愛憎(あいにく)合流するまで間があったライはアイクのことを男だと思っていた。確かに一見、判別がつき難い風貌をしている。だが、アイクは特に女であることを隠していたわけではない。
現に、軍内の者のほとんどはアイクの性別を正しく認識している。なぜならば…
「だからお前はっ! そんな姿でうろつくな!」
「しまえ、その乳をしまえ!」
このような怒号がしばしば聞こえる。
「なんでだよ、水浴みをするんだ。脱がないと服が濡れるだろう」
その怒号に対してアイクはそう平然と応える。
一般兵も使用する水場でアイクは何食わぬ顔で水浴みをしていた。将が一般兵と同じ場所で水浴みをするということは立場上好ましくないことなのだが、それ以前の問題だった。
「お前! ここは野郎どもが使う場所なんだよ。女はここに来るな!」
そう、ここは仕切りも何もない場所であり、使用するのは男性の一般兵が殆どである。
「こっちの方が近いだろ。さっさと済ませたいからな」
周りにいる一般兵の方が目のやり場に困っている様子だった。なにしろうら若き女の素肌、そして覆い隠さないそのふくよかな胸、そのようなものが眼前にあっては落ち着いてなどいられない。
そしてこのやりとりを聞いて「またか」と思う。
「シノンはいつもうるさいな。俺は何もしてないだろ」
そう不機嫌そうに漏らすアイクの様子を見てシノンと呼ばれた男は盛大なため息をついた。
「ったく…バカにもほどがあるぜ」
「なんだと」
そう反抗心をむき出しにするアイクにシノンは桶に汲んであった水を勢いよくかけた。
「ほらよっ、これで済んだだろっ。これでさっさとあっち行け」
「くそっ」
アイクも負けじとシノンに桶の水をぶちまける。
「うぜぇ! このガキ!」
「うるさい!」
お互い上半身裸のままで罵り合いを始める。
その様子を見てある意味仲がいいのではないかとも思う者もいた。それは兎も角、この二人は昔からこのように因縁が深い。大抵、シノンがアイクをからかったり悪戯を仕掛けることから事が始まる。
「二人ともみっともないからやめなさい!」
そこにつかつかと傭兵団副団長の女性が割って入って事態を収束させる。大抵はそのように事態は収束する。
「げ、着ちまったか」
「ティアマト」
その姿を見ると二人はさっと離れてどこかに行ってしまう。
「はあ…」
少し離れた場所でシノンは一つ息をついていた。
どうしていつもこんな馬鹿げた状況になってしまうのか、そう思った。それは自分が悪態をついて接するからだというのは分かっていた。分かっていてついそうしてしまう。
普通に、言ってやればいいのだ。理由をきちんと話して、分からせる。増してや自分は彼女より年上で十も上なのだから。
だが、それがままならないのは彼女が無頓着であることも大きい。男ばかりの傭兵団で男同様に育てられ、女性らしい振る舞いは殆ど教えられてきていない。なまじ腕っ節が強いだけに貞操に関する危機感もない。
遠まわしに言っても分からないのである。
(なんで俺がこんな)
彼はどうして自分がこんなに気を揉まなくてはならないのかそれに苛立ちを感じた。そしてその苛立ちがまた彼女自身に向けられるという悪循環である。
シノンはふとある木陰の方を見る。すると、ねっとりした視線をある方向に向けている一人の男がいるのを発見する。
(あいつ、またいるな…)
その視線の先には少し離れた場所でまだ肌着も身に付けず、綿布で水気を拭き取っているアイクの姿があった。
シノンは愛用の弓に矢をつがえ、その木の幹に向けて発射する。
「悪りぃ、そこ俺の練習用の的なんだ」
シノンはしれっとそう言い、木陰にいた男に挑発的な視線を送る。見るとその男は下半身を露出していた。シノンが放った矢に驚いてそのままの姿で腰を抜かしていた。
(とんだ変態野郎だな。しかしあんなガキの裸見て何が楽しいんだか)
そうやって心の中でも悪態をつくシノンであった。
この時期にしては珍しく蒸し暑い夜のこと。
ふらりと天幕から出てくる一つの影があった。
「おい」
その影の主をぐいと腕を掴み引き止める者がいた。
「なんだよ」
引き止められたのは夜着一枚で出歩いているアイクだった。腕を掴まれたのでそれに逆らうように腕を引く。
「なんだよ、じゃねえよ。何やってんだよてめぇ」
「寝汗をかいて気持ち悪いから水浴みに行くだけだ。シノンこそ何やってんだよ」
そう不機嫌そうに返すアイクはシノンを睨み上げる。
