光芒この世界に色など存在しないと思っていました。
すべては灰色で、すべては自分を素通りで。
そう、照らす光などなかったのです。
いっそ獣に捕食されればいいと思った。
そう思って薄暗い森を歩いた。しかしその獣にすら素通りされる、遠巻きにされる。
(半獣は人間を食べない。それは分かる。完全な獣ですら僕を食べようとしない)
穴の開きそうな革靴を履き、ゆらゆらと森をさまよう黒髪の少年がひとり。
(僕がどんな匂いを発しているというのか)
薄汚れた上衣の袖の匂いを嗅ぐ。そして額の印に触れた。彼の額には血がこびりついたような印があった。それは生来のもので拭っても落ちることはない。
袖の匂いより強い匂いが香り立つ。彼はその元を探った。それはこの時期、この地でしか群生しない蒼い花だった。しかし彼の目にはその色など映らない。
(ここガリアの特産物として知られる希少な香水の原材料。半獣に香水などつける習慣などあるのか。尤も、人間との交易に利用し外貨を得るための手段だろうが)
その、兎のように赤い瞳が虚ろに花を映す。そして書物で得た知識が自然と引き出される。
そしてすぐに興味を失った。
次第に視界が開けていき、人里に近いところまできた。立ち上る煙を見てそう判断する。
彼はその手前で蹲る。その先へ踏み出す勇気がない。額の印を触る。
(人間でも半獣でも同じ)
彼はこの森に入る前に別の集落に足を踏み入れた。空腹を満たすために辺りを探ったが、金など持ち合わせておらず、当然食料など得ることはできない。空腹に耐え兼ねて出店の品に手を出した。店主に見付かり、金がないと言うと顔の形が変わるほど殴られた。
殴られるのは慣れていたけど──
これでは身が持たない。
彼は飯場の裏手に回って残飯を探した。そこでは犬が飼われているようだ。犬が旨そうに飯を食らう。この犬が食べているのは残飯だろう。彼は躊躇することなく犬の餌入れに手を伸ばした。
やはり。
犬は餌を奪われて彼に攻撃を仕掛けるでもなく、まるで彼を視界に入れぬように後ずさる。
彼は手掴みで犬の餌を食い漁った。こんな食べ方が当たり前だと思っていた頃があった。食器を手にして食物を口に運ぶということなど、数年前に生まれて初めて教えられた。
幾ばくか腹が満たされるとその場を去った。そのまま路地を行くと数人の子供に取り囲まれる。
「おまえ、犬の餌食っただろ!」
「きったねー!」
「臭せえ!」
「病気がうつる」
次々と罵りの言葉が投げ掛けられる。けたけたと笑い声も混じり。子供は無垢で天使のようだと言ったのは誰か。無邪気であるのには間違いないが。
「あ、こいつおでこに何かついてる」
「本当だ、見せろよ! 何だこれ」
子供は彼との距離を縮めてくる。そして彼を取り押さえる。
「取れねえ、取れねえぞ!」
描かれたものかと思い、彼の額が擦られるが消えるはずもなく。
「あ、ばあちゃんが言ってた。しるしつきっていうのがいるって。関わったらよくないことが起きるぞって。こいつ、それか? 汚ねえし」
「うわ、触っちまった!」
彼の額を擦った子供は水滴を払うような仕種をする。
「うわー逃げろ!」
子供たちはそう囃すように叫んで走り去っていった。
また、半獣と呼ばれる種族の集落にも足を踏み入れたことがある。ここは獣牙の国なので獣耳と尻尾を持った種族だ。化身をし、完全な獣の姿になることができるらしい。彼は書物から得た知識でそれは知っていたが、実際にそれを目にしたことはなかった。
人間と同様、集落を作り、生活を営んでいる。畑も耕されているが、人間ほど多くの実りを手にしていないようだ。野山で狩ってくるほうが多いらしい。食肉も同様だ。家禽を育て肉を得ることは少ないようだ。
彼はそこでも出店の品に手を付けた。さすがに半獣は気配を察することに関して優れている。すぐに気付かれたが一瞥を受けると視線を逸らされた。
戸惑いながらその品を手にしつつ路上を闊歩してみる。すると、ざっと道が開いていく。半獣たちは彼を視界に入れようとせずに避けた。
いない、いない。
親無しなんかそこにいない。
遠巻きにひそひそと耳打ちするようにそう囁く。
彼は手にした果実だけを見つめて集落を去る。そしてその外れで貪るように果実を齧った。よく熟れた果実だった。糖度を売りにしている品だ。
味など感じない。
残飯も甘い果実も一緒だ。
てらてらと光った口許を拭い、彼は息を吐いた。
まだ足りない。
そして、生い茂った葉の上にいる芋虫へ目を遣る。
(糖分は即効性の栄養分。生命の維持には蛋白質も必要だ)
書物で得た知識を反芻する。そして芋虫を摘んだ。
──そこまでして生きる理由なんてなかった。なのに。
獣に捕食されないのなら、飢えてそのまま朽ちようか。
彼は地面に横たわった。そしてぼんやりと空を眺めた。たぶん、青いのだろう。色など腹も心も満たさない。だから必要なかった。
「おまえ、だいじょうぶか?」
里から一人の子供が森の入り口まで歩いてきた。手に何か持っている。地面に横たわる彼にそう声を掛けるのだった。
蒼い。
見上げたその先に蒼い瞳。そして先程見た蒼い花が流れるように色づいていく。そして匂いが広がる。手が伸びる。その手が頬を触れる。温かい。
射す光が逆光となっていた。眩しい。
ああ。そうです、確かにそこに太陽がありました──
いたわりの言葉なんて、掛けられたことなどなかった。
これはからかいだろうか?
彼はさっと起き、身を引いた。警戒心を含んだ瞳でその子供を見つめる。子供は少し眉を動かしじっと彼を見つめる。この子供は、歳の頃は十にも満たないだろう。小さな背、ふっくらとした頬、短く切り上げられ少し跳ねた髪。快活そうな少年だった。
「ハラでもいたいのか?」
そう問い掛けてくる少年。彼は思わず首を横に振った。
「おまえどっから来たんだ?」
明るい声で次々に質問を投げ掛けてくる。
彼はそんな少年を見つめながらわなわなと唇を震わせた。
興味を持たれている、純粋な意味で──
「ケガしたのか?」
少年の指が彼の額を指差す。赤い印なので傷痕だと思っているのか。彼はそれを受けて首を横に振った。
「じゃあ元気なんだな。そうか、今日は天気がいいからひるねしてたのか?」
そう言って少年は彼の隣に座り込む。
「おれも今日は外であそぼうと思って。父さんがしごとにいってるから剣のけいこがないんだ」
少年は手にしている包みを脇に置いて彼の顔を見ながら話し掛ける。
「なあ、いっしょにあそぼう。あ、そうだもう昼だ! 母さんに弁当作ってもらったんだ」
朗らかにそう誘いかけてくる少年。そして脇に置いていた包みに手を付けて広げ出す。
「外でたべるとうまいよな。……ん? おまえは?」
彼はその包みの中身をじっと見つめていた。
「……食うか?」
少年が彼に食料を差し出す。香ばしく焼いたパンに肉と野菜を挟んだものだった。彼はおずおずと手を伸ばす。
飢えて朽ち果てようとしていたのに──
パンを一口齧った。
「うまいか?」
少年がじっと見つめてくる。彼は喉を鳴らした。そして思わずこくりと頷いた。それを見て少年は顔を綻ばせた。
それからは無我夢中。彼は喉に詰まらせようかという勢いでそれを平らげた。
鼻腔の中に残る香り。香ばしいパンの匂い、こんがりと焼けた肉の匂い。舌に残る肉の旨味。新鮮な野菜の歯ごたえと舌触り。
「おまえ、すごいハラへってんだな。よし、これも食え」
少年は彼のそんな様子を見て自分が手にしていたもう一つのパンを半分にし、彼に渡した。
「うん、食ったな」
もぐもぐと自分の分を口にしながら少年はそう彼に言った。彼は指を舐めながら頷く。それを見て少年も指を嘗める。そして顔を見合わせて笑った。
「……なあ、あ。おまえ、なんていうんだ? 名前」
そういえば名前も知らなかったと思い、少年は彼にそう問う。彼はそれに答えようと慌てて口を動かす。
「ん? おまえ…しゃべれないのか?」
その様子に気付いた少年は彼にそう問う。彼は皹が入ったような表情で頷いた。そして辺りを見渡し、小枝を拾い上げる。
「………オ」
彼は地面に文字を書いた。四文字ある。
「すまん……おれ、まだあまり字が読めないんだ」
少年はそう申し訳なさそうに言った。じっと地面を見つめる。どうやら最後の一文字だけは読めるらしい。
──声を発することなど必要ないと思っていたのに
今、一番必要としている。
どうして、どうして。
彼は首元を押さえながら必死に腹の底から声を出そうとした。
(僕の名前、名前)
どくどくと心臓が鳴る。
(ある、あるんだ。呼んで、呼んで)
そういえば名前を呼ばれたことなどあっただろうか
一応、名前はあるのだが──
彼は忌み子だった。
物心ついたときには、いつも怒鳴り散らす怒りっぽい女に育てられていた。事あるごとに彼を養育するのは不本意だと漏らしていた。誰かに頼まれて彼を養育していたらしい。
最低限、死なせないように生命だけは維持しておけと、その程度の手の掛けられ方だった。もちろん、優しく抱かれたことなどない。その頃、彼は己の名前も知らなかった。
残飯まがいの適当な食事を床に置かれ、それを食べろと言われていた。手にする食器もない。手掴みで食べるしかない。味に文句などつけられようか。ただ口にして飲み込んで生きていた。
ある日、彼はこの女から別の者へ身を引き渡された。金貨三枚と引き換えに。
「ほう、これが例の印。こんな幼子の頃からあるとは、育てれば相当な魔力を引き出せよう」
そう言ってその者は彼の身を引き受けた。
「ねえねえ、あんたんとこようやく厄介払いできたんだって?」
「ああ、そうさ。あの『賢者様』が引き受けてくれたわよ」
彼の身が引き渡されてから女は茶飲み友達とそんな会話を繰り広げていた。
「ああ、あの『賢者様』ね。表向きは魔道書の精製をしてるっていうけど、実際何やってるかわからないっていう」
「精霊の護符がどうとか言ってたけどわからないわ。引き受けたときからあの子供の額には何かついてたけど、そう言ったら喜んでたわ」
「へえ。そういえば、あの賢者様…そういう子供ばかり探してたっていうわね。なんか危ない感じもするけど」
「別に…いいわ、もう。あの人は死なせないようにだけしていればいいって言ってたの。引き渡すなとは言ってない。もしあの子供が必要になったらそこにいると言えばいいわ」
「ああ…あの人、ね。あなたも散々だったわね」
「ええ、時期国王に目を掛けられたまではよかったけど、どこぞの女とも子を作っててそれを私に押し付けたのよ」
「どういうつもりかしらね。要らないなら殺してしまえばいいのに」
女は呪詛を込めてそう言い己の腹を触った。
「女の腹を殴って堕胎させて、あげく違う女との子供を育てさせるとかどんな鬼畜よ」
賢者に引き取られていった彼は、まず清潔な衣服を与えられ日常生活の作法をしつけられた。食事は手掴みで食べないということを知る。
「おまえの名前……そうだな」
彼には名前がなかった。賢者は精霊との契約上名を持たねば都合が悪いといい、彼に名を与えた。その辺りの書物を適当に開いて目についた語句から取った。
そうやって名を与えられはしたが、彼は名で呼ばれることはなかった。
賢者は彼に作法のしつけを始め、文字の読み書き、演算法や社会の仕組み、自然界の知識…などあらゆる学を与えた。
彼は学ぶことが好きだった。賢者から与えられるそれを次々に吸収していく。身についていく知識が彼を守る。論理的な思考は鎧だ。
賢者は彼を慈しみ育てているわけではなかった。彼に衣食住を与え、学を与えているが、見返りを期待してのこと。
彼の額にある印を「精霊の護符」と見て彼の潜在魔力を利用しようと思っていた。賢者は魔道の研究に明け暮れていた。魔道書の精製を主な生業としていたが、錬金術じみた研究を目的としている。
精霊と契約を結び、護符を身体に受けるには相当な魔力を有していなければならないが、この賢者はそれが適わなかった。なので、護符を有する者を触媒とすることにしたのである。それは幼子であればあるほど望ましい。幼い頃から印を有しているということは、潜在魔力の潤沢さを意味する。子供は精霊と近しい存在である。その頃から精霊と慣れ親しめば多大な魔力を手に入れることができるというのが賢者の独自の研究結果だった。それに、幼ければ幼いほど懐柔しやすく、従順な僕となる。
そうして彼はついでに学も与えられたのだが、賢者の思惑以上に優秀だった。そうして数年彼と過ごしていくうち、あるとき賢者は己の死期が近いことを悟った。そしてゆくゆくは己の研究を彼に継がせようと思った。そして彼は助手として本格的に学んでいったのである。
深い冬が終わり雪解けが進んだ春、それは現れた。
彼は掃除をしていた。調理後の残骸を処分しようと庭へ向かう。もちろんこのまま棄てるわけにはいかない。いつも何処かに穴を掘って埋めるのだが、ちょうど庭の奥の樹の根本の土が緩んでいて掘りやすそうだと思った。
そして鉄具で掘っていく。すると何か硬いものに当たる。しかもわりと量が多いようだ。小石とは違う。彼は疑問に思い、掘り進んでみる。白くて太いもの、細いもの、真っ直ぐなもの、曲がったもの、様々だ。そして。
彼はそれを持ち上げる。人間の頭部と同様の形──
書物で見たことがある骨格標本図と同じ。
彼は辺りを見回すとそれをそっと元に戻し、調理の残骸とともに埋めた。
そういえばこの樹は賢者が精霊の宿る樹だと言っていたのを思い出した。彼は樹に手を触れた。
──ココニ、イテハ、イケナイ──
緩く風が吹く。彼は僅かに身を震わせた。
館に戻ると彼は賢者に呼ばれ、研究室に入った。
そこは今まで決して立ち入ることを許されなかった場所。広い間が取られ、中央に魔法陣が描かれている。
賢者は彼に椅子へ座るよう促す。彼は促されるままに座った。そして賢者は術に必要と言い、彼の髪を鋏で切り落とした。彼は少し驚愕し、目を見開いたが、特に髪に執着があるわけではなかった。もともと、賢者に伸ばすよう言い付けられていたものだ。
紐で括られた彼の黒髪が蝋燭に囲まれた祭壇の中央に置かれる。彼は魔法陣の中央へ移動するよう促され、そこへ立ち、目を瞑る。
彼は基本的にこの賢者には逆らえなかった。
従えば食料を与えられる。助手として有能さを発揮すればさらなる学が与えられ、認められたことになる。同衾すれば甘い砂糖菓子が与えられる。意味など分からなかったが特に感慨は抱かない。ただ業務と報酬で成り立つこの世界。
何か呪いごとのようなことを始めようとしている賢者。数日前から異様に顔色が悪かった。そしてこれまで以上に生き急ぐように彼へ知識を与え、書物の在り処を全て教え、ついにこの部屋に通した。
「…おまえにこの研究を継がせようと思ったが、研究者の欲だ、己のこの手で成功させたい」
賢者はそう独り言を吐き出す。
そして鳥篭を彼の前に置いた。
「精霊を呼び寄せ……封印できるか否か」
「今までは魔力を護符を持つ者から抽出していた。しかし、精霊を捕まえ、そこから直接魔力を掴み出せればどうだ……?」
彼は目を瞑ったまま思った──狂っている、と。
そして脳裏に浮かぶ、庭に埋められていた白骨。
それでも逆らえなかった。そのまま賢者の呪術が始まる。切り落とされた彼の黒髪が燃やされる。その灰を吹き飛ばし宙に舞わせる。
彼は魔道の修練などしたことはなかった。額の印も何故あるのか分からなかった。本当に自分に魔力などあるのかも分からなかった。精霊など見たこともない。感じたこともない。それなのに、こんな印があるというだけで妄信的にこの賢者は彼を媒体として仕込んだ。
──アナタガ、ワタシノアルジ、アナタノカゼ──
灰の舞う中声が聞こえる。賢者が彼の名を唱え、印を結んだ。
──ワタシハ、ツカマエラレナイ、アナタモ──
コワイ?
ツライ?
クルシイ?
彼の心の臓が脈打つ。体中の血液が沸騰しそうだ。体の中を駆け巡る風。吹き荒れる嵐。
「………! やったか……!」
魔法陣から沸き起こる風。彼の衣服と髪がふわりと宙に浮く。そして渦巻いていく。
「よし、今だ……!」
賢者は鳥篭を開けて待ち構える。そして彼の髪で作った編紐を絡めて準備する。これで封じ込めるつもりだ。
「………!?」
その風が襲う。真空波となって賢者を切り刻んだ。
怖い、辛い、苦しい………嫌だ!!
