れ上がったり制御できなくなったりメダリオンに直接触れてしまい暴走した場合、暗殺者に託した己の命を止めるという依頼のことを指摘した。その結論を出す材料が彼を搬送した際にイメージで見えたということも告げた。
「どうしておまえってそうなんだろな。何でも、自分で始末をつけようとしてる。逃げようともしない。自分が辛い状況でもこうやって他人に手を差し伸べるなんて」
吐き出すようにライはそう言い、入るようにと促された毛布の端をぎゅっと握る。
「俺が、そうすれば済むということならそれが楽じゃないか」
アイクは小声でそう囁いた。
「そんな、大層なものじゃない。俺は結構面倒くさがりなんだ」
それはどこか諦念を感じさせるものだった。何かを架せられた者の哀しみも感じられる。
「バカ…そんなこと言いながら笑うなよ」
ライはそう言いながら少し口端を上げて笑みを作っているアイクの顔を見てどうしようもない憤りを感じた。
「なんでだ?」
そう問いかけてくる彼の瞳は淀みもなく、子供のような瞳だった。ライはそれに気づくと彼が手の届きそうなところにきたと思った。
「俺はこうやっておまえが知ってくれたことで一つ楽になれた。だから笑ったっていいだろう?」
その一言で、
──ああ、オレはおまえが好きだ
世界の配色が変わる。
「ああ、いいさ」
ライはそう相槌を打つ。胸が締め付けられるような感覚を堪えて。しかし尻尾が直立して先端が細かく動くのは止められなかった。これは愛情、興奮の証。それを悟られまいと意識を他へ向けようとするが、すればするほど気になって仕方がなくなる。
「っ!」
「…すまん」
さすがにライのそのそわそわした様子がまた気になったのか、アイクは思わずライの尻尾に触れてしまった。
「放したほうが…いいよな」
アイクはそのままライの尻尾を軽く握っていた。
「おまえ、普通の猫の尻尾や他の猫の民の尻尾はあまり…握るなよ」
ライはとりあえずされるがままになっている。
「ん? おまえのはいいのか?」
「…おまえは…いや、その。今日は特別だ。あのな、尻尾握ったら怒るやつが多いからな。気をつけろ」
そう言い、ライはアイクの頭をくしゃりと撫でる。
「そうなのか。気をつける」
そうやって素直に返す彼の様子にライは口端を上げる。
「尻尾はな、便利なんだ。急に体の向きを変えるとき、高い場所を渡るとき、バランスをとるのにすっげぇ重宝する。尻尾なしの人生なんて考えられないぜ。だからな、むやみやたらに触られると調子狂うからな」
それでもまだ握られた尻尾は彼の手の感触がありあたたかい。指先でふわふわと撫でられているのを感じる。きっと彼は無心で撫でているのだろう。それがくすぐったくも嬉しかった。
その感触に憶えがある。こうして自分の尻尾をふわふわと撫でたり、肩車をされて喜んでいたベオクの子供がいた。
「…なんか、懐かしいな。よくわからんが」
ぼそり、とアイクがそう呟いた。
「おまえな、憶えもないのに懐かしいとかなんのことやら」
ライはその言動とは裏腹に鼓動が早くなっていく。
「俺、猫の尻尾って触っていいものだと思っていたぞ。なんか触ってた気がする。どこで触ってたのか憶えがないんだが」
アイクはライの尻尾を触っていない片方の手を顎に持っていき思案している。
「おまえ、ガリアにいたころの記憶ってないんだよな」
その一言に反応してアイクはくい、と首をライの方へ向けた。
まだ母親が健在だったころ、アイクはガリアに在住していた。そもそも生まれはガリアだったという。それを聞いたのは少し前のことだった。クリミア王女を連れデイン軍から逃れてガリアへ赴き、ガリア国王に謁見した際、自分の憶えていない昔のことを聞いた。確かにそこに住んでいたらしいということは分かった。
単純にごく幼い頃の記憶だったため成長に伴い忘却の彼方へ追いやられたものかと思ったが、記憶の断片すら残っていなかった。ガリアへ足を踏み入れた際は全くの異国だと感じたほどだ。
なにしろラグズに関する知識はほとんどなく、今傍らにいる獣牙の民に向かって「半獣」という蔑称を用いたくらいだ。それがラグズとの接触の最初、初め…そうだと思っていた。
「かなり小さな頃だからだったのか、健忘症なのかとか思ったが…。しかし、親父が暴走してデインの追っ手や匿ってもらった村の人間を斬ってしまったのはその少し後くらいのようだ。それも後で聞いた話で全く憶えがなかった。奴の話を聞いてにわかに信じられなかったが、そうだとするといろいろと合点が合う」
アイクは顎に置いていた手を離し、じっと見つめていた。
「まあ…その場面を憶えていなかったのはせめてもの…でよかったのかもな」
そう言いライはぽん、とアイクの肩を叩く。
「そう言ってくれるか…ライ。憶えていなければいけなかったことなのかもしれないと思っていた。俺はそうなってはならない。それを心に留めておけるように」
神妙な表情でアイクはそう言い、その手は胸を押さえていた。
「バカ…それ以上苦しみを抱えてどうするってんだ。見ていたのか見ていなかったのかわからないが、それは思い出さなくてもいい。もう考えるな。おまえは今を生きればいい」
ライの手がアイクの背中を擦る。
「ん…そうだな。今日はもういい…」
少し掠れ気味の声でアイクはそう言い、目を擦った。
「眠くなってきたか? よし、枕貸してやるよ」
ライはそう言うとアイクに少し離れるよう促す。そしてその姿を大きな猫に変える。猫の姿となったライは地に身を伏せくるりと丸くなる。尻尾をゆらゆら揺らして彼を誘導する。
「いいのか?」
アイクはそう呟くとそろりとライの方へ近づき、そっと掌でライの体を撫でる。やわらかい猫の体毛が彼を誘う。
「猫の枕か…いいな」
ゆっくりと体を大猫に横たわらせ、背に体毛を敷き毛布を被る。そのぬくもりに包まれていると訪れていた眠気がさらに押し寄せていつしか彼は寝息を立てていた。
(やっと、眠ってくれた)
その寝息を捉えるとライは安堵した。やっぱり尻尾を握って眠りについている彼のことを思うと幸福感に包まれた。
もう答えは出ている。
あのときのベオクの子供は彼なのだと。
彼の記憶にない頃のこと、それはずっとライの中に息づいていた。彼の両親は王と交流がありたびたび謁見していた。その際に連れてこられていた子供の守りをしていたことがある。まだ穢れもない子供だったからなのか生来の性格なのか、自分とは違う獣耳や尻尾を持つラグズに畏れを抱くこともなく笑いかけてきた。
「やめろって、耳を引っぱるなって」
そう言ったのがつい最近のことのようだ。
その子供は肩車をされるのが好きだった。聞くと父親にされるのが一番好きだったようだったが、ライの肩にも喜んで乗っていた。そしてその耳を掴んだり引っぱったりしていた。
「しっぽ、ふわふわ。おれにはないんだ。いいなあ」
肩から降ろすと今度は尻尾を触りだす。そっと握って頬擦りしたりしていた。その無邪気さがやたらに可愛らしかった。
「いいだろ~。しっぽは便利だぞ~」
「べんり?」
「おおっと、おまえにはまだわからないか。大きくなったら教えてやるよ」
ふつふつと湧き出してくる記憶の断片。そのときの会話まで思い出された。
(なんで名前を聞かなかったんだろう)
そうやって守りをしたのは数度しかなかった。だか、こうして強い印象を持って記憶が残っている。ライはその子供の名を失念したと思っていたが聞いたこともなかったと思い出した。
(なあ、アイク…尻尾のこと教えたぜ? おまえ、大きくなったもんな)
安らかな寝息が聞こえる。もう薬はいらないだろう。
(オレも、おまえも尻尾があるかないかくらいであまり変わらないんだ、なあそうだろ?)
ライはいつか彼がなにげなく獣牙族との違いは自分に尻尾がないくらいか、と漏らしたことを思い出していた。彼はそれをもう忘れてしまっているかもしれない。だけどライにとって忘れることのできない言葉だった。それは単にあるがままの事実を言っただけであっても。むしろそれでいい、そう思った。
(そういうおまえだから好きなんだ)
いよいよクリミア奪還も目前となってきた。
その足掛かりとしてピネル砦とナドゥス城の制圧を行う。ナドゥス城へは鷹の王率いるフェニキス軍が先行する手筈になっている。アイクが率いる本隊はピネル砦の攻略を行う。
ピネル砦は最後の砦と言わんばかりに、デイン側も多くの軍勢を集結させ、大決戦になるもようだった。
いよいよ決戦のときが近い。
本隊でアイクらとともに戦うことになっているライは、夜闇の中で嵐の前の静けさを感じていた。
(ああ、ヤバイ。これは来る)
ライは全身の毛がよだつ思いでいた。化身はしていないので逆立つのは耳の毛と尻尾のみであったが。
これから迎えようという大決戦に際して、それに比例するかのように多くの負の気が渦巻いているのを感じていた。
(あいつらも大丈夫かな…)
ライは自分が率いてきた隊に所属する部下たちのことを思った。彼らラグズは気の流れに敏感だ。特に、負の気には身体の調子を左右するほどの影響力がある。普段、あまり関わることのないベオクが発する負の気はラグズにとって刺激が強い。
多くのラグズは負の気にあてられると発奮して理性を失いがちになる。戦士である者たちであればそれは顕著だ。もともと自身も負の気の方が強いのである。それが増幅されるというわけだ。それは、戦闘力を増す一面もあるのだが、化身を解いたあとの虚脱感が大きかったり、戦闘中は系統立って動くのが困難になったりするのであまり好ましいものではない。
稀に鷺の民以外で正の気が強い者がいる。そのような者が負の気にあてられると身体の不調を訴えるようになる。しかし、それと相反する獣の本能が騒ぎ、興奮が沸き起こる。そういった者はそれを抑え込もうとするため、余計に苦痛が増すという。
(オレもいっそ奴らみたいだったら楽だったろうか)
ライは正の気の方が強い稀な獣牙だった。そのため、理性的であり司令官に向いている。その戦闘力もさることながら、その理知的な部分が買われ、ガリア王の側近として従事していた。
(こういうときはだな、あまり物事を考えずに寝てしまうのがいいもんだ)
そう思考を切り替え、伸びをするとライはある木の方へ向かった。本格的に眠りに入る前に夜風に当たろうと木に登る。
その木の上から夜空を眺めると、ぽっかりと月が浮いている。そんな月を見ていると、本当にこれから何百単位で命が失われていくのだろうかという気がしてくる。
(すっかり大ごとになっちまったな)
ぼんやりと、成長した友と出会ったときのことを思い出す。そのころはまだ、頼りなく見えた。それでも大分、胆だけは座っていると思ったが。
(大層な肩書きもついて。おまえはそんなの望んじゃいないけどさ)
ベグニオンから助力を受ける上で便宜上受けた爵位。彼はその地位を望まなかったが、必要ならば、と受けた。傭兵団の団長という立場よりはるかに重責だ。
(アイク、おまえはどんな風に呼ばれようと、何になろうともおまえはおまえだ)
ライの脳裏には舌足らずに己に語りかけ、表情豊かに笑いかけてきた彼の幼い頃の姿がよぎった。そんな穢れのない子供が、父が巻き起こした惨劇を目撃したかもしれない。そして、心の奥底にまで巣くうほどの傷をもたらした父による折檻。事故のようなものだが、受けた衝撃は取り戻せない。
(それでもまだ…あいつ、親父さんに肩車してほしいって思ってんだぜ?)
どうしたら彼の止まった時間は動き出すのだろうか。
(せめて、あの負の気が抜けてくれれば)
彼の中に蓄積されている負の気が大分影響しているのは確かだ。
(オレなんか、ただそれが渦巻いている場所にいるだけでおかしくなりそうなのに)
ライは深く息を吸い、長く吐き出した。
(ん?)
眼下にうごめく影があることに気付いた。特徴的なその髪の色。そして匂い。ライはそれがすぐにアイクであることを察した。
彼は水場に向かって一人で歩いていく。
(またかよ! 今度は剣を持っているみたいだけど…)
「おい」
今度は様子を伺うこともなく、すぐに声をかける。
「また一人で水浴みか」
「ああ」
ライが呼びかけると彼は短くそう返した。
「寝汗でもかいたのか?」
「いや」
彼は振り返らずそう応える。
「…ライ、俺はこれから何千単位の人間を動かし、何百単位の人間の命を左右する。これまでよりもさらに多くの屍が積み上がる」
ちゃぷ、と水が揺れる音がする。
「入ってくるのがわかる…この身体に。人の不安、畏れ、欲望…。いっそ俺の中に収まり切ってそのまま済めばいいのにな」
本来ならあの青銅のメダリオンに集積されていくはずの負の気が、彼自身も入れ物であるかのようにそれを吸収している。もはやメダリオンとは半身といってもいいほどだ。
「それで体を冷やそうとしてたのか」
彼が水に浸かってそうしている姿は、巫女が体を清めるようなもののように見えた。月明かりに照らされて幻想的な様子だった。心なしか、微弱に蒼炎が放出されているような気がした。
「気休めだけどな。もう、逃げることはできないから」
その身体にどれだけ傷を負っただろうか。その心にどれだけ傷を受けただろうか。それでも彼は前をゆく。
「アイク将軍、あんたは立派だ」
ライは敢えて彼をそう呼んでみた。
同じなのだ。身体に負の気を溜めていなくとも、その重責はもとよりこの若さの彼にとってかなりの負担であろう。
「ライ…おまえもそう呼ぶか」
彼は振り返りその瞳をライへ向けてくる。
ライは息を飲んだ。
これは、彼が発するサインだ。分かる。
もがいて、苦しんで、這い蹲る彼のサイン。その扉の中から連れ出して欲しいと訴えている。今すぐそこから引っ張り出したい。己に目を向けさせたい。苦しまなくてもいいようにしたい。
──苦しまなくてもいいように
そこであの暗殺者のことが思い出された。そして、先程彼が負の気をすべてその身に留めて済むならと言ったことを。
(バカヤロウ……)
一つの解決方法をそこに見出だす。
(そんな結末は無しだぜ!)