「うっせぇな、見張りだよ。当番だから仕方ねえんだよ。そしたらこんな時間にガキがそんな格好で出歩いてやがる。オレの責任になったら困るだろうが」
シノンはそう言い、アイクの服装を指摘する。夜着なだけあってワンピース状の布地一枚といったものであった。通気性を重視しているため薄い布地である。袖はなく、胸元は留め具もなく少し開いている。丈は膝上程度であった。
「すぐ近くの水場だ。そんな大げさなものじゃない。一応剣も持ってるから大丈夫だ」
手にしている剣の柄でシノンの顎をぐい、と押す。
「てめぇ」
シノンは顎でそのまま剣の柄を押し返す。顎で押し返した際、アイクの胸元を直視してしまう。晒布も何も巻いておらず、胸の谷間が目に入ってきた。
(くそ…躰ばかり育ちやがって)
そう思うも、多少頭に血が上ったようだ。
「今日という今日は教えてやる、こっち来い!」
シノンはそう言い放ち、アイクの腕をぐいと掴み天幕の中に引き込む。
「何するんだっ! シノンっ! バカッ!」
突然の勢いでアイクは抵抗もままならず、そのまま天幕の中に引き込まれると、勢いよくど突かれて床に手をつけることになる。シノンはそのまますかさずアイクの両肩を掴み仰向けに倒させる。
「お前、自分の立場とか…わかってんのか?」
「はっ? わけがわからん。あんたは何がしたいんだ」
押し倒されながらもアイクはそう反抗的に言い返す。そのアイクの様子にシノンはますます眉間に皺を寄せることになる。
「けっ、とんだお子様だな! やっぱりそんなこともわかんねえのか」
「なんなんだよ、酔ってるのかあんた」
「酔ってねえよ! てめぇな…わかるか? オレは男、お前は女」
そう、言い聞かせるようにシノンはアイクに言ってやる。そしてそこで意識してしまったのか彼は自分の下にいる若い女の肢体をまざまざと見てしまう。
(ここまで言ってわからなかったら躰に教えてやるしかないってのかよ)
そう思いながら視線が泳ぐ。留め具のない開いた胸元、そこから覗ける胸の谷間、薄い布地から浮かび上がるなだらかな曲線、布地越しに凹凸が分かる胸の頂点、裾から覗ける肉付きのいい引き締まった太腿とすらりとした脚。燭台の炎が点っているのが良くなかった。夜中だがそれらがよく見てとれた。なまじ燭台の炎であるがために艶かしく見える。
「まだわからねえか?」
シノンはそう問いかけるもアイクはただ表情を映さない瞳で彼を睨むのみだった。しかしその顔もよく見ると造作が綺麗で、唇のふくらみが劣情を誘う。
(くそっ、何考えてるか分かんねえ! ちくしょう…オレもこいつにムラっとするようじゃ終わってるな)
気づいたら無意識に顔を彼女の顔に近づけ、その手はその胸のふくらみへ伸びようとしていた。
「!!」
その時だった。シノンは背中に激痛を感じた。思わず振り向くとそこに何者かの気配を感じた。全身の血の気が引いた。そして背を向けず後ずさりするように彼女から遠ざかった。
「どうした?」
アイクは眉一つ動かさずにそうシノンに問いかける。
「…けっ、お子様はおとなしく寝てろってことだ」
彼はそう吐き捨て寝具を彼女にばさりとかけてやる。そしてそのままさっと天幕から退出した。
「…これも依頼のうちだ、悪く思うな」
そう低い男の声がしたかと思うと、さっと背中に刺さっていたものを引き抜かれる。
「…っ!」
背中に刺さっていたものは投擲用の短剣であった。急に引き抜かれたため痛みよりも驚きで体がびくりと震えた。
「…てめぇ…」
シノンは闇夜に紛れるその姿をはっきりと捉えた。それはアイク個人が契約を結ぶフォルカという名の情報屋だった。表向きは情報屋ということになっているが、実際は暗殺者である。
「誰と何の契約だよ…っ、くそっ」
「ふ…奴の父親も人の子、父親は特に娘が可愛いと言うな」
男はそれだけを残して闇夜に紛れていった。
「くそっ…痛てぇ…なんでオレが刺されなきゃなんないんだ」
シノンはそう吐き捨てつつも、男が行ってしまった先を見つめつつ男の言葉を思い返し、思考を巡らせる。
(奴の父親…ってことは団長のことか…)
男が依頼を受けたというのはアイクの父親である傭兵団前団長グレイルのことであった。シノンはグレイルに傾倒していて、執着ともいえるほどであった。アイクと確執があるのはこの点も大きい。
(父親は娘が可愛い…、であの野郎はあいつに手を出そうとしたオレを刺した…)
そこで簡単に結論が出てしまった。
(なんだよ! オレは団長の娘に手を出した不埒な輩として始末されるところだったっていうのかよ!)