彼は心で叫びを上げた。今までどんな仕打ちを受けても感情を爆発させることはなかった。すべては機械的に過ぎ行く日々。機械的に与えられたことをこなしていく、ただそれだけの世界。
返り血が彼の顔、体に飛び散った。そしてぎょろりと賢者が彼を睨むその形相。わなわなと震える手で掲げている鳥篭。幻を見ているのだろうか。そこに精霊を閉じ込めたのだと。彼は鳥篭を閉じて編紐を結ぶ。そして鳥篭を掲げ、賢者に笑みを向けた。それを見て術が成功したのかと思い込んだ賢者は歓喜の表情を浮かべる。そして発作を起こして倒れこむ。大量の赤黒い血を吐き、そのまま動かなくなった。
腐敗臭がする。
賢者が死んでから彼は館中の食料を漁って食いつないだ。しかし、それももう尽きた。数日経ったが、手首に現れた痣は消えない。痣というより印、だった。かなりくっきりと付いている。その印が現れてから、室内にいても風を感じるようになった。
それから、彼は館を出てさまよい歩いた。
声が出ない、と気付いたのはそれから少し後。
そして彼は出会った。その声が必要な場面に。
「……むりをするな。おれ、字をおぼえてくるから」
少年は決意を固くした表情で彼にそう言った。
「そうだ、おれの名前、おしえてなかったな」
やわらかく笑んで少年は彼に語りかける。
「おれはアイク。よろしくな」
そして二人は日が暮れるまで遊んだ。
少年は草木や虫の名前を彼に教える。字は読めないというが、そういったものについては詳しかった。
「こいつはいま、こんな姿だけど、いつかは羽をもって飛んでいくんだ」
生い茂った葉についていた芋虫を摘んでそう語る少年。指先で撫でている。彼がじっと見つめていると、少年は彼の手を取り、掌にそれを載せた。いたずらな笑みを浮かべて。
「おまえ、こわくないか? 妹にこいつをやるとこわいっていって泣くんだ」
彼はただ首を横に振った。
「よかった。さわるときはそっとさわれよ。つぶしたらむにっとして汁が出るぞ。そしたら死んじゃうし」
少年のその言葉に、彼は口の中に広がった食感を思い出した。そして庭に埋められていた白骨と賢者の死体も。
「むだに動物や虫を殺しちゃ、だめっていうんだ父さんが。殺すのはたべるときそのぶんだけ、な」
彼は少年の話を耳に入れながら芋虫を指で撫でた。
それから二人は小動物を追い掛けたり、草笛を作って吹いたりした。
「そうだ、これ、猫がすきな草なんだ」
少年はそう言い、穂先が綿状になっている草を抜いて彼の目の前で振った。
「おれんちの近くにいる猫にふってやったらこうやってあそぶんだぞ」
猫の手を真似して手を丸め前後に振る少年。
「青い猫の兄ちゃんにも渡したけどありがとな、っていってたからきっとすきだぞ」
少年のその言葉に彼は目を見開いた。
「あのな、その兄ちゃん、猫の耳としっぽがはえてるんだ。ぜんぶ猫になることもできるっていってた。みたことないけどすげえなっておもった」
それは、所謂『半獣』だった。人間とは違う種族。人型が本来の姿というが、獣の姿に化身することができる。ここはその半獣たちの国で、少年のように人間も小さな集落で暮らしていたりする。だから共存しているように思えるが、人間の国家では半獣は忌み嫌われる存在であるというのが一般的だ。
この少年はこの辺りの集落の子供であるからこうして半獣との交流があるのだろうと思われた。
「あとな、王さまともあそんだぞ。父さんとともだちだって。王さまは、でっかいんだ。たてがみが生えててふさふさしてて」
少年は顔の回りに両手をかざし、鬣を触るような仕種をする。
「王さまのゆび、こうやってぎゅうってにぎった」
小さな指を緩く丸めてガリア王の指の太さを再現する少年。それはこの小さな指の三本分はあった。
彼は少年のその話を聞いて、息を飲む。
(どうして、半獣と)
彼は半獣の集落でいないものとして扱われたことを思い出す。そして野の獣からも遠巻きにされたことを。
「おまえもこんど、王さまんところにいっしょにあそびにいこうな」
顔を綻ばせて彼にそう誘いかけてくる少年。そう言って少年は背を向け駆け出し何かを拾いに行く。彼は自分が苦虫を噛み潰したような顔をしていたのを見られなくてよかったと思った。
それにしても、この少年は何者なのだろうかと彼は思った。いや、この少年、というよりその父親だろう。ガリア王と懇意にしているらしいというのは分かった。身なりを見るにそう身分が高いわけでもないと思われるのだが。
「王さまもすげえつよいっていうけど、父さんもすげえ強いんだ。父さんはようへいっていうのをやってるぞ。おれも父さんみたいになるんだ。だから剣のけいこをしてる」
そう目を輝かせて言い、少年は拾い上げた木の枝を持ち構える。そして剣の素振りの真似をする。
(……傭兵)
彼は少年の言葉を頭に入れる。ここまでで彼の父親は傭兵として生計を立て、彼には他に母と妹がいるということがわかった。
一般的に傭兵とは裕福ではないとされている。商人のように財を成さず、騎士のように土地を有してもいない。それなのに一国の王とかなり近しく懇意だというのだ。
日が暮れてきた。
「おれ、そろそろ帰るな。あした…はだめだ、父さんがかえってきて剣のけいこだ。あさって、またあそぼう」
森の出口まで歩いていく。
「またここで、会おう」
そう言って少年は手を振りながら走り去っていった、時折振り返りながら。きっと、彼にも帰る家があると思い。
彼はそんな少年の姿を見えなくなるまで目で追っていた。
帰る家などない彼はそのまま森で夜を明かす。
まだ、生きていた。今日も一日が始まる。空腹感が襲う。
昨日、少年に教えられた泉の水を飲み、小さな果実をかじる。酸味が強かった。
(食べるとき、その分だけ)
少年が父の教えだと言っていたことを反芻する。そして芋虫を口に入れた。もう一度水を飲む。
昨日、彼の母が作ったという食事はこれらとは比べものにならない。彼は、食事などというものは栄養摂取のための営みだと思っていた。しかし、昨日少年とともに摂った食事は喜びを感じた。味が鮮明に思い出される。「うまいか?」と聞かれれば、頷くばかり。
本当は、虫など食べたくない。
それでも腹を満たし生きるのだ。
明日も、会う。そう約束したのだから。
「母さん、おしえてくれ」
朝食後、子供向けの本を読んでいた少年が母に向けてそう言った。
「あら、めずらしいわね。あなたが本を読むなんて」
母は優しくそう返した。そして少年の側に寄る。
「おれ、字をよめるようになりたいんだ」
「まあ」
「あのな、おれ、ともだちができたんだ。そいつ、しゃべれないけど字がかけるからおれが字をよめないとならないんだ」
少年のその言葉に母は少し驚きを見せたが、すぐに優しい笑みを向けた。
「わかったわ。その子の名前…わかるかしら?」
「うーん……そいつがかいてたけど、四文字あって、さいごが『オ』なんだ」
母はそれを聞いて、本棚から別の本を取り出してきた。広げると文字の一覧表が現れた。これは子供が読み書きを学ぶための本だった。ひとつひとつの文字が大きい。
「見覚えのある文字はある?」
母がそう聞くと、少年は考え込みながら文字を追う。
「これ、とこれ…いや、ちがう。これ、これだ。と、これ……」
指でその文字を示す。
「これは…セ、これは…ネ、これは…リ」
母はその文字を追い読み上げる。そして少年は目を見開き息を飲み、その文字を頭の中で繋げる。
「…セ、ネ、リ、オ…だ。わかった! あいつ、セネリオっていうんだ!」
少年はその名が分かると喜び、何度も呼んだ。
「ふふ、よかったわね。今度、セネリオ君もうちに連れてきなさい」
「うん! あいつ、母さんのつくった弁当うまそうにくってた。もっとくわせてやりたいな」
その蒼い瞳をきらきらと輝かせて少年はそう言った。母も同じ蒼い瞳で優しく見つめていた。
そうひとときを過ごしていると、外から喧騒が聞こえてくる。母は血相を変えた。そして窓の外を見て少年に向き直る。
「……アイク、あなたはここから出てはいけない。静かに隠れていて。ミストを守るのよ……!」
いつの間にか森の奥まで来ていた。
彼は迷うことなく森を歩く。なんとなく、帰る道もわかる。風がついて歩いてきているようだった。手首を触る。こうして森を迷うことなく歩けるのは風の精霊の守護があるからだろうかと思った。多分、手首のこれは精霊の護符なのだろう。
それなら、この額の印は何だ?──
彼は裾を引っ張り手首の印を隠す。そして額の印に触れる。
(これは、精霊の護符)
彼はそう、心の中で唱え口端を上げる。
「ばあちゃんが言ってた。しるしつきっていうのがいるって。関わったらよくないことが起きるぞって」
路上で子供が言い捨てた言葉が脳裏によぎる。それは忘却の彼方へ追いやる。そんな言葉は聞いていない。知らない。
(僕は、魔道士を目指しているんだ)
そうやって、あの少年に言おう、そう思った。
(僕も、傭兵になるんだ)
魔道書を扱ったこともないが、そう決意した。
そして見上げればそこには大樹。静かに生命を湛え続けてきたような。彼はその幹に触れた。緑が優しく包んでくるよう。そしてその元に座り、寄り掛かる。
──明日、この樹を見せるんだ。
そう思いながら、彼はまどろみ、眠りに落ちる。
幸せな夢を見た。
あの少年が彼を呼ぶ。今より大きくなった姿だ。彼も同様に。少年は仕事へ行くといい、彼を伴っていく。それがいつもの光景だった。ごく自然に、少年は彼を必要としていた。仕事が終わると決まって少年は優しい顔で労いの言葉を掛けるのだ。
──ああ、報われる
あるときはともに食事を摂り、美味しいと顔を見合わせて言う。あるときは、昼下がりに草むらに転がりともにまどろむ。あるときはともに空を見る。
とても、綺麗な、青い空だった。
その空の青さで目が醒めた。
彼は空を見上げた。見えたのは生い茂った葉ばかり。それに気付くと深い息を吐いてゆっくりと立ち上がった。
もう昼は回っただろうが、まだ夕方にはなっていない。時間をそう読みながら彼は少年の住む集落へ向かっていく。約束は明日だったが、ひそかにあの少年の身辺を探ろうと思った。どんな父親なのかも気になる。
そして踏み入れたそこは静かな集落だと思った。いや、違う。
人が、動いていない──
広い通りに折り重なるように倒れている人、人。転がり落ちている武器。切り落とされた腕、首。
鎧を纏った者、質素な平服の者、様々だ。
民家を見てまわると戸が破壊された痕がある。その中を覗くと折り重なるように倒れている老夫婦。血痕が床に散っている。他にも戸を破壊された民家や、井戸の前で倒れている腕のない女性など惨憺たる光景が広がってた。まるで、殺人鬼が降臨したかのような。
彼は駆け回る。探す、調べる。知らぬ顔の遺体を掻き分け、ただ一人の少年を。しかしいくら探せども見つからない。無事なのかどうかすら分からない。
「………う、ああ……っ! ああっ!」
彼は呻く。
「……っ…あ、…アイク…っ…!」
そして少年の名を叫んだ。幾度も。
彼は気付かない。自分が初めて声を発していたことに。そして涙を流していたことにも。
しばし虚ろな瞳でこの光景を眺めながらその場に佇んでいた。すると背後から影が射すのに気付く。ゆっくりと振り返った先には旅装の者が立っていた。
「……その子は無事です。あなたはまだ、光を失わない」
その一言だけを告げるとそれはゆっくりと立ち去っていく。彼はそれを追いかけようとした。すると不可思議な光に包まれ消えていった。
今はただ、その一言を信じるしかなかった。
彼は再び歩き出す。
光の穂先へ手を伸ばし。
生きて、生きて、いつかきっと──
それだけが生きる糧だった。
どんなに強い日の光が照らそうとも、辺りは暗かった。ただひとつ道を照らすのはその記憶だけ。
まだ言っていない言葉がある
「ありがとう」と。
この大陸の信仰は正の女神へ向けられているという。神官たちは女神に感謝し、祈る。そして施しを得るのだ。
彼は、女神の施しによる癒しの術が実際に存在し、軍用の救護にも利用されることは知っていた。そのことから女神信仰は利に適ったものと思ったが、いくら魔力があろうとも自分は神官にはなれないと思った。
己の心にある光はただひとつだから──
それはまさしく執念といっていい。
彼は魔道を独学で習得した。あの賢者が彼に魔道を習得させなかったのは、触媒としてのみ彼の魔力を利用しようとしていたからだ。それと、魔道を以って歯向かうことのないようにという狙いもあった。
先に精霊と契約を結んでいたため、発動させることはたやすかった。むしろ、制御するのに苦心した。暴発させると彼自身の身も滅ぼしかねないと思った。いつかあの庭先で掘り起こしてしまった白骨を思い出し。
それを以って魔道士として傭兵志願する。大体、幼過ぎるという理由で門前払いされそうになっていた。しかし額の印を見せ精霊の護符をその身に受けていると言い、学のあるところを見せると雇用に至った。
それと、人間の生死の現場に対する耐性も問われたがそれも有ると言い。
初めて雇用されたところでは経験があると偽った。そして初めて人を殺めたのである。感慨に耽っている暇はなかった。気を抜くと己も死に至る。
いずれも短期の仕事だった。可能な限り様々な傭兵団を渡り歩く。いつか辿り着けることを信じて。
あるとき、とある傭兵団の噂を聞いた。
その傭兵団は血気盛んな連中からしてみれば金を稼げない傭兵団だという。彼が今まで渡り歩いてきたところは、地方貴族の小競り合いの際、駆り出される戦闘要員としての雇用が主だった。当然、勝てば多くの報酬が得られる。
「もっと本格的に稼ぐならデインじゃねえか?」
「だな、実力次第で爵位も夢じゃないっていうしな」
飯場で今後の行き先を語る者の会話。
「やっぱ、傭兵は戦あってのものだな」
「ああ、でっかい戦争おっぱじめてくれりゃ存分に暴れられるが。デインは最近とみに武力を増強してるって。そのうち何か起きるかもな」
「まあ、そうなりゃ、メシのありつけるところへ行くまでだ。しかしデイン王って子供いないっていうな。一族も断絶したっていうし。下手したら時期国王も実力主義で決めかねない」
「はは、半獣みてえだ。そりゃいい成り上がりだな」
背を向けてこの会話に耳をそばだてていた彼は目を見開いた。『半獣』…この単語を聞くだけで背筋に走るものがある。
「成り上がりといえば……そういや、あいつ……シノン、だ。しばらく見ねえな。成り上がってやる、っていってすげえ息巻いてたあの生意気なガキ」
「ああ、あいつか。あいつ、よりによって金にならねえとこ行ったらしいぜ」
「ん?」
「グレイル傭兵団だ。片田舎の小せえとこでやってる。慈善事業かよってほど金にならない仕事ばかりしてるっていう」
「はあ、あそこか。あのグレイルってやつ、えらい強いっていうな。昔、一人でやってたって聞いたことあるが、どこだったか…ガリアの方か? それから行方知れずになってたんだが、いつの間にかクリミアで傭兵団作ったって」
彼はかたかたと震え出す。その会話ひとつひとつが鼓動を早くする。
「ど、何処ですか、それは!」
振り返り、吃りながらその会話に割り込む彼。
「はは、どうしたセネ坊。なんだ? まさかおまえもグレイル傭兵団に行きたいってか?」
子供扱いかつ馴れ馴れしい呼称で呼ばれたことに関していらつきを覚えたが、そんなことは今、どうでもいい。彼は頷く。
そして彼はその傭兵団の拠点へ向かう。
そこは古びた砦だった。元は軍用か何かで使用されていたものだろうか。そこを団員たちが居場としているようだ。
「あん? なんだてめぇ。ここはガキの遊び場じゃねえぞ、帰れ」
砦の入口の前に立ち、見上げてしばらく佇んでいると、赤毛の男が邪険そうに声を掛けてきた。
「あなたはここの団員ですか」
見た目に反して落ち着き払った口調で話す彼を見て男は眉をぴくりと上げた。
「ああ、そうだが。それがどうした?」
「ここはグレイル傭兵団で間違いありませんか」
その赤い眼を強く男へ向ける。
(う、何だこいつ。何か呪われそうだな)
彼の眼光にたじろぐ男。額の印も不気味に感じる。
「あ、ああ。そうだ」
「団長へお目通し願えませんか」
その彼の言葉に男は顔を歪めた。
「はあ? まさか、入団志望とか言うんじゃねえだろうな?」
彼はこくりと頷く。
「はっ! はっはっは! バカ言うな。てめぇみたいなガキに何ができるってんだ」
「なにやってんだ、シノン」
その声に思わず振り返る。
「このガキが団長に会わせろとか言いやがる。面倒臭せえからアイク、てめえがどうにか追っ払え」
手で払うような仕種をして男はそう言い放った。
──あぁ、そこにいるのは
彼はゆっくりと振り返る。
記憶と違わないその髪の色、瞳の色。確かにそこに色があった。灰色の世界が塗り替えられていくそのひととき。
「おまえ、どうしたんだ?」
優しくそう問い掛けてくる。そして喉を押さえ、少し声の調子を整えようとしていた。掠れ気味のその声。記憶の中の高い声と混じる。どうやら変声期のようだ。
「あ、あああ……あの、」
彼は思わず吃ってしまった。先程シノンに対して話し掛けた口調と大きく変わる。
(……アイク!)
心の中で強く呼び掛ける。
「僕は、この、グレイル傭兵団にっ、入団、志望ですっ」
一思いに言った。そしてその蒼い双眸を見つめる。
「そうか。じゃあ、親父に言わないとな。おまえ、名前は? 俺はアイクだ」
アイクは小さく頷きながらそう彼に問い掛けた。
──あのときと同じ問い
今度は答えられる。
「僕は、セネリオと申します」
胸の鼓動が激しくなる。
「そうか。初めまして、だな。よろしく」
そして差し出される手。セネリオはおずおずと手を伸ばし、握った。そのまま泣き出したくなった。しかし何事もないように静かに会釈する。
「おい、何勝手なこと言ってんだよ」
シノンが横槍を入れる。
「折角ここまで来たのに門前払いもないだろ」
アイクがそう返す。
「ったく、何でもかんでも受け入れてたらキリがねえんだよ! 大体、そんなガキ、何ができるってんだ。剣も握れないだろ。そんなガリガリな体で」
彼の小柄で痩身な体躯を指して言う。
するとセネリオは物入れから魔道書を取り出し、詠唱を始める。そして小さな風を起こした。
「ギャッ!」
シノンの前を真空波が通る。反射的に大きく避けた。
「さすが、傭兵団を渡り歩いて成り上がってやると息巻いてただけはありますね。その反射神経に敬服します」
口端を上げ、そう言い放つセネリオを見てシノンは驚愕の表情を見せた。
「てめえ…一体…!」
「僕もこの魔道を手に傭兵団を渡り歩いてきました。ある飯場であなたの話が上がった際、このグレイル傭兵団の話題が出ました。おかげで僕はここまで辿り着くことができました。感謝します」
ぴくぴくとシノンの顔が引き攣る。
「おまえ、すごいな」
そんな中、アイクがセネリオに歩み寄り、そう言った。
「その歳で、実戦に出ているどころか、一人で渡り歩いてきたのか。俺なんかまだ、実戦に出たこともない」
素直にそう漏らすその佇まい。胸が締め付けられるよう。セネリオはぐっと拳を握り締めた。
「僕は……あなたが傭兵を目指すと言ったから、傭兵を目指しました」
息を吐くようにそう語る。
「ん?」
アイクはその言葉に怪訝な表情を浮かべ、首を傾げた。
「俺とおまえは、今日初めて会っただろう?」
──覚えて、ない?