もしも、彼がこの世の負の要素をすべて吸い込んだとして。そして、それを抱えた彼がそのまま消えればどうか。きっと、それですべて解決するなら彼はきっとそれを望むだろう。もとより、負の気で暴走した場合の己の始末をあの男に依頼済みなのだから。
「アイク…アイク、おまえは…」
ライは腹の底から声を搾り出すようにそう彼へ向けて言う。アイクはそんなライの瞳を真っ直ぐに見つめてくる。
ライは息を飲んだ。
目の前にいる彼は一糸纏わぬ姿だった。それを無防備に晒している。健康的で瑞々しい肢体がそこにあった。
きっと、それはしなやかに動く。
均整がとれ、美しい均衡を保つその躰。
それを、あの男は。
どんな風に食い荒らした?
どんな味を感じた?
どんな声を聞いた?
どんな匂いをかいだ?
どんな手触りを感じた?
どんな恥態を見た?
(くそっ、くそっ…)
ライは押し寄せる衝動を堪えようとする。しかし、渦巻く感情が増幅されていくようだった。それは…嫉妬。
(あんな奴なんかに…あんな奴なんかにっ!)
そう思った次の瞬間には、彼の手を引き、入水したままの彼をそのまま岸辺に押し倒していた。
蒼の瞳がそんな光景を映し出す。その瞳は眼前の獣牙が本能を剥き出しにしようというところを捉えていた。化身しかかっているのだろうか。淡い光に包まれ、指先から獣の毛で覆われていく。その目は爛々と光っていた。
その手が彼の肩を掴む。荒い息が聞こえる。開けられた口からは牙が見えた。
このような獣の本能を目の当たりにして、普通のベオクならば畏れ慄き、硬直して動けなくなるかあるいは泣き叫ぶだろう。しかし彼はそれをただ見据えていた。
その瞳の強さは失われない。
彼はそのまま両手を広げ、大地と一体となった。まるで、彼そのものが大地であるかのように。
「…ライ」
その口から獣牙の名が紡がれる。
どくん、と心音が鳴った。
何も持たないはずの彼から大いなる力を感じる。ライは次第にその力に飲み込まれそうになる。
武器などないはずなのに。
喉元に鋭利な刃を突き付けられているような。
「俺は、おまえを信じている」
ライの胸に確かに刺さったその刃。それは深く突き刺さり、ある部分に到達する。爛々と光っていた瞳が静かな色に変えていく。そして、耳が後ろに下がっていた。
「あ…ああ…」
意味を持たない感嘆の声を上げた。
──そう、彼は強大な武器を手にしていた。
武器を持たないのが彼の武器。
痛い。
ライはその痛みにのた打ち回る。完全なる敗北。彼には勝てないと思った。獣であるがゆえに力の違いを見せ付けられるともう太刀打ちできない。いっそ理性などなければよかったのにと思った。
「おまえって…おまえってやつは…!」
ライはアイクの両肩を掴みながらそう吐き出すように呼びかける。
「ホント、バカだな!」
わなわなと手が震える。
「そうやってだれかれかまわず信用していたら…いつか絶対に足元すくわれるからな! 覚えとけよ!!」
そう言い切るとライは脱兎の勢いで走り去っていった。
アイクはそれを目線だけで追う。そしてゆっくり起き上がった。岸辺に腰掛け、水で顔を洗った。
猛烈な勢いで走りゆくライはいつしか化身して茂みの奥へ駆けていった。
(畜生!!)
そのまま太い樹の幹に体当たりする。樹はしなり揺れ、葉を落とした。そしてライは顔に痣を作る。それでも気が済まないのかさらに駆けていって、大きく跳躍する。そして小さな滝が流れる川の中へ飛び込んだ。泳ぎの得意でないライはもがいた。そして化身が解かれる。
「はあっ…はあっ…」
必死にもがき、泳ぎ、何とか岸辺までたどり着いた。そしてぐったりとして地面に転がっていた。全身が水浸しである。今頃、じんじんと顔が痛む。
(バカはオレだ! オレのバカ…!)
手のひらで顔を覆う。泣き出したい気分だった。
(まただ、あいつに欲情しちまった! くそっ)
──守りたいと思ったのに
これは負の気のせいだ、と弁明することもできる。ラグズであるがゆえに影響を受けやすいとそう。しかし、明らかに個人的な感情が作用していた。むしろそれが増幅されたといっていい。もともと抱いていた感情。
(ああ、あいつが好きだ。そうだ。…抱きたいと思ってしまった)
ついに認めた。そしたら少しは楽になった。
「ライ、探したゾ」
頭上から声がする。
「!!」
そこには部下の虎の獣牙が立っていた。
「ズっと、ライの姿が見えナいから探した」
「モゥディ…」
「ライのにおい、タどった。水に濡れたカらトぎれるトころだった。オマエ、ケガしてる」
モゥディは大きな体を丸めてライを覗き込む。その体とは相反して小動物のような瞳だった。
「サいきん、ゲんきナイ。負の気のセいか? モゥディ、心配だゾ」
心底、己を心配してそう声を掛けてくる部下。それは皮肉にもライに追い討ちをかける。こんな純朴な心に触れると、特に今の己には辛すぎる。
「すまない…すぐ戻る」
ライはゆっくりと起き上がり、すっと立った。
「アイクも、心配スる」
その名が決定打になる。
「あ、ああ…」
ライは力なく応え、そのままとぼとぼと陣地に戻っていった。
顔を洗い、一つ息をついたアイクは綿布で体を拭い、脱いだ服を着ていた。
「あんた、いるんだろ? 出てきたらどうか」
彼は闇に話しかける。そしてその奥から一人の男が姿を現す。
「やっぱりな。よくもそういつも、そうやっていられるよな」
男が彼に歩み寄る。
「これが仕事だからな。お前がいつ暴走しても止められるよう待機している。依頼を受けた以上、それを確実に遂行するまでだ」
男はそう、決まり文句のようなことを言う。彼はこの男がいるであろうことをわかっていて無防備な姿で水浴みをしていた。ある種、護衛のようなものだ。しかしさすがに帯剣していないのもどうかと思ったので、剣だけは必ず持っていくが。
「それと、俺以外の手にかかって命を落とされるのは契約違反だからな。見張りだ」
そう、男が言う間にも彼は着衣を正し、男と向き合っていた。
「…まあいい。俺はもう戻る。あんたもどこでどうやって寝てるのか知らないが戻れ」
彼は男に背を向け、来た道を戻ろうとする。
「さっきのは、未遂…といったところか」
男のその言葉に彼は振り返る。
「たまには違う男の味を味わうのも悪くなかったんじゃなかったか?」
「…なっ!」
彼はそれに反応して表情を変える。
「それを見物するのもまた一興、だったがな」
覆面に隠されてはっきりと分からないが、たぶん男の口端は上がっている。
「…あんた、悪趣味だな。ライを見習え」
彼の眉が吊り上っている。
「ふ、奴は獣なのに理性が勝つとは…。お前もある意味残酷な奴だ」
男のその指摘に彼は顔を顰める。いまいち意味が分からない。
「そういえば…」
立ち尽くす彼の側に男が歩み寄りそう呟く。かなりの至近距離となる。
「まだ、あのときの別料金を徴収していなかったな」
男は彼の耳元にそう囁く。そして背後から密着し、服の合わせから手を侵入させる。
「…くそ、卑怯者」
「馬鹿が。自分の言葉には責任を持つんだな」
もはや、ベオクとしての限界を越えているのだと思った。
ついにやった。
ライは瓦礫になったナドゥス城を見て物思いに耽っていた。
ピネル砦を攻略し、次はナドゥス城の攻略、と順調に駒を進めていった。先行していたフェニキス軍が牽制しつつ様子を伺っていたため進攻しやすかった。しかし、途中で参戦してきたただの一人に隊を一つ潰されたと鷹の王が言っていた。
鷹王が率いてきたのは精鋭揃いであった。それがたやすく撃破されたというのだ。
それは黒い鎧を身に纏った者であるという。
間違いなかった。己が対峙したことのある相手、友の仇。ともに一度敗れた相手だった。
(結構、あっけないものなんだな…)
それは邯鄲の夢のようにも思えた。
今、目の前にある瓦礫の中にそれは眠っているのだろうか。何を思って逝ったのだろうか。
黒い鎧のそれが漆黒の騎士だと確信すると、アイクがそれは何としてでも討ちに行くと言っていた。あの鎧に攻撃が通用するのは彼が持つあの金色の剣、神剣ラグネルのみであるとあの騎士自らの口から聞いた。強大な戦闘能力を誇る鷹王ですら、その鎧に致命打を与えるのは困難であるという。ラグズであるがゆえに剣を扱うこともできない。
また、クリミアの騎士の中にも扱える者はいない。本来ならクリミアの騎士がその剣を手にするが筋なのだが、これは利権関係など様々な思惑も絡んでいる。市井の出身であるアイクが手にするのであれば諸侯らにとって逆に都合がよいわけなのだが、それはさておいて。何よりも物理的にそれを扱える者が他に存在しないというのが大きかった。
刀身がかなり大きく、彼の背丈ほどもあろうかという剣だった。重量もかなりのものだ。そのような大剣であるというだけのことであれば力自慢の者は他にいて、振り回すくらいは可能であると思われるが、実戦で完全に使いこなすまでに腕の立つ者はいない。力だけではなく技も必要だ。
彼は体格上、一見そこまでの怪力には見えないのだが、それを軽々と扱い、卓越した技を以って使いこなしていた。ひそかに、その剣を扱うのに特化した鍛練を行ってきたのである。
それに加えて彼の中に封じられている負の気がその剣を扱うための力を与えている。常識を越えた跳躍による必殺の一撃などもその力を使いこなしてこそであった。
その力を以って彼は仇敵に挑んだ。
激しい攻防の末、彼の奥義による一撃が致命打となってその鎧を打ち砕いた。そしてそれが崩れようというとき、竜鱗族の男が突如現れ、デインの策により城自体が崩落するとの旨を叫んだ。
跡形もなく崩れ去った城を見ると、これに巻き込まれては流石に無事ではないだろうと思われる。幾度か偵察がいったが、異常はなかったので漆黒の騎士は撃破したものとみた。
彼は本懐を遂げたのである。
無事に脱出し、敵討ちとともにナドゥス攻略を終えたアイクは深手を負ったためと疲労のため二日間は昏倒していた。その間にも最大限の治療が行われる。
ナドゥス城は崩落したが、離れの離宮が無事であったため、そこを拠点に陣を張っていた。彼は立場上、その離宮内の一室を使用していた。
そしてようやく目覚めたころには、食事と治療の時間以外は人払いをしていた。
「ですから、鷹王。あなたでも丁重にお断り致します。これはアイクより命じられたことです。いかなる者もこの部屋に入れるな、と」
彼の部屋の前には治療の杖を手にした黒衣の参謀が見張りをしていた。脇に椅子まで用意してあるので、ずっとそこにいるつもりでいるのだろう。
アイクがこの参謀を見張りとしたのがわかる気がした。この者はいかような身分の者にもきつく門前払いをする。常日頃、彼にしか心を許さないためか容赦がない。
そしてこの部屋の扉は、要人のための部屋のため頑丈なものだった。部屋内の物音も通さない。部屋の外からは彼がどうしているのかまったく伺えない。
「参謀殿、俺はアイクに聞きたいことがある」
鷹王はそう言って食い下がろうとする。
「用件でしたら僕が伺います。取り纏めてお伝え致しますので、お話しになりましたらお引き取り願います。アイクの眠りを妨げないで下さい」
鷹王にはどうしても気にかかることがあった。
アイクがナドゥス攻略前に見せたあの姿。それは尋常ではないものだと感じた。
「鷹王、ひとつ頼まれてくれないか。あんたくらいにしか頼めない」
そう、真剣な眼差しでアイクは鷹王ティバーンにあることを頼もうとしていた。
「何だ? お前さんがそうやって頼みごとをするってよっぽどなんだな、珍しい」
ティバーンはそう言いつつも頼られるのがほのかに嬉しかった。
「俺は漆黒の騎士を倒すために鍛練を詰んできた。一度敗れ、それからもさらにだ。そもそもあいつはラグネルでしか攻撃が通じないと聞いて、俺はそれを扱うための鍛練を行ってきた。まだ実戦で使ったことがない」
蒼の双眸が力強く男を見つめる。
「かなり威力のある剣であることが分かった。そのため、相手を伴っての鍛練ができない」
そこまで聞いて男は彼が何を頼もうとするのか分かった。
「…お前、一国の王を練習台にしようとしてるな」
男は腕を組んで彼にそう言い放つ。
「駄目か」
彼は自分よりもはるかに背の高い相手を見上げて、そう端的に漏らした。男は己からしてみれば華奢で小さな存在がそうやって強い意志を持って訴えてくることに高揚を覚えた。
「気に入ったぜ! たいしたタマだ。胸を貸してやるよ。思いっきりかかってこい」
男はぐりぐりと彼の頭を撫でて肩を叩いた。
「ありがとう。あんたなら思い切りやっても死なないな」
そう言って微かに笑む彼を見て男は「へ?」と短く声を漏らした。彼の手に握られている神剣がきらりと光った。
「少し広い場所に出ないと危険だ。人目につかない場所がいい」
そんな彼の言葉を聞いてかなわない、と男は思った。
「お前なあ、俺にどっか広いところへ連れていけって言いたいんだろ。まったく…さすがだな、アイク」
そう言いながら男は剣を抱えたままの彼をそのまま抱える。ふわりと男の翼が動く。
「…ティバーン、よろしく頼む」
男はくらりと眩暈がしそうになった。こうして彼が様々な人間を陥落させていったのだろうと。
彼の望み通り、人気のない野原へ到着した。
「ここでいいか?」
男は彼をそっと降ろす。
「ああ、充分だ。ここならあまり木も生えてないし、人もいない」
降り立った彼は剣を軽く振り準備運動をする。その様子を男はしげしげと見つめていた。そういえばこうしてじっくりと彼が剣を振るう姿を見たことがなかった気がする。彼に助力することになってからも、別動隊で行動することが殆どだった。
(これまで死地をくぐり抜けてきたお前の戦姿、しかと見届けさせてもらうぜ。お前は常に最前線で剣を振るい、兵を鼓舞してきたという。一騎当千の将と名高いお前の力、俺が確かめてやるぜ!)