そしてシノンは脱力してその場にへたり込んだ。
(くそ…っ、ということはオレは団長に認められてないってことなのか…!)
その思考に至ったシノンはがくりと項垂れた。最悪な気分だった。
「シノン…! どうしたんだい!? 大丈夫!?」
そんなシノンに慌てた様子で声をかける男が一人。
「けっ、キルロイか、なんだよ」
「シノン、この背中の傷は一体…。あ、そうか」
キルロイと呼ばれた神官の男は側の天幕を見て何か納得した様子だ。
「ここ、アイクの天幕だったよね。シノンが護衛してたんだ…。よかった。二人とも無事で…」
「……ち」
早合点をしているキルロイであったが、本当のことを説明するわけにもいかないのでシノンはただそう舌打ちをした。
「ちょうど僕、見回りついでにこの治療の杖で負傷者の手当てをしてまわっていたんだ。シノン、今治すからね」
キルロイは手にしている治療の杖をシノンにかざし回復魔法を施す。シノンはただ黙ってそれを受けていた。そうしつつもなんとなくバツが悪いと感じていた。
「はい、あまり深くない傷だったからよかったよ。でもこれ、短剣の傷だけどずいぶんきれいに刺さったんだね。うまく神経とかは避けているって感じで…密偵とかが潜伏しているのかな…」
そういろいろと推測をしていくキルロイの言葉にシノンは気まずい思いを抱いていた。
「…オレはこんなんで死なねぇよ。さっさとお前も持ち場に戻れ」
「うん、そうだね。シノンは強いから。でも…僕もアイクの身に何かあったらただじゃおかない。あまり戦うのは得意じゃないけど、不意を突くくらいはできるかな」
そう言うキルロイの瞳は意志が強く、闘志すら感じさせた。そしてその手にある上位光魔法リザイアの書が存在感を醸し出していた。それを目にしたシノンは肝を冷やした。
(こいつ、案外物騒な性格なのか…アイクの奴が絡んでやがるせいなのか…)
燭台の炎も消して真っ暗になった天幕の中でアイクは回想をしていた。
「いいか、こう男に押し倒されたらな」
回想の中の男がそうアイクに諭すように言う。
「躊躇することなく蹴り上げろ」
男は天幕の中でアイクを下にしてそう言っていた。
「なんだ、いいこと教えてやるってそんなことか」
情報屋としての顔も持つその男からの情報とあって、彼女は何か戦局に役に立つ情報だと思っていたようだ。
「…お前の父親からの依頼の内に入るような入らないようなそういうことだ」
「ん?…親父からの?」
アイクは父親のことを引き合いに出されて思わず反応する。
「まあ、そう思っておけばいい」
「よくわからんが…とりあえず、蹴っていいのか?」
納得したようなしないような表情で彼女は脚を男の股間に向けて上下させていた。
「俺には蹴るな。お前をどうこうするつもりはない」
男はそう言い、さっと彼女から離れる。
「ふーん、あんたもそこ蹴ったらだいぶ痛いんだな」
少し慌てた様子で離れた男を見て彼女はすこし可笑しさを感じた。
「大概の男は痛いはずだ。気のない男にはそれを食らわせてやるといい」
男は背を向けてそう言い放つ。彼女はその表情がすぐに見えなくなったのが惜しいと思った。
「気のない…ってどういう」
「押し倒されて嫌だと思ったら、そいつだ」
そして回想は先刻のものへ進む。
(あれは…蹴るべきだったんだろうか)
シノンに天幕へ引きずり込まれて床に押し倒されたことを思い出す。
(いや、今度…一発殴ろう…俺はシノンを倒す……)
そう思いながら眠気が襲ってきたアイクはそのまま意識を夜闇に落としていった。
─了─