セネリオは息を飲んだ。そして心地の悪い汗をかく。
こんなに焦がれるほど想い続けてきたのは己だけだったというのか。この目の前の相手にとって、自分との思い出など弱いもので、すでに忘却の彼方というのか。
そもそも、名を問うてきたり「初めまして」と言ってきた時点で気付くべきだった。
「……そうですね、今の言葉は忘れてください」
「そうか。何か、わからんが……とりあえず、親父が帰ってくるまで待ってくれ。魔道士はなかなか入団志望してこないから貴重だ。いけるかもしれない」
そう言い、また喉元を押さえ掠れ気味になる声を整えようとするそのひと。彼の喉元が少し膨らんでいるようだ。それは喉仏だろう。セネリオはそれを見てこくりと喉を鳴らした。そういえば、前に聞いたことのある彼の歳はセネリオより少し下だった。セネリオは思わず自分の喉に手を当てた。膨らみも何もない。そして彼を見上げている自分に気付いた。
「しっかし、おまえいくつなんだ?」
シノンがそう疑問を口にする。
「僕はたぶん……」
セネリオはぼそりと答える。
「はあ? アイクより年上? っていうかたぶんって何だよ」
シノンはそう怪訝そうに聞くが、セネリオはそれ以上答えることはなかった。
「君か? 入団志望の魔道士は」
「はい」
夕方、仕事から戻ってきたこの団の団長がそうセネリオに声を掛けた。セネリオは大きく見上げた。かなり大柄な男だ。これまで見てきた傭兵とは雰囲気もかなり違うと思った。
砦の中央にある広間の卓に着き、面談をしていた。ここは団員たちが集まる会議室兼、食卓兼、居間だった。他の団員たちが別の卓に着きながら二人を横目に見ている。
「私はこの団の団長、グレイルだ。君は?」
「セネリオと申します」
グレイルの顔は厳つく、歴戦の兵と思わせる。低く重厚な声が響いた。セネリオはこのひとがアイクの父なのかと、その兎のような赤い眼で凝視する。
「どのようにしてこの団を知った?」
その質問にセネリオはシノンが絡んだいきさつを話し答えた。
「はは、そりゃよかったな。慈善事業か、金にならんとか。すまんな、シノン、給金安くて」
ちらりとシノンの方を向き、軽く笑いながらそう言い放つグレイル。シノンはばつが悪そうに苦笑いして首を横に振る。グレイルの厳つい顔が緩んでいた。少しセネリオの肩の力が抜ける。
「そうか、それだけの数の傭兵団を渡り歩いてきたわけか。そんな中、うちへの入団を特に希望すると」
「はい」
「何故、うちの団への入団を希望する?」
試すように問い掛けられるその言葉。
「これまでの傭兵団は即、収益を得られる短期的な仕事を選ぶところばかりでした。しかし、貴団に於いては近隣の集落からの要望を安価で請け、長期的な仕事の供給を得ています。確実に信頼を重ねているといえます。この信頼の積み重ねが将来的にかなりの強みとなるでしょう」
セネリオは用意していた答えを淀みなく言った。
(ケッ、もっともらしいこと言いやがって。本当のところ何が狙いなんだよ)
いらつきながら聞き耳を立てていたシノンが心の中でそう毒づいていた。
「……なるほど」
同じく聞き耳を立てていたアイクははっとした表情になりぼそりとそう呟いた。
「うっ」
そんなアイクにシノンが額を指で弾き一撃を食らわせた。
「納得してんじゃねえ、バーカ」
小声でシノンはそう言い捨てた。
セネリオのその答えを聞いたグレイルは小さく数度頷く。
「人を殺めたことは?」
「あります」
グレイルの次の質問にセネリオは沈着な瞳でそう答えた。
「初めてのとき、どんな気持ちだった?」
「自分が生きるのに精一杯でした。感慨に耽っている暇などありませんでした。ですが、むやみに交戦する趣味はありません」
その答えにグレイルは深く息を吐いた。そして何かを思案するような表情になった。
「…君はどこの出身だ?」
「正確な出生はわかりません。物心ついたときにはガリアにいました」
グレイルはセネリオのその言葉で彼が天涯孤独の身と悟った。大体、このくらいの歳でこのような道を辿ってきたことからそうだとは思ったのだが。
「……貴方もガリアの方で活動していたと聞きますが」
その言葉にグレイルは目を見開いた。
「……ちょっと来なさい」
がたりと椅子を引き、立つとグレイルは別室へセネリオを誘導する。セネリオはただ黙ってその後を追った。
その様子を見ていた団員たちはその挙動が気になったが、敢えて口にすることはなかった。
「僕は、ガリアでアイクから施しを得ました」
グレイルに通された別室にてセネリオはそう語る。
「アイクは僕が飢えて朽ち果てようというときに、母君が用意したという食事を僕に与えたのです。そしてともに遊び、時間を過ごしました。次の日は貴方が帰ってきて稽古があるから遊べないが、その次の日なら、と約束をしました」
淡々と当時のことを語っていく。それを眉間に皺を寄せながら聞き入れていくグレイル。
「僕は彼の身辺が気になり、次の日の夕方前、集落へ足を踏み入れました」
グレイルの表情が険しくなっていく。
「僕が踏み入れたときにはそこに、惨憺たる光景が広がっていました。斬首された者、腕のない者、血まみれの老夫婦、様々です。そこにアイクはいませんでした」
ひとしきり語り終えるとセネリオはその瞳でグレイルを凝視する。何かを観察するかのように。
「……賊だ。俺が帰るのが間に合わなかった。妻が子供達を守っていた。妻はそのとき逝った」
重く、低い声が響く。
「ミストは幼過ぎて覚えていないだろう。アイクは……それを覚えていない。思い出させてくれるな。ショックからかそれ以前の記憶もない」
セネリオは唾を飲んだ。喉が張り付くように渇いていた。
「いいな、そういうことだ。君は賢いから……わかるな」
グレイルのその瞳が圧力を掛けるように訴える。
「はい」
セネリオはただ静かにそう返事をした。
「どうだ、この傭兵団でやっていこうという意志は変わらないか?」
その言葉にセネリオは息を飲んだ。
「はい……!」
語気を強めて返事をする。
「魔道もさることながら、君のその学はこの傭兵団の財となろう。おいおいその辺りの詳細を聞こう」
先程まで険しかったグレイルのその顔が緩んでいた。
「私の息子は学問の才がないらしい。読み書き程度はできるが、どうにも直線的でな。君のような者がいれば学ぶことも多いだろう」
セネリオの身にそわそわと走るものがあった。それは高揚。顔が熱くなる。
「あのっ、僕……っ」
少し震えながら口を開く。淀みなく淡々と喋る流暢な話し方ではなく吃音混じりで。
「アイクのっ、役に…立ちたい、です」
開いたその赤い瞳が薄く濡れていた。
グレイルはそんな彼を仔兎のようだと思った。鎧を脱げばあらわになるその小さな身。必死にもがき、生きる。
分かっていた、あの志望動機が用意された答えだと。
それでも彼が述べたことは間違ってはいないと思った。それはこの団の理念、己の信念そのもの。そして、己の息子を誇りに思った。それが受け継がれている。
こうして、信頼を得て恩義を返そうとここまで訪ねてきた者がいるのだから──
(共に、大きくなれ)
グレイルは目を細めた。この少年もまた、成長過程にあるのだと。
そして、彼が惨憺たる過去を辿る糸口を握っていることに冷や汗をかいた。いずれ、明かさなければならない。しかし、まだ時期ではない。昔、断ち切った腱が疼いた。
この少年は自分を守る術を身につけている。しかし、己の息子は自分を守る術を持っていない。
それは、裸の心──
虫も殺すな、と教えたのは己なのに。
ある日の昼食時。
成長期ゆえか元々大食漢なのかいつもたらふく食事を平らげるアイクがそれを残し、あとで食べると言った。そして自室に持っていった。
(今日は肉料理なのに)
ともに生活するうちにセネリオはアイクが肉料理を特に好むことを知った。それだけではなく、彼の生活習慣など逐一観察しては覚えていく。他の団員のことについてはあまり関心はない。
「ねえ、セネリオ、おいしい?」
そうやって声を掛けてくるのは彼の妹のミストだ。いつも、ぱっと花が咲くような笑顔を振り撒く。
セネリオはそんな彼女に微笑み返すわけでもなく、ただ頷いて返すのみだった。
ミストは新入団員に特に優しくしようと思っているのか、ことあるごとにセネリオに話し掛けてくる。聞いてもいないが、兄アイクのことを話してきたりもした。それだけは頭に入れた。
「ねえ、お兄ちゃん」
いつもそうアイクへ呼び掛けるミスト。まだまだ女とはいえない、少女。子供といってもいい。穢れなき、といった言葉がよく似合うだろうか。
アイクも愛想はあまりないながらも決まって少し首を傾げ、聞き返す。セネリオはそれを見て安堵のようなものを覚えるが、それが自分に向けられていないと思うと胸の奥が痛くなった。
あの厳ついグレイルもミストと接しているときは特に優しげな顔になっていた。
──ああ、これが、家族。
見たことがないものだった。
どんなに書物で知識を得ようとも分かり得なかったものだ。そしてするすると思い出されるは幼い頃の彼。父のような傭兵を目指すと、確固たる目標を持ち、瞳を輝かせていた彼。そしてこの眼で見た彼の父は確かに目標とするに値する人物だと思った。
「なあ、セネリオ」
名が呼ばれる。
そうだ、その名は便宜上与えられたもの。情が込められたものではない。記号と同様なのだ。
いない、いない。
親無しなんかそこにいない。
いつかそんな声を聞いたような気がする。
そうだろう。親がいなければ名も無いだろう。
──僕は、名無し。
「なあ、セネリオ」
「あぁ、すいません、アイク」
二度呼ばれた。
確かに、己はここにいる──
「ちょっと外に行かないか」
「はい」
それでいい。それだけで。
(これはあなたに呼ばれるための名前)
心地よい声だった。もう、変声期も終わりに差し掛かっているのだろうか。殆ど声の掠れもない。もう、あの頃の澄んだ声ではないけれど、やわらかく響く男声だった。
「あのな、これは誰にも言うなよ」
アイクは歩きながらそう持ち掛けた。砦から少し離れた雑木林にて。そしてその元へ歩む。
セネリオはひそかに高揚していた。それに既視感を覚えるのは、あのときの記憶が為せる業だろうか。
そしてしばらく歩き行くとその歩みが止まる。
「……安全な場所へ移動させようと思って」
そう言い、アイクはある樹の根元にうずくまっている獣を指差した。
「まだ子供だと思うけどちょっと重い。傷ついているからそっと運ばなくては」
それは狼の子供だった。傷ついて弱っているらしく、自力で動けないようだ。このままでは餌も得ることができないだろう。
「親とはぐれたみたいだ。なんとかしたい」
思いつめたような瞳でセネリオの方をちらりと見るアイク。
「おまえ、何かいい方法知らないか?」
彼が、自分を頼ってきた──
セネリオはどくどくと胸が鳴るのを感じた。
しかし、獣を治療する術など知り得なかった。外科的な処置も、治癒の魔法も知らない。それでも、答えを返さなければ。
「とりあえず、あなたが言う通り、安全な場所へ移動させましょう。そして傷を消毒し、餌を与えてみては」
そう答えた。アイクの言葉を鸚返ししたような答えであったのだが。
「そうだな。よし」
アイクはその獣を抱える。
「あの……何故秘密裡にするのですか?」
来た道を引き返しながらセネリオはそう尋ねた。
「ああ、また拾ってきた…とか言われるから……」
少しはにかみながら返すアイク。
セネリオは記憶の中の彼とやはり同じ人物なのだと思った。あの頃と違うのは口数は少なめで無愛想な喋り方と表情であるところだ。これはこの時期の少年特有のものなのか、グレイルの言う惨事でのショックのせいだろうかと思った。
そして小さな獣を見つめた。
そこに遠い日の自分がいた。
セネリオはこの獣へは特に関心はないが、蘇る光景に想いを馳せる。
そうして砦の裏手まで戻った。
「食えるか……?」
アイクは残しておいた食事の残りを与えようとしていた。獣はかなり弱っているらしく、顔を動かすこともままならなかった。
セネリオは消毒液をアイクに手渡す。
「あ、そうか」
思い出したようにアイクは処置を施そうとする。
そんなアイクの姿を見ながら、セネリオは淀んだ気持ちでいた。たぶん、この獣は長く生きられない。そう予感していた。獣がこうして命尽きていくことは、日が登り降りるくらい当たり前の営みだ。だから逐一感慨を抱くほどのものではない。しかし、これから訪れるであろう彼の落胆を思うと胸が痛んだ。
「おい、おまえら何してんだ」
背後から声がする。あの不機嫌そうな声色。
セネリオは振り返ることなく、ぴくりと震えたアイクの肩を見逃さなかった。直感的に、特にこの男に知られたくなかったのだろうと思った。
「傷ついた獣を保護していました」
振り返りセネリオは淡々とそう説明した。その赤毛の男に。
「はんっ、またか。いい加減にしろ」
シノンはつかつかと歩いていき、アイクの元へ寄った。そして彼が処置を施そうとしていた獣へ目を遣る。
「そいつはもうダメだろ」
あっさりと残酷な事実が告げられる。
「無駄なことするんじゃねえ」
確かに、そうだ。
セネリオはその光景を見つめつつそう思った。
もう、施しようがない。しかし、今こうして生きている己は彼が施しを与えなければ朽ち果てていたのだ。生きる意味を無くし。
「言っただろ、野生の獣に手を出すなと。一度人の手に掛かったやつは自力で生きていこうという気をなくしちまう」
正論だ──しかし
「分かってる、だけど……」
アイクは俯いたままそう呟く。
「見てしまったらもう、放っておけない。痛いだろう、腹減っただろうって」
息を吐くようにそう言い、獣の体を撫でる。
「けっ、オレはてめえのそういうところが大嫌いなんだよ!」
シノンは盛大に毒の篭った口調で言い捨て、唾を吐き出した。
「この偽善者が。自己満足だろ? てめえが気の済むようにしたいからいいことしたと思ってやってんだろ?」
さらに鋭く尖った言葉が投げ付けられる。
セネリオはそんな二人の光景を見つめる。そして拳を震わせる。
理性では分かる。この男の理屈は。しかし、彼の施しがあってこその己だった。与えられた食事はその場限りのものであったが、その事実が生きる糧になった。
「もし、助かったとして、てめえは一生そいつの面倒を見られるのか! 下手に情けなんか掛けて懐かれたらあとの始末はどうするんだ」
セネリオはその言葉を耳にし、硬直した。
すでに、アイクがいない世界など考えられなくなっている自分に改めて気付いた。
一生、彼の傍に居られるのだろうか?