男の中にふつふつと闘争本能の炎が燃えてくる。
つい先だっても彼はピネル砦攻略の際には、鬼神の如く戦場を走り抜けた。大激戦だったと聞くが、本当に人間離れした活躍を見せたという。彼が通る道は爆薬を仕掛けたかの如く、敵兵が散っていった。幾ら動き回ろうとも、少しの疲労も伺わせず、進んでいく。返り血を浴び、朱に染まった彼は地獄からの使者であるかのようだったと評する者もいる。
(しっかしなあ、まだあんな幼い顔してんのにな。鳥でいえばまだケツに殻が付いてそうなもんだぜ? それをつかまえて地獄からの使者とかって…幾ら何でもな)
男にしてみれば彼はまだ、実質的に雛のようなものだと思った。ラグズとベオクでは寿命は大きく異なり、成長度合いや時の流れの感覚も大分違うのだが。
(まあ、そうだというからにはそうなんだろう)
男は拳を固め、彼を見据える。
「さあ、かかってこい!」
それが開始の合図だった。
彼のその一閃が男の胆を冷やす。
(!!)
ラグネルから発せられる衝撃波。それが男への牽制となった。地を割り、唸りを上げて衝撃を宙にいる男へ飛ばす。反射的に男はそれを回避するが、体に圧は受けた。
(なんだって剣からこんな波動が出るんだ!?)
魔力がかったものとは聞いていたが、このような付加効果があるとまでは聞いていなかった。
翼を持ち、空中から攻撃を仕掛けることができる男が圧倒的有利であるのだが、彼がこのような攻撃方法を持つとあってそれが五分五分くらいとなった。
(なるほどな、これは並の奴じゃ死ぬかもな)
男は化身し、大鷹の姿にその身を変えた。そして甲高い雄叫びを上げる。
暫く、両者とも決定打がないまま攻防が続いていた。
(こいつ、本当にベオクか!?)
彼は男の熾烈な攻撃をいなし、動きが衰えない。そして動きが尋常ではなかった。あの金色の神剣は彼の背丈ほどもある大剣だ。相当な重量があるとみる。それをその大柄とはいえない体躯で軽々と振り回し、鷹の王である男の攻撃を凌いでいた。
(面白れぇ…)
男から闘争心という炎が発せられる。そしてそれと呼応するかのように、彼の身体から青白いものが浮き上がってくるのが見えた。男の炎はそれに吸い取られていくかのようで、彼に向かって何か流れていくのを男は感じた。
(う…っ、なんだこれは…!)
未知の感覚だった。男がそれに惑った一瞬を虚として捉え、彼は男に向かって大きく跳躍した。その跳躍もまた、ベオクとしては有り得ないほどのものであった。
(ヤバイっ!)
寸手のところで男はそれをかわすも、剣圧で数十枚の羽根が飛び散った。そして剣ごと彼が着地する。その剣は大地に亀裂を作った。そこが噴火したかの如く地が抉られた。
(なんだこれは…!?)
もはや常識の範疇を越えていた。そして、それを食らっていたら自分も致命傷になっていたかもしれないと思った。
(まだ来るのか…!?)
男がそう、意を決した瞬間、彼の体が揺れる。そしてそのまま膝を付いて倒れた。
「おいっ!」
男は化身を解いて彼を抱き起こす。
「だ、大丈夫…」
そう言うも、彼は額に脂汗を浮かべていた。
「すまん、ありがとう…。これで、いける。あとはもっと戦局の運びをうまくやるだけ…」
そう言う彼の顔色は蒼白になっていた。男は明らかに彼が尋常な状態ではないと思った。
「…鷹王、もう一つ頼みがある」
「なんだ?」
「このことは誰にも言わないでくれ」
アイクを抱えて再び陣地に戻ったティバーンは思案した後、ある男に相談を持ちかけようと思った。
「いいか、リュシオン、ちょっとこっち来い」
ティバーンが呼び止めたのは鷺の民の王子だった。
「何ですか、ティバーン」
「…お前ら鷺の民の王族はもともとメダリオンの番人だったよな。それがまあ、いろいろあって今はデインに渡っちまってるが」
ある天幕に入り、二人はそこにあったテーブルセットに着席した。
「前にそれについては話は聞いてたけどさ、あれは負の気が封じられていて…正の者であるお前らが守ってたと」
「はい」
「言ってたな、俺なんかは負の気のほうが強いんじゃないかって。見ただけでやられちまうんじゃないかって」
ティバーンは己を指差しそう言い放つ。
「確かに。あなたは猛々しい雄です。きっとそれが増幅されるでしょう」
リュシオンはきりりとした眼差しでティバーンにそう返した。
「はは、言ってくれるな。まあ…実際そいつは見たことないけどさ。あれって、炎の紋章と呼ぶ者もいるとおり、蒼炎として負の気が見えるんだったな」
ティバーンのその言葉にリュシオンは目を見開いた。
「…見たんですね、ティバーン」
ティバーンは息を飲んで頷いた。
「ああ」
「…アイクが最近とみに私を避ける。きっと心を読まれてはならないと」
眉を歪めて心配気な表情をしながらリュシオンは胸に手を置いた。
「お前もなんかおかしいと思っただろ?」
そう言い、ティバーンは目を閉じ念を送る。心を読むことができるという鷺の民リュシオンはその念を受けてその光景を己の中に再生する。
「ああ…これは蒼炎です。ありえない。目に見えるほどの負の気を纏ってあんなに動き回っていられるなどと」
リュシオンは顔を顰めて眉間を指先で押えた。
「アイクはこのことを誰にも言うなって言った。まあ言ってないけどな」
そう言いティバーンは少し口端を上げた。
「あいつ、これで漆黒の騎士を倒すつもりだ。そして次は…」
「きっと、メダリオンの力に対抗するつもりです」
二人はしばし沈黙した。
「大丈夫なのか?」
ティバーンが沈黙を破る。
「私など瘴気にあてられるだけで立ち上がれないというのです。猫の民の中にもあれが苦手な者がいる。ライ殿などはいい例だ。ラグズとベオクで違うかもしれませんが…」
そう言い、リュシオンは拳を作っていた。
「必ず反作用が出るはず。なにしろベオクの限界を超えているのですから」
リュシオンと別れたティバーンは一人、思考を整理していた。
(ベオクの限界を越えている…か)
彼と対峙したときに見た青白い光。あれがメダリオンから発せられる蒼炎と同様のものであるという。
(しかし、あいつは何故あんな量の負の気を纏っているんだ? 俺なんかが元々持っているのとは違うようだな。まるで器の中に詰め込まれたもののような…。俺の気も吸い取られそうになったしな…)
思考しながら陣地を歩き回る。そしてふと、あるクリミアの遺臣らの会話が聞こえてきた。クリミア戦疫の際は領民をおいて足早に避難し保身を図った連中だ。
「ときに…この戦に勝ち目はありますかな?」
「兵の数でいえばかなり優勢になりましたでしょう。ベグニオンからの助力が大きい。はんじゅ…ら、ラグズ各国よりの戦力も侮れますまい。」
「ふむ、このまま順当に行けばあとは王都奪還あるのみ」
「ただ、最終的にデイン王を討ち、勝利を上げる人間はクリミアの人間でなければならぬ」
「ベグニオンの者が首を取ったとあれば、手柄はベグニオンのものとされますな。そうなれば王都奪還を果たしたとしても後の政治的介入は避けられますまい」
「ラモン王亡きクリミア、レニング卿も行方不明とあらば、王位継承権があるのは今やエリンシア王女のみ」
「政治を知らぬ姫君など傀儡に過ぎぬ。我々の時代は目前ですな」
「しかし、クリミアの騎士にアシュナードを撃破しうる者はおるのか? あれは戦闘狂とも言われ、禍々しい竜に跨がり馬の首をも落とす剣を扱い、常識を越えた戦いをすると聞く。メダリオンもデインの手に渡っている以上、どのような手を打つかわからぬ。危険極まりない」
「…常識を越えたものには常識を越えたもので対抗する。それが手かと」
「それは?」
「あの、傭兵上がりの総指揮者です。先だってのピネル攻略の際の話は聞いておりますかな?」
「ああ、あの青二才のことですな。鬼神の如く活躍と聞く。確かに、常識を越えた物量の敵兵を屠ったと」
「今までも、先頭に立ち自ら剣を振るい軍を進めてきた。ある種神憑り的なものがあるやもしれぬな」
「これから攻めんとするナドゥスにはフェニキス王ですら致命打を与えるのが困難というデインの四駿の一人が出現したというが、それを撃破する手立てもあの者が握ってると」
「あの者はクリミアの片田舎出身だったな。一応はクリミアの民であるというわけか」
「ええ、これほどまでに都合のいい人材はおりますまい」
「さしずめ…人間兵器といったところですかな」
「それは物騒な」
「しかし、人間ですぞ。いかようにも」
「兵器には領土も地位も必要ない。そして、平定の訪れた地に兵器は必要ない。わかりますな?」
「御意」
この者達は密談をしているつもりなのだろう。しかし、順風耳を持つ自分の部下ほどでもないが、ラグズゆえの聴力でその会話を捉えた。今、リュシオンが傍にいたらその負の気にあてられて倒れるだろうか。
(クソ…っ!! ニンゲンどもめ!)
ティバーンは拳を握り締め、怒りに震えていた。この、ベオクに対する怒りは同胞が棲家を焼き払われたとき以来のものだろうか。
(本来ならお前らに協力などするはずもない!)
その行き場のない拳を抑えて、突如飛び立つ。瞬く間に空高く上昇する。そして、陣地から離れた岩場へ急降下し、その拳で岩を砕いた。
(人間兵器だと…? ふざけるな!)
砕いた岩を見つめてティバーンは収まらない怒りに震えていた。そして先刻対峙した彼のことを思い出す。あの遺臣たちによる例えには腹が煮えくり返るほどの嫌悪を感じたが、あの蒼炎を纏った彼の姿を思い浮かべたら言い得て妙とも思ってしまった。
(アイク…お前、どうするんだ…!? どうなってるんだ? あんなもののためにお前は命を賭けるのか?)
ティバーンが国を上げてクリミア解放軍に助力しているのはアイク個人への仁義に由るところが大きかった。後見をしている鷺の民の王子と姫の救出という恩義があってこそである。
(あくまでも俺はお前自身に力を貸すだけだ! お前は何のために、誰のために戦うってんだ!)
聞きたいことは山ほどあった。このまま放っておけないと思った。しかし、その扉は厚い。
「あの、よろしいでしょうか?」
彼の参謀に門前払いされているティバーンの前にまた一人来訪者が訪れる。
「リュシオン王子、貴方は特にお通しできません。アイクにことずかっております。用件なら取り纏めておりますので」
参謀はまたしてもそう、淡々と来訪者を追い返す。
その様子を見たティバーンは苦笑いした。リュシオンはその美しい顔を歪めて悲痛な面持ちになっていた。特に自分が避けられていることにショックを受けたのだろうか。
「…また改めようぜ…。なあに、今すぐってわけでなくても良いだろう」
そう言ってティバーンはリュシオンを引っ張って退出していった。
その様子を物陰から眺めていた者が一人。
(こりゃ、オレなんかは速攻で追い返されるな…)
ライはそう思い、ため息をついた。
(しっかし、そこまで厳重に人払いするってのはなんなんだあいつ。余計に気になるじゃないか)
もう、ナドゥス攻略から数日が経った。怪我の方は大分回復しているという。あとは充分な休息を得るだけということだ。治療で出入りしているキルロイの話によると、睡眠は取れている、と聞く。
(なんか、嫌な予感がするんだよな…)
それはラグズゆえの勘か、もしくは彼を想うゆえか。
(こんな、誰も傍にいられない状況で…あのおっさんはどうしているんだろうな)
ふと、あの暗殺者のことを思い出した。あの男はいつでも契約を遂行できるように彼の傍にいるはずである。
(…よし)
ライはその男を探し出してみることにした。あの男の行方を辿れば彼の傍へ行ける手立てがあると思ったのである。
(案外、あっさりと見つかるなんて…)
その男は彼がいるであろう部屋の窓の下にいた。
(なんだ、そんなところに待機なのかよ)
その窓へ登るには壁面に突起物がなければ不可能だった。周りに伝っていける木などもない。さすがに警備面で配慮されていると思った。
(これじゃあな、どうしようもない…ん?)
ライが気配を消してその男を見つめていると、男は移動を始めた。そして館からどんどん離れた方向へ行く。
(ちょ、ちょっと待て! サボリかよおっさん!)
ライは男が仕事を放棄したのかと思い、惑ったが、それでも気づかれないようにそっと後をつけていった。すると、ある地点でその姿が見えなくなる。
(!? どこだ?)
姿が見えなくなったので後を追うことが不可能になったかと思われたが、ライは落ち着いてその匂いを辿ることにした。
(獣牙の鼻をなめてもらっちゃ困るな!)