「……責任は果たす」
アイクは絞り出したような声でそう返した。
それを耳にしてセネリオはぎゅうと目を瞑り、奥歯を噛んだ。
「はんっ、口でだけなら何とでも言えるな」
そう言い、シノンは膝を折り、アイクの横に並ぶ。そして餌としようとしていた鶏肉を摘む。
「だいたいな、こいつだって生きてたやつだぜ。てめえが絞めたやつだろうが」
家禽として飼っていた鶏のことを指す。父の教えの元、アイクはその鶏をこの食肉へと変えた。
「それは……」
肩を震わせながらアイクは言葉を発する。
「そいつとこいつ、どう違うってんだ?」
そうして追い詰められていく彼。この男はそれを愉しんでいるのかとセネリオは思ったが、眉間に皺が寄り眉が吊り上がった顔を見るにそれとは違うだろうと思った。
「ああ、もう、馬鹿馬鹿しい。反吐が出るぜ」
シノンは立ち上がりそう吐き捨てる。
「食われるために生まれた「物」はどうしようが構わないんだな」
握り締めた拳を震わせてセネリオは己に渦巻く闇を見つめる。
賢者の家に埋められていた白骨を思い出す。それはきっと魔力を抽出された者の成れの果て。己もその道を辿ったかもしれない。「物」と変わらない。そこに意思などなかった。
今、ここにいる赤毛の男の言葉を借りるなら反吐が出る、だ。
当時は意味など分からなかった賢者の要求、それは性欲の処理。
身の回りの世話をするのはいいだろう。衣食住の見返りだ。しかし、それは行き過ぎた要求。意味を知ったとき、吐き気をもよおした。
精霊との契約時、魔力が暴走し、賢者を切り刻んだ。
心は痛まなかった。むしろ、笑いが込み上げた。
「すまん、すまん……」
掠れ気味な謝罪の声が聞こえる。
何かに対して謝罪するアイク。そして獣の体を撫で、眼に手を被せた。獣は息をしなくなっていた。そしてシノンが摘み上げてから再び地面に置かれていた鶏肉を口に運び齧る。
シノンは顔を顰めた。
「こいつは食べる分だけ、殺した。もう、こいつが食べることができないなら、俺が食べるしかない。無駄死にさせない」
アイクは口の中にざりざりと砂の感触を感じながら鶏肉を噛む。
その彼の様子を見てセネリオは硬直した。そして己の闇がなんと醜いものだろうかと自己嫌悪に陥った。なんと眩しい光だろうかと。
「ち……頭おかしいんじゃねえかおまえ。ついに拾い食いかよ!」
気味が悪いと言いたげにシノンはそう言い捨て立ち去ろうとしていた。が、何かに気づき立ち竦んだ。
その目線の先には呻りを上げる大きな狼が一匹。
「……! もしかして、こいつの母親か……!」
匂いで追ってきたのだろうか、この子供の狼の母親と思われる狼が現れた。子供に危害を加えられたと思っているのか今にも飛びかかろうという獰猛さを感じさせる。
「……すまん、どうにもならなかった」
アイクはたじろぐこともなく、子狼を抱えゆっくりと歩き、母狼の前に立った。そしてその亡骸を差し出す。
「馬鹿野郎っ!!」
そう叫び、シノンは咄嗟に飛び出して彼の身を弾き飛ばした。それと同時に母狼が牙を向けて飛び出した。どさりとアイクは地に叩きつけられる。
「クソッ!!」
すぐさまシノンは石を拾い、怒り狂う狼へ投げつける。
「どっかいけ! 来んな!」
木の枝を拾い、振り回す。
「ボサっとしてんな! 死にたいのか!!」
シノンはアイクに蹴りを入れて動くように促す。狼はアイクが危害を加えたのかと思っているのか彼へ向かってくる。アイクは走り、かわし、逃げる。それでも野生の狼の敏捷さに敵わない。喉笛を噛み切ろうと狼は彼へ目掛けて大きく飛んだ。
「いやあぁぁぁぁ!!」
彼がいない世界など考えられない──
風のなかったこの場に吹き抜けた風。鋭い刃となった風が暴発し、狼を吹き飛ばした。そして切り刻む。狼の身は樹に叩きつけられ、どさりと落ちる。辺りには点々と赤いものが飛び散っていた。
ばくばくと心臓が鳴った。止まらない動悸。
セネリオは隠された印のある手首をきつく握って全身が震えるの堪えた。
「どうした! おまえたち!」
「どうしたのよ!!」
団長と副長の声がする。この騒ぎを聞きつけて駆けつけてきた。
そこに広がる光景は、小さな狼の亡骸と、刻まれた母狼の亡骸、飛び散った赤い血。立ち尽くす赤毛の男、放心して地に膝を着いている少年。駆けつけた二人は戦慄を覚えた。
そしてゆらりと黒髪の少年が二人の前に歩み寄る。
「アイクは、悪くありません。悪いのは……僕です」
三人は砦の中央の間に集められ、団長と副長から事情を説明させられる。
「こいつが、野生の狼の子供に余計なことしたから母狼が来てしまった」
シノンが端的に吐き出し、口火を切った。
「アイクは傷付いた子狼に施しをしようとしていました。何にも危害を加えるようなことはしていません。母狼への攻撃は僕がしました。アイクの身を守るためでした」
続けざまにセネリオがそう説明する。
「大体、前々から言ってたんですよ、何でもかんでも拾ってきたり、野生のものに手を出すなって。こっちの身が危なくなることだってある」
ちらりとセネリオに怪訝そうな目を向けてから団長らにそう訴えるシノン。
「アイクの心を無碍にする気ですか。少しでも助かる可能性があればそれに懸けてみようということは悪いことですか」
眉を吊り上がらせてシノンへ向けて言い放つセネリオ。
「うっせえ! 何もわかっちゃいねえ。てめえは何なんだよ……アイクの奴と揃ってバカなのか! クソが」
憎々しげにそうシノンは言い捨てる。
すると、強く机が叩かれる。二人がその音の発生源の方を向くと険しい顔をしたグレイルがいた。その横には俯いているアイクを心配気に見つめる副長のティアマトがいた。
「よく分かった。アイク、おまえはどう思う」
そう語りかけるグレイル。
「親父は……食べる分だけ殺せと言ったな。その、昨日絞めた鶏の肉をやろうとした。絞めたあいつも痛かっただろうな。どうして生まれてきてこうされなきゃならないって思ったりしただろうか」
アイクはそう言い息を吐き、目を瞑った。
「でも肉は旨い。俺は食べる」
その場にいる皆がアイクに視線を寄せる。
「あいつももっと生きられたらよかったのに。旨いっていって肉を食えればよかったのに」
力尽き息絶えた子狼のことを指す。
「でも俺が余計なことをしたからあいつの親まで死んでしまった。だから俺が悪い」
薄く濡れた蒼い瞳を真っ直ぐに父へ向ける。
「……アイクは…っ、悪く、ないっ」
立ち上がりセネリオが声を上げる。顔を紅潮させて。
「悪いのはっ、僕」
震える唇がそう訴える。
アイクはそんなセネリオへゆっくりと視線を向けた。そしてその瞳で彼を見つめ、小さく首を横に振った。それを受けたセネリオは喉の奥が痛くなった。目頭も熱い。そしてそれ以上言葉を発することはできなくなった。
「……弔いをしてやりなさい。それだけだ」
グレイルはそう言い、席を立ち、その場から退出した。
「ねえ、グレイル、あの子……」
場所を変え、ティアマトがそうグレイルに話し掛けた。
「ああ、自分でもよく分かっているようだ」
そう静かに返ってくる。
「優しすぎるのよね」
「この稼業を営んでいく以上いずれ、もっと堪えなければならないことが出てくるだろう」
武器を手にし、日銭を得る。それが傭兵だ──
アイクはグレイルの指導のもと日々の鍛練を欠かさない。肉体的な鍛練は熱心に基礎から行っている。組み手の際、何度叩きのめされようと立ち上がり向かっていく。
いずれ立つ戦場で命を落とさぬように。そのためには逆に人の命を奪わねばならぬときもある。
「だから屠殺も見せ、させた。あいつはそう馬鹿じゃない」
そう語るグレイルにティアマトはほのかに笑みを向ける。
「大きくなるのって早いわよね。ガリアにいたころ、あんなに小さかったのに」
その言葉にグレイルは表情を緩めた。
「まったく、思いもよらないものだ、子供とは。何を言うか、何をするかわからん。さっきも……狼の命を守り切れなかった悔しさと食用の鶏の命の痛みを並べて語るとはなんだ」
グレイルがそう漏らすとティアマトが頷く。
「ええ、とても繊細で、水平な視野を持っていると思う。でも割り切ってもいるの。ああやっていろいろ受け止めて答えを出していくのだと思うわ」
母のような温かな言葉だった。グレイルは口角を上げた。
「それにしても……セネリオは本当にアイクが好きなのね。すごい、庇っていて」
二人は狼の亡骸が地に転がっていたときの光景を思い出した。あれは風魔法が発動したあとなのだろう。
「ここに来るまでに他の傭兵団を渡り歩いてきたくらいだからそこそこ修練を積んでいるとは思ったけど、かなりの魔力があるのかしら」
「ああ、精霊の護符を受けているからな」
彼の額の印のことを指して言った。
「相当小さいころから修練したのかしら。そもそもあの歳ですでにいろいろな戦場を渡ってきたってのが……。何か抱えてそうね。あまり話してくれないけど。他の団員ともあまり話そうとしないの。でもアイクとだけは話すわ。むしろアイクにしか関心がないみたい」
心配気な表情でティアマトはそう漏らした。
「まあ、必要事項の受け応えや連絡などはしっかりしてるからな。問題はないが」
グレイルはそう返す。
「驚くほど知識が豊富なんだ。知識欲も旺盛だ。思考力もかなり優れている。あれでいて結構度胸もあるぞ。兵法など学ばせると思いもよらない策を生むようになるかもしれん。うちのようなところだとあまり経験を積ませられぬかもしれんな。しばらくしたら手配してみよう」
ティアマトはグレイルのその言葉に目を見開く。
「……そんな、大掛かりな仕事が将来的にあるというの?」
グレイルはその問いに一瞬眉を歪ませた。
「本人はアイクの役に立ちたい、と言っている。ならばそれに見合うだけの力を付けさせてやろう」
その答えにティアマトは静かに頷いた。
「あれは必死に生きているんだ。殻を被りつつもな。アイクの奴と一緒に大きくなるといい」
そう語るグレイルの目は優しげだった。ティアマトは胸の奥が燻られるような想いを抱いた。
もうすぐ日も暮れようというころだった。
砦の裏手では穴を掘るアイクの姿があった。
「僕も手伝います」
「いや、いい」
セネリオがその手伝いを申し出るもアイクは断った。しかし、セネリオはそれを聞かず、アイクが掘っているところを手でさらい始めた。爪の間に土が入ろうが厭わない。それを見てアイクは彼の手を止めさせ、鉄具をもう一つ持ってきた。そしてそれを彼に渡す。
そうして二人がかりで大きな穴を掘ると、そこに狼の親子の亡骸を安置した。そして静かに土を被せていく。
完全に埋葬が済むと、アイクは膝を折りそこをじっと見つめ佇んだ。セネリオも同様にアイクの傍へ寄る。
「すまんな」
ぽつりとアイクが呟く。
「え?」
「おまえに、殺させてしまった」
その蒼い瞳を伏せて呟く。
「無駄に命を奪った」
そして胸の前で拳を握る。その顔は天候に例えると今にも雨が降り出しそうな。
「いいえ、いいえ。あなたが生きているのです。僕はあなたがいなくなるほうが悲しいです」
「そうか」
セネリオの訴えにアイクは短く相槌を打った。
「親父が言ってた。戦場で生き残るために他人の命を奪うこともあると。そして首を捕るのが任務だということもあると」
そう言い、アイクはセネリオを強く見つめる。
「俺は、傭兵になるんだ」
そして立ち上がる。
「もし、生きるか死ぬかの戦場に立つことがあれば……俺は前に立つ。皆を死なせないように。だから強くなる」
そんなアイクをセネリオは息を飲んで見上げた。
「セネリオ、おまえは俺の傍に立ってくれるか?」
答えは決まっている。
「はい」
手が差し出される。
「おまえも死ぬんじゃ、ないぞ」
その手を取る。少しざらつく皮膚の感触。
そしてセネリオはもう片方の手を差し出しアイクの頬を拭った。その手に濡れた感触。
──笑って、笑って
拭われた頬を触り、アイクは口角を上げた。
(よかった)
セネリオも笑む。そしてそのまま膝を着いて倒れ込んだ。
「おいっ、セネリオっ! どうしたっ!」
気を失ったセネリオは自室へ運ばれていった。あとでそれは魔力が暴走して体力が奪われたからだと説明した。
魔道書を介さず魔力を解放したため、制御がままならずその身を蝕んだという。賢者の家の白骨もそれが祟った故だと後に彼は推測した。
寝台で寝息を立てる彼は安らかな顔をしていた。
アイクの初陣はそれから数年後だった。
まずは近郊の村からの依頼をこなす。山賊団の退治だった。それからミストらが山賊団に誘拐された。留守にしていた団長の指示を待たず、アイクが独断で救出へ向かった。団員らの機転もありそれは無事に終える。
その後、アイクは慌ただしく実戦を経験していくことになる。振り返る間もなく。
そして他の傭兵団で修練を積んできたセネリオが戻り合流した。
グレイル傭兵団は当初と変わらず、周辺警護など近隣の依頼を安値で請けるという運営を続けてきた。本格的な戦場での仕事は殆どなかった。セネリオに軍師の才を見出だしたグレイルは手配をし、もっと血気盛んな傭兵団へ彼を軍師見習いとして派遣した。セネリオはグレイルに兵法の基礎は叩き込まれたが、あとは経験が必要な段階だった。
それは二、三年必要だと言われたとき、セネリオは一瞬躊躇したが、必要になるときが来る、とグレイルに強く言われた。これまでのグレイル傭兵団の仕事内容や理念からすると、そこまで本格的な軍用の知識が必要か疑問であったが、その様子から何かを予感した。それに、身についた能力がもっと伸ばせるという学習欲も手伝った。
アイクの姿を見られなくなる──
それだけが唯一の心残りだったが、今度は必ず再会出来るという保証があった。それに、彼が強く送り出してくれた。そしてグレイルの
「アイクの役に立ちたいのだろう」
という言葉によりその一歩を踏み出した。
久しぶりに見たアイクのその風貌はまた記憶の中の彼から更新される。背が伸びていた。出立前もすでにセネリオの背より頭から鼻までの長さ分高かった。そして今は頭から口までの長さ分まで伸びていた。頭一つ分の差になるのはそう遠い日ではないだろう。また、胸板も厚みを増していた。腕の筋も際立ってきている。少し汗の匂いもする。この時期特有の色を持つ。
まだ他の成人団員と比べると細身だが、確実に男になっていた。
そしてセネリオは、敵対した将校などに子供だと言われるのは慣れていたが、変わらぬ自分に不安を強めた。年の頃はアイクより上のはずだ。それなのに背も伸びず、筋肉も発達しない。肉体の鍛錬は戦士ほどしていないし、幼い頃の栄養状態が祟っているのと遺伝上だと思っていたが、さすがに疑問が浮かんでくる。
それでも、砦を追われることになり矢継ぎ早に様々な問題が押し寄せてきて、考える間もなかった。
何故、砦を追われることになったか。
セネリオは一度、それを阻止しようとした。しかしアイクはまたしても手を差し延べる。そうなることとは思ったが。
ここクリミア王国は主に文官が地位を得ていた国。国王は賢王と讃えられ、安定した政を敷いていた。しかし、あるとき宣戦布告もなしに軍事国家であるデイン王国が武力攻勢を開始した。国王は戦死し、王都を奪われ、王国は壊滅した。デインに制圧されたのである。
デインによるクリミア侵攻が行われ戦争が勃発したという情報をセネリオがいち早く持ち帰ってきたのだ。グレイル傭兵団は状況把握のため王都メリオルへ入った。
そんな折、デイン軍に遭遇したアイクらは問答無用で処罰の対象となった。それを回避するべく戦闘した。
戦闘後、アイクがクリミア王女と名乗る者を保護した。
彼女がデインの追跡から逃れようとしていたところ、アイクらは邂逅したのである。クリミアに姫がいるという話は公になっていなかった。彼女の話に拠ると、王弟への継承権が確定した後生まれた彼女は継承権争いを避けるため隠された存在であったという。民衆の間には知れ渡っておらず、緊急時のため各王国の王族のみに存在を知らされていたという。彼女がクリミア王女であるという確証はなかったが、こうしてデインから追跡を受けて襲撃を受けていたのがそれと確証を得る材料となった。
グレイルはクリミア王女エリンシアの身を引き受けた。そして彼女より依頼を請ける。彼女を無事に隣国ガリアまで送り届けること。クリミアはガリアと親交を重ね王族間での関係は良好だった。そこへ亡命を図ろうというのだ。
グレイルは団員に問うた。
この姫を保護し、祖国クリミアのために尽力するかということを。義はクリミアにある、というのはティアマトの意見だった。今後の信用問題にも関わるといい。概ね団員らは姫を保護しガリアまで送り届けクリミアに益するという意見だった。
「傭兵というものは利によって動くもの」
そんな中、そう述べデインへ姫を引き渡し、安全に益を得ようという意見の者がいた。
「セネリオのガキは気に食わねえががそっちに賛成」
その意見に賛同する者がいた。
それらはセネリオとシノンであった。一瞬睨み合いながらも妙な連帯が生まれた。
──義か、利か、その選択。
しかし、そのどちらでもない、必然という状況が彼らを押し流していく。砦がデイン軍に包囲された。どのみち脱するより道はないのである。
砦を追われた彼らは必死に歩みを進める。
──ガリアへ
セネリオは走馬灯のようにこれまでの道筋を思い浮かべた。また、あの地へ足を踏み入れようとは。忌まわしき想いで埋められた記憶。
しかしそこは己が生きる糧を手にした場所。
その地へ足を踏み入れ、彼は思い出すだろうか、そう思った。
グレイル傭兵団はセネリオの策により分隊して別働隊が撹乱を図る一方で、本隊は非戦闘員を含めた人員が全速力で国境越えを図るという陽動作戦に出た。
予想より敵の数が多く、苦戦したが、アイク率いる本隊は無事にガリア国境入りした。しかし、別働隊は合流地点にいなかった。捜索にあたったところ、人影をメリテネ砦にて発見する。そこへ足を踏み入れ、デイン軍に察知された。窮地に立たされたというところだが、そこで別働隊と合流した。
デインの軍勢を征し、グレイルがデインの将校を抑えたところで圧倒的な数の増援が現れた。まさに万事休すだ。グレイルがそう漏らし、徹底抗戦の構えをとったところ、別の脅威によりデイン軍がたちまちのうちに退いていった。獰猛な獣がデイン軍を包囲する。デイン兵は恐れ戦き退却を始めた。
その先頭の一頭。青色の大猫。
「デイン兵に告ぐ! ただちにこの場から去れ! さもなくば、我がガリア軍が相手となるぞ!!」
そして宣戦布告。その青猫は姿を人型に変えてそう声を上げた。
(……半獣!)
セネリオの眉が吊り上った。そして脳内の記憶の断片が蘇ってくる。
「青い猫の兄ちゃんにも渡したけどありがとな、っていってたからきっとすきだぞ」
「あのな、その兄ちゃん、猫の耳としっぽがはえてるんだ。ぜんぶ猫になることもできるっていってた。みたことないけどすげえなっておもった」
いつかアイクが言ったその言葉。今でも鮮明に思い出せる。いったいガリア中にどれだけ青い毛並みの者がいるというのか。それでも強烈な印象を以って思い出された。
そしてセネリオはアイクの表情を伺い見た。ただ驚愕の表情を浮かべている。
「おまえは、ガリアの……半獣か…?」
アイクは青い猫の男にそう問うた。そして「半獣」という呼称は蔑称であると窘められていた。どうにも面識があるようには見えない。その男はガリアの戦士ライと名乗った。
ライによると「半獣」ではなく「ラグズ」だと。
──そんなことは知っている
セネリオは奥歯を噛んだ。
それでも、半獣は「半獣」なのだ。
アイクはすぐさま無知を詫び、訂正した。そうしてすぐにでも受け入れる。そうだ、そのやわらかい感性。セネリオは彼らしいと思った。しかし握った拳に力が篭る。
そして彼の記憶は本当に白いままなのだと感じた。
その背中が、少し遠かった。
自分がもし、彼を失ったらどうなってしまうのだろう、それは時折思う不安感。セネリオはそんな想いを重ね、雨の夜の悲劇に対面した。
自分に親はいない。何処かで生きていたとしても顔も名前も知らない。与えられたのはこの命のみ。産み落とされて放り出されて。だから自分を構成する要素に親という存在はなかった。名前すら与えられなかったのだから。呼ばれる名前すらなく。また、呼ぶ名前すら知らず。
──僕は、何?
「なあ、セネリオ」
そう呼ぶ声だけがこの世界を創った。
「はい、アイク」
そう返して世界を歩いた。
彼を創ったのは何か。
その源流がくずおれる姿を見た。
厳つく、猛々しく、優しいそれが──
先にガリア入りしたクリミア王女の要請により、ガリア王が派遣した獣牙兵によって危機を脱したグレイル傭兵団であった。デイン兵は戦意喪失した中、将校は抗戦の構えをとったが他の将校が現れ、それに諌められたのち退却した。それは漆黒の鎧をに纏った重厚な雰囲気を醸し出す騎士だった。グレイルはその漆黒の騎士を凝視し、しばし動きを止めた。何かを思索していたかのようだった。
ひとまず危機が去りゲバル城に駐留の際、アイクは寝付けない夜中、森の中へ消えた。その先には──闇。
轟々と音を立て降りしきる雨。
セネリオはその雨音で目を覚ました。どうやら途中で眠っていたらしい。書類を作成していたところだ。これまでの顛末を記録し、団長に提出しようとしていたものだ。それは軍師見習いとして派遣されていたころから行ってきたこと。
とうに燭台の炎も消えていた。ふと窓の外を伺い見る。そこには人影。遠目にぼやけてしか見えないが二人いるのを視認できる。夜襲かと思ったが数が少ない。密偵の類かと思った。咄嗟に魔道書を手元へ寄せる。短剣も脇に差した。そしてそのまま注視する。すぐに飛び出るのは得策ではないと判断した。
(……アイク?)