神経を集中させるとその死臭を感じることができた。あまり好ましくない匂いだったが、今はそれを追うことが重要だった。
(ははーん…そうか、なるほど)
匂いを辿って発見したのはある地下道への入口だった。
(これがきっとあの部屋に繋がっている…)
警備の厳重な要人の部屋にはまず脱出用の抜け道があるとライは納得した。敵襲があった際にはそこから脱出できるようになっている。それを逆に辿るというわけだ。
(…待ってろよ、アイク)
ライはその道へ潜り、彼の匂いがするほうへと進んでいった。もはやあの男のことなど頭にない。
その道の入り口に立つ男が一人。
男は一匹の猫がその道を行くのを確かめると腕を組みながら近くの樹にもたれかかり、ひと息ついた。
(今、必要なのは俺ではない)
自分の後を猫が追いかけてくるのがわかった。いや、追いかけてくるだろうと思っていた。そしてその道を譲る。
足跡をつけるところまではできた。
しかしそれを包み込んで溶かすことはできない。
(さあ、行け)
身体中がバラバラに分解されそうだ。
骨が砕け、皮膚がよじれ、関節は逆の方向に曲げられ。筋が腫れ上がる。いっそ気が狂ってしまった方が楽だった。
いや、それはできない。
肉体的苦痛と精神的苦痛、どちらをとるのか、という問題。そういう選択肢であれば前者をとる。
意識を闇に落とすと己が惨殺を繰り広げる光景が目の前に広がる。その被害に遭うのは実際に己が戦場で斬った敵兵ではなく、見知った者たちや仲間、団員たち、そして。
最後に貫くのは妹の胴。
母がそうやって逝った、父もそうして逝った。
睡眠を取れているといえば取れている。意識を落としている時間は多いはずだ。しかし、これで安らげてはずもないだろう。肉体的には休息を取ることができているかもしれない。しかし、心は。
目が醒めている間には肉体的苦痛がふりかかる。実際にはもう、怪我は回復しているのだが、痛みだけが襲ってくる。
きっと、これは己の体内に取り込まれている戦場で死を遂げた者の思念だ。こうして苦しんで死んでいったのだろう。己が屠った者の念も含まれているだろうか。
彼は堪えた。
誰にも言わず、誰にも見せず、誰にも聞かせず。
枕をきつく抱きしめ、口に布を噛んで声を抑える。額から脂汗が滲む。この痛みには波があった。ある程度堪えたら少しは楽になる。すると次には意識が落ちるわけだが、その先にはあの光景がある。それの繰り返しだった。
いつ終わるともしれない苦痛。
しかし、これをそのまま身体に留めておかなくてはならない。むしろもっと取り込んで溜めておかなくてはならない。
漆黒の騎士を撃破する前にそれが言った。最終的に討つべき相手である、デイン国王アシュナードも彼が持つ神剣ラグネルでなければ致命打を与えられないという。そして、メダリオンは今デインの手にある。
女神の加護を受けた鎧に、馬の首をも落とすという宝剣グルグラント、そしてメダリオンの力。それらを以ってして強大な戦闘力を得ているアシュナードその人に対抗するには…
これしかない。
己の中に蓄積された負の気を力とする。
アシュナードは狂王とも呼ばれている通り、力を欲し、それを振るうためにメダリオンを手に入れ大陸に戦乱を巻き起こそうとしている人物だ。メダリオンに眠る邪神を復活させんとしている。
対峙した際には、自らメダリオンに触れ、その力を利用する可能性がある。なにしろ、すでに狂っているのだから。
(あと少しもってくれ、あと少し…)
彼は自分の身体と精神が闇に墜ちていかぬよう、念じていた。まだ仕事は残っているのだ。
漆黒の騎士を倒して仇討ちを果たし、本懐を遂げたのだが、まだその先に倒すべき敵がいる。直接的な恨みはないが、それを成し得ないことにはすべてが終わらない。
それに、それが彼の仕事だからだ。
(俺は傭兵だ…請けた仕事は最後までやり通す…)
クリミア王女エリンシアより請けた仕事。クリミア奪還。そして、それに関わった者をなるべく守りながら遂行していくこと。
(途中で…投げ出したら、親父に顔向けできないな…)
その背中が見える。それは遠く、遠くに。
走っても走っても追いつけない。
光は見えないが、匂いが近くなってきた。
(さすがに光も届かないってか。まあ、オレにしてみればどうってことないけどな)
地下道をゆくライはそう思いつつ歩いていた。夜目の効く獣牙であるライはすいすいとその道を歩いていった。
すると、行き止まりに差し掛かる。そこからは細い螺旋階段となっていた。
(いよいよだな)
そしてその階段も登りきったところで道は終わっていた。ライは頭上を見上げた。そこには開きそうな天井があった。そっと、音を立てないように開ける。
(よかった…)
それはすんなりと開いたのでライは安堵した。
(それにしても埃っぽい…)
思わず咳込んでしまいそうになるほどだった。何かの下へ出たようで、暗がりになっている。それでも光は射しているのでここが何なのかは把握できた。
(なるほど、寝台の下にきたというわけか…ん?)
ライはそこに何か血の匂いのようなものを感じた。それが気になり、手で辺りを探ってみると、布が手に触れた。
(何だ、これは…!)
漏れてくる光でそれは充分視認することができる。それは血液が付着した布だった。そしてその布からはアイクの匂いもする。
ライの体にぞわっとしたものが走った。
(おまえ…)
その布を手にしたままライはそっと寝台の下から這い出てみる。そしてするりと抜け出て少しずつ立ち上がり、寝台を覗き込んだ。
そこにあったのは虚ろな瞳で己を見上げる彼の姿だった。少し汗をかいたのか、前髪が額に貼り付いている。自分で噛んだのだろう布がくわえられている。
ライはアイクの口からその布を取り除いてやった。アイクはそれに反応することもなくただライを見つめていた。ライの手がアイクの頬を触る。微かに震えていた。少し開けられた唇も震えてきた。
「…おまえ、これは何だ?」
ライはアイクの身体を抱き起こし抱え、手にしていた布を彼に見せる。
「バカヤロウ…なんでおまえって奴は…」
ぐっとその身を抱く。アイクはそれに身を委ね、そっと瞳を閉じた。
「ライ、俺はあともう少し…動ければいいんだ」
力無く呟かれるその一言。
「言うな、誰にも言うな。わかったんだ、漆黒の騎士を倒したときに。この力は使えるって」
アイクの手がライの胴に回される。
「ただし、使えるのはもうあと少し。弱ったな。俺もそこまで頑丈じゃな…い…っ」
そこまで言ってアイクは呼吸を乱す。そしてライにしがみついたその手に力が入る。
「おいっ、いい。もう喋るな!」
苦しそうな呼吸をするアイクの背を摩りながらライはそう言い放った。
「わかる、わかるぞ…負の気のせいだな!?」
以前、彼が最初に漆黒の騎士と対決した際、その光景を目撃したライは一瞬だが、彼が蒼炎を纏って必殺の一撃を繰り出しているところを見た。常識を越える跳躍をともなった一撃だった。それはあとで考えると彼の体内に溜められた負の気を利用したものだったとわかった。
その後、彼はそれを応用しようとひそかに鍛練を行ってきたのだろう。そして、先のピネル攻略の際にはその場で気を取り込みつつ力を発揮していったというわけだ。疲れ知らずと言わんばかりに猛烈な勢いで次々と敵を撃破していった。
そしてその気を取り込んだ状態で再び漆黒の騎士と対峙したのだろう。
今まではむしろ気を鎮めるために鍛練を行ってきていたが、強大な力が必要な局面に差し掛かり、彼はそれを使うようになっていた。そして、常識外れの戦闘力を得た。
しかし、このベオクの限界を越えた力が彼の肉体と精神を蝕んでいった。過ぎた力は必ず反動がくる、というように。メダリオンに触れた者は暴走するというように、そういう対価を払うことになるということだ。
「…しかしおまえ、それを抑えないとやられちまう!」
いくら最終局面のためにその力を発揮しようと瘴気を溜め込んでいるのだとしても、それまでに折れてしまってはどうにもならない。
「そうだ、リュシオン王子の呪歌なら…」
鷺の王子が唄うことができる呪歌には気の流れを整え、対象となった人間は体内の気が活性化し行動力が増す効力を持つものがあった。
「だめだ、リュシオンは…だめ…だっ…。こんな、俺…見られたら…知られる…止められる…」
アイクは首を横に降る。彼は、鷺の民が持つ心を読む能力を怖れ、鷺の王子をことさら避けていた。
「何言ってんだ…そんなこと言っている場合か…!」
そう言い、ライはアイクの顔を上げさせ、彼の顔色を見る。血の気が引いていて蒼白になっていた。
「…やだ」
そのままアイクの口から発せられるその一言。
「え?」
ライは思わず聞き返す。
「おまえじゃなきゃ…厭だ。ライ、おまえが…いい」
自分を見上げてそう訴えてくる彼。ライは何も言わずぐっと彼を抱きしめる。喉の奥から込み上げてくるものを感じた。熱いものが頬を伝う。
(どうして、どうしておまえがこんなに我慢をしなくてはならないんだ…! もう、充分よくやってきたじゃないか。こいつはこれでも涙を流すことができないって言うんだぜ?)
ライは友の分まで涙を流す。今、腕の中にいる友が少しでも安らぎを得られるように祈った。
アイクはライの胸に顔を付け、その想いを受け取るようにゆっくりと呼吸をしていた。体中の痛みは治まってきた。
「!!」
呼吸が落ち着いてきたのを感じて少し安心したライは、突然アイクに胸を押されて惑った。そうしたかと思うとアイクは脇机にある桶に掛けられていた綿布を引ったくるように掴み、それを口に当てた。
「おいっ、アイクっ! おまえっ!」
アイクはそのまま苦しそうに咳込んだ。ライはすぐにその身を抱え背を摩る。それでもまだ治まらない。
「なんてことだ……」
やっとそれが治まり、彼がその布を口から離した。そしてその布に付着していたのは濁った血液。
ライはとりあえずその布を机に置いてやり、桶の横にあった清潔な布を水に浸し、彼の顔を拭いてやった。そして、水差しの水を彼の口に含ませてやる。
「ほら、濯げ」
アイクはライにそう促されて、口を水で濯ぐ。そして口元に寄せられた布へ向けてそれを吐き出した。
「…す、すまない…」
一通りの処置を終えると彼はその一言を吐き出した。
ライは血に汚れた布を見て、彼は一人でこれに堪え、やり過ごしてきたのだろうと思った。寝台の下に押し込まれていた布がそれを物語っている。
「酷いな。ここまできてんのかよ…。内臓がやられてるのか?」
ライはアイクを抱き抱えたまま腹の辺りを触る。専門知識があり触診などできるわけでもないが、少しでも彼の痛みを探りたいと思った。
「…わか…らない。でも中から…きてるのかも、な」
絞り出すような声でアイクはそう言った。
言われてみれば、そうなのかもしれない。外傷は癒えたが、痛みだけが肉体にもたらされたりしている。なにしろ、負の気は体内に留めてあるのだ。内部が蝕まれていたとしても不思議はない。
「俺が、そうすれば済むということならそれが楽じゃないか」
以前、彼が言った言葉を思い出す。
すべて自分が負いそれを抱えてしまえば、という。確かに、誰かへ辛いことを任せてその責に苛まれるくらいなら自分で負った方が楽だというのはある。しかし、それにしても。どうして彼がここまで苦行を積まなくてはならないのか。それが運命だ、と言ってしまえばそれまでだ。
──いっそ、本当に楽にしてしまえるのなら。
一つの光が煌く。それは鋭い刃。脳裏にちらつくのはあの死臭を纏う男。
ライは首を横に振る。それはさせない。させるものか、そう思った。
「アイク、おまえ…ちょっと休め。目を閉じて横になるだけでもいい」
そう言ってライはそっとアイクを寝台に横たえた。
「嫌だ…嫌だ…」
アイクはライの肩に手を伸ばし、首を横に振る。
こんなわがままを言う奴だっただろうか、とライは思った。そしてその顔が何かに怯える子供のようだった。
「みんな死ぬ、クリミアの兵たちも、団員たちも、ミストも……そしておまえも」
「俺が殺してしまう」
彼が吐き出したその言葉にすべてが込められていた。
そう、彼はその日のためにあの男と契約を結んでいるのだから。そもそも、すでにいつそうなってもおかしくない状況なのだ本来なら。あの蒼炎を纏った状態での戦闘力が尋常ではないというのなら、彼がここまで自分を保っていられるのもまた尋常ではない。
「俺が、弱いから…そうなる」
彼の言葉がそう続く。ライは顔を強張らせながら小さく首を横に振る。
(おまえは強い。その強さは奇跡に近い)
眠って意識を落としたら待ち受けているその夢に怯える彼。意識を落としている時間は通算にしたらそれなりにはあるのだろうが、このような精神状態になるのであれば休息を取れていないも同然であろう。
「なあ、アイク。おまえは…大丈夫。うん、大丈夫だ」
ライの手がアイクの前髪をさらさらと梳く。
「みんな死なない。オレも死なない」
そしてライは腰の物入れから薬を取り出す。
「だから、な。楽にしてやる。さあ、寝よう」
あのときキルロイに託された強力な睡眠薬がまだ残っていた。それを今一度。
「…そんな目には遭わせない。オレがいるから。ついててやるから」
ライは薬を口に含み、アイクの頭を手で固定し軽く口を開けさせてくっと飲下させた。そして水差しの水を口に含みもう一度飲下させる。
「すまん……そうか…ありがとう…」
アイクは掠れた声で息を吐くようにしてそう声にする。
そして彼の手にふわふわとしたものがあたる。彼はそっとそれを握った。それを握った彼をそのままライは優しく抱きしめながらそのままでいた。彼の寝息が聞こえてくるまでそうしていた。
(おまえのためなら、尻尾のひとつやふたつ…)
その寝息が安らかなものであることを確認するとライは安堵した。
神様、あともう少しだけ───
もう、春の頃だった。澄んだ青空が広がり、空は晴れ渡る。これから死闘が繰り広げられようとしているのが嘘のようだった。
ナドゥスを攻略したアイクらは、いよいよクリミア王都へ攻め入り奪還を図る。その前に、グリトネアにて捕われた鷺の姫を救出した。メダリオンの力を「解放」する呪歌の謡い手としてデインに捕われたという。そこではラグズが生体実験されて自我を失い、悲惨な状況になっていた。実験を行った人物は逃亡済みであった。各々、やるせない気持ちと怒りを感じながらその者たちを胸の中で弔い、前へと進んでいった。
不思議とその心は穏やかだった。嵐の前の静けさというべきか。アイクは空を見上げ、その青さを目に映す。すっと意識が溶けていくような気がした。
そこには何もない。ただあるのは無、のみ。
このような空の気持ちで挑んでいければと思った。不浄な気もすべて無に還せれば。本当なら誰も苦しまないで終わればいいのにと思う。
胸に手を置いてそれを感じた。
人の苦しみ、悲しみ。
それを心に留めて、忘れぬよう、しかし押し潰されないよう前を行こうと思った。今、行くのは自分しかいない。
祖国奪還を目前とした王女が緊張した面持ちで佇んでいた。思えば、この王女も望まぬ形で旗頭となり歩んできた。彼と同じく両親を失っている。そして、仇敵はすぐそこにいる。自分にとっての、そして国家にとっての仇。
初めは不安を隠せず惑いながら彼らを頼り、前に進んでいた。そして今は多くの人間の運命を背負い、上に立つ。
人は与えられた器に対して大きくなる、といつしか竜鱗族の男が言っていた。彼は今、その言葉の意味を噛み締める。
出陣前の激励の言葉。それを王女は万感の想いを込めて兵たちへ向けた。その姿を見て、彼は感慨深く思った。
「あんたは、一人じゃないんだ」
彼は王女にそう言葉を向けた。それは、彼が自分自身に言い聞かせるようなそんな言葉だった。
大規模になったこの軍。まさに多国籍軍というべきものだった。捕虜収容所から解放したクリミアの志願兵、軍を進めるうちに雇用を重ねていった傭兵たち、ベグニオンからの派遣兵、獣牙の国ガリアからの兵、鳥翼の国フェニキスとキルヴァスからの兵…そしてその中核には彼が長を務めるグレイル傭兵団があった。
それだけ多くの者の命を預かる。
ここまで預けてきてくれたことに彼は感謝を込めた。そして彼はその者たちへ想いを告げる。
「命令は一つだけだ、誰も死ぬな!」
それは父親の受け売りだと彼自らが続けて言う。しかしその想いは全く同じものだった。死んでいい者などいない。
城壁付近の守りは鷹王率いるフェニキスの兵を中心とする隊に任せた。竜騎士など空中戦を得意とする隊との対決になる。数の多いガリア兵はガリア王の影とも呼ばれる重鎮が率い、城門付近での攻防を任せた。突破口もここから仕掛ける。
あとは、ただ彼の行く道を続くだけ。
城門を突破し、ついに城内へ突入した。そして敵前に宣戦布告をする。すると、突如一騎の竜騎士が飛来してくる。明らかに他の飛竜とは異なった獰猛さを感じさせる黒い竜に騎乗した者だった。ある種の威厳を湛えてその者は降臨する。
(こいつは…!)