よく見慣れた背格好の者がいた。そしてそれは一回りは大きいであろう男を抱えて歩いている。その男は自力で歩けないようだ。
セネリオはすぐさま飛び出し、入口まで走った。念のため、行きざまに各人の部屋の扉を叩いていく。万が一敵襲であった場合、すぐさま対応できるように。
そして入口には彼が立っていた。
その瞳は何を映していたのだろうか。
何処にも焦点が合っていない瞳。
抱えてきた男は地に降ろされていた。そして立ち尽くす。雨に濡れ、茫然自失となったその姿。
「アイク、どうしましたか?」
セネリオはいつものように淡々と問うてみた。
「親父は、死んだ」
そう返ってきた。
すぐに脳がその情報を処理できない。
「ああ、まだ報告書を渡していないのですが」
口からついて出た言葉がそれだった。
「すまんな」
彼の口からはそんな返事が返ってくる。
そしてばたばたと音を立て、他団員が駆けてきた。このような状況下であるため、皆軽装ではあるが取り急ぎ武装して現れた。そして入口で足を止めるのだ。
「お兄ちゃん…?」
彼の妹が首を傾げながら眉を歪めてそう問う。そして彼の足元の遺体を目にした。
「いやあああああああ!!」
そこには血塗れの父の姿。ぴくりとも動かない。兄も血に塗れていた。
「……アイク?」
副長がそろりと歩みそう彼の名を呼ぶ。彼はそれに応えるかのように口端を少し上げて笑んだ。そして飛び出る者が一人。
「このクソが!!」
その男の拳が彼を叩き飛ばす。彼はそのまま濡れた地面に倒れる。そして男は馬乗りになり彼の襟元を掴む。
「てめえ団長をどうしたんだよ!」
彼は魚のようにぱくぱくと口を動かすが声は出ない。
「やめて! シノン! やめて」
副長が駆けてきてそれを止めようとする。そして他団員の男とともにその男を彼から引き離した。
「ああっ、あああ! お父さんっ…! お父さんっ!」
彼の妹の絶叫がこだまする。
「父さんはようへいっていうのをやってるぞ。おれも父さんみたいになるんだ。だから剣のけいこをしてる」
遠く聞こえる声。それは記憶のかけら。
セネリオはようやく情報を処理した。これはおそらくグレイルがあのとき目線を交わしていた漆黒の騎士と何かあったのではと。アイクはその現場に居合わせて、ここまでグレイルを運んできたのだと。
「アイク、団長は襲撃に遭ったのですか」
セネリオは淡々としたトーンでそう問う。
「ああ。漆黒の騎士に。襲撃というより一騎打ちだ。親父は敗れた。何かの咆哮が聞こえた途端、それは退却した」
アイクもそう淡々と返した。
「てめえっ、てめえ…何淡々としてんだよ! 一体てめえは何してたんだ!」
感情を剥き出しに、シノンが声を荒げて吠える。
──この男は、
グレイルに恩義があると聞く。セネリオは伝え聞いた話を思い出す。あまり興味もなかったが、この団の参謀として働く以上、団員の素性は把握しておくべきということで情報の一つとして聞き入れた。
この男はグレイルがガリア方面へ遠征に行った際、連れて帰ってきたのだという。
男は、ある貴族が所望するラグズを捕獲するという仕事をしていた。しかし、ラグズの力は強大でままならなかった。仕事仲間たちは男を囮にして逃走したのである。男は獣牙兵に弄ばれるかのように痛めつけられた。そのまま殺されるのではと覚悟を決めたときにそれを制した者がいた。それはガリアに雇われていた傭兵という。その傭兵はラグズではなく、「人間」だった。
その人間の傭兵は男を庇った。そして自分の傭兵団へ誘いを掛けたのだ。
男は身寄りもなく天涯孤独の身だった。こうして幼い頃より死線を歩き、生き抜いてきた。そして最後の最後で惨めに囮となって嬲り殺されるところだったのである。
「クソッ…! 団長っ! 団長……っ!」
ぬかるむ地面を叩き、嘆くシノン。
それを赤い瞳で冷たく見つめるセネリオ。
この広い、世界の中、あなたしかいない、と──
あなたがいなくなれば、ただひとり。
「見苦しいですよ」
そしてそう呟く。
その場にいた誰もが凍り付く。一斉にセネリオへ視線が集中した。誰もがシノンがセネリオに殴り掛かると思った。しかし
「何とでも言え」
それだけを返される。雨に濡れてはっきりと判別できないが明らかに涙を流した顔。
そしてアイクは我関せずという感じで、すっと父の遺体の元へ寄る。
「誰か運ぶのを手伝ってくれ」
それだけを呼び掛けた。
城内へ父を運び入れた彼は端から見れば感情を無くしてしまったかのように見えただろう。
極めて事務的なその所作。
静かに音を立て、父の甲冑を外していく。そして衣服を解き副長に用意させた湯でその体を清めた。
団員たちはそんな彼の背を遠目に見つめていた。
妹は副長の傍で泣き続けていた。未だ錯乱状態だった。
そんな中、彼は父の貫かれた胴に包帯を巻き処置をした。血液はすでに凝固していた。僅かにしか染みず。そして清潔な衣服を着せていく。
「ミスト」
彼はそう妹を呼んだ。寝台へ横たわる父の元へ招く。
「親父の傍にいてやれ」
そう言い、妹の肩を叩いて促した。妹は頷き父の顔に触れ見つめ、そのまま佇んだ。副長もその傍に寄り「大丈夫?」と聞き、頷くのを確認して離れた。そして彼がその場から離れるのを見た。
「アイク、どこへ行くの?」
「ちょっとな」
そう言い彼はすっと退室していった。
セネリオはその背を片時も離さず見つめていた。そしてそれを追う。
アイクは森の奥へ歩いていく。それは彼が父を運んできた方角だ。セネリオは息を潜めて彼に気付かれないように注意を払いながら追っていく。
雨は弱まっていた。それでもぬかるむ地面が足取りを重くする。心まで押し潰すよう。その背中は泣いているのだろうか、どうか。
そして開けた場所へ出た。
アイクはしばし立ち尽くす。天を仰ぎ、何かを想うような佇まいで。それがとても長い時間のように思えた。気付けば雨が上がっていた。セネリオはふと彼の頭上を見上げる。月が居た。その光が彼を包むようで。
あなたは、強いひと?
絶望を伺わせない。そんな強い光。
きらりと光る。それは金色の刀身。
アイクは地に落ちていた何かを拾い上げた。そしてそれを握り、掲げ、構える。それは金色の刀身を持つ大剣だった。
振り下ろすことはしなかった。そのまま静かに下げ、地面に挿した。その柄に両手を置き、頭を垂れ、動かない。
一体、それが何を意味するかセネリオは分かりかねたが、胸が詰まるような想いは感じた。
笑って、なんて言えない
彼の妹が泣き叫ぶ声、赤毛の男が嗚咽する姿、団員たちの悲しげな顔、思い出されるは悲痛な想い。
(アイク、あなたは泣かないのですか)
頭を垂れている彼に心の中で問う。
そして幼い頃、惨劇の集落で彼を見失ったときの激情を思い出す。あのとき己は、泣いただろうか? セネリオはそう思った。
悲しくないはずがない
野の獣の死すら悼む、そんな彼が。
食用の鶏の命の重ささえ真摯に受ける彼が。
獣を弔ったときの涙は己が掬った。
もし、それで涙と決別したならば──
アイクの顔が上がった。そして剣が引き抜かれ、手に握られる。そのまま少し歩み、もう一つ地に落ちている何かを拾い上げる。それは彼の父が愛用していた得物の戦斧だった。それも手にし、引きずりながら戻り始める。
セネリオは思わず手を貸しに行こうとしたが、自分がそのような重い武器を抱えるのは物理的に無理だと思い、留まった。それに、これは彼の儀式。手出しは無用。戻るまでの道すがら、彼はきっと心を決めるのだと。
夜が明け、事後処理を済ませたり、今後の方針などについて話し合われたあと、グレイルの埋葬が行われた。
現在、亡命中の身。祖国へ戻り棺桶を用意する余裕もなかった。現在駐留中のガリア領内ゲバル城付近に埋葬される。
「ミストは花を摘んでくれ」
アイクはそうミストに指示した。
「わかった。きれいなお花、摘んでくるね」
季節は春から初夏へ移り変わろうという境。ガリアでしか見られない蒼い花を摘む。
鼻腔をくすぐるこの香りはセネリオの脳裏にある記憶を蘇らせる。そうだ、ここから世界に色がついたのだと。
「何か、なつかしい匂いがするの」
ミストが花の香を嗅ぐ。
「覚えてないかしら? あなたのお母さんが好きな花の匂いだったわ。お父さんはこの花の香水をお母さんに贈ったのよ」
優しくティアマトがそう言った。
「そうなの。わたし、きっと小さすぎて覚えてないのかな。お父さん…そんなことしてたんだ。意外」
兄も受け継いだ父の朴念仁ぶりからは想像できないとミストはそう漏らした。
「ふふ、本当は人の勧めで渡したのよ」
「そうなの? なるほど!」
そう相槌を打ち、明るく笑ったミストの顔を見てティアマトは安堵の表情を見せた。
「……お父さん、お母さんのにおいを嗅いでくれるといいな。向こうで一緒に仲良くしているといいな」
そう言い、ミストは優しい顔で蒼い花を摘んでいく。
「お母さん、お父さんのこと、よろしくね」
その言葉を聞いてティアマトは目を閉じ目頭を押さえた。
彼には母もいた、確かに
セネリオは蘇る記憶と二人のやりとりを見て、それを実感した。己の飢えをひととき満たしたのは彼の母の味なのだから。そこで気付いた。今の今まで再会したときに彼の母がすでにいなかったことに思い至らなかったのだ。
そして、そうして形作られたのが彼なのだと、そう思った。
親というものがどれだけ自己を形成するのに確かな要素なのだろうと。
己が縋るのはその背中のみ。
強固なものか砂のように脆いのか、わからない。
壊れるのが怖かった。
(アイク)
胸の内で呼んだ。
彼は鉄具を持って歩いていく。セネリオはすぐさまそれを察知して自分も鉄具を手にして彼を追った。
「僕も手伝います」
「ああ、すまんな。頼む」
すんなりと受け入れられた。それが嬉しかった。セネリオは力仕事は得意ではないなりに日常的な雑務には慣れていたので彼と二人で大きな穴を掘っていく。
それに、以前も彼と二人でこのように穴を掘ったことがあるのだ。
その悲しみを、分かち合えるなら──
そんな二人を団員たちは見守るのみだった。手出しはしない。それをひときわ神妙な顔で見つめていたのはシノンだった。
この手で葬送を行うこともできないなんて、と。
どれだけ目を掛けられようと、恩を受けようとも、思いを募らせようとも立ち入ることの許されない領域。自分は所詮、他人なのだと。
彼のことが憎かった。それは何故だろう、今さらながらに思った。
あの人の息子だ、ただそれだけ。
そうして悶々とこの光景を見つめている。彼とともに穴を掘る「参謀」も憎かった。この参謀はどれだけ彼の肩を持ち、後をついて回るのだろうかと。苛々が止まらない。思い出すのだ、恩人の背中を見つめる自分を。
「シノン」
声がする。その憎々しい声が。
気付けば穴の外にセネリオが出ており、穴の中にはアイクがいる、という状態になっていた。
「頼む」
それが何を意味するのかわかった。
「……なんでオレが」
そう返すと団員たちは一斉にシノンへ視線を集め、頷く。そしてそのひとの遺体が運ばれてきた。穴の側まで寄せられるとセネリオがそれを手で指し示す。
シノンはそれを受け、穴の中の彼にその躯を支え渡す。落とさぬように細心の注意を払い。その身は重かった。ずしりと感じる。思っていた通りの重みだった。しかし、冷たく固かった。喉の奥に込み上げてくるものを感じた。
そして土が被せられていく。最後に顔を。そして見えなくなった。
そのひとの得物であった戦斧が墓標として土の上に立てられると、そこに花が飾られた。そして団員の神官が追悼の句を述べた。そうして弔いが終わったのである。
団員たちはそのまま立ち去り、そのひとの子供たちだけそこへ立っていた。
兄が見守る中、静かに涙を流す妹。夕焼けが二人を包む。
それが別れ。
すでに涙と決別していた彼。
セネリオは「どうかあなたは壊れないでください」と願う。
それは、縋る背中を無くすのが怖いから。
ああ、なんて利己的なのだろう──
そんな己に嫌気が差すのとともに、それが自我なのだと思い、ほのかに熱を覚えた。
団長を失ったグレイル傭兵団は駐留中のゲバル城にてデイン軍に包囲された。ガリア領内であるのにも関わらず、追撃の手が緩むことがなかったのだ。
グレイル傭兵団はアイクを新団長に据えて、この包囲網を突破しようとしていた。
太い柱であり多大な戦闘力を持つグレイルを失い、他団員らも脱退したこの団は苦戦を強いられた。もとより圧倒的に質量で劣っている不利的状況だ。アイクは団長となるや窮地に立たされるのであった。
すでに、人を使うことは急ではあるが経験していた。生き急ぐようにそれをアイクへ教え伝えていったグレイル。まるで己の死期でも悟っていたかのよう。それはクリミア王女の依頼を請け、デイン軍に追われる身になってから顕著であった。初陣まではいつ実戦を経験させるのか分からなかったくらいなのに。
セネリオは、いつかグレイルにきっと役に立つ日が来ると言われ、兵法の修練のため他所へ派遣させられたことを思い出した。そしてこの団へ入団希望の際、グレイルと面談したときのことも思い出す。
「いいな、そういうことだ。君は賢いから……わかるな」
そう言い切られたときの違和感のようなもの。
明らかに何か秘められた事情があると、そう思った。
グレイルは何時も、先を見越して物事を進めている節があった。しかしそれが何であるか、何故であるかは言わない。そしてそれはアイクに掛かっている。
触れてはならない領域のように存在した何か。
これまで他所での雇用の際渡ってきた土地や、他所への派遣の際に訪れたクリミア王都で見た中で、アイクの髪と瞳の色と似た者は稀だったことに気付いた。顔立ちもアイクはクリミア人であまり見ない類だった。デインと交戦してから、デイン人の系統に近いことにも気付いた。
しかしそれは主観に拠るもので、何らかの確証を得る判断材料とはならない。
そう心の中で抱えているものが幾つもあるが、落ち着いて検証する間もない。目前の危機を乗り越えなくてはならない。
この団から脱退していったのはシノンとその舎弟ガトリーだった。グレイルの死を契機としたのだろう。シノンはアイクが団長になるのが気に入らないと漏らしていた。主張したところでどうにもならないと分かっているので自ら離れていったのだろう。そうして他団員の説得も虚しく二人は去っていった。ガトリーはシノンの後をついていったのだろうと。
いよいよデインの包囲網も差し迫り、覚悟を決めたところ現れたのはガリアの獣牙兵。今度は橙色の猫と青色の虎。またしても窮地を救われた。
化身を解いた猫の方は華奢に見える女だったが、高圧的な口調から軍人気質を見て取れた。虎の方はかなり大柄な男で片言だった。前に窮地を救われたライより癖を感じさせる面々だ。と、いうより本来のラグズの性質はこの二人のようなものが一般的だろう。
セネリオはアイクの傍に控えつつ、目線を感じた。額の印を一瞬、凝視されたような気がした。そして昔、ラグズの集落で感じたえもいわれぬ居心地の悪さを覚えた。存在を無いものとするような空気。そして己もその嫌悪を向こうへ向ける。それを向こうも感じたのかさらに空気が淀んだ気がした。
「人間」は「ベオク」という。
アイクが猫の女からそう教わった。すでにライからラグズという言葉は教わっていたが、それは初耳だったのだ。彼はすぐにそれを吸収する。
アイクは畏れもせずに真正面から彼らに向き合った。
男へは真摯に礼を述べる。
女からは素直に知識を受ける。
澄んだ蒼の瞳を見開いて、その世界を広げ。
まるで生まれたての赤子だ。それは裸の心。
猫の女はレテ、虎の男はモゥディという。レテはベオクにあまり良い感情を抱いていないようだ。ベオクによるラグズへの侵略の歴史の記憶が脈々と受け継がれてきたという。それを顕著に表に出すためことさらベオクに対して高圧的、攻撃的な態度になるようだ。もとより好戦的な気質のようではあるが。モゥディは争いごとを好まない穏やかな気質であるようだ。しかし、侵略の歴史の記憶は根付いているらしく、「半獣」と貶められれば怒りをあらわにする。
セネリオはそんな「半獣」の性質と歴史は書物で知識として識ってはいた。だからこそ──
(そんな、侵略の歴史など、何だと言うのか。半獣も人間も皆同じ。存在しないものとするか厄介者として扱うかの違い)
渦巻く心の闇。
(被害者意識も甚だしい。虐げられた歴史は事実でも、実害を被ったのは己自身なのか?)
そう心の中で問う。そんな中、アイクがレテに無知を詰られたように聞こえた。
(アイクが一体何をしたというのか。その高圧的な態度も全て受け入れて歩み寄っているというのに……!)
アイクの傍から半歩下がり控えていたセネリオだったが、じりと前へ足を踏み出し口を開く。
「で? そういう恨み言を聞かせるために来たんですか?」
一度口火を切ると止まらない。矢継ぎ早に「半獣」を罵倒する言葉が吐き出されていく。
──特別、それが獣だからといって嫌いなわけではなかった
その被害者意識が疎ましい。
主を貶められるのが腹立たしい。
そもそも、この世界は彼と己で構成されているのだと。その世界を傷付けるなどと許されない。
獣であろうがなかろうが、同じ。
セネリオはそう心の中に渦巻く想いを盾に牙を剥いた。もし、獣であればそれは唸りを上げ、全身の毛を逆立てるかのように。
「ハ、ハ、半獣……敵……コいつ、敵」
セネリオの剥いた牙は獣牙の男をいきり立たせる。そして男は獰猛な虎に化身した。先程まで、アイクと穏やかに接していたのが嘘かのようだ。そしてその爪がセネリオに向けて振りかざされる。
「……!」
しかし、その爪の斬撃はアイクが受けた。
「やめろ! セネリオ!!」
それは獣牙兵を罵ったセネリオへの言葉だった。アイクのその形相は眉が釣り上がり眉間に皺が寄り、憤怒のものだった。
反射的に魔道書を手にし攻撃の構えをとっていたセネリオはその制止の声と形相に背を凍らせた。
見たことのない形相だった。
そしてそれは己に向けられている──
セネリオはアイクが団長になろうというときに聞いた。
「あなたの傭兵団に…僕の居場所はありますか?」
と。前団長が没し、完全に彼の一存で団の有りようが決まる。彼のためにこの傭兵団へ身を窶してはいるが、セネリオの雇用を決定したのは前団長だった。これからは、本当に彼がいなければ、彼が己を受け入れなければ生きていけないとセネリオは思った。
ある意味、それは恐怖だった。
彼がいなくなれば、彼が己を拒絶したら──
世界の終わり。
そして今、こうして向けられる憤怒の形相。
彼は無愛想ではあるが、こう怒りをあらわにした表情はそう見たことはない。
理性では分かる。それはラグズへの侮蔑を行った言動そのものを咎めているのだと。彼の正義に反することなのだ。
しかし、セネリオはこの世の終わりかと思うほどに畏縮した。
──それは、拒絶
それを思わせる感覚。
そして後悔の波が押し寄せる。
幾ら彼を詰ったことを許せなくとも、半獣の思い上がりが疎ましく思えようとも、そんな言動を取れば諍いが起きるのは当然だ。そしてそれは彼に火の粉として降り掛かる。参謀としても失格である。
アイクの腕から流れる血を見てセネリオは絶望感に襲われた。
(ああ、駄目だ、駄目だ、僕は、解雇? 不要?)