それはデイン国王アシュナードその人だった。まるで、この戦いが余興であるかのように、沸き起こる闘争心をあらわにしてアイクらが攻め入ってくるのを待ち構えている、と言う。
「ガウェインの息子というのはおまえか…?」
神剣を手にしていた彼はそう問われた。それは父の昔の名。確かに彼はその人の息子だった。この男は彼との対決を愉しみにしていると言った。父はかつて神騎将とうたわれ、男の部下であった。強かった父、そして強さを求め戦乱を望んだこの男。父亡き今、彼が父の剣を継いでそれに立ち向かう。
男は彼を品定めするように眺めると、再び城奥の壇上へ戻っていった。
国王の飛来にデイン兵も動きが止まっていたが、アイクが号令をかけ突破を開始すると再び動き始めた。
この戦いは敵将…すなわちアシュナードを撃破すればすべてが終わる。互いにもう、逃げも隠れもしない。外堀の攻防をラグズ兵たちへ預け、左右の攻防も他へ任せた。あとはただ前へ進むのみ。中央突破が最短のコースだった。アイクは先程、男が直接飛び立ってきたことも勘案して、これは益々速攻しなければならないと思った。あまり長引かせると痺れを切らした男自らが戦渦へ飛び込んできて甚大な被害をもたらす可能性が大きい。幸いと言うべきか、男は彼との対決を強く望んでいるため、一騎打ちに持ち込めるならそうしたいところであった。
今こそ、この力を。
彼はラグネルを振り上げる。そして一思いに振り下ろす。
「道を…開けろっ!!」
彼の怒号が飛ぶ。それとともに衝撃波が飛ぶ。
それに巻き込まれた敵兵は吹き飛ばされ、他の兵にぶつかって倒れ込み、それに巻き込まれた者もまた連なって倒れた。敵兵が再び体制を立て直す間もなく、彼はそうして切り開いた道を駆けて、同じようにまた道を開けていく。まるで台風の目のようだった。
彼に続いてきた者たちは、彼に倒された者が立ち上がり彼へ攻め入らないよう後処理をしていった。まさに混戦である。飛び散る血潮に鬨の声、飛び交う金属音、燃える魔道の炎。
その匂いに鼻をひくりとさせる者がいた。
(この匂いは…濃い、濃いぜ…)
青い毛に赤い血をこびりつかせた大猫が全身の毛を立たせて唸りを上げる。そして勢いよく飛び立ち、衛生兵へ襲い掛かる敵襲を屠っていた。
「す、すいませんっ、ライさんっ」
彼が突破していった城内の中央噴水広場の手前辺りで、衛生兵が待機していた。傷ついた者たちはそこへ走り、治癒の魔法による応急処置を受ける。そこは傭兵団の面々が主に控え、衛生兵を護っていた。
ガリア兵の指揮をしないこととなったライは本隊での参戦となり、団員たちとともに衛生兵を護衛していた。特に衛生班の中心となっていたキルロイの側にいる。
(これを…あいつは取り込んで…行くのか)
ライは膨れ上がるばかりの負の気を感じ、それを彼が取り込んで駆けていってるのだろうと思った。微かに視認できるその姿、それはまさしく台風の目のようだった。遠目に衝撃波が巻き起こるのを見ると、兵器が道をゆくように見える。
ぴくりと耳が動く。何かが倒れる音がする。それはかなり大きなものが倒れた音だ。
(もう、このくらい常識の範囲を越えてるんじゃなかったら太刀打ちできないのかもな)
その音は、彼が赤竜を斬り倒した音だった。宙を舞うような跳躍をともなって、竜の眉間を割る。着地をすると同時にまた前へと駆けていった。倒れた竜には大勢の兵が集まり息の根を止めにかかる。
ある程度まで奥へ進むと彼は後続の兵を制止し、一人で進むと言った。そこから先はアシュナードが一気に攻め入ってきたら後退する余裕がない距離である。
彼は壇上へ向けて駆けて行く。その道にも立ち塞がる者はいたが、もはや道端の石も同然だった。蒼炎を纏った彼を止められる者はいない。
(む…あれは…)
壇上から彼が駆けてくる様子を愉しみと言わんばかりに見つめていた男は、彼のその炎に気づく。
(これと同じものか…? 今これは手元にあるのに何故)
男は掌中にあるメダリオンを見つめ、彼の姿をもう一度見る。厳重に布に包まれたメダリオンはその布の隙間から蒼い光を放っている。メダリオンも今この戦場の負の気を吸収し、それを増大させていた。そして、彼が近づくにつれ共鳴するかのように輝きを増す。
(ふ…上等だ…! これは盛大な宴になろう。ガウェインの息子よ、お前も「力」を求める者か? どのような経緯からか分からぬがこれと同じ力を手に入れたようだな。ならば条件は同じ。互いの実力がものをいう。さあ、始めようではないか…!)
カッとライの目が見開かれた。
(来た!)
地に足を踏ん張っていないと魂を持っていかれそうなくらいの気の動きを感じた。多くのベオクの兵は何も感じていないようだったが、傍らにいたキルロイが顔を青くしていた。そして胸で十字を切る。目線が城奥の檀上へ向いた。
「…アイク…!」
キルロイはそれが始まったことを察したのだろう。彼の名を呼んだ。
そして、勝利の女神が彼に微笑むよう祈った。
この、圧倒的な敵にどう立ち向かうのか。
見上げるほどの大きさである黒竜。それ自体がすでに危険だ。しかし自我を失っているのか騎乗しているこの男に従順である。そこから振り下ろされる斬馬刀といってもいいような、しかしそれよりもさらに常軌を逸脱した形状と大きさの剣。剣といっていいのかすら分からないこの武器が黒竜の上から振り下ろされる。この斬撃をまともに受けたら生身の人間なら一撃死であろう。
彼もまた常軌を逸脱した動きをする。
その筋骨隆々と言い難い体躯で自身の背丈ほどもある神剣を軽々と振り回し、卓越した動きを以って男に立ち向かう。その重量の剣を持って高く跳躍をする。
条件としては彼の方が不利だ。
男は上空から攻撃を仕掛けてくる。彼から仕掛けることはまず難しい。ただし、彼が持つ神剣は念じて振るえば衝撃波が発生する。牽制くらいにはなる。
彼は鷹王と訓練した際のことを思い返しながら、まずは間合いを計っていた。
(この者…空の敵との戦いを心得ておるな。いいぞ…! 血が騒ぐ…!)
男は彼の牽制に確かな手応えを感じ、興奮に打ち震えていた。そして、それに呼応するかのように宝剣での斬撃を繰り出す。彼はそれを難無くかわす。剣が石畳を砕いていた。
この斬撃をまともに受けてはならない。神剣でなら受けても折れることはないが、その衝撃で体制を立て直すのが困難になろう。それだけ重い一撃だった。受け流すのも容易ではない。
暫く、彼は防戦を続ける。それだけでも激しい動きで、体力がかなり消耗されうるものであったが、彼はそれを微塵も感じさせず動き続ける。男は彼のそのような様子に戦慄を覚えた。そして高揚する。
男の沸き上がる闘争心に呼応するかのように、懐中のメダリオンが輝きを増す。彼もその炎を大きくする。そして、カッと彼の瞳が見開かれた。まるでその隙を見逃さないかのように。男がメダリオンの光に一瞬気を取られたのを彼は捕えた。丁度、彼を仕留めようと低空へ降りてきたところでもあった。
蒼い軌跡が飛ぶ。
跳躍した彼は、その刀身を太陽のごとく光らせて月のような軌道を描き天空を舞った。金色の筋が男の鎧を砕く。鮮血が飛んだ。
(ばかな……っ!)
決定打ともなりうる一撃を受けて、男は驚愕し、屈辱を味わう。
(我がこんな小童に討たれるなど……っ!)
血が付いた神剣を手に彼は膝をバネにして着地する。その眼は相手を見据えたままだ。これで終わりのはずはないと思った。
「くっ…いいぞ、実にいい…我もこの「力」を存分に試してみたくなったぞ…! ふ…最後に笑うのは誰か、思い知らせてやろう」
そう言い、歪んだ顔で男は笑う。そして懐中からそれを取り出す。見せ付けるように掲げ、はらりと包みを取り去った。
「ウ、オオオオオオオオッ!!」
ついにそれに触れた男はその「力」が全身に取り込まれるのを感じた。全身の血が沸騰するかのような感覚に雄叫びを上げる。彼から受けた傷の痛みも消え去り、力が漲ってくるのを感じる。
(ついに、使ったか)
彼は男がメダリオンに触れて力を得るであろうことを予想していた。
(あいつはすでに狂っていた。だからそれに取り込まれようと構いやしない。もう、救いようがない)
一種の憐れみにも似た思いを男へ向けて、彼はそれを見据えた。そして覚悟を決める。
(奴を倒す。それが俺の仕事)
メダリオンに触れたアシュナードはメダリオンから発せられる負の気を全身に纏い、禍々しい形相と化す。それはまさしく狂気に満ちた顔だった。ある意味満ち足りていた。
アイクの胸の鼓動が早まる。どく、どく、と心音が響くようだ。彼もまた膨れ上がった瘴気が体内に駆け巡り、血が沸騰するような感覚を覚えた。
(これに身を任せられればどんなに楽だろうか)
彼は踏み止まっている。狂気に取り込まれぬよう。欲しいのは力だけ。心までは明け渡さない。そのために今まで鍛練を行ってきたのだ。
(どんなものが俺の中にあろうと、俺は俺だ!)