血の気が引いていく。
しかし、それとは裏腹に口は動く。溺れ、もがくように。
「どうして止めるんですか!? こいつは、あなたを傷つけた! 許すわけにはいかな……」
必死に捲くし立てて己を正当化しようとするセネリオ。彼は、傍から見ればそれは哀れな行為に見えただろうかと思った。軽い錯乱状態である。
そんなセネリオに対し、アイクは静かに息を吐き諭すように言う。
「おまえが挑発しなければ、こうはならなかった。違うか?」
もう、憤怒の形相はそこになかった。少し首が傾げられ、その瞳がじっと見つめてくる。まるで幼子に語りかけるように。
セネリオの背にかっと熱いものが走る。
それは正論過ぎる正論。自尊心などもろくも取り払われてしまう。
そして、眩しすぎて見えなくなった。その光。
彼は優しかった。包み込まれるような優しさ。
そしてあまりにも己は醜い、セネリオはそう思った。
彼が獣牙兵に謝罪する言葉が聞こえる。己を許してやってほしいと嘆願する言葉も聞こえる。それ即ち、己も赦されているということだ。
「…変なやつだな。俺はいつでも、おまえを頼りにしている。これからも助けてくれるんだろ? セネリオ」
それが、己の居場所を訊ねた際の彼の答えだった。
世界はまだ終わらない。
これで本当に彼の記憶は完全に失われているのだと確信した。
ガリアの獅子王に謁見し、王よりアイクら兄妹がガリア出身であることを聞かされた。アイクは全く覚えがないという。
そうだ、「ラグズ」という呼称も知らなければ「半獣」も見たことがなかったというのだから。
セネリオはティアマトとともに謁見の際同席した。同席するよう指示されたことをひそかに嬉しく思ったが、居心地の良いものではなかった。ぴりぴりとした気を感じるのだ。城下町を通ったときもあからさまに嫌悪の意を向けられ避けられる雰囲気を感じた。城内ではそう露骨な態度は取られなかったが、警戒心が増して感じられた。王宮にいるのは戦士としても臣としても上位の者だからであろう。
それは「ニンゲン」に向けられる嫌悪なのかそれとも。
または、この気を感じるのは自分だけなのだろうかとセネリオは思った。アイクの様子は性格上かいつもと変わらず。ティアマトは昔、クリミアへ仕えていた頃、ここに交換士官として滞在していたというからこの空気には馴染みがあるのか、特に緊張している様子もなく。ラグズ側も馴染みがあるのか。ガリア王とも馴染みという。
セネリオはガリア王の指を見た。確かに、太く大きい。子供の指なら三本分あろうか。そしてアイクの指を見る。
記憶の中の彼が獅子王の指の太さをその小さな指で訴えている。勿論、そんなことを今彼に言おうとも覚えがないと言うだろう。あの思い出は封印するべきか。彼の傷口をわざわざ開くことになるかもしれない。この清々しいまでの記憶のなさが傷の深さを物語っているといえようか。
この、半獣の国では「人間」が居心地の悪い思いをする。幾らガリア王が親ベオクであり国家単位でクリミアと友好関係を結ぼうとも、国民感情はそうもいかないようだ。特に老臣はベオクによる隷属の記憶を直に残しているという。
国としてクリミア王女エリンシアを保護するのは困難であるとガリア王は告げた。宗主国であるベグニオンへ助力を要請するのが道だとそう示した。アイクらグレイル傭兵団に対しては土地と住居を与え、そこで暮らすよう勧めたが、アイクはそれを受けることはなかった。
そしてグレイル傭兵団は、再びエリンシアに雇用されるという形で護衛としてベグニオンへ向かうのである。
ベグニオンへは一度クリミアへ戻り、港町トハから航路で向かう必要があった。デイン兵が待ち構えているだろうことは承知の上だった。
そして、そこではまた「半獣」は侮蔑の対象であった。
フードを深く被った獣牙の男が街先案内人となる。そのフードの下には青い獣耳と尻尾が隠されている。
この街はまだデインの侵攻を目の当たりにしていないためか、危機感が感じられない。いたって平和な雰囲気だ。戦争勃発へ対する意識は、対岸の火事といったところだろうか。
セネリオはこの雰囲気が堪え難いと思った。
住民の危機感のなさもさることながら、平和に慣らされ他の不幸を省みない鈍感さ。他人事なのだ。いっそ、デイン兵に痛めつけられればどうかと思った。そんなことを冷徹な口調で吐いた。
そして、物見遊山的に辺りを見回し、民がこうして生活を営んでいるということを今まで知らなかったと言うクリミアの姫にもいらつきを覚えた。
生まれは、選べない──
それは分かっている。
定められた場に生まれ落ちればその道を歩みゆくほかない。
ふと、獣牙の男と目が合った。セネリオの毒舌を真実だといい、面白いという。この男はラグズの中で珍しく、親ベオクだ。その信条ゆえか、性格によるものか、人当たりが良かった。セネリオへ向ける視線も嫌悪を含んではおらず。しかし、何かを探るような。
飄々としたその立ち振る舞いに何か裏があるのか、ともセネリオは思った。アイクは全面的にこの男へ信頼を寄せているようだ。それがまた気に入らない。
先程からのセネリオの様子を見てアイクも少し様子が違っていると思った。そして、獣牙の男ライは彼が神経を逆立てている要因に心当たりがあるといった意味の独り言を漏らした。
「アイク、あの参謀殿の額の印は精霊の護符だって言ったよな?」
「ああ、そう聞いている。俺は魔道のことはよくわからんが、あいつはそれで小さな頃から戦場にも出るほど魔力があるっていうしな」
そんなやりとりも耳にした。一体その意図は何か。セネリオはそれに対してまたいらつきを募らせた。そして手首の印を無意識に押さえ、隠す。
「なんだ?」
「いや、何でも」
アイクがライの唐突な問いに対しそう疑問を口にしたが、ライはさらりと流した。
「生まれに恵まれなかった者からすれば、恵まれた者が、そのことに気付くことなく生きていくことこそが妬ましいか」
それがライの独り言だった。
フードの中の獣耳がぴくりと揺れる。
そしてそれは、些細な出来事から展開していく──
物資の調達中、デイン軍に町を封鎖された。したがって、隠密に行動し港へ辿り着かなくてはならなくなった。そんな中、ライに町民の女がぶつかり、フードが外れた、その獣耳があらわになった。それを見た女は畏れおののき声を上げた。そしてたちまちのうちに周辺の町民が集まってくる。
その視線──畏れ、不快感、嫌悪
得体の知れないもの、排除すべきもの、異形のもの。
それを「半獣」といい、声を荒げて退けようとする。町民らは集団でライへ暴行を加え始めた。
ライは化身せずそれを黙って受けている。化身すればデイン兵を退けたその戦闘力でたやすく反撃可能であろうが、そのそぶりはない。無抵抗である。
セネリオは胸の奥から込み上げてくるものを感じた。
──どうして? 僕は、何もしていない──
ただ、生きようとしていただけなのに。
生まれてきて、ごめんなさい。
記憶を遡る。
賢者の家から発ち、ひとりさまよい飢え、それを満たそうと残飯を漁ったこと。それは犬の餌だった。そしてそれを見た周辺の子供が囲い、詰る。
さらに遡る。
彼を育てた女が物も言えない彼を殴る、蹴る。理由はない。あるとしても食事を床に食べこぼしたなどという些細な理由。そして言葉の暴力も浴びせる。
「何で私があんたなんか育てなきゃならないのよ!」
「あんたなんか生まれてこなきゃよかったのに」
ああ、そうだ。
生まれは選べない。
セネリオはじっとライの姿を見つめた。
その耳、揺れる尻尾。それがあるだけで。そうやって痛めつけられる。なんという理不尽。
ライに対して特別情を抱いているわけではなかった。ましてや、ラグズへの庇護心などない。その事象自体に憤りを覚えるだけで。
むしろ、この場は騒ぎを立てず、立ち去り、速やかに港へ向かうべきだ。「半獣」が現れたということでこの街に駐留するデイン軍が駆け付けるだろう。実際、この渦中の町民でデイン兵へ報告するべきだと言う者がいる。
目的遂行のためにはあの獣牙兵を置き去りに、速やかへ港へ移動。すでに手配は済んでいるというから、船に乗り込みさえすればいい。ライを置き去りにしたところで咎める者はいない。むしろ、これはガリア兵としてのライの任務のうちである。同じガリア兵のレテとモゥディもそれが任務だ、彼は頑強であるから大丈夫だといい先へ進むよう促す。
「アイク、あの者はそれが任務です。先へ進むのです!」
そう声を発すのが普段の己だった。それが己の参謀としての役目。セネリオは重い口を開こうとしたが声が出ない。思わず喉元を押さえ、咳払いをした。全身の震えが止まらない。ふるふると首を横に振る。噴き出してきた記憶が点滅しては繰り返し頭の奥で光る。
タスケテ、タスケテ……!
意識の闇の中でもがいた。
そして。
「やめろ!」
光が射した。
それは天恵。救いの声。差し出された手。
アイクがそう声を荒げて前に出て、ライを庇う。その眼は鋭く、無抵抗の者へ暴行を加える輩を射ぬくような。
ああ、そうなのだ、彼は──
馬鹿と言われようとも、行くだろう。
あの赤毛の男が居ればきっと詰るだろう。
「何やってんだこの馬鹿が! デインの奴らに気付かれるだろうが!」
と。
案の定、騒ぎが大きくなってきた。
半獣を庇う者など敵国へ引き渡し、処分させよと。同じ「人間」であるデイン兵へ引き渡した方が身の安全は保障されるという目論見らしい。
「あーあ、戻ってきちまったか…。どうして戻ってくるかなぁ…おまえは」
地に転がっていたライは半分呆れたような、半分喜びを湛えたような顔でアイクへそう言い放った。そしてアイクは険しい顔のままじっとライを見つめ、手を差し出した。それを握り、立ち上がるライ。
それから、デインの猛攻をかわし、辛くも脱することができたのだ。ライは港に残り、船を追うデイン軍を威嚇していた。
船上から遠く、見えなくなるまでセネリオはトハの街を見つめていた。あの一部始終を眺めていることしかできなかった彼は胸の内に様々な想いを去来させた。
すべては、平等に──
薄汚れた得体の知れないであろう己を詰ることも嫌悪することもなく施しを、救いの手を差し延べた、かの人。
傷付いた野の獣への施し、いたわり。
そしてままならなかったことへの謝罪。
食肉とした鶏にすら。
そして種族の違う者への差別への怒り。
(あなたは誰にでも、何にでも、平等)
その光は己だけに射しているわけではなかった。
セネリオは護身用の短剣に無意識に触れる。
二人だけの世界、それはどれだけ素晴らしい世界なのだろうか。
彼は口許を歪めて笑んだ。
祖国愛などあっただろうか?
騎士ならばそれに殉じるのは至高のことだろうが。
傭兵は利で動く。
深草色の軍装を纏い、緋色の裏地が鮮やかな浅葱色の外套を靡かせ、勇壮なる装いの将軍がいた。額の帯布の端が宙に舞う。
「アイク将軍、全軍準備完了致しました」
「了解。速やかに、領主館まで。遅れをとるな」
「はっ!」
そして総指揮者である彼は号令を掛け、全軍出撃の蓋を切った。
アイクは今、まさにデインクリミア間の国境を越えるべく通過地点に入っていた。ダルレカ地方の通過である。
──事態はかなり大掛かりなこととなっていた。
トハを発ったグレイル傭兵団一行は、無事に宗主国ベグニオンへ到達した。エリンシアをそこへ送り届けるという任務は終了したのである。
エリンシアがベグニオンの社交界で揉まれている間、傭兵団はベグニオン皇帝である神使サナキより直接依頼を請け、任務をこなしていた。それはベグニオンの贖罪に関わるものであった。それを解決したことにより、アイクは神使のみならず、鳥翼族であるフェニキス王の信頼をも得た。
そして、クリミア奪還のためベグニオンが兵を貸し与えることとなった。これまで雇い入れた者、捕虜収容所から救出した者などを合わせ、本格的な軍隊として形成される。クリミア解放軍の誕生である。
その総指揮者には、これまで核となってきた傭兵団の長が任命された。
つまりはアイクが総指揮者となったのだ。
体裁を重んじるベグニオンから兵を貸与されるとあって、一定の地位が必要となった。アイクは一度断ったが、そのような理由から爵位を受けたのである。
そうして、大陸全土へ影響を及ぼす大規模な戦争へと発展していった。小さな傭兵団の若き長は、経験が浅いながらも大規模戦争の象徴として祭り上げられていく。一年にも満たない間での出来事であった。
そうして将軍となった彼だが、そのこころは傭兵と同じ。常に前線で剣を振るい、道を開いてきた。まさに、猛進といっていい勢いだった。次々とデインの迎撃点を突破していく。
それは、精鋭揃いであるのと、その連携が巧みであることからの結果。
将が前線に出るなど、貴族階級出身であれば普通ではないのだが、彼は市井の出身かつ傭兵なのだ。危険ではあるが、士気が高まるという効果がある。時流のようなものに乗ったと思わせる求心力があった。
将の性格がそう直線的であるという評であったが、参謀が冷徹に策を巡らせ、均衡が取れていた。
そして、いよいよデイン王都到達という段階に入った。その手前まで到達していた。
そこは、フィザット家が統轄するダルレカだった。領主シハラムは民の信望が厚く、よき領主としてこの地を統治していた。そのような話を聞くに、無血で解決できないかと、使者を出しこの地を通行させるよう交渉したが、決裂した。
セネリオは淡々と対抗策をアイクへ述べていく。そして彼の眉間の皺がずっと消えないままであることに気付いた。爵位を受けてからずっと緊張した面持ちであるとは思っていた。
この地に着く前にデインの隊を壊滅させていた。そのとき発見した金を軍資金として懐に入れた際、彼は個人的にそこから大金を借用した。
特にその後、彼の面持ちの険しさが増したような気がした。
「血を流さずにして、進めないということか……」
ふとアイクの口から零れた呟き。そして彼は高台にある領主館を見つめた。
「フィザット隊は決死の覚悟で抗戦してくるはずです。他に道がないのですから。断固、我々の通過を阻止せねば明日はない。逃げることもできないのです」
セネリオは感情を伺わせない声でそう言い放った。
「エリンシアはなるべく、血を流さず解決できたら、と言っていたがな。雇用主の意向には沿いたいものだが、交渉が決裂してしまった以上仕方がない」
遠い目をしながらアイクはそう返した。
彼の口から出たそのクリミア王女の名を耳にしてセネリオは憤りを覚えた。
(あの女は、アイクに全てを負わせる)
奥歯をぎり、と噛む。
おおよそ世間知らずの姫君の言いそうなことだ。
そもそも、こうして軍隊を歩ませているというだけでその道には血が流れゆくというのに。
「はは、ちょっと通らせてくれ、っていうわけにはいかないんだな。食うか食われるか……だな」
ほのかに諦念を含み自嘲めいた笑みを漏らし、アイクは剣を鞘から抜き、領主館を指した。
「俺は傭兵。依頼主の要望には誠実に応える。クリミア奪還、それが使命。そのためにはここ、ダルレカの通過は必須」
凛々しい双眸を向け、勇ましく、そう宣言するアイク。
「はい。大義のために犠牲にしなければならないものがあります。フィザット卿との対戦は避けられません。それ即ち将である卿の首を捕るということ」
セネリオはそう淀みなく言葉を返した。そしてアイクの表情を伺い見る。それは恐ろしいまでに清々しい表情だった。
「……ときに、我が軍にはフィザット家の者が所属しておりますが」
「…ジルか。そうだな」
トハに駐留していたデイン軍所属の竜騎士の女だった。渡航中の傭兵団を単独で追い、手柄を上げようとしていた。しかし、傭兵団が鳥翼の国であるキルヴァスの襲撃を受けているのを目撃し、加勢に来た。彼女はラグズへの偏見が最も根強いデインの出身だ。徹底した反ラグズの教育を受けている。例え、クリミアの者であってもベオクがラグズに害されていることは許し難かった。
しかし、クリミア戦疫の事情をこの団より伝え聞き、デインの行いが正しいことであるか疑問を抱いたという。アイクはこの団に所属することを許可した。道中、その目で何が正しいか見極めよと。
「監視の目は付けております。あの者を人質とすることもできますが」
セネリオは冷徹にそう助言する。それを受けてアイクは表情を変えず、セネリオを凝視した。
「おまえらしいな」
ただその一言を返す。否定もせず肯定もせず。
「ジル・フィザットはシハラム卿の娘。この上ない交渉材料です。髪を切り落とし、使者に送らせれば証明となりましょう」
──家族の絆
セネリオは思い出す。
父を失い泣き叫ぶミストの姿。娘に優しい眼差しを向けるグレイル。その情愛は己に蓄積されていない情報。それをあの父娘の絆を目にし情報のひとつとして補完していた。
その情報を引き出し、策の材料とする。
「……セネリオ。ジルは己の意志で今までこの軍に留まっている。ということは未だデインの体制に疑問を抱いているということだろう」
毅然とした口調で述べていくアイク。
「この機会がそれを見極める試金石とならないか?」
少し上がるその口角。
「……シハラム卿は俺が討つ」
彼のその言葉にセネリオは息を飲んだ。
「それを告げた上でジル自身に身の振り方を決めてもらおうか。それが、自由だ」
セネリオはすっと背を寒くした。彼のその瞳の蒼が恐ろしく冷たく見えたのだ。
「……あ…っ、アイクっ、それはっ」
どくどくと心音が鳴る。セネリオは焦燥感を感じ、吃音が表れた。
「いけません、いけません…っ、僕が、討ちますっ」
もがくようにそう訴えるセネリオ。
──どうか、壊れないで
その冷たい蒼が怖かった。
「竜騎士は風魔法と弓に弱い。最終的に弓隊で囲いこむような配置へ持っていき、僕も接近できる布陣を考えます……! だから」
戦略を訴え、彼の言葉を撤回させようとした。
「……おまえには、させない。俺が責を負えばいい。それは長と名のつく者がすること」
セネリオは見上げ、その顔を見つめた。ああ、また背が伸びたのかと思った。
「……俺はもし、親父と正義を違えたら、剣を交えるだろう。その誇りを教えてくれたのは……親父だから」
冷たい蒼が色を戻した。その奥に眠る想い。
分かり得ない──
セネリオはアイクのその言葉に感嘆した。
親子の情、などこの世で一番不可解なもの。
「シハラム卿は、領土が荒れる覚悟であるというなら、どんなことがあっても覆らないだろう。領民の生活、信頼…それと自分の部下の命。それを天瓶に掛けるのか」
伏し目がちにアイクはそう言葉を紡ぐ。
「さらに自分の娘の命まで天瓶に掛けさせようなんて酷じゃないか?」
眉を歪め、その瞳で訴えるアイク。セネリオはその視線を受けて胸が詰まりそうになった。
そうだ、これが、彼の優しさ。
「何かを、選ばないとならないんだ」
それが責任。それが長と名がつく者の仕事。
「俺はエリンシアに雇われた。エリンシアはクリミアの民を想う。だからな」
セネリオはただじっと見つめ返した。
「……ナーシルに言われた。何が正義なのかってその立場ごとに違うって」
それは渡航を手助けした男の言葉だった。彼はそれを受けて自分の身を振り返る。
そんな彼の言葉を切々と受け止め、セネリオはかなわない、と思った。確かに、評通り直線的で未熟な傾向があると思う。それでも人を惹きつけてやまない。厳しくも優しい。そして誠実だ。
どんなに頭脳明晰であろうとも、学問に秀でても導き出せない答えがある。それを彼は本能で導き出すのだ。それこそが将の器。その背が彼の父のものへ近づいているのを感じる。
全身を彼に向けて寄り掛かりたい衝動に駆られる。
大きな船に乗りたい。
それが重い積み荷だということは分かっていても。
彼に窘められ畏縮する。険しい顔を見る。しかしそのあとにある受容。その反復が強い悦びとなる。
何故そうなのか、セネリオは知る由もない。
それは、親が子に与えるもの。だから──
「ジル・フィザット、汝に問う。汝は我がクリミア軍に益し、その刃を捧げると誓えるか」
「はい、アイク将軍」
凛とした声が口上を述べる。アイクは抜き身の剣を地へ向け両手を柄に置き、肩を張り、威風を込めた佇まいでいた。それに対し、膝まづいてジルがそう返答した。
彼女が元々デインの者であることは軍内で知れ渡っていた。デイン国境入りした辺りから彼女へ対する風当たりが厳しくなってきたのである。そしてその姓からフィザット家との関連があると思われ、これから突入しようという地での内通など謀るのではという嫌疑もなされていた。
「では、あんたの身元は俺が保障する」
そうアイクは口上ではなく己の言葉で発した。
「聞け! ジルは、義はクリミアにありと、そのこころでデインへ立ち向かう。出自など関係ない、俺達の仲間だ!」
彼らを取り囲むベグニオンの派遣兵らに向けて高らかと宣言した。
「シハラム卿とは交渉が決裂した。よって、卿の命を奪わずに先へは進めない。それは俺が行う。それでもあんたはクリミアに属すると言うんだな」
「はい」
ジルがシハラムの娘であることは周知ではなかったが、彼は知っていた。それを知っていながらそう告げる。ジルは固い表情を崩さずそれを飲んだ。
「そんな、そんな…他に方法はないの? ここの将軍さんってジルのお父さんなんでしょ? お兄ちゃん、それを分かっててあんな……」
その問答を見つめながらミストが涙声でそう漏らした。ミストとジルは親交が深い。
「ミストちゃん、ごめんなさい、ごめんなさい。でもアイク様は悪くないのです」
そう謝罪の言葉を漏らすのはクリミア王女エリンシアだった。
「だめ、お父さんと戦ったらだめ」
ミストはふるふると首を横に振る。
「では、その場であの者の首が刎ねられてもいいというのですね?」
そこへ響くのは冷徹な声。
「セネリオ…!」
顔を強張らせてミストはそう彼の名を呼んだ。
「分からないのですか。あの者はデインの出ということが周知です。まして、フィザットの姓を持つ者。この地で内通など謀るのではという嫌疑が掛けられている。この軍はベグニオンから兵を借り受けています。少しでも危険因子は排除しなければ示しがつきません」
淀みなくそう事実を告げるセネリオ。
「むしろあれはアイクがあの者へ施す恩情なのですよ?」
セネリオの冷たい口調での説明にミストは表情を険しくした。しかし、納得はしたようだ。
「うん……わかった。お兄ちゃん、ジルを守ってくれているのね。ここはクリミア軍なのだから、身元の保障もなしにデインの人間がいたら危ないって。お兄ちゃんがみんなにああやって言ってくれたおかげで居られるって」
そんな切なげなミストの表情をセネリオは眉を吊り上げながら見つめる。
「……あの者が内通など謀ったらアイクの責になりますが」
そしてそう言い捨てた。
「しない! 絶対しない! ジルはそんなことしない」
激しく首を横に振り訴えるミスト。
「……絶対、ですか」
セネリオの口から重く、その一言だけが吐き出される。
「ミストちゃん、私はみなさんを信じます。そしてアイク様を」
そんな折、エリンシアがミストの肩に手をそっと置き、凛とした口調で言った。
「……エリンシア様……」
ミストは眉を歪めながらその手をきゅうと握った。
(とんだ茶番だな。あんな三文芝居打ちやがって)
その光景を見つめ胸の内で毒づく赤毛の男。それは先にデイン国境トレガレン長城で再びグレイル傭兵団へ戻ったシノンだった。
シノンは毒づきながら胸を押さえる。その下には一文字に走る傷痕があった。これはアイクとの対戦の際負ったものである。
シノンはグレイル傭兵団脱退後、武勲での成り上がりを目指し、デイン軍へ入った。アイクらとは敵対する立場になったのである。そしてまさに、戦場で相見えることとなった。
団員らはシノンが投降して傭兵団へ戻るよう説得した。しかし彼の性格上それは聞き入れ難かった。こうなれば対戦するほかないとアイクが彼の前に出た。
元々、すでに負け戦だったのだ。デイン軍はほぼ壊滅状態というところだった。彼が助かる道は──ない。
アイクは彼を容赦なく斬った。
彼はこのまま果てるのかと覚悟を決めた。しかし、そのまま手早く応急処置がなされ、人目のつかない場所へ搬送された。──生き残ったのだ。
(いつか寝首かかれるぜ)
敵対していた者を懐に置くその厚意。
(オレはてめぇが…虫酸が走るほど嫌いなんだよ!)
眉を吊り上げ遠目にアイクを凝視するシノン。
(手柄はオレが上げてやらあ。あんな甘ちゃんには荷が重いだろ?)
シノンの脳裏には幼い頃いつも野の獣を介抱しようとしていた彼の姿が過ぎっていた。
(てめぇの泣きっ面拝んでみたいもんだな)
──彼の父の死
そのときを思い出す。涙一つ流さなかった彼。
(憎まれ役は裏切り者がお似合いってか)
ふとセネリオと目が合った。そして腹の煮えくり返る想いが蘇ってきた。
それはシノンがアイクに討たれてから、人目につかないよう、半軟禁状態で介抱されていたときのことだった。
一度敵対して被害を出している者を再加入させようということであったため、時期を見てから表へ出されるのだった。扱いは捕虜に準じる。ただ、こうして個室を与えられるという待遇ではあったが。
痛みにのた打ち回りながら己の運命を呪うシノンであった。こうして生きながらえているのはある意味最大の屈辱。しかし、死への恐怖がそれを勝る。とりあえず生の喜びを噛み締めた。
「シノンさーん! 今度いい店行こうって言ったじゃないですか……! よかった! また一緒に戦いましょう! おれが盾になりますって」
朦朧とした意識の中でそんな間の抜けた声が聞こえる。舎弟のガトリーの声だ。
「シノンさん、シノンさんっ、ぼく……シノンさんがいなくなって悲しかった。死んじゃうかもってもっと悲しかった。よかった、もう行かないで」
愛弟子のヨファの声も聞こえた。
(クソ……)
生きている、と思った。死ななくてよかったと思った。
彼らが部屋を出ると目を閉じた。そしてそっと扉が開く音がする。その気配でわかった。
しばし沈黙。きっとその仏頂面で見つめているのだろうか。
「……俺はもう、あんたを斬りたくない。頼む」
静かに響くその声。ただその一言。
それだけを告げるとその気配は遠ざかり、扉が開く音、閉じる音がしたあと、消えた。
シノンは掛け布の中で拳を握り締めた。
(格好つけてんじゃねえ!)
目頭が熱くなった。
そしてまた扉が開く。今度は目を開けた。
「……アイクの恩情に感謝するんですね。本来なら裏切り者などその場で首を刎ねて終わりですよ?」
冷徹な声が淡々と発せられる。
「せいぜい、駒として有用と見做されるよう尽力することですね」
笑いもしない、怒りもしない、鉄仮面のような表情で言い放たれるそれ。
「少しでも不穏な動きをしたら……僕が首を刎ねます」
見下ろされ、そう言い放たれる。
「クソ……っ! てめ……っ!」
起き上がり拳を振りかざそうとしたら激痛が走った。寝台に再び身を沈める。冷たい赤い瞳が一瞥をくれるとあとは興味を失ったが如く静かに立ち去っていった。
そんな想いを胸にシノンは舌打ちをした。
そして得物の弓を手繰り寄せて弦の張りを確かめる。
(竜騎士は風魔法と……弓に弱いんだよな……!)
炎が静かに燃えた。
濁流が人々の生活の糧を押し流していく。
宣戦布告とともにダルレカ領へ突入し、アイクらはそのような光景を目の当たりにしながら行軍していった。
足止めのつもりであろう、水門が開かれ川が氾濫し地がぬかるんでくる。そもそも、戦場となるだけでその地は荒れるというのに、こうして災害が起これば致命的な損害を被るのだ。それを承知の上でクリミア軍の足止めを行うというのがこの地の領主の策だった。
鳥翼族の者の遠視により、水門は領主館の奥にあると判明した。いずれにせよ、そこまで攻め入らねばならないのだ。ただ、全速力で、という条件が加わったのだが。これ以上この地が荒れるのは防ぎたくあり、濁流に軍が飲まれればこの地に果てることとなる。
「父上……そんな……」
これまで領民へ親身に尽くしてきた領主である父親のことを想い、ジルはそう呟いた。このような策に出るはずがない、そう思ったのに。
「ジル! あんたは下がってろ!」
アイクは手短にそう声を掛ける。
「ねえ、ジル! お兄ちゃんが言ってる通りにして。わたしと一緒に後方部隊へ下がりましょう」
ミストもそう声を掛ける。
「……いいえ、私が領主館まで先導します。この地のことはよく知っています。そしていち早く父上に顔を合わせなくてはならない」
毅然とした表情と口調でジルはそう応えた。
「わかった。ならば頼む!」
「えっ、ちょっと、だめ、だめだって……」
刻一刻も時間を無駄にはできないと、アイクは切り返しの良さを見せ、ジルへ先導を任せることにした。ミストは戸惑う。
「では丘から直に降りて襲来してくる竜騎士隊は手筈通り騎馬隊と弓隊で対処します」
セネリオがそう策を復唱する。
「では出撃開始、準備はいいか!?」
そうして慌ただしくも戦闘が開始された。
ジルが先導し、精鋭部隊のみが速攻で領主館へ向かう。領主館への道は、民家などで入り組んでおり、丘陵となっているため騎馬隊は侵入が困難だった。それは相手側も同様のため、陸では歩兵同士の戦いとなる。厄介なのは頭上より竜騎士が飛来してくること。大方は開けた地にて構えるクリミア軍の騎馬隊を殲滅しようとその方へ飛来していったが、当然、領主館へ向かう部隊へも手が回る。
「くぉら! 飛んで火に入る夏の虫ってな!」
そんな挑発的な声とともに弓矢に胴を貫かれ落下する竜騎士。同時に、連続して放たれる魔道の風の刃に翼を折られ落下する飛竜。
「へっ……」
抜群の連携だった。後方に控える精鋭部隊の中でも特に正確な狙いで竜騎士を沈めていくシノンとセネリオ。
精鋭部隊の先頭をアイクら剣士などが走り、歩兵を殲滅しながら進む。後方に射手と魔道士が続き、頭上からの攻撃を迎撃した。まさに猛進という勢いだった。
その勢いで丘陵を駆け登り、領主館まで到達する。
着々と迫る勢いのクリミア軍を高台から窺う壮年の将がひとり。
先頭を行くのは宣戦布告をした若い将。その将を導くのは竜騎士の女。橙色の獣もともにいる。女はその獣と共闘しているようだ。
その獣は本来人型である「半獣」…いや、「ラグズ」であろう。このデインの地に於いて最も忌み嫌われるもの。そのラグズとデインの竜騎士であるその女が共闘しているなど、信じ難い光景に思えるが、壮年の将は目を細めた。
竜騎士の女は彼の娘。
娘は彼の部下の隊の所属であったが、部下より去就を知らされていた。クリミア軍へ入り、そこで義はどちらにあるのかを見極めるとのこと。
娘へはこの地で生きていくためにラグズ蔑視の教育を行ってきたが、こうしてそれを自ら問い正し立ち向かってこようというのだ。
彼女はデインの者、ましてこの地の領主と同じ姓を持つ。状況的には人質として利用されるか、処分されるかされてもおかしくはなかった。しかし、それは為さずに帯同して正面から向かってくるクリミア軍の将。
──ならば、もう思い残すこともない
「……わしが敗れたら即刻水門を閉じ、降伏せよ」
彼は部下へそう告げた。今すぐにでも降伏させ、部下の身の安全を確保したかったが、それはできない。将が没すれば部下とその家族の身柄までは追求されないだろう。その後は今回参戦させていない側近の者が手ほどきをするはずだ。
いよいよクリミア軍が到達しようとしている。
眼下の喧騒は遠く聞こえ、耳の内には轟々と水門から放たれる水音のみが響いていた。
クリミア軍の若き将は空の敵との戦い方を心得ていた。
ダルレカ領領主シハラムとクリミアの将アイクの一騎打ち。竜騎士であるシハラムは空中より熾烈な攻撃を繰り出す。しかし、アイクはその軌道をいち早く見極め、敵が最も近くへ降りてきた瞬間を狙い、太刀を浴びせる。
それを、息を飲み見つめるジル。
もう、説得は効かないのだ。ただ、信じる道をゆけとそれだけを返された。
そんなジルを監視するかのように見つめるのはクリミア軍の参謀。何時でも魔道を発動できるよう構えている。本来ならシハラムへ魔道を放ち、直ちに戦闘を終了させ水門を閉じるのが効率的なのだが、それは堪えた。
「へっ、騎士道の真似事か? さっさと終わらせちまえ」
きりきりと矢を番え、構えるのは皮肉屋の射手。
そして矢が放たれる。しかし
「!!」
矢は魔道の風によって落とされた。
「……言いましたね? 不穏な動きをすれば僕が首を刎ねる、と」
セネリオがそう瞬きもせず告げる。
「クソ! この馬鹿! オレだってクリミアについてた方がいいって分かってら! アイクの首を取ろうっていうんじゃねえ。あっちの首をさっさと取って早く終わらせようってんだ」
それに対して己の利を挙げシノンが反論する。
「……僕も負うことが許されなかったのです。だから邪魔はさせません」
「はぁ?」
セネリオがそう静かに述べるとシノンは眉間に皺を寄せて感嘆を漏らしたが、これ以上言及することはなかった。
(……チッ)
心の中で舌打ちする。
そうしてシハラムとアイクの熾烈な戦闘は、終了した。飛竜から落下したシハラムの元へジルが駆け付ける。そして激しい水音が止まる。シハラムの部下が主の最期を察知するといち早く水門を閉じ、白旗を揚げたのだ。
水音が止まるとともに、泣き叫ぶ娘の声が響く。
その傍らに立つのはその娘の父の命を奪った仇──
彼はその光景を見つめ、血塗れの剣を握ったまま立ち尽くし、薄く笑みを浮かべていた。
そんな彼の表情に気付いた者は戦慄を覚えたという。
セネリオは言葉を失い、しばしその表情に釘付けになった。ぼろぼろと、砂が指の間から流れるような感覚を覚える。時間の流れが止まったかのような。
しかしその時は破られる。
「ボサッとしてんじゃねえ!」
そう語気を荒げてアイクを蹴り飛ばしたのはシノン。
「あ、あぁ」
アイクは立ち上がり焦点の定まらない瞳をシノンへ向け、そう応えた。そして、部隊へ指示を出していった。
それから──
アイクはダルレカの民へ賠償として兵糧より食料を提供した。民を想うエリンシアの心を聞いたのだ。セネリオはそんな余裕はないと反対したが、アイクはそれを通した。
ダルレカの民はクリミアの施しを受けるのは屈辱だといい、武器を持たず民の前へ出て謝罪をしたアイクへ投石したり罵倒の言葉を投げ掛けた。
「だから言っただろう、てめぇみたいな甘ちゃんには荷が重いって」
それはシノンの独り言だった。
「てめぇを一番憎んでるのは、オレなんだからな」
徐々に水が引いていく川に投げ込まれる石。
「絶対おかしい、絶対。あいつは頭がおかしい」
石が川底へ吸い込まれていく。
「自分の父親殺されても泣かねえ、人の父親殺しても泣かねえなんて」
セネリオは占拠した領主館へ入ったアイクに手布を黙って手渡した。
「アイク、お疲れのようですね。眉間の皺が深くなっています」
「ああ」
アイクは数度瞬きをしてその手布でこめかみの辺りを拭う。僅かな痛みに顔を顰めた。そこは投石を受けた箇所。
「今日のところは大事を取ってください。先に部屋は用意させてあります」
「ああ」
何を問いかけても端的な相槌しか返ってこない。焦点が何処に合っているのかも分からない。セネリオはさりげなく先導して彼を部屋へ導いた。
「……後で戦歴の報告に参ります」
「ああ」
部屋に入り、彼が寝台に腰掛けるとそう宣言し、会釈をしてセネリオは立ち去った。
扉の閉まる音が響く。燈された燭台の炎が揺れる。
彼は寝台に腰掛けたまま揺れる炎の影を虹彩に映していた。そして耳の内には泣き叫ぶ娘の声が響く。
「は……っ、はは……」
全身が震え出す。そして笑いが込み上げる。彼は己の身を抱き、寝台に倒れ、凍りついたような顔で笑い出した。浴びせられた罵声と投げつけられた石。
──それを、もっと。
「アイク、入りますよ」
扉を叩く音がした。
扉を開くとそこには燭台の炎に照らされ、寝台に横たわり己の身を抱えている彼がいた。
「アイク、よろしいですか?」
セネリオは何気なく問い掛けてみた。しばしの間。
「ああ」
返事はあるもののアイクは起き上がらない。その虚ろな瞳にセネリオは眉を歪めた。それでもそのまま滔々と戦歴の報告をしていく。
ひとしきりそれを終えると、セネリオは椅子に腰掛けつつ彼をじっと見つめていた。
見るからに辛そうな彼。
これ以上重荷を背負わせたらどうなってしまうのだろう。
……いっそ、壊れればいい。
そしてともにいこう、その先へ──
「アイク、あなたは泣かないのですか?」
ゆらりと立ち上がってそう訊くセネリオ。
「あなたは心優しいのに何故?」
アイクはゆっくりとセネリオへ顔を向けた。
「それともあなたは非情になってしまったのですか?」
セネリオの口端が上がる。わざと、そう問うのだ。
「そんなあなたはこんな僕を受け止めてくれるのでしょうか?」
セネリオはすっと袖を捲り手首の印を彼に見せる。
「これは何だと思いますか?」
アイクはそれを注視して首を少し傾げた。
「これが「本物の」精霊の護符です」
そう説明し、さらにその手で額の印を指差すセネリオ。
「そしてこれが……忌まわしき印。僕が「印付き」であるという証」
彼はそう言い切ると眉を歪め、目を見開き笑みを浮かべる。瞳の赤がぎらぎらと光っていた。
──いつか彼に問うたことがある
自分が何者であるか悩んだことはないかと。
彼は父と母の子であると、それで不満はないと答えた。
そうだ、彼はそうなのだ。己を形成するその要素、それに不自由しなかった。だからこそ今の彼がいる。厳しくも優しく、誠実な。
そしてセネリオ自身は親の記憶がないとそう彼に告げた。
育てた女のこと、賢者のことも。自分が何者であるのか振り返る余裕もなく過ごしてきた日々。殺された自我。
──薄々気付いていた。
この額の印が忌まわしいものだということは。
知らないふりをしてきた。それは精霊の護符だと思い込むようにした。それは忌み物ではないと知っていたからだ。そしてそう言い張ってきた。手首に現れた本物の精霊の護符の方を隠してきた。額の印は隠すのが難しかったからだ。
「俺を信じろ。おまえがたとえ何者でも、俺がおまえを認めてやる」
何者か悩んだことはあるか、という問いのあと彼は考えたという。それが結論だった。
セネリオは逃げていた。答えを聞くのが怖かったから。もう少しで殻から飛び出せそうだったけど再び閉じ篭った。それでも彼はその殻を開けようとしてきた。
そして告げたのだ、己がおそらく「印付き」であろうことを。
印付き、とはベオクとラグズの混血。女神の定めし理を犯したためどちらの種族からも忌み嫌われる不浄の存在とされている。ベグニオン滞在中に大神殿マナイルで古い書物を調べていた際、その詳細を知ったのだ。薄々思っていたことが確信となったのだ。
それでも彼は受け止めてくれる、と言った。何者であろうが特に変わらないといい。
──ですよね、あなたは、何に対しても、誰に対しても、平等、だから
「何の血が混ざっているのか分かりはしませんが、僕には半獣の血が流れているのですよ! おぞましい……!」
そう語気を荒げてセネリオはアイクの方へにじり寄る。
「こんな、こんな血など流れ切ってしまえばいい!」
そして護身用の短剣を脇差しから抜き、己の手首に向ける。
「アイク、アイク……僕が死んでもあなたはきっと泣かないんでしょう? 父親が死んでも泣かないんです、自分が仇となろうとも。あなたは平等ですからね。ならば…寧ろ、こんな忌まわしい存在など消えてしまったほうがいい。本当は心の奥底でそう思っていませんか?」
震えながらそんな狂言を吐く兎のような赤い瞳を持つその存在をじっと見つめる蒼い瞳。
「おれ、ともだちができたんだ」
封じられた記憶の中に残っているその言葉。
幼い頃母にそう宣言した言葉。
その言葉は出ない。しかし零れる。その涙が。瞳から溢れて流れる。
「どこ、いった? セネリオ…? いない?」
子供のような瞳でじっと見つめ語りかけてくる彼。
「いない、母さんもいない。どこ?」
セネリオは目を見開き息を止めた。
「やだ、いなくならないで、やだ」
涙を流しながら子供のような口調で悲しげに訴えてくる彼。
「みんな、たおれた。いっぱい血をながした」
そして手を見つめる。
「こわい」
「かなしい」
「もうやだ」
止まらない涙、消え入りそうな声。
「あ、あぁっ、ああっ、父さん、しんだ、ころした」
吐き出すようにそう言うと彼は裸足のまま寝台を降り、床に座り込んで癇癪を起こしたように泣き出した。
──ああ、壊れた
セネリオの顔が強張った。背筋が冷たくなった。
「アイク」
端的に彼の名を呼んでみた。
「僕は、ここにいます」
そして己はここにいるとセネリオは語りかけてみた。すると彼は泣き止みその方を見た。そこに立つ黒髪の少年を発見すると笑みを浮かべて這いながら近寄ってきた。
「あ、いた」
指を指してそう存在を示してくる彼。小さな少年が無邪気に笑いかけてくる。
「なあ、母さんにきいたんだぞ、おまえがかいた字、よめた。おまえ、セネリオっていうんだよな?」
セネリオは彼の言葉にただ頷いた。そして短剣を握る手に力が篭る。手が震える。
扉を開けてしまった──
塞がれた記憶が蘇っている。あの頃の少年がそのままそこに。その代わり、自我が形成された彼は彼方へ押しやられた。彼であり彼ではない彼がそこにいた。
これまで負ってきた重責、心因的外傷、それらが積み重なって、遂に弾けたというのか。兆候はあった。そしてセネリオが引き金を引いたのだ。故意に。
無愛想、無神経などとよく言われていた彼。鈍感、とも。
(そんなことを言う輩はどれだけアイクのことを知っているというのです?)