彼はすう、と息を吸い剣を空へ掲げる。その心を空へ還すように。
すでに、ベオク同士の戦いとは思えないほどのものになっていた。その立ち込める気の流れが障壁と化しているかのようだ。目に見えて蒼い炎が立ち上っている時点で普通の光景ではない。末端の者が見たらまるで理解できない戦いであろうか。
将同士以外、軍対軍の決戦も続いていた。
ほぼ、クリミア解放軍が優勢となった。すでに捨て身となっていたデインの兵は死ぬ覚悟でクリミア軍に立ち向かってくる。降伏の意志はない。降伏などしようものなら国王が生き残った場合、処罰され命はない。国王が敗れようとも、クリミアの手に落ちるくらいなら、と決死の覚悟だ。
「アイクは…アイクはどうなっているか分かりますか!?」
キルロイが叫ぶ。救護班が待機している場所からは壇上で彼が戦っている姿は視認できない。アシュナードが黒竜で飛行して降下したりしている様子はかろうじて判るので、まだ彼は動いているだろうことは確信できる。ただ、彼が駆けていってからかなり時間が経過したはずである。
「キルロイ殿、はっきりとはわからないけど…アイクは持てる力を最大限に開放しようとしている。アシュナードもついにメダリオンに触れたと思う。この負の気の量はそうとしか考えられない」
化身を解いてライがそう答えた。救護班が待機する場所は敵襲も少なくなり、大体落ち着いたので余裕ができていた。
「何? どういうこと?」
キルロイは半分、ライの言うことを理解できなかった。メダリオンに触れるとその中に封じられている負の気により暴走するということは知らされていたが、アイクの中にそれと同様のものがすでにあり、幼い頃からそれとともにあったことは知らされていなかった。
「アイクの中にもメダリオンと同等の負の気が封じられている。あいつはそれを以って立ち向かおうとしている」
ライが端的に説明したそれを聞いてキルロイは驚愕の表情を見せた。加えて、ライの後方を指差している。驚愕の表情を見せたのはそこにいる者も要因であるようだ。
「なるほどな。やっぱりそういうことか」
ライはキルロイの指差しとその声に気づいて振り返ると思わず後退りした。
「俺と訓練したとき、あいつ本気でやりやがったぜ。もう少しで俺も撃ち落とされるところだったな。しかし無茶しやがる」
そこにいたのは鷹の王ティバーンだった。
「たっ、鷹王…貴方はあっちの部隊にいたはずでは…」
ライは腰が退けながらそう言った。
「大体、あっちは片付いたぜ? あとは部下に任せてある」
そう言いにやりと笑みを浮かべるティバーンは全身返り血を浴び、地獄からの使者のような風体になっていた。自ら傷を負った様子はない。一体どれだけの敵を屠ったのだろうか。ライは尻尾の毛を逆立てた。アイクが負の気の吸収体だとしたらこの鷹の王は発生源とでも言おうか。獣の本能が畏れを呼び起こす。
「鷹王さま! 僕をどうかアイクの元まで連れていって下さい」
ライが畏れをあらわにしている中、キルロイが強くそう鷹王に嘆願した。その瞳は強く、畏れなど微塵も感じさせない。
「あんた…確か、ウルキが言ってた奴か。見かけによらず空が好きなんだってな。アイクもあんたをずいぶん頼りにしてるってな。うん、よし。気に入った」
ティバーンがキルロイににやりと笑みを向ける。
「ありがとうございますっ! きっと、もう行って…治癒を施さないと…どんな傷を負っているか分かりませんから…。これは遠くまで効力を飛ばせる杖なのですが、ここまで遠いとちょっと無理です。なるべく近くへ行ければと…」
キルロイはその手にある聖杖を握り締め、ティバーンにそう訴えていた。
「本当は俺が連れていってやりたいところだが、俺はアイクと約束したんだ。こちらの状況が収束したら必ず加勢に行くって。一刻も早く行きたい。で、だ」
ティバーンの視線がきっと横に逸れる。
「そこの獣牙」
その視線の先には目を丸く見開いたライがいた。
「お前がこの神官殿を運んでいけ。俺が道を作る。俺はそのままアシュナードの野郎をぶっ潰しにいく」
直々の指名にライは思わず唾を飲み込んだ。
「かっ…かしこまりました。オレが確かに連れていきます」
ライは少し声をうわずらせてそう応える。
「よおし、じゃあ…いっちょおっぱじめるとするか」
そう言い、ティバーンは足元の石を拾い、それを握り割った。ライはそれにぎょっとし、キルロイは憧憬の意を込めて目を輝かせていた。
「あ…じゃあ、はい。キルロイ殿、しっかりつかまってて下さいね」
ライは化身し、その背に乗るように促す。キルロイは杖を背にくくると大猫の背に乗りしっかりとしがみついた。
「じゃあ行くぜ!」
ティバーンがそう号令をかけると同時に動き出す。
「てめぇら! 死にたくなかったらどけぇっ!」
敵衆のど真ん中を滑空しながらゆく鷹の王の恫喝が響き渡る。その姿を誇示するように低空で飛んでいた。眼下を駆ける猫と神官の様子を伺いながら。
血まみれの鷹王が通る道は潮が引くように敵衆が散っていく。この世の者とは思えない迫力で迫るそれに立ち向かおうという者はいなかった。
(アイク…! もうすぐ行くぜ! どうか無事に持ちこたえていろよ…!)
鷹の王も青猫もそう、同時に心の中で叫んでいた。
痛みはなかった。しかし、それはまやかしだろう。これが普通であるわけはない。
アイクは肩で息をしていた。すでに立っているのがやっとという状態だ。本当なら立ってすらいられないのかもしれない。地に割れた鋼鉄製の肩当てが無残にも転がっていた。胸当ても革帯が切れ外れてしまっている。
メダリオンの力を得たアシュナードは、熾烈な勢いで攻撃を繰り出してきた。威力が増した上に速度まで上がっている。アイクが衝撃波で牽制するも、それも構わずという勢いで突撃してくる。
(これが、メダリオンの力を得た「狂王」というわけか)
彼はそれを実感しながら狂王の攻撃を凌いでいく。
しかし、決定打が望めない。全く隙を見出だせないのだ。防戦するだけでも精一杯である。加えて、どのような牽制を仕掛けても怯むことなくそのまま向かってくる。息をつける場面もない。
メダリオンの力が恐怖心や痛み、疲れを感じさせなくする。その力へ完全に身を委ねた男はもはや怪物と化していた。同様の力を宿す彼もそのような状態にあるが、感じないだけで身体そのものはすでに悲鳴を上げている。心とは裏腹に身体は動かなくなってきていた。それに、完全に身を委ねるわけにはいかなかった。こうやって危険信号を感じていられるというのはまだ彼が「ヒト」でいられているということだ。
それでもまだ、もう少し身体が動いて欲しいと彼は願った。しかし無情にも過ぎた力は彼の身を蝕む。濁った血が逆流してくる。彼は唾を吐くようにそれを吐き出した。血はそこからのみならず、左肩口からも流れ出す。
彼は男からグルグラントによる一撃をその身に受けてしまった。間一髪でかわし、致命傷は免れたが切っ先が肩当てを砕き、胸当ても切り裂いた。目に見える傷を負った。多分、骨にも届いたのではないだろうか。きっと、普通ならば激痛が走っていることだろう。しかし彼はただそれを利き腕でなくてよかった、と思うくらいであった。左腕は動かそうとしても動かない。
──最後まで諦めない。
動かない左腕を下げながら、彼は右腕だけで剣を構える。ただ前を見据えながら。
そんな彼を嘲笑うかのように男は最後の一撃を繰り出そうとしていた。このまま剣を振るえばもう決着はつくだろう。
アキラメナイデ、ワタシハアナタノミカタヨ。
声が聞こえた。どこから聞こえてくるのだろうか。彼は瞳を閉じる。そこに誰かいるような気がした。
アナタガカツ。ソレガミライヨ。シンジテ。
「わかった」
彼は唇だけ動かしてその声に応えた。最後のそのときまで剣を振るおう、そう思った。
そして黒竜が上昇する。ある程度の高さまで上昇すると猛烈な勢いで急降下を始める。その剣が彼へ向けられる。
「さらばだ! 愉しい宴であったぞ!」
男がそう言い捨てたと同時に大きな影が横切った。そしてそれは男の胴目掛けて突進する。男はそれを回避しようと急旋回した。
「その前に、俺が相手になってやろうじゃないか」
その影は大鷹だった。甲高い鳴き声を上げると、人型に姿を変えた。
「…鷹王か、これは面白い。いいだろう」
ティバーンはアイクと約束を交わしていた。それは、自分の持ち場が収束したら必ず加勢にいくということ。それが今果たされた。
再び鷹の姿へ変わり、アシュナードと対峙する。そしてアイクの姿も確認する。一応、間に合ったようだ。まだ立っている。しかし、まさしく満身創痍といった風体となっていた。
(こんなにボロボロになって…お前はまだ立っているのか…!)
彼のその姿を見て、ティバーンはいつかクリミアのある遺臣たちが彼のことを「人間兵器」と称していたことを思い出した。
(こいつはモノじゃねえ! 壊してたまるか!)
その憤りが力へなっていく。獰猛で勇猛な猛禽がその強き翼で空を駆け、禍々しい怪物と衝突しようとしていた。
(こんな、身勝手な欲望に飲み込まれちまった奴らになんか負けるはずはない!)
その怒りは一部の身勝手なベオクへ向けた怒りでもあった。その反面、彼へ向ける大いなる信頼。
(…ティバーン、ありがとう)
空を駆るその姿からとくとくと勇気が注がれるようだった。そして温かな光が彼を包む。
(これは…)
よく覚えのある光だった。じわじわと左肩口の傷が塞がっていく。そして左腕が動くようになってきた。体の重さも少し軽減された気がする。
(そうか、キルロイか)
治癒の杖による聖なる光が彼へ届いていた。彼はこれを自分へ向けさせるためにティバーンが時間稼ぎをしてくれているのだと瞬時に判断した。
(俺はいける。まだいける)
注がれる光を心にまで行き渡らせ、その身に力を漲らせていった。
狂王と鷹王の闘いは何かの伝記を再現しているかのような、そのくらい現実離れしていた。空高く舞い、互いに巨大な身をぶつけ合い、咆哮を響かせ衝突していた。鷹王はなるべく高く舞い、挑発し、狂王を上空へ引き上げていく。
(まだだ、あともう少し)
鷹王は眼下に祈りを捧げる神官の姿を確認していた。
聖杖を掲げ、祈りを捧げる神官のその身は聖なる光で包まれていた。それは離れたところで不屈の精神を以って地に足をつける一人の戦士へ向けられる。
その神官へ襲い掛かる残兵は青猫が排除し護っていた。
(まだ終わらないということは、相当深手を負っているということか…!)
キルロイが治癒を開始してかなりの時間が経ったように思えた。ライはただ彼が無事であってくれるよう祈りながら周囲を見渡していた。依然、強く渦巻く負の気に堪えながら。
(!)
一瞬、冷たいものが背に走る。全身の毛が逆立った。
アシュナードはティバーンとの対峙に確かな手応えを感じ、醜悪ながら満足気な笑みを浮かべていた。そして自らさらに上空へと上昇していく。
「いいぞ、実にいい」
グルグラントを掲げ構える。そして急降下を始めた。
「!!」
ティバーンはしまった、と瞬時に思った。アシュナードは石が落下していくかの勢いでティバーンを横切り、アイクへ治癒を施すキルロイの方へ降下していった。
(来る…!)
ライはその正体に気づく。負の気の塊が降りてきた。そしてそれはこの神官を葬ろうとしている。いよいよその剣が振り下ろされようとしたその刹那、ライは決死の覚悟でキルロイへ体当たりしてその場所から遠ざけた。その剣が石畳にめり込み地を砕く。あと拳ほどの距離でライの尻尾が巻き込まれるという寸手だった。
サア、オユキナサイ。アナタハヒトリジャナイ。
彼は胸の中に響くその声を受け止め、その瞳には落下する黒いものを映していた。ラグネルをしっかりと握り締め、駆け出す。その先は──空。
その速度、その勢い、そのタイミング。すべてが揃う。
蒼い炎が彼を包み込み、神憑り的な姿を天空に映した。
──ああ、女神よ!
ライに突き飛ばされ倒れ込む瞬間、キルロイがそう心で叫びを上げた。そして見上げた瞬間目に飛び込んできたのは両手で神剣を持ち、大きく空を舞った彼の姿だった。
蒼い砲弾が怪物に撃ち込まれる。
落下による慣性で重量を得たラグネルの一閃がアシュナードの鎧を砕き、その身を切り裂いた。
彼はそのまま黒竜の上に着地し、踏み止まっていた。
「グ、ガァァァァ! 我が、我が敗れるなど! あってはならぬ…! 我は我以外の手によって滅びたりはせぬ!!」
狂王はそう叫びを上げて、宝剣を天高く放り投げた。
「!!」
その様子を見ていた彼以外の者は息を飲んで言葉を失った。そして次の瞬間には自らの剣により黒竜とともに串刺しとなった狂王が彼の足元にあった。
「…これで永遠に我が最強……!」
それが断末魔となった。彼はそれを耳にすると、一礼をしてから斬首した。そしてその首が地へ転がり落ちる。
辺りは静寂に包まれた。
最後まで抗戦を止めなかったデイン兵らも動きを止めた。将である国王が討たれた。これですべてが終わりである。
デインの将を斬首したクリミアの将アイクは剣を両手で胸の辺りで垂直に掲げ黙祷した。
この、狂気に飲み込まれたひとりの男への弔い、そして強き国王への敬意。方法さえ間違っていなければデインはよき統治者をもったと言えたかもしれない。
強さは誰のために振りかざすべきか
身を滅ぼす強さなら要らない、彼はそう思った。そして彼は真の意味で打ち勝った。
<あなたはよく堪えた。こんなに苦労をさせるつもりはなかったの。でも、あなたの中はとても居心地がよかったわ。ありがとう、わたしはもう戻るわ>
また声が聞こえてきた。
そしてアシュナードの懐中からメダリオンが浮き上がる。それはふわりと上昇し、アシュナードから負の気を回収するかのように蒼い光を吸い込んでいく。この戦場からも吸い込んでいるかのようで、そこにいた者は見えないものがそこへ集約されていく感覚を覚えた。
そしてラグネルを掲げたアイクからも蒼炎が巻き起こる。その場にいた者たちはこれを不可思議な現象と思った。人ならざるものがそこにいるのではないかと。
「お兄ちゃん…!」
救護部隊にいたミストがようやく兄の元へたどり着いた。そしてまさにその光景を目撃する。
「えっ…何? どうしてメダリオンが?」
事態がまったく把握できないミストは、兄から蒼炎が放出されて宙に浮くメダリオンとともにある光景を目の当たりにして放心してしまった。
「ちょっと待てって言っただろっ、ミストっ。まだ危ないって…ん!? なんだあれは!」
ミストを追ってきたボーレがそこにたどり着いて見上げると、アイクに不可思議な現象が起こっているのを目にすることとなる。
「わけわかんねぇ…アイク、あいつは一体何なんだ…」
幼いころからともに訓練をしてきて長い間ともにいた兄弟のような彼がまるで理解できない状況にあるのを目にしてボーレははーっ、と長く息をつくしかなかった。
すべてが還っていく。
彼から放出される蒼炎はラグネルを伝って伸びていき、勢いよくメダリオンへ吸収されていく。
「これが…今まであいつの中に溜まっていた負の気…」
それを目にしていたライは誰へ向けるでもなくそう呟いた。
「えっ、どういうことですか? ライさん」
いつの間にかすぐ近くにいたミストの声にライはびくりとして振り返った。このような光景に気を取られ、気配を察知することを忘れていたようだ。
「は…話せば長いからまた後で…」
一体、どれだけ溜め込んでいたのだろう。彼の人生の大半はこれとともにあったということだ。
<わたしは「封印」されているから「解放」されないと干渉することはできないの。「媒体」の中にしか存在できない。それは無機物か無垢なものでなければならなかった>
「そうか、俺で役に立てたか?」
<ええ、おかげで「ヒト」も捨てたものじゃないって思えたわ。わたしは間違っていなかった>
「そうだ、みんな頑張っているからな。今に至るまでも俺一人じゃ成し得なかった」
<うん、そんなあなただからみんな好きなのよ>
「ん?」
<じゃあ、またね。その前に…いいかしら、きっとまたあなたの力を借りることになるかもしれない。約束してくれる?>
「ああ。いいぞ」
<本当に?>
「俺は…約束を違えん」
<よかった、ありがとう>
蒼い炎の尻尾がするりとアイクから抜け出した。そしてすべてメダリオンへ吸収されていった。それまでの間、彼は胸の中に響いてきた声と会話していた。
そしてその声の主は彼から、短い間だったがともに触れ合った記憶を消してそっと立ち去った。
ライはその瞬間、小さな鳥が空へ飛び立っていくのを目にした。そしてすぐにアイクへ視線を向ける。
「アイクっ!」
メダリオンが輝きを止めて落下する。そしてそれとともに彼も気を失い黒竜の上から落下した。それをライはしっかりと受け止めた。
「おまえ…よくやった…ホント。終わったんだよ、もう」
そのままぐっと抱きしめる。
「ライさん、よかったです。本当に。アイクは…いろんなものを背負っていました。よくここまで来たと思います」
キルロイがそう言い、寄ってきた。そして治癒の杖を向ける。
「あ、キルロイ殿。ああ、そうだ…本当に…」
そう呟き、彼のその身を杖をかざすキルロイの前へ差し出した。
「う…く、まだ」
アイクが薄く目を開けて口を開いた。
「おいっ、おまえ、もういいだろ…!」
ライはアイクの頬を軽く叩きながらそう言った。
「あの、テラスまで行って…エリンシアと並んで、終戦宣言をしなければ…」
そう言い、アイクは聖杖からの光を受けながらゆっくりと立ち上がる。そして歩もうとする。
「アイクっ!」
歩もうとした彼は一度、がくりと膝を付いてしまった。今まで彼から痛みや疲れを感じさせなくしていたものがなくなったのである。治癒の魔法で傷を塞いだものの、疲労は回復しない。身体の節という節も悲鳴を上げる。
「俺は…行く。終わらせないとならないんだ」
彼がこう言ったら何としてでも行くのだろう。それならば彼の意志を尊重しようとその場にいた者は思った。
「わかった。じゃあ、途中まで一緒に行ってやる。ほら」
ライはアイクの腕を抱え、肩を貸してやり、ともに歩いていこうとする。
「ライ、ありがとう。ちょっと甘えさせてもらうぞ」
アイクは少しはにかんでそう言った。苦しそうな表情の中に見た、ほんの少しの笑み。こういう顔をするんだ、とライは少し驚いたが納得もした。これが本来の彼なのではないかと。
そうして二人が歩いていったのをキルロイは感慨深げに見つめていた。そして視線を黒竜の方へ向ける。
「おいっ、危ないぞミスト。何してんだ。まだそいつ生きてるんじゃないのか?」
ボーレがそうミストへ呼びかけていた。
「メダリオンを探してるの…」
ミストはそう言い、辺りを見渡していた。
「ちっ、仕方ねえな」
ふとボーレが振り返るとキルロイが慌てた様子で何かを指差し、何かを身振り手振りで訴えていた。それに気付いたボーレがそこを見ると、デイン国王の首が無惨に転がっていた。
「!!」
ボーレは慌ててミストの手を引っ張り羽交い締めにし、片方の手で目を塞いだ。
「何するの! ボーレっ! 離して!」
事態が把握できないミストは突然のボーレの行為に惑い、抵抗し暴れた。ボーレは誰かその首をどこかへ見えなくしてくれないかと辺りを見渡した。
そして。
「……!」
彼らの目の前に現れたのは、いつもアイクの傍につき任務を遂行していた男だった。いつの間にそこへ現れたのかもいたのかもわからなかった。その男はアシュナードの首を拾い上げると、黒竜の反対側に回って見えなくなった。
(あいつは…一体…)
その不気味さにボーレは息を飲んでいた。そして変な話、その男が首を手にする姿が妙に似合っていると思ってしまった。
(まるで死神だな…)
もう大丈夫かと思い、ボーレはミストを解放した。
「んもう! わけわからないよボーレったら」
少し怒り気味にミストがそう抗議してくる。そして再び辺りを探し始める。ほどなくしてメダリオンを発見した。
「よかった…」
メダリオンを手にしたミストはふとした違和感を感じた。
(なんか…重い…?)
そうしている間に駆け付けてきた鷺の王子と姫が宙に手を振っていた。
「ちょっと待ってろって」
宙から声が降ってくる。
「…よし、いいぞー」
もう一度声が降ってくる。
その声の主は巨大な剣を持ち、それを引き抜いたところだった。そしてそれを地に置き、黒竜の上にあった首のない遺体もそっと地へ下ろした。
「しっかし…とんでもねえ剣だな。こいつ。アイクの奴…こんなの食らってよく生きてたな」
一連の作業を終えて一息ついてそう呟いたのはティバーンだった。鷺の姫リアーネが、この黒竜はラグズが姿を歪められたものではないかと言う。それならばと、せめて息絶える前に本来の姿へ還そうと言うのだ。兄のリュシオンとともに呪歌を施すという。
ティバーンでも深く刺さったグルグラントを引き抜くのは一苦労だった。先刻まで対峙していた相手のこのような無惨な姿を目にし、後処理まですると複雑な気分になった。
(一国の王に死体処理させるなっての)
そう思ってみたりするものの、この場でそれが最も迅速に行えるのは鷹王その人しかいなかった。その翼で宙に浮きながら強い腕の力で成人男性よりはるかに大きい剣を引き抜くということをそうできる者はいない。そして鷹王は後見を己が務めるこの鷺の兄妹には弱かった。
(あいつらに頼まれちゃ仕方ねえ)
歌声が聞こえる。どうやら始まったようだ。
「ん?」
足元にある首のない遺体へ継ぎ足されるように首が置かれた。それに気付いたティバーンはその首を置いた人物を見やる。
「おいっ、ちょっと待て」
首を置いた男はそのままさりげなく立ち去ろうとしていた。
「無言で首置いていくなよ。さすがだな、何の感慨もねぇってか。なあ、火消しさんよ」
ティバーンがそう呼び止めた男は火消しという通り名を持つ暗殺者だった。
「フォルカっていうんだったな。アイクが言ってたのはあんたのことか。ははーん、なるほどな」
フォルカと呼ばれた男は表情を伺わせない瞳でティバーンへ視線を向けた。
「これであんたの仕事は終わりってわけか」
ティバーンがそうフォルカに言い放った。
「最悪の事態にはならなかったな。あんたは一体どんな結末をお望みだったのかわからんが」
最悪の事態、それは──
「手を汚さずとも、すでに報酬は手にしている」
フォルカがそう返す。
「はあ、あんた案外セコいな。まあ…アイクの奴を殺るっていったらかなり骨が折れるだろうな。ましてやメダリオンの力を得ていたらとんでもねえ」
そう言い、ティバーンは足元の遺体に目をやる。
「どこまで知っている、鷹王とやら」
フォルカのその言葉にティバーンはぐっと目線を向ける。
「アイクにな、頼まれたんだ。あんたがあいつを殺そうとしても止めるなって」
ティバーンはこの戦が始まる直前にアイクから一つ頼み事をされた。そのときの覚悟を決めた様子を思い返す。
「アシュナードの野郎とやり合うときが一番メダリオンに接触する可能性が高いと言った。それで有事の際はあんたがあいつを始末する。と、いうのがあいつの話だ」
アイクはアシュナードと対峙する際に加勢にくるというティバーンにそのようなことで頼み事をしていた。それを知らなければティバーンはフォルカの「仕事」を阻止しにかかっただろうと思われたためだ。
「もっとも、あいつは本当のことを言わなんだがな」
薄々とは感じていたが、彼には問いたださなかったこと。
「メダリオンに触れたら…というより、あいつの中にある負の気が膨れ上がって暴走したら、というほうが大きいのか。あれは一朝一夕で溜めたもんじゃねえな。あろうことかそれを利用して立ち向かおうとしたとはな」
彼に訓練を頼まれて手合わせをしたときのことを思い出す。確かに見たその蒼い炎。
「どうしてあいつはそんな身体になっていったのか、あんたは知っているのか?」
ティバーンはフォルカにそう問う。
「…十万だ」
フォルカからはそう金額の提示だけが返ってくる。
「教える気はないってことだな」
「フェニキスという国は財政難なのか?」
フォルカのその皮肉にティバーンは苦笑した。
「まあいい、あいつがどうであれあいつであることには変わらん。…ところであいつがあんたに依頼した「仕事」の報酬はいくらだ?」
再びティバーンがフォルカに問いかける。
「…五万だ」
今度は答えが返ってきた。
「はっ…そりゃまた吹っ掛けたもんだな。あいつもよくそれだけの金を用意したもんだ」
ティバーンは腕を組みながら、そう吐き出すように言った。
「…奴は、安いものだと言った」
低い声でフォルカがそう返す。
「は?」
ティバーンは思わずそう聞き返した。
「例えば、一が強大な力を以って三十を滅するという状況になったとしよう。その一を滅すれば三十の命は救われる」
フォルカがそこまで言って何を言わんとしたいかティバーンは納得した。
「なんて奴だ…アイク、あいつ…。くそっ、どうしてあいつじゃなきゃ駄目だったんだ。どうしてそんなにいろいろ背負う必要がある」
そう苦虫を噛み潰したような表情になっているティバーンへフォルカは何を思うとも分からない瞳を向けていた。
「奴でなければならなかった。一国の王がそこまで入れ上げるほどの器だったということだな」
フォルカのその指摘にティバーンは吹いた。一本取られた、と思った。
「言ってくれるな。ガリアもあいつに入れ込んでるぜ? 特にあの青猫なんかな」
ティバーンのその言葉にフォルカはあの獣牙の青年のことを思い返した。あのとき道を譲ったことも。
「ふ…そういうあんたこそ、相当なんじゃないか。もしも刺し違ったとしてもそれに殉じる気だったとかな」
そう投げ掛けても表情は全く伺えない。
「それもまた有りといえば有りだな。報酬分の価値はある」
覆面ではっきりとは分からないが少し口端が上がっているように見える。
「そりゃまたずいぶん心酔してやがるな。まあ、ある意味男のサガってか。わからなくもないな」
それは「仕事」にかける心意気、それに対する思い入れ、ティバーンはそう捉えた。
「どんな酒より美味いものがあるとしたら、そこにある」
「ほう、俺も酒は好きだが…それは聞き捨てならねえな」
ティバーンはにやりと笑みを浮かべてそう言い放つ。
「酒より肉、だな。まだ青い果実だ、だがそれがいい。尤も、魂までは手に入らないが」
それは彼と交わした時間、情交。躰に刻まれたその熱。
しばし沈黙がそこにあった。そしてティバーンはその意味を悟る。
「…なんて奴だ、くそっ、ちゃっかりしてやがる。報酬以上じゃねえか!」
そう怒気を含んだ声で吐き捨てるティバーンへ向けてフォルカは背後を指差す。黒竜が本来の姿を取り戻して黒髪の青年の姿になっていた。そして竜鱗族の女性に抱きかかえられていた。
「あ、戻ったのか」
そして再びフォルカの方へ視線を戻すとすでにいなくなっていた。
「……とんだ食わせもんだ」
深く息をつくと、テラスの方へ向けて渦を巻くように人が集まっていくのを目にする。
「このクリミアを占拠していたデイン国王アシュナードを討ちました。よって、この戦乱の終結とともにクリミア奪還を成し遂げたことをここに宣言します!」
高らかとクリミアの姫の声が響いた。隣にはクリミアの将である彼もいた。
彼が金色の剣を掲げると大歓声が湧き起こる。『クリミア万歳!』という歓声がこだました。