知っていた。彼が誰よりも繊細であるということを。
だから他人の父の仇になろうとしていたのを止めようと思った。
肩代わりしようと思っていた。
でも止められなかった。
そんな彼のことを知っていたからこそ、どのように引き金を引けばいいか心得ていた。止められないのならばいっそ、壊れればいいと思った。
(ああ、アイク……! やっと会えた)
記憶の中の彼がそこにいた。セネリオは歓喜に震えた。
ここは、二人だけの世界。
さあ、扉を閉じようか。
「よかった、セネリオ。またあえたな」
遠い日の約束。
明後日、また遊ぼうと手を振っていった彼。
それから彼は集落の惨状を目の当たりにしたのだろう。グレイルの話に拠れば、賊が攻め入りそのような惨状となったのだという。彼の母はその時命を落とした。
「ええ、アイク」
座り込み見上げながら語りかけてくる彼の目線まで腰を落としセネリオはそう相槌を打った。
「おまえ、ハラへってないか?」
小首を傾げ、そう訊いてくる彼。
それが、すべての始まりだった──
「あ、ああ…っ」
セネリオは胸が詰まる想いに駆られた。そしてそう感嘆を漏らす。
「どうした?」
心配気に語りかけてくる彼。
「アイク…っ、僕はっ、あなたに、会いっ、たかった」
吃音混じりでセネリオはそう応える。
「おれもだ」
彼は瞳に涙を溜めてそう応える。
「もういなくなるなよ。おれは、もう母さんも、父さんもいない。死んじゃった。やだ、もうやだ」
悲しげに訴えてくる彼。完全にあのときの記憶の中だけの彼というわけではないようだ。記憶が錯綜している。深い悲しみが特に表面化しているのだろう。
「おれ、もう、やだ」
いやいやをするように首を振る彼。それは戦禍へ身を置く重責のことも指しているのだろうか。
そして彼のぽろりと零れる涙。
どれだけ我慢をしてきたのだろう。
決して弱音を吐かなかった。泣かなかった。
無神経だとか鈍感だとか散々な言われようだ。
その裸の心を守る鎧はなかったというのに。
さらさらと流れる、崩れる、それは砂のよう
繊細で、脆くて、いとおしい
(アイク、アイク、僕のアイク)
さらりと彼の前髪を指で梳く。子供の頭を撫でるように。
「ああ、もう、いいですよね? 僕も、あなたもこの悲しい世界から、さよならしましょうか。いきましょう、二人で」
セネリオのその言葉に彼は目を見開いた。もう一度目を閉じ瞬いたらまた涙が落ちた。濡れた蒼が見つめるその狂気。光る刃。
「ずっと、一緒ですよ。アイク」
セネリオはぐいと彼の肩を掴み、彼の身を倒し床に付けた。そしてもう片方の手で短剣を振りかざし、彼へ向け掲げる。
──逝こう、その先へ
(あなたを殺して僕も死ぬ)
その先は永遠。ずっと二人で。
「……うん、セネリオ、おまえはおれの、ともだちだからな」
涙を拭いたその手を翳してくる彼。笑って投げ掛けられるその言葉。
「やくそくだぞ? ずっといっしょだぞ」
彼のその手が握られ小指が伸ばされたまま差し出される。
セネリオはからんと床に短剣を落とした。そして差し出された小指に自分の小指を絡めた。そのあたたかいこと。
「……っ、うう、うわあああああああっ!」
堰を切ったようにセネリオは声を上げて泣き出した。そのままくずおれて彼の方へ倒れ込む。そして彼の胸で泣いた。彼はそのままきゅっとセネリオの頭を抱いた。
「アイク…っ、アイクっ……僕は……っ」
それ以上言葉にならなかった。
なんてことをしようとしていたのだろう
どうしてここまで歩いてきた?
伝えたかったはずではなかったのか?
セネリオはゆっくりと起き上がり、涙を拭いて彼を見つめた。そして
「……ありがとうございます。僕は、あなたがいたから生きられたのです」
ついに伝えたその言葉。
「うん、よかった」
彼は口元をきゅっと結び、童心を思わせる顔でこくりと頷いた。
「おれも、おまえのおかげで字がよめたぞ。おまえ、あたまいいんだよな? おれにいろいろおしえてくれ」
セネリオもその言葉に頷く。
「もちろんです……!」
そうして、歩いていかなければ
時を動かして、光を目指して、その先へ──
「……アイク、そろそろ寝ましょうか。もう夜ですよ」
「そうだな。うん……おれ、ねむくなってきた……」
セネリオは彼を寝台へ誘導してやる。寝台へ横たわった彼へ掛け布を被せてやる。
「おやすみなさい、アイク」
「うん……、じゃあな。セネリオ。また……」
枕に頭を埋めた途端、彼は意識が溶けていくように瞼を落としていった。
おそらく、この彼にはもう会えない。
あのころの、記憶の中の彼。小さな、小さな手を振って。
「さようなら、アイク」
燭台の炎を消した。それからそっと扉の外へ出て、振り返り再び前を向いた。
そして扉が閉じられた。
扉の外で響くのは嗚咽。
もう帰らない時を想いながら──
デイン王城にて、激戦が繰り広げられた。
立ち塞がるように彼らの行く手を阻む赤竜。すでにここは見捨てられた地だった。デイン兵は最後の抵抗とばかり猛攻を振るってきた。それも突破し、対峙したのは強大な存在、竜。
それはラグズだった。竜のラグズだ。
このような敵との戦いは経験がなかった。とにかく守りが堅く決定打を繰り出せない。竜騎士が跨がる飛竜とは体躯も段違いだ。
アイクはそれと対峙し、衝撃波に似た息での攻撃を受け、地に叩き付けられた。骨が軋むような痛みを感じる。
「アイク、しっかりしてください!」
魔道を以って攻撃すべく前線にともにいるセネリオが駆け付け声を掛ける。そして手早く治療の杖を翳し句を唱えた。アイクの体の痛みが和らいでいく。
セネリオは治癒の杖の扱いを習得していた。神官とは違い、風の精霊の力を受けるのだ。魔道士が治癒の術を使用する際は使役する精霊の力を受ける。それでも高位の杖術は習得が難しく、女神の施しを受ける神官には及ばない。しかし精霊の力によりその術が使用できると知ると彼は一心に習得した。
こうしてアイクの痛みが和らぐ表情を目にすると喜びを感じる。それがその術を習得したすべての理由。そして、足手まといにならぬよう、速やかに行動。迅速に治療を施すと敵の攻撃を避けるために素早くその場を動く。
アイクを筆頭に肉弾戦を行う者が敵勢の前へ踊り出ると、魔道士や射手は後方へ下がる。状況を読んで攻撃魔法などを繰り出す。さらにその後ろに衛生兵の神官などが控えているのだ。
こうした戦いを重ねてきた。
セネリオは魔道士も治癒の術が使用できるのは我ながら有益だと思った。体力的にはかなり負担が掛かるが、前線で剣を振るうアイクの姿を見ればそれは大した問題ではないと思った。
ダルレカ領を突破したクリミア軍は遂にデイン王都へ到達し、王城へ攻め入っていた。易々と開門したことから罠ではないかと思われたが、突入するほかないということで突入した。デインには何か切り札があるのではと思われたが、兵は捨て身だった。デイン国王アシュナードはすでにクリミア王城を占拠し拠点としているという。ここは切り捨てられた地なのだ。自国の王都を切り捨てたというのだ。
そんな中、切り札として現れたのは赤竜だったのだ。
アイクはそれをも怖れず立ち向かっていった。
あのダルレカの領主館での一件はなかったかのように。セネリオの思った通り、あの彼に会うことはもうなかった。
目が醒めた彼はいつもの彼だった。グレイル傭兵団団長で、クリミア軍総指揮者のアイクだった。
「おはようございます、アイク」
そう声を掛けたときの表情は優しかった。そしてともに食事を摂る。穏やかな時間だった。
「……昨日は久しぶりによく眠れた」
ぽつりとそう告げるアイク。
「顔色がよろしいですね」
「そうか」
少し前に不眠気味であると漏らしていた。そういったことはセネリオだけに告げているようだ。他の団員などには心配を掛けまいとそのようなことは漏らさない。セネリオには表情などから不調を見抜かれるから先に告げておこうということらしい。セネリオは彼の不調自体は心配ではあるがそれを告げてくれることは嬉しく思った。
「覚えていますか?」
そんなことは聞けなかった。
昨夜、自分は彼を殺そうとしたなんて──
ふと、食事を摂る彼の顔を見る。食欲は旺盛で昔から食事は残さず食べる彼。そんな光景が目の前にある。向かい合ってこうして食事をともにする、そんなことがどれだけ幸せなことであるか。
「ん? どうした」
咀嚼しながらそう聞いてくる彼。そんな顔が少し幼げに見えた。肩幅を強調するような縫製の勇壮さを醸し出す軍装を纏い、捲りあげた袖から見える腕の筋肉。そんな容姿からは雄々しさを感じさせるのに、そう聞いてくるその瞳は無邪気さを感じさせる。
「美味しいですね」
「そうだな」
そう聞かれてはそう返すしかなく。そして彼がそう優しげに返してくれたことに嬉しさを感じ。少し頬が熱くなった。
セネリオはこの一瞬、ひとときに既視感を覚えた。
こんなことはまさに日常、なんてことはない光景なのだが、するすると記憶の糸が手繰り寄せられる感覚。
──夢を見たことがある
彼とまた会おうと約束したあと、彼に見せたいと思っていた大樹の元で見た夢だった。
それは、幸せな夢だった。
彼と食事をする光景もそこにあった。
飢えていたあの頃にとって、その光景は二重に嬉しいものであった。腹を満たし、心を満たし。
「……こぼしましたね、アイク」
アイクはセネリオに話し掛ける際に食料を卓にこぼした。それを目敏く発見し、そう指摘するセネリオ。アイクはさっとそれを指で摘んで口に入れ、口を結び数度首を横に振った。
「あー、見ちゃった! お兄ちゃんこぼしたやつ口に入れた!」
その光景を端から見ていたミストがそう茶化す。アイクはそれでも咀嚼したまま首を横に振る。
「もうっ、子供じゃないんだからっ」
ミストのその言葉にセネリオははたと動きを止めた。そして目の前の彼を凝視する。
(アイク、アイク。あなたはまだ、そこにいるのですか?)
問いが返ってくるわけはない。しかしその瞳は一瞬悲しい色を見せ。すぐに笑う目元。
セネリオは胸が締め付けられる想いをした。
そしてそれが愚問だと思った。
あのころの記憶の彼も、今この彼も、違うものではないのだから。
ただ
──僕たちは大人になった
それだけ。
デイン王都を制圧すると、いよいよクリミア国境へ突入する。その前にデイン領内パルメニー神殿へ調査へ向かうこととなった。
デイン王城で対峙した赤竜のラグズを追い詰め、捕らえようとした際、姿を消していた竜鱗族の男がそれを妨害した。その男は渡航を手助けし、これまでクリミア側の者だと信頼を置いてきた者だった。しかしそのような行動に出る。ミストが所持していた青銅のメダリオンを持ち出したのもこの男という疑惑が挙がった。
捕らえられたその男が言い残すかのように調査せよと勧めたのがパルメニー神殿だった。
調査の結果、邪神が眠るとされているメダリオンを解放すべく、セリノスから連れ出された鷺の民の王女がそこにいたということが分かった。その王女の世話係としてアイクとミストの母が従事していたという。母は父とともに王女から受けた解放の呪歌とメダリオンを持ち出し、デインを脱出し、邪神を復活させるというデイン国王の野望を食い止めたようとしていた。
アイクはその詳細を私兵である情報屋からすでに聞いていた。のちに、クリミア進攻の中核を成す者が集結した場でその詳細込みでメダリオン絡みの事情を全て説明することとなる。
グレイルは嘘をついていた。
アイクが住んでいた集落の惨劇はグレイル自身が生み出したものだったからだ。
グレイルは賊が攻め入ったから、と説明していた。しかし、実際は誤ってメダリオンに触れ負の気が増大し制御が利かなくなり無差別にデインの追っ手や住民を惨殺したのである。
セネリオはそれを聞いてこれで辻褄が合う、と思った。
不可解だったグレイルの挙動の訳が解き明かされる。自分の能力がのちにアイクの役に立つだろうと見通して、経験を積ませたのはデインとの抗戦がいずれ訪れるのに備えてということだったのだろう。それと、アイクの瞳と髪の色、顔立ちがデイン系統であるように思えたのも確信となった。
それはアイク自身、情報屋の男に聞かされて初めて知った事実だった。
グレイルが惨劇を繰り広げる現場を目の当たりにしたのだろうか。それ以前の記憶がまったくないという。ならば、それこそが心の傷であり、それを塞ぐため、記憶を塞いだのだと。
そして母は父の剣に貫かれて逝ったという。
メダリオンを手にすることが出来るというほど正の気が強かった母。暴走する父を身を挺して止めたのだ。
それは事故といえよう。
あの人格者たる振る舞いで、アイクの達するべき目標となった父グレイル。セネリオのことも受け入れて育むように団に在籍させた。
それは事故なのだ、だが、感情がついていけるか。父が人格者であればあるほどその反動が大きいだろう。その事実による衝撃は。
アイクがそれを知ったのはダルレカ進攻前だった。ちょうど、特に不眠を訴え眉間の皺が解けなくなってきたころだった。
あなたは、強いひと。
それでもここまできたのだから。
必死に地に足をつけて立とうとして、転ばぬように。倒れてもまた立ち上がり。
(ああ、僕は、そんなあなたの役に立ちたいのです)
前を向き歩き行くアイク。セネリオもまた前を向いた。
「なあ、セネリオ、次の策は?」
卓に着き真摯な瞳でそう問うてくるアイク。
セネリオは地図と書類を広げ、滔々と策を述べていく。
それはごく自然の流れ。行軍中、よくある光景。
そして策が功を奏すれば
「ありがとう、セネリオ。さすがだな」
そんな労いの言葉。
そんな夢を見たこともあった。幸せな夢だった。
しかしそれは今、夢ではなかった。
まだ道の途中。
その先にある光を目指して、一歩ずつ。また一歩ずつ。
どんな結末であろうとも、言えるだろう───
「僕は、幸せでした」
広がるのは空の色、花の色、彼の色。
そうして色づいた世界は祝福してくれる。
とても、綺麗な、蒼だった。
─了─