「ああ…ついにやったな。アイク。たいしたもんだぞお前」
それを上空から見つめるのは鷹王と神官。
「本当に、アイクはすごいです。あとはゆっくり休んで欲しい」
「そうだな、これで本当にあいつは仕事を終えたんだ」
ティバーンはキルロイに再び嘆願され、取り急ぎクリミア城内部まで運んでいた。
「はい。もうアイクは限界にきていると思います。早く、清潔な寝具と湯を用意しなければ。薬草と包帯も必要です」
キルロイはティバーンに抱えられながら指折り確認をしていた。
「わかった、俺からも城の者に言ってやるよ」
そして終戦宣言を終えたアイクはエリンシアとともに城内へ入ると、その途端に糸が切れたように倒れこんだ。そこに控えていたライが猛烈な勢いでキルロイが待つ一室へ運んでいった。
「おつかれ、アイク」
そのドアを開ける前にライはアイクの額にある帯布を外し、唇で額に触れた。
雨はまだ降っている。
あと少しで父親が帰ってくる。
彼は子供部屋でその帰りを待っていた。長屋のおかみの手伝いもした。日課の鍛練である素振りもやった。寝台では遊び疲れた妹がすやすやと眠っている。雷が怖いから、とずっと傍にいてやった。それが気にならないように遊んでやった。
(父さん、早く帰ってこないかな。おれ、ちゃんと手伝いとかしたんだよ)
彼は妹が眠っている寝台の下で膝を抱えて座っていた。聞こえてくる雨音に震えながら。雨音が聞こえてくると思い出す。父の異常なまでの叱咤と折檻を。彼はいつもそれをひとりで堪えていた。誰にも言わないつもりでいた。言ってはいけない気がした。
本当は、
怖かった。
辛かった。
苦しかった。
それでも父の帰りを待っていた。
こんこん、と戸が叩かれる音がする。彼はそれに反応してさっと立ち上がり、勢いよく戸の前まで行った。そしてその戸を開ける。
「おかえり、父さん」
彼は戸の取っ手を手にしながらおずおずと父を見上げた。
「ただいま、アイク。いい子にしていたか」
その手が彼の頭にぽん、と置かれる。彼の頬にぱっと赤みが差す。彼はこくりと頷く。
父が部屋に入ってくる。父はよく眠っている妹の頭を撫でると彼の方に向く。その目は優しげに彼へ何かを伝える。妹の世話をしていたことを分かってくれたようだ。
そして何も言わず、父は軽々と彼を抱え部屋を出た。戸は静かに閉められる。彼はぎゅっと父にしがみついた。そのまま表へ出た。
「ほら、見ろ」
雨はもう上がっていた。見上げると綺麗な夕焼けがそこにあった。
「きれいだね」
彼はぽつりとそう感想を漏らした。
「そうだろ。帰ってきたらちょうど日が沈みかけていた。おまえにこれを見せてやりたいと思った」
父に抱えられながら彼はその低く優しい声を聞いた。目に飛び込んでくる緋色が眩しかった。
「これくらいしかしてやれないからな。おまえにはお兄ちゃんだからって我慢もさせている。これからもっと苦労させることになるかもしれない」
父のその言葉に彼はふるふると首を横に振る。
「アイク、おまえはよくやった。頑張った」
そう言い、父は彼の頭を大きな手で撫でた。
「何か、欲しいものはあるか? あまり高いものは買ってやれないけどな」
父のその言葉に彼はおずおずと応える。
「…おれはなにもいらない。ミストが…母さんが持っていたようなペンダントが欲しいって言ってたからそれでいい」
彼はそう応えた。
「アイク…おまえ…そうか。わかった」
父はそう言い、彼の体をぐっと持ち上げて、自分の肩の上に乗せた。彼ははっとして父の頭を掴む。
「どうだ? 夕焼けがもっとよく見える気がしないか?」
さらに高くなった視界に彼の瞳が輝きだす。
「うん。よく見えるよ!」
「そうか、よかった」
「なあアイク、辛いときはな…思いっきり泣くんだぞ」
「おまえはもう我慢しなくていいんだぞ」
その声が響き渡る。そしてどんどん遠くなる。見えなくなる。いなくなる。父はもういない。
彼はゆっくりと目を開いた。
そこにあったのは見慣れない部屋の天井だった。彼の思考が働き出すまでにしばしの時間が必要だった。頭の中にぼんやりと、もやがかかっているようだった。
(俺は…)
彼は目線だけを動かし、部屋の様子を伺う。誰もいない。
どこで意識が途切れたのだろうと思い返していた。確か、エリンシアとともに終戦宣言をした。そこまでは覚えている。その日はよく晴れた日だった。まだ日は落ちていなかったはずだ。今も昼間のようだ。ついさっきのことなんだろうか。
ガチャリ、とドアが開く。ノックもなしに。
「…あんたか」
彼はそう呟きながら体を起こす。そこにやってきたのは自分が「仕事」を依頼した男。
「契約が終了となることを知らせにきた」
男は淡々とそう告げた。
「そうか。メダリオンはリュシオンたちの元へ戻ったのだな」
彼もまた淡々と返した。
「…お前もまた元へ戻ったと言おうか」
男のその言葉に彼は目を見開いた。そしてとん、と体を押され寝台に戻されて唇を唇で塞がれる。
「何するんだ…っ!」
頬を紅潮させて彼はそう抗議した。男はそんな彼を見ながら唇を舌で湿した。
「まあ、年相応といったところか」
彼のそのような反応に男はそう感想を漏らした。
「バカにするな…っ、いっ…」
少し体を動かしただけで痛みが走った。そういえば上半身はほとんど包帯を巻かれていることに気付いた。特に左肩の痛みが強い。
「お前、あれからどのくらい経ったか分かってるのか?」
男のその言葉に彼は眉を顰めた。
「…まだ日は落ちてないな。小一時間くらい眠っていたのか俺は」
「馬鹿が。三日は経っている」
男のその言葉に彼は驚愕の表情を見せた。男はその彼の変化を見逃さない。あまり表情が豊かとはいえなかった彼だったが、こうしている間に豊かな表情を伺わせた。
そして男は彼の身を起こし、水差しを口元へ運んだ。
「飲め」
有無を言わさず、男は彼に水を飲むよう促す。彼は少し顔を引きつらせつつも水差しを口にする。ひとたび水を口にするとごくごくとそれを飲み干していく。三日間眠っていたということはその間、水も口にしていなかったということだ。脱水症状になっていてもおかしくない。乾ききっていた彼の体に水が染み渡っていく。彼がひとしきり水を飲んだのを確認すると男はそっと彼を寝台に戻す。
寝台に戻された彼はひとごこちついたのか放心して目線を天井に向けていた。
「これで、すべてが終わった。お前の中にあった負の気もメダリオンに還ったのだろう。目に見えて分かったからな。お前自身は覚えているのか分からんが」
「ああ、たぶん。俺は…何かと話していた気がする。でも何がどうなったのか覚えていない。体は痛いが軽くなった気がする。だからきっと」
彼は緩く腕を伸ばして軽く手を握る。その手の先には男がいる。その先にいる男が迫ってきた。男が彼の手を掴み、寝具に戻す。
「アイク、おまえはよくやった。頑張った」
その言葉とともに男の手が彼の頭をそっと撫でる。彼ははっとして男へ視線を向けた。
「…フォルカ、あんた、今、何て」
彼がそう呟くとその手はすっと離れていく。
「二度は言わん。もう、これで二度と会うこともないだろう」
男はその言葉だけを残し、振り返らずに部屋を出た。
「あ……」
じわりと再生されていくその光景。
男が現れる前、目を開ける前にあった光景。父とともにあった自分。
夢を見ていたのだ。そんな夢を。
「…っ、く…ぅ…」
喉の奥からこみ上げてくるような嗚咽。はたはたと流れ落ちる涙。
行かないでくれ、消えないでくれ、いなくならないでくれ
彼は手を伸ばす。でももう戻らない。父はいない。
父の肩車から見た夕日の眩しかったこと。それは記憶か願望か。欲しいものなんてそんなになかった。だけど今何か与えてもらえるとするならば、欲しいのは…時間。
時間よ、戻れ
神様、どうかお願い
わかってる、それが無理なことだって。女神が与えてくれたのはきっとそれに気付いたこと。その夢を見られたこと、そして思い出せたこと。流れ落ちる涙も授かり物だというのか。
「…おい、アイク、入るぞ」
こんこんとノックの音がする。彼ははっとして手で涙を拭った。
「駄目だ、入るな、来るな、見るな」
慌てて彼がそう返す。そのような声が返ってきたのを聞き、ドアをノックした者は彼が起きていることを確信してドアを開けた。
「バカ! 来るなと言っただろ」
そこにあったのは止まらない涙を手で拭う彼の姿だった。
その彼の姿を見た獣牙の青年はしばし立ちすくんだ。そして自分が入室する直前に見たあの男の背中を思い出す。あの男が何かしたのだろうか、言ったのだろうか。
「おまえ、あのおっさんに何かされたのか?」
ライのその問いかけにアイクは首を横に振る。
「それならいいんだ。…やっと目を覚ましたか。よかった。永遠に目を覚まさなかったらどうしようかと思った。親父さんのところに行くには早すぎるぜ、おまえ」
ライのその言葉にアイクは顔を強張らせる。また蘇ってくるあの光景。
「どうした?」
そう声を掛けながらライはゆっくりとアイクへ近づいていく。
「俺が、追いかけちゃ…駄目だよな。もう」
彼の蒼の瞳からぽろりと涙の粒が零れ落ちる。ライはそれを指で掬った。こんなに不安定になった彼の様子は珍しいものだ。溜め込んだ負の気で苦しむ姿は見ていたが、それとは違う。もっと、彼の根本に触れたようなそんな。まるで小さな子供のようだ。
手を伸ばせ、もう少しで時間は動く
ライはぐっとアイクを抱き寄せ、背中を擦ってやる。
「アイク…おまえはもう我慢しなくていいんだぞ」
その言葉で再び時が動き出した。
「う……、く…ぅっ…」
少しずつ声が漏れてくる。横隔膜が痛くなってくる。息が苦しい。
「うわああ、っ…あっ……!」
その手が背中に回される。強く、強くしがみつく。
「怖かったか? 辛かったか? 苦しかったか?」
胸に顔を擦り付けて小さく首を縦に振る。
「もう…誰も…いなくならないで…欲しい…っ、うっ、くっ…」
涙声でそう漏らすアイクの頭をライはそっと撫でる。幾度も。
「少なくとも…オレはここに、いるぞ。大丈夫、もう大丈夫」
苦しそうに泣く彼は息継ぎをするように呼吸する。いったいどのくらい溜めた涙なのだろうか。その涙の量に溺れそうなほどだった。何せ、あのときから彼の時は止まったままだったのだ。涙もそのときから止まったまま。そしてこれまで過ごしてきた。
彼は手を振った。そしてさよならを告げる。
そこにはひとりで膝を抱えて震えていた子供がいた。その子供は立ち上がり、大人びた顔を見せて手を振り返した。もう戻らない。戻れない。そうして少年は青年へ、大人へなっていく。
(大丈夫、おまえは…ひとりじゃないぞ)
彼はその子供にそう言ってやった。その子供はこくりと頷いた。それを確認すると彼は振り返らずに前へ前へと駆けていった。その先にあるのは光か闇かわからない。だけど前へ進んでいくしかない。
「…ライ、ありがとう」
彼は落ち着いた声でそう言った。ゆっくりと呼吸をする。
「アイク、おかえり。ここがおまえの場所だ。みんな、いるからな」
その声に彼は頷く。この場所が好き、そう思った。
「じゃあ…みんな、呼んでくるか。みんなおまえが目を覚ますのをずっと待ってたんだぞ」
ライのその言葉にアイクはぴくりと反応した。
「ちょっ…ちょっと待て…あの」
アイクはライからその身を離して両手で顔を拭う。少し目が腫れぼったくなっていた。
「これは誰にも言わないでくれ」
こんなに泣き腫らした自分が恥ずかしいのか彼は顔を紅くしてそうライに訴えた。
「分かってるよ。そんな顔は…オレだけが見られたって、後生大事にしておくさ」
「くそっ」
アイクはそう小さく漏らし、ライの胸を小突いた。そんなアイクを目にしてライはにこにこと笑っていた。今、このときがいとおしい、そう思った。
「オレは、おまえのことが好きだぜ」
さらりとライの口からそう告げられる。
「ああ俺も」
アイクはそう返す。柔らかな笑みを湛えて。
──その心が、そこにあればいい
ライはすっと差し出されたその手を固く握り締める。傷だらけのその手は節くれだって固かった。記憶の中にある小さな柔らかい手はもうないけれど、それもまた彼である。時間は戻らないし進んでいく。これからもそうだ。
季節は春から夏、秋、冬…そしてまた春が来た。
アイクが立って歩けるまでに回復するのを待って祝賀会が行われた。
意識を取り戻してからも、受けた傷による発熱があったり節々の痛みに苦しんだりしていた。少し後遺症が残るのかもしれない。左肩口から胸元にまでかけて刻まれているその傷痕は消えることなく残るだろう。それでも負の気が放出されてからというものの、傷の回復は以前に比べて早かった。なによりも少し彼の眉間の皺が減ったのはかなり大きなことであった。
「お兄ちゃんが…あんなに笑ってるのって…見たことない…」
そう評するのは彼の妹だった。
次から次へ話しかけてくる相手へ朗らかに対応する、というわけではないが、柔らかい表情でそれらにひとつひとつ応えていた。
そしていよいよ別れのときだ。
今まで助力してきた各方面からの者たちが帰郷していく。彼はそれを見送る。
「さてと、俺たちも失礼するかな」
ひとしきり様々な者と別れを惜しんでいると、彼にそう声を掛けるものがいた。
「…鷹王、あんたたちとは浅からぬ縁だったな」
彼は頭一つ分よりもさらに大きな男を見上げてそう返す。男は世話になった旨を告げると、自国へ寄ってくれた際には国を挙げて歓迎すると言った。
「鳥翼族の国か…どんな食い物があるのかとか、結構、興味あるな」
彼は笑みを浮かべつつ目を輝かせてそう言った。男は彼の中から何かが抜けていったのを確信していた。このような柔らかい表情をしているのだから。男はそんな彼に好きなだけ好きなものを与えたいと思った。珍しい酒も出す、海の珍味も山の珍味もなんでも。そう言ってやった。
「酒はいいから、肉を多めに頼む」
彼から返ってきたのはそんな言葉だった。男は思わず僅かに顔の筋を動かして苦笑した。彼のその言葉に含みなどなく、本当に食事をしたいと言っているだけなのは分かっているが、火消しの男が言ったものを思い出す。
──どんな美味い酒よりも美味いもの
男は彼の頭をがしがしと撫でて豪気に笑う。
「はは まかせておけ」
それは壊してはいけないと思った。その澄んだ瞳がそのままであればいい。
「…じゃあな、とりあえずは」
ライがそうアイクへ言い放った。ライもまたガリアへ戻る。
「あ、でも。ガリアはクリミア復興にも助力を惜しまないっていう話だ。大勢の労働力を引き連れてすぐに戻ってくるから期待してろ」
そう言いライは口端をあげて拳を作っていた。
「オレにはすぐ会えるぞ」
少し冗談めかして言う。しかしアイクのその瞳は笑みを作るわけでもなく。
「なんだ、どうでもいいってか…ん」
そう言ったライは言葉を途切れさせる。アイクの腕がライをぐっと抱いた。ライは何も言わず、自身もまた腕を彼の背に回し、ぐっと抱きしめる。
その場にいた仲間たちがその光景を感慨深げに見ていた。二人の友の抱擁をあたたかい目で見守っていた。この日もよく晴れた日だった。春のあたたかな日差しが二人を包んでいた。
雪は溶け、水になって流れ、川となり海へと広がる
季節はただ過ぎ行くばかりだけど、待ち望んだ春がそこにあった。
高台からその光景を眺めていた男はその季節の訪れを感じていた。
もう戻ることはない、だがそれでいい。
そして振り返らずにその場を立ち去った。
足跡はもう残っていない。
─了─